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タロットの示す未来
私自身は、今はほとんどタロットを占いとして行うことはありませんが、タロット占いを否定しているわけではありません。
占いは占いで、エンターテイメント性もありつつ、本来は深淵なものであり、また、人々の現実的な知りたい欲求を満たすにも有効な方法です。
問題は何事もそうですが、それが絶対であるとか、占い鑑定の判断に頼りすぎる(依存する)ことに問題があります。
つまり、シンプルに言えば、「人生は自分が選択権と決定権を持つ」という自覚(と責任)があれば、占いもよい指針になるということです。
ところで、タロットを占い的に見る場合、過去(を意味する部分のカード)よりも、どうしても未来(を示すカード)に目が行きがちです。
逆に、タロットを展開して、カウンセリングや自己洞察に使う時は、過去に重きが置かれます。
とはいえ、どちらにしても、もっとも重要なのは「現在」です。
しかし、それでも気になるのは「未来」の部分(と決めた設定)のカードでしょう。
そもそも、未来とは何なのでしょうか? ここであれこれ説を提示しても、長くなるだけですので書きませんが、ともかくも、ここでは、「まだ到来していない出来事」としておきましょう。
そうなりますと、未来はひとつとは限らないのかもしれません。よくSFなどでは、未来は無数に分かれた「世界線」のようなものがあると言われます。
今を分岐点にして、様々に未来像があるというわけで、言い方を換えれば、同時に存在する様々な世界が、未来に無数に存在しているとなります。いわゆる並行世界というやつです。
この考え方を取り入れると、結局、未来の多数の並行世界の中から、実際自分が経験する、ひとつの現実を選択していることになります。ただ、「選択している」のか、運命のように「与えられている」かの議論はあるとは思います。
いずれにしても、多数ある中からひとつになってしまうわけです。
ひとつにしてしまうのには、いったい何の力が働いているのでしょうか? 因縁なのか、強い意志なのか、運命や超越的な存在が選ばせているのか・・・それは私にもわかりません。
でも、もし、自分が選んでいると仮定するのなら、「現在」の自分が選ぶと考えるのが妥当で、ここからも、実は「現在」の自分の意識が重要だと推定されます。
まさに、未来を創るのは、今の自分だということであり、もしその、今の自分が過去からの影響を強く受けているのなら、最終的には、過去が未来を創っているとさえ言うことができます。
それゆえ、今に影響を(特に悪影響を及ぼしている)過去の思考や感情、データをクリアーにしておくこと、昇華しておくことは、未来にとっても大切だということがわかります。
ところが、タロットで未来カードを展開し、検証をしていくと、ほかのこともわかってきます。
それは、今起こっていること、経験していることは、未来になって初めてわかるのだということです。
いや、これは当たり前といえば当たり前のことなのですが、もう少し違った言い方をすれば、未来に起こることのために、今の出来事が用意されているという場合もあるのではないかということです。
例えば、ある勉強をしたくて(資格を得たくて)、とある講座で学び始めた人がいたとします。
そして、その人の(実際の)未来には、パートナーと結婚している自分がいます。
勉強を始めた動機、その当時の思いは、パートナーを得るためにしたわけではありません。仕事のためが主だったとします。
ところが、そこの同じ学習チームにいた人の知り合いと親しくなり、やがてはパートナーになったということであれば、結果的には、勉強とパートナー獲得とはつながりがあったことになります。
表面意識や現実意識(利害や計算を意識する通常意識)は、確かに、その資格取得の学習が目的でした。
けれども、別の自分(未来を予想できる自分と言ってもいいです)は、パートナーとの出会いを意識・目的としていたということも考えられるわけです。
もうひとつ、事例を紹介すると、ある人が、人生で初めてと言えるくらい、とても幸福な時間を過ごす時がありました。
ただ、それは長く続かず、その後、その人の生活環境が激変し、一般的には極めて不幸と言える状態になってしまいました。
