カードからの気づき
過去を受けれ入れること
タロット占いでは、質問者が、未来の、特に選択事項に関心があることが多いため、時系列的に過去を象徴する位置のカードを引いたとしても、「こういうことがありましたね」みたいな確認に留まり、あまり深く読むことは少ないのではないかと思います。
もし占い的な意味があるとすれば、当たる当たらないの目安として、過去が当たっていると確認できることが一番大きい理由になりそうです。
過去が当っているのなら、未来もまた当たる(当たっている)だろうというわけです。
しかし、私たちが行い、講座でも提供しているのは、“タロットリーディング”であって、“タロット占い”ではありません。
採用しているスプレッド、並べ方も、過去の位置に一枚だけおくようなものではないので、過去を読むにしても、単純なことだけには終わらないのです。(シンプルなケースも場合によってはありますが)
タロットリーディングにおいては、過去を読む理由は、占いのように、過去が当たっているかどうかとか、ただあったことを確認するためだけとは限らず、もっと別の意味と目的があります。
それは講座において論理的に説明していますが、簡単に言えば、過去はたとえ事実であっても、当人の解釈によって起こった事象は変わるからだと言っておきましょう。
もうひとつ加えるならば、人は時間に支配されている部分と、支配されていない部分があり、その両方をタロットは扱うことができるため、過去というひとつの時系列を見るのは、いろいろな意味で重要だからです。
ところで、最近、ネットである記事を見ました。
それは、とある方面では名の知れた人の話で、自分には才能があり、その才能を活かしたものに進む予定ではあったものの、周囲からの勧めで、あるオーディションを受けることになり、合格して、その方面での活躍は一時的にはできたものの、世間からはその方面での人物とレッテルが貼られ、本当にしたいこと、目指していたことができなくなり、長年、悔やんでいるというものでした。
自分には開花すべき才能があり、本来はそれで認められ、活躍するはずだったものが、あらぬ方向に回されたため、道を間違え、自分の才能を活かすことができなかった、あの時、自分の意思を貫いていれば今の悩む自分はない・・・と何十年も後悔し続けているというお話でした。
これを読んで、いろいろと思うところがありました。
まず、よく最近、言われるように、自分の本当の気持ちとか、自分のしたいことに向き合うという大切さです。
やはり、自分に嘘をついて、だましだましの選択とか行動をしていると、いつか後悔することになって、重荷を背負い、たとえ物質的には成功しても、心や魂の安寧は訪れないのかもしれないという点。
ただし、これは、だから自分の本当にしたいことは必ずやったほうがいいということを述べたいわけではありません。
大切なのは、自分の気持ちに対しての正直さ・誠実さであり、その気持ちを抑圧したり、ごまかし続けたりすることへの懸念です。
自分のしたいままに、自由に望み通りの人生を送り続けられる人はそうはいないでしょう。
やりたいことができなかったり、、逆にやりたくないことをやらされたりすることは、普通にあることです。ですから、ライトスピリチュアルのような、気軽に、「自分の本当にしたいことをやれば幸せになれる」と簡単には言いません。
ですが、自分の気持ちを大切にしないことと、本当にしたいことがやれないのは別です。
自分の気持ちは受け入れ、認めたうえで、現実といかに調整し、向き合っていくかというところなのです。
人生に葛藤は当たり前で、それでも、自分の気持ちは無視しない、抑圧しない方法を考えようというわけです。
そして、もうひとつは、自分の過去(選択したこと、起きてしまったこと)を受け入れられないと、つらい人生になってしまうことです。
ここが、最初に書いたように、タロットにおいては、過去をリーディングすることにつながってきます。
一言で言えば、自分の過去に感謝できるかどうかになります。
感謝まで行かなくても、実はそれほど思ったより悪い選択(過去)ではなかったと、自分の過去を受け入れることができれば、今の自分は間違いなく変わるでしょう。
すべてを受け入れることは難しくても、一番重荷だと感じ、葛藤し続けていることに対して、感情的エネルギーを変換できれば、かなり違ってくるわけです。
人や周りの環境・社会のせいではなく、よい意味で自己責任(ただしこれは自分に罪がある、すべては自分が悪いというのとはまるで違います)であることを認めていくことになります。
