ダ・ヴィンチ・コード
遅まきながら、というより、ほとんど上映期間終了間際になって、やっと映画「ダ・ヴィンチ・コード」を観に行ってきました。
もはやかなり有名になってしまっていますので、改めて物語の紹介をするには及びませんが、話の背景には、イエス・キリストがマグダラのマリアと呼ばれる女性と結婚をしていて、その子孫(血脈)がヨーロッパに受け継がれており、その血脈を守る秘密結社と、血脈を認めてしまうと正統性が揺らいでしまうカトリック教会側との暗闘がテーマとしてあります。まあ、それだけでも、もし真実なら驚愕の事態であり、もちろん敬虔なカトリック教徒にとっては、一笑にふさねばならない愚かな悪魔の説だと却下されるものでしょうが、こういう話が小説となり、映画となってブームとなり、世界的に広められていくことそのものに、大きな時代の変革があると言ってもよいのかもしれません。
フランスにタロットの上級コースとして行った際、カモワンタロットのグランド・マスターであるフィッリップ・カモワン氏は、「イエスの血脈やマグダラのマリアのことを話をするだけで、命を狙われるほどヨーロッパでは危険なことだった」と語られており、さらにはそれがダ・ヴィンチコードのおかけで、かなり雰囲気が変わってきたことまでおっしゃってましたから、以前は本当に日本人が想像する以上に、ダ・ヴィンチ・コードで語られるような内容は、とんでもないイエス様冒涜話として、危険極まりない話だったのでしょう。
すでに出ましたように、カモワンタロットは、実はこの「とんでもない話」の系統の文化に属する流れをひきついでいるのです。詳しくはタロット大学の中級隠者コースなどを受けてもらえばわかるのですが、簡単にいえば、「二つの相反する要素の統合による魂の完成を示している」のがマルセイユ・タロットであるということになります。その”二つの要素とは何か?”については、端的にダ・ヴィンチ・コードで語られている通りです。
さて、映画の内容ですが。。。正直、映画の出来として今ひとつですね。いや、そもそも推理小説としてのダ・ヴィンチ・コードは三流ともいえる内容だったので、その原作に忠実に製作されていた映画もだめみたいに感じます。あれでは、西洋の密儀や神秘性もよくわからないですし、インパクトもありませんし、何が何やら・・・というのが皆さんの感想ではないでしょうか。前もって本を読んで予備知識がないとつらいでしょう。何だかもったいない気がします。また、ソフィー役のオドレィ・トトゥはなんだかイメージ違いますし、ラングドンのトム・ハンクスも違和感がないわけではなく、さらにはジャン・レノも警部役に合っていたかどうか・・・(本人は努力していたようには思います)でした。
ただ、南仏へ行き、マグダラのマリアの頭骨が埋められているという教会や、マグダラのマリアが籠もって修行したといわれる洞窟まで訪問した身としては、マグダラのマリアの遺骸が隠されているというシーンには、どうしたわけか涙が出そうになってきました。もはや、「マリア様」とお呼びしたくなるような敬虔な気持ちになります。これがタロットをしている者の宿命でしょうか。実際、マグダラのマリア様のような女神的存在に守られているような感覚は、確かにタロットをやっているとなんとなくですが、ありますから。