カードからの気づき

タロットカード「神の家」の一考察

今回の話はカード一枚のやや専門的な話になります。


カードの絵柄がイメージできないと、まったく何の話かわかりませんので、もし絵柄を確認されたい場合はこのサイト でのタロット図最上段、向かって左から二番目のカードを見てください。


カモワン版マルセイユタロットではなく、ほかのタロットカードの一般的な解釈でちょっと妙な気持ちになるのは、特に「塔」と呼ばれるカードです。(ほかにもありますが・・・)


カモワン版マルセイユタロットではこの「塔」のカードのことを、フランス語の直訳で「神の家」と名付けています。


「塔」としては、正立としても逆位置でもかなり凶的な意味合いでとらえられるようです。


それはこのカードの絵柄を見ればわかるのですが、中心の建物の頂上部に向け、横から稲妻のような光が走ってきて、建物の上の王冠部分を崩しているように見えるからです。


それがまさに物事の崩壊や突発的な災厄を暗示させるからでしょう。


しかしカモワン版マルセイユタロットの「神の家」では、意味が180度くらい違ってきます。一言でいえば「栄光」や「祝福」を受けることに関係します。


その根拠として、カモワン版では、「塔」の建物のてっぺんにある王冠が、実は破壊されているのではなく、天から降ってきている(かぶせられている)と解釈するからです。


つまりは神の光を受けて自身が「神の住まう家」になるため、その栄光として王冠が天(の父)より下されると考えるわけですね。


私はこのカモワン版マルセイユタロットを使う身なので、この説をとっています。


ただし、もっと純粋に他のマルセイユタロットも見て想像してみると、やはり建物(塔)の頂上・王冠部分は光によって離れていっているようにも見えます。


ということで、私は「必ずしも王冠が空から降ってきているとはいえないのではないか」と思うこともあるのです。


では、破壊されているでもなく、降ってきているでもないとすれば、ほかにどのような解釈ができるのでしょうか。


もう一度「神の家」をながめてみます。するとある考えとイメージが浮かんできました。


この王冠はもともと「塔」の建物上部に存在していました。ところが、天からの光(稲妻のような強烈なエネルギー)を受け入れるため、自ら王冠であるふたを開いたのです。


これは建物(塔)の内側に充満するエネルギーと、天から降りてくるエネルギーの邂逅(合体)です。


雷の落下には金属などの誘導されるものが必要なように、建物の内側自体から発するエネルギーが、それに引き合う天からの別種(大きな意味では同種)のエネルギーを導いたといえます。


その瞬間、建物内のエネルギーの漏出を防ぐため王冠はバカッと口を開けるかのように傾き、そして天からのエネルギーは、その空いた部分から建物(塔)内に流入することになったのです。


王冠はカバラー的にいえば、一段階下のケテルかもしれません。つまり、稲妻が降りてくる前は王冠と建物は一体化しており、その時点でひとつの完結や完成を見ていたのです。


しかし、それでは次の次元や段階へ上昇できないと気付いた建物(私たち自身や特定次元の象徴でもあります)は、さらなるエネルギーの充実に努め(エネルギーを練る)、その高まった圧力とオーラで、ついに天から新しいエネルギーを呼ぶことに成功したのです。


その時、前の時代(次元の)王冠はもはや必要性がなくなり、王冠は自らふたとしての機能をはずして、天からのエネルギーを受け入れたということになります。


おそらくこの後は別の建物に変化するか、建物自体、さらなる発展のために爆発する可能性があります。古い形は崩れ変容するのです。


よく日本のアニメでありますが、エゴ的な人間が究極的な力を熱望するあまり、急激に無理して圧力を高め、エネルギー装置を暴走させてしまい、破壊に至らしめてしまう描写があります。


反対に装置をコントロールできる力を持つ(それは女性や少女であることが多い)者が平和を望んでそれを扱う時、巨大な扉が開かれ、新しい世界を生み出します。


このことから、「塔」という名前で語られるタロットカードの解釈もある意味正解であり、またカモワン流の「神の家」としての解釈もまた正しいということになります。


ですから、「神の家」をリーディングする時は、非常に大きな試練を与えられていると見ることもあります。


それは自分自身の飛躍や成長を促されるものであり、そのためには力をうまく扱えるほどの蓄積と技術が必要だということになりましょう。


簡単にいえば、大きな変化のための準備をする、別次元へのステップへの始まりを意識するということです。そこには神の試練とでもいうべき、厳しさを伴う選択も用意されることでしょう。


