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生と死の一体性 「13」

今日は13日ということで(笑)、マルセイユタロットの中でも、カードに名前のない特殊なカード「13(番)」に関することを書きたいと思います。

このカードは初見だと、かなり怖いイメージを皆さんが持つことでしょう。

その「怖さ」は実は重要なものなのです。

ただ、ほかのカードでは、この数を持つ大アルカナに「死神」という名前を当てられたため(日本語訳で特に)、絵柄のイメージだけではなく、名前からも、より恐怖を感じてしまうことがあります。

その「死神」からのイメージの怖さは、むしろ、マルセイユタロットの「13」の場合は、払拭したほうがよいものです。

それは「死」への怖さを増幅させるからです。

誰でも、死は怖いものです。しかし、現代人の多くは、生と死を物理的な現象としてとらえ、まったくそれを切り離して考えているところに問題があり、さらに言えば、そこから「死」への恐怖を感じているのです。

私たちは、人間はただ何かわからないけれども、生命と体という複雑な身体機能をもって生きているという感じで、死んだらどうなるのかわからないものの、少なくとも、体(身体)の機能は停止し、ただの肉片となって朽ちていくもの、処理されないと腐っていくものと考えています。

極端な場合、「死後について」わからないことをいいことに、死んだら終わりと決めつけている人もいます。

このように近世以降に、物理的な思考が強固になることで、私たちは生命と体がマシンのように感じて、生命が燃焼するエンジン、もしくはその燃焼を起こす燃料、そして身体が燃焼して動く機械のように見てしまうことになりました。

すなわち、生きていることと死んでいることの物理的なふたつの見方が強くなり、結局、実感できる「生きていること」の間だけフォーカスし、「死」は、まさしく崩壊してしまう終局点として置かれることになったのです。

そうすると、死(後)も含めたトータルで大きな流れとして俯瞰する力が失われ、生きている間だけの喜びや快楽に執着するようになり、生きている(間の)人生が、人から見て充実したほうが勝ち、という感覚に囚われるようになるわけです。

そのため、つまるところ、この人生で何も残せない自分、(人から)評価されない自分、不幸と思える人生で終わる自分・・・いろいろな「生きている頃の自分だけ」を評価する視点になり、終局的である「死」が近づくこと、死を迎えてしまうことに恐怖を感じるのです。

実際に、皆さんも、病気や鬱的なメンタルなどによって、「自分が死ぬかもしれない」という恐怖を味わったことがある人もいるかもしれません。

それほど、生きていることの実績だけに執着してしまうと、「死」というものが怖くなってしまうのです。

しかし、以前は、死と生は一体のもので、今のように分離感や別物感はありませんでした。

シンプルに言えば、「死」は一種の変容点なのです。逆に「生」(誕生)も同じ変容点と言えます。

二元(ふたつの概念)で切り離ししまうのではなく、円環として生と死を変容点と見る時、輪廻とはまた違った生と死の一体感を感じることができます。

「13」のタロットの図像では、確かに骸骨のような人物が鎌を持ち、削ぎ落としや死のような印象も強いです。

しかし、終わり・死を迎えても、それが変容の時であり、いわば、生の形を変えた生き方になることを示唆しているのです。

このことは、「13」を中心にして、タロットの数の論理である「7」や「10」によって、ほかのカードとともに見ていくと、よりわかってくるものです。

例えば、「7」の論理性でいうと、「13」には「6」の「恋人」カード、「20」の「審判」のカードと関連します。

ここでは詳しくは言えませんが、「恋人」も「審判」も死と再生のシンボルが刻印されています。

例えば「恋人」カードにおいては、エロスとタナトスとして表現され、両者が一体の状態である(と直観した)時、時空を超越した瞬間が垣間見える(体験する)ことが、図像によって示唆されています。(このあたりは、2016年に話題となったアニメ映画「君の名は。」の「結び」とも関係してきますね)

つまり、両極の、死をもってはじめて生の意味がわかり、その逆もまた真なりで、私たちは死がなくてはならないものであり、しかも死と生が一体化したところに、崇高な高次を実感することができると、マルセイユタロットの示唆から確信できるのです。