あと、「あの時、こうしていれば今の(不幸な)自分はないはず」と後悔する人もいますが、()の部分をそのまま(幸せな)に換えれば、真逆のことにもなってきます。
つまり、今の幸不幸の原因を過去に帰することは、必ずしもできないということです。
まさに、マルセイユタロットの「運命の輪」の中の動物たちのようなものです。幸不幸がクルクルと入れ替わるように、いいと思うようなことでも、実は悪いことの始まりであったり、そのまた逆の、悪いと思う状況が、いいことのきっかけになったりもします。
誰も、あの時の選択が本当の意味で間違いなのか正しいのかなど、わからないのです。もしかすると、正しいと思っていた選択肢が、今よりも不幸と思えるような結果になっていたかもしれません。
時系列として、自分か現在にいるから、過去の意味が決定しているだけであって、過去(の意味を)決めているの自分自身なのです。
現実の時空間の中では、確かに成功や失敗、間違いと正解というのも、一般認識ではあるでしょう。
しかし、私たちの本当の意識(自己)は、制約ある時空間の外に存在していると言われます。
ならば、本来の自己から見て、間違いも正しいもなく、すべてエンターテイメントな経験であるとみなすことができ、それならば、マイナスと思えるようなことであっても、ドラマがあったほうがむしろ面白いかもしれないのです。
事例にあげた、とある方は、もしセラピーのようなものを受け、過去の自分を本当の意味で受け入れることができれば、過去、間違ったと思っていた選択が、実はすばらしいものであったこと、それによって得た財産(物質・精神ともに)が、不幸だと思っていたことと同等くらいにあったことに気付くでしょう。
すると、時間の流れとしては変わらないものの、この方にとっての過去・現在、そして未来さえも、一気によいものに変わる可能性が高いです。
過去・現在・未来が変わるということは、これすなわち、人生そのものが変わることと同意義です。
後悔を語る人は、それを聞かされ続ける人にもつらいわけで、場合によっては、過去にその人と関わった人に嫌な印象を与えているどころか、その人たちの過去自体も暗いものになっている(させている)おそれもあります。
ですが、過去の認識が変わった人であれば、今度は周囲の人を明るくし、気持ちのよい状態にすることができます。そして、自分と過去に関わった人の記憶も変え、その人たちの人生の意味もまた変えて行きます。
ということは、過去を受け入れた人の囲む宇宙そのものが肯定的になり、その人を支えていくことになるわけです。
しかしながら、当人しかわからない苦しみ、悩み、葛藤はあります。他人事だから、簡単に言えますが、長い間苦しみ続けるには、それだけのこだわり、強い思いがあるわけです。
そうしたご本人の苦しみに配慮することも、人として大事かと思います。
人間、年を取ってきますと、それだけ過去が積み重なってきているわけですから、簡単にはいかないこともあるでしょう。
それでも、後悔した人生で終わるより、霊的にも、とにかく生き切り、自分の人生にそれなりの意味を見出し、心を軽くして、現実界を旅立ったほうがよいように思います。
「愚者」はなぜ“愚者”なのか?
タロットには「愚者」という、ほかのカードとは違った特徴を持つカードがあります。
トランプで言うと、「ジョーカー」にあたるもので、ゲームでは切り札であったり、変幻自在、オールマイティーの力が付与されていたりします。やはり、トランプにおいても特別です。
タロットの「愚者」の、他のカードとのもっとも大きない違いは、数を持たないということです。大アルカナにおいて数がないのは、この「愚者」だけです。
それゆえ、トランプのジョーカーのように扱うことができ、どの数のカードでもない代わりに(数の配置に入らない)、どのカードにもなれる、どこにでも配置できるようなところがあります。
そんな、ある意味、強い力を持っているカードなのに、名前が「愚者」とは、いったいどういうことなのか?と思う人もいるかもしれません。
名前はもっとかっこいいと言いますか、強キャラ感(笑)漂うものであってもいいはずです。
もちろん、タロットカードの名前は、絵柄から由来しているので、マルセイユタロットの「愚者」の絵柄を見ると、ズボンが破れているのに気にもせず、上を見て歩いている人物がいて、まるで愚か者のように見えるので、当然のネーミングのようにも思います。
さきほど、私は、タロットカードの名前は絵柄が由来していると言いました。
しかし、そうではなく、もしも名前が先に決められていたとすればどうでしょうか?
