スピリチュアル
アセンションについて
スピリチュアルな世界、精神世界の考え方のひとつに、「アセンション」というのがあります。訳としては「次元上昇」と言われますが、ちょっとわかりづらい表現です。
まあ、簡単に言えば、私たちのレベル全体が上がるよ、それで世界が変わるよ、ととらえていいかと思います。(笑)
それで、「上がる」「変わる」と言っても、それは物質的なのか、霊的(精神的)なのかという点では、また違って来ます。もし物質的にも変わるのだとすると、見た目も何もかも変わるということになり、それこそ世界大改変といった現象として現れるでしょう。しかし、霊的・精神的な変容だとすると、内的には変わっていても、見た目、外的にはさほど変化はないのかもしれません。
もっとも、スピリチュアルの基本的な考えは、内が変わって外が変わる、あるいは外は内なるものの投影みたいに言われるところがありますから、霊的変化そのものが物質面も変えることになるのかもしれません。
グノーシス的にはおそらく認識の次元が変わると言いますか、深まる(高度になる)ことで、世界(宇宙)の見え方も変わる(それは空間認識の変化も意味する)のだと考えられます。
さて、ここで、よく言われるのは、宇宙は進化や発展の波・流れというものがあるので、どの道、人類も進化していくことになり、いわゆるアセンションも、時期が来れば自然に起きるのだという説があります。
一方、一人一人の気づきや努力が、アセンション(を起こす)には必要という意見も少なくありません。
前者と後者とでは対立してしまいますが、考えによっては、どちらも正しいとする見方ができるでしょう。
個人的には、霊的時間と物質的時間とに分けて考えないといけないかなと思っています。言い換えれば、アセンション後や、今の私たちの通常認識を超えたレベルの時間感覚と、三次元認識の現在の私たちの時間感覚では違いがあり、両者を区別して考えないと、おかしなことになるという話です。
ここからすると、宇宙の流れに従い、自動的にアセンションしていくという(受動的な)考えと、自己(各々)の努力、気づき、働きかけが何よりも重要という(能動的)考えの統合ができるように思います。
その詳しい考えの解説は、あえてしません。皆さん自身で考えてみてください。(笑)
マルセイユタロットで言えば「運命の輪」に描かれていることだ思いますし、「運命」というものをどうとらえるかによっても、アセンションに対する考えは異なってくるように思います。
天上と地上世界との間で
これも見方や立場によって、いろいろと言えますが、私自身は、マルセイユタロットには、天上的なものと地上的なものとの思想対立とでも言いますか、葛藤が描かれているように思えます。
今のスピリチュアルに関心のある方たちの多くは、理想的には、そういう天上と地上の葛藤があっても、それらを統合していけるものという思いがあるでしょうし、また、地上的繁栄と天上的繁栄はリンクしており、言わば、精神的・霊的成長があれば物質的にも恵まれるという考えもある(実体験のある人もいる)でしょう。
しかし、マルセイユタロット的には、地上的なものと天上的なものは、結局、レベルとか次元が違うので、地上から天上を見るのと、天上から地上を見るのとでは、同じようでいて、まるで異なることではないかという気がしています。
もう少し別の言い方をしますと、私たちの視点は常に地上から天上へという方向性であり、地上における幸福や充実、発展、成長といったものを見ます。
私たち一般の人間が、幸せだとか充実だとか善だとかと考えたり、感じたりするものは、どうしても短期的(人の一生か、せいぜい親子・孫世代くらいまで)で、人間の実生活に基づく、肉体的・物質的なものが中心となります。
たとえ観点が精神的なものであったとしても、個人の心が思うもの、もしくは集合的であっても、その人類としての全体意識みたいなものとなります。
これが天上性からの方向性になりますと、言ってみれば神目線のようなことになりますので、非常に長期的、俯瞰的、宇宙的レベルなものとなるのは予想され、一人の人間の幸せ感(観)がどうこうとかのレベルでは当然ないでしょうし、たとえ人類全体規模であっても、しょせんはそれも小さな地球規模みたいなものです。(もっとも、宇宙は地球しかなく、その反映として、ほかの惑星や宇宙があるかのように見えているという説もありますが)
