カードからの気づき
視線の方向性、視線の転換。
カモワン版マルセイユタロットはカードの人物の視線方向にとても意味を置いています。
詳しくはタロット講座でお話していますが、簡単にご紹介すれば、視線の方向を時系列(過去・現在・未来)に分類してリーディングする方法と、視線そのものに注視する読み方があります。
ですから同じ展開においても、少なくとも二通りの視線の読み方(リーディング)が可能なのです。
さらに、ほかのタロットの展開方法(スプレッド)でもあるように、カモワン流でもカードの正逆を見ます。
これに先ほどの視線の読み方が加わるのですから、複雑にはなりますが、とても展開を見ることが興味深くなってきます。
人は自分で気がつかないうちに、意外にも本当の方向性を見失っていたり、誤っていたりすることがあります。
たとえば、本来は自分の家庭やパートナーを見るべきなのに、仕事やほかの人間関係に自分が向いてしまっているような時。
また特定の人にとらわれてしまい、いつもその人の顔色ばかりうかがって、自分の創造性を失っていることなど。
このような場合、その渦中にある自分自身にはなかなかわからないことです。
けれども、カモワン流でタロットを展開すれば、自分を象徴するカードが問題となって現れた時、そのカードの人物(自分)の視線方向とカード見ることで、客観的に今の自分の関心を知ることができます。
ここで、多くの人が勘違いするのですが、今のあなたに問題があるとしても、その関心先(視線の先)自体が間違っているわけではないということです。
先ほどの例でいえば、家庭に目を向けなくてはならなくても、今自分の関心が向いている「仕事」そのものに問題があるわけではないということです。
問題があるのはあなたの態度や考え方であり、それが改まれば自然に家庭に向くことになるというものなのてす。
もちろん、見ている先自体に問題があることもあります。
そのようなことも、タロットカードによって判定することができます。
視線方向が変わるということは、自分の大きな変化を意味しますが、強制的に変えるよりも、自分の問題に真に気付いた時、自ずからターンするように変わっていくものだといえます。
無理矢理に向かせたり、直視させたりすることもありますが、それはそのままでは危険な緊急時に限られるでしょう。
自分で納得ずくでの視線転換に意味があるのです。
花火を見て、「月」のカードを想う。
昨日は妻とともに大阪淀川での花火を見に行っておりました。
周囲にはたくさんの人がいらっしゃいましたが、それでも比較的ゆったりと見ることのできる場所に出向くことができましたので、夏の花火の風情を楽しむことができました。
さて、夜空を彩る花火を見ていても、ついタロットを想像してしまう私です。(苦笑)
その時感じたのは、「月」のカードでした。
カモワン版マルセイユタロットの「月」のカードには、月を中心にして花火のような水滴模様が描かれています。
この水滴はよく見ると下に落ちる形ではなく、月に向かって登っていっているのですね。
それには伝えられているきちんとした理由があるのですが、花火を見ていた私はそれとは別のイメージがわいてきたのです。
それはちょうど花火が打ち上がる様を映像的に逆回転したかのようなものです。
すなわち、花火が中心に向かって収束していくようなイメージであり、それを月のカードと符合させたのです。
「月」のカードは、本来はっきりとしない分散化されたものが象徴されますが、それを意識的に集中させていくことが求められる(「集めていく」と言った方が正確な表現です)のではないかということです。
カードの番号順として、「月」の次には「太陽」が控えています。月によって凝縮された要素が、太陽の輝きのきっかけになるといえばわかりやすいでしょうか。
漫画・アニメの「ドラゴンボール」では、孫悟空が元気玉というエネルギーボールを作るシーンが出てきます。
これは生きとし生けるものすべてから少しずつ生命エネルギーをわけてもらい、巨大な玉にして敵にぶつけるというものです。
「月」ではエネルギーではなく、人々から「違うもの」を集めています。(あえてここではそれが何であるかを書きません)
月はまた、自身で光るのでなく受動的な存在です。鏡のように相手を映すといってもよいでしょう。