それは、生きている「生」の現実世界でも、生々しいもの、すばらしいもの、躍動しているものの反対側として、空虚なもの、汚いもの、一般に望まないもの、衰えていくものなどと対比され、言ってしまえば、別離・分離(感)として、「生」の中で「死」を感じるものでもあります。

結局、統合的な観点を持たない限り、一方の「死」や「終わり」で象徴される「生(生きている時)」の恐怖はなくならないものですし、人生において重要で衝撃的な別離、不幸とも思える試練を昇華することが難しくなります。

「13」は単に削ぎ落としたり、切り放ったりするものではなく、解体し、変容していくものなのです。

それは、経験したこと、体験したこと、味わったことすべてが、養分として受け入れられ、変容するための下地となることなのです。

「13」に名前がないのは、いろいろな理由が考えられますが、今日述べてきたことから、本当は「死」というものがないからこそ、「死」という“名前を付していない”のだと考えられます。実は形を変えた「生」あるのみなのかもしれません。

実際に起こることを、そのままの意味でとらえていては、なかなかこうした変容・昇華には結びつきません。

それには、物事を象徴的にとらえ、これまての思考と感情を統合し、今までの見方を超えていくことが求められます。

マルセイユタロットには、そうした象徴としての変容力があるのです。


二極化の話について。

スピリチュアルな(ことに関心のある人の)話の中で、しばらくの間、もっともらしく言われていたものに、二極化という話(テーマ)があります。

簡単にいえば、高次と低次に人間(の意識、あり方)は分かれて行き、その後交わることなく、それぞれの次元で分離しながら存在していく(もしくは片方は消滅する)というものです。

それぞれにおいては、一見すると、まったく変化がない(分かれていない)ように思えるのですが、列車が分岐された線路を別々に辿るように、お互いは決して交わることはないので、これを第三者的な視点から見れば、やはり、ふたつの世界に「分かれた」「分かれている」という状態に思えてきます。

つまりは、天国と地獄の分かれ道に、それぞれ入る者が選別されるという、ある種の「分離・二元論」です。厳しい言い方をすれば、選民思想にも近いものです。

こういう事を信じて主張する人の間では、「統合」や「一元」「ワンネス」いう概念がよく用いられ、理想の状態として話されますが、上記で述べたように、二極化そのものが「分離」であり、言わば「差別化」の話なので、(主義主張の)構造上、矛盾したことにもなっています。

前にも何回か記事にしましたが、私自身は単純な天国・地獄行き分岐点のような二極化話には違和感を覚え、仮にそうだとしても、何とか(地獄行きのほうに)救いがないかと探ることも大事ではないかと言ったことがあります。

ただし、二極化の話にも一理あるとは考えており、宇宙的に、いわゆる「進化の方向(性)」(運動や方向性と言ってもいいもの)が大前提であると仮定すれば、そちらとは違う方向に行こうとしていれば、過大な抵抗を感じたり、削ぎ落とされてしまったりすることもあるのではないかと思います。

それでも、抵抗があるからこそ、大きな力が生み出されるとするならば、進化の方向があったとして、たとえ、それとは違ったものでも、すべては無駄なことではない(宇宙全体として進化・成長・拡大・遊戯している)と言えます。(計画のうち)

私たちは、どうしても物理次元や今の現実感覚でモノを見る傾向があり、それには時空(時間・空間)という縛り(自由を束縛するもの)でありながら、個別感と存在感(それはある意味、恩恵でもあります)を生み出している「仕掛け」が大きく関与していると考えられます。

「二極化」というものを、時間で見た場合、進化が遅れる人たちと早く進む人たちと見ることができ、空間で見た場合、別々の宇宙としてお互いが存在するというような意識で思考できるかもしれません。

おそらく、そのどちらも本質的には誤りというか時空的概念で縛られた(固定された)ひとつのモノの見方になっているのだと思いますが、私たちの意識においては、そうした見方でしか、なかなかか理解できないからこそ、分離・二極化するというイメージになるのだと思います。

もしこれをすべてひとつのこと(巨大な宇宙)だとすれば、全部あってなきようなもの、逆にないようであるものと考えられないでしょうか。

マルセイユタロットの「吊るし」の隠された意味にもなってきますが、私たちは個別と集合で夢を見ていると言われています。しかもその「私」や「私たち」というのも本当はないのかもしれないのです。