ということで、私たちは、地上生活を頑張って生きているわけですが、その過程や結果が思うように行かないことになるのは、誰もが経験していることだと思います。
それは地上的に見れば、不幸だとか失敗だとか、ちゃんと努力しいるはずなのに・・・と不満や理不尽さを感じさせるものではあっても、天上的に見れば、きちんと理屈が通っているものではないかということです。
マルセイユタロットの「神の家」ではないですが、天上的視点から見れば、地上の苦しみにも意味があり、それも真の幸福につながっているのだという視点です。
なるほど、これに基づくと、地上性と天上性とではレベルや次元の違いが大きく、私たちは天上ルールを推しはかることができないので、地上的幸福として人間レベルで見るのが普通となるがゆえに、天(天上・神)の真の意図がわからず、地上の不幸や災厄の本当の意味を知ることができないということになります。(逆に言うと、天からすると、すべては公平で完全、真の幸福に向かっていることになります)
ところが、そうでもないかもしれない、というのが今日の趣旨です。
実は、天上的レベルが、私たちのいる地上的レベルによって、まるで光が屈折して曲げられてしまうかのように、何か虚像、鏡像のように、(地上において)本当の姿でとらえられなくなってしまっているからだとも考えられるのです。
詩的にあえて表現するのなら、天上の光が正しく届いておらず、偽物の光を受けて、地上生活を照らしてしまっている(つまり影を見ている)状態だということです。
ですから、いくら地上的に平和を見ようとしても、そして天上的な立場に近づこうとしても、私たちが見ている世界そのものが虚像と言いますか、幻想のようになっているので、どこまで行っても平穏(真の安寧・幸福)はないみたいなことにも感じます。
ふと、ここで般若心経の文言が出てきます。
般若心経では、ひたすら、「そんなものは無い」の無い無いづくしに終始します。無いからこそ最上だみたいなことのようにも聞こえます。
スピリチュアルや心理系の世界では、肯定していくことが尊重されます。
しかし、否定し続けて行く方法もまた、真理に近づく道かもしれません。
地上そのものと、地上における欺瞞の天上性をすへで否定し続けていくことで、そこに現れる真の光(グノーシス)というものがあるのかもしれません。
一件、逃避的で破壊的、虚無的行為のように映るかもしれませんが、地上の苦しみの中にある人にとって、否定というのは、悪い思想行為とは思えません。むしろ救いの道の一つではないかと想像します。
地上における理不尽で大変な生活をしている人、あるいは、何か違和感を覚え、暮らしている人にとっては希望となるものです。
それこそ、個人的な感覚でいえば、下手な肯定よりも否定に愛があるように感じます。
本当にいろいろな道や選択はあるのだと思いますが、さらなる探究をマルセイユタロットを通して続け、自他ともに常識の世界(地上世界)からの希望と救いを見い出したいと思っています。
そして、諸事情で、しばらくブログ活動は休止いたします。(再開はする予定です)
またの日までは、過去記事もたくさんたまっていますので、お読みいただければありがたく思います。
それでは。
大きなの流れと個人のポイント
冬至も過ぎ、太陽周期のうえでは、新しい年が始まったと言えます。
かつて書いたことがありますが、クリスマスやサンタクロースも冬至と関係していると考えられ、昔ながらの太陽信仰がキリスト教に取れ入れられた結果だと思われます。
日中が一番短くなる日を境に、再び日が長くなっていくところから、この時期に、物事の再生・復活を象徴化させているとも言えます。
私たち、現代人の考えからすると、このような「象徴化」は、単なるこじつけのように見えるかもしれませんが、そこには現代ではとらえられないきちんとした別の理論と言いますか、大局的見地と古代から続く伝統的論理があり、簡単に言えば宇宙や自然の構造が、根本的には同じであるという認識から生まれていると考えられるものです。
