スピリチュアル

他人は自分の一部説

自分の問題に取り組み、向上を目指して解決していくことは何も自分だけのためではありません。


ずっとタロットをやってきて、最近は特にそのことを強く感じます。


たとえばタロットリーディングにおいても、クライアントの問題は一見タロットリーダーとは何の関係もないように思えますが、お話を聞いてみると、意外にも自分の問題や考えていることと同じだったり、問題自身の次元やレベルは異なっていても、象徴的には同様であることも多々あります。


これは基本的には皆が奥底で海のようにつながっているからだとも推測され、集合的な意識を思い浮かべることでも理屈がつくことなのかもしれません。


また私は、自分の問題が人のそれと共通することには、深層で皆がつながっていることとは違って感じられることもあります。


人の魂は一人に一つと想像されがちですが、もしかすると複数あるのかもしれません。


輪廻転生説でも、巷ではひとつの魂が違う過去生を、一人の人間として生きてきたというように考えられている場合が多いように思います。


しかし、たくさんの魂が一人の人間に集合的に入るのだと想定すると、他人の過去生も自分の過去生として体験されてきたということになります。


そもそも人口も時代とともに増加していますし、単純に一人の人間の魂がそのまま繰り返し転生するのだとは考えにくいところがあります。


いわば分霊(ほかの生物も含めて)であったり、普通の時間概念を超えて、過去・現在・未来にわたって同時に存在することもありうるかもしれないのです。


そのように考えてきますと、この「自分」という意識の中には複数の魂が宿っていて、もしかすると、今のこの現世においても、自分として生きつつも他人として一部を生きていることもあるのではないかと想像できるのです。


この考えを究極的に拡大していきますと、結局、自分は他人でもあり、人間全員一部は自分だということになります。


ということは、自分の問題に取り組めば他人も救われ、人類全体に寄与していくことにつながります。そして逆もまた真なりで、人の問題を解消することに努めれば、自分にもそのまま貢献していくことになるわけです。


おそらく、タロットリーディングにおいて自分に何らかの形で関係してくるような問題を持つクライアントに遭遇するのも、自分の魂が引き寄せているのでしょう。


まさに人は自分の鏡でもあり、自分の一部でもあるのです。そして協力者やアドバイザーのこともあるでしょう。


人と出会い、和合していくのは、自分の分かれた分身との統合を少しずつ果たしているといってもいいかもしれません。


もちろん人同士交流が起こると、トラブルや行き違い、争いごとも発生します。それでも、どこかで化学反応し、目に見えない微細な部分で両者(自分と自分)の統合が図られているのではないでしょうか。


相手に自分を観て呼びかけるようなコミュニケーションを図ると、これまでとは違った関係が築けていけるような気が私にはしています。


大きな存在を仮定すること。

昨日のNHKスペシャルでは、例のチリ落盤事故からの生還について、3人の方のインタービューや地下で撮影された影像をもとに救出までの話が語られていました。


その中でも興味深かったのは、最初は細い生命線ともいえる穴が貫通するまでは、皆必死の思いで生きることだけだったのが、穴が掘られてからは食料や娯楽のものなど、どんどんと地下での生活に向けた便利なものが送られてくるようになり、ついにはテレビ電話で家族とも会話できるようになってきたことで、人々の間に欲が出て、いざこさやトラブルが起こるようになったということでした。


そして、それに対処するため、一人のリーダーのもと、神への信仰の時間(祈りの時間)を毎日持つことで、自分(の欲やわがまま)を見つめて穏やかな心を保つよう心がけるようにしたということです。


やはり人間、物質ということがきっかけとなって、わかちあうという心よりも独占したいという思いが出てきてしまうということです。いわば悪の心みたいなものですね。


しかしこれは考えようによっては、物質(形、目でみえるもの、感覚で実際にわかるもの)が与えられることで、他との違いが明確になってきたということでもあります。つまり、違いがはっきりしていくことで、全体の中に埋没していたものが、個性を持つようになるという意味でもあるのです。


