タロットの使い方
タロットの活用 雑記
しばらくコロナ罹患とその後遺症でブログを休載しておりました。
その間は、あまり頭が回らない感じでした。思考停止というようなものに近い感覚です。
マルセイユタロットでは、「吊るし」の印象が出てきます。
その間、「結局、タロットを使って何ができるのか?」ということに、変な言い方ですが、考えずに考えていました。(深く思考せずに思い続けていたという状態)
おりしも、ChatGPTなど、AIの一般使いも始まり、よい機会ですので、試しにタロット関連の質問やリーディングなど、ChatGPTでやってみました。
すると、ほとんど簡単なリーディングはできることがわかりました。情報を与えれば、マルセイユタロットのリーディングでも、そこそこできていたのには、予想はしていましだか、少し驚きました。
知識的なことでは、間違いも結構ありましたが、それも蓄積・修正されて行けば問題なくなっていくでしょう。
まあ、占いの世界では、コンピューターにやらせるというのは大分前からありましたし、今もサイトで自動的に占ってくれるところは結構ありますよね。
こういうものは、もちろんデータに基づいているわけですが、「占い」は「統計」だと言ってる人には、まさに機械が占うのと同じになり、むしろビッグデータを簡単に扱えるAIだと、人間以上の占いができることになります。
しかし、占いも象徴の世界であるので、データだけで読むものとは異なるのです。AIが、象徴を人間のように理解できるのか、そこはこれから見てみたいところではあります。
話しを戻しますが、タロットでできることと言えば、主としてリーディングがあるわけですが、それも今述べたようにAIによって代替させることができ、タロットの役割、活用というのもこれから先、変わって行ったり、はたまたなくなっていったりする可能性もある気がします。
そもそも、悩み事や選択の迷いをタロットで解決するということも、問題自体、AIで解決を提案してくれるように、おそらくこれからはなるでしょうから、問題解決でのタロット使い(活用)も怪しいものです。
ほかに、一見、交わることのないと思える、AIと魔術やサイキックの世界も、実は非常によく似ているのではないかと思うところもあり、それは宗教にも言えます。
ですから、タロットの活用で、霊的(成長)ツールとしての部分でも、まかり間違えば、AIの創り出す世界に没入させられる(勘違い、幻想に囚われる)おそれもあるかもしれません。
要は、何が本物で、何が偽物かの区別が、ますますつきにくくなって来るわけです。
そもそも本物とは何か?という定義も、かなり難しく、あいまいになっていくように思います。
小説・アニメ「化物語」では、偽物を自負する「貝木」というキャラが登場しますが、彼の言葉に「真実を知りたければまず嘘を知れ」というのがあり、嘘や偽物の氾濫も、実は真実に近づくための過程なのかもしれません。
ともあれ、タロットをどう活用していくのかは、今後、私にとっても新たな課題だと考えています。もちろん、従来の活用法が悪いわけでも、時代遅れというわけでもなく、必要性は当面あると思います。
ただやはり、前々から思っていましたが、他人使いというより、自分使いにシフトしたり、パートナー的な、一種の人間的なカードとして意味づけられていったりするように、変化していくのではないかという考えもあります。
またAIの進歩により、これまで解明されてこなかった部分とか、一般的には価値が見いだせなかったところにも光が当てられ、タロット、特にマルセイユタロットの新たな価値が生み出されてくる(というより、再発見というのに近いでしょうか)可能性もあるでしょう。
今でも創造性の発露・刺激として、マルセイユタロットは大いに活用できるものですが、もっとその根源に行きつくような、いわば天使の梯子(霊と肉の架け橋)のようなものがタロットを通して見えて来ることも、これから期待できるかもしれません。
そう、私たちが、象徴的には天使階層に人間から飛翔していく、「運命の輪」が、今後、上昇方向に回転していくという例えでも表せるでしょう。
ただし、一歩違えば、人間が「運命の輪」の「輪っか」のようにマシーン化したり、輪に中に描かれている、動物二匹のような状態に堕落、もしくは固定してしまうおそれも、一方ではあるようにも思います。
結局、タロット活用においても、何を目指すのか、どうなりたいのか、何がしたいのかという、一人一人の意識によって変わって来るものなのでしょう。
それがわからない場合でも、タロットとともに探すことも可能です。