いずれにしても、土台をしっかり見据え、変化の決意を意識しないとこの機会を生かすことはできないと考えられます。


それが、「神=(自分の神性でもある)への絶対的な信頼ができるか」ということにもにもつながることだと思えるのです。


お気楽ではない「愚者」もある。つらい状況のあなたのために。

タロットカードの「愚者」は、楽観的で気楽な人物であり、「愚者」になれば細かいことも気にせず、気持ちがおおらかになることは以前にもお話しました。


今回は、そんな「お気楽な愚者」とは違った解釈を披露してみたいと思います。

この記事でも記しました が、南仏ではサン・ロックという「愚者」のモデルとして考えられる聖人がいます。


彼は自分もペストにかかりながらも奇跡的に回復し、その経験をもとに人々に癒しと治療を施していった人物でもあります。


もともとはモンペリエの資産家の出身でしたが、親から受け継いだ全財産を投げ打ち、自分はローマへの巡礼の旅に出ました。やがて彼の身なりはボロボロで、ルンペンと変わりない姿になっていたといいます。


彼が愚者のモデルだと考えれば(これはあくまでひとつの仮説であり、「愚者」自体の象徴性は特定の人物に帰せられるとは考えにくいものですが)、彼の行いが愚者にも投影されていると見てよいでしょう。


それは、自分のことを顧みない献身さとでもいうべきものでしょうか。人のためには我が身などどうでもよいというくらいの気持ちです。


これはお気楽さとは全く違う別種のものですが、「自分のことを意識しない」という点では、通常の「愚者」の解釈と同じです。


サン・ロック伝説から愚者を見てみると、もうひとつの見方が出てきます。


「愚者」の人物をサン・ロック彼自身だと見るのが普通でしょうが、逆に人物を彼が救っていた患者だと考えるとどうでしょうか?


「愚者」の人物は杖をもっており、後ろからは犬が付いてきているようにも見えます。


人物が病んでいる人だとすると、この杖や犬こそ、サン・ロックのような治癒の助けをしてくれる者と想像できるのです。


サン・ロックがペストから回復したのも、彼のためにどこからかパンをくわえてもってきてくれた犬の献身的な働きがあったからだといわれています。(サン・ロックの彫像には必ず犬も一緒にすえられています)


つまり、気が楽になるためには、杖や犬のように、後押ししてくれたり、助けを与えてくれる者(あるいは事柄)が必要でもあることをタロットカードの「愚者」は物語っているのです。


自分が愚者のように気楽に前に進めない状態(病気、停滞、アクシデントなど問題を抱えている状態)の時は、あなたにとっての犬や杖を求めてみましょう。またその補助を受けることも悪いことではないのです。


「自己責任」で片付けられる今の世の中の風潮ですが、人がそれぞれの個性をもって多くの人間たちの集まる社会に暮らしているのは、なんでも強く「一人で生きていけ」ということを意味するのではないと思います。


弱った時に助け合えるからこそ、たくさんの人たちが存在しているのではないでしょうか。


ちなみに、「愚者」の犬と杖は同じ「補助」を示すとしても、人と道具(技術)に分けて考えていくとリーディングにおいてはヒントとなります。


笑いがあなたを救う。

私はその昔、とある過酷な旅にいました。


旅といってもツアーであり、本当はスケジュールも組まれている楽な旅行です。


ツアーですから、複数の人たちも参加していました。


何がつらかったのかと言っても、予想より旅が計画的なものでなかったことにあります。


こちらとしてもツアーだからと安心していた面もあったのですが、実際にこのツアーが、いろいろな意味で常識はずれなものだったことも確かでした。


とはいえ、今から思えば過酷だったことも結構楽しい思い出ではあります。


ところで人間、思ったこととは違ってくることが重なってきますと、イライラしたり不機嫌になったりしますよね。


そんな状態が、その旅の中頃から、参加メンバーの中に芽生え始めていました。


しかし、ここでつらさやイライラ感を、半ば自嘲気味に笑いに変えているグループもありました。


こんな感じです。

「ええか。これは普通の旅とちゃうんや、行き先がわからん旅や、そうそう、ミステリーツアーちゅうもんやで、これ」


「ミステリーツアーか、それは気がつかんかったなぁ、てっきり行き先がちゃんと決まっとると思とたわ」


「そやろ、オレもそう思とったんやけど、これに気付いてから、めちゃめちゃ毎日楽しなってん、次はどこ行くんやろ、明日は何が待ってるんやろと思うとワクワクして寝られへんわ。おかげで毎日寝不足や」


