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自分をふたつの意味で殺さない。

このブログを読まれている方ならばご存じだと思いますが、以前、私は公務員をしておりました。

公務員といえば、不況や不安定な時代になると、特に親御さんなどからは人気職として見られるお仕事です。

利潤追求ではなく、公共の福祉やサービスを提供したり、向上させたりすることが中心ですから、競争ごとが嫌いな、スピリチュアル傾向の人にも、本質的には合っている仕事だと思います。

と言っても、どんな仕事でもそうですが、楽な仕事でなく、さらに民間に比べて、しきたりや制度、法律やルール・規則、先例にならうことなど、内部的には葛藤がとても多い職業です。

外部への仕事というより、内部同士の仕事も異常にあるのが、また公務員の特徴ではないでしょうか。

ノルマや売上達成のための激しさで苦しめるのもつらいですが、がんじがらめで、時にはいじめのような環境の中で、精神的につらいというのも厳しいものです。(残業の長い職場も普通で、加えて体力的にも大変でしょう)

ですから本質的に自由を求める人、精神的な束縛を嫌う人、効率や正義を求める人には、結構大変な職場なのです。

最初はスピリチュアル傾向の人には合っていると言いましたが、実は、自由の観点で見ると、まったく逆となります。私が結局、公務員を辞めたのも、心の解放を欲する魂のようなものが、強くあったからではないかと最近思います。

多くの人は、経済的安定、世間体、その他もろもろの常識的な観点と、まじめに生きていくために、自由が選べない環境を選択しています。

これは現実的には仕方のないことでもあり、とても立派なことだと私は思います。

しがらみや葛藤の中で、確かに人は鍛えられ、成長もします。

また苦しいことばかりではなく、何かの制限があるからこそ、その中でできること、達成できたことは、喜び・感動もひとしおのところがあります。

また「自由」ということと、「楽をする」こととは、似ているようで全く異なります。

どんなもの(環境)においてもそれ相応のバランスと責任が働きます。時間の自由は得たものの、経済の不安定さや、孤独を味わうことになったという場合もあります。

そうした、どんな状況にも働く「バランス」を思いながらも、公務員を辞めた私が、自分を事例として言いたいことがあります。

それは、自分を殺しすぎてまで生きる価値はあるのか? ということです。

「殺す」というのは象徴的でもありますが、実際的なことも言っています。つまり精神と肉体(現実的な意味での生命)の両方であり、心が死ぬのと、命が絶たれる死をもたらす「殺し」です。

私はうつ病と神経症を併発し、相当な苦しみを味わいましたが、おかげで、生きる意味と方向性の価値転換を強制的に行うことになりました。

ただ、その過程で、復職と休職を繰り返し、一番苦しい時は、自殺しようと本当に思ったことが一度や二度ではありません。

仕事自体が死ぬほどつらいものではありませんが、このような状態になってまで生きていく自分に対して疑問が出たわけです。

これは一人一人感じ方が違うので、ある人にとって耐えられても、ある人にとっては死に等しい事もあり得るのです。誰かと比べて我慢や辛抱が足りないと、自分を追い込むと、ますます泥沼となって「殺し」が続きます。

自分の生き死にまで考えるようになると、それはもう、仕事を全うするとか、安定とかという次元を超越した話になってきます。

心身ボロボロになって、死ぬことを考えて仕事に行く、毎日苦しく生きていくというのは、本当に仕方ないことなのか、その状態でいいのか、考えてみるべきだと思います。

耐えればいいとうのではなく、環境が本当に変えられないかを検討し、自分が苦しく、大変であること、とても今の状況ではまともに働けないことを周囲の誰かに訴え、助けてもらうことです。

休む制度があればそれを利用する、配置転換がかなうのならば、その希望を出す、もし本当に命の危険まであるのなら、安定とか仕事の責任とかではなく、ただ生きることを優先して、別の生き方や給料が安くなっても仕事を変えるなど、選択の範囲を広げてみましょう。

意外に何とかなるものです。私も公務員を辞めて、かろうじて生活しております。(苦笑)

あなた一人が責任を追いすぎて、やり過ぎている場合もあるかもしれません。(応分の責任とは、負い過ぎることでも、逃げ過ぎることでもないのです)