霊的な感性(思考性でもある)をかなり失った(というより、隠れてしまった)現代人では、暦の巡りは、毎日のスケジュール、日の移動という直線的・単純なものでしか見えなくなっています。
すべてにはつながりがあること、モノと霊(精神も含む)の関係として意味があることは、霊的感性が回復してくれば、リアリティをもって感じられてくるものと想像できます。
その回復のための、ひとつの手がかりが「象徴」という考え方・とらえ方なのです。タロットはその象徴システムからできています。
ですから、タロットを扱うことは、霊的感性を取り戻すためでもあるのです。
日本においても年中行事等を通して、祭りなど特異点のような日、行いがありますが、それもお祭り騒ぎをしたい(民衆の気持ちとしてそれはありますが)というものではなく、背景に物質次元を超えた霊的な意味があったと考えれます。
私は大学時代、民俗学にふれていまして、その私たちの民俗学担当教授は、実際に離島などでフィールドワーク(現地調査や現地での収集・研究)をされていたこともあり、「現地の人の素朴に見える信仰には、皆さんが思うより大きな意味がその人たちにはあるのです」と、心を込めて語られていましたが、その理由が今なら本当によくわかります。
それは学術的な意味合いのことではなく(それもありますが)、そこにいる人たちの信仰が、その人たちには特別な意味を持つ霊的な力と関係する(その場や環境に働いていたこと)をおっしゃっていたのだと思います。(儀式と信仰の力と意味合い)
そして部外者の者、その場の霊的フィールドを共有感覚化していない者には、結局、学術的な目線か、部外者の常識目線、観光的な興味本位でしか見ることができず、変わった風習だなあ・・・とか、なんで今時、こんなことをしているのだろうか・・・とか、不思議がったり、面白がったりしているわけです。
そのため、本当に行事の意味を知るには、そこに住んで生活しないとわからないこともあるのだと思います。
アニメで「蟲師(むしし)」という作品がありますが、この作品に描かれる部外者と当事者の感覚の違いが、雰囲気的には近いかと思いますので、参考になるかもしれません。
さて、同じ冬至のことでも、話題は変わりますが、今年の冬至の時期は、少しスピリチュアル的には話題になっていたようてす。いわゆる地の時代から風の時代に変わるポイントだと。
確かに、そういう切り替えの時には来ているのかもしれませんが、闇雲にそういう情報に踊らされるのにも注意しないといけません。
ここで前半の記事とリンクしてくるのですが、重要なのは、全体の流れを個としてどう感じるかであり、言い換えれば、私たちが大自然や宇宙の一部であること、いやその逆に、私たちの一部が大自然や宇宙であること(この言い方はおかしいですが、こちらの言い方のほうが、鍵に近い言葉だと思います)の回復にあると言えます。
その意味では、地の時代から風の時代へというのも、ひとつのきっかけ、契機に過ぎません。
私たちはそれこそ地の時代の感覚のまま、全体と個が分離され、モノと霊、モノと精神を分断して見るようになってしまいました。
それでは、前半で述べたように、暦も、時代の流れも、直線的にただ進むだけ、過去・現在・未来と、一方向で経過していく感覚であり、ひとつひとつ、記憶や感性さえも、モノのように一方向に並べられたたような状態でいます。
数や日で言いますと、21日と22日は、一日の違いがあるだけで、21日から時間が経過して次の日になったに過ぎないというとらえ方です。
ですが、私たちそれぞれにとって、21日と22日は精神的に決定的な違いがある人も世の中にはいたでしょう。
例えば誕生日が21日の人は、22日とは明らかに意識が違うはずです。なんでもないただの一日の人、一生の思い出の日になった人、忘れたい嫌なことがあった日の人・・それぞれにとって、特別の日とそうでない日があるわけです。
これは結局、数量の違いではなく、質の違いで見ているからです。
あくまで個人としての日にちの見方だとバラバラな印象ですが、ここで言いたいのは、質を見る感覚を思い出してほしいということです。
そして、一年スパンで見た場合、個(個人の感覚)とは別の、宇宙や自然の流れの全体的な質の違いも、やはりあるのです。
