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自己評価は低くてもよい
自己評価が低い・高いというのは、心理的に大きな意味を持ってくると考えられています。
自己評価のテーマは、最近ではスピリチュアル的にも言われいます。心理的な意味と、スピリチュアル的な意味とでは少し違うのですが、とりあえず、自分自身による自らの評価ということで定義しておきましょう。
ところで、一般的と言いいますか、もはや常識的に、自己評価は高いほうがいいとされています。
平たく言えば、自信であり、それがないのとあるのとでは、生き方も大きく変わると思われています。
言葉は面白いもので、「自信」は「自分を信じる」と書きますので、まさに、自分に対する信頼感、自らを信じている強さとも言えます。ということは、自己評価が高いというのとほぼ同意ですよね。
よって、自己評価の高低も、自分に自信が持てるかどうかにかかっているとも考えられます。
今回は、自分に自信を持つにはどうすればいいのか?ということが主題ではありません。
その方法は、多くの心理系の方々によって説かれていることであり、それを身に着ける(自信をつける、自分を認める)セミナーとか個人セッション、カウンセリングなどもたくさんあるわけで、自信のない方、自己評価の低いと思っている人は、そういうものに参加したり、受けてみたりされるとよいかと思います。
話は変わりますが、時代とともに、いわゆる心理的援助、悩みや苦しみ、問題の相談をされる仕事やビジネスをする方は、昔に比べて格段に増えました。
さきほど、ビジネスと言いましたように、単なるボランティアではなく、プロの仕事としてされている人が多くなったわけですから、これを利用しない手はないと思います。お金がもったいないと思う人もいるかもしれませんが、それは価値観の問題です。
極端な例を言えば、毎日パチンコするような依存症になり、借金して人生を破綻してしまうより、依存症の問題を誰か専門家に相談したほうが、今後のお金の損失程度から見ても、効率的だと言えます。
また、なかなかいい人と出会いがない、相手ができても、いつも同じような問題のある人とつきあってしまうという人が、婚活とかそういうカップリングを目指すことにお金をかけるより、もし心理的に問題があるのなら、そこを解消しておいたほうが、望む結果が早くなったり、かかるお金にしても少なく済んだりすることもあり得ます。
人生をよくするには、いろいろなサービスがこの現実世界ではあるのですから(それがまたこの世の面白いところと言いますか、救済措置のひとつだと思います)、そうしたものをうまく利用することも考えてみるとよいでしょう。なんでも自分一人でやらねばならいとか、解決しようと思わないことです。
現実世界の特徴は、個別意識、言わば分離的個性にありますから、逆に言えば、全体によって個人を救う仕組みになっており、簡単に表現すると「持ちつ持たれつ」なのです。
このことに世界の人が気づけば、もっと暮らしやすくなるのですが・・・まあそうさせない勢力もありますので、単純なことなのに、難しくされている世情があるわけですね。
さて話を戻しますが、今日言いたいのは自己評価が低くてもいいよ(いい場合がある)という、ちょっと非常識(苦笑)な話なのです。
実は私自身は、自己評価が低いほうだと思います。以前は、例にもれず、これではいけないと改善を試みようとしました。心理的に学んだり、セッションやカウンセリングを受けたりしたこともあります。
それでも、やっぱり低いままなな感じは残っていました。自分に自信がなく、自己評価が低い部分が残存し続ける感じです。
と書いて来て、気になった方もいると思いますが、「部分」と私は書きました。そう、ある程度、自己評価の問題に取り組んで来て、気づいたことがあります。
自分と一口に言っても、実は様々な自分が存在しており、そこには自己評価の低い自分もいれば、自信をもっている自分もいるのです。
シーンや状況によって、それらの各々の自分が出てきて、ある時は自己評価の低い自分になり、ある時はましになっている自分が出ます。
つまり、高い・低いの問題ではなく、高い自分と低い自分とが混交し、それが一人の自分として形作っているのです。となれば、状況によって、登場してくる自分も違うことになります。
何回か経験したこととか、慣れている場面とかでは、自信のある自分が登場するでしょうし、未知なるところ、慣れていない時などは、自信のない自分となるでしょう。