あなたが弱り、働けなくなれば、誰かがあなたを助けることになります。それが同僚か部下か、上司か、そして家族か親戚か、仲間や友人か、はたまた社会や国ということもありえます。

人や社会は冷たいようですが、温かく、優しいところもあります。

最初からそれをあてにして逃げるのはいけませんが、弱ってしまえば、通常時のあなた自身のパワー分に応じた責任が負えないのですから、不足分は他から補ってもらうとよいのです。

あまりに苦しく、つらい環境は、実は自分を守ったり、精神と体力を何とか均衡に保ったりするために、とてつもない大きなパワーが消費されています。

これでは能率が落ちますし、気力やエネルギーも失われていくのが当然です。

そして、とてもレジャーや娯楽、消費活動にも貢献できない精神と体力状態になっていますから、経済面から見た社会的にも、非効率このうえないです。(笑)

宇宙的にも見ても、非常にエネルギーの無駄使いのように思えます。

非効率なことは非効率な結果となって還ってくるのが自然の理(ことわり)です。

ここら見ても、あなたが効率よく生きるために、我慢しすぎないほうがいいのです。

一人で責任とすべてを負うとせず、複数からグループ、多くの人によって支え合うことを意識するとよいでしょう。

それから、解決策や正解はただひとつではないこと、これを思うことだけでも、意識は広がり、その分、実際にあなたの救済方法(機会やチャンス)が拡大してくるのです。

この意識の拡大は情報の変換によって起こります。

つらい環境は、あなたの常識から非常識に転換するチャンスでもあるのです。

今の非常識が、あなたの常識となる時、暮らし方も経済・収入の方法も、大きく変わっていくことでしょう。

あなたが「ありえない」と思っていることに意識を向けて、少しずつ行動したり、足を運んだりすることで、何かが確実に変わっていきます。

マルセイユタロットでいえば、「力」や「吊るし」、さらには「13」や「節制」「悪魔」などの一連の流れで、象徴的にこれらを考えていくことができるのです。


マルセイユタロット、小アルカナと親しくなる。

私はマルセイユタロットを習った時に、大アルカナ(22枚の絵柄のついたカード)中心で使う方法と言いますか、流派だったので、どうしても小アルカナと言われる、ほかの56枚のカードたちと疎遠な感じが長い間続いていました。

最初にマルセイユタロットを教えるようになった頃は、まだある流派に属していましたから、あまりその状態は変わっていなかったと言えます。

しかし、そうした中でも、私は探究好きなので、例えば、生徒時代でも、関西における勉強会(これは今でも続いています)の時に、なるべく小アルカナを使用したり、そのリーディングについて、皆で検討する機会をあえて作ろうとしてきました。

そして流派から離脱、独立することで、否応なく、自分自身での研鑽、独自の道を歩まねばならなくなりました。

その結果、小アルカナとも向き合う時間が増え、今では、本当に小アルカナの世界も楽しくなっている自分を自覚します。

大アルカナは深く、また非常に広範囲で高度な内容を示すのですが、小アルカナは単純ようでいて、とてもバラエティに富み、すごく現実的・リアルなのです。身近な存在といってもいいでしょう。

それは頭で理解するだけではなく、心でも感じるもので、その両方が必要です。

マルセイユタロットリーダーや、マルセイユタロットを活用しようとする者は、どうしても小アルカナ、中でも数カードの記号的・トランプ的ともいえる絵柄になじめないところがあります。