夢はまた別の夢を生み出しており、誰かや何かの見ている夢の中の世界の、さらにまたその中の世界の誰か、あるいは皆が見ている夢があり、そしてその夢の世界でも見られている夢があって・・・と、ずっと夢が続き、まるで合わせ鏡に映った映像が、奥の方までどこまでも続くかのような状態に(私たちの世界が)あるという考えがあります。

つまり、二極化というものも、時間や空間概念を取り払えば、すべて何かの夢として同時存在しているか、まったくないものとして見ることができ、わかりやすくいえば、自分(本当はこの自分もいないと言えますが)の中に、高次も低次も、天国も地獄も、ふたつに分かれたと思う世界(意識)もすべてがあるということです。

時間的にいえば、未来と過去を現在で同時に味わっており、時間軸にまたがった巨大な人間が、「時間軸の世界」を抱えて眠っていることになり、空間的には、ふたつ、いやそれ以上の個別に分かれた多次元の宇宙を、これまた一人の巨大な人間が宿して(夢見て)眠っているという表現になります。

これはまさにマルセイユタロットの構図とシステムそのものであり、タロット的にいえば、タロットも夢の世界を表していることになります。

こう考えると、タロット活用の最終目的は、おかしな話になりますが、タロットを使わなくなること、タロットが消える世界(タロットがいらなくなる世界)であると言えます。

すなわち、タロットを使っている間は、まだ普通の人間だということです。ですから、タロットを使いながら、人間である眠りを覚ましていくことが求められます。

しかし、いきなり目が覚めるのではなく、少しずつ消失していく(統合していく)プロセスがあり、先ほどの巨大人間の表現で言えば、いくつもの夢を覚ましていく必要があるということになります。(ひとつの夢が覚めることは、夢の中の人間と、その夢を見ていた人間とが統合することと同意であるため)

話が二極化からそれましたが、要するに、二極化の話も、いろいろな見方をしていけば、真なるところもあれば間違いと思われるところもあり、そうしていく中で、新たな考えや気づきも出てくる(夢が覚める)ということなのです。

こうして見ると、二極化の話は、やはり格好のスピリチュアル的題材というわけですね。


今年のテーマでカードを引く場合

新年になって、タロットを持っている方は、今年のテーマとか、今年はどうなる?みたいな感じで、タロットを引く(展開する)ことがあると思います。

新年のタロット引きについては、いろいろな方法を使うことができるのですが、もっともシンプルな方法は、(大アルカナ)一枚だけカードを引くという「一枚引き」です。

一枚引きは、たった一枚にすべてが象徴されているという、実は高度な読みが必要なのですが、逆に、一枚の意味として、簡単(単純)に読むこともできるという不思議な方法なのです。

つまり、初心者ほどシンプルに読め、上級者ほど、複雑に見てわかりづらくなるという代物です。(笑) 

ですが、さらに極めていくと、知識と直感が融合した、明らかなメッセージの形として、強烈に伝わってくる情報があるのが瞬時にわかってきます。

と言っても、一枚では、やはり抽象的過ぎて漠然としたものになりがちです。

しかし、タロット(マルセイユタロット)はよくできており、一枚の抽象性を具体化する、言い換えれば、より現実の情報に変化させるためのカード群があります。

それが、小アルカナです。

小アルカナを使うことで、わかりづらかった大アルカナの一枚引きに、具体性を補強することができるのです。

さて、ここで、カード以外にも重要な要素があることを述べておきましょう。

それは質問(の形態)です。

タロットを引く時、どう質問するかによって、出たカードの読み方も変わるのです。

このことは意外に知られていませんが、タロットリーディングの初級・中級レベルにおいては極めて重要なことなのです。

ただし、それを超えたレベルになってきますと、質問は逆に意味をなさなくなり、究極的には、タロットへの質問はいらなくなります。引いたカードが、すなわち象徴ですので、反対に、展開されたカードから質問を絞っていくようになるのです。

