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三枚引きと時間感覚
タロットの展開法(スプレッド)で、三枚カードを引く技法、いわゆるスリーカードというものがあります。
これは、結構、いろいろな展開法の基本となっているもので、あの、特定の展開形を持たない、カード人物の視線の方向性にカードを並べていくカモワン流でさえ、最初は三枚引きから始まります。
三枚それぞれについては、様々な解釈(所定の意味)が付与されているのですが、時系列的に見れば、たいてい、過去・現在・未来というように意味付けされます。
私たちの通常の時間感覚では、今現在を基準にして、すでに過ぎた時間の過去、いまだ起こっていない時の未来というようにとらえるので、すなわち、現実的時間とは、三つの観点による時間の流れということになります。
従って、カードをそれぞれ過去・現在・未来と振り分ければ、必然的に三枚(三つのパート)となり、それがつまりは、私たちの経験している時間の舞台を表現していることになるわけです。
ですから、三枚引きは、時系列感覚においては、とても現実的であるのです。
しかし、タロットといえば象徴が機能しますので、むしろ、現実を超えたもの、非現実、超現実、見えない領域や通常の認識していない部分を表すことが多いものです。
とすると、三枚引きで時系列的に見る(タロットの)シーンは、現実のようでいて、そうではないところもあるわけです。
ここが非常に重要なポイントで、現実と非現実との境界線にゆらぎが生じ、これにより私たちは、常識的な自分、自我が固まった世界観が崩壊してくる体験を(タロットリーディングで)します。
すると、気がついていなかったこと、表面や現象ではない、本当の問題とか核心にふれていくことにもなります。
ところで、スピリチュアル的によく言われるのが、「今この瞬間に生きる」という戒めのような言葉です。
これは確かに、そうしたほうがよい場合もあるでしょう。私たちは、どこか、今に集中せず、ああでもないこうでもないと考えを巡らせたり、過去や未来のことを心配したりしていて、今をおろそかにしていることがよくあります。
今に集中していれば、余計な考えも少なくなり、エネルギーや意識も現在に収束され、作業効率とか目標達成力も上がるでしょう。
けれども、一方で、今に生きないということもでき、必ずしも、今に集中しなくてもよいケースがあると思っています。
言ってみれば、過去に生きる、未来に生きるという考え(意識)です。
実は、多くの人は、過去や未来に生きる選択をしている場合があります。
さきほどの「今に生きろ」という戒めも、偏って過去とか未来に意識が飛んでいる人を注意しているだけで、過去とか未来を思ってはならないというわけではないのでしょうが、それでも、あえて過去か未来に生きるという方法もありだと述べておきましょう。
まず、現在ではなく、過去とか未来の時間に意識を飛ばすのは、ポジティブや、よいと思う自分になる場合ではないとなりません。
ネガティブな場合は、それに囚われ、まさに時間の虜になってしまいます。過去だと後悔とかトラウマ、未来だと不安とか恐れでイメージしてしまう自分(や状況)の場合です。
よい時間への跳躍とは、平たく言えば、過去の良かった自分に戻る、未来の理想的な自分に浸るというようなものでしょうか。
とは言え、なかなか思いだけでは(イメージ)が難しいので、タロットの図像(絵)を援用するわけです。
さきほど、三枚引きが、過去・現在・未来を示すという解釈があると言いましたが、それを使い、過去に良かった時代があれば、過去のカードから想像し、未来によいものを描きたければ、未来パートのカードのイメージを借りるわけです。
カードを展開する時も、自分がよくなるにはどうすればよいかというテーマで行えば、それ相応のカードをタロットが出してくれるでしょう。
現在は現在で、今の自分をイメージするのに役立ちます。
ここで注意しなければならないのは、カードは正立で出すということです。逆位置を取らないわけですね。逆位置には、どうしてもネガティブなイメージがついてしまうので、正立のみの展開で三枚引くとよいでしょう。
時間の跳躍は、言わば、現実逃避(笑)なのですが、よい現実逃避は、現実を変える(超える)効果があるのです。なぜならば、私たちは今の自分を作りあげている自分(自我)ルールに縛られ、その範囲からなかなか抜け出せないでいるからです。
