リーディング技術・内容

カードの中の細かな図像を考慮する読み

私が扱うマルセイユタロットにおいて、特にリーディングの際、カードに描かれている細かな象徴(図)に注目します。

一枚引きとか二枚引きのような少ない枚数では、意味をほぼ持ちませんが、たくさんのカードを引く展開法になってきますと、そのカードの図像に共通点とか異質点とかが出てきます。

また引いたカードたちにおいて、特別な配置に、それら(細かな図像)が出ていることに気付けることにもなります。

カモワン流の場合では、これを連繋カードとか例外の法則などと呼びますが、カモワン式ではなくても、似たようなことは、自然とマルセイユタロットリーダーの方ならばやっているかもしれません。

しかし、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットをはじめ、より精巧にできているマルセイユタロットのタイプとその復元版においては、タロットの図像の精密度・整合性も高く、非常に細部まで着目することで、他のカードの図像との比較によって、重要な意味を持たせることが可能になってきます。

タロットカードの一枚全体として意味で読んでいくものより、一枚の中にも細かな図像と象徴性があり、それに注目しながら、他のカードの中にある図像との共通点や異質点を見ていく手法は、やはり、リーディングの質にかなりの違いがあると言えます。

カード一枚で見ていく場合は、言ってみれば、そのカードの(全体的な)意味さえ知っていればリーディングはできます。

キーワードのようにカードの意味を覚えて、その単語をつなげていけば、出たカードから一応の意味合いとか、質問への答えも出てくるでしょう。

しかしながら、これは、タロットの意味を知っているタロットリーダー側が中心で、クライアント側からは、タロットの意味がわからない(クライアントがタロットを学習していない場合が普通ですから)ので、ただ出たカードの意味をタロットリーダーから告げられ、そのリーダー側の言葉を受け取るしか判断のしようがないものとなります。

まあ、カードが眼前に出ていますので、クライアントといえど、カードの絵柄を見ることで、何らかの印象とか意味をつかめる場合もあるかもしれません。

しかし、タロットを知らない(学んでない)クライアントの身では、あくまで印象(から勝手に浮かぶ意味に)しか過ぎません。

だから、ほぼ、タロットリーダー側の解釈で、タロットセッションが終始すると言ってもよいです。

けれども、一枚一枚、それぞれの細かな図像・象徴に注目して読んでいく手法を取る場合、まずカードが出ていること(引かれたこと)と、そのカードたちに描かれている図像が見えることは、クライアント側にも確認できます。

もちろん、タロットリーダーに指摘されなければ、タロットを知らないクライアント側には、細かな図像に注目することは難しいでしょうし、ましてや、その意味がわかるようなことはほとんどないでしょう。

当然ながら、その意味を知っていて、存在を指摘することができるのはタロットリーダー側です。

それで、ここが非常に重要なことなのですが、その指摘された細かな図像・象徴が、その時引かれたカードたち全体の中で、シンクロを起こしていたり(共通の図像が見られたり)、特別な位置に出ていたりすることで、クライアント側にも自分の目で、そのことを確認することができます。

つまり、引いたカードたちの中から、何かの「特別感」を、図像たちの配置・存在によってクライアントは客観的に知ることができるわけです。

意味よりも前に、明らかにそこにある、その位置に重なっている・・・など、カードの意味がわからなくても確認できるので、「その象徴図(図像)は、何か重要な意味があるのだな」とか、「偶然引いたカードたちだけれども、必然性をもって出ているかもしれないな」(つまりシンクロニシティが起こった)と、客観的に理解できるわけです。

それは実際に、カードの中と配置が目の前にあるので、「そこにある」という事実は否定しようのないことです。ゆえに客観的と言っているのです。

一方、カード全体の意味だけで解釈してクライアントに告げるようなリーディングだと、結局、一方的にタロットリーダー側がカードの解釈を話す形となります。

「占い」ならば、むしろそのほうが神秘性とかカリスマ性が出ていいかもしれませんが、クライアントに気づきをもたらせ、自らで納得し、能動的・創造的にクライアント自身が問題に対処していくことを期待するのなら、依存性の危険もある一方的でお告げ的なものは、あまり、よくないかもしれません。