ただそれが行きすぎる(個も全体の中のひとつであるという意識や認識を忘れる)と、問題となってくるわけです。


その状態からもう一度バランスを取り戻すには、神への信仰のような、より大きな視点が必要になってくるのだといえましょう。


自分(たち)を超える大きな存在を感じたり、観点を持つなどのことにより、全体性を回復できるのです。


その時、自分の小ささを知り、再び大きなものへと自らをゆだねる気持ちになっていきます。


そうして改めて全体から個としての自分を見た時、今度は自分の個性が全体にどのように役に立つのか、貢献できるのかといった視点に転換していくことにもなります。


だからこそ、高次の意識や存在(それは「神」でも「宇宙」でも「ハイヤーセルフ」でも何でもいいのです)を信じたり、仮定したりするだけでも人にとっては有意義なことだといえるのです。


もっといえば、物質・形あるこの世界に生きるためには、個としての自分を発揮していく(全体に活かす)ことと同時に、物質に振り回されないように(欲の追求だけで生きてしまわないように)、大きな存在への信仰が必要なのだということかもしれません。


経験してみないとわからない

「しょせんは経験してみないと、本当のところはよくわからない」とよく言われます。


私もまったくその通りだと思います。


頭の中で想像しているだけでは、仕事も恋愛も旅も食事も何もかも、ただのイメージに過ぎません。


それで「やった」気分、「なった」気持ちで語られても、実と心が伴っていないことになるのは明白です。


けれども、たとえば皆さん、眠ればを見られることでしょう。


夢を見ているときはたいてい「これは夢」だと意識せず(している場合は「明晰夢」として興味深いこととなりますが)、まるで本当に体験しているかのような気になっています。


目が覚めてはじめて、「ああ、あれは夢だったのか、よかった。。。」「残念! あれは夢だったのね」という具合になります。


つまり、それだけリアルに感じているということです。


バーチャリアリティも行き着くところまで行けば、どこまで現実かわからなくなってくるわけですね。


映画「マトリックス」でも、人々が本当だと思っている世界は、実は夢のようなものでした。けれども、その仮想世界で死ぬと、夢を見ている本体も死ぬことになっていました。これなど、仮想と現実が一体化しているようなものです。


このような設定は映画に限らず、漫画・アニメなどではかなりポピュラーなものといえるでしょう。


さて、最初の話に戻りますと、私たちはこの実社会で自分が自ら経験しないと本当の感覚はわからないと言いましたが、もしイメージや空想の世界でも、それが現実と区別をつかないようなリアリティをもった仕掛けや、体感覚(物理感覚)がともなえば、そこでの経験も現実とほとんど変わらなくなるということになってきます。


ということは、非常に濃密なイメージが抱けるようになれば、それは経験値を増すことに等しいということでもあります。


また引き寄せの法則や思考の現実化とは違った意味で、仮想経験のリアリティ感によって現実での再体験も容易になると考えられます(実に等しい経験は身になっている)ので、思いが現実化することも早くなったり、高くなったりするのだと推測できます。


イメージを鍛えるということはこのように特別な意味を持つのです。


そのツールとして絵柄のあるタロットは有用といえるかもしれません。


そして「経験してみないとわからない」という言葉は、二重の意味で真実味を帯びてくるのです。


タロットにおける電気的エネルギー

「ふるえ」や「しびれ」のようなものは、電気のたとえで使われることもありますが、「ふるえるような」とか「しびれるような」という言葉にもあるように、何か強烈な驚き、快感、おそれなどの感情を体感した時にも表現されるものでもあります。

つまり、ふるえやしびれのような電気的な「何かが走る」ような感覚こそ、非日常的な瞬間だともいえます。

究極的にはそれは神か悪魔か、自分ににとって大きな幸運か、逆に崩壊を招く知らせのようなことを意味するのかもしれません。

霊的な現象やエネルギーの質は電気とよく似ているともいわれます。

タロットではたとえば、「神の家」には稲妻のような強烈な光が描かれています。ほかにも、電気や光のようなものが関係している、あるいは表されているカードは何種類か存在します。(カモワン版マルセイユタロットの場合)