さらに言えば、(マルセイユ)タロットは、ある道筋を示していますが、それに合わない人、そのような望みがない者は、たぶん違和感を覚えたり、自分らしさも、タロットを使ったとしても、わかりづらかったりする仕組みがあるように思います。
つまるところ、タロットも、ある種の情報・形のようなところがあり、そことリンクする(共鳴する)かしないかによって、タロットの価値・無価値が、人によって決まってくるとも言えます。
カードの使い方、数の順と図像
タロットは占い(吉凶、状況判断)や何かの決め事、選択するために使うツールだと一般的には思われています。
確かにそれはその通りの側面もあるのですが、こと、マルセイユタロットに関しては、それは本来的な使い方ではないだろうなというのが、長年やってきている私の個人的な感想です。
では、何のために使うのか?と言えば、これまた難しいのですが、一言でいえば霊的な成長、言い換えれば全人(まったき人)へと成長していくための象徴絵図・指針だと言えます。
従って、実は私は、今やほとんど、何かの選択のためとか、決定のために、タロットを使うということがほとんどありません。
また、自分のためにカードを引いたり、展開したりすることも少ないです。
言ってみればエアータロット状態(笑)で、すでに心の中に図像と象徴性が組み込まれていて、あらゆることの整理道具、理解促進や補助の道具として、自動的に機能してくるような感覚にあります。
慣れてくれば、タロットを引かなくても、その人(の問題や課題に)に応じたカードも浮かぶようなことにもなってきます。(とは言え、人の心はぶれやすいので、自分が思い浮かんだタロットではなく、きちんとカードを引いて、実際に出すことで、中立性・客観性を保つことのほうがよい場合もあります)
タロット種によっては、なかなか手に入らないカードがありますが、究極的なことを言えば、一度現物としてのカードを入手し、そのタロットになじみ、図像を自分の印象に刻み込むことができれば、タロットがなくても機能させることは、一部においては可能かもしれません。
さきほど、言ったように、霊的な成長指針や気づきのために使うということであれば、カードを引く必要が実はあまりないので、カード図像を記憶したり、象徴を理解することのほうが重要となってきます。
ところで、マルセイユタロットの大アルカナの数順が、何らかの成長や発展を示していることは、今やよく知られています。
これがウェイト版だと、「正義」と「力」の数が入れ変わっていますので、別のルール(象徴性)によるものはあるにしても、やはり、「正義」が8で「力」が11という順序での見方が、タロット的に見た人の成長・発展にはふさわしいと個人的には思います。
このような、ある種の段階・プロセスのようなタロットの図像(の並び)があって、私たちは自らの位置や心・霊的な状態を知ることができます。ただし、絵を見たから、数の順を意識したから、と言って、すぐに活用できるわけではありません。
そこには、一枚一枚のタロット図像・象徴への深い理解と探求が必要になってきます。
そこが単純な数字を並べたような成長段階の見方と、タロットの図像による成長段階の違いなのです。
例えば、ここに、1から7までの数(算用数字で)を並べたとしましょう。
1 2 3 4 5 6 7
わかりやすく、またあえて順番を強調するため、間間に→も入れます。
1→2→3→4→5→6→7
こうすると、7に向かってぐんぐん進んでいるような、まっすぐな進歩、増加というものがイメージされるのではないでしょうか。
しかし、それ以外のことを想像するとなると、ちょっと難しいです。
では、同じ数と順番で、マルセイユタロットの大アルカナを並べてみましょう。
1の「手品師」から7の「戦車」までを見て、ただの番号の並びと比べると、明らかに感じ方は異なると思います。
よく見れば、人物の視線の方向もカードによっては違いますし、単独の人が多いとはいえ、5の「法皇」以降は、ほかの人物や、天使のような存在、動物も見受けられます。
少し観察を詳細にすれば、全体の流れの中でも、6の「恋人」が異質だと感じるかもしれません。
それは6の「恋人」が三人の人物たちだけではなく、先述したように上空に、天使(キューピッド)も描かれており、一枚の絵柄の構成的に、ほかの図像と違っていることが大きいからです。
ですから、人物だけ追っていると、6に来て、急に谷間に落ち込むような印象にもなってきます。
数順に成長や発展を示していると言われているのに、谷間で落ち込むような状況とはいかなる事態でしょうか?