タロットリーディングというものは、しょせん、リーダーの主観が中心ではあります。

それでも、出たカード(引いたカード)そのものという事実と、そのカードたちに中にある図像の一致とか、クライアント側から見ても明らかな特別な配置とかは、見た目の実際なのですから、リーダーの操作とかごまかしは利かないものと言えます。

それがクライアントにとっても疑いようのない事実として認められ、だからこそ、カードからの示唆を受け入れることができ、自分のことが現れていると実感することになるのです。

ただし、この手法は、タロットリーダー側には、かなりの学習が必要となります。それは一枚全体の意味とか解釈を覚えるだけではなく、一枚一枚の中の細かな図像・象徴性を学ばなくてはいけないからです。

しかも、細かな意味を知るだけではなく、そもそも、それら出たカードの中から図像を発見し、つなげていく鋭い観察力と、ストーリングの技術もいります。

図像はあくまで意味としては抽象的なものだったり、言葉として単純なものだったりしますが、その示す象徴性は深いものがあり、歴史・文化的なものとか、宗教や秘教的なものにふれておくことも、場合によっては必要となります。

細かな図像を発見し、その関係性を指摘して、クライアントにも目で確認してもらうことは客観性を持ち、クライアントに当事者意識と自覚性、さらにはタロットのシンクロニシティの力を多大に認識させるすごさを持つ一方、図像を指摘できるだけでは、タロットリーディングにはならず、やはり、リーダー側の技術と知識が、より重要となる高度な手法と言えます。

そして、この技術は、ほかのタロット種ではやりづらく、細かな図像・象徴が整合性をもって、精緻に描かれているマルセイユタロットのタイプでないと成立しにくいものです。

その分、使いこなせると、一般のタロットリーディングとはレベルの違う、非常に高度で論理的なものを見せます。

一枚全体の解釈だけで読んでいくものとでは、情報の量とその処理にかかる濃度が格段に違うからです。

コンピューターで言えば、CPUの精度の違いみたいなもので、タロットリーダー側が、言わば「クロック数」を上げないと追いつけない技術でもあるのです。

このような読み、リーディングをやってみたい方は、マルセイユタロットを学ばれるとよいでしょう。


生年月日を元にした数のタロット技法

タロットと数秘術を合わせたような技法で、パーソナルカードとかソウルカードというものがあります。

これも流派によっては少し計算方法が異なるのですが、基本的には生年月日をもとに行う方法という点では変わりないものと思います。

これは、生年月日から導き出された数を、タロットの大アルカナに付与されている数と関連させて、その数を持つカードと自分の特性を象徴させるというものになります。

パーソナルカードは、計算によって22の数のうちどれか(22の場合は「愚者」に当はめる)にするので、大アルカナの数と合うことになり(と言うより合わせているので)、違和感は少ないのですが、ソウルカードの場合は一桁の数のみ(1から9)で表されるため、大アルカナの数と合わなくなります。

そういうこともあって(他の理由もありますが)、私個人としては、この見方はほとんどタロットの技術としては重視せず、あくまでタロットリーダー・タロットティストとして、絵柄をメインとした使い方を推奨しています。

しかし、数秘的に見るのが、結構好きな人もいますし、エンターテイメント的に面白いところもありますので、時と場合によっては、やってみてもよいかもしれません。

ただやはり、先述したようなタロットとの数の問題があり、違和感はぬぐえません。

そこで、私は生年月日から数を出してタロットと関連させる方法としては、別の方法をいくつか考えました。

そのひとつをご紹介したいと思います。

これは先日書いた、ある基本数で大アルカナを分けることに由来するものです。

今回は、その分ける基本数を「10」として援用します。

しかし、「10」で大アルカナを分けると、2枚余ってしまいます。ですが、その二枚を「愚者」と「世界」にすると、うまく分けることができます。

というのは、「愚者」は数を持ちませんし、「世界」は21という数はありますが、「世界」のカードの象徴は最高度の状態を示し、「すべてある、完成された世界」と考えると、ある意味、どの数にもなってどれでもないという「愚者」に近い概念になり、ほかの20枚の枠からはずすことが可能になります。