私は長いこと、マルセイユタロットを見てきまして、その可能性もあるのではないかと考えています。
いや、名前が先とか、絵柄が先というより、同時進行のようなもので、ある思想や型・パターン・設計図のようなものがもともと製作者(たち)の中にあり、それをモデルとして図示した場合、あのような絵柄になり、実は一枚一枚の名称としては、最初から決まっていたものがあったのではないかと思えるところがあります。
いや、名前の厳密性よりも、型やパターンとして登場させる予定の象徴存在を描くと、今のタロットカードのそれぞれの名前になっている、あの一般的な名前で表すのが適切(な名称)だったというところでしょうか。
こう考えますと、「愚者」は、愚か者のように描きつつも、本当はそうではない(愚か者ではない)可能性が高まるのです。
むしろ、あえて愚か者を装った風に描く必要性があり、「愚者」の中にある何かを隠そうとしたのかもしれません。あるいは、愚か者、愚者になることそのものが、マルセイユタロットを作った人たちからの伝言ということも予想されます。
これはどういうことかと言いますと、簡単に言えば、賢いふりをしていても、真実(真理)はつかめないよ、わからないよ、ということです。
アニメ、ドラゴンボールの最初のエンディングソング、「ロマンティックあげるよ」の歌詞にあるように、まさに「大人のフリしてあきらめちゃ、奇跡の謎など解けないよ」というわけです。(笑)
歴史的に見ても、いわゆる本物の賢人や革新を起こすような人は、通俗性を超え、変人であったり、愚か者を装ったりすることがよくありましたし、一般人から見て、時には嫌われたり、常識はずれと思われたりしました。
いつの時代も、その当時の常識、世間体のままにいれば、やはり枠にはめられた凡人と言いますか、未知なるものへの探求心と行動は鈍るかと思います。
だから、マルセイユタロットの製作者たちは、「愚者」のカードとその姿に、私たちへの意識の変革を促そうと託したのかもしれないということです。「愚か者」と思われるくらいにならないと、本当のところはわからないし、今の自分を超えることはできないよ、と。
人間、思えば、バカになることは、実は難しいものです。他人をバカにすることは結構するのに、自分がバカになること、バカだと思われることは、プライドが許せないし、感情的に不快なのです。
でも、よく言われるように、バカは最強です。創作の世界でもバカキャラは実は強キャラであり(笑)、恐れもプライドもなく、何も知らないので、ある意味、最強なのです。
ところで、ソクラテスの言葉として有名な「無知の知」というものがあります。正確にはソクラテスの言葉というより、ソクラテスのことを記したプラトンからのものと言われますが、ともかく、この言葉も、「愚者」と関係すると思います。
「無知であることを知っていることが、本当の知の始まりになる」という意味でもあり、また、結局は、無知であることを自覚すると、自分を真の知に向かわせることを示唆する言葉と言われます。
この言葉に関連するソクラテスのエピソードとして、デルフォイの神殿とその神託があるのですが、そのストーリーは省略するとしましても、デルフォイの神殿の入り口に掲げられていたとされるもののひとつが、「汝自身を知れ」という文言であったと伝えられています。
※ちなみに、マルセイユタロットにはアルカナナンバー2としての、神託を得そうな、巫女的な女性のいるカード「斎王」もありますし、ナンバー16には「神の家」という、神殿そのもののようなカードもあります。さらには賢者として見える「隠者」も、ナンバー9として控えています。
この言葉は、グノーシス的にも非常に重要なものですが、(これはあくまで、ひとつの仮説・見方ですが)マルセイユタロットの中にグノーシス思想があると考えますと、「愚者」というカードの存在は、極めて意味深いものだと思います。
私たちは、まずは「何も知らない」と思うこと(知ること)であり、そしてそれは、裏を返せば、実はすべてを知っているからそういうことにもなるのです。
禅問答のような話ですが、マルセイユタロットの「愚者」とその他の大アルカナを見ていますと、実感してきます。
なぜ「愚者」は旅姿をしているのか? ここにもヒントがありそうです。
ちなみにタロットの種類によって「愚者」のカードの絵柄は違いますが、それはそのタロットの目的によって変わるからであり、マルセイユタロットの場合は、「愚者」という名前ではありますが、実際の「愚者」に描かれている人物の絵はフラフラとはしておらず、しっかりと大地を踏みしめて歩いているところが、例えば、ウェイト版などの「愚者」とは違う点だと言えます。(ウェイト版とは人物の向き・方向性も逆です)