まず全体が、その質の違いによって回転している(循環している)ことを知り、それが大小、様々なレベルで働いていること、それらが次元、階層を変えて、ついには自分、個としてのレベルにおいても流れていることを知るのです。
イベントが一見、個人それぞれで無関係で起こっているように見え、さきほど述べたように、ある人にとっての日は日常の日でも、別の人にとっては特別な日となっています。
それもまた、カレンダーの日の流れだけではなく、宇宙のサイクルの一部として見ると、実は同じシステムによって起こり、消滅していることに気がつきます。
無理矢理、誰かの言うような、大きな流れを自分にルールとして適用して、例えば、いついつまでになになにをしないと流れに取り残されるとか、ゲートが閉じるとかで恐怖や不安に囚われたり、あせったりする以前に、外側ではなく、内側、自分自身を見つめ、個の質を知ることが大事です。
しばらくは人の言っているようなことは無視して、自分がどういう流れにあり、どういう現実と心の動き方をしているのかを確認してみることが先決です。
そのうえで、少しずつ大きな流れというものを意識してみましょう。
他人の言う外側の情報に、自分を無理やりあてはめることは、それこそ地の時代の考え方・やり方なのです。
自分の感覚を主観と客観で確認していくこと、いきなり全体(宇宙や自然のようなもの)へ適合しようとあせらないこと、自分が自分であること、ここをまず確立させていくほうが、遠回りのようでいて、結局、スピリチュアル的にもしっかりとした道を歩んでいくことになると考えられます。
それはマルセイユタロットが示す、霊的成長の道のりからも言えることです。
よく見てください。
「なになに、いついつは変わり時、変化の大きなチャンス・・・」などと言っている人は、毎年毎年、何かのネタを引用して広告しているわけです。
春分秋分・冬至夏至しかり、ミレニアムしかり、平成・令和の元号しかり、マヤ歴しかり、惑星運動しかり、歳差運動周期しかり、彗星の近接しかり、満月・新月しかり、毎月一日しかり、誕生日しかり・・・ネタをあげればキリがありません。(笑)
重要なのは、そう言ったものが、なぜ切り替えや変化のポイントになるのかという意味の背景を知ることと、霊的感覚の回復です。
誰かのいうポイントに、カレンダーで赤丸をつけて、そこに向けて自分を追い込むようなことではないのです。強いて言えば、自分の中の感覚に気づいて、ふとカレンダーを見ると赤丸がついていた・・・みたいな感じになるという、逆のような形です。
そして、人によってポイントは違いますから、大きな流れのポイントに乗れる・乗れないにあせるより、まずは自分にとって重要なポイントはいつか、どこかを注視し、人と違ってもよいのだと思うことです。
いわば、それぞれ個人に列車は用意されていて、その列車内の車両を移ることをまずは意識していると、列車自体(自分の乗っている列車自体)は、いつのまにか線路の切り替えポイントに導かれながら、皆それぞれの乗った列車が同じ路線に集まって来るような感じです。
それぞれが違う路線を回っていても、最終的には同じ駅の何番線かのホームに、皆到着するというイメージでしょうか。確かに人によっては、たどるルートは違うでしょうが、目指す駅は同じで、そこを目指すことさえ意識すれば、必ずたどり着くようになっていると考えられます。
見た目の比較だと、あなたが各駅停車の列車で、他人は特急列車に見えるかもしれませんが、それは今のあなたの目に、そう映るだけで、演出なのです。
あなたは普通電車でもいいのです。すると、関西圏のJRではよくありますが(笑)、途中から快速電車に変わることもあります。
まずはマイペースというものを大切にし、他人に踊らされないようにすることのほうが、今の時代、真の意味でスピリチュアル的だと言えるかと思います。
ムーミン少年(少女)の末路と僥倖
今も刊行されていますが、オカルト雑誌に「ムー」というものがあります。
この雑誌の読者、ファンのことをムーミン(ムー民)(笑)と呼びます。
実は、私はムーミンでした。まさに創刊の時以来、中学生の頃から愛読していたのです。