ある特技を披露するシーンとか、人よりましなもの、優れているものが出せる時は、、他の場面では自信のない自分であっても、急に自信を持つ自分が現れる人もいるでしょう。
ということで、実は、自己評価とか自信というのも、状況によって変わる(左右される)わけです。時分による自分の違いです。(笑)
それでも、人格全般に影響するような強烈な体験があれば、それが全部を支配してしまうことがあります。この場合は、自己評価の低い人格ばかりとか、そういう傾向をひとつの固まりとして持ってきます。
人格形成は、大人になる前のことが強く影響しますから、やはり心理的によく言われるように、成育歴における事件は自己評価に関わってくると言えましょう。
しかし大人になってからも修正は可能ですので、特に自信を極端に失っている人格を見つけて、平均化していけば、だいぶん全体としても変わって来る可能性もあります。
また、自信の強い人格が他を助けることもありますので、その人格(趣味とか特技とか、自分を自分としてある程度強く出せて、認められる人格の象徴体)を意識的に認識すれば、全体としてもっと自己評価がましになり、生きやすくなるかもしれません。
これとは別に、自己評価は低いままで、超越的なものから支えられていると考え、だからこそ、低くても助けや救済があるとする見方があります。
これは宗教がやっていた方法です。
神とか仏とか、自分の信ずる超越的な存在が、まさに迷える子羊である「私」を見守り、お導きくださるという姿勢です。
だから、自分への評価は、言ってみればどうでもよいのです。むしろ低いのが当たり前と言えます。
人間としての弱さ、未熟さ、至らなさを当然のごとく自覚し(神とは違うので)、だからこそ、神仏を敬い、助けていただく、完全になるよう、お導きの道を進む・・・こういう感覚です。
この立場では、自己評価は低いままでよいと言えます。低くても、自分には完全なる神仏がおり(ついている)、矛盾する言い方になりますが、その意味では限りなく自己評価は高くなります。
このように、外側に神仏を見て、自分を客観的(神仏目線と併せて)に評価していく、成長していくという見方が宗教的なものと言えます。
ですが、外側ではなく、自分の内なる神性とか仏性というものに置き換えてみると、スピリチュアル的な意味での方法となってきます。
現代社会では、こちらのほうをお勧めしたいです。
マルセイユタロットの「悪魔」のように、自我を強めて、現実社会での自信を持つというのが、常識的な、自己評価を高めるひとつの方法なのですが、自分自身が「神の家」であることを認識するという道(人間性が神性へと変化・回帰し、完成させていくという自己認識)は、さきほど説明した宗教的なものと近くなります。
マルセイユタロットでは、「神の家」と、謙虚な姿勢の女神が描かれている「星」のカードとセットで考えてみると、よりイメージしやすいかもしれません。
ですから私自身は、自己評価が低いことは、問題としてあまり思っていません。それは人間としての私の部分であり、むしろ当然だと思うくらいです。
とは言え、すべて人間レベル(つまり現実的な認識のみの視点)で考えている場合は、自己評価が低いままでは、きっと生きづらくなると思います。
何度もこのブログで書いていますが、この世界は一種のゲームです。やりようによって、何とかなっていくものだと考えられます。
別に一般的な成功とか幸せを手に入れなくても(そういう設定のゲームにしなくても)生きられます。(笑)
「悪魔」を出し抜くような気持ちで、「手品師」(いかさま賭博師でもあります)から始めてみましょう。
「愚者」となってこの世界を旅するのなら、アウトローで結構だと思えばいいのです。
ワタリガラス、英語ではレイブンと言いますが、不吉の象徴のように思わているこの鳥も、ある文化ではトリックスター的にも見られています。
この世を渡っていく黒い鳥として見れば、自由で面白い存在だと言え、自己評価は黒くても(笑)、ワタリガラスのように人生を渡っていくのもまたよしかもしれません。
タロットの視覚効果
タロットカードは、絵でできているカードですので、当然ながらビジョンやイメージという視覚的な効果と関係します。
視覚と言っても、実際に目に見える部分と、心で想像(イメージ)して見えている(気がする)部分とがあります。
前者は誰でも同じに見えますから(厳密には、同じものを見ていても、ひとりひとり違うでしょうが)、一般化や元型として、言わば人の共通のパターン・あり方などを見ていくのに機能します。