でも、この人は、その前にすばらしい幸福な時間を経験していたために、それを糧に、苦境を耐えていく決意ができました。
もし、仮に、前の幸福な時間がなければ、今の状況は耐えられず、死を選んでいたり、自暴自棄になっていたりしたかもしれません。
これを未来から逆に見れば、将来起こる困難な状況のため、用意された特別な時だったと言うこともできます。
また、自分の無意識は、将来を起こりうることを予想し、今の選択(経験)を促したと表現することも可能です。
ほかにも言えるのが、時系列的には幸不幸を別々に体験していますが、時間を超越した中では、幸不幸が同時体験であり、そのどちらの(一般的な)価値観でもない、自分の人生の「味わい」「奥深さ」ともいえるものを実感できた(統合できた)のかもしれないのです。
未来は自分の手でつかむものと言われますが、そうとも限らず、やはり縁であったり、運命であったりするような、自覚する強い意志だけで選ばれるものだけではない、何かのつながり、用意(未来から贈られる物語)があるとも考えられます。
そしてまた、単純に過去・現在・未来と時系列で3つに分けた「時間」ではなく、すべてつながっており、過去から未来へ一方向に流れている認識だけでは、説明のつかないこともある(反対に、時系列はない)と考えると、タロットの展開ですら、興味深いものへと解釈も変わってくるのです。
とにかく、未来はたとえ決まっていたとしても、選んだり、運んだりする現実の思いと行動は必要であり、役者や舞台は用意されないと「像」は「現実」にはならないと思います。
シンクロニシティのメカニズムと重要性
前にも書いたことがありますが、今回も「シンクロニシティ」について、書きたいと思います。
シンクロニシティ(以下、シンクロと省略します)は、簡単に言えば、「意味ある偶然の一致」と表現することができるものです。
それは、今の常識的な目線での合理的・科学的な因果関係を超えて、およそ結びつくことのないもの(無関係と思えるもの)同士が関係し合うように見えてくる現象ともいえます。
スピリチュアルや精神世界に関心のある人には、シンクロについては、「非常識」なことなのに、むしろ「常識」的に考えられており、シンクロが起こる、シンクロに気づく、シンクロを起こすことが、すぱらしいことのように思われている面もあります。
しかし、ここで問題となってくるのは、そもそもシンクロの定義もあやふやなうえに、かなり思い込みによって、なんでもかんでも「シンクロ」現象にされていないかということです。
例えば、ある場所に行ったら虹が出たとか、神社に行ったら風が吹いたとか、自然でよくある出来事であっても、自分には意味あるお告げや知らせのように感じ、そのタイミングの良さからシンクロが起こったと言っている方をよく見かけます。
上記の例で言うと、虹が出た場所は、滝の近くだったり、雨上がりだったり、日光と水分の関係で、虹が出やすい状況のところだったかもしれませんし、風が吹いたと思う神社も、なんのことはない、単に風の強い日だったのかもしれません。(笑)
たとえ凪いでいる日だったとしても、神社の構造上、拝殿と神殿の配置で、神殿から拝殿に風が吹きやすい構造(山が奧にある、位置に高さの違いがあるなど)ことになっていたのかもしれないのです。
それでも、タイミングはどうなるんだ?ということですよね。
たまたまというのは確かに偶然だけれども、自分が来た、祈ったタイミングで風が吹いた、虹が出たというのは、タイミングが良過ぎて偶然とは思えない、そこに何らかの意志が働いていると感じる、という人もいらしゃると思うのです。
そう、シンクロで重要なのは、まさに本人の思うタイミングなのです。これは、マルセイユタロットでは「運命の輪」で象徴されることでもあります。
超越的ではなく、心理的な現象としてこの場合のシンクロを考えれば、何か悩んでいたり、特別なことを期待していたりして、ある重要(と本人が思っているよう)なポイントに来た時、まるでその答えか、ある知らせを示すかのように、何かが起こったということは、結局、自分の質問に自分が答えを出そうとして、自覚できない意識(とりあえず「潜在意識」の部分と言ってもいいかもしれません)が、風が吹いている時、虹が出ている時に顔を上げるように(そのことを気づけるように)、感覚・センサーのスイッチをオンとするようし向けたと考えられます。