メインの記事も興味深いものでしたが、中綴じの付録のようなものも面白く、それには魔術や特殊能力開発のための簡単な実践記事が書かれていました。
その大体はやってみたのですが、いかんせん、飽きてしまうことが多く、効果もすぐ出るわけではないので、途中で投げ出してしまうことが問題でした。
今思えば、コツコツとちゃんと継続していたら、中には、それなりの力が出たものもあるのではないかと思います。(苦笑)
と言うのも、怪しげなものも結構ありましたが、それなりに西洋魔法テクニックの初歩的なものとか、東洋的な気功術とか、サイキック修行の一部が出ていたように記憶しているからです。
実際、これで、“氣”の何たるかを実感できた時もあります。
まあ、そんなムーミンの私でしたが、さすがに大学生の頃には読むのをやめてしまいました。
しかし、大人になってから、いろいろと悩みが深くなっていた時、再び書店でムーを手にしたのです。
それがマルセイユタロットとの出会いになろうとは、思ってもみませんでした。
私にとっては、ムーを読ことは運命的であったとも言え、人生を逆から見ると、未来にマルセイユタロットをやるために、過去の中学生からの私がムーを読んでいたわけです。
もちろん、ムーに載っているようなことが好きだったから、タロットに惹かれたという当たり前のことも言えるのですが。
ただ言っておきますが、ムーミンであった私でも、タロットにはまったく興味がなかったのです。先述したように、あることがきっかけで、大人になって、たまたまムーを開いたことで、マルセイユタロットを知り、タロットへの関心が初めて出たのです。
ムーを読み始めて20年くらい経って、タロット(マルセイユタロット)に興味が出るというのも、考えてみれば不思議な話です。
さて、そんなムーですが、今の内容は読んでいないのでよくわかりませんが、昔の記事を思い返してみると、まあ、ほとんど荒唐無稽、真剣に信じてはいけないものだったなとわかります。(苦笑)
例えば、UMA(未確認動物)の話があります。
日本ではツチノコとか、ヒバゴンとか、湖に住む巨大な動物とか・・・まあ、世界的にもいろいろ言われていますよね、ビッグフットとかネッシーとか。
当たり前ですが、生物学的に言えば、繁殖しないと個体数も存続できないわけですから、巨大な生物などは特にですが、まずえさとして食べ物も大量にいりますし、繁殖には最低雌雄二匹いないといけないわけで、その子供がほとんど見つからないくらいの数だと、その生物種はすぐに滅亡してしまいます。
雌雄の必要のない、単体で増やすことができるのなら別ですが、微生物ならいざ知らず、通常は無理でしょう。
よって、言われている未確認動物のほとんどは、三次元的に存在しないと考えるのが論理的です。
動物とかではなくても、UFOのような未確認の物体でも、同様に、論理的・科学的に考えればそんなものはないと見たほうがまともです。
強いていえば、新しい時代においては、どこかの国の兵器説はまだ信じられる可能性があると言えますが、宇宙人の乗る円盤とかなると、もう眉唾もの、妙な話になってきます。
ムーミンであった私がそんなことを言うと、なんか元も子もないと言いますか、大人になって夢を失った悲しい人みたいに思われるかもしれませんし、逆に、まともになってよかったねと、ほっとされるかもしれません。(笑)
しかし、今、タロットをしている私なのですから、ガチガチの常識に固まっているわけでもありません。
ただ小学生・中学生のような考えで信じるようなことはしなくなったというだけで、実は、そうした未確認の動物とか物体の存在を、違う形や別の考えで思うことができるようになったわけです。
さきほど、「三次元的に存在しない」と書きましたが、もしこれが異次元的な存在、異世界的動物・物体たったら話は別となってきます。
例えば霊体のようなものだとすれば、人によっては見えることもあるかもしれませんので、次元の違うものなら存在の可能性はあります。
動物の場合、雌雄とか繁殖の概念は物質・肉体を持つというものが基本となるので、それが霊体のようなものだとすると、そもそも概念自体、変わってきます。