こうした「10」のまとまりで、二つのグループに大アルカナを分けておきます。

具体的に言いますと、1から10(「手品師」から「運命の輪」)のグループと、11から20(「力」から「審判」)のグループとなります。

次に、この二つのグループの大アルカナにおいて、下一桁の同じ数を見て、二枚セットにして10組に分類して行きます。

これも具体的に示しますと、「1と11」「2と12」「3と13」「4と14」「5と15」「6と16」「7と17」「8と18」「9と19」「10と20」という具合です。(もちろんその数を持つ大アルカナ同士ということです)

そして、自分や見たい人の生年月日の数をばらして、全部足しこみます。例えば、1985年9月25日生まれの人の場合、1+9+8+5+9+2+5=39となります。

ここで「10」の数を基本としてタロットを分けていますので、「10」の数と比べることをします。 合計数が10より大きい場合、合計数をさらにばらして足しこみます。それでもまだ10より大きい場合は、さらにばらして足しこみます。つまり、1から10のどれかの数になるまで、ばらして足しこむという作業になります。

例の人の場合だと、合計数が39ですから、これは10より数が多いですので、3+9=12とし、これでもまだ10より大きいですから、さらに1+2=3と計算します。ここでようやく10以下となりましたから、この人は「3」の数を持つとみなします。

そうしたうえで、さきほど、二枚セットで10組分けた大アルカナのうち、このケースの人の場合、「3」の組に相当すると考えます。具体的には「女帝」と名前のない「13」です。

生年月日を数秘とタロットの数(大アルカナ)から見て、この例の人の場合、「女帝」と「13」のカードとの関係があるとみなし、その性格や特質、個性の傾向がこの二枚に関係すると考えます。

どちらかと言えば、1から10のシリーズ表向きや、自分としてもわかりやすい傾向で、11から20のシリーズのほうがであったり、ここぞという時に出るもの、自分にもわかりにくい傾向と見ることができるかもしれません。

また、1-10シリーズが地上的・実際的(現実世界での表現)、11から20天上的・精神的(内なるものや大いなる観点からの表現)と分析できる場合もあります。

例の人の場合、「女帝」と「13」ですから、創造的・クリエィティブなことが好きで、実際的にもそのような傾向で選択したり、人生を生きたいと思ったりすることが多くなると思いますが、裏では「13」の象徴のような思い切った変革性や合理性にあふれ、時には苛烈にふるまうこともあるということです。まあ簡単に言えば「創造」と「破壊」の性格を併せ持つみたいな感じでしょうか。

この技法なら、10進法的に符合させやすいので、数秘的にも使い勝手がよく、大アルカナにおいても、「愚者」と「世界」は例外的になりますが、「10」という意味のある数のひとまとまり、一サイクルといってもいいシリーズで大アルカナと関連させることができますので、タロット(の数)的にもそれほど違和感はないと思います。

とは言え、これも数秘術を基本としたタロット技法なので、絵柄を主とするタロットにおいては、邪道と言いますか、イレギュラーな見方ですから、遊びや簡単な占い、個人の傾向を数秘的なものからうかがう補助技法くらいに思って扱うのが適切かと思います。

まあ、ソウルカードよりかは、タロットの数的には親和性は高いと思いますので、こちらも利用してみてください。

結局、数秘的な技術も、タロットとの親縁性を深めたり、高めたりする技術の一つと言えます。

つまりは、リーディングする相手とのコミュニーションと、タロットとのコミュニケーションという、二重の意味でのコミュニケーション技術と考えるとよいのです。


タロットを数で分けたり、まとめたりする。

このブログでも何度かふれていますが、タロットは絵柄による象徴のカードなので、数がメインとなるわけではありません。

それでも、数秘術による考え方、読み方をタロットで使う人もよく見ます。

別にそれはそれで構わないとは思いますが、タロットの本来である絵を元にしたリーディングを差し置いて、数の解釈を重視し過ぎるのは、もはやタロットリーディングではなく、数秘術だと言ってもいいかもしれません。

たとえば、引いたタロットカードの数を全部足して、その数を持つタロットと関連させるなどという手法はよく見かけますが、それ(数を足す)以前に、出た(引いた)カードそのものを、まず注目すべきだと思います。

