「愚者」はなぜ“愚者”なのか?
タロットには「愚者」という、ほかのカードとは違った特徴を持つカードがあります。
トランプで言うと、「ジョーカー」にあたるもので、ゲームでは切り札であったり、変幻自在、オールマイティーの力が付与されていたりします。やはり、トランプにおいても特別です。
タロットの「愚者」の、他のカードとのもっとも大きない違いは、数を持たないということです。大アルカナにおいて数がないのは、この「愚者」だけです。
それゆえ、トランプのジョーカーのように扱うことができ、どの数のカードでもない代わりに(数の配置に入らない)、どのカードにもなれる、どこにでも配置できるようなところがあります。
そんな、ある意味、強い力を持っているカードなのに、名前が「愚者」とは、いったいどういうことなのか?と思う人もいるかもしれません。
名前はもっとかっこいいと言いますか、強キャラ感(笑)漂うものであってもいいはずです。
もちろん、タロットカードの名前は、絵柄から由来しているので、マルセイユタロットの「愚者」の絵柄を見ると、ズボンが破れているのに気にもせず、上を見て歩いている人物がいて、まるで愚か者のように見えるので、当然のネーミングのようにも思います。
さきほど、私は、タロットカードの名前は絵柄が由来していると言いました。
しかし、そうではなく、もしも名前が先に決められていたとすればどうでしょうか?
私は長いこと、マルセイユタロットを見てきまして、その可能性もあるのではないかと考えています。
いや、名前が先とか、絵柄が先というより、同時進行のようなもので、ある思想や型・パターン・設計図のようなものがもともと製作者(たち)の中にあり、それをモデルとして図示した場合、あのような絵柄になり、実は一枚一枚の名称としては、最初から決まっていたものがあったのではないかと思えるところがあります。
いや、名前の厳密性よりも、型やパターンとして登場させる予定の象徴存在を描くと、今のタロットカードのそれぞれの名前になっている、あの一般的な名前で表すのが適切(な名称)だったというところでしょうか。
こう考えますと、「愚者」は、愚か者のように描きつつも、本当はそうではない(愚か者ではない)可能性が高まるのです。
むしろ、あえて愚か者を装った風に描く必要性があり、「愚者」の中にある何かを隠そうとしたのかもしれません。あるいは、愚か者、愚者になることそのものが、マルセイユタロットを作った人たちからの伝言ということも予想されます。
これはどういうことかと言いますと、簡単に言えば、賢いふりをしていても、真実(真理)はつかめないよ、わからないよ、ということです。
アニメ、ドラゴンボールの最初のエンディングソング、「ロマンティックあげるよ」の歌詞にあるように、まさに「大人のフリしてあきらめちゃ、奇跡の謎など解けないよ」というわけです。(笑)
歴史的に見ても、いわゆる本物の賢人や革新を起こすような人は、通俗性を超え、変人であったり、愚か者を装ったりすることがよくありましたし、一般人から見て、時には嫌われたり、常識はずれと思われたりしました。
いつの時代も、その当時の常識、世間体のままにいれば、やはり枠にはめられた凡人と言いますか、未知なるものへの探求心と行動は鈍るかと思います。
だから、マルセイユタロットの製作者たちは、「愚者」のカードとその姿に、私たちへの意識の変革を促そうと託したのかもしれないということです。「愚か者」と思われるくらいにならないと、本当のところはわからないし、今の自分を超えることはできないよ、と。
人間、思えば、バカになることは、実は難しいものです。他人をバカにすることは結構するのに、自分がバカになること、バカだと思われることは、プライドが許せないし、感情的に不快なのです。
でも、よく言われるように、バカは最強です。創作の世界でもバカキャラは実は強キャラであり(笑)、恐れもプライドもなく、何も知らないので、ある意味、最強なのです。
ところで、ソクラテスの言葉として有名な「無知の知」というものがあります。正確にはソクラテスの言葉というより、ソクラテスのことを記したプラトンからのものと言われますが、ともかく、この言葉も、「愚者」と関係すると思います。
「無知であることを知っていることが、本当の知の始まりになる」という意味でもあり、また、結局は、無知であることを自覚すると、自分を真の知に向かわせることを示唆する言葉と言われます。
この言葉に関連するソクラテスのエピソードとして、デルフォイの神殿とその神託があるのですが、そのストーリーは省略するとしましても、デルフォイの神殿の入り口に掲げられていたとされるもののひとつが、「汝自身を知れ」という文言であったと伝えられています。
※ちなみに、マルセイユタロットにはアルカナナンバー2としての、神託を得そうな、巫女的な女性のいるカード「斎王」もありますし、ナンバー16には「神の家」という、神殿そのもののようなカードもあります。さらには賢者として見える「隠者」も、ナンバー9として控えています。
この言葉は、グノーシス的にも非常に重要なものですが、(これはあくまで、ひとつの仮説・見方ですが)マルセイユタロットの中にグノーシス思想があると考えますと、「愚者」というカードの存在は、極めて意味深いものだと思います。
私たちは、まずは「何も知らない」と思うこと(知ること)であり、そしてそれは、裏を返せば、実はすべてを知っているからそういうことにもなるのです。
禅問答のような話ですが、マルセイユタロットの「愚者」とその他の大アルカナを見ていますと、実感してきます。
なぜ「愚者」は旅姿をしているのか? ここにもヒントがありそうです。
ちなみにタロットの種類によって「愚者」のカードの絵柄は違いますが、それはそのタロットの目的によって変わるからであり、マルセイユタロットの場合は、「愚者」という名前ではありますが、実際の「愚者」に描かれている人物の絵はフラフラとはしておらず、しっかりと大地を踏みしめて歩いているところが、例えば、ウェイト版などの「愚者」とは違う点だと言えます。(ウェイト版とは人物の向き・方向性も逆です)
「無知の知」の自覚を通して、真実の知は私たち自身の中にあると知るのでしょうが、そのような精神的・哲学的なことだけではなく、現実の地上世界を旅する理由も、「愚者」にはあるのだと考えられます。
そして、その旅人とは、ほかならぬ私たち自身、あなたの姿なのです。
皆さん、「愚者」になって初めて、真実の旅が始まることを自覚しましょう。
逆に言えば、自分は知識がある、賢い、わかっている、えらい、ほとんど経験した・・・などと驕っていたり、どうせ私はこの程度とか、しょせん、何もできない人間だとか・・・自己を低く見たり、投げやりだったりしている時は、真実の世界ではなく、いまだ幻想の世界に生きている(旅をしていない)と言えるのです。
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