カードからの気づき
タロット展開から テーマ「感情」
父が10/5に亡くなった関係で、慌しく、しばらくブログを休止しておりましたが、落ち着いてきましたので、少しずつ再開いたします。
さて、今日は皆様へメッセージ的な意味を込めて、タロットを展開し、そこから感じたことを書きます。
メッセージと言っても、よくあるように「今月はどうか」とか、「今後はどうすればいいか」という類のものではなく(それは先月書いています)、出したタロット展開から考えた内容、思いついたものを記す形です。
展開されたカードは、星、月、女帝、悪魔、13、節制ということで、全体を眺めていても、非常に興味深いものとなりました。
マルセイユタロットは、出たカードの内部に含まれる図像の細かな象徴を拾い集めて行くことで、一種の論理的・客観的読みが可能ですが、本日、あえて直感的・イメージ的なもので探ります。
すると、浮かんできたのは、水、感情、欲求、整理、浄化というようなものでした。
一言で言えば、感情とどう向き合うのかという展開のように感じます。
よく、感情の発散や、逆の抑制について言及されますが、やはり、私も感情に関しては、その両方が必要であり、同時に、その扱いを間違えると、感情に支配されがちになると言えると思います。
マルセイユタロットから伝わるものでは(これは私自身がタロットから受け取り、読み取ったものですが)霊的(成長)には、感情体験は欠かせないということです。
端的に「月」のカードがそれを示し、「月」が数の順に並べても、最後の方に位置することからも、実は感情の高次機能や役割を、「月」が示しているように思います。
ですが、感情はやっかいな面があるのも事実で、ほとんどの人間は、肉体ベースと感情の欲求とが結びつき、時に、それらの作用に従わさられる(オートマチックに)はめにもなります。
だからと言って、感情を切り離すと、余計に深刻な問題が「人」として出てきます。
それから、実際の体験や経験がないと感情も動きません。(バーチャルでも感情は動きますが、実体験とは質が違うと考えられます)
じっとしていれば気持ちは安定するように見えて、感情エネルギーの自他の交流がなく、電気で言えば発電する機能が未熟で流路も詰まることになるため、大きく成長(受信と発信が)できないというおそれもあります。
つまるところ、暴走させずに感情を味わい、堪能するということが、人間として必要なのでしょう。
また、特定の事柄が感情と結びついている場合が結構ありますが(トラウマ・事件・無意識の反応)、それらをデータとした場合、そのデータをうまく処理・変換していく必要もあるでしょう。
だからやはり、自分と向き合い、感情的に反応してしまうようになっているデータ(出来事、無意識の記憶など)を浄化しておくことは有意義と言えます。
そのことで、感情の暴走を防ぐことができ、よい意味で、感情をノーマルに味わうことができるのだと想像できます。
簡単に言えば、詰まりをなくす作業であり、感情とデータの掃除、パソコンの最適化とかクリーンアップみたいなことです。
マルセイユタロットはそうしたことにも使えると思いますし、特に「月」を中心にして、ほかの大アルカナカード21枚を結びつけて見て行けば、感情の整理に役立てることができるでしょう。
「死」を考えること
今日はちょっと深刻な話になるかもしれませんので、読みたくない人は避けていただければよいです。
さて、従来あった社会的な縁や援助機能が少なくなる中で、すでに多くの問題がありますが、今後、終末、端的に言えば「死」をどう迎えるのかという問題は非常にシビアになってくると感じます。
マルセイユタロットで象徴すれば、「13」の問題と言えましょう。
まず、孤独化や高齢化している日本では、一人で死を迎えなくてはならないというケースがこれまで以上に増えると予測されます。
死の前の心身機能の衰え、病気の問題もあり、現実問題として経済的なことも無視できないところです。
これまでは家族や個人の責任として、それぞれの死を看取り、葬儀・弔いを行ってきたところで、それが常識であり、普通にできていたのが今までの時代でもありました。
しかし、コロナというパンデミックも経験し、一時は海外では、亡くなった人の処理が追い付かないという厳しい状況もあり、死者の増大と、その対応には、人的にもシステム的にも難しくなることがあるということに、現実感を覚えた人も少なくなかったではないかと思います。
これまでは人が大量に死ぬ、死体の処理が追い付かないなどというのは、昔のこと、遠い国の戦争のこと、物語でのことだと感じていたのが、今現在で、実際にあり得るのだという実感です。
ただ、パンデミックというのはあくまで特殊なケースであり、落ち着けば、そんな心配はいらないと思うでしょう。
けれども、日本では若い人の人口が減り、年老いた人と孤独な人が増えて行く中で、果たして、家族だけで死の面倒を看ることができるのかという問題はある(今後出て来る)と思います。
ちょうど災害の対応が、各個人や個々の家庭ですべて(ではなくても結局、責任は個人に帰します)やらなくてはならないという問題と似ているところがあります。
孤独死してしまうと、最後は行政の介入という話になりますし、家族的に無理な場合も、様々な行政・民間のサービスや支援がありますから、何とかなるのは現状ではあります。