もっとも、矛盾するようなことを言いますが、数は無関係ではなく、タロットの情報のひとつとして数にふれていくことも、リーディングのひとつの技術だと考えています。

つまりは、タロットリーディングにおいては、どこまで情報として扱うのかというルール(設定)によって変わってくるということです。

数を扱うことによって、リーディングの質が上がるのなら、それ(数の解釈)を採り入れるも、よいことかもしれません。逆に、数を意識し過ぎてしまったがために、読みがブレてしまった、タロットが伝えていることがよくわからなくなったというのなら、本末転倒です。

やはり、タロットリーダーとしては、数よりも、タロットの絵柄の象徴性を重要視したいものです。

とは言え、数を関係させてタロットを見ることは、リーディングだけではなく、タロット研究の意味でも、タロットの複雑で精緻な部分が見えてくることもありますので、数に注目するのも興味深くはあります。

たとえば、大アルカナにおいて、ある基準の数をベースに、まとまりや関係を持たせると、不思議な構図のようなものが出現します。

比較的有名なものでは、「7」を基準とするもの、「10」を基準とするものなどがあります。

「7」でも「10」でも、大アルカナは22枚なので、どちらにしても割り切れません。

「7」を基準にした場合、22枚の大アルカナは、3つの「7」ベース(ひとまとまり)ができ、余りは1となります。

この余りのカードを「数を持たない愚者」に当てはめると、3×7=21枚(それぞれ数を持つ大アルカナ)のカードと「愚者」という具合に、うまくひとつの図ができあがります。

これはカモワン流ではタロットマンダラと呼ばれる図であったり、ユング派でマルセイユタロットを使う人にも、心理的な完成図・モデルとして図示される形です。

一方、「10」を基準にすると、大アルカナの場合、ふたつのグループができ、余りは2枚のカードになります。

ホドロフスキー氏などが提唱している見方では、1から10の数を持つカード、11から20の数を持つカードグループと「愚者」と「世界」はその枠から外れる特別なカードと見立てるができます。

「10」を基準にしていますので、1の数を持つカードと11の数を持つカードのように、下一桁が同じになる数で二枚組が10個でき上がることになります。

それぞれ(二枚)を陰陽相補・対称・対照のような意味で見ることも可能で、その見方をリーディングにおいての関連性として解釈する技術もあります。

組は、具体的には、マルセイユタロットで言えば、手品師と力、斎王と吊るし、女帝と13、皇帝と節制、法皇と悪魔、恋人と神の家、戦車と星、正義と月、隠者と太陽、運命の輪と審判の組み合わせになります。

何となくそれぞれの二枚が関連性を持つことが、絵柄からでもわかる組み合わせもあれば、なかなかその二枚がどう関係しているのか、共通点などがわかりづらいものもあると思います。

ここで言っておきますが、この二枚組たちは、単純に一桁の数に10が加わっているだけではありません。

さらに言えば、マルセイユタロットにはローマ数字にも図像としての意味があり、現代の算数的な解釈での数の読みだと、重要なことを見落とす場合があります。

そのことをよく表しているのは、この場合、ほかならぬ「10」の数を持つ「運命の輪」と、これとセットになる「審判」の組み合わせと言えましょう。

このように、おそらく、マルセイユタロットの絵柄の象徴性の意味を伝えられないと、それらの組み合わせの関係性も理解できないでしょうし、リーディングにも活かせないでしょう。

この二枚の組み合わせは、基本は数をコンセプトにできたものなので、もちろん、数の意味も関係してくるわけですが、不思議なことに、それぞれの組の絵柄からでも、先述したように、関係性が見えてくる(関連が発見できる)のです。

ここがタロット(マルセイユタロット)の恐るべきところで、ある数を基本とした分け方なのに、絵柄においても関連性があるように見えてくるのは、でたらめに数をあてがっているわけではなく、ある意味、神的目線で計算のもとにカードが作られ、構成されているということがわかるのです。

それゆえに、数秘術的技術を使っても、ある程度、タロットの解釈に意味が出てくることになるわけです。

ただし、たからといって、絵柄を抜いてしまって、数だけ抽出したものにすれば、それはタロットではなくなります。

極端なことを言えば、数だけを重視するのなら、カードに絵はいらず、1とか3とか大書すればよく、それはすなわち、ただの番号カードに成り果てます。(笑)

だから、緻密に計算されていると思えるタロットにおいても、数はあくまくでひとつの情報や、関連性を見るための手法としてとらえ、特にリーディングにおいては、メインは絵柄であることを基本にするのが王道だと思います。