自分を変えることは現実を変えることにつながります。そのために人は、学んだり、経験したり、運動したり、新しいことに挑戦したりします。それは、すなわち、今の自分を壊す作業でもあるのです。
従って、今ではない過去や未来に飛ぶということは、今を変える可能性があり(過去の認識が変化すれば今も変わります)、現実逃避も悪くはないのです。
また現実逃避は、自己を保護する役割もあり、傷つき、疲れ切った自分を癒す作用が期待できます。
本当は、三枚それぞれを関連させ、現実時間の流れを無視して調和させることで、大きな変革や癒しが起きるのです。
ですから過去だけ、未来だけの跳躍は一時期な避難みたいなもので、そのあとに、三枚を統合させて、新しい意識を作り出す必要があります。
結局、それは「過去」→「今」←「未来」のように、今に集約されてくるものです。その意味では、やはりスピリチュアリストの言われるような、「今に集中」「今に生きる」というのも、理に適ったことになってきます。
今の常識的な自分を変える(超える)には、時間の流れを、過去→現在→未来ではなく、その逆方向や、三つが輪になって回転しているようなイメージを持つことです。「運命の輪」のカード図像にも関係してくることです。
そうすると、無意識の領域では、時間の流れというものがないことに気づくかもしれません。
過去の問題は今の問題であり、未来もまたしかりで、現在に悩みがあれば、実は過去も未来もよいようには見えてきません。
すべてが関連しているのですが、現実時間にいる私たちが実際に行動できるのは今の自分だけなので、三次元的には今の自分の行動と選択が重要になります。
反面、意識(心)の中では、行動ではない部分も効力を持つので、思いとかイメージの力が有効になります。ですから、時間的には、今だけ大事とは限らないのです。
そういうことを、たった三枚でも、タロットからは感じ取ることが可能でしょう。
タロット三枚と時間意識について、タロットを展開しながら考えてみる(体験してみる)のも面白いことです。
上を向いて歩こう
「上を向いて歩こう」という歌がありますが、このタイトルを思う時、私はマルセイユタロットの「愚者」を想起します。
興味深いことに、「上を向いて歩こう」の歌手、坂本九氏のほかの歌で「見上げてごらん夜の星を」」というのがありますが、この歌も「愚者」が、ちょうど17の「星」を見ているようなイメージが思い浮かびます。(「星」ではありますが、実は「太陽」のカードの意味と雰囲気もあります)
ともに永六輔氏の作詞ですね。歌手も作詞者もすでに故人であり、特に坂本九氏は、例の飛行機事故で亡くなられたという不幸なことがありましたが、世代ではないにしても、このふたつの歌は、なぜか、マルセイユタロットが浮かび、とても心に響くものがあります。※坂本九氏の「九」は「隠者」の数であり、「隠者」と「愚者」の関係性、「隠者」(導き)のランタン(光)とか、いろいろと面白い偶然性があると思います。
「上を向いて歩こう」では、「独りぼっちの夜」という歌詞が特に「愚者」ぽく感じます。
ただ、本来の「愚者」は、涙とか湿っぽいものではなく、むしろ逆で、ほがらか、楽天的、無邪気、極端に言えば能天気とさえ思えるものです。しかも独りぼっちではなく、犬のような動物が「愚者」の人物の後ろにいます。
それでも、「上を向いて歩こう」との共通点をあげると、やはり「上を向いている」ということと、その歌詞に、「幸せは雲の上に、幸せは空の上に」という部分があることでしょう。
マルセイユタロットの「愚者」も、上を向いて歩いているわけで、その関心は上方向で、いわば天上にあると言えます。
歌詞の「雲の上、空の上」が何を指す(示す)のか、いろいろな解釈があるでしょうが、マルセイユタロットの「愚者」になぞらえると、それは天上であり、宗教的には神の国、天国、スピリチュアル的には宇宙、大いなる世界、生死でいえば死後の世界、霊的世界、心理的に言えば集合意識、無意識や潜在意識、超越意識でつながる世界、認識でいえば、見えない世界、時間のない世界、永遠の世界、非日常の世界と言えましょうか。
その反対にあるのが、現実や地上的世界、時間の流れる私たちのいるこの世の普通の世界ということになりますが、「愚者」が上を向いているので、彼の関心はこちら、地上的世界にはあまり興味がないようにも見えます。
ところで、人はどんな時に上を向くのでしょうか?