しかし、それもかなり無理な状況がやがて来て、限界も見えてきそうです。
根本的なところ(問題)では、今の個人自由主義の経済システムにあると考えられ、一番の要因は土地や財など、本来の公共的なものが個人の所有として認められている部分にあるのではないかと見ます。
要するに、現在の経済システムによって、共助的なものを中心に、それが機能していないことにあるということです。
言い方は悪いですが、今は「自己責任で死ね」と言わているようなものなのです。
さらに言えば、「死ねば終わり」という風潮(死後についての観念が薄い、生きている間の幸福(経済・モノの獲得中心の価値観による幸せ)こそがすべてというような思い)も問題です。
死生観というものが、極めて個々の勝手に決められ、浅薄なものになっている点も大きいです。
死生観と述べたように、死だけではなく、人の出生についても、もっと考える必要があると感じます。
人は必ず生まれれば死にますので、言わば、生と死はセットです。これらは常に両面、両方向から見るべきもののはずです。
本当に、これからの社会システムと価値観を変えて行かないと、私たちは安らかな死、満足な死というものが迎えられないかもしれませんし、生まれることも厳しい状況になるおそれがあります。
もはや個々の責任とか、個人それぞれが分離した自由というものからの発想を変えなければならない時に来ているでしょう。
つまりは個とは逆の、全体で見る視点であり、発想であり、システムです。簡単に言えば、全体がひとつ(巨大な一人)の人間みたいなイメージです。
そしてその巨大な人間が、ひとつの全体システムとして機能します。
そうした共有意識を持つためには、実は一人一人が別の意味での責任感・自立的意識を持たねばなりません。言ってみれは、他人事(ひとごと)という考えが通用しなくなる世界です。
おそらく、個として分離社会(個人の意識、権利、自由が確立してきた社会)が近代以降進んだのも、全体社会への進化のための過程だったのではないかと推測します。
要は、個として自立を成すための準備です。個人の自立意識が確立しないと、全体に飲まれてしまえば、それはただ依存や強制的な奴隷、洗脳に近いものとなります。
全体で共通意識を持つためには、逆説的ですが、個の自立意識が必要なわけです。
そうした準備が整いつつあり、むしろ、個の意識が行き過ぎて、霊我を忘れ、自我(エゴ)が強まり過ぎているのが現代社会と言えましょう。
早く霊我的な意識を取り戻し、「全体しての私」に進化していく必要があります。
ただそれはエゴを無理矢理捨てるのではなく、エゴを自覚し、コントロールすることが求められるのです。(マルセイユタロットで言えば、「力」のカードにある女性とライオンの関係)
マルセイユタロットでも、「13」の前には、「力」「吊るし」と数的に並びます。「吊るし」は巨大な人間も示し、全体意識への変転(個から全体への転換、反転)を意味していると言えましょう。
死というものは、普段はどうしても考えない(考えたくない)ものですが、先述したように、生きていれば必ず迎えるものです。
死を意識してこそ、いろいろなもの(本質)が実は見えてくると言えます。
死を通して、自分のことだけではなく、周囲から社会、全体へと見渡すことも可能です。
ただ死を不安に思って避けるのではなく、怖いことそのものは自然だと思って受け入れていく過程が大事かと思います。
死は誰にでもありますが、誰も思いたくないもので、それを思う時、恐怖と不安に支配されます。
これも個の責任だけで考え過ぎると、余計不安と恐怖が増大するでしょう。だから、誰かと死の話をするのはよいことなのです。
死の怖さの吐露、共有が、恐怖を和らげるのです。(死への準備になる)
そして精神的なことだけではなく、現実的、社会システム的に、死を安らかに迎えられる機能・体制が整えば、さらに死というものの観念が変わるでしょう。
考えみれば、私たちは本当に、自分たちで恐怖とか不安を煽る世界を創ってしまっていると言えます。
人類の智慧と努力があれば、もっと安心な社会、深い心と慈愛に満ちた世界にできるはずなのです。
そのことに多くの人は気づいていますが、さらに自覚を高め、何が本当によいものなのか、自分自身にも、社会にも求めて行くことが大事でしょう。
少なくとも、まずは自分自身の本当の気持ちと向き合うこと、小さくても、自分自身を示す行動をひとつでも起こすことは重要かと思います。
死、自分の終末を考えることも、そのひとつと言えましょう。
皆さんで、もっと「よい死」をイメージしていきたいものです。
月のタイミング
タロットカードでは、どのカードもそれぞれ関連性があると言えますが、あるテーマや問題を意図した場合、特にその関連性が強まって来るカード同士があります。
今回はそのような例として、「月」のカードと「運命の輪」を取り上げ、特に「月」についてふれてみたいと思います。
この二枚は、タイミングをテーマにして結びつけることができます。そしてタイミングと言えば時間に関係します。
「運命の輪」はその回転性から「時間」を象徴することは知られていますが、「月」は時間と関係あるのでしょうか?
