スピリチュアル

サントボームでの出来事

少し今日は趣向を変えまして、私がカモワンタロットを学ぶためにフランスへ行った時のエピソードを披露したいと思います。


カモワンタロットがタロット大学(現イシス学院)で教えられていた初期の頃、私はその上級コースとしてフランスでフィリップ・カモワン氏から伝授されるタロット講座の受講と、その後タロットや密儀にまつわる故地を巡るツアーに参加しました。


そしてカモワン氏のタロット講座が終わる頃、ツアー前半を締めくくる意味でも、参加者全員である山に登ることになりました。


それはマルセイユの近郊に位置するサント・ボーム と呼ばれる山の中腹にある洞窟を訪れるためでした。


伝説ではイエス・キリストの妻であったと伝えられるマグダラのマリアが、イエス磔刑後、関係者たちとともに地中海に船出し、南仏にたどり着いたあと、最後の悟りを開くためにこもって修行したと言われている場所がその洞窟なのです。


マグダラのマリア一行が伝授し、広めた秘密の教えがマルセイユタロットの中にも流れていると見るため、そういう意義でも私たちもそこへ行くことになったわけです。(マグダラのマリアとタロットとの関係はこちらの記事でも書いています)


サント・ボームは今の日本風に言うと、いわゆる知る人ぞ知るパワースポットでもあり、神聖かつ不思議な場所として現地でも崇拝されている所でもありました。


カモワン氏もおっしゃっていましたが、非常に波動の高い場所なので、人によっては特別な存在を感じたり、メッセージを受けたりすることもあるだろうということでした。

さて、洞窟のふもとにバスで到着した私たちは、まずは山のふもとの教会で食事(これは修道院らしく、なかなかに質素なものだった記憶があります)をし、身支度を調えてから山道を登っていきました。


その時三月ではありましたが、今年の日本のようにフランスでもかなり寒い年で、結構雪が積もっていました。凍っている場所もあり、上に登るにつれてすべる箇所もあって、なかなか大変でした。


ただ普段(特に季節のよい時期)は地元の人でもハイキングコースのような場所となっていて、近場の自然スポットというようなところもあるようです。


やがて中腹の教会のような場所に出ました。この扉の中が洞窟なのです。


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洞窟に入りますと、イエス・キリスト像がすえられており、当然ながらマリア像もあって、ろうそくの灯りのもと、厳かな雰囲気が漂っていました。地下にも同様にマリア像と祈りの空間がありました。

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しかしながら当時の私は至って普通の人間でありましたので(今もそうですが・・・)、ほとんど何も感じず、ただマリア像を見つめていました。


同行した、特に女性で敏感な方々は、口々にいろいろなものを感じられたことを述べられ、中には何かに打たれたかのように、その場所に倒れそうになる方もいらっしゃるほどでした。


そういうことを伺っていると、「どうして自分には何も感じられないのだろう」「何もメッセージもないのだろうか」「タロットとはしょせん縁はないのか・・・」と不満な気持ちになってきました。


