うつ 心の健康

うつ病とタロットカードの「悪魔」

私がうつ病になっていた頃は当たり前ですが、余裕などまったくなく、当時の状況を冷静に振り返られるようになったのは、治ってからのことでした。


そして今、タロットをしていてうつ病のことを思うと出てくるのは、「悪魔」のカードについてです。


うつ病と「悪魔」との間に何の関係があるのか?と思われるでしょう。


「悪魔」はそのカードの名前だけ聞くと、悪いイメージがつきまといますが、このブログでも何回も述べているように、私自身はタロットカードにはいいも悪いもなく、あるいは逆にいいも悪いもひっくるめて、それぞれのカードが表す事柄を象徴させていると考えています。


ということで、「悪魔」にもよいと思えることも含めた様々な面があるわけです。


そのひとつが、「悪魔」は人々の欲求をかなえる存在だということです。


カモワン版マルセイユタロットにおける「悪魔」の絵柄には、悪魔につながれた人物が描かれていますが、その人たちの表情は楽しそうです。むしろ恍惚とさえ言えます。


このことから、この人たち(つながれている人物たち)は悪魔によって自分の欲求が満たされているということがわかります。願いや思いがかなえられた満足感・充足感でいっぱいなのです。


ところで、うつ病にになりますと、人間の欲求というものがほとんどなくなってきます


まず動物的ともいえる基本的なものから減退して行きます。最初は食欲、睡眠欲、性欲などに始まり、やがて物欲、行動欲もなくなって行き、最後には生きることそのものの欲求さえ消失しかけます。


「欲を持つことはいけない」とよく言われます。欲にふりまわされ、人間として崇高に生きることを忘れてしまうからでしょう。


しかしながら、とにかくただ欲だけをなくせばいいというものではないのです。


うつ病がそのことを教えてくれたように思います。


人間、欲がなくなければ、まさに何もする気力も起こらず、生きることが空しくなります。何も変化や刺激を感じないうつ的な心と、心を平穏や静寂に保つということとは別ものだと感じます。


「悪魔」は物事を実現する力にも関係しています。そのパワーの源は、人の持つ欲と言えましょう。


タロットの「悪魔」は人々の欲求をかなえさせると同時に、自らも人からの欲のエネルギーをもらい、力を得ているのです。その力によって、あらゆることを産み(生み)出し、実現していくことができるのです。


ということは、欲を持つことは創造性のエネルギーと結びつくことになります。「悪魔」の絵柄に悪魔を含めて三人の人物がいることは偶然ではありません。


欲を悪いものと決めつけ、無理矢理抑えつけようとしたり、欲を満たすことができず、中途半端のまま不満足な状態で放置したりすると、逆にくすぶる欲によってあなたはコントロールされます


これが、タロットカードでいう「力」の逆状態のひとつです。


欲=悪として、欲を持つ自分を否定したり、清いものだけを見たり求めたりする態度はバランスを失うことになりやすいと言えましょう。

だから欲望をむきだしにしなさいというのではなく、欲があることは生存や創造の力に必要であることを認めて、それをうまく扱うことを修めることが大切だと思います。


ある程度の欲望をかなえていくことで、次第に欲そのものから離れていくようになり、そこで初めて欲を超えたものに関心が行き、いわゆる悟りや霊性の大いなる実現という道へ進むのではないかと考えられるのです。


都合のよいストーリー

よく私たちは、個人でも全体でも「今まで起こってきたことは意味がある」「今起きていることは意味がある」と言います。


そしてそのように語るとき、人はその「意味」というものに、何か神のような意志を感じたり、天命のような使命感のようなものを含ませています。


私はタロットをいつも扱っていますので、そうした考え方にはうなずく点が多いのですが、しかしどこかに疑いの念もあります。


それは結果的に以前よりいい状態になっている人が話すことであり、今まさに苦境にあり、悩み苦しんででいる人にとっては、「そのことに(よい)意味がある」と考えようとしても、混乱するばかりだと思うからです。


私も以前うつ病になり、生き死にを考えるまでになりましたが、そのことでいろいろな気づきと転換はありました。


ただそれも今のように、鬱が治って、自分にとって重要なタロットに出会っているからこそ言えることであり、果たしてうつ病になったことに意味があったのかどうかは、究極的にはわからないというのが正直なところです。


ただ、今起こっている悪いことが、後々に生きてくる学びであるのかどうかわからないにしても、言い方は悪いですが、自分にとって都合の良いストーリーを信じることができれば、後の人生を生きていく希望意義が見いだせるのも確かです。


私はそのこと(自分が納得するストーリーになること)のほうが実は重要ではないかと考えています。


私の例でいえば、それまでの生き方を反省し、タロットに出会って別の人生を歩むためにうつ病になったのだという「自分のスートリー」を「前向きに」信じられるかどうかということになるでしょう。