いや、なじんではいても、読めない、活用できないといったほうが正しいかもしれません。

ここで、私自身が小アルカナとつきあってきた経験から言わせていただければ、まず、単純に、小アルカナと仲良くなることが重要です。

タロットの世界では、カードを人間のように扱って、自分と関係をつけていくという考え方があります。

そこから言えば、実際の人間関係のように、人を理解し、お近づきになるために、当然、相手とよくコミュニケーションしたり、時間を過ごしたりする必要があります。

ですから、小アルカナによくふれるようにすること、目にする時間を多くすることが大切なのです。

しかも、小アルカナは、実は私たちの現実世界を象徴しているものであり、次元でいえば低いのですが、それだけダイレクトに生活時間と空間に関係してくるのです。

言い換えれば、実際の生活において変化を及ぼすには、打って付けのカードたちなのです。

ここは厳密にいうと、変化を与えるというより、変化を見るというほうがふさわしいかもしれませんが、このあたりの微妙な感覚は講座やセミナーで説明したいと思います。

平たく言えば、小アルカナは占い的に使える世界だということです。

この占い的な世界は、人間のリアルな生活意識を安心させたり、逆にワクワクさせたりする意味では、重要な役割があるのです。

しかしながら、一方で、この小アルカナの世界に埋没してしまうと、意識が現実次元に固定され過ぎ、肉体や物質を超えた心理的・霊的な世界に飛翔することが難しくなります。

だからこそ、大アルカナの世界があり、大アルカナによって次元を転移するように、マルセイユタロットはできています。

マルセイユタロットが大アルカナと小アルカナで絵柄も構成もまったく違うようにしているのは、その違いを明確に示唆するためと考えられます。

その観点では、本当に数あるタロットの中でも、最初にマルセイユタロットを本格的に学べたのは、自分自身にとっては大きな天(と地)からの恩恵だったと実感しています。

もちろん人には個性があり、それぞれの学びや発展において、ふさわしいタロットと出会う(タロット以下のことでも)ようになっているものと思います。

私にとっては、マルセイユタロットが良かったということです。

話を戻しますが、そして今回の記事の終わりになりますが(笑)、マルセイユタロットの小アルカナは現実やリアルな世界と結びついていますので、あまり理想的・宗教的・精神的と言いますか、ピュアで高次に考えていくよりも、欲望渦巻いたり、ちょっとてした夢を見たり、お金やモノなど、実際の生活において関心が及ぶものと意識でとらえていくといいと思います。

そして、私たちの現実世界は、ある意味、ゲーム的なところがあります。

ですから、小アルカナはゲームとしてのトランプのように扱っていくと、なじみやすくなります。

ちなみに、マルセイユタロットの小アルカナは、ほぼトランプカードと同じ構造をしていますので、その点でも共通しているのです


「13」の示す満足。

マルセイユタロットに、「13」という数だけで、名前のないカードがあります。

ほかのタロットでは、このアルカナナンバー13に該当するカードは、「死神」という呼称になっていることがあり、そのことからも非常に恐れられているカードでもあります。

もちろん、マルセイユタロットの「13(番)」でも、絵柄から怖い部分は感じさせますし、恐れというより、畏敬にも似た「畏れ」の意味合いが「13」にはあります。

そんな「13」は、描かれている人物が大鎌を持っていることから、そぎ落とすイメージが強く出ます。

しかし、一方で、これは「悪魔」のカードともつながるのですが、意外に、「満たす」「満足させる」という反対方向の象徴性も込められていると感じます。(あくまで私の解釈です)

その、「13」から告げられるメッセージ的な意味での「満足」について、記してみたいと思います。

それは、一言でいえば、「完遂させる」「味わい切る」というものになります。

人間、中途半端に終わらせてしまうと(それは実は終わってはいないものですが)、心残りや、後味の悪さを感じ、その後の人生においても、どこか違和感を覚えつつ、過ごさなければならなくなります。

例えば、昔の恋人が忘れられないとか、別れるタイミングが早すぎたとか、あの人に言うべきことを言っていなかったとか、あの時代にもっと遊べばよかったとか、勉強しておけばよかったとか・・・そういうような思いです。

普段はそのことを忘れていた(忘れよう)としても、奥底の意識や記憶にはあり、何かの拍子で、突然そのことが思い出されたり、影響が出たりします。

それが、結婚や新しい恋人ができない理由だったり、人間関係でいつもトラブルが出たりすることだったり、時には心身の病気のもとであったりすることもあります。

タロットリーディングでも、「13」が登場する時、それは改革や変革を求められる場合と、何か終わらせていないものを終わらせる意味で、自分の中の不満足を完了状態へと充足(満足)させる場合とがあります。