「いや、あんた、毎日、夜中抜け出して遊びに行っとるやん!」


「まあ、オレの夜自体がミステリーツアーやからな。昨日も気がついたら天国におってな」


「ほほう、女性でもおったんかい」


「ようわかるなぁ。。。もう周りは女性だらけで、ウハウハですわ。いやしかし、目的地が天国とは、こりゃまた粋なツアーやで、と自分で自分のミステリーさにびっくりしたわ」


「それ、天国ちゃうやろ」


「まあ、もええやん、それでさらにびっくりしたんはな、それからまたミステリーツアーになってしもうて、もう一度気がついたら、オレ、道路に寝そべっとったんやな」


「へ?」


「で、財布見たら、これまたすってんてんや。いつの間にやで。いやぁ、ほんまミステリーやわ」


「あんたとはやってられんわ」


とまあ、これはフィクションをかなり交えていますが、ま、こういう風にしてつらさも笑いにしていくと、乗り越えられるものなのですね。


関西弁にしているのは、やはり関西にはそうした文化があるからです。いわば、笑いによる自己防衛であり、物事を一瞬にして客観にしてしまう方法(問題を外側に取り出す方法)なのです。


このことは、タロットカードでは「愚者」と「吊るし」もしくは「悪魔」を並べるとわかるかもしれません。(「吊るし」や「悪魔」はマルセイユタロットの中でも、笑いの表情を持つカードであるからです)


またカモワン版マルセイユタロットを知っている人は、「隠者」にも笑いの要素があることがわかるでしょう。およそ、笑いとは無縁の知識の塊のような老賢人の姿を持つ隠者においても、笑いの力を知っているのです。


自分を笑えるようになった時、それはかなり問題から脱出しはじめていることを物語ります。


「何をそんなにあせったり、苦しんでいたりしたのだろう・・・」と自分の必死さに滑稽感を覚えるようになればしめたものです。


苦しいとき、ちょっとマゾ的ですが(笑)、「こんなにつらいっす、こんなに大変っす、こんなドツボっすわ、わたし」と自分を笑ってみることでかえって落ち着いたり、力が出てきたりするものです。


時間の回転は傷を和らげる。

人は生きていれば、本当に傷つくことは多いものです。強い時ばかりではありません。


仕事・恋愛・家庭・・・様々な場面。


自分が悪いこともあれば、突然のアクシデントなどで一方的に傷つくこともあるでしょう。


しかし、有り難いことに、私たちは時間が流れる世界に生きています。


時間をを表すタロットカードに「運命の輪」があります。


「運命の輪は」、その名が示すとおり、輪であり円です。


これに反して直線的なものはストレートです。直線は時には刃物のようなキツさをもって、私たちに迫ってくることがあります。


円は丸く、回ることによって時間がかかります。相手に届くのも、自分に届くのもぐるりと円周を回らねばなりません。


もどかしいことはありますが、ショックを受けたり、傷ついた時は円が逆に緩衝材となって、ダイレクトに響くことを緩和します。エネルギーが丸いものに沿って流れざるを得なくなるからです。


ですから、時間の回転は心の癒しにつながるのです。


最近とてもつらいことがあったとしても、時が回っていくことで、何度もの時間の回転で、最初起こった時の強烈さは違った形であなたに届けられるようになります。そしてまた、ショッキングな出来事も別の思いで見られるようにもなります。


このように、「運命の輪」はただチャンスや時流に乗るということだけではなく、緩衝材や緩和していく効果として時の回転を見ることができるのです。


今心が痛い人も、つらくてパニック状態かもしれませんが、時が必ず解決してくれるようになります。少なくとも時間はあなたの味方となって、傷を和らげてくれることでしょう。