私たちの感覚は、無意識のうちに開いたり、閉じたりすることができ、意図をもって感覚や意識を集中させたり、解放させたり、遮断したりすることが知らされています。
言ってみれば、自分には見えていないところでも、ほかの感覚では見えていたり、わかっていたりするわけで、わざわざタイミングを計って、さも答えが出たかのように、それまで閉じて感じていなったものを感じられるように、(自分が)させたのかもしれないのです。
どちらにしても、タイミングが重要なのがわかります。そしてこのタイミングは、自分が中心(自分が計っているわけ)ですから、他人がとやかく言えるものでもないのです。
要するに、ほとんど、自分の世界(思い込み)で成立するのが「シンクロ」と言えます。
また、無関係だったものを関係あるようにさせる知識・解釈が、たとえ妄想であっても増えれば増えるほど、いくらでもシンクロを起こす、もしくはシンクロだと思うことが可能になります。
これでは、シンクロを活かすもなにもないではないかと思われるかもしれません。
しかし、神様からのお告げのようなものとして考えるのではなく、心理的なものとしてシンクロを見れば、そこにも意味があると考えられます。
先述したように、自分で意味を見出そうと、自分自身がタイミング計って起こしているとも言えるからです。
自分の表面意識では知らないこと、あるいは混乱して答えがわからなくなっていることに対して、いわば、心の奥底ではシンプルに答えを知っている本当の自分に気づくため(知らせるため)、自らが外の現象を介して(利用して)、タイミングを計り、意味あるもののように見せかけていると考えられるわけです。
ところが、タロットをやってきますと、そのように心理次元の解釈だけではとどまらない不思議なことも起こってきます。
タロット(リーディング)は、そもそもこのシンクロを利用する仕組みがひとつにはあります。偶然引いたタロットカードに、意味を見出すからです。
私がタロットをやってきてシンクロについて思うのは、思い込みとは違う次元のシンクロもあるということです。
まあ、全部思い込みであると言ってしまえば、それまでではあるのですが、やはり、自分に感じる強烈なシンクロというものがあり、それはどう考えても、心理的次元さえ超えているようなインパクトあるようなものなのです。
「これ(このシンクロ)はほかのものとは違うぞ、これぞシンクロ中のシンクロだ」というやつです。(笑)
それは自分ではっきりとわかるものなのですが、同時に、きちんと説明すれば、他人からもすごい(シンクロ)と思うことのできるものです
つまり、主観性と客観性、両方において偶然の必然が成り立つ現象・ストーリーです。
たいていのものは、さきほど言ったように、思い込みの世界で考えられるものですから、ほぼ主観性のシンクロです。
けれども、上述のような強烈なものは、客観性さえ持つのです。
この場合、自分が引き起こしているものと考えるにしても、客観性を持つ分、たくさんの人を含む、巨大なフィールド、意識を巻き込んでのものだと想像できます。
ということは、かなり自分と他人、または社会との対比における、自分の使命とか立ち位置とか、特色を示すシンクロかもしれないのです。
いわば、今の自分を超えるため(成長・拡大のため)のシンクロとも言えましょう。
それは、単なるひとつの偶然ではなく、積み重ねたものが、やがてひとつの光となるような、真の象徴的物語として解き明かされるようなイメージ・感覚です。
シンクロを意識していく最初のうちは、何でもシンクロにしてしまって、ワクワクするようなものになりますが、やがて偽物といいますか、こじつけで、自分の期待感や欲望でシンクロにしていたことに気づく過程を経て、逆にほとんどのシンクロはあまり意味のないものと認識できてきます。
それとともに、今度は、極めて強い、本当に活かせるシンクロ、真の自分へのメッセージ、開花として、紡がれるものが出てきます。
結局、独りよがりの思い込みだけではなく、冷静さ、客観性をも伴いながら、それでも残る主観的なシンクロの感覚に意味を見出すのがよいのではないかと思います。
「運命の輪」の回転の示すもの