「無知の知」の自覚を通して、真実の知は私たち自身の中にあると知るのでしょうが、そのような精神的・哲学的なことだけではなく、現実の地上世界を旅する理由も、「愚者」にはあるのだと考えられます。
そして、その旅人とは、ほかならぬ私たち自身、あなたの姿なのです。
皆さん、「愚者」になって初めて、真実の旅が始まることを自覚しましょう。
逆に言えば、自分は知識がある、賢い、わかっている、えらい、ほとんど経験した・・・などと驕っていたり、どうせ私はこの程度とか、しょせん、何もできない人間だとか・・・自己を低く見たり、投げやりだったりしている時は、真実の世界ではなく、いまだ幻想の世界に生きている(旅をしていない)と言えるのです。
カードから見る異質の時間や世界
人は何か不確かな状態や、曖昧模糊のはっきりとしない感じが続くと、落ち着かないものです。
まあ、性格による個人差も大きいとは思います。
何事もきっちりとしていないといやだという人もあれば、テキトーでいいや、という人など、世の中にはいろいろな人がいます。
人間関係、恋愛関係においても、あまりにこうした(違いの)部分が大きいと、きっちりとした人のほうがイライラし、関係自体、ギクシャクすることも多いでしょう。
世の中、意外にテキトーな性格のほうが、腹が立つことも少なく、何かにこだわることも減り、楽に生きられるのかもしれません。ただ、そういう人は、案外、たくさんの人を自覚なく傷つけていたり、不快にさせていたりすることもあります。
ともあれ、性格というものはなかなか変えることができず、結局のところ、自分の性格をうまく扱い、他人ともつきあっていくのがよいのでしょう。
何でも人に合わせるのではなく、自分の性格を認め、受け入れ、そのうえで他人との違いも自覚し、他人は他人、自分は自分として割り切るところと、調整や妥協もしつつ、お互いに合わせられるところは合わせていくのが、人間関係的にも求められることのように思います。
さて、人間の性格による物事のとらえ方、印象の違いは先述したようにあるわけですが、一方、外の世界側の法則やリズムのようなもの、言い換えれば自然の流れというものもあり、これに反したり、無視したりすることで、うまく行かない時があります。
つまりは人対人の問題だけではなく、人対自然という対立(不和、不調和)みたいなものも、問題の要因として考えられるというわけです。
人対自然については、近代以降の基本姿勢みたいになってしまいましたが、人がすべてをコントロールできるとし、あまつさえ、最近は生命にも手を出して、遺伝子操作などを施し、自分たち人間の支配下に自然を置こうとしています。
しかし、今年のコロナ禍のように、人の外側では、コントロールできないことが起こってきました、今までも、人がすべてを理解し、支配下にできたことは一度もなかったはずです。
まあ、新型コロナウイルスも人工説がありますが、たとえそうであったとしても、ウイルスのもとは自然のものだったでしょうし、それに手を加えて、かえってコントロールができなくなってしまったのかもしれません。
だからと言って、昔に戻れとか、すべて自然の意のままにということを主張したいわけではありません。
ここで、マルセイユタロットの大アルカナを見てみますと、自然のリズム・流れを表しているように思えるカードたちがあります。また、流れといようり、動きそのものが止まっているもの、はっきりとしていないものもあります。
その典型的なものは「月」のカードであり、ほかには、「運命の輪」とか、「吊るし」のようなものがあげられるかもしれません。さらには、「愚者」については、数もないですし、ある意味、混沌としているカードと言えます。
これらのカードは、もし現実的な時間の枠で当てはめようとしても、つかみどころがないというか、過去・現在・未来という、人が認識する時計的な時間感覚にも収まり切れない印象も出ます。
私たちは、今太陽歴で世界標準として動いていますが、旧暦を使う文化のところでは、月の暦、太陰暦を使用している国・地域もあります。日本でも季節を感じること、伝統行事、農業・漁業など自然相手の仕事では、月の暦のほうが使われ、その分野では合理的なのです。
毎日は時計時間で過ごしますが、熱中(集中)している時、楽しい時、反対にものすごい苦しい時など、時間が静止してしまったかのような感覚に陥ることがあります。これなど、まさに「吊るし」と言えましょう。
それなのに、内的には人がどう感じていようと、外の世界は、やはり時間が現実では一様に動いて行きます。それは、地球や惑星が回転(自転・公転)しているからです。いわば、時間は回転によって生み出されています。
すると、タロットの「運命の輪」は明らかに、回転運動の絵であり、こうした時間を生み出している「そのもの」のようにも見えます。
