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原因追求から創造的スタイルへ
悩み事や問題がある場合、その原因を追及し、排除することで解決するという方法があります。
健康問題を例にしても、体の不調があって、よく調べて見ると、ある食べ物のアレルギーが原因であったとか、何かのウィルスに感染していたとか、骨が弱っていたとわかったとか、とにかく不調の原因が判明し、その対処や治療・手術をすることで不調がなくなる(健康を取り戻す)わけです。
ですから、原因を突き止めることは、問題解決では最も重要な手段・方法だと考えられているところがあります。
経済的問題、精神的な問題、生き方の問題・・・人はあらゆる悩み・問題を抱えますが、それも上記の健康問題のように、原因さえわかれば何とか解決する、良くなると思われてしまうのも仕方ない面があるでしょう。
しかし、果たして、本当に原因さえわかれば良くなるのでしょうか?
いや、もっと別の言い方をしますと、原因解明が本当にすべての救いになるのかどうかということです。
最初の健康問題の例に戻って考えますと、なぜアレルギーになったのか? なぜウィルスに感染したのか? なぜ骨が弱ったのか? そのタイミング、自分という個体、環境、あらゆる場面での数々の選択・・・このように様々なことを考えると、原因はまだまだ先に山ほどあると言えます。
また、問題の原因はただひとつのことと断定できるものでもなく、色々な要素・要因が重なって複合し、まさに「問題」という現れ方そのものが、実は原因(原因と結果がひとつのもの)みたいに、逆(というより循環的)に考えることも可能な気がします。
もちろん、だからと言って、原因追及の道が悪いと言っているのではありません。
その態度と行動が、やはり科学的な発展をもたらせたでしょうし、そうした姿勢は問題解決において、重要なことのひとつであるのは間違いないと私も思います。
何より、原因がわかれば安心するという人の気持ちの作用もあります。(安心すること自体が、すでに解決になっていることもあります)
ただ、あまりにも問題=原因追及が必要とし過ぎると、原因さえわかればOK、原因を取り除けばすべては解決するというような直線(短絡)的思考と、原因を深く細かく、どこまでも追い求めていくことになって、まるで泥沼にはまったかのように、延々と探し続けることになる恐れがあります。
言ってみれば、「永遠のもぐらたたき」、「賽の河原の石積み」みたいなものになり、それこそ、その人の心は「地獄模様」になって、いつまでも晴れることがなくなってしまいます。
確かに、痛みとか苦しみが続いている場合、原因がわかって、その対策ができれば消失するという思いがあるでしょうし、実際の苦しさ・痛みは、なっている本人しかわからないものです。
ですが、中には、客観的に見れば、そんなに苦しいわけではないはずなのに、原因がわからないから苦しい(原因を探し続けるから、余計苦しくなっている)という自分の生み出す地獄の中でもがいてしまっている人がいます。
視線の方向さえ変えれば、今、そして未来をもっと明るく生きていくことができるのに・・・と思ってしまう人を見かけるのです。
時代は大きく変わってきています。
今まで秘められていたことも公にされ、過去のデータはあくまで参考程度にしかならなくなり、もっと言えば、まったくあてにならなくなっている部分もあるのです。(新しいフォーム、新しい基準、新しいアイデアが活きる時代への変化)
過去の具体性はほとん無視してもいいくらいで、もし参考にするのなら、具体ではなく、象徴的なものであり、それそのものはおそらく不変といえる宇宙的な原理です。
そうした普遍的で不変的原理は、具体的な人物・モノとかの名前や文章ではなく、イメージや形のようなものと言えます。
原因を具体的に求めようとすると、言わば過去に目が向いてしまうのと同じで、それ(探し当てようとするもの)は、実は原因のようでいて原因ではないという事態になってきます。
もうこれからは、今と未来に目を向けて新しいフォーマットに書き換えていく時代でしょう。
それは一言でいえば、「創造」(裏では破壊でもあります)と言えます。
今後は、問題は問題として認識しながらも、それを過去目線(原因追及)で解決するばかりの姿勢ではなく、未来に目を向け、課題として見たり、まったく見方を変えたりする(問題を新しいアイデアのための通過儀礼と見る、触媒、刺激として見る)ことが求められます。