そこで私は、「もし、ある存在がいらっしゃるのだとしたら、この鈍感な私にもわかるメッセージをください」とマリア像に祈ってみました。


すると、しばらくして、急に上からしずくがポタッと私の首筋に落ちました。


まあ、洞窟ですからじめっとしているところもあり、そういうこともあるだろうと、別にこの時はさほど何も思いませんでした。


しかし、そこから地下に行き、さらにマリア像を見ていますと、再びしずくが落ちてきたのです。またしても首筋の同じ場所でした。


さすがに私も、これは何かの意志だと感じました。


というのも、カモワン氏のタロット講義でも「セカンドタイム(二回起こること)はメッセージだ」と語られていたからです。


また、マルセイユタロットの「星」のカードは、特にマグダラのマリアを象徴しているのですが、彼女はふたつの壺から水を流している絵で描かれています。


ふたつのしずく。


これは明らかにメッセージだと思いました。そしてさらに、洞窟を出る瞬間に、急に何かがわかった気がしたのです。


それは声なき声とでも言うのでしょうか。


「あなたには目に見えないものが見えたり、不思議なものを感じたりするような力はいらないのですよ、もしあなたがそういった能力を獲得すると、奢りが出てしまいます」

そう言われているように感じたのです。


サントボームにマグダラのマリアが訪れていたのかどうかは実際にはわかりません。おそらくは伝説でしょう。


しかしながら、何かそうした(聖母も含むマリア的な)存在のエネルギーが流れているのは、私自身の経験でもわかりました。


皆さんも機会があれば是非訪れてみてください。


そのほか、このツアーでは実に不思議なことがいくつかあったのですが、また機会があればそのエピソードはお話したいと思います。


タロットの縁があなたにはあるかもしれません。

タロットというものは実に不思議なところがあると思います。


一般的にはもちろん「占い」というイメージや理解がほとんどでしょうし、その占いにおけるタロットでも、「当たる」とか「怖い」とかという感じで見られていることが多いようです。


しかし、学んでいけばわかりますが、タロットは様々な顔を持つツール(道具)であり、道具というのにはあまりに大きく統合的な存在です。


タロットは単に占いに留まらず、思考の整理やあらゆるものの類型分類、問題解決を援助するツールにも使え、その分野は心理学、哲学、宗教といった心の分野から数や幾何学的な形・デザインのことまで、あらゆるものを含む総合体系だといえます。


しかし結局はそれを使いこなすのも自分次第ではあります。


とはいえ、タロットの一番のよいところは、普段知り得ない知識や考えの世界の橋渡しをしてくれることにあると思います。


日常では知り得ない知識というのは、簡単にいえば秘めたる教え、密儀のようなことを言います。


広い意味でいえば「ある教え」なので、「宗教」といえば「宗教」なのかもしれません。


もちろんタロットにもいろいろな種類と考え方があり、必ずしも私のいう「秘めたる教え」に結びつくということはありませんが、少なくとも私の扱うタロットはそうなのです。(と考える立場にいるということです)


ではその秘めたる教えとは何かということですが、ここでも何度か出ていますが、それは「グノーシス」という思想です。


ただ「グノーシス」と言っても、これも様々な考え・見方があるので一概にどれとは断定できないのですが、一言で言えば「自分の中に神性がある」「自分は神になれる(悟ることができる)」というものです。


私にこのことを教えてくれた先生もおっしゃっていましたが、「秘めたる教えに出会うことができるのも、またその人の縁である」ということであり、通常は一生そういったことにふれずに終わってしまう人もいる中で、「出会えたことは大きな喜び、幸運だと認識してほしい」と語られていました。


また続きとして、私自身が思うのは、最初にも述べましたが、たとえ出会えたとしてもそれを活かすも殺すもその人次第だということも強く感じます。


今はインターネットもあり、あらゆる情報が簡単に手に入り、開示される時代です。昔の秘めたる教えも今や普通の教え、情報のひとつに過ぎなくなっていることもあるでしょう。


だからこそ、逆にもっとわたしたちは、出会った知識や情報に注意を払いたいです。

昔は王族や特別な身分の人、選ばれた一部の人にだけにしか示されなかったことが、今は誰にでも開かれていることも多くなっていると推測されます。


ですから、すでにあなたは数千年の智慧にすでに出会っている、あるいは持っている可能性もあるのです。


もしかすると、あなた自身、この時代を選んで生まれてきているのかもしれません。昔のあなたはそれを望んでいても身分や何らかの理由で、出会うこと、学びを受けることが不可能だったり、出会えていても途中で挫折したりしたかもしれないのです。