後者こそが、先述した「13」が告げる「満たすこと、満足」に関係するのです。

それは最終的には、「13」の鎌でそぎ落とされるものです。

しかし、そぎ落とされるにしても、それが「存在」しなくては、鎌は空を切ります。

言い換えれば、実感であり、もう自分からそぎ落としてもよいと思える完了感です。

あるような・ないような、またこびつりいてなかなか離れず、しかし完全に取り去るには何か惜しくて残念になる・・・そのような中途半端な状態では、思いきってそぎ落とすことはできません。

そのためには、「確かに経験した」「味わった」「もう十分」「次へ行ってもいい」という感覚が必要なのです。

過去に戻ることはできないので、終わらせることは無理と思っているかもしれません。

しかし、象徴の世界では、意識は自由に時間を超えることができます。

過去の同じ人間や状況ではなくても、象徴的・感覚的にそれが似たようなものという認識(実感)があれば、やり残したことを完了させ、満足させることもできます。

また過去に戻らずとも、実際に今にできることがあれば、それを行うのもよいでしょう。

タロットリーディングで言えば、今ならばできるからこそ、「13」が出ていることもあるのです。

年齢や状況に関係なく、今からでもできることは必ずあるはずです。

そして、今後の人生においても、なるべく思い残しや未完了をともなわせるようなことはせず、その時・その時を十分味わって生きるとよいです。

もちろん、人はオートマチックに過ごしてしまって、あまり意識していない時間というのも多いです。そうしないと身が持たないからです。

しかし、食事や勤務中でも、ふとした瞬間に、「食べている」「歩いている」「仕事している」という実感と意識を強く持つことで、いわゆる「味わい」というものが発生し、そこから「味わい切る、味わい尽くす」という状態に移行することができます。

ましてや、自分が特別な時間と思っているものは、夢中になるだけでなく、それこそしっかり味わい切ることです。

すると、完了感、達成感、満足感が、些細なことからでも感じられるようになります。

そういう場合は、「13」のカードは微笑んでくれます。(本当にそう見えるようになります)

つまるところ、この「味わう」「充実する」「達成する」感覚を、外からの刺激によって、ただ偶然的に味わうか、それとも、意識的になって、何でもないようなことからでも、人生の味わいを感じるかという選択になるでしょう。

前者は半ば奴隷的であり、後者は自分をコントロールしているような自立的な存在と言えます。

さあ、あなたも、自分が思い残したもの、未完了になっているものを満足させに行き(生き)ましょう。

それが済むと、あなたはバージョンアップし、「13」のもうひとつの大きな意味、「変化」「変容」が行われ、生まれ変わるのです。


今の世界が生きにくい(生きづらい)人たちへ。

今日はあえての逃避の良さと言いますか、そういう傾向の人に応援歌を送りたいという気持ちで書きます。

というのも、私自身もそういうところがあるからです。(苦笑)

まず、この世の中、楽しいこともありますが、つらいこと、苦しいことが多いのは否めません。

生きている限り、悩み、労苦はつきもので、おまけにこの地球という星ときたら、なんでもかんでもごちゃまぜの世界、あらゆるレベルと階層が混濁している状態といえ、ナーバスな人は生きづらいこと、この上なしです。

現実の学校でもありますが、生徒のレベルや状態がまちまちな場合、だいたいにおいて、低いほうに平均化されます。あるいは、強引だったり、パワーで支配するものが優勢になります。

この星にも、レベルの高い人がたくさんいらっしゃると思いますが、残念ながら、いまだ争いごと、お金や権力での支配構造がはびこっている状態です。

レベルの高低を言うと問題があるかもしれませんので、ここは、あえて「好き嫌い」と表現しまして、まあ、今の地球は(昔からもそうですが)、戦争や支配など、そういうことが好きな人たちが大勢を占める星になっているのだと思えます。

報道される事件にも悲惨なものや、信じられない残酷なものが少なくありませんし、歴史的に見ても、酷いことがあまりにも多すぎる気がします。

このような状況(世界)で、生きるのが嫌になったり、引き籠もったり、社会におそれをなしてしまうのも、むしろ当然のところがあるような気がします。

ですから、この状態でもしっかり生きられる人は本当にすごいと思いますし、もしかすると、感性や遺伝子レベルでも、まったく違う生き物なのかもしれないと見てしまうほどです。