結局、新しいものが生み出すことができれば、過去における問題の原因は、原因とはならずに消失する可能性があるのです。
SF的に言えば、新しい肉体の自分になったので、過去の肉体で悩んでいた部分にあった病気の原因すらも、新しい肉体では意味をなさなくなるみたいなことです。
つまり、次に進む(進化する)ことで、過去では、問題と原因が結びついていたその構造も変容し、結びつきも解除されるどころか、そもそもの構造・システム自体が変換されているので、問題にすらならくなるということです。(問題と感じられなくなっているので、そもそも原因を追及する意味をなさない)
マルセイユタロットを扱うにしても、どう成立したのかとか、誰が作ったのかとかを探求し続けたり(意味がないわけではなく、それも大事なところはありますが)、また過去の密儀的なものを後生大事に「具体的名前」で守っていくというスタイルを続けていくのでもなく、なるほど、古い時代に作られたタロットではあっても、そこに記されたシンボル・象徴性において、不変的な型を考察し、今と未来に向けて、これからを文字通り「創っていく(創造的)」方向性を、私は考えているのです。
ロマンチック(を自分に)あげるよ
先日、声優の鶴ひろみさんが大動脈剥離で他界されました。
高速道路で車を路肩に止めて、ハザードランプまでつけての最期だったということで、死が迫る激痛の中、まともに運転できない中での車の処置はすごいとしかいいようがありません。
鶴ひろみさんと言えば、アンパンマンのドキンちゃんなど、いろいろなアニメでのキャラを演じていらっしゃいますが、やはり私には、世代的にもドラゴンボールのブルマ役(特にブルマが若い頃のもの)がもっとも印象的です。
鶴ひろみさん声の「孫くん」が、すぐ脳内再生されます。その声がもう聞けないとなると、限りなく寂しい思いがします。心よりお悔やみ申し上げます。
アニメファンにとって(そうでない人も)、自分の幼い頃、若い頃に聞いていた声の持ち主である声優さんがお亡くなりになることは、とてもショックがあります。何かその時代の大切な何かを喪失してしまうかのような感じです。
そんな鶴ひろみさん声のブルマをもう一度聞きたくなり、元祖のドラゴンボールを改めて見ていました。
ドラゴンボールは、今では世界中の人が知る有名な漫画・アニメとなり、今も新シリーズがアニメとして放映されていますが、やはり、元祖、一番最初のものは少年ぽさ、冒険もののワクワク感にたまらないものがあります。
初期のアニメのエンディングは、そのブルマがメインで描かれていて、「ロマンチックあげるよ」という歌になっています。この歌詞と曲がなかなかにいいものです。大人になった今だからこそ、余計に心にしみるものがあります。
その歌詞は、「わかったふうになってあきらめたり、型にはまったりしていてはダメだよ、もっとロマンを感じて、ワクワク感を思い出して、勇気をもってやってみようよ! そうしたら世界はすばらしいものを見せてくれるよ、いや、世界はすばらしいものだと改めて感じることができるよ!(超意訳です)」というような意味に、私には取れます。
まあ、だからと言って、ここで子どもの頃のような気持ちになって、活き活きと行こうよ、純粋な心は大切だよ、というつもりはありません。(笑) そんなことは当たり前というか、誰でも言えることです。
大人は大人なりの心とルール、認識があり、また同時に、子どもには子どものそれがあります。
大人になったからこそ、無茶というものがわかってきますし、逆に、どうしても社会のルールに治めよう、他者や外側のものに合わせよう、適合させようとなっていくのも当然になってきます。
時にロマンチスト、特にリアリスト、そのバランスと波によって、人生を泳ぎながら味わっていくものだと思います。
私がこの歌詞を今聴いて、改めて思うのは、「この世界の仕組み」や、「生きることの意味(意義)」のようなものです。
一言でいえば、「現実という世界のゲーム感」でしょうか。
自分が「知らない」という状態は、「知りたい」という欲求を生み出します。
そして、見たい、知りたい、経験したい、という冒険心として私たちを突き動かします。タロットでいうと「愚者」になるわけです。
「知らないこと」と「知ること」(「経験していない」ことと「経験していること」)との間、その瞬間(プロセスと言ってもよい)こそが、実は宝物なのかもしれません。