さて、その質問ですが、簡単に、質問によって違いが出る例を示しましょう。

新年に切り替わった今の時期なら、最初にも述べたように、今年(一年)をテーマにしたことをタロットで見てみたい、引いてみたいと思うでしょう。

それで、質問を、

1.「今年どうなりますか?」

とした場合と、

2.「今年はどのようにすればよいか?」

というものとでは、最初からカードの見方・読み方が違ってくるのがわかると思います。

1の質問ですと、「カードの象徴や意味のようになる(予想される)一年」という感じで、いわゆる運命的な占いの見方になります。

これとは異なり、2の質問だと、「カードで象徴される行動を起こしていく、目標として設定する、取り組んでいく」というような読み方になります。

つまり、1では受動的であり、2は能動的になるということです。言わば、外部に従う運命論的なものと、自らが創造していくものとの違いの目線とも言えます。

例えば「運命の輪」というカードが出たとすれば、

「今年は運がいい年だ」「縁が巡ってきますね」「クルクル回るがごとく忙しい年でしょうね」と読むのが1に対応した読み方ですが、「チャンスをつかむ」「時間を無駄にせず有効活用する」「自分が輪を回すがごとく、行動を開始する」「縁づくり、交流に励む」「続けてきたことを完結させる(一回りさせる)」などとして、2への答えとして読むことができます。

もちろん、どちらが正しいというものではありません。両方ともタロットの読み方であり、象徴としてとらえられるものです。

ただし、マルセイユタロットに伝えられている奥義的な教義の見地に立てば、1の読みは、自らをある次元に閉じこめるものとなり、実は長い目で見ると危険なものと言えます。

反面、実は1的な質問と読み方は人間の欲求に即したものでもあり、楽しく感じられたり、魅力があったり、リアリティをもったりして、その虜になるのです。

結局、タロットも使い方によって、毒にも薬にもなります。ですが、やっかいなことに、ある人にとっての毒は、ある人には薬のように思え、その逆もあるのです。

とは言え、少なくとも、タロットへの質問を工夫するだけでも、多角的なものの見方ができ、ひとつところに囚われない自分を構築していくきっかけとなるでしょう。


数多(あまた)いる本当の自分

明けましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

日としてはただ一日変わるだけなのに、年が変われば何かが変わったような気がするのは、人間の面白い心理で、これには舞台装置が大がかりであればあるほど、つまりは環境的に・社会的に雰囲気がそうなればなるほど、個人も気分的に信じやすいということはありますね。暦がなければ、いったい、毎日はどんな意識になるのか、興味深いところです。

それはさておき、「変わる」ということで言えば、変わらないこと、変えられないことで悩む人も、昨年(というか、ここ最近)は多かったように感じます。

ややこしい話ですが、「変える必要もない自分に変わろうとする自分に悩む(笑)」というパターンの罠に、はまった方もおられるようです。

これでは、何を言っているかわかりませんよね。(笑)

つまり、「変える必要のない自分」とは、本来の自分(偽っていない自分)という意味と、「そもそも変えなくていいんじゃね?(苦笑)」という意味での、変える必要のない自分(今の自分ということ)があるのです。

だからふたつの意味があります。

ひとつは、ありのままの自分、本来の自分というものがあって、それには気づいているものの、そうなれない自分に悩んでしまうということ。

もうひとつは、本当の自分や、自分が本当に求めているものが何かわからなくなって悩むというパターンです。

前者は、本来の自分というものがわかっている、つかみかけていますが、後者は、その本当の自分というもの自体がわからないということで、どちらにしても、「今の自分とは違うものに変わらなくてならない」と苦悩するので、前述の文章のような「変える必要もない自分に変わろうとすることで悩む」ということになるわけです。

これは、他人に影響され過ぎが大きいかと思います。

それと、変わる=ポジティブという信仰、さらには、本来の自分で生きるのがベストだと思われている信仰があるでしょう。信仰と書いたように、こういうものは真実とは限らないと言えます。

まず、言っておきたいのは、本来の自分や本当の自分は一人(の人格)ではないということです。心の声と言っても、心には何種類もの人格があり、さらには脳の機能がちょっと変化しただけでも、一般的に言われる心(性格)は簡単に変わってしまいます。

本来の自分というものも、固定されるものではなく、波のように変化するものだと考えられます。しかも、その時その時の快適さを求めて、いろいろな自分の中の人格、心の声が内部的に常に争ってもいます。

マルセイユタロットを心理的に観察すれば、このことは容易にわかります。

誰が、何が、あなたの性格を決め、そして自分の性格はこれだとか、本来の私はこうあるべき、と決めるのでしょうか。この問いは簡単なようで難しいものです。

そうは言っても、本来の自分、本当の自分で生きていると自分が思った時(そう選択した時)、私は楽になった、生きていると実感したと言う人はいます。

では楽で活き活きとする自分が本来の自分なのでしょうか?