しかも、そのカードには「恋人」という名前もつき、どうやら恋愛にも関係しそうですし、天使とかキューピッドとか、現実離れしたメルヘンチックな絵にもなっているわけで、これまた不思議なところでもあります。
というように、絵がつけば、単純な数字の進みだけの印象とは異なって来て、何らかの物語や、個人的な印象・思い、投影なども出現してくるわけです。
言わば、数字だけの羅列は機械的な成長で骨組みと言えますが、タロットの絵(図像)があることで、そこに肉付けがなされ、全体性(普遍性)だけではなく、個別(個人)性も付与されてくることになります。
だからこそ、同じ1から7と言っても、人それぞれ、あなたにとっての「手品師」から「戦車」があり、また途中の「斎王」「女帝」「皇帝」「法皇」「恋人」にも、それぞれ個人としての物語や意味があるのです。
同じ道を通りながら、千差万別の物語があるようなものです。それは一人一人の人生にも例えられるでしょう。
同時に、個人しての生き方があったうえで、全体としての流れ、共通点、統合などにも思いを馳せることができます。
カードでは、1から7にストレートに進むのではなく、行きつ戻りつ、人によっては「皇帝」(実績)にこだわる期間があったり、それこそ「恋人」カードのように、恋愛に悩む時期もあるわけです。
それが6の恋が先になる人もいれば、「手品師」としての仕事・社会経験がまずは重要という場合もあります。また、それら(1から7)が一緒に巻き起こることもあるでしょう。
タロットの象徴というのはそういうものです。だから、あるレベルとか状態に固定されたり、ひとつだけの正答があったりするわけではないのです。
しかしながら、数順に成長していくという普遍的規則を思い、高いレベルで、その順序とともにタロットカードを考察していけば、個人的なブレ・誤謬を修正するばかりではなく、大きなことを言えば、人類全体の進むべき道のようなものがわかってくるのです。
その「わかってくるもの」こそが、霊性の方向性、光明だと言えます。
タロットカードで個人的な悩みとか現実的選択を見るのもよいのですが、こうした使い方・見方があることは、特にマルセイユタロットを志す方は、知っておくとよいかと思います。
自分はネガティブか?ポジティブか?
人は誰でも、ポジティブな面とネガティブな面の両方を持つものです。
ただ、人によって癖や性格のようなものがあり、ネガティブ寄り、ポジティブ寄り、という具合に、どちらかに傾きがちで、それも個性と言えるでしょう。
さらに、たとえネガティブな人でも、その対象や興味の程度によっては、ポジティブになることもあり、その逆も言え、もともとポジティブな人でも、苦手な分野、嫌なことはネガティブになる場合もあるでしょう。
スピリチュアルな観点からすれば、人は本来、完全性を有し、ネガでもポジでもどちらでもない状態なのでしょうが、肉体を持って限定的な命で、いろいろな現象に反応・経験していく中で、傾きとしての個性(言い換えれば癖)が形成されてくると思えます。
「生まれ持った星」という表現があるように、占星術ではありませんが、もともと性質(の傾き、散らばり)としての個性があるとも考えられますから、この世に生を受ければ、ネガティブ・ポジティブの波や回転(現実)の中で、誰もが泳いで行かざるを得ないのだと思われます。
まさに、マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」が思い浮かぶところです。
その「運命の輪」の絵柄を見ますと、三匹の動物と回転する輪が特徴的な図柄として観察できます。
輪が自分の人生だとすると、輪にしがみついているような二匹の動物は、言ってみれば「ポジティブ」や「ネガティブ」な傾向の象徴とも言えます。
この二匹の動物は、うさぎのように見えますが、実は上に向いているのが「犬」で、逆の下に向かっているのが「猿」だと言われます。
奇しくも、日本では犬と猿は「犬猿の仲」と言われるように、相反する関係性となっていますね。
さて、あなたの反応は、犬(ポジティブ寄り)、それとも猿(ネガティブ寄り)の、どちらのパターン(が強い)でしょうか?
