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自分は正しい病
特に私を含めて男性にはありがちなのですが、「自分が正しい」病に陥ることがあります。
これはタロットでいえば「正義」(逆位置)のカードがよく表しているのですが、とにかく「正しいもの」を求めることを第一とする態度です。
このような姿勢でいると、考え方が「正しい」か「正しくないか」のふたつにひとつになってしまいますので、何事も決めつけ調になりますし、とかく何にでも批判気味となります。
批判は不満を呼び、正しくないことを正そうとし、ひどくなると行動をもって世の中にぶつけ出します。
もちろん正義は悪いわけではないのですが、この「正義病」のような自分を正当化することにとりつかれてしまうと、自分がある位置に固定したままとなって、進歩が止まる場合があります。
もうひとつ、正義の味方、ヒーロー(ヒロイン)みたいに自分を置いてしまうことも問題となります。人助けすることに酔ってしまうタイプですね。
いいことをしている自分を免罪符のようにしてしまい、自分のコンプレックス(葛藤やうまくいっていない部分)を麻薬のようにごまかす作用があるからです。
それにしても、そもそも「正しい」ことって何なのでしょうか。
法律や人道、常識などでそれらが規定されていたり、わかったりすることもありますが、意外に正義というものはわかりにくいものです。
国や時代によっても正義は大きく変わってきます。戦争時、相手国の人をたくさん殺せば賞賛されますが、通常時では殺人鬼です。
極端な例をいいましたが、とにかく自分が正しいと思いこむことは危険だということです。
「あんた、間違っているよ」といわれると、人はつい、カーとなったり、偏屈になったりするものですが、すぐ反論せずに落ち着くことをまずは自分に言い聞かせ、相手がなぜそのような主張をするのか分析したほうがよいです。
主張や論より、それを述べている人間に興味を持つと正義病から、ちょっと解放されることがあります。
正義病は二者択一の世界に生きていますから、何事も決めつけないと心が落ち着かなくていらいらします。グレーゾーンでもいいこと、第三の道があることがなかなか見えてこなくなります。
そういう意味でも、正しいことにこだわり続ける状態から少し視点をずらしていくことを始めると、今よりも余裕のある人生に変わってくるのではないかと考えられます。
時間の回転は傷を和らげる。
人は生きていれば、本当に傷つくことは多いものです。強い時ばかりではありません。
仕事・恋愛・家庭・・・様々な場面。
自分が悪いこともあれば、突然のアクシデントなどで一方的に傷つくこともあるでしょう。
しかし、有り難いことに、私たちは時間が流れる世界に生きています。
時間をを表すタロットカードに「運命の輪」があります。
「運命の輪は」、その名が示すとおり、輪であり円です。
これに反して直線的なものはストレートです。直線は時には刃物のようなキツさをもって、私たちに迫ってくることがあります。
円は丸く、回ることによって時間がかかります。相手に届くのも、自分に届くのもぐるりと円周を回らねばなりません。
もどかしいことはありますが、ショックを受けたり、傷ついた時は円が逆に緩衝材となって、ダイレクトに響くことを緩和します。エネルギーが丸いものに沿って流れざるを得なくなるからです。
ですから、時間の回転は心の癒しにつながるのです。
最近とてもつらいことがあったとしても、時が回っていくことで、何度もの時間の回転で、最初起こった時の強烈さは違った形であなたに届けられるようになります。そしてまた、ショッキングな出来事も別の思いで見られるようにもなります。
このように、「運命の輪」はただチャンスや時流に乗るということだけではなく、緩衝材や緩和していく効果として時の回転を見ることができるのです。
今心が痛い人も、つらくてパニック状態かもしれませんが、時が必ず解決してくれるようになります。少なくとも時間はあなたの味方となって、傷を和らげてくれることでしょう。
「吊るし」と「悪魔」の隠されている手。
タロットカードの大アルカナと呼ばれる22枚のカードは、そのほとんどに人物が描かれています。
そして「人」ということは、当然手足もあるわけなのですが、不思議なことにあえて「手」を隠しているカードがあります。
それが「吊るし」(他のカードでは「吊され人」とか「吊された男」)と「悪魔」です。
「吊るし」の人物は逆さまに吊られた状態で、手は後ろ手になっていますので手が見えません。おそらくほとんどの人がこのカードを見た時思うように、手も縛られているのではないかと想像できます。
しかし、カモワン流の解釈ではこの「吊るし」の人物は吊されているのではなく、自らが好んでこの姿勢をとっているとしますので、手もまた自分から後ろにして結んでいるのかもしれません。
一方の「悪魔」ですが、このカードには悪魔と思われる人物と、その悪魔を崇拝しているかのような二人の裸の者たちが描かれています。