なぜならは、もっとも「ない」と「ある」(知らないと知る)が融合する瞬間だからです。スパークする瞬間とも言えますし、二元が統合する至福状態といえるかもしれません。
最初からすべてを知っていて、それが簡単に思い出せるようになっていては、何のワクワクもドキドキもありません。スパークするエネルギーが生み出されないと言ってもよいでしょう。
だからこそ、私たちはこの世に生まれた時、本当は魂レベルでは知っていても、すべてを忘れ、一から始める設定で人生を生きていくようになっているのだと思います。
まれに真理や悟りに至って、居ながらにしてこのゲームを攻略する人もいるのかもしれませんが、なかなか一筋縄ではいかない超難関、かつ、スリルと興奮あふれるゲームです。
この世界を楽しむ秘訣は、つまるところ、知らないことを自覚し、知ろうとすることにあるのかもしれません。
とすれば、知った風になってしまうこと、わかったふうになることは、ゲームをつまらなくしてしまう大きな要因でもあります。
(喜びをもって)知るには、心をオープンにし、自らが経験すること、そして人や周囲のものからも教えてもらうことであり、反対に、自ら知ったことを人に教えることで、知ったと思っていることが、実はまだまだであった、もっと次の段階があることに気づきます。
すると、また楽しみが増えるわけです。
ただ、心やハートをオープンにするというのは、まったく疑いを持たないとか、バカになることとは違います。
思考や論理を働かせて、物事を見極めることを許す、受け入れるという心のオープンさも含まれるわけです。(思考を排除することが必ずしも、マインドオープンになるとは限りません)
さらには、この世界のゲームそのもの(ゲームシステム)を知ろうとするワクワクもまたありだと思います。それもまたロマンであり、冒険なのです。
冒険には準備と仲間がつきものです。(一人でもできますが、仲間がいたほうが楽しいですし、助け合うことができます)
大人には大人の冒険のやり方があります。それでも、内面や象徴的には、子どもの頃の冒険と同じなのです。
冒険でも、あなたが主人公である冒険物語と、ほかの人が主人公で、あなたはそのパーティーの一員、サブキャラの物語があります。
どちらの立場からも考えてみると、(現実における)冒険というものが、同じシーンでも多重に構成されていることがわかります。
ロールプレイングゲームのように、ある条件が整うと発動するイベントというものが現実でもあるように思います。それが「運命」と呼ばれるものものと関係している可能性もあり、カルマとの関連もあるのかもしれません。
つまりは、冒険やイベントは、自分がしようと思っていなくても発生することがありますし、また、やはりイベント発生の条件を整えるためには、人に会ったり、何かを経験したり、考察を深めたりの、自分のレベルを上げていくことが必要なのだと考えられます。(イベント自体も自分の成長のためにあると言えます)
人生に、場面や時々において節制とコントロールはいりますが、全体的には自分が拡大成長、ゲームを楽しむという意味もあると考えられますので、自分に制限をかけるより、やりたいことを悔いなくやっていくのがよいのではないでしょうか。
自己を抑制し、ルールや掟を身につけて社会に適応する必要のあった若い時代は別として、もう十分に大人になった年代の人たちは、自分の気持ちに正直に、まさに自分を生きる、自分の個性を表現していく、自らの本当のしたかった冒険をしていくという生き方にシフトしてもいいと思うのです。
あなたの中の7つのドラゴンボールを集めましょう。
なお、マルセイユタロット的にも「7つ」は重要な象徴でもあり、グノーシス的には7つを超えることが命題にもなります。つまり、7つが集まる(7つを超える)ことで願いが叶う(真実に到達する道が開く)のです。
ホドロフスキー氏の映画とトークイベント
いよいよ、アレハンドロ・ホドロフスキー氏監督の新作映画「エンドレス・ポエトリー」が公開されます。(すでに公開されているところもあります)
ホドロフスキー氏はカルト映画の巨匠であり、自ら演じる役者であり、さらには詩人、劇作家、心理治療家、漫画原作者など、様々な顔を持つ、奇才・鬼才といわれる巨人ですが、タロット研究家であること、タロットリーダーであること、タロットによるセラピスト、哲学的、スピリチュアル的な真理の求道者でもあります。