※ちなみに、ここでは犬と猿を、話の都合上、ポジティブとネガティブに表現していますが、本当はもっと深い意味があり、それは講座で解説しているところで、単純なふたつの違いのことではないのです。今回は、わかりやすさを出すために、あえてポジティブとネガティブという例えにしています。よって、今回の記事を読んで、「運命の輪」の(動物の)意味を理解したとは思わないでください。(それでも、大いなるヒントはあります)
成人くらいになりますと、いや、すでに学生時代には、人はたいてい、自らの傾向とか性質を知るでしょう。
どうも自分は心配性だなあ、ネガティブシンキングだなあとか、その反対に、細かいことは気にならない性格、快活・いつも明るい、悩みがないのでは?とよく人から言われるなど、およそ、どちら寄りかは自分でもわかると思います。
では、タロットを持っている人(できればマルセイユタロットがいいのですが、それ以外でもOK)は、タロットで試してみましょう。
まず、数カード(数札)を用意ください。
組は何でもいいですが、とりあえずは、「杯」(カップ)の組でよいでしょう。
それを数順に、表向きに、並列で並べてください。(横に並べて行く)
つまり、1から10までの数カードを横に並べるわけです。
そして、その数が年を表すとします。1は2021年、2は2022年、3は2023年・・・という感じで、10は2030年になります。
次に大アルカナをシャッフルし、数カードの上に、その年であることを意識して、裏向きに一枚ずつ、重ねるように置いていってください。
10枚引き終わると、大アルカナは表に返して、どのカードであるか確認します。
1の位置は2021年で、すでに終わっていますが、その他は現在か、未来の年になりますので、その出た大アルカナに象徴されるような年だと想像してみます。
また、昨年2021年はどんな年であったか、今年2022年も、まだ終わっていないとはいえ、あと一か月ちょっとですから、どんな年だったかという風に見てもいいでしょう。それも、出た大アルカナに照らし合わせてとなります。
すると、特に未来位置のカードについては、カードの内容にもよりますが、全体的にネガティブに見て(読んで)しまうか、ポジティブに見るかは、人によって違ってくるでしょう。
さらに言えば、ネガティブ傾向の人は、悪いとか、よくないとか思うカード(本来、吉凶はカードにはないのですが)に注目が行き、ほかのカードが比較的よくても、そこに意識が向かいがちになるでしょう。
反対にポジティブな人は、あまりカード自体気にならない上に、自分のよいことが起こる年を、カードから強引に解釈してしまうかもしれません。
すでに終わった昨年、また今年についても、自分はどう思うのかが、カードだけに左右されるのではなく、自分の性質、感情、思考によって支配されていることに気づくでしょう。
そして、出たカードを他人に見てもらうことで、もっと、自分の傾向がよくわかります。
他人が見た場合と自分が見た場合で、同じように見えているのであれば、それはカードの象徴性がなせる技で、確かに、カードから読んだような年となる(というより、そういうテーマがあると見るほうがよいのですが)のかもしれません。
同じカードを見ても、人と自分とは、感じるニュアンスが違っているとなりますと、それは個性による捉え方の違いが大きいと考えられます。
このほかにも、大アルカナだけを使っても、カードの中立性を思い、ネガティブに見えるカードは、あえてポジティブ面の意味を見出すようにし、逆にポジティブな側面が強いと思う場合は、ネガティブさを取り出すということもチャレンジしてみるとよいでしょぅ。
ほかのカード種では「死神」「悪魔」「塔」と呼ばれるカードたちを、通常状態でよいカードとして見るのは、なかなか難しいことになっていると思います。
この点、マルセイユタロットでは、「13」「悪魔」「神の家」と、「悪魔」以外は名前も変わり(「13」は名前がないのですが)、そこからでも、偏りから少しは逃れられます。