つまり、物質的・三次元的な見方をしている限り、ほとんどの謎現象・謎存在を証明することは無理だということです。ほぼほぼ、信じるに値しない話となります。
ですから、これは個人的に思うことですが、謎めいた話を具体的・物質的、三次元的に、物事や存在を説明しているものは、そのまま鵜呑みに取るのはかなり滑稽と言いますか、幼いレベルであり、大人の見方ではないと思います。
例えば、なになに宇宙人が地球と人類を創ったとか、その宇宙人が円盤に乗って来ていたとか、なになに星から私は来た(たとえ魂の話でも)とか、そんなような類のものです。ほかに、日ユ同祖論なども、今の時代のままで信じると、とんだ間違いを犯します。
陰謀論などのほとんどは、今の目線や見方でとらえているものが多く、誰それが、どの組織がとか、かなり具体性と言いますか、特定の団体とか民族とか個人とか、またその逆に、いきなり宇宙人とか未来人とかが関わっているというような話になるのも、同じだと言えます。
結局、そのどちらも、実は今の一般レベル(というより、もっと低いレベルですが)の人間による、物質的な見方だからです。
ではどうすればよいのかと言えば、いろいろな(怪しい話、不思議な話を)象徴的な話として考えるということです。
象徴なので、暗示とかメタファー、抽象的な示唆とかとなり、言われているそれそのもの(具体的な名前とかモノ)ではなくなります。
スピリチュアルが好きな人の中でも、星とか、星座、星雲の出身、その文明、宇宙人との関連が言われることもありますが、例えばマルセイユタロットにも描かれているとみられる「シリウス」という星も、実際のシリウスという意味もあるにはありますが、象徴としてのシリウスを考察したほうが、より本質に近いと言えます。
タロットは象徴のカードです。
タロットにおいても、具体的・実際的に見過ぎてしまうと、「カードが示すことが現実で起きてしまう」というような運命カードのような扱いになってしまいますし、実際の当たりはずれを強調するような見方(が価値の中心)になります。
また、カードの解釈も、ひとつとか数個の意味に決めてしまい、それ以外読めなくなってしまいます。
これはカードを象徴として見ていないからです。
タロットが象徴でできるていること、それが本質理解の手順・方法になっていることを理解すれば、世にあふれるオカルト・陰謀論的な話も、現実的に見るのではなく、象徴として見ることとができ、なぜ説として人々は信じたがるのかということや、その背景(流されている意図等)も、はっきりわかってくるでしょう。
警告しておきますが、三次元的な見方で不思議説を信じていれば、簡単にだましやすい(だまされやすい)人とみなされ、知らず知らず、いいように扱われますので、注意してください。純粋さは大切なことですが、同時に、思考し、洞察して、大人として正常な認識力(判断力)も持っておかねばなりません。
ムーに載っているようなオカルト話を本当の意味で楽しむためにも、すべて鵜呑みに、現実性としてとらえるのではなく、象徴として置き換えてみることをお勧めします。
これは、オカルトをすべて排除する姿勢を言っているのではありません。オカルトに接することで、実は魂的には僥倖にもなるのです。それは話をどう扱い、解釈していくかの姿勢によります。(そもそもオカルトは、隠されたものの意味で、崇高な叡智にもつながるものです)
言ってみれば、純粋な少年少女の心と、すべて疑い、考察していくような冷静な大人の視点との両方がいるということです。どちらかだけだと、おそらく真理には到達できないのではないかと思います。
この世界での生き方それぞれ
私はマルセイユタロットの講座で講師をしている身ですので、教える側になっていることが多いです。
しかし、教えられる側に立つこともあります。タロット以外の分野では、むしろ教えられることばかりです。(笑)
そうして、今も教えられる側に回り、いろいろと学んでおりますが、各種講座などで学びに来られる方々を拝見しますと、皆さん、意識が高いと申しますか、ご自身の成長や発展、特に成功しようという気概にあふれている方が多いように思います。
学んだことを即行動に移す人もいて、その行動力・実践力・熱意のすばらしさに感嘆することもしばしばです。