手が見えなくなっているのは、悪魔ではなく、つながれている二人の人物のほうです。
この者たちはともに悪魔を見て、心酔しきっているかのように笑みを浮かべています。
二人がしている後ろ手状態は、やはり「吊るし」のように縛られているようにも見えますし、手を表に出さないことが楽しく、自然にさせられているようにも感じます。
手はいろいろなことを象徴します。
手先を使うということで、カードの「手品師」(ほかのカードでは「奇術師」「魔術師」)にもいえますが、「仕事」を表すこともありますし、そこから個性・パーソナル、その人そのものを示すこともあります。(仕事が人を社会的に表すことがあるからです)
また手を使うことは文字通り、手段ともとれますし、印を結ぶということなどからも呪術的な意味合いもあります。手当という言葉からも、治療やヒーリング的な行為を表すでしょうし、手当はまさに手当として働いた報酬・お金を意味することもあるでしょう。
さらには手は五感の刺激を受け、全体を把握するための有効な装置となっていますので(手でさわって感じるように)、手の自由を奪われるということは、まさしく人としての自由を奪われるのに等しいともいえます。
罪人を拘束するのに手錠が使われていることが何よりの証拠でしょう。
こう考えてみますと、現実世界で生きる私たちにとって、手(の自由が利くこと)はいかに大切かということを物語っているといえましょう。
その手をあえて隠している、あるいは隠されている「吊るし」と「悪魔」のカードは、いったい何を私たちに示唆しようとしているのでしょうか。
ここで「吊るし」と「悪魔」の二枚の手の隠され方に注意してみる必要があります。
「吊るし」は自ら吊るし状態を選んだ人物だとお話しました。ということは、後ろ手にしているのも、自分の意志だと考えられます。
それに対し悪魔につながれている二人の人物は、自分からということもいえるかもしれませんが、どうも悪魔の影響によってそうせざるを得ない、そうさせられていると想像できます。
つまりは自らと他者からの違いです。
手をあえて使わないようにする、使われないようにするということは、結局先述したように個性や自由を奪うことにはなるでしょう。
しかしハンディとも思えるある縛りをかけることで、逆に見えてくるものもあります。また自分が個性だと思っていたものはわがままな我であって、それを抑えて物事を観察することも時には有効かもしれません。
それらが「吊るし」のほうのひとつの解釈です。
反対に「悪魔」は、手で反抗できないほどの影響力、自然に従ってしまうような(好きになるような)力を持つことをいわれているように感じます。その点では「力」のカードと共通している部分もあるのです。(カモワン版を学習した人は、「力」と「悪魔」にはもともとあるシンボルで連繋していることを知っているはずです)
またあれこれ手を出すのではなく、悪魔という大きな存在に導いてもらいつつ、自分で手鎖をはずす事を学んだり、気付いたりすることも示されているともいえましょう。
こちらは自分の個性に気が付いていなったり、自分が何をしていいのかわからないような人には参考になる方法でもあるといえます。結局は自分の自信や本当の自分の良さに気付くための仕掛けでもあるのです。(以前の悪魔の記事 も参考にしてください)
けれどもここで述べたのは私のひとつの解釈に過ぎません。もっと別の多くのことを思い起こすことも可能でしょう。
この二枚は、ほかのカードの中でもネガティブに考えてしまいがちのカードでもあります。
隠された手のこととロープの象徴に思いを馳せながら、できるだけポジティブなことも想像していくと、人生そのものへの効果的な訓練になるかもしれないのです。
「正義」のカードで、責任のバランスを考える。
タロットカードに「正義」という名前のカードがあります。
このカードに描かれている人物が天秤をもっているところから、ひとつの意味としてはバランスを象徴しているカードともいえます。
私がタロットの相談をしていて思うのは、問題のほとんどはバランスがとれていないことにあるということです。
その中でも今回は、責任のバランスということについてお話したいと思います。
私がデパートの占いの館に出ていた時によくあった相談ケースなのですが、親が子供のことを心配するあまり、本来子供自身が持つべき責任までも介入してしまい、親子の間でバランスを崩してしまっているということがありました。
具体的なことでいえば、結構いい年になっている子供の進路、結婚・恋愛、就職までも親が責任をもとうとしていたのです。
「私が決めてあげないといけない」と子を思う親心がそうさせるのでしょうが、年少の頃ならともかく、ある程度の年齢になり自分で物事を決められるはずの子供に対して、その人生に大きく干渉することは、子供と自分(親)の人生における責任配分を誤らせているといえます。
こう考えてみましょう。