つまりは、軌道修正であったり、調和を図ったり、自分の立ち位置を見たりして、客観的に判断するのに向いているわけです。
一方、後者の場合は、個人個人でカードから心の中でイメージするものなので、それは人によって異なるシーン・絵を見ていることが想像できるでしょう。
ということは、個人の心にあるデータ、思い込み、願望のようなものが現れてくると言えます。
ですから、カードを心でイメージすることは、個人的な問題の解決やセラピーを目的とするのには有効な方法だと考えられるわけです。
ただし、カードの絵を見て、心でイメージする(させる)場合、ある程度、カードの意味を知っておいたほうがよいです。
マルセイユタロットの場合、誰が見ても同じようにそのカードから感じられるような内容になる仕組みがあるのですが、それでも、意味を説明されないと、そのカードがどんなもの(こと)を描いているのか、わからない部分もあります。
そもそもイメージというのも、意味や内容がある程度わからないと、湧きにくいものです。
従って、カードの意味・概要を知ったうえで、改めてそのカードのことを心でイメージしてみるというプロセスが重要になります。
比較的やりやすいのは、大アルカナのカードの意味を知り、そこに描かれている人物になり切るようなイメージをしてみる方法です。
そうすると、イメージしやすい人物とイメージしにくい人物とに分かれるかもしれません。
イメージしにくいものは、思い出したくないもの、過去(記憶)に問題のあることが多く、イメージしやすいものは願望、あるいは実現できそう(可能)なことなどを示す場合があり、時制では現在から未来方向の指針である傾向があります。
また、イメージをした時に、自分の気持ちの状態によって、ブロックや抑圧、その逆の、願望や期待する夢を見出すことも可能です。
とは言え、カードを見ての心の中に作るイメージは、もとは実際に目に映るカードの絵から始まっていますから、先述したように、実際の絵は客観的でもあり、カードからイメージする心の絵(心象)は、逆に主観的と言え、主観と客観、両方が相まっての想像(創造でもあります)になっているわけです。
主観は自分の感じ方ですから、意味を知らなくてもよいのですが(むしろあまり意味にこだわり過ぎると思考に傾き過ぎ、イメージが制限されることもあります)、客観としての絵は意味が必要と言えます。
言ってみれば、カードの絵の一般的象徴性(客観)によって、主観的(心に浮かぶ像や感覚的)なものを精査、新たに意味付けするような感じ(役割・働かせ方)です。
このあたりのことは、タロットが、例えばロールシャッハテストなどのような、心理的投影を見るだけのものではないことを意味します。
ということで、カードの絵からのイメージを使う方法でも、やはり、カードの勉強(カードの意味を知ること)はある程度しておかないと、うまく機能しないのです。
カードの意味がわからないと、ただ主観のみになり、心でイメージしたことが何の意味を持つのか、あるいはそのイメージをどう扱えばよいのか、わからなくなります。そして、カードの概要がわからないと、そもそも心でイメージする手がかりもつきにくいのです。
もうひとつ付け加えると、このように、人は主観と客観によって、より自分を知ることができますので、同じタロットを学んでいる他人との共同作業で、カードを使ってやると(自分を知るのに)効果は高いと言えます。
マルセイユタロットの「月」と「太陽」ではありませんが、主観と客観、自分と他人、二つの見方や立場の違いがあるほうが、実は本質が見えやすく、もし自分があるレベルに留まって問題状態であるのなら、そこからの脱出、成長も図りやすいと言えます。
タロットは心理カードとしての活用度は高いツールと言えますが、さらに霊的な活用まで目指すとなれば、カードが個人的にどう見えるか・どう思うかだけではなく、カード(タロット)そのものの象徴性を個別と全体でとらえ(体系・システムとして見る)、その設計シンボルと調整・調和させていくような視点が必要だと思います。
ですから、繰り返しますが、感覚だけではなく、タロットの学びが不可欠で重要となってくるのです。
学び、感じ、考え、スパークし、今の自分を超えて、新しい世界や自分と出会って行きましょう。
これは、言い方としては、成長とか新しい自分に向かっての脱皮みたいに思うでしょうが、実は本当の自分を思い出す旅のようなものなのです。換言すれば、元(本来に)に戻ることであり、忘却からの回復です。
こういうものが、タロット活用の醍醐味でもあると私は思います。
タロットリーディングに才能は必要か?