ただし、小アルカナの数カードは、名前の通り、数が中心になっているので、数の解釈から入らないと、そもそもマルセイユタロットの数カードの場合は、デザイン的にも絵というより、記号に近いものになっていますので、この限りではないでしょう。(でも、よく見ると、数カードと言えど、細かな絵の違いはあり、それに注目すると、読みもまた違って来ます)

ちなみに、さきほど述べた大アルカナを「10」のくくりで分ける方法は、数カードの10枚ずつと関係させることができ、カモワン流ではこれによって、数カードを解釈するひとつの技法となっています。

もちろん数カードの読み方は、カモワン流で伝えられている方法だけではないものもありますので、数カードの読み方をどうしていくのかは、流派によって違いがあり、その選択は自由と言えますが。

日本でのマルセイユタロットは、カモワンタロットが2000年以降に、いわば平成において特に広まったので、小アルカナの読み方も、カモワン流(というより、旧タロット大学で教えられていた方法)が知られているように思います。

しかしながら、かつてのカモワン流やカモワン系からの流れで教えられた人の多くは、ほとんど大アルカナしか使わないので、小アルカナの数カード自体、そもそも読む・読まない以前の問題で、読み方の技術が取り上げられることも少ないようです。

何度かここでも言っておりますが、タロットは78枚で一組のものですから、小アルカナも活用しないともったいなく、大アルカナだけだと片よりが出るように思います。

タロットは数がメインではありませんが、逆に数に注目することで、特に数カードへの関心も出て、タロットの全体的活用につながるかもしれません。

何事も悪いことだけではなく、必ずよいこともあります。(その逆もしかり)

ともかくも、数にこだわり過ぎず、それでいて、数も重要なひとつのタロットの情報として扱っていくと、タロットへの探究はもとより、リーディング実践の場においても、有意義なものになると思いますので、いろいろな見方のひとつとして、タロットの数に注目してみるのもよいでしょう。


タロットリーディングに才能は必要か?

タロットリーディングに才能は必要か?

というタイトルですが・・・結論から言いますと、どちらとも言えないという、またあやふやなものですみませんが、私自身はそう思います。

ところで、この世(現実)は残酷な部分があり、いくら平等を訴えても、あらゆるものに違いがあり、だからこそ、皆同じというわけには行きません。不公平な世界というのが実情でしょう。

逆に言えば、だからこそ、ルールや法律を決め、皆が同じようになれるよう(権利が受けられたり、扱いが等しくなったりするよう)にしているわけです。

話はそれますが、現実において生きやすくするためには、違いがあるのがこの世であり、そういう世界になっているのだとまず認めることからだと思います。

そのうえで、差別とか理不尽なことをいかに是正するか、皆が人として等しく権利を享受できるかを考えたいです。簡単に言えば、区別を認めて差別は変えていくみたいなことでしょうか。

さらにスピリチュアル的に言えば、違いというのは演出でしかなく、大元までたどれば、違いを作り出している装置と言いますか、仕掛けに気づくようになっていると考えられます。

ただし、人として現実空間に生きている間は、なかなかそのことは実感できないよう、極めて巧妙で精巧な作りの世界になっているのだと想像できます。

結局、この演出世界を体験する何らかの宇宙的必要(必然)性か、自分の真の意思のようなものによって、違いある世界を味わっているのだと言えるかもしれません。

話は戻りますが、そういうわけで、みんな違った才能・個性があるようにできており、その程度・質・表現等、まさに千差万別です。

当然、(三次元における)タロットに関しても同様で、誰もがまったく同じに読む才能が最初から揃っているわけではなく、また、みんなが平等にリーディングできる力となる方法もないと言えます。(あとで述べますが、ないとも完全には言えない・・・のですが)

シビアですが、そう考えますと、元からタロット(リーディング)に才能のある人と、あまりない人という差はあるのが普通でしょう。

私は、タロットは独学ではなく、スクールに入って学びましたので、一緒に学んだから方々を見ております。

その中で、やはり、タロットに向いているといいますか、すごく最初からセンスのある人と、いまひとつである人、という差はあったように思います。

そして自分がタロットを教えるようになって見ても、ほかの人に比べてタロットセンスが初めから高い人、そうでない人という違いはあるように感じます。

今までとても印象的だったのは、まったくタロットを習ったことがない、自分で学んだこともないという人が、入門コース的な簡単な内容を少し伝えただけで、かなりサクサクとカードを読まれた方がいました。(コンビネーション的なものも含めてです)