真実かどうかが問題ではなく、自分にとって信じられ、そしてそれが自分の礎や勇気、生き甲斐、信念のようなものとして存在していればOKだということです。


悪い言い方をすれば思いこみであり、自分で自分を洗脳しているようなものですが、それで生きる勇気と希望、エネルギーが出るのなら構わないのではないでしょうか。


起こった出来事を、いい意味での自分に都合のよいストーリーに変換するには、やはり何らかの客観的な視点が必要です。


タロットの展開と絵柄でストーリーを再構成(カモワン流の展開はこのことを得意とします)していくのもよいでしょうし、ほかの心理的・スピリチュアルな技法や人からのアドバイス、コーチによって自分の視点を変えてもらうのもよいでしょう。


また、今本当に苦しみの中にいる人には、うかつに「そのことに意味がある」と上から目線で、さもすべてを悟っているかのように言わないことです。


共感することが精一杯だと思います。(厳密には共感も難しいとは思っています)


激痛が痛み、そして傷あとへと変化していく時間経過がないと、自分に起こった苦難を意味あるものへと積極的に変換したり、使命へと転換したりすることはなかなか難しいものです。


言ってみれば、「時間」が先述した客観的な視点になるということです。


これはいわば、前に書いた吊るしの時間 だとも言えます。


この後、自分にとっての都合の良い人生のストーリーを作り出すことができるようになれば、生きていく力が多少なりとも湧いてくるのだと思います。


なぜなら、その人の人生はその信念によって、まさにそのような人生(世界)として映り、傷は消えなくても、それまでとは違う世界に生きることになるからです。


うつの認識も変化し、また治療も変化する。

うつ」ということも、かなり社会に認知されてきたように感じます。


それと同時に、従来の範疇では収まりきらない「うつ」症状というのも現れてきているようです。


しかし、それは今現れたというよりも、前々から存在してはいたものの、うつ自体あまり社会に知られていないものだったので、ようやく「うつ」の世界が本当の意味で本格的に姿を見せ始めた(社会がとらえられるようになってきた)といえるのかもしれません。


たとえば、うつといえば元気がなく、文字通り抑鬱的であり、何もする気力も起こらないと考えられがちですが、プレッシャーやストレスのかかる(たとえば職場)から離れると、急に元気になって活動的になるという、一見怠けや逃避でしか見えないものもあるようです。


そうした人には、これまでいわれてきたような「励ましてはいけない」「がんばれというのは禁物」「外に無理に連れ出してはいけない」ということが必ずしも当てはまらず、むしろ状況によってはそれが好転のきっかけになることもあると聞きました。


そういえば、私自身も何もやる気や力が入らない、いわゆる典型的なうつ症状の時がありましたが、それとは別に特定の時だけうつ症状がひどくなり、ある場面になると普通に近い元気さが戻ってきていたということもありました。


そうかと思えば自分の身が崩壊してしまうよなう恐ろしい不安症状や、いても立ってもいられない激越なイライラ感にも悩まされた時期があります。この時は活動的ともとれるほど外に出ていました。というより、じっとしてられないので、外出せざるを得なかったというのが本音ですが。


このように考えてくると、「うつ」と一口に言っても、その裏には様々なタイプが隠されているのがわかります。もっと細かい分類がいるのかもしれません。タロットでいえば小アルカナで細分化していくような感覚です。


おそらく「うつ」も物理的には脳内物質の分泌異常だと思えるのですが、脳内は複雑です。


脳自体も危険を認識して、なんとかバランスを保とうと必死で調整しているはずなのですが、その過程や回復作用の困難さで、いろいろなものが症状として現れてくるのではないかと想像できます。


いずれにしろ、うつや心の問題はまだまだわかっていないところがあるので、うかつに自己判断してしまわないことと、他の人も単純にパターン化して考えないことが大切だと思います。


逆にいえば、今の治療以外のものでも活路が見いだせる可能性が多くあると予想できます。「私のうつはもう治らない」とあきらめることはまだまだ早いのです。


先ほど「パターン化して考えない」とはいいましたが、それは安易にあてはめないということであり、医師や専門家の人にはどんどんとパターンを細かくわけていってほしいと思います。


そうすることで今度はそれを再統合していく中で、今までとは違ったパターンが現れ、そこから有効な治療に結びつくこともあるかもしれないからです。今まで見えなかったつながり(共通点・要因)が見えてくるという感じですね。(これはタロット的な考え方です)


もちろん私などの素人が考えるようなことは、すでに医師の方々は行っているのでしょうけれども。。。


今うつで苦しんでいる人は、医師の相談のもとで、違った治療などのアプローチ、たとえば薬だけではないもの、場所や家、人の環境、フィジカル、食べ物、鑑賞するもの(映画・絵画・風景)、ストーリー(本・影像など)等、様々なことから取りかかれることもあると想定してみるのも何らかの出口の発見につながるかもしれません。


