時間 量と質

マルセイユタロットの「運命の輪」のカード。

このカードは、「時間」を象徴するカードとも言われます。

ところで、時間にも種類があることはご存じでしょうか?

その分け方にはいろいろとあると考えられます。例えば、占星術的に見ると、それぞれの惑星を主体とする時間があると言えます。木星の時間とか水星の時間とかという感じです。

そもそも時間は惑星の回転によるところがありますから、そのような観点もありかと思います。

そして私たちは当然ながら地球時間に生きており、基本は地球が自転する時間と、太陽を公転する時間の周期、つまりは一日と一年と言えます。また月を考慮すると、厳密には今の月単位とは異なりますが、月の時間も示されます。

もし自分が他の惑星の住人だとした場合、やはり、その惑星主体の時間に支配されることになり、見方や考え方も地球とは違ったものになることが予想されます。

地球にいること自体が、私たちの生活の特質を決定づけていると言えるかもしれません。

その地球に住む私たちでも、ほかの時間の分け方を考慮すると、不思議な感覚にとらわれます。

それは、先ほど述べた自転や公転周期による時間単位とは異なる、個人の精神に流れる時間があるということです。

ギリシア神話風に言いますと、時計で計れる万人共通のクロノス時間と、人によって異なるチャンスやタイミングのようなカイロス時間です。

「運命の輪」はどちらも象徴していると考えられますが、やはり、このカイロス時間の象徴性を見るほうが、よりこのカードの本質を表しているのではないかと個人的には思います。

今、世界はコロナ禍にあります。

昨年から始まった新型コロナウィルスによる生活全般の変貌は、どの人においても、これまでよりも変化、というより、辛抱や不自由を感じさせる状況となっています。

次々と現れる変異株とワクチン接種との競争みたいにもなっていますが、重症化することが少ないと言われる若者層が、自由にふるまい過ぎて感染を拡大していると批判されています。

もちろん、社会全体での公共性を見た場合、年齢に限らず、感染対策をしっかりとっていくことは、パンデミック対応としては必要かと思います。

しかし、若者層を一方的に責めるのはどうかと思います。ここで、なぜ時間の話をしたのかと言いますと、それは先述した一人一人の違うカイロス時間的観点からすると、時(とき)は全員に同じではないということを考えてほしいからです。

別に中高年を批判したり、差別したりする意味はありませんが(私も中高年の年齢です(苦笑))、若者たちの一年と中高年の方の一年とでは、質的にかなり異なることを考えたいところです。

青春時代の中学・高校生とか、自由を謳歌できる大学生の年代の人たちの一年が、コロナ禍によって、ほとんど何もできず、我慢を強いられた場合、その損失は中高年の方たちが思うよりも、もっと計り知れないものがあると想像します。

時計時間のクロノス時間で計っていては、その損失感覚はわからないでしょう。

ですから、もはや2年になろうかというコロナ禍での失われた若者たちの時間というものは、精神時間的には一般層の10年くらいの濃さが失われているのかもしれないのです。

そう思うと、彼らのふるまいも、わからないではないところがあります。

若者に限らず、カイロス的な精神時間は、伸び縮みするのですから、それは気持ちにより変化すると言えます。

誰でも苦しい時、先行きが見えない時、絶望した時というのは、時間が長くなったり、(悪い意味で)止まったりしたかのような感覚になります。

反対に、楽しい時、何かに熱中・集中している時は、よい意味で時間がなくなるか、かなり速く進む感覚になります。

コロナ禍で、特に日本において、未来に希望がない、対策も行き当たりばったり、(自然の状態ではなく、人の為すこととして)出口の見えない閉塞感・・・このような状況では、精神的な時間が苦しく、長くつらいものになっているのは当然と言えます。

もし、何かの明るい展望や、きちんとした政策・対策による期限を決めた未来展望を踏まえた制約などがあれば、それは先が見えているので、時間的にもよい意味で制限がかけられ、精神的に短いものとなるでしょう。

つらいマラソンでも、ゴールが見えてくればスパートもかけられ、勢いが出るというものです。逆に目標もゴール何もない状態で、ただダラダラと進めと言われても、同じ時間の経過でも、長時間の拷問のように感じてしまうことでしょう。

これは、コロナ禍の問題だけに限りません。私たちは、(精神の)時間感覚が変えられるように、ある種の設定を行っていくことにより、牢獄のような時を過ごすことを、避けられやすくすることも可能です。

例えば、一年のうちに楽しみの機会を具体的に細かく計画・設定しておくことで、そこまでを目標として、つらいことに当たることもできるかもしれません。

スピリチュアル的には、人は皆同じだという考えがありますが、一方で、多様性といわれるように、この世界では、一人一人、個性を持ち、個人的世界が異なるのだという認識も必要です。

それは、時間ひとつ取っても言えることです。

質と量、この両方でバランスを図っていかないと、私たちはとんだ間違いを犯してしまうことになるかもしれないのです。

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