 

もしかすると、それは仕事や環境が決めているのではありませんか?

自分が変わったからその仕事(環境)を選択したとも言えますが、その仕事(環境)だから自分が変わることができたという場合もあり、どちらとも言えることでしょう。

生きたいように生きると言えば、かっこいいように思われますが、人間は経済や物質も重要で、自分以外の人とも関わる社会があります。そう簡単に、好きなこと(快楽、心地よさ)だけで生きていくというわけにはいきません。

結局、何が言いたいのかと言えば、本来の自分はひとつ(一人)と決めつけたり、本来の自分で生きること=正しいこと、楽なこと、充実することなどと定義づけしりたせず、もっとラフに考えればいかがでしょうかということなのです。

タロット的に言えば、私たちには22(または21)人の人間を抱えているようなものです。

ですから、結局は、その選択で生きているのだと思うと、本質的に「愚者」になれます。つまり、結果より過程を楽しむような姿勢になり、何かを正しく決めなければならない、回答はひとつというスタイルから離れていきます。

もちろん、「本来の自分」「本当の自分」というのを見つけ、「これが私の生きる道」というように生きていくのもありだと思います。

でも、それは、上述のタロット的22(か21)人観点で言うと、やはり、その中の一人を「私」だと決めて、生きていくという形になります。

それ(自分が思う本来の自分とされる、一人の人格・生き方)で、生き甲斐を感じ、充実した人生を送ることができれば、その人物的には成功だと言えましょう。

しかし、そう決められない人とか、本来の自分がわからず、迷ってしまう人、または、現実と理想の狭間に葛藤し、「吊るし」のような人生(でもそれもひとつの選択)を送ってしまう人がいます。

ここで「本来の自分」を発見できない自分に罪悪感や焦燥感を持つ必要はなく、ただその時々の選択として、ひとつの人格・生き方を調整して、選択しているのだと見ると、もっと楽になると思います。

何もひとつと決めずに、「悪魔(エゴや悦楽)の要素」「節制(天使や救済者)の要素」、それぞれ合わせた(混交した)人物でもよいのですし、仕事では「皇帝」(経済・現実・支配)、プライベートでは「星」(貢献・自然・調和)を重視したバランスで行くとしてもよいと思います。

今までは「斎王」だったけれども、今から数年は「愚者」になって、「運命の輪」となり、「力」に変わると決意するのもありです。

要するに、すべては自分であり、自分で自分の選択の責任を取って、どの自分になるか、どの自分で行くかの表現を、自己の心理と、外から与えれ、かつ自らが創造する環境(状態)とともにして行動していけば(生きていけば)よいのだと思います。

「愚者」になるのに時間がかかる人もいれば、突然衝動的に「戦車」となって走り出す人もいるでしょう。

どれが正しい、間違いではなく、どの自分が今は選択・表現され、そのどれもが愛すべき「本来の自分」であり、ただ自分だからこそ、他者ではなく、自分自身(の選択)としての責任もしっかり自覚しておけば、どの自分も本来の自分として活き活きとしてくるということです。

私は簡単に生きたいように生きる人よりも、選択に苦悩し、葛藤し、それでも何とかその狭間においても、固定的に(演じる必要のあったひとつの)縛られた自分だけではなく、ほかの自分も表現しようと見せ始めた方のほうが好きです。

どちらかに決まらないからこそ、それを超えた、どちらでもない、あまた(数多)の自分の姿を見て、結果的に自分自身を受容することにつながり、その自分の宇宙の偉大さを認識していくようになるのです。