ところが、世の中、不思議なもので、この方はそれほどタロットを続けて行く気はなかったようで、それっきりのご縁でしたが、あのまま本格的にタロットリーディングの学習と実践を続けられていたら、すばらしいタロットリーダーになっていたのではないかと思います。もしかしたら、別の種類のタロットを学ばれて、使っていらっしゃるのかもしれませんが。

このように、才能・センスとの違いは、どうしてもあります。

では、努力によって元ある才能を凌駕することができるのか? よくスポーツや勉強の世界で言われることですが、これもまた難しいところでしょう。

そもそも、すごい努力ができるというのも才能のひとつだと私は考えています。

ただ、タロットの場合、それほど才能・センスに依存する分野ではないと思います。

何を隠そう、私はタロットリーディングのセンスは凡人です。(苦笑)

最初にスクールで学んだ同期生たちに比べ、おそらく一番、タロットが読めなかった人物だと自覚しております。

かといって、そこから人一倍努力した、というようなスポ根ものみたいな話もありません。(笑)

それでも、私の場合、タロットのセンスはあまりなかったかもしれませんが、センスを磨く工夫をすること(トレーニングによるコツの習得)には、もしかしたら恵まれていたのかもしれません。そして、習ったマルセイユタロットが好きということに変わりなかったことが、継続していく力になっています。(やればやるとほど好きになっていました)

いくら才能やセンスがあっても、その対象のことが嫌いだったり、興味がなかったりすれば、続けて行くことは難しいでしょう。すると、熱心にコツコツと長くやっていく人に比べると、ウサギと亀ではありませんが、やがて追い抜かれることになります。

この、対象に対しての好ましい感情や情熱が持てるかということは、才能よりも重大な意味があると考えられます。

さらに、人には誰でも何かしら、よいところはあるものです。

そのよいところをもって、訓練していくことで、ある程度、才能をもともと持つ人に近づけることはできると思います。

タロットの場合、タロットの知識・象徴性に興味と関心があり、タロットリーディングはそれほどでもないという学びのタイプの人もいます。こういう人には、センスとか才能はあまり関係ないでしょう。

ですから、タロットにおける才能・センスが活かせるというのは、タロットリーディングの分野がメインです。

それでも、そのタロットリーディングにおいても、知識と論理で読んでいく方法と、直感・感覚・センスで読んでいくものとがあります。

才能・センスのある人は、後者の力を行使していく傾向が強く、だからこそ、センスの薄い人(普通の人)は、前者に力を入れるとよいのです。

ただし、知識と言っても、カードの意味を丸暗記するような方法ではありません。それではスポーツにおいては、あまりよくないコーチの言われるままに根性トレーニングするのと同じです。そのやり方では、応用や、さらに伸ばしていく力も出て来ないです。

才能ある人に対抗するためには、教えられることだけではなく、自分が思考し、実践していく力を身に着ける必要があります。

そのため、タロットにおいても意味を丸暗記するようなやり方は、あまりお勧めできるものではありません。(暗記という方法自体は悪いわけではありませんが)

カードを論理性をもって読むことができるようになれば、能力にあまり左右されず、安定したリーディングの力を発揮することができます。

しかしながら、タロットの種類によっては、論理性があまり通用しないと言いますか、そのタロット自体が論理性に欠けているものもあります。それでは、意味がありません。(そのため、論理性に欠けるタロットには、イメージや感覚の力で読む傾向になるのです)

論理性をもってリーディング技術を上げたり、安定したりできるのは、そもそもリーディングに使うタロット自体に、しっかりとした論理性(合理性)が整っていてこそです。

どうも、タロットは感覚の世界の産物と思われ過ぎているので、タロットカードのシステム・論理性が軽視されているところがあり、新しい創作系タロットのほとんどは、作者の感覚で作られていることが多いので、タロット全体としてバラバラな印象があります。