タロットリーディングに才能は必要か?
というタイトルですが・・・結論から言いますと、どちらとも言えないという、またあやふやなものですみませんが、私自身はそう思います。
ところで、この世(現実)は残酷な部分があり、いくら平等を訴えても、あらゆるものに違いがあり、だからこそ、皆同じというわけには行きません。不公平な世界というのが実情でしょう。
逆に言えば、だからこそ、ルールや法律を決め、皆が同じようになれるよう(権利が受けられたり、扱いが等しくなったりするよう)にしているわけです。
話はそれますが、現実において生きやすくするためには、違いがあるのがこの世であり、そういう世界になっているのだとまず認めることからだと思います。
そのうえで、差別とか理不尽なことをいかに是正するか、皆が人として等しく権利を享受できるかを考えたいです。簡単に言えば、区別を認めて差別は変えていくみたいなことでしょうか。
さらにスピリチュアル的に言えば、違いというのは演出でしかなく、大元までたどれば、違いを作り出している装置と言いますか、仕掛けに気づくようになっていると考えられます。
ただし、人として現実空間に生きている間は、なかなかそのことは実感できないよう、極めて巧妙で精巧な作りの世界になっているのだと想像できます。
結局、この演出世界を体験する何らかの宇宙的必要(必然)性か、自分の真の意思のようなものによって、違いある世界を味わっているのだと言えるかもしれません。
話は戻りますが、そういうわけで、みんな違った才能・個性があるようにできており、その程度・質・表現等、まさに千差万別です。
当然、(三次元における)タロットに関しても同様で、誰もがまったく同じに読む才能が最初から揃っているわけではなく、また、みんなが平等にリーディングできる力となる方法もないと言えます。(あとで述べますが、ないとも完全には言えない・・・のですが)
シビアですが、そう考えますと、元からタロット(リーディング)に才能のある人と、あまりない人という差はあるのが普通でしょう。
私は、タロットは独学ではなく、スクールに入って学びましたので、一緒に学んだから方々を見ております。
その中で、やはり、タロットに向いているといいますか、すごく最初からセンスのある人と、いまひとつである人、という差はあったように思います。
そして自分がタロットを教えるようになって見ても、ほかの人に比べてタロットセンスが初めから高い人、そうでない人という違いはあるように感じます。
今までとても印象的だったのは、まったくタロットを習ったことがない、自分で学んだこともないという人が、入門コース的な簡単な内容を少し伝えただけで、かなりサクサクとカードを読まれた方がいました。(コンビネーション的なものも含めてです)
ところが、世の中、不思議なもので、この方はそれほどタロットを続けて行く気はなかったようで、それっきりのご縁でしたが、あのまま本格的にタロットリーディングの学習と実践を続けられていたら、すばらしいタロットリーダーになっていたのではないかと思います。もしかしたら、別の種類のタロットを学ばれて、使っていらっしゃるのかもしれませんが。
このように、才能・センスとの違いは、どうしてもあります。
では、努力によって元ある才能を凌駕することができるのか? よくスポーツや勉強の世界で言われることですが、これもまた難しいところでしょう。
そもそも、すごい努力ができるというのも才能のひとつだと私は考えています。
ただ、タロットの場合、それほど才能・センスに依存する分野ではないと思います。
何を隠そう、私はタロットリーディングのセンスは凡人です。(苦笑)
最初にスクールで学んだ同期生たちに比べ、おそらく一番、タロットが読めなかった人物だと自覚しております。
かといって、そこから人一倍努力した、というようなスポ根ものみたいな話もありません。(笑)