ということは、月に集められる「何か」というのは、「映し出されるべきもの」であることがわかります。
それを集めきった時、仮面としての月ははがされ、本来の自己である太陽が姿を現すとも考えられます。
ここまで説明してきたことが実際のリーディングにはどう関連づけられるのか、それは皆さん自身で考えてみてください。
何かヒントが得られた方は、コメントかメッセージをいただけるとうれしいです。
タロットカード「13」から考える、人を傷つけるということ。
タロットカードの「13」は、怖い印象を持たれるカードでもあります。タロットの種類によっては「死神」と呼ばれている場合もあります。
しかし本当は恐怖を感じる必要がないことは、カードとつきあっていくとわかってきます。
それでも絵柄からして、どうしても人のネガティブさの部分に反応してしまうところは確かにあります。
ということで、今回は「13」のネガティブパートを少し考察してみましょう。
「13」は刃物として大鎌をもっているところから、「傷つける」「傷つけられる」というイメージが出ます。
他人を傷つけるのは言語道断だとしても、意外に私たちがよくしているのは、「自分を傷つける」ことです。
人をいじめるのは無論よくありませんし非難されるところですが、その行為が自分に向かっている時には人はあまり関心を持ちません。
自分を傷つけるというのは、自分で自分をいじめているのです。
いじめをしている人の時の脳にはアドレナリン(に類するものも含む)の分泌が多くなるといわれています。
つまり興奮麻薬物質ですね。人をいじめることが快感につながっているというわけです。
一度いじめをしたことで得られた快感状態を脳が記憶し、自分を再び気持ちよくさせるために、いじめを繰り返すようにもなると考えられます。
段々いじめがエスカレートするのも、脳への刺激を強くしないと麻薬が効かなくなるからではないかと推測されます。
さて、このようなことは自分をいじめている場合にも考えられます。
自分を必要以上に虐げ、卑下させることによって、むしろ快感が出るようになっているのではないでしょうか。
「私はダメな人間」「私って何の価値もない」「私は悪者だ」「いつも損している」「被害を受けているのは私よ」・・・
このような言葉で自分を責めていると、いつしか気持ちよさに変わってくることもあるのです。
自分を貶めることで同情を買える、なぐさめてもらえる、優しくしてもらえるという期待のために自分を責めることもあります。
でもこれも、あとの快感(なぐさめてもらう心地よさ)を得るためだと考えると、似ているところはあるいえましょう。
人をいじめる人も自分をいじめる人も、おそらくともに麻薬のようなもので気持ちを紛らわせなければならない根本的なネガティブな部分があるのだと予想されます。
それは不安や不満であったり、怒りや悲しみであったりする感情でしょう。
それを隠すために、傷を付ける行為(実際の行動だけではなく、言葉や感情での思いも意味します)をし、麻薬的にごまかすことをしているのかもしれません。
タロットカードの「13」の逆向きは、それをよく表していると思います。
カードに描かれている黒い土の底には、本来見なくてはならないネガティブなものが隠れています。
それが逆向きでカードが出ると、土を掘り起こすはずの鎌がまるで空を切っているかのように見えますし、その鎌は他人や自分自身に向かっている(刃物の重みで結局自分に降りてくる)ようにも感じます。
また心なしか、この時の「13」の顔も、むなしく力のない笑みを浮かべているかのように見えてくるから不思議です。
これでは土の中に隠されたものも出てきませんし(見つけることができない)、一時的な快楽のために、自分は骨と皮だけの荒廃した精神や肉体の状況に陥っていくことも考えられます。
カモワン版マルセイユタロットの「13」では、鎌の色も、正位置では霊性や高い精神性の意味を持つ空色が上ですが、逆になると血の色である赤が上に来ます。
人や自分を傷つけていれば、血が出るような痛みが本来あるはずなのですが、それを感じなくなるどころか、気持ちよさとして誤変換されてしまうという恐ろしい機能も人間にはあるようです。
いかに自分を守る防衛システムが人間には働いているのかが、このことからもよくわかります。