しかし、すでに述べたように、私たちには、時計の時間での日常とは別の、それぞれの感覚による時間(止まっていたり、ものすごく速く動いたりする時間)があり、そして、ほかには、これも回転によって生じているものですが、自然のリズムとしての月などのほかの天体の時間があります。
そう、時間の質の差によって、人対人、人対自然、人対宇宙・・・と対比が作られているのかもしれません。
私たちは、現実での時間が「時計での共通時間」だけだと思っているので、そこからすべてを判断・決定してしまいがちになります。
自分や人の幸不幸、成功・失敗、うまく行くいかない・・・なども、普通の一般時間で見ているから、同じような(正しいと皆が客観視するひとつの)答えしか出せないのです。
タロットカードを見ていると、時間には種類があり、いわば、それだけ世界も違ってくるのだということです。別の質の時間の世界では、明らかに通常世界と違っているところがあり、時間世界の認識(の相違)によって、モノごとの価値観も変化しているのだと考えられます。
私たち日本人が太陰暦(太陽太陰暦)で暮らしていた時間の世界と、現代の太陽暦(のみ)の世界とでは異質になっているのは、何となく、今の私たちにもわかるのではないでしょうか。
実は月の時間世界で生きてきた存在というものもおり、それらは太陽暦になって、見えなくなってしまっています。こうしたものたちには異形(自分とは別存在)のものだけではなく、私たちの中にも存在していたもの(自分の一部であり、今も影としてい存在しているもの)でもあります。
タロットカードは、そうしたことを思い出させてくれます。
「月」などのカードが重要なカードとして出ると、今の常識的で、物事がはっきりと決められる時間の世界とは違う感覚の大切さを示している場合もあると言えます。
ということは、こちらの常識の世界ではあやふやであったり、はっきりとしていなかったり、時には否定されたりすることのほうが、むしろ正解の場合もあるということです。
ただ、この記事中に書いているように、昔に戻れとか、未開の文明時代に帰れというのではありません。
太陽歴になるのにも意味があり、それはタロットの流れとも同じで、タロットは数的に言えば、「月」の次に「太陽」のカードが配置されているのがわかります。
その理由はここでは言いませんが、今の時間の世界になる必然性のようなものが宇宙(の進化)にはあるのだということです。
しかしながら、月の時間のようなものを見捨てていいと言っているのでもありません。
要は、それらの統合にあります。
月が陰、太陽が陽と言われるように、陰陽そろって太極です。
よく「太陽のように輝け」とか、「太陽にように明るく生きよう」とか・・・太陽的に生きるのが正しいことのような感じでたとえに出されますが、何も太陽だけが目指すべく手本とは限りません、月もあれば、その他の惑星もあるのです。
それは個人個人の選択でもあり、合う合わないの、まさに“タイミング”があるのです。
わけがわからない、何をしていいのかわからない、普通に見てこれは失敗だ・・・と思っていても、別の時間の世界では、それはまったく逆であったり、正解や望ましいことであったりするのです。
一般的に言う「正義」であることが、必ずしもあなたにとっていいこととは限りません、タロットカードには「悪魔」や「愚者」もあります。
マルセイユタロットは、常識の世界(多様に見えながら、幻想の唯一オンリーに支配される世界)を一度壊し、そしてあなた自身があらゆるものと調和していく新たな世界(本物の、ひとつでありながら多様でもある)世界を創り上げる装置でもあるのです。
数の情報で得るタロットの関係性
マルセイユタロットでは、数も無視できない情報です。
というより、かなり数はタロットに深く関わっているものと言えます。
ですが、ここでも何度か書いたことがありますが、タロットはあくまで図像がメインのものですから、数秘術的なものを中心にタロットを見てしまうと、それこそ、数秘術の補助の位置にタロットがなってしまいます。
もっとも、数秘術を中心としてリーディングや鑑定を行っている人の場合はそれでいいわけです。
しかし「自分はタロットが中心」「タロットリーダーである」と考えている人は、数はタロットを構成するひとつの要素であると見て、タロットの図像をメインとした情報・解読の取り扱いをしたほうがいいかと、個人的には思います。
さて、そうは言っても、最初に書いたように、数とタロットとの関係はなかなか強いものがあります。
数の観点から、タロットの、特に出た展開のカードのつながりを発見することは楽しいものですし、意外な情報や示唆を与えてくれるものです。時にはリーディングの重要な手がかり、理由の根拠になることもあります。
今日は、そんな数のつながりで見るタロットの話です。