希望を抱いている時、夢を思い描いている時、ワクワクしている時など、比較的ポジティブな状態にいる(なった)場合に上を向くように思いますが、一方で、その反対の落ち込んだ時、我慢している時なども、無理矢理ですが、上を向くケースがあります。まさに、「上を向いて歩こう」のような、「涙がこぼれないように…」というような感じのシーンです。
また、「下を向くな、上を向け!」と言われることもあり、これは、元気を出せ、落ち込んでいる場合ではない、やることをやれと、叱咤激励されるような場合です。
これらから考えると、人が「上を向く」というのは、結局、希望・夢・元気・気の取り直しのような、ポジティブに向けてのものだと言えます。
たとえネガティブな気持ちになっていても、上を向くことで気分が変わり、少なくとも、落ち込み、沈んでいた気分を、なにがしか変えてくれる効果があるようです。
本来、ウキウキ・ルンルンであれば、下を向くことはほとんどないはずです。であれば、上を向いている時の気分を再現するために、あえて上を向くという方法もあるでしょう。
人は動作によって、完全ではなくても、気持ちを変えることが可能なこともあるのです。ですから、上を向くことは少しでも明るく生きようという意思の表れでもあるでしょう。
それで、天上の話に戻りますが、マルセイユタロットの「愚者」は天上に関心があり、そこを目指して旅をしていると言えます。
ですが、大アルカナ、次のナンバー1の「手品師」になると、この人物は斜め下方向を見ていて、「愚者」とは真逆です。
ところが、このふたつを並べてみると、版によって違うとは言え、「手品師」の視線の先、つまりは「愚者」の足元(地上)は、水色にぬられていることがわかります。実は水色はマルセイユタロットでは、天上的なものを示すと言われます。
ここに面白いマルセイユタロットからの示唆・仕掛けがあり、天上を目指していても、地上で学ぶ(経験)することがあり、そして地上にも天上(性)があることがわかります。
要は、陰陽ではないですが、天と地がセットになってはじめて本当の世界・宇宙があると言え、このふたつの統合が鍵であるようにも思えます。
ただ、地上が嫌で、早く天上に行きたいと思う人もいるかもしれません。しかしながら、マルセイユタロットは地上(性)も重視しており、大アルカナでも、かなりのカードが地上性での経験を示しています。
さきほど述べたように、地上にも天上性があるわけで、そのまた逆(天上に地上性)もありなのかもしれません。
私自身も、「愚者」のように、地上より天上志向が強く、上を向いて歩いて、足元、地上が疎かになることがしばしばですが(苦笑)、地上にも天上性があるのですから、捨てる神あれば拾う神ありで、さらに言えば、真の完成には、どうしても地上・天上の両方との統合が求められ、そのためには地上での限定的経験も必要不可欠なのでしょう。
まさに、上を見ながら、下を歩くという「愚者」スタイルです。
それでも、地上では楽しいこともある反面、実際つらいことも多いわけです。ですが、その起伏こそが、天上とは異なる特徴なのだと思われます。
「上を向いて歩こう」の歌詞でも、「悲しみは星のかげに、悲しみは月のかげに」という部分があります。これは、奇しくも(霊性中心の)占星術的に、すごいことにふれていると個人的には思いますが(永六輔氏は意図していないにしても)、ここでは、地上の悲しみ、つらさは星と月の影にあると言っておきましょう。
スピリチュアル的に言えば、まさに星々の影であるのが悲しみで、それはつまところ、幻想であることを示唆しているようでもあります。
悲しみの反対の楽しみ・喜びでさえも、逆に言うと影かもしれません。結局は、感じるのは人ですが、それ自体はただのエネルギーの起伏と言えます。
それが地上の限定的・物理的世界では、あたかも本当のモノ・コトのように感じてしまうわけです。
そうは言っても、すべては幻想だからと割り切れるものでもありません。その実際感(リアリティ)からはなかなか逃れることができないものですし、本当につらい、苦しい(楽しい、うれしい)と誰もが感じるわけです。
ですから、せめて、時々、あえて上を向いて(歩く)ことで、地上性の喜びはここだけしか味わえないとかみしめ、逆の、つらさ・悲しみは、天上の戻る(行く)ための旅路、通過点だと思うと、何とか進むことができるのではと考えます。
そして、実は、「愚者」に犬がいるように、私たちは独りぼっちのようで独りぼっちではなく、常に寄り添っている(霊的、あるいは人によってはそれを体現している実際的)存在がいるのだと意識(見つける、見つけようと)することで、自暴自棄になったりするのを防いだり、客観性を得られたりすることもあるでしょう。