いずれにしろ、本来、私たちは両性、中立、完全性であると考えれば、この現実世界での偏りは、その経験によって、両極の幅を拡大させ、より大きな統合性の存在へとならしめるための世界であると思うこともできます。
ですが、いくら経験が大事とはいえ、「運命の輪」の犬と猿のように、ただ反応して振り回されている(グルグル回っている)状態では奴隷みたいで、エネルギーが使われている(浪費させられている)だけのようにも見えます。
やはり、意識的に両面を見て、気づきを増やし、自分を整え、解放して行くことは重要でしょう。
マルセイユタロットは、その装置、絵地図でもあるのです。
人と違うからこそのタロットリーディング
この現実世界は、誰一人としてまったく同じ人がいません。全員、どこか違うわけです。
ということは、自分の問題は、究極的には、他人が解決できないということです。なぜなら、みんな、自分とはどこか違うわけですから、あなたの問題を完全に自分のものとして把握できる人は皆無だからです。(笑)
ですが、人はまた同じ部分、共通点を持ちます。ミクロで言えば遺伝子構造が同じだから、「人」になっているわけで、人としての仕組みは同じなわけです。
またユングではありませんが、人は心理的にも共通のパターンを持つと考えられており、結局、思考・感情的にも、ある種の同じような型を持っているとも言われます。
同じようでいて違う、また、違うようでいて同じなのが(現実の)人間というわけです。
さきほど、究極的には自分の問題は他人には解決できないと言いましたが、矛盾するようですが、他人だからこそ、自分の問題を解決できる可能性が高まるとも言えるのです。
それは、自分とは違う部分があるのが他人だから、文字通り、客観視点でもって見ることができ、自分だけで考えて袋小路に陥っているような場合には、突破口が見つかりやすいからと言えます。
それでも、自分を救うのは自分であることには変わりありません。
当たり前ですが、他人が誰かの代わりになることができないからです。(完全に入れ替わることは不可能)
前にも言いましたが、たとえ誰かを救ったと思っていても、救われた本人自身が「救われていない」と感じていたら、それは救われていない、つまり、本当の意味ではその人を救ってはいないのです。
結局、その意味で、最終的には、自分で自分を救わねばならない(自分が救いを自覚しなくてはならない)ことになります。
しかし、だからと言って、他人が何をしても無駄ということではなく、本人が救われたと思う道筋をサポートすることはできますし、やはり他人の力がないと、本人自身ではどうすることもできないケースが多々あります。
タロットは、ちょっと大げさな言い方をしますと、人助けに使うことができます。その一番の方法は、タロットリーディングを行うことでしょう。
さきほど言った、一人一人違うからこそ、人は客観的視点をもって、別の人の問題点や解決点を指摘することができやすい点が、そのままタロットリーディングにも当てはまるのです。
さらに、これも先述したように、人は違っているけれとも、似たところを持ってもいます。
その似たところが、タロットの象徴性で把握することができるので、さらにタロットは人への援助に便利なものになってきます。
言わば共感性を持ちつつも、きちんと他人目線で、その人を見ることができるツールなのです。
しかも、マルセイユタロットの場合は、絵図には特別に仕掛けが施され、タロットに陥りがちな直感的判断の誤りやブレを修正する、論理的根拠も入っています。
また他人目線は、客観的ではあるものの、一方で、その人の思い込みが反映されやすいという場合もあります。
「他人」という、人の信じている、ある種の思想とか色メガネのようなものがあるわけで、それがかえって狭い視野にしてしまうこともあります。