「吊るし」と「悪魔」の隠されている手。

タロットカードの大アルカナと呼ばれる22枚のカードは、そのほとんどに人物が描かれています。


そして「人」ということは、当然手足もあるわけなのですが、不思議なことにあえて「手」を隠しているカードがあります。


それが「吊るし」(他のカードでは「吊され人」とか「吊された男」)と「悪魔」です。


吊るし」の人物は逆さまに吊られた状態で、手は後ろ手になっていますので手が見えません。おそらくほとんどの人がこのカードを見た時思うように、手も縛られているのではないかと想像できます。


しかし、カモワン流の解釈ではこの「吊るし」の人物は吊されているのではなく、自らが好んでこの姿勢をとっているとしますので、手もまた自分から後ろにして結んでいるのかもしれません。


一方の「悪魔」ですが、このカードには悪魔と思われる人物と、その悪魔を崇拝しているかのような二人の裸の者たちが描かれています。


手が見えなくなっているのは、悪魔ではなく、つながれている二人の人物のほうです。


この者たちはともに悪魔を見て、心酔しきっているかのように笑みを浮かべています。


二人がしている後ろ手状態は、やはり「吊るし」のように縛られているようにも見えますし、手を表に出さないことが楽しく、自然にさせられているようにも感じます。


手はいろいろなことを象徴します。


手先を使うということで、カードの「手品師」(ほかのカードでは「奇術師」「魔術師」)にもいえますが、「仕事」を表すこともありますし、そこから個性・パーソナル、その人そのものを示すこともあります。(仕事が人を社会的に表すことがあるからです) 


また手を使うことは文字通り、手段ともとれますし、印を結ぶということなどからも呪術的な意味合いもあります。手当という言葉からも、治療やヒーリング的な行為を表すでしょうし、手当はまさに手当として働いた報酬・お金を意味することもあるでしょう。


さらには手は五感の刺激を受け、全体を把握するための有効な装置となっていますので(手でさわって感じるように)、手の自由を奪われるということは、まさしく人としての自由を奪われるのに等しいともいえます。


罪人を拘束するのに手錠が使われていることが何よりの証拠でしょう。


こう考えてみますと、現実世界で生きる私たちにとって、手(の自由が利くこと)はいかに大切かということを物語っているといえましょう。


その手をあえて隠している、あるいは隠されている「吊るし」と「悪魔」のカードは、いったい何を私たちに示唆しようとしているのでしょうか。


ここで「吊るし」と「悪魔」の二枚の手の隠され方に注意してみる必要があります。


「吊るし」は自ら吊るし状態を選んだ人物だとお話しました。ということは、後ろ手にしているのも、自分の意志だと考えられます。


それに対し悪魔につながれている二人の人物は、自分からということもいえるかもしれませんが、どうも悪魔の影響によってそうせざるを得ない、そうさせられていると想像できます。


つまりは自らと他者からの違いです。


手をあえて使わないようにする、使われないようにするということは、結局先述したように個性や自由を奪うことにはなるでしょう。


しかしハンディとも思えるある縛りをかけることで、逆に見えてくるものもあります。また自分が個性だと思っていたものはわがままな我であって、それを抑えて物事を観察することも時には有効かもしれません。


それらが「吊るし」のほうのひとつの解釈です。


反対に「悪魔」は、手で反抗できないほどの影響力、自然に従ってしまうような(好きになるような)力を持つことをいわれているように感じます。その点では「力」のカードと共通している部分もあるのです。(カモワン版を学習した人は、「力」と「悪魔」にはもともとあるシンボルで連繋していることを知っているはずです)


またあれこれ手を出すのではなく、悪魔という大きな存在に導いてもらいつつ、自分で手鎖をはずす事を学んだり、気付いたりすることも示されているともいえましょう。


こちらは自分の個性に気が付いていなったり、自分が何をしていいのかわからないような人には参考になる方法でもあるといえます。結局は自分の自信や本当の自分の良さに気付くための仕掛けでもあるのです。(以前の悪魔の記事 も参考にしてください)


けれどもここで述べたのは私のひとつの解釈に過ぎません。もっと別の多くのことを思い起こすことも可能でしょう。


この二枚は、ほかのカードの中でもネガティブに考えてしまいがちのカードでもあります。


隠された手のこととロープの象徴に思いを馳せながら、できるだけポジティブなことも想像していくと、人生そのものへの効果的な訓練になるかもしれないのです。


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