それでも、私の場合、タロットのセンスはあまりなかったかもしれませんが、センスを磨く工夫をすること(トレーニングによるコツの習得)には、もしかしたら恵まれていたのかもしれません。そして、習ったマルセイユタロットが好きということに変わりなかったことが、継続していく力になっています。(やればやるとほど好きになっていました)
いくら才能やセンスがあっても、その対象のことが嫌いだったり、興味がなかったりすれば、続けて行くことは難しいでしょう。すると、熱心にコツコツと長くやっていく人に比べると、ウサギと亀ではありませんが、やがて追い抜かれることになります。
この、対象に対しての好ましい感情や情熱が持てるかということは、才能よりも重大な意味があると考えられます。
さらに、人には誰でも何かしら、よいところはあるものです。
そのよいところをもって、訓練していくことで、ある程度、才能をもともと持つ人に近づけることはできると思います。
タロットの場合、タロットの知識・象徴性に興味と関心があり、タロットリーディングはそれほどでもないという学びのタイプの人もいます。こういう人には、センスとか才能はあまり関係ないでしょう。
ですから、タロットにおける才能・センスが活かせるというのは、タロットリーディングの分野がメインです。
それでも、そのタロットリーディングにおいても、知識と論理で読んでいく方法と、直感・感覚・センスで読んでいくものとがあります。
才能・センスのある人は、後者の力を行使していく傾向が強く、だからこそ、センスの薄い人(普通の人)は、前者に力を入れるとよいのです。
ただし、知識と言っても、カードの意味を丸暗記するような方法ではありません。それではスポーツにおいては、あまりよくないコーチの言われるままに根性トレーニングするのと同じです。そのやり方では、応用や、さらに伸ばしていく力も出て来ないです。
才能ある人に対抗するためには、教えられることだけではなく、自分が思考し、実践していく力を身に着ける必要があります。
そのため、タロットにおいても意味を丸暗記するようなやり方は、あまりお勧めできるものではありません。(暗記という方法自体は悪いわけではありませんが)
カードを論理性をもって読むことができるようになれば、能力にあまり左右されず、安定したリーディングの力を発揮することができます。
しかしながら、タロットの種類によっては、論理性があまり通用しないと言いますか、そのタロット自体が論理性に欠けているものもあります。それでは、意味がありません。(そのため、論理性に欠けるタロットには、イメージや感覚の力で読む傾向になるのです)
論理性をもってリーディング技術を上げたり、安定したりできるのは、そもそもリーディングに使うタロット自体に、しっかりとした論理性(合理性)が整っていてこそです。
どうも、タロットは感覚の世界の産物と思われ過ぎているので、タロットカードのシステム・論理性が軽視されているところがあり、新しい創作系タロットのほとんどは、作者の感覚で作られていることが多いので、タロット全体としてバラバラな印象があります。
たとえイメージの世界、元の世界での論理性があったものでも、それを受信した方に、論理・オーダー・システムの全容と個別の仕組みが包括的にわかっていなければ、それを現実のカードとして精巧に表現することは難しいです。
これはマルセイユタロットで言えば、「斎王」と「法皇」(大アルカナナンバー2と5)のセットによってできることなのです。「斎王」のみ、「法皇」のみでは困難です。(人間が二人必要だと言っているのではなく、そういう二面の性質が合わさる必要があると述べています)
マルセイユタロットのある版の場合は、この点、極めて精密にできており、それが実際に表現されているカードなので、論理性をもってリーディングする技術を学べば、才能・センスに頼る読み方を超えることも可能だと思います。
そういう意味では、こと、そのタロットに関しては、才能はあまり必要ないと言えるでしょう。(論理的に読むこと自体に才能を見る、あるいは向き不向き考える場合は、また別ですが)