最後に、私たちは、本当は誰もが星や月を超えた世界を知っています。
星や月の影を超えたところに、私たちの本当の故郷があるのです。この現実の世界がつらく・苦しいものと思う方もたくさんいらっしゃるでしょう。それはグノーシス的に言えば、本当の場所でないから当然です。
しかし、これまた逆説的になりますが、だからと言って逃避的に生きたり、自らの死を図ったりしても、真に逃れることはできないとグノーシスは教えます。
脱出のヒントは「認識」にあるのです。だから、グノーシス(知ること、認識、叡智)なのです。
それが象徴されているのが、マルセイユタロットだと(私は)思っています。
小アルカナとシンプルな選択方法
タロットは何かを決める時には、よく使用されます。
タロットリーディングの問いにおいて、決め事(迷いからの選択)の相談は、かなりポピュラーと言えましょう。
もっとも、前にも書きましたが、私自身は、決め事にタロットを活用することがほとんどありません。その理由は、それにあまり意味がないことを知ったからです。
意味がないというのは語弊がありますね。ここでの「意味」とは、自分自身(私)における意味ということで、意義に近いものです。
日常生活での何かの選択というレベルでは、私が求めているタロット活用とは異なるのです。しかし一般的には意味があると言え、人によっては結構重要なことにもなります。
さて、タロットというのは、伝統的なスタイルを持つものは、普通、78枚を一組にして、大アルカナと小アルカナと呼ばれるパートに分かれています。
このうち、小アルカナは56枚あり、コンセプトとして、4つの組に分類できるようになっています。すなわち、剣・杯・杖・玉(一般的にはソード・カップ・ワンド・コインと英語で呼称)の4つです。
大アルカナと小アルカナでは、扱う(象徴する)レベル・範疇が異なります。
マルセイユタロットの場合、特に小アルカナの数カードは、他とは絵柄が違い、シンプルで記号的なデザインになっています。
そのため、かえって、小アルカナのコンセプト、4組がわかりやすくなっており、見た目ですぐに違いの判断ができます。
ただし、「剣」と「杖」の組は、一見よく似ているので、初心者は間違うこともあるでしょうが、その特徴をつかめば、分けるのは視覚的にも簡単になってきます。
もし、マルセイユタロットのデザインに意図があるとすれば(私は意図があると考えていますが)、わざと4組がわかりやすいようにデザインされていると見ることも可能です。
ということは、数カードは、特に4組を意識して使うものという解釈もできます。
さて、最初の決め事や選択の話に戻ります。
何かの選択(肢)で迷っている場合、意外に大アルカナでは判断しづらいことがあります。
それは、大アルカナの絵柄が絵画的に描かれているため、一枚一枚が色々なもの(意味)に見えてきますし、ましてや複数枚ともなれば、相反する意味やニュアンスが読み取れることもあり、いったいどっちなのか?、どれがよいのか?と、かえって迷ってしまうわけです。
こうしたことを防いだり、もっと単純に選んだりしたい場合、小アルカナの4組のコンセプトを利用し、それが如実に表現されている数カードを使うとよいわけです。
さらに言えば、数カードの中でも、絵も使って、4組の特質をもっとも表している「1」(エース)のカード、4枚だけでも十分、選択に使えます。
やり方は、極めて簡単、自分が迷っていることに対して、何をもっとも重視して選べばよいか?と思って、数カードエース4枚をシャフルして一枚出します。
当然、剣・杯・杖・玉のうちのどれかになります。
「剣」は、合理的なこと、客観的情報判断、「杯」は気持ちが満足、落ち着くこと、「杖」は行動、移動の観点、使命感によるもの、「玉」は経済的、実質的なこと、などをポイントとします。
例えば、「剣」は口コミとか他の情報、事例も加味して合理的なものを選択、「杯」はとにかく自分の気持ちが満足、納得することで判断、「杖」はやりたいことをする、行きたいところに行く、使命・情熱的なもので判断、「玉」が出たらリーズナブル、経済的に得なほうでの判断、などです。
一般的に、「杯」と「杖」は同じ「気持ち」的なことが絡むので、単純に分けられないかもしれませんが、「杯」は満たす、ひたる満足感であり、あまり動きがないのに対し、「杖」は動きがあり、その満足感は、目標に向かって進んだり、プロジェクトなどを通したりして、生きがい、やりがいを味わう(味わっている)ことで得られる類のものです。