タロットの「運命の輪」のカード。
絵柄も面白いですが、その名も面白いですよね。
どのカードも深淵な象徴性を含みますが、このカードもしかりで、いろいろな意味が見出されます。
そして、そうした様々な象徴性の意味において、まさにその名のごとく、「運命」に関係するものが、このカードにはあると考えられます。
皆さんも結構、「運命」のお話は好きなのではないでしょうか。(笑)
では、今日は、このカードをもとにしながら、自分の運命を変えていく視点をご紹介しましょう。
ただ、一口に「運命」と言っても、「運」と「命」という言葉に分けられるように、「運」という運ばれるもの、運ぶもの、いわば変えられる部分と、「命」と書くからには命というか、絶対感のあるもの、つまりは変えられない部分とがあると言われています。
ここでは、どちらかと言えば、「運」のほうに焦点を当てていると考えてください。
さて、私たちは「現実」の中に生きています。
しかし、映画「マトリックス」のモーフィアスの言葉ではないですが、「現実とは何か?」と深く考えますと、よくわからないところも出てきます。
ややこしくなるので、今は「現実」の定義の論議はしないことにしますが、とりあえず、“現実”には皆さんが共通に認識している「現実」と、一人一人が思っている「現実」とがあると仮定します。
ここで問題・テーマとなるのは、後者の、一人一人が思っている「現実」です。
これは簡単に言ってしまうと、「自分がそうだと信じている思想・ルールが、外側の現象に投影されているもの」と考えることができます。
もっとシンプルに言い換えれば、「自分が信じている世界がその人の現実」ということです。
ということは、信じているものが変われば、自分の現実は変わると言えます。
そこで、「運命の輪」です。
例えるなら、一人一人の信じている「現実」が、これまた一人一人が回している「運命の輪」です。
この輪の回転は、当然、一人一人違うもの(回転のスピード、輪の大きさ、回るタイミングなど)です。
「出会い」で言えば、この輪(の回転)がシンクロ(一瞬一致)した時に同調して発生すると考えられますが、そのことは今日の話とは別なので、またの機会にお話します。
いわゆる「運がいい」「うまく行っている状態」などと見られる人の「運命の輪」は、「運が悪い」「苦労ばかりだ」という人の「運命の輪」とは異なっているわけです。
さきほどの話で表現すると、信じている世界(その人の作るルール)が違うのです。
最初は共通認識で同じように見えていても(信じていても)、やがて、自分の経験することの解釈によって、自分ルールができて、それを通して見た世界(自分フィルターを通して見た世界)が作られていきます。
輪の回転が変わってくるというか、一定のもので固定されていくと述べてもいいでしょう。
なぜ、個人差でそうなるか(そもそもの経験(運)自体が違うこと、同じ経験をしても解釈やとらえ方が違うこと)は、「命」の問題があって、カルマとも無関係ではないと考えられますが、それは置いておき、ともかく、自分らしい「輪」に固まってきて、結局、自分自身が「運命の輪」を回して、自分の思う世界を創っていくことになるのです。
ところが、輪は、スピード、大きさなど、変えていくこともできるのです。
要するに、自分の信じているルール、世界観を変えれば、輪も変わり、輪の回転によって生み出される、まさに「運」(自分と人・物事との関連性の実際とその解釈)の運ばれ方も変化するわけです。
自分の信じていることを変えるためには、実社会の経験も大切ですが、「考え方・感じ方」なので、結局それをチェンジする思考・感情のバージョンアップ(浄化・変容)ということが重要になってきます。
しかし、なかなか長年の習慣で固定されてしまったものを変えるには、それなりのインパクト、あるいはコツコツとした修正が必要でもあります。
ここまでは、タロットの「運命の輪」のことを知らなくても、スピリチュアルとか精神世界とか、心理関係を学んでいると、聞いたことがあるような話ではないかと思います。
実は、重要なのは、次です。
こうして、自分の信じる世界観・ルールを、言わば破壊して、新しい自分に変化・上昇していくことが、すなちわ、自分の「運命の輪」の回転を変えていくことにもなるわけですが、そうは言っても、どうしても自分の信じる世界で壊せないものが残ってきます。
