ひとつのルートの危険性

昨日は、人との差異や多様さの考察が重要だというお話をしました。
今日もその関連になります。
人は何か困ったことが生じた時、問題が起こった時にまずは自分で何とかしようとしますよね。
しかし、一人ではどうにもならない場合、知人や専門家、いろいろな方法に頼ろうとします。
それは当たり前の流れ・行為であり、いいも悪いもありません。
ところがこの流れに、狭い枠のようなもの、あるいはひとつのパイプラインのようなものだけしかないと設定すると、自分の問題の解決に支障が出てきます。
それはそうでしょう。ひとつのルートしかない、狭い枠でしか助ける方法がないというのなら、それだけ限られた救済策・解決策しかないことになるからです。
ちょっと想像してみてください。あなたがインターネットを使って何か調べごとをするとした場合、今ならたいてい検索エンジンを使うはずです。
その検索エンジンがひとつしかなく、しかも、ヒット数が極端に少ない、いつも同じパターンしか検索してこないとなれば、それしか情報がない(と思う)ことになります。
もちろん、あまりに検索数が少なく、有益な情報がないとなればそういうシステム自体が問題だとして、別の方法での探索を実行してくことでしょう。
ただその検索システムに絶対の信頼を寄せる心理的状態にあなたがなっていたとしたら、たとえヒット数が少なくても、または少し違和感を持つ情報が検索されたとしても、それを信じてしまうかもしれませんし、ほかを調べようとしなくなるかもしれません。
このことはマスメディアを通じた洗脳的操作の危惧を疑うもこともできるのですが、私が今回言いたいのはそういうことではありません。
この度強調したいことは、視野が狭くなることの危険性です。
ある事や人への絶対的な信頼特別なルートだけの依存、こうしたことは非常に危ういものをはらんでいます。
それは自分の見方・考え方が偏るだけではなく、そのルートを失った時に自分自身の崩壊や喪失につながるからです。
これは情報だけのことではありません。
感情の伴う人間関係についても言えることなのです。いや、むしろこちらの方が当てはまることかもしれません。
一人の人への絶対的な信頼や依存は、その人を失うことになった時、あるいはその人への信頼を疑わざるを得ないと自分が感じるようなことが起こった時、あなたのアイデンティティは一気に崩壊に向かう危険性があるのです。
それはあなたのアイデンティティ(この場合は自分が自分である証のような感覚)が、依存していた人に文字通り依拠していていた(その人が自分を作っていた)からです。
いわば大きな太い柱によって支えられていたのが、その柱を失うか、柱が折れてしまったかのような感覚と言ってもいいでしょう。ただし、その柱は自分で幻想的に太くしていた可能性もあります。
これは誰かを絶対的に信頼してはいけないということではありません。健全な愛に基づく信頼は強固なものです。
そうではなく、自分のアイデンティティがあやふやなままで絶対的な外側のものを作ってしまってはいけないということです。
自分というものを持って、外のものとは並立の関係でいるのが望ましいのです。
できればたくさんの人やモノへの興味、助け合いという心をもってカバーしあっていると楽でしょう。
そのためにこの世界は多様性に満ちているのです。
(タロットカードの「世界」も、ひとつには「多様さ」を意味します)

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