あなたがタロット、中でもグノーシス的な智慧を教えとして含むタロットと出逢えることはとても貴重で、奇跡的なことであり、縁があるということです。


そしてその縁を活かすのも、やはり「今を生きている」あなた次第となってくるのです。


「感謝」「幸せ」の気持ちを育てる。

感謝」や人の幸せを願う「ありがとう」の気持ちを抱くことはよいとよく言われます。


その理由は様々なところで、またいろいろな方が理由を書いていらっしゃるので、改めて私が述べることもないでしょう。


ただ簡単にいえば、それを思うことが多くなればなるほど、自分にも同じ状況(幸せ)が鏡のように起こるのだと考えればよいです。


それで、今回は、感謝や人の幸せを願う気持ちを生じさせるひとつの方法をご紹介したいと思います。


私もそうですが、普通、「感謝する」と言われてもいつもいつもそのような気持ちにはなれません。


だいたい自分がピンチに陥ったり、苦しい状態であったりする時に救われるようなことがあれば、自然に「感謝」の心は起こります。


文字通りの意味で、「有り難い」(有ることが難しい=価値有ること)という言葉が出るでしょうね。


まあ、でも普段は当たり前のことが当たり前すぎて、不足が元に戻るか、今以上に充足するかのようなことにならないと感謝できないのが人間の常です。


では日常的にもう少し感謝の気持ちを持つにはどうすればよいのでしょうか。


これが意外に単純なことですが、「感謝ごころ」を訓練によって養うことが効果的なのですね。


言ってみれば感謝の強制想起です。(笑)


そんなの感謝じゃない!とお怒りの方もいらっしゃるかもれません。


まあ、でも何はともあれやってみてください。


方法はこんな形です。


出勤途中の乗り物の中でも、何かの待ち時間でも、家にいる時でも、とにかくちょっとした余分の時間合間の時間を利用します。


そして、たとえば電車の中だとたまたま一緒に乗り合わせた、その車両にいる人々のことを思い、自分も含めてその人たちの幸せを願います


また会社ではそのフロアーにいる人たちのことの幸せと無事を祈ります。


その上で「私が今いるのも、この人たちのおかげ」だと思ってもいいでしょう。(全部思えなくても、勤務先などでは少なくとも自分が恩恵を受けていることはあるはずです)


家では家族のことを思うのがやりやすいでしょう。


最初はとにかく、自分が実感できる狭い範囲がいいです。そして目をつぶることです。


というのは、目を開けていると、実際の目の前の光景が入ってきて、幸せを願っているのに、不快な人や状況が目について、気持ちがそがれることもあるからです。音も気になる人は耳栓をしてもいいかもしれません。


という感じで、ひとつの車両(範囲)が終われば次の車両へ広げて、時間が許す限り、幸せと感謝の心を広げていきます。勤務地なら最終的にはビル全体、会社全体を思えればしめたものです。


途中、個別の人の、そのまたその人の家族、親、親戚というふうに細分化して思いをしていってもOKです。実際は知らない人でも単に想像するだけでよいのです。


私は以前にこれを意識的に訓練していました。すると不思議なことに、ある日心が以前より広くなっているのに気がついたのです。


そして自分があるのは、多くの人のいるおかげだという気持ちも前より起こるようになりました。


そう、訓練によって感謝の気持ちが出てくるのです。


これで思ったのは、カモワン版マルセイユタロットで教えられている「人には神性が宿る」ということでした。


人には神なる心、仏ごころのようなものが必ず存在しているのですが、何らかのことで眠らされていると考えられます。(状況に応じて出たり、閉じたりすることもあります)