昔は、私も一般的に言う成功などを考えて学んでいた時もありましたが、いつからか、その目的は薄くなり、私の魂的な部分では、それを求めていないこともわかってきました。
ただ、これはルサンチマン(弱者・負け組の、強者・勝ち組に対するネガティブな感情)から来ていることもあるにはあると思います。それでも、さらにその奥まで探求していくと、もっと別なものも出てきたわけです。
それが、私にとってはグノーシス的なことでした。一言で言えば、この世の矛盾と言いますか、おかしさ、あえて過激に表現しますと、“狂っている”部分に対する嘆きとここから脱出したい精神と言えましょうか。(グノーシス的にもっと言えば、これは人の認識レベルの低さに原因があり、別の世界があるというより、今の世界において、真の世界への認識がなされていないと取ります。認知の違いよって世界は変わるわけです)
常識的に見て、人がこの世界で幸せになるためには、精神と物質両面からのアプローチと考えがありますが、どちらかといえば、物質的なもの、もっと言えば経済的なものが充足していないと、なかなか精神的なものだけでは幸せを体感できないと思います。
とすれば、経済競争のシステムの中で、どうしても勝ち負けという構造の中で暮らすしかありません。今の経済システムは、商品やサービスを、金融を媒介にして、売り買いするというものなので、そこに競争原理が働くことは絶対の法則みたいになっています。
商品やサービスの売買だけではなく、人が採用されたり、認められたりするのも、勝ち抜く競争です。少ない席を争って獲得するシステムだからです。
そうすると、もともとある才能と、努力して得た知識・技術・情報などで、その椅子取りゲーム、勝ち残りゲームみたいな優劣と言いますか、勝利が決まって来るとも言えます。
ほかに、不確定要素の「運「とか「縁」「タイミング」のようなものも入るかもしれません。
これらは目に見えないものであり、自力で完全にコントロールできるものではないので、こういう不確定なものがあるのも、またある意味、この世の矛盾さや難しさを増していると言えます。
ともあれ、不確定要素は当然としても、目に見える要素や、ある程度、自力コントロールが可能な物質的なことだけでも、それらが他者より優れているようになる(する)ためには、簡単なことではないのが普通です。
そこで、多くの人は、勝つためのモノか能力、情報を入れる自己努力をするか、悪人は、努力ではなく、他者から奪うことをします。
どちらにしても、勝利のためであり、それが自分(と近しい人)を幸せにし、自由にすることになるのだ信じているからです。いや信じているというより、実際のシステム・社会の構造として、そのようになっている現実があります。
ですから、私たちの学びのほとんどは、この価値観やシステムに則ってなされています。
精神やスピリチュアルな学びでさえ、結局のところ、私たちの現実世界でどう生きるか、どう生きやすくするかのテーマから、完全にはずれることはできませんので、求める幸せというものが、つまるところ、成功系の学びと本質的に等しいものになってくることが多いです。
こういうことで悩むこと自体、現実逃避と言われ、どうしようもないことに悩むより、現実を直視し、幸せになるため、成功するため、そこまでいかなくても、少しでも楽になるため、生活を工夫しましょう、仕事で成果を上げましょう、自由な暮らしを手に入れましょう、そのための努力しましょう、とたいていの学びや教えはなっていくわけです。
成長するとはどういうことか? 発展とは何か? スピリチュアル系でも、私たちは進化すればするほど、物質と精神は豊かになり、自由さが増え、楽になり、人生は楽しくなると説きます。
果たして、本当にそうなのか、そして、そのようになることが人の成長だと言えるのか? 根本的な疑問がある人間もいらっしゃるのではないでしょうか。そのうちの一人は私です。(苦笑)
ところで、最近、サンダーボルトファンタジーという人形劇を視聴しました。
その主人公が言った言葉がなかなか興味深く、先述したような悩みにある私にも、一筋の希望を与えてくれた気がします。というより、前々から考えていたことを後押ししてくれた感じです。
