この世界での生き方それぞれ

私はマルセイユタロットの講座で講師をしている身ですので、教える側になっていることが多いです。

しかし、教えられる側に立つこともあります。タロット以外の分野では、むしろ教えられることばかりです。(笑)

そうして、今も教えられる側に回り、いろいろと学んでおりますが、各種講座などで学びに来られる方々を拝見しますと、皆さん、意識が高いと申しますか、ご自身の成長や発展、特に成功しようという気概にあふれている方が多いように思います。

学んだことを即行動に移す人もいて、その行動力・実践力・熱意のすばらしさに感嘆することもしばしばです。

昔は、私も一般的に言う成功などを考えて学んでいた時もありましたが、いつからか、その目的は薄くなり、私の魂的な部分では、それを求めていないこともわかってきました。

ただ、これはルサンチマン(弱者・負け組の、強者・勝ち組に対するネガティブな感情)から来ていることもあるにはあると思います。それでも、さらにその奥まで探求していくと、もっと別なものも出てきたわけです。

それが、私にとってはグノーシス的なことでした。一言で言えば、この世の矛盾と言いますか、おかしさ、あえて過激に表現しますと、“狂っている”部分に対する嘆きとここから脱出したい精神と言えましょうか。(グノーシス的にもっと言えば、これは人の認識レベルの低さに原因があり、別の世界があるというより、今の世界において、真の世界への認識がなされていないと取ります。認知の違いよって世界は変わるわけです)

常識的に見て、人がこの世界で幸せになるためには、精神と物質両面からのアプローチと考えがありますが、どちらかといえば、物質的なもの、もっと言えば経済的なものが充足していないと、なかなか精神的なものだけでは幸せを体感できないと思います。

とすれば、経済競争のシステムの中で、どうしても勝ち負けという構造の中で暮らすしかありません。今の経済システムは、商品やサービスを、金融を媒介にして、売り買いするというものなので、そこに競争原理が働くことは絶対の法則みたいになっています。

商品やサービスの売買だけではなく、人が採用されたり、認められたりするのも、勝ち抜く競争です。少ない席を争って獲得するシステムだからです。

そうすると、もともとある才能と、努力して得た知識・技術・情報などで、その椅子取りゲーム、勝ち残りゲームみたいな優劣と言いますか、勝利が決まって来るとも言えます。

ほかに、不確定要素の「運「とか「縁」「タイミング」のようなものも入るかもしれません。

これらは目に見えないものであり、自力で完全にコントロールできるものではないので、こういう不確定なものがあるのも、またある意味、この世の矛盾さや難しさを増していると言えます。

ともあれ、不確定要素は当然としても、目に見える要素や、ある程度、自力コントロールが可能な物質的なことだけでも、それらが他者より優れているようになる(する)ためには、簡単なことではないのが普通です。

そこで、多くの人は、勝つためのモノか能力、情報を入れる自己努力をするか、悪人は、努力ではなく、他者から奪うことをします。

どちらにしても、勝利のためであり、それが自分(と近しい人)を幸せにし、自由にすることになるのだ信じているからです。いや信じているというより、実際のシステム・社会の構造として、そのようになっている現実があります。

ですから、私たちの学びのほとんどは、この価値観やシステムに則ってなされています。

精神やスピリチュアルな学びでさえ、結局のところ、私たちの現実世界でどう生きるか、どう生きやすくするかのテーマから、完全にはずれることはできませんので、求める幸せというものが、つまるところ、成功系の学びと本質的に等しいものになってくることが多いです。

こういうことで悩むこと自体、現実逃避と言われ、どうしようもないことに悩むより、現実を直視し、幸せになるため、成功するため、そこまでいかなくても、少しでも楽になるため、生活を工夫しましょう、仕事で成果を上げましょう、自由な暮らしを手に入れましょう、そのための努力しましょう、とたいていの学びや教えはなっていくわけです。

成長するとはどういうことか? 発展とは何か? スピリチュアル系でも、私たちは進化すればするほど、物質と精神は豊かになり、自由さが増え、になり、人生は楽しくなると説きます。

果たして、本当にそうなのか、そして、そのようになることが人の成長だと言えるのか? 根本的な疑問がある人間もいらっしゃるのではないでしょうか。そのうちの一人は私です。(苦笑)