かつては月(の運行)を基準にした暦が使われていたくらいですから、月は太陽とともに私たちの生活時間に密接に関係していますし、ある意味、私たちの日常的な時間を作っている天体のひとつとも言えます。
特に「月」の時間・タイミングは、太陽のそれと違い、見えない領域、自然の生命的リズムなどを司っているように感じます。もちろん、太陽も一日を支配し、一年を形成しており、それも自然と言えば自然です。
しかし、太陽が何か意思があるような、表に現れる強い時間のようなものをイメージさせるのに対し、月のほうは優しく、オートマチックに流れている(無意識の)ような感じがあります。言ってみれば、太陽が表の時間、月が裏の時間という表現になるでしょうか。
月が裏で自然的な時間であることは、マルセイユタロットの「月」に、人間ではなく動物やザリガニのようなものが描かれているところからも想像できます。
ところで生命を育んできた大きな存在といえば、地球では「海」が思い浮かびますが、「運命の輪」と「月」には、その海と関係するような絵と言いますか、水の部分があります。
「月」のほうは、水たまり的な感じではありますが、手前側はもっと広大になっているかもしれず、それは海とつながっている可能性もあります。
一方、「運命の輪」は、明らかに大海に浮かんでいるかのようなマシーン的な回転体が描かれていますので、海というイメージは明確です。
そして、海の潮の満ち引きは、月の引力によって起こされていることが知られています。ここからも「月」と「運命の輪」が関係していることがわかります。
タイミングや時間をテーマにすると、この二枚が今述べたように関連し、地球における時間、あるいは「運命の輪」の名前のように、人の「運命」さえ「月」が影響を及ぼしている可能性がうかがえます。
人生において、タイミングが大事だとよく言われますが、確かに、選択や物事が起きるタイミングによって、私たちの人生は大きく変わってしまいます。
もし成功と失敗と言う概念を入れるとすれば、「あのタイミングたから成功した」「あのタイミングを間違えたから失敗した」という人も多くいることでしょう。
「運命の輪」のほうの時間・タイミングは、もしかすると自分で選べたり、ずらしたりすることができるのかもしれません。けれども「月」の時間・タイミングは宇宙の天体のことなので、一人の人間の力ではどうしようもなく、だから月のタイミングは皆に共通で、無慈悲なところもありそうです。
逆に言うと、月のタイミングをよく知っておくことで、私たち人間が意識する時間(地上の生活時間)をうまく活用できる可能性もあります。
また、タロットカードは単なる組み合わせだけではなく、構造や要素として立体的に組み入れて見ることができます。このことはあまり知られていません。
どういうことかと言えば、簡単に言えば、あるカードの中にほかのカードが入るような構造で見ることです。
今回の場合、「運命の輪」の中に「月」が、その逆に、「月」の中に「運命の輪」が入ると見立てるわけです。
こういう見方をすると、宇宙時間・地球時間・個別時間(一人一人の時間)などの時間の性質、種類分けのような感覚も生まれてきます。
占星術でも、それぞれの惑星の時間性質を見るのがひとつの技法だと私は考えていますが、それと似たようなことになってきます。
そうしますと、私たちが実際に何か意図(計画)して実行したり、働きかけたりしても、なかなかすぐに効果が出ないことがあるのも、時間の性質が異なるからだと見ることができます。
これは二枚のカードで言えば、「運命の輪」中に「月」があるということであり、月のリズムが自分の実際のタイミングに関わってきている感じになります。
月に満ち欠けがあるように、満月や新月になるにはその途中の過程があり、つまりは物事の成就、変化、消失(終わり)には、月の満ち欠け的なタイミングがあり、それが自分の時間の中にも影響してくるわけです。
「月」のカードが出ますと、まるでほかのマルセイユタロットのカードで言うと「吊るし」のような待機モードを指していることも多く、ただそれは「吊るし」で待っているのとは違う「月」の待ち方があるのです。
「月」は何やら不穏なイメージもありますが、大アルカナの数の順序では、「太陽」の前の段階でもあるのです。