面白いことに、これらのカードをよく観察してみると、そのような電気的なエネルギーに対して絶縁したり、防御を施している面も見られることです。

私はこのことを、「準備」や「受け入れる段階」の問題ととらえています。

つまり、電気的なショックはまさに神の光として大きく自分や状況を(強制的といえるくらい)変えるものではあるものの、それにふさわしい段階や準備が整っていない場合には危険でもあるので、自分に応じたレベルで絶縁したり、地中にアースしたりする必要があるということです。

またこうも考えられます。電気的なエネルギーが天上からやってくるのですが、それを地上的(物質的)なものに変換することもできるのだと。それもその人のレベルに応じたものの分として、ということです。

怖さ・恐れのためにふるえることも、その状況や先行きに得体の知れない大きなエネルギーを感じているからだと思います。その正体がわかれば、自分の力にすることも可能でしょう。

盲目的にただ目をつぶり、逃げているだけでは、ふるえを生じさせるエネルギーに取り込まれ、翻弄されるだけです。

ちなみに「力」のカードは、回転する「運命の輪」や猛々しい「ライオン」を意のままに操る力を得ている状態であり、カードの順番としては、次の静止的段階である「吊るし」に向かっていることも興味深いことです。

自分を過信して無防備に高圧電流をさわることは自らを滅ぼしますが、きちんとした防護を施し、電流をしかるべき器や機関に流すことができれば、あなたの力に変えることができます。

また電気的エネルギーの貫通とアースによって、自分の中の浄化もできるでしょう。(こられはあくまで象徴として語っています。当たり前ですが、実際に電気を流すことは危険です)

何事も適度な刺激は成長につながりますが、過剰な刺激は破壊につながるということは真理なのでしょうね。


ロクシタンとタロット

ロクシタン」というコスメティックの会社がありますよね。


男性はご存じない方も多いかもしれませんが、女性の方ならば比較的おなじみではないかと思います。私も妻が比較的ロクシタンのものが好きだったので、そういう会社があることを知った口です。


ここで別に私はロクシタンの宣伝をしようというわけではありません。(笑)


実は、このロクシタンの綴りを見た時、すごく驚いたのです。


ロクシタンとは「L’Occitane」とフランス語で書き、つまりは「オクシタニア」に関係するとことを意味していたわけです。(L’は冠詞の省略)


このオクシタニアになぜ私が反応したのか? それはマルセイユタロット(の底流にある伝統)を育んだ土地が南仏だからであり、そしてこの南仏のある地方を「オクシタニア」と呼んでいたことがあるからです。(「オック語」という言葉が話されていた地域を言います)


ちなみにオクシタニア地方は、中世、とても栄ていた時がありました。いわゆる暗黒時代とイメージされるヨーロッパ史の中では、異彩を放っていたのです。


それには異端派のキリスト教などが広まっていたり、ある側面では霊的ともいえる独特の文化が存在していたりした理由もあります。


ところで、聞くところによりますと、世界でも日本はロクシタンのファンが多いとのこと。


マルセイユタロットをしていると感じるのですが、日本では南仏に縁があるといいますか、シンパシーを感じられる方が結構いらっしゃる気がします。


その中でも何かに導かれるようにマルセイユタロットに出会われる方もいます。


前世というものがあるとするのなら、南仏・オクシタニア地方のいい時代、あるいは不幸な時代(とても悲惨な歴史もあるのです)を経験している人が日本に転生してきているのかもしれません。


こんなふうにして、タロットを知ると、普段はつながってもいないようなことが、突然関係してくるようになります。


タロットはもしかすると、過去(前世もあり)の記憶も含めて、様々なことを思い出させてくれる道具なのかもしれません。


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