それを防ぐのが、マルセイユタロットの絵図における論理性と言えましょう。
タロットを学習していくと、タロットリーダーとなって、他者援助をしてみたいという思いが出て来る場合があります。
それは、人として自然なことです。
ですが、中には、もっと完全に読めるようになってからやりたいとか、かなり、自分にブレーキかけてしまう人もいます。
もちろん、未熟過ぎる技術段階では、人に手助けどころか、迷惑になってしまうこともあり得るかもしれません。
しかし、ある程度学んだあとなら、自分の素直な気持ちに従って、人へのリーディングをしてみるのはよいことだ私は考えます。
その理由のひとつに、最初にも述べたように、人は誰しも違う部分を持つからというものがあります。
言ってみれば、誰しも、問題や悩みがあれば、誰かの手助けを待っているのです。
最後は自分でどうすればいいのかをつかむことはできても、それまでのヒントや道筋は、他人によってつけられていくことが多く、それは自分ではない者(他人)だからこそ、観点が違い、堂々巡りからの脱出を可能とさせるからです。
つまり、現実の世の中は、人(他人)あっての自分であり、自分あっての人(笑)なのです。
従って、まだ完全ではなくても、いや、完全ではないからこそ、他人へ(おせっかいにならない程度に)協力を惜しまないことがよく、それは結局は、自分を救う(完全性を回復していく)ことにつながるのです。
まさに、マルセイユタロットの「節制」の象徴(ふたつの壺を混ぜ合わす)で、協力、助け合いによって、お互い、人類全体を完全性に導くという感じでしょうか。
とはいえ、タロットリーディングにも段階やレベルがあり、お金をいただくとか、仕事として行うとかになってきますと、それなりの責任度が必要で、趣味レベルでやる時とは異なってきます。
人助けとして、積極的にタロットリーディングを活用してほしいと思う反面、自分の技術レベルや、責任の度合いにも、それ相応のバランスは取っておくことは求められます。
しかし、たとえまだ駆け出しの頃でも、上記を理解しつつ、他人目線というものは、今まで説明したきたように、それだけで人の力になる部分があるのですから、タロットという強力なツールを得たのなら、早い段階で、勇気をもって、他者へリーディングしていくこともよいと思います。
あなたはあなたでいるだけで、人とは違うのですから、それ自体が、人を救う力となり、あなたの存在価値として高いものがある(存在価値をよい意味で自覚できる)のです。
タロット自体の縛り
かつてタロットを学んでいる仲間と、定期的に集まって、いろいろと語り合う機会がありました。
そんな頃を、今は懐かしく感じる(笑)日々ですが、ふと、その時(内容も含めて)を思い出すことがあります。
そのひとつに、「我々はタロット学んでいるけれど、タロットが、逆に縛りにならないだろうか?」
とメンバーがつぶやいた一言で、皆が、それについて一考するという事態があります。
タロット(学習していたものは当然のことながら、マルセイユタロットです)は、本来、自由になるためのものだと当時は信じていました。(この場合の「自由」は「解放」に置き換えてもよいです)
いや、今も基本的には、私はそう思っていますが、それも場合によると言いますか、使い方次第だと言えます。
話を戻しますと、「自由になるはず(解放のため)のタロットの学びが、逆に、我々の縛りになるのでは?」という問いかけは、タロット学習を楽しくしていたメンバーに、一石を投じるものとなりました。
私も同様に、これについて、ちょっと考えないといけないな、と警告的に受け取りました。
タロットを学ぶことで、タロット的な見方を獲得し、物事の整理と理解が早まる(深くなる)のは、まともに学習した者たちからすれば、実体験として当然のことと受け止められます。
しかしながら、タロットもひとつひとつが象徴絵図であるとともに、枠をもった図像(制限ある絵)であることには変わりないのです。
