マルセイユタロットは中立的

マルセイユタロットのよいところは、絵柄が芸術的であったり、特定の人が恣意的に描いたりしたものではないので、(絵柄が)中立的に見えやすいということがあります。

一般的なタロット占いでは、どうしても、吉凶的な意味をカードで見てしまい、カード自体も、いいカード、悪いカードというように種類分けしてしまう傾向が出ます。

もちろん、何事も両面があると考えますと、吉凶が出る(と見る)のも悪いわけではなく、はっきりいい・悪いを判断してもらえるなら、それは結構、現実的な意味で有用な場合もあるわけです。(中途半端に出されるより、実際的な選択がしやすい)

しかし、もう少し深く見て行くと、そういう白黒はっきりつけていくのもどうかというレベルも見えてきます。

まず、吉凶とは、簡単に言えば良し悪しですが、ではそのよいと悪いは、何が基準になっているのかということです。

吉凶を決めているルール、価値のようなものです。

それは大きく分けて、全体的な常識性のものと、個人的なものがあると言えます。

全体的なほうは、いわば一般感覚、みんなが思う一般的大衆的価値観というべきもので、個人的なものは、文字通り、一人一人の個人がいい・悪いを判断する基準(価値観)です。

全体的なものは、人間の快不快をもとに、痛み・苦しみから逃れたいという思いと、もっと楽したい、満足したい、充実感を味わいたいという、言ってみれば欲求から来る価値がもとになっていると考えられます。

お金を得たい、健康でありたい、恋人やパートナー、友達に恵まれたい、注目されたい、有名になりたい・・・などなど、ほとんどの願望は、人間の快不快(肉体だけではなく精神も含む)から出ており、結局、幸福や不幸というのもそこに起因しているように思います。

そして、もうひとつは、その時代における価値観も合わさって来るでしょう。昭和と令和では大きく物事の価値観も違うように、時代やその時の民衆の置かれた状況で、考え方もかなり変わるからです。

いずれにしても、全体的なものは人の共通的価値観と言ってもいいでしょう。

一方、個人は、人それぞれであり、ある人がいいと思っても、別の人には悪いと判断されることも当たり前にあります。こちらはバラバラな(分離的)価値観と言えます。

この全体的・共通的なものと、分離的・個人的なものとの、ふたつのルール・規則のようなものによって、いい・悪いが判断され、決められて行きます。

ルールであるからこそ、これは一種の縛りでもあります。ということは、吉凶、幸不幸、いい・悪いのような二元的判断ばかりしていると、ずっと、先述したふたつの価値による縛りの中で生きて行くことになります。

これは、端的に、マルセイユタロットの「運命の輪」の輪と動物二匹そのものの状態です。そう、ずっと同じ輪の中で、グルグル回り続ける事になります。

ですが、決め事が明確なので、早く決断できたり、情報と判断を的確にしたりして行けば、よい選択をし続けることも可能でしょう。

「運命の輪」の輪で言えば、輪の回転スピードを上げて行くことができるので(回転が速くなる)、物事がスムースに進み、充実した感覚も起きてきます。

ちょうどメリーゴーランドで楽しんでいるみたいな感じとも言えますし、ドライブ好きな人が、快適に運転ができ、自分の操縦と流れる景色に充実感を覚えているようなものとも言えます。

ところが、それはあくまで輪の中の話なのです。ここから出ているわけではありません。つまり、同じ世界とレベルの中で回っているだけなのです。「井の中の蛙大海を知らず」ということわざがありますが、まさにそれかもしれません。

この現実の世の中は、あらゆることが二元(ふたつの性質、ふたつのセットであるもの)で象徴される世界であると、マルセイユタロットからも考えられます。

同時に、二元を超えた世界観もあり得ると想定できます。二元を超えるとは、すなわち一元的な世界です。

それは、現実の今の普通の認識でとらえている(感じている、実感の)世界ではあり得ないものですが、それでも一時的・瞬間的・局所的には至ることもあると想定できます。

私たちの現実世界は、おそらくどこまて行っても二元的なものが連なる世界だと思われますが、たとえ二元が続くにしても、そのレベルは異なるものだと想像します。

同じところに多重の世界があると言えばよいでしょうか。それがレベルを変えて、同じ二元構造で連なっているイメージです。

多重の世界には、レベルの違いがあり、上位レベルと下位レベルでは、まさに世界が異なるとも言えます。

上のレベルに行くためには、今の自分が属している二元世界を超越しないとなりません。それには、二元を一時的に統合して、一元的な境地を体得することが求められます。

到達した一元的世界でも、すぐにまた二元に変わるでしょう。そうしないと、バラエティある、個別世界の現実認識は生まれないからです。

しかし、元の世界より上昇しているため、今までのレベルでの思考・感覚とは違ったものとなり、すなわち、とらえている(感じている)世界もまた変化するのも道理です。

この下から上へと上昇するためには、今も述べたように、従来の二元的世界の認識、つまりは自分の価値観(全体的な一般の価値観も入っています)を統合して一元的なものに変えないといけないわけです。

一元的なものにするということは、これまでのいい・悪いがなくなる状態にするという意味であり、自分が常識的・日常的に思っていた、いい・悪いの選択において、どちらでもあり、どちらでもないと真に見える(思える・感じる)境地となることなのです。

それは、白でも黒でもないので、まさにグレーゾーンとなるわけです。グレーゾーンと言えば中途半端に思えますが、どちらでもないものに戻すこと、グレーにすることで、上のレベルの見方と認識が現れて来ると言えましょう。

スピリチュアルの言葉を使えば、グレーには、アセンション(上昇)の過程のグレーと、停滞・デセンション(下降)のグレーとの、ふたつがあると表現していもいいかもしれません。

話は最初に戻りますが、マルセイユタロットは中立的な絵柄なので、吉凶的、白黒的な二元的価値観に染まりにくいものであり、一元的な世界に導くきっかけにもなり得ることを強調したかったわけです。

マルセイユタロットは、人によっては、平板でつまらない絵に見えるかもしれませんが、それこそが意図的にされていることで、マルセイユタロットの特質なのです。

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