たとえイメージの世界、元の世界での論理性があったものでも、それを受信した方に、論理・オーダー・システムの全容と個別の仕組みが包括的にわかっていなければ、それを現実のカードとして精巧に表現することは難しいです。

これはマルセイユタロットで言えば、「斎王」と「法皇」(大アルカナナンバー2と5)のセットによってできることなのです。「斎王」のみ、「法皇」のみでは困難です。(人間が二人必要だと言っているのではなく、そういう二面の性質が合わさる必要があると述べています)

マルセイユタロットのある版の場合は、この点、極めて精密にできており、それが実際に表現されているカードなので、論理性をもってリーディングする技術を学べば、才能・センスに頼る読み方を超えることも可能だと思います。

そういう意味では、こと、そのタロットに関しては、才能はあまり必要ないと言えるでしょう。(論理的に読むこと自体に才能を見る、あるいは向き不向き考える場合は、また別ですが)

しかし、先ほども述べたように、タロットは一方で、感覚・感性というものも大事な読みの力となります。

これがもともと優れている才能とセンスのある人は、極端なことを言えば、学習をほとんどしなくても、リーディングはできるでしょう。

タロットのすごさは、学ばなくても読める人を生み出す力そのものがあることです。人の才能を引き出す力と言い換えてもよいでしょうか。

とは言え、そういう人も、人間ですから、才能はあっても、いつも安定した力が発揮できるとは限りません。体調や環境によって左右れることも大きいです。

ですから、それを補うためにも、やはり論理性での読みも学んでおいたほうがよいです。才能に頼るだけでは、エネルギーの消費も激しく、タロットリーディングに疲れてしまいます。

それに、センスのある人は、好き嫌いの感情が強いところがある人が多い気がします。(これには理由があるのですが、ここでは省きます)

タロットが好きである必要性は説きましたが、リーディングそのものに、ただ感情的に取り組んでいては、やがて飽きたり、興味を失ったりします。ある時はとても面白くても、別の時は嫌になり、もういいや、みたいになるわけです。

ですから、タロットリーディングをする人は、使命感のようなもの何のためにやるのかという意味付けを自分で作っておく(持っておく)ことが重要です。

まだまだ才能・センスとタロットリーディングについて書きたいことはありますが、長くなりましので、今日はこのあたりにしておきます。


「月」のカード、理解の段階

マルセイユタロットの大アルカナの中でも、最も読みづらいカードと言われている「」が本日のテーマです。

確かに、読みづらいと言われるだけあり、一筋縄ではいかないのが「月」のカードです。

それは、ほかのカード(大アルカナ)のほとんどが人物、あるいはモノが、メイン・中心となった構図となっているのに対し、「月」はどれかメインであるのか、よくわからない図像になっていることが一番大きいのかもしれません。

「月」一枚の図像をよく見ると、カードの名前の由来である上部の月の部分、真ん中あたりの二匹の犬のような動物の部分、しかもここには背景にふたつの建物のようなものも見え、さらに下部には水たまりがあり、そこにはザリガニのような水生動物とおぼしき存在もうっすらと描かれています。(版によっては、はっきりザリガニが描かれているものもあります)

そして、上部・中部・下部と、どれも描かれているものが結構大きな存在なので、メインがどれであるのか判断しかねます。

さらには、全体的にもトーンがブルーと言いますか、暗い色調であり、霧がかかったような感じ、ボゥーとした感じに見えなくもなく、それが不明慮な印象を増加させているとも言えます。

要するに、見た目からしてわかりづらいというのが「月」です。

しかし、マルセイユタロットには意図が隠されており、どのカードも無造作・無意味に描かれているわけではありません。

となると、わざと、わかりづらい、あやふやな感じの図像にしているのだと見ることができます。

さきほど、出た上・中・下の三部の均等性(メイン図像が何かわかりづらくなっている構図)も、意図的にそうしているのであり、わかりづらいもの三つが並び立っているそのことに自体に意味があるのだと考えられます。

下から見ても、水、植物、動物、土、人工物、水滴、天(宇宙)・・・と構成が変わってきているのが、実は明瞭にわかるようになっています。このことは「月」のカードを理解するうえでは、なかなか貴重な情報です。

私自身、マルセイユタロットと長いこと関わってきて、この「月」のカードとも向き合ってきたわけですが、だいたい、次のような状態で、「月」のカードの理解と言いますか、自分の中への浸透が進むように感じています。