または、壊してきて(変化させてから)も、あるところでどうしても止まってしまうものと言ってもよいです。
いや、それさえも壊すことができるといえばそうとも言えるのですが、ここで言いたいのは、自分の思いで変えたくないものにポイントがあるということなのです。
あえて言えば、どうしても「こだわりたいもの」とでも表現できましょうか。
これはタロットでいえば、「運命の輪」の「10」という数からひとつまた前に戻って、「9」の「隠者」で探究するものと象徴してもよいかもしれません。
ともかく、壊そうと思っても壊せないもの、回転を変えたと思っても、また戻ってくるもの、自分の中で別の輪として回り続けているもの・・・これらに注目すると、マルセイユタロットの「運命の輪」の描写の不可思議なところ、謎についても、少しわかってきます。
日本語の表現は面白いもので、「現実・げんじつ」は、「幻術・げんじゅつ」と響きが似ています。(笑)
私たちは自らを幻術にかけて、現実を過ごしている存在なのかもしれませんね。
うつ病時代の放浪から。
久しぶりに、うつ病(と神経症)時代について書きたいと思います。
それも、回復期についてのことです。
不思議なことに、いや、ある意味、必然だったのかもしれませんが、マルセイユタロとに出会った時が、実はもうほとんど回復していた時でしてた。
これから新しい自分に変わっていく、あるいは元の状態を取り戻していく時期に、タロットに出会ったのです。
(ここはまさしく「運命の輪」のサイクルを象徴として思います)
しかしながら、その前は、本当に暗黒というか、混沌の時代でした。
公務員だった私は、公務員の制度にも助けられ、休職と復帰を繰り返すような状態で、自分でいったい何をしているのか、いらだちとあせり、同時に休んでいる時の安心感、特には怠惰な気持ちさえもありました。
とは言え、全体的には、先行きの見えない、自分が何者で、どうしたいのかもわからず、それ(先のこと)よりも、今心身の不調があることで、どうにしかして元に戻したい、気にならなくなりたいという思いのほうが強かったことを覚えています。
ところが、通っていた医師の方には、申し訳なく思うこともありますが、やはり、当時(おそらく今も)精神(心の症状の)医療に対しては、まだまだほかの面よりも遅れていると言いますか、はっきりとした治療方法や処置が確立していないところがあったように感じます。
つまりは投薬される薬、面談だけでは治らないという思いがあったわけです。
こういう場合、あせりも手伝って、民間療法・代替医療、ひどい時には、あまりたちのよくない宗教家、占い師、霊能者、祈祷師などの、少々怪しげな者、異端的な技術者を頼ってしまうことがあります。
私も実はそういう時があり、そのような方々が紹介されている本など購入したり、ネット(当時は今ほどネットが発達していませんでしたが)の検索や、人づて・噂に聞いたりして、実際に出向いておりました。
それはもう、ほぼ全国規模で治療家や解決方法を求めて彷徨い、北は北海道から南は九州まで(沖縄も行きそうになっていましたが(^_^;))、尋ね歩いていました。
この時の数々のエピソードは、今では講義のネタ話みたいに、生徒さんにお話することもありますが、今でこそ笑い話とかネタにはなりますが、当時の私は必死であり、金銭的にもかなりの金額を消費しておりました。まさに笑い事ではなかったのです。
とはいえ、ブログでよく言っておりますように、何事も両面、いいことと悪いことはあります。
そう、決して悪いことばかりではなかったのです。
まず、当時、気持ちはとてもそんな気分ではなかったのですが、旅をしているわけですから、各地の知らない場所に行くことが多くできました。知らず知らず新しい知見も得ていたのです。
そして、今では代替医療とかセラピーとかで当たり前にメジャーとなってきている各種療法を、実際にこの身で体験することもできましたし、セッションや相談を自分の体験として(クライアントの立場として)、経験することもできました。
もちろん、このことは今にとても活きています。
悪いことと言えば、先述したように、時間とお金がかなりかかったことです。