ということは希望もあり、自分が迷いながら行ってきた様々なことが、やがて有機的に結びつき、効果を出すタイミングがやってくるという意味もあると言えます。
それが「運命の輪」のような明確な変わり方ではないことが多いために、一見、暗闇状で救いがないような、曖昧模糊とした様子に自分は感じてしまうのです。
タロットの展開で「月」が出ている場合(正逆を取る場合は正立の時)、「月」を信じると言いますか、「月」の中に「運命の輪」を見るというような感じで、やがて訪れる夜明けを待って、静かに裏であっても進めて行くと、いつか効果・変化は出ると思うとよいでしょう。(ほかのカードとの組み合わせで、解釈は変わってはきますが)
ただグノーシス的には、この月の支配も超えねばばならず、それが「運命の輪」ともつながっており、「運命」や「運勢」に作用されている段階(吉凶的運勢を過剰に意識する段階、もしくは全くの惰性・反応で生きている段階)では、月の支配がますます強まることが、マルセイユタロットからも示唆されています。
換言すれば、「月」と「運命の輪」が創り出している(仕掛けている)「時間・タイミング」のリアリティ(感)から逃れることが、大きなカギだと言えるのです。
マルセイユタロットは中立的
マルセイユタロットのよいところは、絵柄が芸術的であったり、特定の人が恣意的に描いたりしたものではないので、(絵柄が)中立的に見えやすいということがあります。
一般的なタロット占いでは、どうしても、吉凶的な意味をカードで見てしまい、カード自体も、いいカード、悪いカードというように種類分けしてしまう傾向が出ます。
もちろん、何事も両面があると考えますと、吉凶が出る(と見る)のも悪いわけではなく、はっきりいい・悪いを判断してもらえるなら、それは結構、現実的な意味で有用な場合もあるわけです。(中途半端に出されるより、実際的な選択がしやすい)
しかし、もう少し深く見て行くと、そういう白黒はっきりつけていくのもどうかというレベルも見えてきます。
まず、吉凶とは、簡単に言えば良し悪しですが、ではそのよいと悪いは、何が基準になっているのかということです。
吉凶を決めているルール、価値のようなものです。
それは大きく分けて、全体的な常識性のものと、個人的なものがあると言えます。
全体的なほうは、いわば一般感覚、みんなが思う一般的大衆的価値観というべきもので、個人的なものは、文字通り、一人一人の個人がいい・悪いを判断する基準(価値観)です。
全体的なものは、人間の快不快をもとに、痛み・苦しみから逃れたいという思いと、もっと楽したい、満足したい、充実感を味わいたいという、言ってみれば欲求から来る価値がもとになっていると考えられます。
お金を得たい、健康でありたい、恋人やパートナー、友達に恵まれたい、注目されたい、有名になりたい・・・などなど、ほとんどの願望は、人間の快不快(肉体だけではなく精神も含む)から出ており、結局、幸福や不幸というのもそこに起因しているように思います。
そして、もうひとつは、その時代における価値観も合わさって来るでしょう。昭和と令和では大きく物事の価値観も違うように、時代やその時の民衆の置かれた状況で、考え方もかなり変わるからです。
いずれにしても、全体的なものは人の共通的価値観と言ってもいいでしょう。
一方、個人は、人それぞれであり、ある人がいいと思っても、別の人には悪いと判断されることも当たり前にあります。こちらはバラバラな(分離的)価値観と言えます。
この全体的・共通的なものと、分離的・個人的なものとの、ふたつのルール・規則のようなものによって、いい・悪いが判断され、決められて行きます。
ルールであるからこそ、これは一種の縛りでもあります。ということは、吉凶、幸不幸、いい・悪いのような二元的判断ばかりしていると、ずっと、先述したふたつの価値による縛りの中で生きて行くことになります。
これは、端的に、マルセイユタロットの「運命の輪」の輪と動物二匹そのものの状態です。そう、ずっと同じ輪の中で、グルグル回り続ける事になります。
ですが、決め事が明確なので、早く決断できたり、情報と判断を的確にしたりして行けば、よい選択をし続けることも可能でしょう。
「運命の輪」の輪で言えば、輪の回転スピードを上げて行くことができるので(回転が速くなる)、物事がスムースに進み、充実した感覚も起きてきます。