●最初の段階

よくわからない、わけがわからない、神秘的、不安な感じ、複雑な感じに見える(意味不明のように感じる)印象的段階

 

●第一段階

「月」のカードに描かれている細かな象徴の意味を教えられて、「月」のカード全体の意味を考える知識的段階

そのほとんどは心理的・感情的なカードとして見たり、読んだりすることになる

感情の対立や葛藤の意味を見ることがメイン⇒個人的な内面に向かう

女性・母性・母の元型像としての理解

 

●第二段階

個人の内面、感情的なもの、特にその対立や葛藤を「月」によって浮上させる段階から、次第に集合的なもの、全体的なものへと「月」の対象が変換していく段階 内的段階のさらなる拡大

個人カルマから人類全体カルマのようなものへの象徴性・問題性に向かう

人類としての成長・発展と、そのブロックの鍵を見ようとする視点や方向性

「月」を霊的に考えようとする段階

 

●第三段階

さらに「月」への俯瞰性、全体性テーマが進み、人類全体はもとより、宇宙の流れ、生命の改変そのもののテーマとして「月」が見えてくる段階

この頃になると、「月」のカードが多様で各層に適用され、「愚者」にも似たカードとなって現れ(「愚者」とのセットであることもわかってくる)、あらゆる層に鏡のように「月」の問題性が、レベル別に入り込んで来ているのに気付き始める

第一段階、第二段階、第三段階の過程が必然であり、「月」は私たちを本当に成長させるための悪と正義の両方を持つ象徴体・殻(から)の大元であることも見えてくる

いわば、霊的に拡大した見方になる段階

 

こんな感じでしょうか。

もちろんまだこの先があると思いますし、あくまでこれは私の見てきた・感じてきた「月」理解の流れです。

実際的には、特にリーディングに使うタロットとしては、第二段階が重要で、この使い方とか考え方をしていると、「月」はわかりやすいかと思います。

ただ「月」のカードの特性としては、単体としてより、他のカードと組み合させることで、より力を発揮したり、意味が強調されたりする気がします。

天体の月が、太陽の光を受けて輝くものであるように、ほかのカードの図像・象徴性を映し出すような感じで、「月」のカードも活用されることがあるのです。

この時、「月」の月部分にある人間的な顔の視線を考察することて、こうした使い方が活きます。それはまた、「月」と一緒に出たカードの表ではなく、裏を読めということも言えるのです。

ところで、先述した最初の段階から第一段階に進む時に、一般的な注意と言いますか、心がけてほしいのが、「月」のカードをなるべくポジティブに読んだり、解釈したりするほうがよいということです。

「月」が最初には、よくわからないカードであるだけに、ネガティブな印象が出やすく、さらに言えば人間の視点の癖として、ある対象の真ん中部分が大事だと思うところがあり、「月」だと、二匹の犬のような動物が吠え合っている部分を意味の中心に取ってしまうことがあるからです。

すると、言い合いとか争いとか、感情的対立とか葛藤というネガティブなことを、すぐに当てはめてしまうわけです。

これは「月」のカードからの出る意味としては間違いではありませんが、どうしても言葉的にネガティブなものとなります。

よって、「月」全体としても、悪いカードと決めつけるほどではないにしても、ネガティブな言葉に引っ張られ、あまりよくないカード、もやもやしたカードというニュアンスが強くなってしまうのです。

これでは、「月」の真髄に近づくことが難しくなります。(何事も、どちらかに傾く理解は、真理から遠ざかるものです)

ですから、中立的な見方ができるように、逆に「月」からポジティブな意味や、よい意味で状況を変えていくための方法などを、「月」カードから見出す努力をしてみることです。

そうやっているうちに、最初の段階を自然に超えていくようになるでしょう。

「月」から何とか意味を出そうとしたり、何かに当てはめたりしようとするのではなく(「月」の意味をはっきりさせようとする態度ではなく)、「月」のカードそのものを受け入れるようなことが、本当の「月」の理解につながると私は思います。

それは実は、ほかのカードに対してもそうなのです。

タロットとあなたとのつながりを、もっとつけてみると、タロットは自ずと心を開き、今のあなたに必要なものを示してくれるでしょう。


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