マルセイユタロットの大アルカナは22枚ありますが、これを、「ある数によって分けるやり方」がいろいろとあります。
マルセイユタロットを研究するカルト映画監督の巨匠、アレハンドロ・ホドロフスキー氏は、その著書でも、大アルカナを「10」をベースにした数で分ける(分けつつも統合した見方の)方法を語っています。
それによりますと、アルカナナンバー「1」のカードから「10」のカード(「手品師」から「運命の輪」)と、「11」から「20」のカード(「力」から「審判」)のグループに分け、それらがコンセプトには同じながらも、レベルや階層の違いをもって二段組で構成されるとする見方が提示されています。
なお数を持たない「愚者」と、「21」という数はありますが、完成や完全性を意味する「世界」のカードは、ある意味、数を超越したものとみなし、このふたつのグループからは、はずれることになります。(はずれはしますが、全体像からは、重要な役割や意味を持つことになります)
そうすると、結局、「1」から「10」までの数をベースにした二組ができ、その同じ数を持つカード同士の関係性が強調されることになってきます。
つまり、1には11、2には12、3には13・・・という具合です。
数秘的にも一桁の数は重要で、すべての数の核となるものと言えますが、ここに二桁の数「10」を加えることで、一桁的には「10」も、いわば「1」(1+0=1)と言えますから、数的には、元型的な一桁の数に、レベルや表現の違う二種類の「1」を加えることで、理想や想念の世界とも言えるもの(言い換えればイデア)から、現実的・具合的な次元へとシフトさせる意味も包含させていると考えられます。
大アルカナ自体は、元型的世界を描くものと想定されますが、大アルカナを「10」の数世界で分類していくことにより、現実的な分野にまで範囲を下ろしていく見方もできるわけです。
普通は、小アルカナで現実次元を象徴させるものではありますが(それゆえに小アルカナ数カードは10枚ずつのグループになっています)、大アルカナはすべてを表現できるものでもありますので、こうした「10」でのくくり方は興味深いと言えます。
さて、ここで、「10」枚ずつのグルーピングをした大アルカナに対して、どちらのグループが理想・想念的か、逆に現実的・具体的であるかですが、「10」の数を採用していることから、どちらも現実性は含まれると見ていいかもしれません。
しかし強いていえば、やはり、数の多いほうのグループ、「11」から「20」の10まとまとりのほうが総じて解釈が難しく、イデアや想念、抽象的と言えるのではないでしょうか。
ですから、「11」から「20」のそれぞれが、同じ一桁の数を持つカードたちによって現実化されるという見方もできます。反対に、「1」から「10」のカードたちは、「11」から「20」のグループによって、秘密が開示され、解放されて、より高みや深みに導かれると考えることもできるでしょう。
ここに例として、「8」という数で見た場合の、10グループの二枚を見てみます。つまり、「正義」と「月」で、8と18の「8」つながりカード同士ということになります。
「正義」と「月」、見比べると、まるで違う(意味の)カードたちに思えます。数をベースにしないと、この二枚は無関係にさえ感じられます。
しかし、よく観察してみると、「正義」には天秤があり、「月」には二匹の犬のような動物がいて、吠えあってます。
ふたつのもののつり合い、関係性と見れば、天秤も犬も何やら似たような意味も見えてきそうです。と、同時に、「正義」には剣があり、「月」にはそのような鋭いものはほぼなく、曖昧模糊とした図像になっていて、両者には、かなり異質性が見えます。
ですが、「月」にはザリガニのようなものもいて、はさみを持っています。二枚はまったく違うようでいて、よく探せば、似た部分もあるのがわかります。
「正義」の天秤で見ると、何かを測り、つり合い・バランスを取ると思え、一方の月の犬たちは、つり合いというより、向き合い、吠えあって、何かを訴えているようにも見え、ただ、二匹は二匹で、片方だけではない、二匹なりのバランス関係にあるとも言えるかもしれません。
言ってみれは同じバランスを見ても、「正義」と「月」のそれでは性質が異なり、しかしながら、バランスという意味においては同じコンセプトもあるとわかるのです。
またカード的にも、「正義」できちっとしたものが、「月」ではぼやっとしたものに変わっていて、「正義」の囚われは「月」によって解放され、逆に、「月」の不確かさは、「正義」のルールによって明確化します。
こうして見ていくと、「正義」と「月」は、(ほかにも)何かしらの共通したものがあり、それはなかなか無造作に絵柄だけを見ていたり、意味だけを覚えていたりしていても気づくことは難しいものかもしれませんが、「8」という数において関係している二枚だと最初から見て行けば、その発見が早くなる可能性が高まります。