ところで、最近、サンダーボルトファンタジーという人形劇を視聴しました。

その主人公が言った言葉がなかなか興味深く、先述したような悩みにある私にも、一筋の希望を与えてくれた気がします。というより、前々から考えていたことを後押ししてくれた感じです。

それは、こういうセリフでした。

「弱いから負けて死ぬ、強いから勝って生き残る そんな単純な天秤で世の中、回っていると思うのがそもそもの間違いだ。勝ったやつが生きるのは当たり前、だったら負けてなお生き延びたやつは、さらに強いのが道理だろ?」

これはいろいろな解釈が可能だと思いますが、私には、この世の矛盾は矛盾で認めつつ、こういう世界でも何とか自分なりに生き切ったやつは、別の意味で勝利者になると取れました。

つまりは、この世界は勝ち負け、いわゆる「勝利者」が成功であり、それになるのが第一の価値観と目的であるのなら、同じ「勝利者」としても、別の観点からの勝利者もありなのではないかということです。

言ってみれば、勝利者という言葉を逆手に取り、この世界を創ったものからすれば、「ほほう、その手で来たか、それも実はありなのよね」と言わしめるやり方(生き方)の選択というやつです。

そういえば、私は小学生の頃、ドッチボールで比較的最後まで残っている口でした。

と言っても、ボールを受けたり、投げたりするのがうまいわけではなく、むしろボール扱いは下手でしたが、とにかく逃げること、ボールに当たらないことに徹していたため、結果的には最後のほうまで残っていたわけです。

まあ、ドッチボールの場合は、相手コートにいる人物にボールを当てないとチームの勝利にはなりませんから、逃げてばかりでも、勝つことはできないのですが。(笑)

それでも、逃げているうちに、ゲームそのものが時間切れということもあり得ます。休み時間でドッチボールをしていたら、チャイムが鳴って、やむなく終了、残った者が多いグループの勝ちとなることもありますよね。

ドッチボール、ダジャレ的に言いますと、どっちのボール、どっちの勝利(どんな形の勝利)を取るかによって、ゲームの楽しみ方も変わって来ると言えます。

逃げまくりの人生や、一般的な意味での成功や勝利、幸せの状態を必ずしも目指さない生き方に価値を見出すことも可能かもしれません。

常々、「この世界は、あるゲーム」だと、考察すれはするほど、私は思うようになってきておりますが、やはり、この世はゲームだと想定するのが、いろいろな意味で一番納得できる気がします。

あと、私は、ものすごい努力したり、頑張ったりできる人も、一種の才能ではないかと考えています。

さら言えば、実際的な意味で、向上・成長・成功へ向けての活動を、熱心に取り組むことのできる人も才能かもしれません。

もちろん、そうなれないブロック要因を心理的・技術的に分析・修正・改善して、前向きになっていくことは可能でしょう。

しかし、そんなに頑張ることができない、それができれば苦労はないなど、いわゆるメンタルが弱いとか、実行力がないとかで指摘されるようなこと(人)がむしろ普通で、言い訳のように聞こえてしまうこともあるとは言え、多くの人はそうそう努力できるものではないとも、正直思うのです。

みんな、心が強いわけではないでしょう。それなのに、ある種、酷とも言える世界のシステム・状況の中で生きている、本当に皆さんよくやっていると感じます。

とでも自己責任や自己努力だけの問題で、片づけられることではないと思います。

モブや雑魚と呼ばれるようなキャラでも、自分自身であれば、誰しも主人公にほかなりません。

ですから、自分の生き方は自分で決められる部分はなるべく決めて、自分の中で納得していれば、世の中や他人の価値観では負けていたり、失敗していたりしていても、この設定されたゲーム世界を生き切る、ゲーム世界を体験しながら何とか時間切れまで逃れ切る(というゲームの楽しみ方に自分で変えて)、そのように暮らして行くのも、現実という矛盾世界に折り合いをつける方法のひとつかもしれません。

もちろん、ゲームの一般クリアー方法と言いますか、楽しみ方として、この世界を享受して成功や幸せを“勝ち取る”生き方も、ゲームのノーマルな楽しみ方だと思いますので、それを目指すのもよいでしょう。

そう思うと、マルセイユタロットの「恋人」カードの意味も、また面白くなってきます。

そして、私のマルセイユタロットセッション(リーディング)と講座は、この世界での、あなたならではの過ごし方を見つけ、この世界の脱出を真には目指すものと言えます。

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