よって「杖」の場合は、「杯」のように、必ずしも心が潤う、満たされるというものではなく、やっていること、選んだことに誇りとか情熱が持て、むしろ作業中の過程的なものに満足している(燃えている)ようなものと言えます。
あそこに行くのが目的で、それそのものが楽しいと思う「杖」と、あそこに行けば落ち着く、満たされる「杯」というものとの違いですね。
こうして4組、数カードを使えば、意外に迷っていたこともシンプルに片が付く場合があります。
この方法は、実は「決まる(決める)」以外にも、自分がいつも何を重視していたのかもわかり、自身の選択の傾向も見えてきます。
4組は現実生活のレベルにあり、だからこそ、小アルカナは実生活で役立てられるものです。なぜかと言えば、現実(生活)は分離された世界観の中にあるからで、それを西洋的に、古くから4つの分離された(ように見える)エネルギー、性質としてとらえてきたのです。
分離されているからこそ違いがあり、変化も見えます。まさに色々な世界なのです。ですから、迷いが出るのも当然です。
大アルカナ的には、その迷いや違いの世界にいることを認識して、統合的観点を持ちましょう、となってくるのですが、それでは、現実的にうまく適応しない場合があります。
現実世界は、言い方を変えれば限定的世界であり、その限定において、効率と良し悪しの価値観は生まれます。これを無視して、スピリチュアルな統合観点のみで現実世界を判断すると、無理が生じます。
そのため、タロットは小アルカナの世界を用意してくれていると考えられます。小アルカナを活用するのも、(実生活における)タロットの役立て方のひとつと言えましょう。
質問なきタロットリーディング
タロットリーディングには、いろいろな方法があります。
展開法、いわゆるスプレッドの種類もたくさんあるので、それを変えてみると、同じ問いでも、違った角度から見ることが可能です。
※もっとも、同じ問いで何度もタロットを展開するのは、基本的にはタブーとされ、まずいところがあります。しかし、必ずしも、同じ問いで複数回以上展開することがダメということでもありません。それには、あることをきちんと理解していればの話です。それは講座等でお話しています。
また、タロット側ではなく、問いをするほう、つまり人間側が工夫することによって、リーディングを変えることもできます。
普通は、何か問いがあってタロットを展開し、リーディングするわけですが、これとは違い、最初から何も問いを想定しないまま、展開してみるという形があります。
これはノーマルなリーディングの方向とは逆のもので、言ってみれば、タロットを展開してから、自分の問いたかった(知りたかった)内容を読み取る(タロットから気づく)という方式になります。
ところで、タロットと質問というテーマにおいて、大きく分けて、ふたつのタイプがあると思います。
ひとつは、きちんと質問(問い)を設定してから、リーディングするもの。
そして、もうひとつは、質問は漠然としたものでもよいとして、リーディングするもの。
要するに、タロットリーディングにおいて、具体的で詳細な質問を設定するのか、質問自体は大まかでよいとするのかの違いです。
私自身は、初歩的・初級的な段階では前者を勧め、リーディングに慣れてくると、後者を許容するように説明しています。(本当は、時と場合により決まって来るのですが、今はそれについてはふれません)
深いリーディングの場合、クライアントが最初に質問だと思っていたものでも、タロットを展開し、タロットリーダーと一緒になって考えていく過程で、初めにしていた問いとは違っていたということはよくあるものです。
ですが、初めから明確な悩みとか質問が決まっていて、その答えが欲しくてタロットリーディングを行う場合、やはり質問は途中も変わらず、具体的になりますし、そうしたほうが、タロットリーダー(側)も読みやすい(答えやすい)ことがあります。
※これは余談ですが、人間、悩みが多いように思われていますが、意外に、数のうえでは少ないのです。試しに悩みや心配事を書き出してみればわかります。一見、たくさんあるように見えて、本質的には同じようなグループに分けられ、おそらく本当の悩みは数個、本質的にはほぼひとつになってくるものです。問題は、悩みの数ではなく、その悩みが深いか、ずっと続いているものなのか、同じようなことを繰り返しているかなどのほうです。こういったことからも、人間の問いとか悩みというのは、様々な形を持っているものだということに気がつかされます。
話を元に戻しますが、前記、ふたつのタイプの後者、質問は大まかにやっていくタイプが最終的に行き着くのは、最初から質問はいらないという方法です。