さらにその発見した共通点が、「8」の数秘的な意味と関連していることにも、気づくかもしれません。
そうやってタロット全体(一組)に思いを馳せれば、マルセイユタロットの精緻な構成、合理性、整合性の感応に至り、つまるところ、宇宙のモデルとしてタロットができていること、逆に言えば、宇宙はオーガナイズされた数的にも美しい世界であることがわかってくるように思います。
皆さんなりに、「10」をひとまとりにした分け方で、一度、大アルカナを考察してみることをお勧めします。
タロットの構成、宮廷カード
タロット一組には、大アルカナと小アルカナと呼ばれるパートがあります。
タロットの種類やメソッドによっては、大アルカナだけ(使う・重視する)というものもありますが、やはり、伝統的に、78枚で一組というのがタロットであり、大アルカナと小アルカナが相まってこそタロットだと言えると思います。
さて、マルセイユタロットの場合、小アルカナは大アルカナよりもあまり活用されていない節がうかがえます。マルセイユタロットを使う人でも、実は小アルカナを学んだことがないという人もいるくらいです。
これにはいろいろな理由があるのですが、やはり、マルセイユタロットの小アルカナの数カード(数札)の図像が、記号的なものになっているので、イメージがつきにくく、わかりにくい、読みにくいという点があるでしょう。
大アルカナの場合、図像がまさしく絵なので、イメージしやすく、絵からダイレクトに意味を浮かべることができます。しかし、抽象的とも言える小アルカナの数カードの図像では、なかなかそれは難しいのです。
ゆえに、実は大アルカナを読む時とは別なリーディングシステムが必要なわけですが、ともかく、とっつきにくいと思われがちなのが、マルセイユタロットの小アルカナと言えます。従って、敬遠され、使われず、使われないから、当然読まない、読めないということにもなります。
しかし、小アルカナには、実はもうひとつ、「宮廷カード(コートカード)」というものがあります。
マルセイユタロットにおける宮廷カードは、実は、大アルカナと絵図の性質は同じと言ってもよいです。大アルカナと同じ、具体的な絵になっています。
違いは、宮廷カードが人物のみの絵で、大アルカナのような数がふられてないということくらいです。見た目はあまり変わらないと言ってもいいでしょう。
タロットを考える姿勢において、タロットの図像・数(構成数も含む)をよく観察するというものがあります。
すると、先述したように、宮廷カードは大アルカナの絵図と性質が似ており、明らかに、数カードは別種だと言えます。つまり、絵の性質から見れば、大アルカナと小アルカナの宮廷カード、小アルカナ数カードという二つの種類に分かれるということです。
「アルカナ」というくくりでは大と小なのですが、絵柄の性質では、上記のような分け方が可能です。
数カードは、図像・デザイン的に見て、ヨーロッパ単独のものではないと想像され、今でいう中東イスラム圏や、インド・中国的なものも入っているように思えます。(その証拠が、歴史的にも残っています)
とするならば、数カードの文化圏と、大アルカナ・宮廷カードは別で、後者はヨーロッパでもともと作られた可能性が高いと言えます。
アルカナ別では違うのに、絵柄や文化圏では大アルカナと同じの「宮廷カード」は、タロットのパートの中でも、特殊な位置にあることがわかります。
いわば、大アルカナと小アルカナをつなぐ役割、中間的ものとも言えるでしょう。
一般的には、ウェイト版なども含めて、宮廷カードは、具体的な人物像を表すとされます。
セオリー的にはその通りだと思いますが、大アルカナと小アルカナの中間的な役割があるとすれば、実はもっと秘密が隠されており、意味的にも別な読み方ができるのではないかと推測されます。
ここで注意したいのが、占いやリーディングであてはめるカードの意味と、システムや全体、構成から出てくるカードの意味合いとは、別なこともあるということです。
この、システム・全体から出てくる意味は、まさにタロット一組そのものが意味をなして主張している思想とか根源的な意味などであり、それは秘密になっていたり、隠されていたりすることがパータンとしては多い気がします。
まだ私自身は完全に明らかにはしていませんが、宮廷カードの特別な位置からして、大アルカナと数カードとの接合カードとして考察していくと、あまり知らされていない意味、使い方、暗号のようなものが浮かび上がるのではないかと思っています。
数(構成数)で言いますと、大アルカナが22枚で、小アルカナは56枚あります。