中でも、悪徳な人物とか(法外なお金を要求されたり・・・)に出会ったり、その人自身には悪気はなくても、得たいの知れない奇妙な療法を施されて、かえって具合が悪くなったりしたこともしばしばでした。
また、病院のようなところに強制的に閉じこめられるような体験もありました。
結局、かなりの人と場所を巡りましたが、自分の心身の調子が劇的によくなるとか、一瞬で変わる奇跡のようなことはなく(そう宣伝していたところもあります)、私はこの一連の体験で、「他人に治してもらう」という意識ではなく、自分が回復するのだという(他人が救うのではなく、自分自身が自分を助ける)意識(意志)のベクトルが間違っていたことに気づき、それからのちは、やたらめったら、どこかを探し求めるのではなく、今いる場所、今やっていることに集中し、落ち着くことを第一に選択していきました。
すると、心身も少しずつ回復し、いつのまにか気にならない程度になり、ほぼ「寛解」と呼べる状態に戻りました。
私はうつ病や神経症という不調を通して、このような経験と気づきを得たわけですが、これが正しいというつもりもありません。
これはあくまで私の体験と物語による教訓・気づきです。
しかし、皆さんにおいても、病気ではなく、普通の状態であっても、自分探しのように、あるいは何かうまく行かないことに対して、自分の内に原因があって、それを突き止め、治してもらえさえすればすべてよくなると思い込んで、各セッション・セラピー、精神世界系、成功系セミナーなどに通い続けていく放浪者となっている人がいるかしもれません。
そうした方へ、ちょっと違った視点をもっていただきたいと思う場合があり、私の体験とは分野と状態は違うものであっても、何かの示唆になればと、今回書かせていただいたものです。
冷静になれば、あなたは何も困っていないこともありますし、大変なように見えて、案外、シンプルに心定めれば、落ち着いてくるものでもあります。
無理に変わろうとしなくても、また変えてくれるものと強い期待をしなくても、あなたが経験することが、すでに自分の成長につながっているものなのです。
世界は一面では牢獄でありながらも、解放のチャンスはいつもあり、あなたの内なる神性と、救いの天使は、いつもあなたに寄り添っています。
「愚者」と「智者」
タロットカードには「愚者」というカードがあります。
大アルカナと呼ばれる22枚の重要なカードのうちでも、数を持たないカードとして、特別なカードと言えます。
諸説ありますが、トランプとタロットの類似性と同起源説を考慮すれば、タロットの「愚者」はトランプでの「ジョーカー」に該当するものと考えられます。
トランプゲームは、皆さんも経験があると思いますが、ジョーカーの役割を思い出してみてください。
たいてい、ジョーカーは、どのカードにもなれるオールマイティのカードであったり、場を変える(時にはゲームルールさえ無視できる)「切り札」でもあります。
これは、逆に言えば、タロットの「愚者」も同じような性格があると言えるのです。
オールマイティーなのも、「愚者」に数がないからであり、どの数のカードにもなれる、もしくはとじの数のカードにも規定されないということになり、まさに自由性が強調されますし、ある意味、どのカードも内に含むとなれば、「愚者」は最強で、この一枚そのものがタロットだと、たとえられてしまうかもしれません。
実際、タロットリーディングのケースによっては、「愚者」が出れば、不可能も可能にする、ダメだと思っていても驚くような解決策や突破口があると読むことがありますし、その反対に、順調かと思いきや、思わぬアクシデントや混乱に注意と読むこともあるのです。
それほど、「愚者」のエネルギーは強力だと言えます。
ところで、「愚者」は、言ってみれば、「愚か者」「バカ者」、関西弁では「アホなヤツ」となります。(笑)
バカやアホ、愚か者になることは、一般的に嫌われますし、普通はなりたいくないと思われる存在です。
ですが、時々言われるように、「バカになってみろ」とか「アホもたまにはよし」とか、正しく、まじめに生きることがだけがよいこととは限らないという意味で、慣用句的に使われることがあります。
「愚か」という言葉、バカになること、アホになることに強い拒否感、忌避感がある人は、やはり、まじめに一生懸命生きることが正しく、それこそが報われる人生なのだとすり込まれているところがあるかもしれません。
