「愚者」になることが出発点

ほとんどの方を見ると、みんな真剣に、そして一生懸命自らの人生を生きています。


本当にすばらしいと思います。


タロットの講座を受講される方におかれても、時に迷いながらも自らをもっと向上させてたいという思いで来られています。


もちろんそんなことを皆が皆、はっきりと述べられるわけではありません。


「ちょっとタロットに興味があったので・・・」とか、「占いが一人でもできるようになればと思って・・・」などと受講の動機を語られます。


確かに実際にそうなのかもしれませんが、それでも心の奥底には自分の創造性を開きたい、自分の生き方をさらに見つめてみたい、自分の可能性をもっと探りたい・・・というような心の欲求・探究・向上心というものがあり、それが内的な声として聞こえてきます。


いわば魂の成長の求めのようなものです。


私はこれは人の中にもともとある神性であり、神聖な部分ともいえる崇高な魂の発露によるものとも考えています。一言でいえば霊性の導きです。


どこか今まで接してきた、あるいは生活してきた現実の世界・知識とは別個のそれがあるのではないかという洞察・直感のようなものもあるでしょう。


ただ目に見えない世界への過度のあこがれとか傾倒とかといわれる状態と紙一重でもあり、人から誤解を受けたり、自分自身を麻痺させてしまうこともあります。


それがいわば一般にスピリチュアルと曲解されているものになっていることがあります。


そのため、ますます自分自身(の崇高なる部分)と人から乖離していき、アブナイ方向へと走る危険性もあります。行き着く先は逃避か傲慢か、心の分離です。


これらのことは、実はマルセイユタロットの「愚者」がよく表しています。


「愚者」は犬とともに旅をしている姿で描かれています。


「愚者」は愚か者と書くように、常識人から見るとまさに変わり者、愚か者と見られるのです。行き過ぎると狂人とさえ思われます。


ただ「愚者」は愚か者ではありません。本人はきちんと目標を持ち、目指すところはわかっているのです。


また彼の旅も霊性によってそのがなされていると推測できます。なぜならば、そのスタイルから見ても単なる旅ではないからです。身軽で気楽に見えていても、ある種の覚悟も漂ってきます。


そのような者は他者から見ると変人ではありますが、本人自身はいたってまじめであり、人からどう思われようと信じる道を進むだけなのです。


逆にいえば霊性の道を目指す時、通常の心や状態(一般の常識・世界観)では叶わないということでもあります。


ただしその方向性が間違っていると、それは危険でもあります。見ているものや志がおかしな方向であれば、それは本当の愚か者であり、夢の世界に遊んでいたり現実から逃げていたりすることになります。


はその警告者でもありますし、よき方向に進んでいる時は協力者・伴侶にもなります。


マルセイユタロットに伝えられる教えでは、現実の世界でのバランスと成功を修めないことには真の意味で霊的な進化はないと図面で説明されています。



これをどう解釈すればよいのかといえば、簡単にいえば他人の視線を気にせず(他人の評価ではなく)、自分の心の解放と現実との折り合いをつけていく作業プロセスだと言えましょう。


それは自分の枠をはずして現実の生活が楽しくなるようにするということです。


これはよく精神世界でいわれるような心や思い方を変えるということだけではありません。実際に現実の生活・人生を変えていく(変わったように認識できるようになる)ことにあるのです。


いきなり隠遁生活して悟ることを意味しているのではありません。


その第一歩が「愚者」になること、「愚者」を志すことなのです。


そのツールとしては、やはりマルセイユタロットは偉大です。


タロットを習うようになって最初は変わり者と周囲から目されるかもしれませんが、やがてあなたの存在自身が風のようになっていき、その分周りとの調和がなされていきます。


なぜならばあなたが「愚者」のように流れる心と存在になれば、あなたは周りからは重くも軽くもなくなり、流れる水のように軽やかに生きていくことができるからです。


もちろん理想論的なところもありますが、その過程をタロットとともに思うだけでもずいぶん心は軽くなることがわかるものです。

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