タロットを愛する(偏愛する)があまり、すべてを捻じ曲げてでも、タロットに落とし込もうとする、無理矢理の理解(こじつけ)は、方向としては逆であり、このような使い方をすれば、確かに、タロットが縛りの道具になってしまうでしょう。
今回のテーマの「縛り」とは別のものですが、タロット占いを信じ過ぎ、タロットの言いなりになってしまうような依存的な態度も、タロットによる縛りと言えます。
いずれにしても、ある宗教教義が絶対とされて、それに合わないものは非難、排除されるというのに似ています。
やはり、タロットであっても、囚われの枠や自らを縛るロープになってしまうこと、色メガネの色とメガネになってしまうことを危惧し、使う者は、しっかりとそのことを踏まえながら、自省をもって扱うことが大事だと思います。
タロットが縛りとならないためには、柔軟な姿勢を持つことと、タロット的には、常に個(単体)と全体を考慮することです。
個とは一枚とか少ない枚数のミクロ的なタロットへの見方です。これに対して、78枚を一組にした、あるいは大アルカナ全体とか、小アルカナ全体とかのマクロ的な観点(全的な見方)も必要であるということです。
例えば、大アルカナは、全体でもって、真の解放や自由を象徴すると見ますと、一枚一枚は、まさにひとつひとつの解除方法を示していると言えましょう。
さらに言えば、個々で解除されるのではなく、例えば数順に解除されていくという具合に、一種のステージとかレベルのように、ひとまとまりにされているかもしれないと考えることもできます。
まるでゲームの(ステージ)クリアーみたいなもので、解除の鍵は、単独のカードがわかったからと言って、即、渡されるわけではない可能性もあります。
また、カードたちが、実は逆説的に、私たち自身を縛ってるもの(こと)そのものをテーマにしていると見ることもできます。
普通、タロットカードは、リーディングとか占いで、ポジティブな意味や、反対のネガティブな意味を絵柄を通じて見い出そうとします。
しかし、カードそのものが実は縛りを表すと見れば、少し、通常の読みのネガティブ面を見るのに近いですが、それとは異なるものが浮上してきます。
例えば、「正義」というカードがあれば、正義が縛る(縛っている)ものは何か?と問われていると見るわけです。
まったく自由に見える「愚者」でさえも、「愚か者による縛りは何か?」「自由や純粋性が縛りとなっていることはないか?」と考えてみるのです。
これが大アルカナを一枚一枚を利用した、縛りへの考察法で、結局、この作業は、自ら(あるいは他者)に解放をもたらすために行うのであり、この意味では、タロットは縛りになると同時に解放にもなると、両方言えるわけです。
究極的には、タロットなどいらないと言え、個人的にも、タロット学習・活用の最終段階は、タロットから離れること、タロット自体、忘れるほどになることだと考えています。
結構、どの進化・発展パターンにも言えることだ思いますが、勘違いした自由度(無自覚な、狭き自由状態)から、ルールや規則、パターンを学ぶ世界に一度自分を閉じ込め(学習・修行、再構築の準備)、そのうえで、その世界を破壊して、次なる自由度(かつて自分が思っていた自由とはまったく異なる自由や世界)に向かうのだと思います。
マルセイユタロットは、おそらく、ほとんどの人が無自覚だったり、勘違いだったりしている世界観とか自由というもの(無自覚の囚われ、牢獄状態)から、脱出や自覚のために、あえて別の囚われに入り、そこで別の観点から世界を改めて見ることで、ふたつ囚われ(最初の囚われと、あえて入った二度目の囚われ)から解放させ、真の(あるいは高次の)自由に飛躍(タロットでは鷲の象徴が思い浮かびます)するための導きのツールだと考えられます。
そして、「タロットを学べば自由になる、よくなる」という単純なものではないことも自覚しつつ、学びを進めて行きたいものだと思います。