そして、スピリチュアル的に言えば、魂がこの世界の今の表現に合わない、なじまない、感じの人がいます。

いや、だからと言って、この世界になじまない人たちが優れているというのではありません。見方によっては軟弱で、傷つくのが怖い人たちということにもなります。

先述の「好き嫌い」的分け方で言うと、今の世の中の仕組みが苦手、あるいは、積極的に生きにくい(従って生きるのが下手と見られる)、適合しにくいということです。

なぜ、そのような魂の者がこの地球に来てしまったのか、理由はわかりません。

修行のためとか、宇宙の戦士(困難さを経験して、ほかに還元するため)として来たとか、囚人のように送り込まれたとか、いろいろスピリチュアルでは言われます。

グノーシス神話的に言いますと、悪魔に閉じこめられた世界で、本当の叡智ある世界に戻ろうと努力していると例えることもできます。

いずれにしろ、どこか間違っているのではないかという気持ち、ここ、あるいはこれではない感覚、というものがあって、それでも頑張ってこの世界に溶け込もう、生きようとはするけれども、何か、どうしても逃避的になってしまう、という人がいるように思います。

もちろん、こういったもの(思考)は、中二病と紙一重で(笑)、現実に適応できない自分のために、都合のよいように作られるストーリーであることもわかります。

しかし、現実が正しいのか、私たちの厭世観や違和感の奧にある世界(その人が見るイデアといってもいいものです)が正しいのか、観点の相違だけであって、明確にはわからない(判断がつかない)と考えることもできます。

人には、ありのまま・現状を受け入れていくことと、理想を見て、現状の差や違いを改革していくこととの両方が必要ではないかと思います。

現実と現状の世界で自分を最高に輝かすという生き方もあれば、反対に、現状を変えていく生き方、さらには、現状から逃避する生き方もあるわけです。

このうち、現状から逃避するのは、もっとも低劣で、批判されるべきものと、一般的には思われています。

確かに、まるっきり、逃避、究極的には死まで行くと問題で、当人にとっても逃避生活は地獄のようなものになります。

当たり前の話ですが、現実・現状から逃げても、現実に生きる限り、逃げ場はないわけで、到達地もなく、ただ逃避行あるのみです。

逃げることは、たとえ鬼ごっこのような遊びでも緊張感が伴い、気が休まる時がありません。従って、逃げている間はずっと修羅場・地獄の毎日となります。

ただし、面白いもので、タロットをやっていて気がついてきたのですが、地獄にならない方法もあります。

それは逃避行しながら現実を生きるという、矛盾したような方法です。

今のような世界の状態・表現になじめない気質を持つ人が対象ですが、実は簡単なことで、案外、誰でもたまにはしていることなのです。

これは、意識的(意図的)な夢遊病(笑)みたいなもので、心は非現実に生きつつ、肉体は現実に生きさせるというやり方です。

一見、心と肉体が分離した、それこそ病的な感じがしますが、そうではないのです。

しかも、これにはある種の覚悟がいります。もう少し、順を追って説明します。

まず、「自分は夢の世界でしか生きられない人間」だと自覚することが最初です。

夢の世界で生きるとは、現実逃避する自分を受け入れるということです。

無理して現実に適合しようとしたり、他人に必死で迎合したり、社会でいい人、今の社会的に尊敬されたり、評価されたり、人気が出たりする人間をあきらめます。

ここが実は難しいところです。

現実に生きようとすると、今の世界の価値基準での「よい人間」「有能な人間」「持っている人間」「評価される人間」というものを目指そうとします。

それが当たり前ですから。

ただ、そうすると、今の世界の表現がもともと合わない気質をもっている人には、無理が生じる生活になりがちで、言わばもともと混ざらない「水」と「油」を、何とか混ぜ合わそうということになって、ますます「水」と「油」の分離(自分と今の世界の間との壁)が激しくなるのです。

ということで、自分はこの世界に合わないことを素直に認め、自分の心の中にある「理想」や「感覚」を頼りに、なるべくそれと適合する場所・人間・表現のものを探します。

ただし現実は完全に合うものはないですから、どうしても精神(心)とか三次元以外のものになる可能性があります。あるいは動物とか、人ではない生き物との関係の中にそれに近いものがあるかもしれません。