親も子(とくに大人になった子供)も、それぞれの人生には、それぞれが100%の責任を持っているのが正常な配分だといえます。
しかし、本当は自分の人生ということで子が100%責任を取らねばならないところを親が介入し、子の責任分まで取り上げてしまうと、たとえば子が30%、親が70%という配分になっていることもあるのです。
そうすると、一見、子の負担分を減らしてあげたと親は感じますが、それは錯覚であり、その分だけ子の成長する部分や人生で味わうはずだったパートを子から取り上げてしまったことに気がつかねばなりません。
過保護が実は意味的には虐待みたいなことにもなりかねないのです。
責任の配分と言ってはいますが、それは何もネガティブなことではなく、正常に受け持つ部分であり、結果的に楽しみであったり、経験や資源になったりする分ともいえます。
親子ということで親側が子の部分を削る話をしましたが、この逆のこともあります。(親が本来責任を持たねばならない部分を子が余計に負担してしまうケース)
また親子という関係だけではなく、夫婦、恋人、友人、職場の人間など、あらゆる両者の人間関係に見られることです。
自分が責任を取りすぎているか(自分が過剰に負いすぎているか)、あるいは本来取るべき責任を減らしていないか(相手に押しつけていないか)をチェックすることは、心のバランスを保ったり、回復させたりすることにもつながりますので、一度試してみるとよいでしょう。
タロットを使った「忘れない」方法。
皆さんもご経験があるとは思いますが、たとえばノウハウ本などを購入して、
「おお、これはいい方法だ。やってみよう」
と思ってみても、いざ読み終わって日常生活に戻ってしまうと、いつの間にかすっかりそのことは忘れてしまい、本を買ったことすら思い出せないことがあります。
結局、そのまま実行に移すことがなく、「読んだ」ということで「実際に行った」と気分的に錯覚しているわけですね。
こういう場合、本を読み終わる→本を閉じる→本をしまうという過程で、「自分がやろう」と思った文章自体、物理的に目に入らなくなったことが意外にも行動に影響しているのです。
情報量の多い日常生活の中で、人はなるべく忘れようとして生きている生き物でもあるからですね。
気にとめることが少ないほうが楽だからです。
ですから、単純にその文章を抜き出して、自分の目に入りやすいところに置いておけば、少なくとも今までより気がつくことは多くなり、忘れることが少なくなるのは確かでしょう。
また本などは文章量が多いので、必然的に情報の量も多くなって、あるポイントで「これはよいな」と思ったとしても、また違う箇所で「こっちの方法も使える」「この考え方もいいよねー」など、覚えておくことができにくくなることもあります。
それでやはりめんどくさくなって、「忘れてしまう」いや「忘れようとする」のですね。
ということで、目につくところに「やりたいこと」や「使ってみたい方法」などを書いて置きたいことろなのですが、でかでかと机の前に紙を貼ってもちょっとかっこ悪い感じもします。(笑)
そこでタロットを使います。
記憶したいこと、是非やってみたいことなどをタロットカードに託して記憶させるのです。
えぇー、覚えるのかぁ、めんどうだよねぇ・・・と感じるかしもれませんが、タロットに慣れていれば覚えるというより、自然に内容とタロットがリンクするようになります。まさに自動反応のようなものです。
そして、実行したいと思っている知識や文章などを、ある一枚のカードに象徴させ、タロットカード(画像でもよい)を目の着くところに飾っておきます。
外出の機会が多い方は携帯の待ち受け画面にしてもよいです。
これには二重の効果があります。
ひとつには、ここで書いてきたように、物理的に「目に入る」機会が多くなるということで、忘れようにも忘れにくくなります。(象徴させたことを実行するかは、やはり本人の意志によりますが)
もうひとつは自分が覚えておきたい内容だけではなく、それを象徴させたタロットカードにおけるほかの事柄(そのタロットが象徴している様々な事柄)も心に染みこんでいくということです。
たとえば、「スピードこそ起業のカギ」というようなことを覚えておきたい時、「戦車」というカードにそれを象徴させてもいいのですが、同時に「戦車」の表す成功や勝利というような事柄もあなたにの中に刻み込まれて行き、成功のためのマインドが呼び起こされていくというものです。
これは願望実現法というより、自分の中にある成功における心のプラスとマイナスのことも出てくるということです。
ですから、この場合、単純にカードを見ていれば成功するということを言っているわけではありません。成功するためのあなたにある問題点も出てくるということを意味します。
しかしながら、そのマイナス部分を見つめ直し、克服することができれば成功に導かれるということでもありますので、結局のところ、大きな意味では願望実現法といってもよいかもしれません。