本年も、少しでも、マルセイユタロットで、悩める皆様のサポートができれば幸いです。


今年を振り返り、来年を占うタロット

年末年始ともなりますと、占いの世界では、来年(年が明けますと「今年」となりますが)の占いがさかんになります。

前回の記事ではありませんが、タロットにおける「占い」と「リーディング」の違いで分けると、「占い」は未来(の自分)を知りたいと思ってカードを引き、「リーデイング」は、現在か過去についてタロットで見るという傾向があります。

リーデイングにおける「現在」か「過去」(を見る)というのは、結局、自己分析のツールで使うということになって、それには未来よりも、今、そして現在を作ってきた「過去」のデータを見ようとするわけです。

もし過去から今に至るものの中で、もうこれからは必要でなかったり、バージョンアップして修正するものがあったりすれば、今後に合うように変えていくことが求められ、そのためにも過去を振り返り、調べること(過去のデータに気づくこと)は必然となるわけです。

一言でいえば、浄化(破壊でもあります)と創造のプロセスです。

このように、カウンセリングや気づきが中心の「リーディング」では、過去のカードを読むことのほうが重要なのです。

一方、未来がどんな風になるのか、占ってみるのも楽しいことです。

ちょっと先を覗いてみたい・・・そんな気持ちでドキドキとワクワクが占う(占ってもらう)人に訪れます。もちろん、占いで出る未来も、あくまで選択肢のひとつ、今の意識や、運勢的なものでの流れに過ぎず、確定されたものでないのは当然です。

ということで、タロットをやっている人、タロット持っていて、占いやリーディングが少しでもできる人は、未来(来年)の占いをするもよし、今年の分析をリーデイングするもよしです。

タロットをやっていて思うのは、タロットは確かにカードに絵柄があって、ある思想や象徴性を示唆していると見て、深く考察したり、目的達成に活用したりするものでもありますが、同時に、「愚者」のカードに代表されるように、まさに囚われなく、「自由」に飛翔することこだわりをなくすことにも活かされるものです。

いい・悪いとか、浅い・深いとか、現実・精神とか、高次と低次とか、とにかく何かをはっきり決めなくても、あるいは、どちらでなくてはならないとか、何かでなければならないとかではなく、そういう概念自体をふっ飛ばす、ぶっ壊す、みたいな感じがタロットにはあります。

「ま、どっちでもいいじゃん」とか、「まあまあ、そんなに決めつけずとも・・・気楽に行きましょうや」みたいな、そういう感覚にもならせてくれるものです。

面白いことに、何事も深く道を究めようとすると、最終的には、こだわりがなくなって、求め極めてきた「道」そのものも、ものすごく広くなったり、なくなってしまったりするものです。

まるで、子どものような心になって(戻って)しまうと言いますか。

よく、物語などでも、その道を極めた老師のような人が、とても無邪気・純粋で、一見バカみたいに見えることもありますよね、しかも思いっきり俗物的なこともあったり・・・(ドラゴンボールの亀仙人みたいな(笑))

実は学べば学ぶほど、バカやアホになることがよいのではないかと、最近思うことがあります。

もう少し違う言い方をしますと、自分が何も知らないこと、どこまで行っても知る(新しく得る)ことはないこと、そして、実はすでにもうすべて知っていること、それを思い出そうと、他人や外界という設定を利用し、自分自身を遊ばせているということ、そのような心境(になる)のことを言っています。一言で言うと、「自由な存在になる」「自由に同化する」ということです。

だからと言って、知識や学習がいらないと言っているのではありません。残念ながら、私たちは生まれた時に、すべて忘却するルールにしているようで、だからこそ、知りたい、何かを得たい、ということの衝動が刻まれている宿命にあります。

しかし、これを好意的に解釈すれば、どこまで思い出し、与え、与えられるという「ゲーム」を、いかに楽しめるかに身を投じているとも言えます。

思い出す(封印を解除する)ことが、学びの形式を取っているわけです。学びと言っても、座学のようなことだけを指してるわけではありません。あらゆる人生経験そのものが学びでもあるわけです。

ただ、漫然と生きていても、思い出しが非効率に終わることもあり得ます。まあ、それはそれでゲームの楽しみ方のひとつであり、一人一人、やり方・楽しみ方は違うものですから、ただ生きるというだけでも大きなことだと思います。