と言っても、私たちは食べないと死にますし、現実社会の中で、一人山に籠もって生活するのも難しく、実社会でとにかく生活していかねばなりません。

そこには法律やルール、社会常識、責任というものも存在します。

これ(社会とルール・責任など)は牢獄というか、そういう世界に修行に来ていると割り切り、だからこそ、できるだけ肉体とか、物質レベルでも、快適になることを選択し、行動します。

「修行」と言っても、いい意味の修行というより、囚人生活みたいなものなので、同じ囚人生活であっても、なるべく牢屋の中で快適になる道を選択したほうが、まだましだからです。(笑)

大切なのは、現実で生きながらも、心は夢に生きることです。心まで現実(現状という現実)に適合(迎合)させては、完全に現実の奴隷となります。

「自分は夢がエネルギーであり、食べ物だ」と認識(自覚)して、ほかの一般の人が口に入れる「食物」は、肉体と現実という牢獄で差し出される「配給される食事」だと考えます。(配給でも、本当の牢屋とは違い、ある程度、自分でおいしいもの、美しいものを入れることはできます)

「夢」という本当の食べ物を忘れると、この世界に合わないあなたは、栄養不足となるばかりか、精神的には餓死する危険性さえあります。

「夢」が何なのか、これは人によって違います。

好きな仕事であったり、趣味であったり、使命感をもった活動であったり、愛する人との生活、自然とのふれあい、さらには文字通り、睡眠で見る「夢」ということもありえます。

本質的に現実(現状)に生きず、夢に生き、そして仮初めの(他人にとっては現実でも、自分にとっては仮と思える)世界を旅するように生きていく、これがナーバスで、この星の今の表現に合わない人たちの、ひとつの楽に生きる方法となるでしょう。

逃避的な傾向の人、あなたは実は、すばらしい旅をしているトラベラーであり、ボイジャーなのです。


自分を信じる過程 「悪魔」のカード

私はアニメ好きなので、よくアニメを観ます。

最近ふと、以前観た「天元突破グレンラガン」というアニメを再び観たくなって、見返しておりました。

それで、このアニメの中で、主人公シモンに強い影響を及ぼすカミナという人物が、シモンに向かって述べるセリフがあります。

最初にそれは、

「自分を信じるな おれを信じろ おれが信じるお前を信じろ」

と言っていたのですが、最後の方は、

「おまえを信じろ おれが信じるおまえでもない。おまえが信じるおれでもない。
 おまえが信じる、おまえを信じろ」

となります。

この経過は、自分を本当に信じていくことのプロセスを表しているようで、そのストーリー展開のタイミングとも相まって、なかなか感動的なもの(言葉)になっています。

スピリチュアルや心理の世界では、よく自分の価値を認めるということがあり、それは他人や外からの評価ではなく、自分で自分の存在と価値を、ありのままに認めることができるようになることを指します。

それは、すなわち、本当の意味で「自分を信じる」ということと、同意義のところがあります。

ただ、この現実の世界は、分離(二元)の世界であり、言い換えれば、比較や違いによって、物事(存在)が認識できるようになっている世界でもあります。

そのため、違い・差をどうしても意識せざるを得ないのが実状です。

そんな中で、自分と他人を比較して、特にその所有(持っているもの・持っていないもの)の観点から、自分にはなくて他人にはあるというような思いが起こりやすく、自信がなかなか得られにくいところもあります。

だいたい、人の人生は、他人との違いを見せられる連続と言ってもいいものです。

よほど、もともとの自信家や狂信的なところがないと、普通は自分が持っていないということ、自分が人より劣っているというようなことを意識してしまうようにできています。

小さい時は、当然すべてが未熟ですから、たとえば身体においても、上級生や大人と比べて自分が小さいことを認識します。

学生になり、同級生同士でも、勉強、身体能力・スポーツの出来不出来、外見性、異性のもて具合、性格のよしあしとか、出身の家柄とか、親の金持ち度とか、とにかく、必ずどこかの部分で違いがあり、人よりプラスもあるでしょうが、マイナスも目に着くものです。