自分にはそれ(神・仏のこころ)があるのだと思い、意識して訓練していくと、次第に発現する(外に表れて来る)ようになるのです。


逆に言えば、何もしないと、そのままの、いわば「凡人コーティングされた人間」として生きてしまうおそれもあるということです。


この「凡人コーティング」はおそるべき厚塗りであり、時に増殖したり、穴があいてもすぐふさごうとしてきます


しかしコーティングを丹念に取り除いていく努力をしていくと、その中から本当の自分、光り輝く神性なる自分が現れてきます。


実は私は、この感謝行みたいなことを途中でやめてしまったので(苦笑)、それからは心もあまり広がっていない気がします。


またしつこいコーティングが復活してきているかのように感じる時もあります。油断すると、元に戻ってしまうこともあるのですね。


このように訓練することが大変だという場合、習慣になっていることで感謝の気持ちを入れるように意識するとよいと思います。


たとえば食事。「いただきます」と挨拶する時、作ってくれた家族、人、材料を育てた人、流通に携わった人などのことを一瞬でもいいので思い、感謝することにより、続ければ訓練と同じ効果が出ると思います。


何事も継続は力なりです。


何も「自分がえらくなる(立派になる)ためにやるのだ」という気持ちなど持つ必要はありません。


また感謝の気持ちが起こらない自分を責めることもいりません。


ただ「感謝」や「人の幸せを願う気持ち」という「型」が自分の心には存在しており、それを刺激する訓練をやっているのだと淡々と思えばいいのです。


せっかくいいものがあるのですから、宝の持ち腐れになるより、育てたほうがよいではありませんか。


それくらいの気軽な気持ちで取り組めばいいのだと思います。


インドの話から。

昨日、関西で続いているカモワンタロットの勉強会に出席していました。


そこの常連の出席者から聞いた興味深い話をご紹介します。


その方はインドがお好きで、ヨガの勉強やその他のことでも何度もインドをご訪問されていらっしゃる方なのですが、やはりインドと日本ではいろいろな意味で、かなり異なるところがあるようです。


そんな中でも、貧富の差と申しますか、特に貧しい人たちの生きるパワー、術(すべ)というのは、それはすさまじいものがあるようです。


このあたりは私はまだ未見なのですが、少し前に話題になった映画、「スラムドッグ$ミリオネア」でも描かれているようです。

スラムドッグ$ミリオネア [DVD]/デーブ・パテル,アニール・カプール,イルファン・カーン

さて、そんな状況のインドで、その方はヨガの研修に訪れた時、研修施設に入るためにサンダルを脱いで置いていたら、たちまちのうちに盗まれ、気がつくと、別の場所で「売り物」として売られていたということです。


それも盗っているの貧しいは子ども達だそうです。たくさん履き物が集まる場所を知っていて、商売にして生きているのですね。


しかし、今回言いたいことはそんなことではありません。


この話には続きがあります。


その方が盗まれたサンダルは、100円ショップで買った安いものなのですが、それでも複数用意していたサンダルを何回も盗まれたそうです。


しかし、不思議なことに、一足一万円近くするような高級サンダルを置いていた人のものは、盗まれなかったそうです。


「高そうだからかえって避けられたのではないか・・・」と思うかもしれませんが、ほかの人のものでも値段の高低に関係なく、いつも盗まれる人と、ほとんど盗られることのない人、さらにはなんと一回も盗まれなかった人もいたそうです。


どうしてこんな差があるのでしょうか?


その人がインド人に尋ねたところ、「そいうカルマなので、あなたが盗まれることはよいことなのだ」と教えられたそうです。


つまり、ある人はそこで盗まれなくてはならないカルマ(の精算・因縁)があり、また盗られない人はそこには盗られるカルマや因縁がないということなのです。


また最初、その人は盗られてはいけないと思ってサンダルを持って上がろうとしたところ、逆に「人の責任を背負ってはならない」注意されたそうです。


盗られることがお互いのためにもなっており、よかれと思うことでも視点を変えればよくないと見えることもあるのだということでもあります。


この時からその方は、「すべてをあるがままに任す」という姿勢と態度を心がけ、「インドに本当の意味でなじむことができた」と語られていました。


これは極端な話とはいえ、何か「自然であること」や「ゆだねること」、「与えること」などの意味を再考させられる気がします。


このことはタロットで表すと、「運命の輪」と「」のイメージが浮かんできます。


まさに「運命にゆだねる」ということは、かなり視点や視野の違いでもあり、現実的・常識的に私たちは人のため、自分のためと思っていることでも、実はそれが大きなお世話であったり、ピントはずれであったりすることもあるのかもしれません。