私ももがきながらも、なんとか「うつ」と「不安神経症」から回復しました。皆さんにも回復が訪れることを願っています。


うつの人に意外な歯止め

私が不安神経症やうつ病にかかっていた頃、やはり死にたくなりました。


特に前にも書きましたが、イライラが激越症状として現れている時は、まさに生き地獄でしたので「この症状が明日起きて治まっていなければ死のう・・・」といつも考えていました。実際にロープを部屋にかけたり、線路や高台に行っていたこともあります。


しかし、そんな私でも死ぬことがなかったのは、人の助けがあったことと、自分自身が臆病で、変な表現ですが死ぬ勇気がなかったことにあります。


それともうひとつ、嘘か本当か自分ではわかってはいませんが、心の奥底に「死んでも同じことである」というスピリチュアル的な知識や感覚があったからです。


実はこれが一番の歯止めになっていました。


目に見えることだけ信じている自分、死ねば終わりと考える自分であったのなら、苦しみから逃れたい一心で、本当に命を絶っていたかもしれません。


ですが、「魂は永遠である」ということを思った時、あるいはそれを信じていた場合、死んでも解決にはならないであろうことは感覚だけではなく、理屈としても理解できるものです。


もちろんそう信じていても、実際はわからないので、「今の世界で生きるのを止めたら、とにかくこの状態からは変わるだろう」と思うこともあります。


それでも、本当かどうかは別だとしても、知識として例えば「自殺すればその境地で固定されてしまう」などのことを聞けば、死ぬことが恐怖となり、多少なりとも自殺衝動にストップがかかるでしょう。


また意気地がなく、情けない人もラッキーです。先述したように、私のように死ぬことが怖くて実行しようとしても、最後でやめてしまうからです。


病気が回復すれば、生きることの喜びもまた回復してきます。


うつ病は生きる楽しみを感じさせない病であり、自分に価値がないと思わせる幻覚みたいなものです。


もともとあなたは生きる価値があり、人生をもっと楽しめる存在です。そしてそれを感じることができるのです。


実は病気でなくても、このことへの曇りが多少なりとも人にはあります。


その曇りは自分で拭っていくこともできますし、自分でわからない場合、拭けない時は、他者が手伝ってくれることもあります。


世の中はそう考えると捨てたものではないのです。


うつの時は自分の判断力に注意する。

うつ病になると注意したいのは、依存心が大きくなるのと判断力が大幅に鈍ることです。


今回はこの「判断力が鈍る」ということについて、経験をふまえながら書いてみます。


うつは、すべてのことに気力をなくしてしまいますから、頭を働かせるのも苦痛となり、思考能力が落ちるのも当然のことです。


ただ私の場合は不安神経症も併発していましたから、鈍るだけではなく、大げさにいえば「狂う」といった面もありました。


早く治したいというあせり、突如襲ってくる際限のない不安、さらにやっかいなことに現れた強烈なイライラ感などもあり、とにかくいろいろな判断を誤ってしまいました。


まず心身によいと聞けば、全国どこだろうと出向いて治療(その多くが民間治療)を受けに行きました。(この時はうつ病よりも不安神経症のほうがひどかったといえますので、出かけるエネルギーはあったものと推測されます)


と思えば、急に頭髪が抜けるような気に襲われ、その必要がないのにカツラメーカーに電話して、勧められるまま毛髪治療や将来のカツラ契約を結ぼうとしたりしました。


はたまた不安につけこまれ、新興宗教の勧誘にあい、入信はしなかったものの、「これをすれば治るから」と言われ、その宗教施設での毎朝の掃除を一人でしたこともありました。(結構遠方だったにも関わらずです)


こういったことで、お金も大量に失ってしまいました。


すべては異常なあせりによる、正常な判断ができなくなったことによるものです。(かかりつけの精神科医は注意を促してくれ、クーリングオフなどできたものもありましたが)


あとから考えればなんとバカなことをしたのだと思いますが、その時はそれほど追いつめられていたわけです。


いわばこれは病気です。まとも考えができないようになってしまっているのです。けれども自分自身が壊れたわけではありません。


足を骨折すれば普通に走れなくなるように、心の病にかかれば正常な判断力に影響が出るものです。しかし骨が再生すればまた走ることができるように、心の病も治れば頭脳と判断力も元に戻ります。


ですから、心の調子がおかしい時は、自分で簡単に判断して行動しないようにしたほうがよいでしょう。あせることは治りを遅くするだけではなく、かえっていろいろなものを失うことになります。


このような時は、タロットカードでの「吊るし」を思い、あれこれ手を出さず、じくっりと休息を図ってエネルギーの回復を待つのが賢明です。苦しみの「13」の時期を過ぎれば、必ず「節制」の救済の時はやってくるのですから。


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