それは、こういうセリフでした。
「弱いから負けて死ぬ、強いから勝って生き残る そんな単純な天秤で世の中、回っていると思うのがそもそもの間違いだ。勝ったやつが生きるのは当たり前、だったら負けてなお生き延びたやつは、さらに強いのが道理だろ?」
これはいろいろな解釈が可能だと思いますが、私には、この世の矛盾は矛盾で認めつつ、こういう世界でも何とか自分なりに生き切ったやつは、別の意味で勝利者になると取れました。
つまりは、この世界は勝ち負け、いわゆる「勝利者」が成功であり、それになるのが第一の価値観と目的であるのなら、同じ「勝利者」としても、別の観点からの勝利者もありなのではないかということです。
言ってみれば、勝利者という言葉を逆手に取り、この世界を創ったものからすれば、「ほほう、その手で来たか、それも実はありなのよね」と言わしめるやり方(生き方)の選択というやつです。
そういえば、私は小学生の頃、ドッチボールで比較的最後まで残っている口でした。
と言っても、ボールを受けたり、投げたりするのがうまいわけではなく、むしろボール扱いは下手でしたが、とにかく逃げること、ボールに当たらないことに徹していたため、結果的には最後のほうまで残っていたわけです。
まあ、ドッチボールの場合は、相手コートにいる人物にボールを当てないとチームの勝利にはなりませんから、逃げてばかりでも、勝つことはできないのですが。(笑)
それでも、逃げているうちに、ゲームそのものが時間切れということもあり得ます。休み時間でドッチボールをしていたら、チャイムが鳴って、やむなく終了、残った者が多いグループの勝ちとなることもありますよね。
ドッチボール、ダジャレ的に言いますと、どっちのボール、どっちの勝利(どんな形の勝利)を取るかによって、ゲームの楽しみ方も変わって来ると言えます。
逃げまくりの人生や、一般的な意味での成功や勝利、幸せの状態を必ずしも目指さない生き方に価値を見出すことも可能かもしれません。
常々、「この世界は、あるゲーム」だと、考察すれはするほど、私は思うようになってきておりますが、やはり、この世はゲームだと想定するのが、いろいろな意味で一番納得できる気がします。
あと、私は、ものすごい努力したり、頑張ったりできる人も、一種の才能ではないかと考えています。
さら言えば、実際的な意味で、向上・成長・成功へ向けての活動を、熱心に取り組むことのできる人も才能かもしれません。
もちろん、そうなれないブロック要因を心理的・技術的に分析・修正・改善して、前向きになっていくことは可能でしょう。
しかし、そんなに頑張ることができない、それができれば苦労はないなど、いわゆるメンタルが弱いとか、実行力がないとかで指摘されるようなこと(人)がむしろ普通で、言い訳のように聞こえてしまうこともあるとは言え、多くの人はそうそう努力できるものではないとも、正直思うのです。
みんな、心が強いわけではないでしょう。それなのに、ある種、酷とも言える世界のシステム・状況の中で生きている、本当に皆さんよくやっていると感じます。
とでも自己責任や自己努力だけの問題で、片づけられることではないと思います。
モブや雑魚と呼ばれるようなキャラでも、自分自身であれば、誰しも主人公にほかなりません。
ですから、自分の生き方は自分で決められる部分はなるべく決めて、自分の中で納得していれば、世の中や他人の価値観では負けていたり、失敗していたりしていても、この設定されたゲーム世界を生き切る、ゲーム世界を体験しながら何とか時間切れまで逃れ切る(というゲームの楽しみ方に自分で変えて)、そのように暮らして行くのも、現実という矛盾世界に折り合いをつける方法のひとつかもしれません。
もちろん、ゲームの一般クリアー方法と言いますか、楽しみ方として、この世界を享受して成功や幸せを“勝ち取る”生き方も、ゲームのノーマルな楽しみ方だと思いますので、それを目指すのもよいでしょう。
そう思うと、マルセイユタロットの「恋人」カードの意味も、また面白くなってきます。
そして、私のマルセイユタロットセッション(リーディング)と講座は、この世界での、あなたならではの過ごし方を見つけ、この世界の脱出を真には目指すものと言えます。