しかし、先ほども述べたように、タロットは一方で、感覚・感性というものも大事な読みの力となります。
これがもともと優れている才能とセンスのある人は、極端なことを言えば、学習をほとんどしなくても、リーディングはできるでしょう。
タロットのすごさは、学ばなくても読める人を生み出す力そのものがあることです。人の才能を引き出す力と言い換えてもよいでしょうか。
とは言え、そういう人も、人間ですから、才能はあっても、いつも安定した力が発揮できるとは限りません。体調や環境によって左右れることも大きいです。
ですから、それを補うためにも、やはり論理性での読みも学んでおいたほうがよいです。才能に頼るだけでは、エネルギーの消費も激しく、タロットリーディングに疲れてしまいます。
それに、センスのある人は、好き嫌いの感情が強いところがある人が多い気がします。(これには理由があるのですが、ここでは省きます)
タロットが好きである必要性は説きましたが、リーディングそのものに、ただ感情的に取り組んでいては、やがて飽きたり、興味を失ったりします。ある時はとても面白くても、別の時は嫌になり、もういいや、みたいになるわけです。
ですから、タロットリーディングをする人は、使命感のようなもの、何のためにやるのかという意味付けを自分で作っておく(持っておく)ことが重要です。
まだまだ才能・センスとタロットリーディングについて書きたいことはありますが、長くなりましので、今日はこのあたりにしておきます。
ムーミン少年(少女)の末路と僥倖
今も刊行されていますが、オカルト雑誌に「ムー」というものがあります。
この雑誌の読者、ファンのことをムーミン(ムー民)(笑)と呼びます。
実は、私はムーミンでした。まさに創刊の時以来、中学生の頃から愛読していたのです。
メインの記事も興味深いものでしたが、中綴じの付録のようなものも面白く、それには魔術や特殊能力開発のための簡単な実践記事が書かれていました。
その大体はやってみたのですが、いかんせん、飽きてしまうことが多く、効果もすぐ出るわけではないので、途中で投げ出してしまうことが問題でした。
今思えば、コツコツとちゃんと継続していたら、中には、それなりの力が出たものもあるのではないかと思います。(苦笑)
と言うのも、怪しげなものも結構ありましたが、それなりに西洋魔法テクニックの初歩的なものとか、東洋的な気功術とか、サイキック修行の一部が出ていたように記憶しているからです。
実際、これで、“氣”の何たるかを実感できた時もあります。
まあ、そんなムーミンの私でしたが、さすがに大学生の頃には読むのをやめてしまいました。
しかし、大人になってから、いろいろと悩みが深くなっていた時、再び書店でムーを手にしたのです。
それがマルセイユタロットとの出会いになろうとは、思ってもみませんでした。
私にとっては、ムーを読ことは運命的であったとも言え、人生を逆から見ると、未来にマルセイユタロットをやるために、過去の中学生からの私がムーを読んでいたわけです。
もちろん、ムーに載っているようなことが好きだったから、タロットに惹かれたという当たり前のことも言えるのですが。
ただ言っておきますが、ムーミンであった私でも、タロットにはまったく興味がなかったのです。先述したように、あることがきっかけで、大人になって、たまたまムーを開いたことで、マルセイユタロットを知り、タロットへの関心が初めて出たのです。
ムーを読み始めて20年くらい経って、タロット(マルセイユタロット)に興味が出るというのも、考えてみれば不思議な話です。
さて、そんなムーですが、今の内容は読んでいないのでよくわかりませんが、昔の記事を思い返してみると、まあ、ほとんど荒唐無稽、真剣に信じてはいけないものだったなとわかります。(苦笑)
例えば、UMA(未確認動物)の話があります。
日本ではツチノコとか、ヒバゴンとか、湖に住む巨大な動物とか・・・まあ、世界的にもいろいろ言われていますよね、ビッグフットとかネッシーとか。
