タロットによって「神は在る」と知る。

皆さんの中に、「自分は取るに足らない人間だ」「大した価値もない」「特別な能力も何もない」・・・と思っている方はいませんか。


まあ、そうしたことを意識したり、考えたりすることすらしなくなっているかもしれませんが。ともかく日々普通に生きられて、何事もなく過ぎて行けばそれでよしと。


もちろん何気ない日常と日々大きな事件もなく無事に過ごしていけることは、とても「有り難く」、感謝を持つべき事柄だといえます。


しかし、自分の価値を貶め、または何も自分について考えもせず、ただ流されていくだけの人生は空しいものでしかありません。


ところでカモワン版マルセイユタロットにはグノーシスという教えが込められいます。これは簡単にいえば、「自分の中の神性を知る」「自分が神であると知る」というものです。


人は神に等しい崇高な部分を持つのです。


ただそんなことを言っても、現実的にはとても自分が神であると感じられないのが当たり前です。「自分は神だ」なんて言ったら、頭がおかしい人、何かにとりつかれた人と見られるでしょう。


また人間とは弱く悲しく、または傲慢で醜いものだと感じている人もいらっしゃるでしょう。


それでも私はタロットをやっていて、人と神性について、「はっ」と感じさせられたことがあります。


タロットカード大アルカナ22枚には心の元型、自分の分身としてのパートが描かれていますので、その中の一枚が表す事柄は自分の中にも存在していることになります。


たとえば「私には人を思いやる気持ちもないし、人を癒すなんてとんでもない」と考えていても、22枚のうちに「節制」というカードがあるのなら、自分にも「節制」のカードが示すような「人を救済する天使」のような部分があるのだと思うこともできるのです。


恋や仕事にうまく恵まれないと思っていても、それらと縁を持ち、うまくやっていくことの能力も、たとえばタロットカードの中に「手品師」や「恋人」のカードがあることで可能性としてはあるといえます。


つまり、「神」とはすべてのものが「在る」状態だと仮定するのなら、グノーシス的にはあなたにもすべてが「在る」と考えられるわけです。


その「在る」ということを認識する(知る、わかる)ことができれば、神(完全性)に近づくことができるのです。


「在る」ことを知るには、「無い」「足りない」と感じられる経験もまた貴重となります。


「無い」と思うことで、それは「在る」状態を知らないという「幻想」ではないかと気付くこともできるからです。何もしなければ「無い」ことすら感じることもできないでしょう。


「無い」と思わせる幻想は強力です。時には「悪魔」(タロットカードの「悪魔」にも関係します)によって、知らず知らず意識しなくても「幻想」でつながれていることもあります。(悪魔は悪いものというより、そういう「役割」だと考えてみましょう)


「在る」ことに気がつくのは、結構大変です。「青い鳥」の話のように、回り回って結局自分にもともと「在った」ことに気付くこともしばしばです。


「在る」ことに気付くこと」 そのためにグノーシス思想が込められたタロットカードを使って「在る」ことを実感していくのです。タロットカードにはそうした仕組みがあるのだと私は考えています。

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