ちょうどメリーゴーランドで楽しんでいるみたいな感じとも言えますし、ドライブ好きな人が、快適に運転ができ、自分の操縦と流れる景色に充実感を覚えているようなものとも言えます。
ところが、それはあくまで輪の中の話なのです。ここから出ているわけではありません。つまり、同じ世界とレベルの中で回っているだけなのです。「井の中の蛙大海を知らず」ということわざがありますが、まさにそれかもしれません。
この現実の世の中は、あらゆることが二元(ふたつの性質、ふたつのセットであるもの)で象徴される世界であると、マルセイユタロットからも考えられます。
同時に、二元を超えた世界観もあり得ると想定できます。二元を超えるとは、すなわち一元的な世界です。
それは、現実の今の普通の認識でとらえている(感じている、実感の)世界ではあり得ないものですが、それでも一時的・瞬間的・局所的には至ることもあると想定できます。
私たちの現実世界は、おそらくどこまて行っても二元的なものが連なる世界だと思われますが、たとえ二元が続くにしても、そのレベルは異なるものだと想像します。
同じところに多重の世界があると言えばよいでしょうか。それがレベルを変えて、同じ二元構造で連なっているイメージです。
多重の世界には、レベルの違いがあり、上位レベルと下位レベルでは、まさに世界が異なるとも言えます。
上のレベルに行くためには、今の自分が属している二元世界を超越しないとなりません。それには、二元を一時的に統合して、一元的な境地を体得することが求められます。
到達した一元的世界でも、すぐにまた二元に変わるでしょう。そうしないと、バラエティある、個別世界の現実認識は生まれないからです。
しかし、元の世界より上昇しているため、今までのレベルでの思考・感覚とは違ったものとなり、すなわち、とらえている(感じている)世界もまた変化するのも道理です。
この下から上へと上昇するためには、今も述べたように、従来の二元的世界の認識、つまりは自分の価値観(全体的な一般の価値観も入っています)を統合して一元的なものに変えないといけないわけです。
一元的なものにするということは、これまでのいい・悪いがなくなる状態にするという意味であり、自分が常識的・日常的に思っていた、いい・悪いの選択において、どちらでもあり、どちらでもないと真に見える(思える・感じる)境地となることなのです。
それは、白でも黒でもないので、まさにグレーゾーンとなるわけです。グレーゾーンと言えば中途半端に思えますが、どちらでもないものに戻すこと、グレーにすることで、上のレベルの見方と認識が現れて来ると言えましょう。
スピリチュアルの言葉を使えば、グレーには、アセンション(上昇)の過程のグレーと、停滞・デセンション(下降)のグレーとの、ふたつがあると表現していもいいかもしれません。
話は最初に戻りますが、マルセイユタロットは中立的な絵柄なので、吉凶的、白黒的な二元的価値観に染まりにくいものであり、一元的な世界に導くきっかけにもなり得ることを強調したかったわけです。
マルセイユタロットは、人によっては、平板でつまらない絵に見えるかもしれませんが、それこそが意図的にされていることで、マルセイユタロットの特質なのです。
節制」の天使、救い・救われること
今日から9月ですね。
さて、本日、マルセイユタロットから浮かんできたのは、「節制」からのメッセージでした。
「節制」は、天使姿の人物が、ふたつの壺を持って、液体を注ぎ入れているような絵柄です。つまりは、「天使」「ふたつの壺」「液体、水」というようなところが重要な象徴となっているわけです。
今回はこのうちの“天使”に関わるもので、「救済」がテーマとなります。
マルセイユタロットの大アルカナは、意識の元型を表しているという説があります。もう少し別の柔らかな言い方にしますと、自分の中にある22枚の性格、姿、キャラクターなど示すと言ってもよいです。
その考えでは、誰しも「節制」という一枚が、心の中に住んでいるのです。
ならば、「節制」の天使の意味から出て来る、救いや救済というものも、人の心にあるわけです。
私たちは「救われたい」という思いと同時に、「救いたい」という思いも持ちます。おそらく、人間は、この両方を欲求として持っていますし、どちらも満たされないと、充実した感覚にはならないのだと思われます。