自分の行為の影響というものはどんな形でか、またどんな時(時代)に及ぶのかなど、長期的・霊的にはとてもわかりにくいことです。


こういうことを思うと、あまりいろいろなことを考えすぎて、右往左往することは空しいことだといえるでしょう。


ですから私たちは今、この時この時を大切に、もっと気を大きく楽にして生きればよいのだと思います。


タロット、南仏への旅で。

私はたまたまマルセイユタロットというものを学ぶことになったので、フランス、特に南仏の地を踏むことになりました。


もともとヨーロッパは好きだったのですが、歴史としてはあまり知識のあるほうではありませんでした。


学生の時も世界史は受験科目に選択するほど好きではありましたが、ヨーロッパ史は苦手といえば苦手でした。


何でもそうですが、たとえ最初はあまり興味はなくても、ある事柄に関心を抱き、それが好きになってきますと、それらにまつわる背景や歴史を知ろうとしたくなるのは人のサガかもしれません。


反対にいえば、何かに詳しくなろうとすれば、その対象を好きになることなのでしようね。知識(の習得)が感情に左右されるのも人間の面白いところです。


さて、タロットの勉強のために南仏を訪問することになり、やはり事前学習のようなものを自然に行うようになりました。


すると実際に行ってみると、訪問地での様々な歴史的建造物、土地(町)・自然などが、とてもリアルに、より感情をともなって見る(聞く)ことができたのです。もちろん説明してくれる先生のすばらしさもありましたが。


そういった知識的なこととは別に、不思議な感覚もありました。


皆さんにもあるかと思いますが、「ここは初めての場所ではない」「いつか来たことがある」「懐かしい・・・」といったような既視感(デジャヴ)のようなものです。


まあ、思いこみが激しくなったりすると、事実かどうかは別として、結構誰でも起こってしまうことではありますが(苦笑)、それにしても南仏の地には私にはそう感じさせるところが結構ありました。


特にカタリ派と呼ばれる中世に盛えたキリスト教の異教徒たちが多くいた土地土地には、本当に自分は何かここに関係していたのではないかと、前世・輪廻転生説を色濃く信ずるくらいの感慨がありました。


それから、これも奇妙なことでしたが、タロット(マルセイユタロットに流れる秘めたるもの)にまつわるいにしえの土地を訪問することで、それまで日本にいた時とは違うリーディングになってきました。


それは日本に戻ってからも数ヶ月続く、まさに不思議な感覚・フィーリングでした。


タロットカードでいうと、まるで「月」と「星」の間をさまよっているかのようなものです。しかしながら、そういったボンヤリとした中にいながらも、本質はクリアーに見える(わかる)というものです。


カモワン流タロットの創始者、フィリップ・カモワン氏は日本に来られた時も、「南仏のエネルギーとつながってリーディングする」と語られていましたが、そのようなものかもしれません。


この時以来、私は実際に訪れて感じるということの深い意味を学んだ気がしました。


タロットに限らず、あることがある場所に密接に関連するのなら、あなたもそこに行ってみることをお勧めします。


そこでしかわからない、目に見えないものがあるのです。


巡礼の旅は、何も巡礼地に行き着くことが重要なのではありません。その道中、旅路こそが巡礼者の心身に変容を起こすのです。


それは巡礼路の過程で起こる様々な外的な事件による内的変容もあるのですが、歩いている土地そのものにある種のエネルギーが流れており、その影響を受けるということもあるのです。


私は、南仏のタロットの旅はその「巡礼」だったと認識しています。


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