当たり前ですが、生物学的に言えば、繁殖しないと個体数も存続できないわけですから、巨大な生物などは特にですが、まずえさとして食べ物も大量にいりますし、繁殖には最低雌雄二匹いないといけないわけで、その子供がほとんど見つからないくらいの数だと、その生物種はすぐに滅亡してしまいます。
雌雄の必要のない、単体で増やすことができるのなら別ですが、微生物ならいざ知らず、通常は無理でしょう。
よって、言われている未確認動物のほとんどは、三次元的に存在しないと考えるのが論理的です。
動物とかではなくても、UFOのような未確認の物体でも、同様に、論理的・科学的に考えればそんなものはないと見たほうがまともです。
強いていえば、新しい時代においては、どこかの国の兵器説はまだ信じられる可能性があると言えますが、宇宙人の乗る円盤とかなると、もう眉唾もの、妙な話になってきます。
ムーミンであった私がそんなことを言うと、なんか元も子もないと言いますか、大人になって夢を失った悲しい人みたいに思われるかもしれませんし、逆に、まともになってよかったねと、ほっとされるかもしれません。(笑)
しかし、今、タロットをしている私なのですから、ガチガチの常識に固まっているわけでもありません。
ただ小学生・中学生のような考えで信じるようなことはしなくなったというだけで、実は、そうした未確認の動物とか物体の存在を、違う形や別の考えで思うことができるようになったわけです。
さきほど、「三次元的に存在しない」と書きましたが、もしこれが異次元的な存在、異世界的動物・物体たったら話は別となってきます。
例えば霊体のようなものだとすれば、人によっては見えることもあるかもしれませんので、次元の違うものなら存在の可能性はあります。
動物の場合、雌雄とか繁殖の概念は物質・肉体を持つというものが基本となるので、それが霊体のようなものだとすると、そもそも概念自体、変わってきます。
つまり、物質的・三次元的な見方をしている限り、ほとんどの謎現象・謎存在を証明することは無理だということです。ほぼほぼ、信じるに値しない話となります。
ですから、これは個人的に思うことですが、謎めいた話を具体的・物質的、三次元的に、物事や存在を説明しているものは、そのまま鵜呑みに取るのはかなり滑稽と言いますか、幼いレベルであり、大人の見方ではないと思います。
例えば、なになに宇宙人が地球と人類を創ったとか、その宇宙人が円盤に乗って来ていたとか、なになに星から私は来た(たとえ魂の話でも)とか、そんなような類のものです。ほかに、日ユ同祖論なども、今の時代のままで信じると、とんだ間違いを犯します。
陰謀論などのほとんどは、今の目線や見方でとらえているものが多く、誰それが、どの組織がとか、かなり具体性と言いますか、特定の団体とか民族とか個人とか、またその逆に、いきなり宇宙人とか未来人とかが関わっているというような話になるのも、同じだと言えます。
結局、そのどちらも、実は今の一般レベル(というより、もっと低いレベルですが)の人間による、物質的な見方だからです。
ではどうすればよいのかと言えば、いろいろな(怪しい話、不思議な話を)象徴的な話として考えるということです。
象徴なので、暗示とかメタファー、抽象的な示唆とかとなり、言われているそれそのもの(具体的な名前とかモノ)ではなくなります。
スピリチュアルが好きな人の中でも、星とか、星座、星雲の出身、その文明、宇宙人との関連が言われることもありますが、例えばマルセイユタロットにも描かれているとみられる「シリウス」という星も、実際のシリウスという意味もあるにはありますが、象徴としてのシリウスを考察したほうが、より本質に近いと言えます。
タロットは象徴のカードです。
タロットにおいても、具体的・実際的に見過ぎてしまうと、「カードが示すことが現実で起きてしまう」というような運命カードのような扱いになってしまいますし、実際の当たりはずれを強調するような見方(が価値の中心)になります。
また、カードの解釈も、ひとつとか数個の意味に決めてしまい、それ以外読めなくなってしまいます。