一方で、ことさらバカを強調し、どんな時でも場をわきまえずに、愚か者のパフォーマンスをしてしまう人がいます。
こういう人は、タロットの「愚者」としての強力なパワーを本当に持つのではなく、そのパワーにあこがれて、人とは違ったことをして注目してもらいたい、私は、オレは人とは違う、当たり前の人間ではない、天才であるなどとアピールしたい欲求が隠されていることがあります。
言ってしまえば、強い自己否定、自己卑下、自信のなさと不安にかられているのです。(その裏返しによる強い承認欲求)
ところが、今の時代、ネットなど、簡単に自分から発信や表現ができる道具が備わっていますから、かなりそういったパフォーマンスが人目につき、人々の心に何らかの印象を植え付けやすい様相を呈します。
つまりは、発信している側の当人の本質は「愚者」ではなくても、外向けの「愚者」を演じることが、本当の「愚者」のエネルギーにふれている人(特異な才能を持つすばらしい人がいる、常識を打ち破るすごい人)だと、受け取る側が誤解しているところも多くなっているのです。
それでも、この現象は、必ずしも悪いわけではありません。何事も両面があるものです。
たとえ、偽物の「愚者」であったとしても、そういうパフォーマンスに何か心を打たれたり、影響を受けたりするというのは(注目してしまうのは)、受け取る側に「愚者」を待望している心があるからです。
もっと言えば、自分の中の愚者魂ともいうべき、愚者たるパーソナリティがうずいている(反応している)のです。
そこに気づくことにより(刺激を受けることにより)、潜在的な力の発現があったり、自分の気づいていない能力や勇気、パワーをもらったり、あまりに他人や外のルールに縛られて、自分自身を生きてきていなかった人に自覚を促したりする良さがあります。
タロットの「愚者」(の示すもの)は、原初の創造性のエネルギーとつながっており、決まりきった形、固定して進化が止まり、停滞と淀みの中にある枠・社会・心を破壊して元の原初にかえす役割を持ちます。
本物であれ、偽物であれ、実はその背景に「愚者」というエネルギーが憑依し、あるいは、「愚者」という存在が、外に出ようとふざけて(笑)、演劇を施しているのです。
そのことを知ってか知らずか(たいていは気づいていないのですが)、愚者的魅力に取り憑かれた(「愚者」に操られた)演者は、ますます愚か者ぶりのパフォーマンスで、人から喝采を浴びていくことになります。
それを嫌悪する者、迎合する者、すべては「愚者」のエネルギーに巻き込まれています。
しかし、それもまた楽しいのが「愚者」なのです。
現実的にも、心理的にも、また霊的にも、成長において、「愚者」のエネルギーと接触することは必要です。
同時に、強大な「愚者」のエネルギーに自分を見失わず、制御していく部分も重要になっていきます。
「愚者」は、時に「悪魔」の力とも結びつき、先述した「愚者」に取り憑かれたパフォーマーは、自分が「悪魔」(カリスマ)として錯覚し、エゴの肥大によって自己が破壊されていくと同時に、他人を支配することに魅了されていきます。
だからこそ、マルセイユタロットの「愚者」は、その情熱的な赤い杖とともに、その杖のエネルギーを制御した「隠者」と出会うような視線の方向と順番になっているのです。
「隠者」の智慧は、「愚者」が破壊に走ることを止め、そのエネルギーをコントロールし、自らの運命を変えていく「運命の輪」の段階へと導きます。
「愚か者」と「智者」はまさにセットになっているのです。
それから、「隠者」はまじめ一方でもありません。よく日本の漫画やアニメで、卓越した師匠的な人物がギャグ路線の性格であったり、力の抜けた面白人物であったりするように、「愚か」ということを、本当の意味で「隠者」はよく理解しています。
真理の到達には、常識人の知識、振る舞いでは到達できないことも知っているのです。
それゆえ、私たちは、やはりまずは「愚者」になっていくことが求められます。
しかしそれは、「愚か者」のふりをすることではなく、また人と違ったことをすれば認められるという承認欲求に基づくパフォーマンスでもなく、魂を自由にしていくことを知る「智者」であることなのです。