何より、私たちマルセイユタロットを愛好する者の間では、フランス、マルセイユタロットメーカーの子孫であるフィリップ・カモワン氏とともに、本来の姿に近い(と両者が主張する)マルセイトタロットを復元した人としても知られています。(そのタロットがホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットで、日本ではどちらかというと「カモワンタロット」という名前で呼ばれることが多いです)
すでに88歳という高齢ながら、いまだ精力的に創作意欲をもって活動を続け、ついに新しい映画も作られ、日本での公開となりました。
この映画は前作、「リアリティのダンス」の続編であり、いわば、ホドロフスキー氏の自伝的映画です。
前作が幼少期を描いていて、むしろ父親が主人公だったのに対し、今回は青年期のホドロフスキー氏自身が主人公となるようです。そして、前回も今回もそうですが、ホドロフスキー氏の息子さんたちを重要な役に起用することで、言ってみれば、氏自身の(詩的・フィクション的な)ファミリーヒストリーによる自分への癒しでもあるわけです。
それは、同時に、映画を観ている私たち自身も、様々に親や家族、周囲の人たちから影響を受けて育ってきたことへの整理と浄化であり、映画の象徴性によって、私たちに内在する物語(問題)をすばらしいものへと昇華しようとしているのです。
セラピストであるホドロフスキー氏が送る、自分自身と観客への再生に向かうサイコマジック(心理的儀式治療)とも言えます。
ホドロフスキー氏の映画は「カルト映画」と呼ばれるように、過去の有名な三部作のものを筆頭に、普通の人にはわかりにくい、しかも独特で強烈なインパクトを与える作風と内容でした。
しかし、年齢とともに苛烈な表現は少なくなり、前作の「リアリティのダンス」になると、一般の方でも普通に見ることのできる表現くらいに治まってきているように感じました。それでも、なかなかに強烈なところはあり、今回もそういうところはあるでしょう。
けれども、それらも、象徴性を知ると、理解できるようになっています。
ホドロフスキー氏の映画を理解する手助けになるのが、ほかならぬ、ホドロフスキー氏自身が生涯の探求ツールとして敬意を払っている「マルセイユタロット」(で示される象徴)です。
今回、渋谷のアップリンクという映画館で「エンドレス・ポエトリー」が上映されるにあたり、11/21(火)、夜の部にて、映画とマルセイユタロットの関係性を解説する(マルセイユタロットの象徴性を映画において確かめ解説する)トークイベントが開催されます。
トークを担当されるのは、京都のカフェ・オパールを経営されながら、カフェ2階でマルセイユタロットでのリーディングを行っている小川トモコさんです。
小川さんはご主人とともに映画や多方面のカルチャーに精通されていて、トモコさんはホドロフスキー氏自身と映画のファンでもあり、マルセイユタロットとホドロフスキー映画について語るのには最適な人であると言えます。前回の作品でも、同様の企画があり、内容もすばらしく、非常に好評を博していました。
ホドロフスキー氏は映画人の間では有名ですから、日本でも、氏の映画を批評したり、理解したりしている方は少なくないでしょう。
一方で、日本は世界の中でも、おそらくタロットを愛好する人はかなり多いほうではないかと思います。
しかしながら、映画を主とする方々にはホドロフスキー氏とタロットとの関係、ホドロフスキー氏が探求するタロットの道とは何なのかということ、タロットの象徴性を知る人は少ないでしょう。
反対に、タロット好きな人でも、ホドロフスキー氏自身の存在、彼の芸術表現、映画作品というものを知らない人も結構いらっしゃいます。さらには、タロットをやっていても、マルセイユタロットについてはあまりわからないという人もおられます。
ということで、ホドロフスキー氏の映画への関心が中心の方と、タロットへの関心が中心の方とのギャップを埋め、その間の架け橋となることができるのが、今回のトークイベントだとも言えます。
なぜにホドロフスキー氏が芸術家や文化人、映画通の間で評価され、多大な関心と刺激をもって受け入れられているのか、一方で、なぜにホドロフスキー氏はこれほどまでにタロットにエネルギーを注ぎ、探求し、活用し、映画においても象徴として表現されているのか、そもそもホドロフスキー氏の言う(考える)タロットとは何なのか? 一般人の思う(占いの道具的な)タロットの印象とはどう違うのか?
