想念の世界と現実世界

いくつかある私の趣味の中で、アニメ鑑賞は結構な割合を占めておりますので、ここでも、度々、アニメの話題になることはご容赦ください。(苦笑)

最近見たアニメのうちで、よかったもののひとつに、「裏世界ピクニック」というものがありました。

女子大生が異世界というか、裏世界にピクニックに行くという話で、これだけ聞くと何やら楽しげな、ライトな作品のようにに思えますが、内容は結構ホラー的な要素が多く、怖いといえば怖い作品です。

まあしかし、“ピクニック”と題名についているように、主人公ふたり組の会話や、ちょっと百合っぽい(笑)友情に和まされ、気軽な感じも、やはりあります。

さて、この作品では、巷に流れる都市伝説のようなものがモチーフとなっていて、実際に都市伝説として存在する話からヒントを得て、裏世界の演出がなされているようです。

ちょっと前のアニメ作品に、「虚構推理」というものがありましたが、この作品では、事実かどうかよりも、人々がその話をどう信じるか、思うかのほうが重要というテーマの話がありました。

ふたつの作品から、私たちの思いの力というか、想念が生み出す世界というものが浮かびます。

これは生きているうちには確認できないので、何とも言えないのですが(笑)、いわゆる死後の世界は、同じ波動とかレベルものが集まり、思いがすぐに現実になってしまう世界であると聞きます。

ここでいう現実とは、私たちの生きている世界の、物理的な現実というより、主体の想念が相対化されると言いますか、思ったことが叶ったように見えてしまう世界になるという感じの現実です。

幸いでもあり不幸でもあるのですが、私たちの生きている世界は、思ったことがすぐ現実にはなりませんし、人それぞれがバラバラに自分の思いや願いというものを内面に描いています。もし、それらがすべて現実化したのなら、とんでもない、非常に混乱した世界になってしまいます。

それが死後の世界では、物理的・時間的障壁がなくなり、イメージの世界に住むみたいな感覚で、人の想念と自分の想念の世界が同居し、その中に漂うようなものとなるのかもしれません。

まあ、あちら側では、だんだんと自分と他人の境界線もあやふやになっていくと考えられ、だからこそ、自分のも人のも、想念がそのまま表れても混乱はないのだと想像できます。

それで、タロットの世界も、言わばイメージとか想念の世界に近いものだと考えられます。

ですから、タロットの種類によって別々の世界があるとも言え、それは現実(私たちの認識する、生きているこちら)の世界とも無関係ではないように感じます。

例えば、同じタロット(種)を扱う人が増えれば増えるだけ、想念世界での、そのタロットワールド(タロットの国、タロットの神殿・住人)も強化されるのではないかと思えます。

ただ数だけではなく、質もあるので、現実の人たちの、そのタロットへの思いや扱いの度合い、性質によって、想念世界のタロットの国も変化し、そしてまた、そのタロットの国から、現実の私たちの世界に影響も及ぶのだと思います。

結局、「類は友を呼ぶ」の法則ではないですが、同じタロットと言っても、タロットの種類とか使い方によって想念の世界も異なり、こちらとあちらの相互作用によって、ますます現実でのタロットのエネルギーと言いますか、性質も決まってくるように感じます。

話がアニメに戻りますが、「裏世界ピクニック」のよいところは、日本アニメと言えば、かなりの面で、お約束のように高校生が主人公であり、その年代環境が舞台設定としてあるのが多いのですが、「裏世界ピクニック」は大学生で、ほかに大人がまあまあ出るので、ちょっと変わった感じで新鮮でした。

また「裏世界ピクニック」の二人組の描写によって、怖いところでも、一緒に探検してくれる友人がいると、案外、人間って、冒険したり、チャレンジできたりするものだと改めて思います。

タロッテイストは、ある意味、いつも裏世界に行っているようなもので、「愚者」の絵にあるように、犬のようなパートナーとも一緒なのだと思うと、ワクワクするものでもあります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top