このうち、小アルカナは宮廷カードが16枚、数カードが40枚です。小アルカナは4という数、つまりは四大元素・4組がベースとなっているからで、どちらも当然、4で割り切れる構成数です。
一方、大アルカナは22枚なので、4で割り切ることができません。
自然に見ても、大と小は数のシステムが違うように判断できます。しかし、大アルカナ自体の構成を見た時、「愚者」という数をもたいなカードと、21の数を持つカードたちに分かれます。
とすると、大アルカナは21という数で「愚者」を特別視する構成も考えられます。それでも、21は4で割り切れません。しかし、3ならば割れます。
また、これは特にホドロフスキー氏が設定しているものですが、大アルカナを「愚者」と「世界」の二枚と、1から10、11から20の数を持つカードたちに分けて見るシステムがあり、要するに、これは10のひとまとりをベースにしたとらえ方です。
10をひとまとりにしたと言えば、数カードもそうですから、ここに、数カードと大アルカナとの数的なリンクをつけることが可能になります。
10自体は、4では割れませんが、10×2=20となれば、4で割り切れるようになります。(この場合、大アルカナの「愚者」と「世界」は割り切れない次元にあると想定します。もちろん「世界」のカードは21なので、ある数で割り切れますが、ここでは21を完全な数として考えていて、「愚者」と同様、数がないように見ているわけです)
すると、宮廷カードも4がベースですから、大アルカナとのリンク性を、数的に考えることが可能になってきます。
このように、まずは、大アルカナの構成(数)を宮廷カード・数カードの小アルカナたちにリンクするために変化させる方法(小アルカナの次元に大アルカナをスライドしたり、落としたりしていくようなもの)がありますが、逆に、小アルカナを大アルカナにあてはめていくことも考えられないわけではありません。
そうすると、小アルカナの数のシステムを変形していく必要があるので、これはこれで難しいと言えるでしょう。
ほかにも一枚に何枚かをつけるとか、枝分かれみたいに考えていくと、数のベースシステムが違っていても、分類やリンクをさせていくことは可能です。
そんなことより、宮廷カードを実践でどう読むのかについて知りたい読者は多いかもしれませんが(苦笑)、今回はその話ではなく、宮廷カードをタロット全体システムの目から見れば、特別な位置にあることがわかり、そのうえで、面白いことがタロットから浮上してくるというヒントを書いております。
宮廷カードの使い方は、一般に考えられているよりも、はるかに多いものがあると言え、実は、自分自身に使えるものなのです。
タロットと接していくと、人に占ったり、リーディングしたりするよりも(それも可能で、すばらしい活用法なのですが)、やはり自分のために使うものとして作られていることが、マルセイユタロットでは実感してきます。
宮廷カードや数カードもそうで、小アルカナも小アルカナなりに、自分に使うためのツールのひとつと言えます。
あと、マルセイユタロットの宮廷カードの特徴として、ランク(階級)は騎士が最上位と考える立場もあるということです。
一般的には、宮廷カードは、王が最上位とされていますが、騎士を最上位とするのにも一理あるのです。ホドロフスキー氏の「タロットの宇宙」では、その一端・理由が明かされていますが、ほかの理由もあります。
王を最上位として見るのか、騎士を最上位として見るのかでは、実はかなり違ってくるところがあります。騎士を最上位にしても、タロット全体として整合性が取れるようにマルセイユタロットは作られています。
トランプカードの絵札でも、ジャック、クイーン、キングと宮廷カードに当たるものがありますが、ここにナイト・騎士がなくなっているのは、騎士自体に特別な何かがあるのではという想像も働きます。
トランプではほかに、タロットと比べると、大アルカナもありません。(「愚者」のみジョーカーとして存在します)
ゲーム用に特化されていると言えるトランプに、大アルカナと宮廷カードの騎士がないこと、逆に言えば、タロットには大アルカナと宮廷カードの騎士がついていること、ここにも、重要な秘密があるのてはないかと思えます。
タロットも確かにゲーム道具として作られたものではありますが、78枚であること、その構成には、単にゲームを複雑化するためだけに付け加えられたとは思えないものがあると想定できるのです。
まあ、占いができればよいという人には、このようなことはあまり関心も意味もないのかもしれませんが、タロットの秘密を明らかにしていくことは、ホドロフスキー氏がその著作で「タロットの宇宙」と題したように、宇宙の秘密に近づくことになるかもしれず、そういう興味方向にある方には、マルセイユタロットは向いていると言えるでしょう。