こういったことが、少しでも、お互いにわかることになるのが、今回の映画とトークのイベントになるのではないかと思います。
関心のある方は、是非、21日、アップリンク渋谷でのイベントに足を運んでみてください。なお、アップリンクはミニシアター系ですので、席数は少なく、早めに確保されたほうが無難です。
私も、当日会場で、いち観客として、楽しませてもらうつもりです。
「二極化」という言葉と自分の立ち位置
以前から言われていますが、ここ最近でも、「二極化」という言葉をよく聞かれるのではないでしょうか。
現実的なフィールドにおいては、勝ち組・負け組、持てるもの・持たざるもの、貧富の差みたいな経済的な基準での二極化と言われることもあります。
一方で、スピリチュアルの分野においても二極化というたとえが出てくるようです。
それも簡単に言ってしまえば、新しい知性・感性をもった人になるか、従来の価値観のままでいる人かのような分け方で言われることが多い気がします。
スピリチュアル的には、確かにそういうところもあるのかもしれません。
ただ、こうした言い方の中に、すごく傲慢な、選民思想的なものを感じてしまう部分もあります。
自戒を込めて言っていますが、二極化という言い方・見方によって、いつのまにか私たちは、知らず知らずに、自分を、「私は気づいている方」「わかっている方」「進化している方」とし、同時に、「まだまだわかっていない人たち」「停滞・退化している人たち」がいると明確に区別する二元化、いや差別化を自分の中で生み出しているともいえます。
前にも書きましたが、スピリチュアルに傾く心理の中には、自己評価と自己尊厳の問題が隠されていることがあり、現実フィールドと自分(らしさ)の表現の狭間に悩み、逃避的に、自分は別の世界では認められる存在で、選ばれるべき人間であるというような錯覚を生じさせ、自らを異世界に飛ばす人がいます。
平和や調和を尊ぶ(訴える)にしても、シビアな現実や自分にとっての都合の悪いところは切り離し、結局、自分さえ良ければよい、助かればよいという考えになっていることもあるわけです。
仮に、いい方向と悪い方向、または進化の方向と退化・停滞の方向性があったとして、そのどちらかに人が二極化しているという状況があるにしても、進化の方向に合致しない人は放置してよいのか、切り捨ててよいのかという問題があるのではないでしょうか。
いや、すべては自己選択の問題であり、進化の方向に行かない人というのは、自ら好んで選んでいるわけで自業自得なのだという人もいるかもしれません。
神や宇宙は愛と慈悲のエネルギーと言いながら、冷酷に基準に満たない者、気づきがない者はうち捨てられるものなのでしょうか。それも人間レベルではわからない、大きな意味での宇宙・神の愛という人もいます。
いろいろな考え方はあるでしょう。どれ(どの選択)も自由で個性であるというのなら、本当に何でもありの世界です。
ならば、自分としてはどうしたいのか、どうありたいのか、これもまた自由な選択と言えますが、逆に、そこをはっきりさせていく必要もあるという気がします。
私自身でいえば、二極化のどちらかに傾いたり、行ってしまったりするのではなく、なんとか両者(極)の中立性や架け橋であろうとしたいです。
無理にそうしたいというより、自然とそうなっていく傾向があり、不思議なもので、こればかりは何か魂のデータのようなものがあるのかもしれません。
従って、実は、自分の立場とか傾向とか、役割というのも、やはり魂か何かに刻まれている可能性があるように思います。どれがよいとか悪いとかではなく、やはり自分に適したもの(役割・表現)があるのだと感じます。