成長して社会に出たとしても、先輩や上司、同僚同士で自分と比べて、見劣りするところを発見するでしょうし、社会人になれば、結果がシビアに評価されることにもなりますし、成功者という人がますます強調される世界に入りますので、学生の頃より、さらに自分が人より劣っている、よくないと思ってしまう傾向は強まるかもしれません。

このような状況では、自分一人の力で、自分を認め、信じるということが、なかなか難しくなるのも当然です。

では、どうすればよいかと言いますと、やはり他人から評価される自分を経験することです。逆に言えば、他人を評価できる自分を、仮でもいいから作ることで、他人に貢献できるということです。

自分を自分で評価できず、自分を信じられなくても、「おれの信じるおまえを信じろ」と強く評価されれば、とにかく、その人を信じて(その人のことが好きだったり、信じたりしていればという前提はいりますが)、行動することができます。

それは他人評価の自分という、「かりそめの自分」ですが、自分を信じていくための過程においては必要なこともあります。

ただ、この場合でも、自分を信じてくれる人との出会いや関係性が重要です。

それでも、私が思うに、人生、一度は必ず、あなたを信じてくれる人が現れると思っています。

それが最初は親であることは多いと思います。そして、親以外にも、すべてにあきらめなければ、きっと誰か現れることでしょう。

そうして「他人の信じる(評価する)自分」から始まり、やがて、少しずつ、他人に評価されなくても行動できる自分に変わっていくのです。

他人が信じてくれたから動けるというのは、思った以上にパワフルですが、その信じてくれる人にかなおうとする自分の力が、自分自身を信じることで強くなってくることに気づけるかどうかがポイントです。

「自分を信じる」ということは、どこまでいっても実はあやふやなものかもしれません。

根拠のない自信と言ってもいいものです。

しかし、そうした、ある意味、形のないような、何か奧にある自分というものこそが、本当の自分への信頼に関係し、結局それは、宇宙とか大いなるものとつながる自分というような感覚に近くなってきます。

それが冒頭に記した、アニメ「グレンラガン」におけるカミナのセリフ、「おまえが信じる おまえを信じろ」的な言い方になるものと言えます。

この最初の「おまえ」は自我(エゴ・自意識)の「自分」ともいえ、そして後者の「おまえ」は、統合的自己、「真の自分」であり、神性に近い存在、疑いようのない高次の自分のようなものと考えられます。(「おまえ」の意味の順を逆に取っても、結局、意味的には同じになってきます)

マルセイユタロットでは、高次の存在や心境のひとつに、「悪魔」というカードが君臨しています。

悪魔は低次で悪い存在と思われがちですが、カードは人格的なものを表しているのではなく、ひとつの表現やエネルギー、質を象徴しています。

悪魔は独立・自立・自分を信じ、自己を自分で評価できる力であり、パワーです。そのために人を試すこともあれば、逆説的に強力な力・魅力でもって人を支配し、縛ってしまうこともあります

ただ、悪魔は人に、自分を信じること、自分に力があることを促す存在でもあるのです。

最初は悪魔(自分を評価してくれる存在)から信じられている仮の自分が、力を発揮します。

しかしそれは悪魔からパワーが出ているのではなく、自分自身の力なのです。

悪魔によって評価され、守られている自分だからこそ、最初は自信のない自分であっても力を出せますが、やがて自分自身が悪魔(いい意味で)であることに気づくと、マルセイユタロット的には次のナンバーを持つカードの「神の家」に進み、自身の神性、言い換えれば「自神(じしん)」に出会うのです。

最後まで悪魔によって支えられていないと、自分が信用できないという人は、逆に悪魔に縛られる状態となります。(「グレンラガン」でもカミナの幻影にとらわれる時代のシモンが描かれていました)

また、自分に自信を持つこと、自分を信じるということは、一人でもいいので、心から誰か他人を自分が信じ、認めることから始まります。

それが回り回って自分を信じることにつながり、還ってくるでしょう。

「アタシが信じるあんたを信じなさい」ということからでいいのです。(これまたアニメで、「涼宮ハルヒ」みたいですが(笑))

言われた相手は、自分自身にある力を少しずつでも発揮することになるでしょう。先述したように、それがやがて、自分の力だと知るのです。


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