苦しい時、ピンチや危機に陥っている時は、助けてほしい、救ってほしいと願い、自分に余裕のある時、またそうではなくても、困っている人を前にした場合、やはり、たいていの人は助けたい、救いたいと思うものでしょう。
意外に感じるかもしれませんが、いつも救われたいと思っている人でも、反対の、救いたいという思いも奥底では持っているのです。
言ってみれば、助けられるだけの存在ではダメで、私も誰かを助けられる人になりたいという願いが込められているわけです。つまり、救いたい欲求の反動で、救われる立場を自分に演出するという状態です。
それは、救いたい(という思い)がために、救済の状況・場面に自分を置いて、救い・救われの循環の中からはずれないようにしているからたと考えられます。
この救い・救われという構造は、よく考えますと、二元分離であり、救いたい人が満足するためには、救われなければならない人が存在しないといけないことになります。
決して、片方だけの存在で救済は成立しないわけです。
ここに救いの落とし穴があります。
救済願望、救済のループ(救う者と救われる者の繰り返し)の中で、自分の欲求を満たし、自己の存在(自分が自分であることの証明)を立たせる人がいるのです。
特に、「救われたい」と思っている人の中に、「救いたい」願望(欲求)が隠されているケースがあるのでやっかいなのです。
救い・救われという二元構造の中では、片方だけでは成立しないことは言いました。
ゆえに、どちらの場合であっても、反対側の願望や欲求が隠されていることがあり、救われたいには救いたいが、救いたいには救われたいがあって、セットというわけです。
では、救いたい気持ちも、救われたい願いも、持たない方がよいのか?と言えば、そうではありません。
と言うより、現実次元、肉体をもって一人一人違う自分という意識を持っているこの世界では、むしろ、救い・救われに分離するのか当たり前で、どちらか、あるいは両方の気持ちを持ったことがないという人は、ほとんどいないでしょう。
ということは、この現実世界は、そうなることが設定の世界だということがわかります。
そういう設定ならば、そうしなくてはならないと言いますか、それを経験することがデフォルトみたいなことです。
この構造から逃れようという考え方もありますが、ひとまずは分離体験を味わい、自分が救う側に回るもよし、救われる側に回るもよしとしてみてもよいのではないでしょうか。
それは一種のゲームであり、役割と言えます。
だから人を助け、救う立場をやってもいいですし、そういう人が出ることは、反対の、救われる者、助けられる者がいてこそですから、その立場になるのも必然で、自分は、時と場合によっては、助けられる側になればいいわけです。
しかし、注意しなくてはならないのは、先述した、自己存在のためのアピールのような理由で、救い、救われるものになり過ぎるのは問題だということです。
「救ってあげている(救うことのできる)自分はえらい」とか、逆に、「私は救われてやっているんだ」とか、「助けてもらわないといけない、か弱い存在なんだ」と、助ける者に依存する状態とかを言います。
一般的には助けられ過ぎることには非難がありますが、いわゆる「お節介」という言葉があるように、助け過ぎるのも問題で、あまり言われないか、やっている本人に悪いことの自覚がない(むしろ親切でやっていると思っている)場合が多いです。
お節介は、本来ある相手の力と責任をスポイルすることになり、自立を遅らせてしまいます。典型的な例では、過保護な親とか、一見、優しいようで支配的な上司などにありますね。
ともあれ、「節制」の天使と言えばよい印象になりますが、天使も行き過ぎれば人を堕落させてしまいます。(それは天使というより、悪魔みたいなものですが)
救い・救われ欲求に気をつけながら、この現実世界での救済ゲームに、立場(救う側、救われる側)を入れ替え経験するということは、おそらく霊的な成長のためには必要なことだと考えられます。(救い・救われの感情エネルギーの交流は、すさまじいものがあるからです)
ひとつ言っておくと、神からの救い(神によって救われる)次元ではなく、私たちは、まず人同士の救いの次元を厚く(熱く)経験する必要があるのではないかと、これからの時代については特に思います。