しかし、ゲームにもコツがあるように、意識的に思い出すこと、つまり自覚的に学びをしていくこともよいかと思います。

そのひとつが、マルセイユタロットの象徴性を活用することだと私は考えています。

そして、実は、人間が通常の生活では思い出すことができない極めて重要なものがあると考えています。

それがグノーシス(神性なる認識・真の叡智)に関わることです。

人はまず現実的(物質)な安定や充実を図るために生きようしますが、次第に精神的、心の安定と充実を求めて生きるように変わってきます。ただ、物質の充実が精神の充実になり、その逆の、精神の充実が物質の充実になってくるという、両者は切っても切れない関係にあります。

前者(物質が精神を満足させる)は常識的にわかると思います。端的に言えば、お金がたくさんあれば、何でも買えるし、働かなくても済んで、心が満足するという方向性です。

一方、逆はわかりづらい人もいるかもしれません。

心が満足すれば、物質は充実するのか?とは思いにくいでしょう。

確かに、心によってお金やモノが魔法のように突然増えたりはしないですが、足るを知るという言葉があるように、精神的に満足な状態になれば、必要なお金とモノも、それに応じたものに調整されます。

ということは、例えば以前は月100万円ないと十分でなく、心も不満だったという人が、生き方が変わり、モノによる心の満足ではなく、まず純粋に心が満たされたり、充実させたりするのを先にしていくと、必然的にモノやお金は以前より少なく済むようになり、月15万円でも心は満足するというようなこともあるわけです。

モノから心へという方向性の人にとっては、それは「ない者のひがみ」みたいにとらえられるでしょうが、心の満足度は、必ずしも、モノやお金のあるなしで決まるわけではないのです。

とはいえ、モノから心の方向性も悪いわけではなく、モノがなければ生きていくのも不自由などころか、食べ「もの」でいえば、それを取り込まないと死ぬ生物である人間は(食べなくても生きられるという人もいますが・・・一般的に見て)、物質・モノ、それを入手するために必要なお金は、現代ではなくてはならないものでもあります。こちら(モノ・お金の充実で心が満足)の方向性を目指すのも、基本で当たり前です。

だから、モノによる心の充実を無視するわけにはいかないのです。

それで、話を戻しますが、結局、このような物質と精神(心)の両(双)方向性、統合的視点を持ち、思考と感性がともに極まった時、ひとつの新たな世界が見えてくるような仕組みになっていると、タロット的には考えられます。

どちちかに過度に傾くことなく、両者を同じものとして見ることの出来る観点を獲得するのが重要と言えます。

それは、内と外という分け方でも言えることで、自分(軸)と他人(軸)とも表現でき、苦痛・努力と快楽・簡単という見方もできます。

そのどちらが正しいわけでもなく、あえて正しさがあるとすれば、それはその上(統合視点、時には下の場合もあります)にあり、今、葛藤している自分自身にはまだ見えていないところだということです。(これは、マルセイユタロットの「恋人」カードの象徴にもなります)

逆に言うと、悩みや葛藤は、二元、ふたつの方向(選択)を超える示唆があるということなのです。

と書いてきところで、最初の占いとリーデイング、過去方向と未来方向の話に戻ります(笑)が、タロットを持っている人は、この年末、今年を分析し、何を学び、何を得たか、あるいは、こだわらずに捨てられるようになったかという経験や蓄積の視線で、ましめに振り返って気づきを得ること(すなわちリーディングすること)と、反対に、来年はどんな年になるのかな? どんな年にしようかな? 吉かな?凶かな? いい人と出会える? 仕事はうまく行くの? などと現実的かつロマンをもった視点で、楽しく占ってみてください。

両方やってみると、どちらも楽しめたり、またどちらもあまりピンとこないなあ・・・とかになったり、ま、なんとでもなる(思う)のが私たち「人間」というものですね。(笑)

さて、今年はこれで最後のブログ記事となります。

つらつらとマルセイユタロットから得たり、感じたりしたことを書いて参りました。今年も駄文におつきあいくださり、ありがとうごございました。来年もまた、これまでと同様のペースで書いて行きたいと思います。

どうぞ、皆様、よいお年をお迎えください。


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