架け橋であろうという態度は、例えば、もし、たとえ進化から切り離される存在の人達がいるとしても、本当にその状態が好きで、何らかの全体性の役割でもって演じている人もいる一方で、知識や情報の不足、誤謬、手段の間違い、センサーの鈍化などで、本来の自分とは異なる状態にされているとすれば、その状態からの脱出に、手を差し伸べることができないだろうか考え、行動するものです。
「気づかないのなら仕方ないよね、私たちはすでに知っているから先に行くね」というのではなく、先に進めない人、残された人は、本当のことが知らされていない、騙されている、意固地になっている、マイナスやネガティブな気持ちで自分を縛っている、そうそう簡単に浄化や平和な気持ちになれないなど・・・様々な現実性との葛藤があるこしを考慮し、コツコツとながらも、先に行く人たちの道に追いつける方法を一緒に考えたい、実行していきたいという気持ちなのです。
こう書くと、上から目線のような、傲慢でおこがましく、何様なんだ、という感じになってしまいますが、決してそういうつもりではないのです。
自分も含めて、一般人の悲哀と言いますか、一見、幸せや喜びの多い人間それぞれの人生であっても、全体から見ればまだまだ苦境にあると言え、多くの不幸も現実に見聞きする中で、自分一人が幸せに(自我的な幸福の追求と実現)になったところで、真の意味で幸せとは言えないということを述べているわけです。
そして、自分も救いながら、ほかに救える人がいるのなら、何とかあきらめずに出来る限りのことをしていこうという思いですし、自分もまた他人から救われ、啓示を受けることもあると考えます。
自ら覚醒し、遠くロケットで飛び去って平和の王国に行く人たちもいいですが、どうしても、自分一人、あるいは仲間うちだけロケットに乗り込むということでは納得できず、ロケットを作る仕組みがあるのなら、それを理解し、皆で創り上げていきたい、大勢の人が乗れる宇宙船でもって王国へ航行して行きたいという感じです。
進化した次元の地球(太陽系)と、今のままの地球(太陽系)とは、見え方も、住民もまるで違うものだということはわかります。
しかし、たとえば、前者が青色の地球で、後者が赤色の地球だったとして、それを混ぜ合わせて紫にできないかという考えもあると思うのです。
紫にするためには、青も赤も必要で、その意味では混沌とした状態から、覚醒や進化した人、先に進む人(次元)が出る必要もあります。
そうして、青から赤の人に救済が働くこともあるでしょう。
マルセイユタロットでは、バランスや中立性、融合・融通性を象徴するカードに、「正義」と「節制」があります。
これはマルセイユタロットの秘伝図においても、中間段階の両端に位置するカードで、間を取り持ち、バランスと調和、そして共助的な救済をもたらせる意味があります。(ちなみに「節制」の天使の服の色は青と赤です)
マルセイユタロットのリーディングやこのタロットについて講義する時、私自身は、この二枚のカードを特に意識し、分野と次元の狭間で、自他共の救済を意識しつつ取り組んでいるものです。
私自身、特別な能力があったり、スピリチュアル的に進んでいたりするわけでもなく、現実(物質)的においても安定や成功をしているわけでもありません。中途半端といえば中途半端です。(笑)
すべての存在に感謝や愛というような心境にもなりませんし、先述したように、物質的・現実的充実を達成しているとも言い難いです。つまりは二極化のどちらにも行けず・・・みたいなところはあるわけです。
どっちつかずというのも、葛藤や悩みの象徴みたいに例えられますが、反転して考えてみれば、そういうところこそが自分の特徴とも言えるわけです。
ですから、「間」の人、その役割でもって生きることになり、それがむしろ、変なたとえではありますが、居場所のない居場所になり、使命的ものに任じてられていく(感じられていく)のです。