結局過剰な防衛反応が「13」におけるネガティブさを招いているともいえるでしょう。
ということは、防衛しなくてはよい状況を自分に作り出すことが大切です。
それは自己開示しても安心できるという心、様々な処理しきれていない感情の部分を浄化したり、認めていったりすることにつながるものでしょう。
今述べたことは難しいことがあるのも確かですが、本当の自分を知ることに勇気をもって挑戦する時、それら(防衛しなくてもよい状態)は次第に得られていくものではないかと私は思っています。
先生と生徒の姿勢により、縁と世界は変わるのです。
タロットカードには「教えを受ける」ということを示唆するものがいくつかあります。
ところで、カモワン版マルセイユタロットの場合、カード単体で考えることは少なく、基本はセットやペアで見ていくことが多いものです。
そこから「教えを受ける者」と「教えを授ける者」というペアも登場してきます。
たとえば「愚者」というカードと「隠者」というカードはその関係を示すことがありますし、その他の組み合わせにもあります。
いずれにしても、両者の関係の中に「学び」は生じます。
ということは、学ぶ側と教える側とのとらえ方によって、「教え」そのものの感じ方や内容さえ変化してくるともいえます。
皆さんも学生時代を思い出してみましょう。
誰でも印象的な先生が思い浮かんでくるのではないでしょうか。
一人くらいは「ああ、いい先生だったなあ」と思う方がいらっしゃるでしょう。
その先生が教えていた時間は、あなたとってはどんなものでしたか?
きっと楽しかったはずです。そしてその先生の教える科目や内容が、いつも以上に自分の興味や関心を高めてくれたことでしょう。
反対につまらない(と感じる)先生に当たった場合、好きだったその科目でさえ嫌いになる時もあります。
つまり、教える相手と自分の感情・気分によって、教えられる内容への興味・理解も変わってくるということです。
これは重要なことですよ。
たとえば「1+1が2になる」ことを単純にそのまま説明する場合と、みかんやりんごなど持ってきて説明するやり方(しかも、みかん+みかんの場合と、みかんと+りんごでは何が違って何が同じなのか説明する方法)とでは、比べてみるとどうでしょうか?
おそらく後者のほうが、その後の算数や物事への興味もわいてくるでしょう。少なくとも残る印象だけでもかなり違うはずです。
そこから将来、数学者になる人も出るかもしれませんし、商売で成功を収める人もいるかもしれません。
人には等しく、いろいろな才能や輝く個性が眠っていると考えられます。
しかしそれは何かのきっかけで引き出されるか、引き出してもらわないと、原石のままで終わってしまうおそれが高いといえます。
そのきっかけが学習での過程にあることも多く、それを考えると、教える側の工夫、人間としての魅力があること(魅力を作り出す努力)はとても大切だということがわかります。
「先生と生徒の出会いも、結局縁だ」とひとくくりに言ってしまうのは簡単です。
けれどもこの世界は、人の思いと行動でかなりの部分を変えられることができる「次元」です。
たとえば教える側・先生側の努力によって、教えられる側・生徒側の興味を広げることができれば、それだけ生徒の才能・能力を広げる(見つける)ことにもつながり、その広がった分だけ、生徒自身の縁も拡大していくということになるのです。
自然や流れに任せたままの縁と、自力でさらに広げた縁とでは、その縁から生ずることに多少が出るのも当然になります。(まさに縁起ですね)
さて学生時代ならいざ知らず、大人になった私たちは、教える側の努力だけを期待していてはいけません。
カモワンタロットで説明しましょう。
最初に「教え、教えられる関係」はペアでカードで出ると述べました。この時、カード同士の人物の視線は正立で向き合っています。
もし教える人間を表すカードが逆向きになり、視線を別の方向に向けてしまっている場合、当然、教えを受ける側の人間(カード)の視線は、その人の背中の方向を見ることになります。
これを見て「ああ、先生は違う方向を見ていて、私には関心がないのだな」と感じたり、「先生はあらぬ方向を見て間違っていらっしゃるのだ、私は先生を選ぶのを誤った」と思ったりするかもしれません。(そうリーディングすることが正しいこともあります)
