あこがれの人、モデルの人

誰かにあこがれそういう人になろうとすることは、自身の進歩と向上につながりますし、具体的目標があってよいことではあります。

しかしそれが行き過ぎて、もはや信仰や崇拝にまで変わってくると、今度は逆に自身を縛る人になります。

その人のことを全部肯定し、間違ったことは言うはずがないとなり、その人が自分にとってあらゆるルールになります。

そうすると、結局、自分を支配する人に変わることになります。

この弊害について、普通に考えればわかりますが、あこがれの対象の人が悪いのではなく、あこがれている側に問題があるわけです。(ただし、人によっては、あこがれられる側に問題があることもあります)

あこがれの対象になっている人は、ある意味、勝手にあこがれられ、勝手に支配する人にさせられているのです。

心理的には、あこがれの人が、自分の父親や母親、兄や姉のような、家族関係で問題となっていたり、理想にすえていたりする人の肩代わりになっている場合もあります。

また、パートナーや恋人になる人だと、夢想してしまう人もいます。

繰り返しますが、これはあこがれられる人の問題ではなく、あこがれるほうに問題があるのです。

ですから、自分が誰かにあこがれていると思った時、それが過度になっていないか、崇拝にまでなっていないか、自分の考えや行動が、その人を通してでないと(基準にしたり、想定したりしないと)できなくなっていないか、見直す必要があります。

ただ、過度のあこがれになってしまっている人の場合、自覚ないことが多く、自覚ないからこそ、妄信にまで来てしまっていると言ってもよい状態なので、友人や家族などから、注意を受けたり、何か行き過ぎたことの示唆があったりした場合は、反発したくなる気持ちを抑え、我が身をふりかってみるとよいでしょう。

今回述べていることは、マルセイユタロットで言えば、「悪魔」のカードに関係します。

「悪魔」は、自分のモデル・目標として、よい意味で働いている・設定されている場合は、エネルギーを与え、現実的にもよいほうに作用して行きますが、崇拝・教祖に変わると、あなたを縛り、支配する存在へと変貌します。

「悪魔」のカードにはつながれた人が描かれていますが、まさにその状態です。

このつながれているひもは、よく見ると、緩いロープであり、悪魔側からはきつく強引に縛っているわけではないのです。

むしろ、ゆるゆるなので、抜けようと思えばいつでも抜けられるわけです。

それをきつい縛りにしているのは、つながれている側の人間です。(マルセイユタロットの「悪魔」のカードでは、つながれている人は、もはや動物的になっていますが)

「悪魔」は、よい意味でモデルとなっている場合は、つないだひもを通して、前述したように、エネルギーをつないでいる人に送ります。

実際的には、エネルギーだけではなく、その人の技術とかスキル、精神などの伝達、注入もあるでしょう。

経済的に成功していたり、有名人であったり、精神的に余裕があったりする人が、モデルとなりやすいですが、良心的なモデルとなる人は、たとえカリスマ性があっても、慕って来る人、モデルとして自分を見てくれる人には、ファンへの恩返し、プレゼントとして、自分の一部をその人たちに与えていくことでしょう。

ファンとアイドル、サポータと主人公みたいに、応援され、あこがれられることで、「悪魔」(よい意味で)としての人物は、ますます力を発揮することになります。

悪い「悪魔」の場合、応援されるエネルギーを悪用したり、意図的にしろ(意図的なのがまさに悪魔的ですが)、無意識にしろ、奪ったりします。

ここでいうエネルギーとは、サイキック的には生命力のこともあれば、現実的にはお金や時間ということもあります。

ちなみに「運命の輪」のスフィンクスと「悪魔」は、同じ色をしているマルセイユ版があるのですが、これにもやはり意味があると考えられ、ネガティブに見ると、人の運を奪うような存在でもあり、いずれにしても、人の運命を強烈に変えていくような力を持つと言えます。

このように、「悪魔」というものは、人のエネルギーを奪うようにも見えますが、つながれる側をもっと主体的にして考えれば、結局、「悪魔」をどう扱うか、実際的に言えば、今日のテーマともなっている、あこがれやモデルの人に当たるわけですが、その人をどう見るか、どう扱うかによって、「悪魔」はよい存在にも、悪い存在にもなるということです。

「つなげさせられた」と考えるのではなく、「つないだのは自分であり、はずすのも自分である」と見るのです。

※ただし、本当の意味での悪魔もおり、それは通常の力・意思ではどうすることもできないくらいの巨大な力を有している場合もあります。しかしそれとて、自分にある神性、天使の力、輝く光によって対抗することは可能と言われています。人は弱い存在でありつつも、神の力も内包しており、それによって悪魔を超えることはできるとされているのです。

あくまでモデル・目標として、バランスよく、自分自身も律しながら、モデルとして対象へも、盲目的に一面だけで見るのではなく、その人も人であり、悪いところやネガティブな面もあることは、当然として受け入れることです。(それを断罪したり、否定したりすると、また逆に囚われやすくなります)

自分があこがれ、いいと思う人の中には、一見、自分にはないものがあるから、自分とはまったく違うから、惹かれてしまうと思うかもしれませんが、実は、同じものがあるからこそ、惹かれるのだとも言えます。

あなたはあこがれの人と同質の何かがあるのです。潜在的な能力と言ってもいいかもしれませんし、モデルの人とまったく同じではなくても、似たような気質でもって、自分をモデルとはまた違う形で表現できる力です。

だから、あこがれの人のようにはなれないと落ち込むのではなく、あこがれの人の中にある自分と似た部分、核のようなものに気づき、それを自分の中で再発見することです。

それが、あなたの宝です。

それがわかれば、自分の真の力が出てきて、たとえあこがれの人のようになれなくても、自分に自信が持て、自分なりの道や表現で、充足させていくことができます。

あなたには、自身にふさわしい「悪魔」がいるのです。悪魔という言葉にだまされ、悪魔の力を否定・拒否せず、自分の内なるものに取れ入れ、よい意味で、悪魔の力を復活させましょう。

すると今度は、あなたが誰かのモデルとなり、その力をまだ発現できていない人に対して、たいまつの火を与えていくことができます。

マルセイユタロットの「悪魔」が持つ「たいまつの火」は、偽物という象徴性もあるにはありますが、それには、本物の光を発見するプロセスとしての火があるのだと見ることもできます。

悪魔といえばサタンという名が浮かびますが、サタンもその昔は、ルシファーとして天使であったと言われています。ルシファーは、つまりは「」です。

本物と偽物、これらは実は深い関係や示唆に満ちていて、優れた偽物は、いいかげんに本物を示すよりも、本物を知る手がかりになるのです。

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