マイナス的な悩みではなく、どう生きればよいのかとか、何か人生での大きな目標みたいなものを知りたいという時、それ自体は確かに質問ではありますが、実はあってなきようなもので、むしろ、こういう場合は、質問はなしで、タロットを展開してから、どんな象徴性が出たのかを見ていくほうが有意義なこともあります。
これは、自分ひとり(セルフリーディング)でも、できないことはないのですが、やはり、他者視点があったほうが気づきも得やすいので、自分がクライアントになって、他者にリーディングしてもらったほうがいいでしょう。
タロットリーディングにおいて、客観性は重要ですが、厳密な意味でリーディングの性質に客観はなく、どうしてもリーダーなり、クライアントなりの主観で判断されます。
このことが逆に、質問や問いがなくても、結局、タロット展開に立ち会っている人(つまりはクライアント・タロットリーダー)の何らかの関心とか思いが読み取れることにつながります。
それは、自分自身では普段意識していないこととか、忘れていたこともあり得ます。人は無意識的には、おそらくすべて記憶しており、タロットリーディングを機会に、そういった無意識層のものが浮上することがあります。
意識している部分ではなおさらで、もっと明確にタロットに投影なり、トリガーなりで、引き出されてきます。
こうして、たとえ質問がなくても、自分に関係していることはタロットから導き出され、リーディングの形式が成立することがあるわけです。
さて、ここで思いつきましたが、もし希望される人があれば、この質問(問い)なきリーディングを体験(クライアント体験)してもらおうかと存じます。コメントなどで反応があれば、いずれそういった会の企画を考えたいと思います。
マルセイユタロット、太陽系意識
マルセイユタロット、特に大アルカナは、自分自身に(他者に対しての場合もあります)気づきを連続でもたらしてくれるカードだと言えます。
まずは、カード一枚一枚の象徴を学ぶ必要がありますが、一通り学習したあとは、各々のレベルや状態によって、気づきがやってくる、あるいは、自ら発見をしていくという形になります。
ですから、基本の知識を入れたあとからが、タロットより学ぶことの本番というわけです。
基本の知識というのは、普遍的・元型的なもので、いわば、誰にもあてはまるような全体的・抽象的意味が多いです。
それでも、タロットカードの面白いところは、個人的にも示唆を与えるということなのです。換言すれば、その人でしかわからない意味とか、教えが出て来るということです。
そして、最初に学んだ全体的・共通的ともいえる意味と重ね合わせて、私たちが個人として生かされている部分と、それが実は全体性とつながり、発展とも関係していることを知って、図形的には円のような感覚・思想が形成されてくる仕組みになっています。
そこで、見方を変えますと(反転させますと)、私たちは新たに気づきとか発見を行っているのではなく、もともと知っていた(あったもの)を思い出す、復活させていたということにもなるのです。
マルセイユタロットの大アルカナ、20の数の「審判」には、復活という意味もありますが、もし、大アルカナの数の順に成長や発展がもたらされるという説を採り入れるのなら、まさに、21という大アルカナ最後の数のカード「世界」の直前で、完全に復活する(思い出す)状態になったことを表していると考えられます。
ただし、最初にも述べたように、タロットカードの象徴性を知るための基本の学習は必須です。それがあって、個別的な気づきもカードから得られるのです。
しかも、個別性と全体性が、システマチックに機能し、配置されている整合性や緻密性がないと、個人と全体の統合への示唆も困難と言えます。それがマルセイユタロットにはあります。
マルセイユタロットが、ある種、この世界の縮図モデルのようなものを描いているとすれば、この世界そのものが、一見、デタラメ、無意味のように思えていて、実はすべてに意味があるのではと感じて来るので、マルセイユタロットも、そのようにできており、やはり高次の設計に基づいていると想定できます。
まあ、あくまで、この世界に意味はなく、ランダム・無秩序な世界であると信じるのなら、(マルセイユ)タロットとこの世界を比較する意味もないわけですが。
しかし、この世界(宇宙)には、例えば物理法則のような、何らかの法則・秩序があることは、一般的に知られています。さらに、私たちがまだ知り得ていないものもあるでしょう。