しかし、「背中を向けている先生に対してでも、その背中を通して学ぶことはあるのだ」という発想を持つと、がぜん面白くなってきます。(ポジティブにもなれます)
たとえば、人格は問題だけれども教え方(技術)はすばらしいとあなたが感じる先生もいらっしゃるでしょう。
反対に、この先生は教え方は今ひとつだけれども、言いたいことや人間性にはすばらしいものがあると思える人もいます。
またこの部分は今の私にはあまり参考にならない、でもこちらのパートは取り入れたいと判断できる場合もあるでしょう。
そのようにひとつのことから全部を判定するのではなく、いいところだけを取り入れ、悪いことは相手の問題であり、学びそのものとは切り離して考えるのです。
私たちはすでに一方的に学びを受ける子供ではありません。
相手を「この先生、つまんない」と単純に一刀両断するのではなく、その中でもよいところはないか、活用すべきところはないか、最悪でもまさに反面教師とする部分はないかとなど考えてみるのが大人というものでしょう。
今日は学びという観点から、タロットを通じて考えてみました。
あなたの「世界」を作る
タロットに「世界」という名前のついたカードがあります。
マルセイユタロットの「世界」の場合、中央に人物、その周囲を取り囲むように4つの生き物が配置されています。
この4つの生き物と中央の人物には当然ながら密接な関連があり、それぞれ個別の意味と、全体性での意味とのふたつが存在し、それらがまた有機的に絡まって、様々なことを表現することができるようになっています。
それほど、「世界」のカードは多様性に満ちています。
カモワン流の展開法でこのカードが重要な位置で出る時、次のようなことがポイントとして考えられます。
視点・視野について
調整・協力・仲立ち・関連について
目標・完成点について
世界観と世界の構築について
これらはほんの一部ですが、ここに挙げた4つのポイントだけでも「世界」が読みやすくなるはずです。
そしてここでは、4番目の「世界観と世界の構築について」にだけ、少し説明したいと思います。(ほかのポイントはご自分で考察されるか、タロット講座を受けられるかしてください(^_^;))
「世界」は「世界」という名前があるように、「世界」の言葉そのもので考えていくと新たな視点が生まれます。
世界と一口に言っても、いろいろな意味があります。世界中の国々や人々というように、一般的な意味での「世界」という使われ方があります。
しかしほかにも、「誰それの世界観」「これこれにも、その世界がある」というように使われる「世界」もあります。
ここで言っている「世界観と世界の構築について」も後者の「世界」のことであり、つまりは「あなたの世界観、あなたの作りたいもの、目指したいものを明確にする」という意味なのです。
言い換えればあなた自身を中心とした世界を作ると言ってもよいでしょう。
それには、自分が何を求めているのか、どういう立ち位置にしたいのかなどはっきりとしたものをもっていないといけません。
ふらふらと流れていては、中心に立てないのです。
その点では、実は「悪魔」のカードと共通したところもあります。(両者には連繋となる象徴もあります)
自分の世界観があってこそ、それに賛同する人が集まってきますし、協力もしてくれます。
あなたが何者かわからず、何を考え、何をしようとしているのか不明な場合、誰もあなたにひきつけられません。
「世界」の中心人物になるほどの自信はないよという人は、周りの生き物の立場として応援していくスタンスを取ることも可能です。
そうしながら、自分に足りない面を補っていき、反対によいところを伸ばして成長することもできるからです。
ただ中心の人物とのつながりが強化されるには、「悪魔」のカードでひもでつながれている人たちとは異なり、個としての独立性が必要かもしれません。
それは個性として自分の役割がグループの中できちんとあるということです。
他の人たちとかぶっていない部分・得意分野があるとさらに有利となるでしょう。
「世界」は単純に外の世界へ広がっていくようにとらえられがちですが(実際、そのことを感じることは重要です)、自分の世界を確立するという面では、内なる世界への方向性、自分自身の充実度も見落とすわけにはいかないところもあるのです。