私と同様、中間とか架け橋的な立場を取ることで、自分の生きる道、バランスが保てる人もいると思いますので、人様の思う「よい方向」「達成」「進化」「成功」などに振り回されず、一見、中途半端でも、だからこそ両者をつなげられることもあるのだと思うと、自分が真ん中の位置で静止するようなスピン回転体のように定まってくるでしょう。
タロットリーディングトレーニング法
前回に引き続き、タロットリーディングの話になります。
今回は、タロットリーディングの具体的なトレーニング方法を少し語りたいと思います。
タロットリーディングの練習では、タロットを引いて、そこから何か意味を見出す訓練というのが一般的です。
しかし、タロットリーディングに限らずですが、何事も、ただ漫然とやっていては技術の(飛躍的な)向上は望めません。
たとえば、タロットを一枚引いて、そこから何か読み取ろうと、ああだこうだと考えていても、いつも決まった内容とか、少し覚えているそのカードの単語的な意味とかを出すというのがせいぜいです。
また、いつも毎回同じパターンの練習では、人間、飽きが来てしまうものです。
そこで、練習にも工夫がいります。
工夫の方法はいろいろとありますが、そのひとつとして、TPOと言われるように、時間・場所・状況によって、読みを変えていく訓練は比較的効果的です。
まず、「時間」です。
リーディング練習をする際、時間(制限)を設定することです。
限られた時間内で、いかに読みををするのか、あるいは発想・アイデアを出すのかの訓練は、いわば、パソコンでいうと、処理速度を上げるようなもので、それだけタロット的頭脳の回転が向上し、読みの力が増します。
また同時に、数を挙げる(出す)方法と併用すると、さらに効果的です。例えば、5分以内で、20の言葉を思いつくみたいな感じです。
次に、「場所」です。
自分の部屋ばかりでやっていても、気分や波動が同じになって、読みもワンパターンなものになりがちです。
そこで、思いきって、カフェで練習したり、他人の家で行ったりなど、場所を変えてみるのです。
また電車や車の移動中に、例えば、スマホやタブレットに入れたタロット画像を起こしてイメージし、読むという方法もあります。
別に機器やカードがなくても、イメージさえしっかりできれば、数の順番に言葉を思いついていく訓練をしていってもいいです。大アルカナだけでも22枚ありますから、時間つぶしにも結構使えるものです。
さらに自宅で行う場合でも、反対側(クライアント側)から見てみる(自分のポジションのチェンジ)というのもいいかもしれません。
最後に「状況」です。
これは状況・シチュエーション・問いを設定するというもので、皆さんもよくやっていることかもしれませんが、やはりリーデイングトレーニングでは役立つものです。
そもそも、何も問いや設定がないとタロットは読みにくいものです。
特に初心者ほど、問いは細かく設定したほうが読みやすい傾向があります。
それは、問いがはっきりしていると、そのことについてカードから情報を得ようと集中する(意識がフォーカスされる)ので、的が絞りやすくなるためです。
ただ、上達してくればしてくるほど、問いにはあまり意味を持たなくなってきますし、抽象的な質問からでも、具体的なものを導き出すこともできるようになります。しかし、最初のうちは問いを絞ったほうがいいです。
なお、トレーニングでは、ただ問いを設定して読むというのではなく、逆にカードを引いてから、設定や問いにあてはめるという方法も効果的です。
例えば、一枚引きをしても、「恋愛」だったらどう読むか、「仕事」の相談だったらどう読むか、「心理」的な葛藤の問題だったらどうか、というように、問題や問いの種類、状況の設定ごとに読み分けていくことをします。
これは小アルカナと併用して、四大元素・4組別に、大アルカナのカード一枚を分けて(分野ごとに分けて)リーディングするというやり方もあります。