あくまで、私たちの今の認識レベルが、それ止まりだから法則が理解できず、意味のない世界だと誤解している可能性があります。
認識レベルが高度になれば、まだわかってない(知り得ていない)法則やルールというものがわかってきて、理不尽でしかないと思えた運命というものでさえも、見事に規則正しいものであったとわかる日がくるのかもしれません。
ただ、それでは、人生の面白さもほとんどなくなってしまうでしょう。
知らないことは怖さとか不安もある反面、未知部分が残されていると、非常に魅力的で冒険の余地があり、楽しさも生まれます。
そうすると、私たちが生まれて来る理由も、言い方は悪いですが、ゲームのようなものと言えるのかもしれません。
高度なゲームになればなるほど、一筋縄では解き明かせないゲーム設定・ルールがあり、ゲームをしながら、ゲームのルールを解明していくことも同時に楽しめる仕組みになると思われます。
創作ストーリーでもよく言われますが、作者を超える設定はできないというものがあります。
それにならえば、もし、マルセイユタロットが何らかの世界や宇宙の法則を描いていると言っても、それは創作者(たち)を超えたレベルは描けていないことになります。
とはいえ、創作者が相当高度な者(たち)だとすれば、私たちが何とか届きそうなレベルの可能性を、あえて示していることも考えられます。
さきほど、大アルカナの数順に(真の)復活が近づく、すなわち完成していくという話をしましたが、数の大きいカードには、星とか月とか太陽とか天体が描かれています。
ということは、星々、惑星の世界が、私たちにとって高いレベルの世界であると考えることもできます。
占星術的には、天球の世界です。しかし、古典占星術とか伝説的な話には、惑星を超えた世界の話もあります。
推測ですが、もしかすると、大アルカナの最後、21「世界」のカードに到達したとしても、それは星々の世界、もっと具体的に言いますと、太陽系の範囲内をやっと超えるレベルなのかもしれません。
とはいえ、それは大変な次元の上昇とも考えられます。
現実的には、私たちはせいぜい太陽は別として、地球と月しか意識しない世界にいますから、太陽系を超えるということは、壮大な意識の拡大になります。
これは、物理的な距離からみた宇宙の話ではなく、「太陽系」をひとつの象徴や、ひとまとまりのシステムのようにとらえてみる話です。
要するに、私たちの意識は、太陽系の中(範囲)に閉じ込められており、その解放、拡大が言われているのではないかということです。
たぶん占星術をやっている人には、感覚的にも体験してくると思いますが、惑星それぞれの単位時間とか知覚というものがあるはずです。
地球を中心として、月、水星、金星的なものが近いですから、こうしたものは、より身近で強く感じることでしょう。
それが火星、木星、土星、さらには、トランスサタニアンを入れると、天王星、海王星、冥王星と続きます。遠いものは、それだけ希薄に感じるかもしれませんが、逆に言うと、本当は強く、私たちの通常意識を超えさせる何かをもっていると言えます。
物理的な距離の話ではないと言っておきながら、惑星の距離からの影響を述べているのは矛盾しますが、私が言いたいのは、物理的な感覚だけでとらえてはならないということです。あくまで象徴として見るわけです。
このように見てきますと、あまりに現実・個人レベルでタロットを使っていくと、もったいないということがわかります。
太陽系意識を超えることがひとつの目標であるならば、私たちは、包括(統合)した拡大的な意識を持っていく必要があります。
共有感覚を養うというのも、そのきっかけになるでしょう。ですから、ふたつの壺の水を混ぜ合わせている「節制」が、数からしても、重要な位置にいるのです。
ところが、その前に「13」というカードがあり、後ろには15「悪魔」というカードもあります。
このふたつは自我に大きく関わってきます。
統合的・霊的な成長を図っていくためには、いきなり全体性へ飛ぶのは危険で、自我の確固とした構築が重要になってきます。
自分というものがなければ、全体性の中で見失い、自己犠牲や、ただの組織の歯車になりかねません。
ゲームにおいても、巨大なラスボスに挑むには、自分の特徴・特技を知って、さらに自分にはない特質を持つ他人と協力し合って、はじめて倒すことが可能になってきます。
真理の解明(というゲーム)でも同様でしょう。
マルセイユタロットの大アルカナの流れには、自我の確立、破壊、再構築、全体への帰納と拡大みたいなものが描かれています。
やはり、マルセイユタロットは、私たちの霊的な覚醒と発展を期しているものだと、何度見ても、私自身は思うところです。