すなわち、剣・杯・杖・玉(ソード・カップ・ワンド・コイン)別に、大アルカナを一枚ずつそれぞれにおいて、「剣の意味だったらどうか」「杯だったらどうか」と読んでいくのです。(この場合、小アルカナ4組の意味は、具体的で単純な言葉に置き換えてもよいです)
簡単で、かつ、リーディングトレーニングによって、自己を整理したり、確認したりするという一挙両得の方法としては、大アルカナ一枚について、行動・現実、感情や心理、魂・スピリチュアル(霊性)という階層別(性質・次元別)に読むという方法があります。
例えば、「自分は何をすべきか?」「自分はどういう状態か?」という質問で、「手品師」が出たとします。
「手品師」の現実的な意味では、そのまま「仕事せよ」「働くこと」「収入を得よ」ということかもしれません。
心理的には、「新しい自分になりたい」「散らかった心を整理したい」「優先順位を決めたい」ということかもしれません。
魂的には、「あなたのやっていることは必要ない」「「すでにそのレベルにはない」「霊的な入り口に来ていること」かもしれません。
※これらの読みは、あくまでひとつの例に過ぎません。タロットは象徴ですから多様に読むことが可能です。
もっと簡単に、占い的に、「どうなるのか」という問いに答えて読む場合と、解決的に「どうすればよいか?」に答えて読む場合とに区別してみるのもいいですね。
あと、少々他人が見ていると滑稽になりますが、一人でやる場合だとできる方法で、タロットの人物になりきって(カードの絵柄が人物ではなくてもできます)読むというのがあります。
自分が、例えば「世界」のカードの中央の人物になったようにイメージして、感情や思考を書き留めます。
実はイメージだけではなく、本当にタロットカードの人物のようなしぐさ、態度を自分が模してやると、よりカードの気持ちになることができます。(だから人がいると恥ずかしいものになるのです・・・(笑))
これは、カードのメインの人物だけではなく、細かな象徴の動物とかモノでさえも、慣れたらできるようになってきます。
カードを生命のような息づく存在として感じる訓練でもあります。
頭や思考で何とか意味をひねり出そうとしても限界がありますので、むしろ、こうしたイメージとか感情に浸るようなアプローチが、斬新な意味を見出したり、実際のリーディングの場でも、伝えたいことが感じられたりして、有用なこともあるのです。
それから、何もカードを引くことばかりがリーディングのトレーニングとは限りません。
カードを引かない方法もたくさんあります。
つまりは、カードに描写されている象徴性を、他の分野の印象から呼び起こすというようなものです。
絵画の鑑賞、映画・小説など、ストーリーになっているもの見たり読んだりすることで、カードの象徴性を思い起こし、どれに該当するのかを確認していきます。
簡単に言えば、外側のもの(自分の外で起きたこと、経験していることなど)をタロットに置き換えて見るという方法です。
この方法は、実は特別な修行(タロットを現実の力と結びつかせる作業)に近いものなのですが、それは考えなくてよいです。(笑)
いずれにしても、書き留めるということは大切です。
トレーニングで、やりがちなのは、カードを読んだり、意味が思いついたりすれば、それで終わりというパターンです。
ただ頭に浮かんだことで、やった気になってしまうというものです。
自分ではトレーニングしているつもりにはなっていても、積み重ね、蓄積、データとしては残りにくいのです。
人は忘れやすい生き物です。
ですから、やはり、せっかくトレーニングして、出た言葉とか意味とかは、ノートや資料などに書き込んでおくことです。
それを繰り返し読み直すことで、自分の中で、印象だけではない確かな言葉・知識・データとして固まってきます。
ここにご紹介した方法(の一部)は、すでにやっている方もたくさんいらっしゃると思いますが、それでも皆さんのトレーニングの何かの参考になれば幸いです。