これはカードを象徴として見ていないからです。
タロットが象徴でできるていること、それが本質理解の手順・方法になっていることを理解すれば、世にあふれるオカルト・陰謀論的な話も、現実的に見るのではなく、象徴として見ることとができ、なぜ説として人々は信じたがるのかということや、その背景(流されている意図等)も、はっきりわかってくるでしょう。
警告しておきますが、三次元的な見方で不思議説を信じていれば、簡単にだましやすい(だまされやすい)人とみなされ、知らず知らず、いいように扱われますので、注意してください。純粋さは大切なことですが、同時に、思考し、洞察して、大人として正常な認識力(判断力)も持っておかねばなりません。
ムーに載っているようなオカルト話を本当の意味で楽しむためにも、すべて鵜呑みに、現実性としてとらえるのではなく、象徴として置き換えてみることをお勧めします。
これは、オカルトをすべて排除する姿勢を言っているのではありません。オカルトに接することで、実は魂的には僥倖にもなるのです。それは話をどう扱い、解釈していくかの姿勢によります。(そもそもオカルトは、隠されたものの意味で、崇高な叡智にもつながるものです)
言ってみれば、純粋な少年少女の心と、すべて疑い、考察していくような冷静な大人の視点との両方がいるということです。どちらかだけだと、おそらく真理には到達できないのではないかと思います。
この世界での生き方それぞれ
私はマルセイユタロットの講座で講師をしている身ですので、教える側になっていることが多いです。
しかし、教えられる側に立つこともあります。タロット以外の分野では、むしろ教えられることばかりです。(笑)
そうして、今も教えられる側に回り、いろいろと学んでおりますが、各種講座などで学びに来られる方々を拝見しますと、皆さん、意識が高いと申しますか、ご自身の成長や発展、特に成功しようという気概にあふれている方が多いように思います。
学んだことを即行動に移す人もいて、その行動力・実践力・熱意のすばらしさに感嘆することもしばしばです。
昔は、私も一般的に言う成功などを考えて学んでいた時もありましたが、いつからか、その目的は薄くなり、私の魂的な部分では、それを求めていないこともわかってきました。
ただ、これはルサンチマン(弱者・負け組の、強者・勝ち組に対するネガティブな感情)から来ていることもあるにはあると思います。それでも、さらにその奥まで探求していくと、もっと別なものも出てきたわけです。
それが、私にとってはグノーシス的なことでした。一言で言えば、この世の矛盾と言いますか、おかしさ、あえて過激に表現しますと、“狂っている”部分に対する嘆きとここから脱出したい精神と言えましょうか。(グノーシス的にもっと言えば、これは人の認識レベルの低さに原因があり、別の世界があるというより、今の世界において、真の世界への認識がなされていないと取ります。認知の違いよって世界は変わるわけです)
常識的に見て、人がこの世界で幸せになるためには、精神と物質両面からのアプローチと考えがありますが、どちらかといえば、物質的なもの、もっと言えば経済的なものが充足していないと、なかなか精神的なものだけでは幸せを体感できないと思います。
とすれば、経済競争のシステムの中で、どうしても勝ち負けという構造の中で暮らすしかありません。今の経済システムは、商品やサービスを、金融を媒介にして、売り買いするというものなので、そこに競争原理が働くことは絶対の法則みたいになっています。
商品やサービスの売買だけではなく、人が採用されたり、認められたりするのも、勝ち抜く競争です。少ない席を争って獲得するシステムだからです。
そうすると、もともとある才能と、努力して得た知識・技術・情報などで、その椅子取りゲーム、勝ち残りゲームみたいな優劣と言いますか、勝利が決まって来るとも言えます。
ほかに、不確定要素の「運「とか「縁」「タイミング」のようなものも入るかもしれません。
これらは目に見えないものであり、自力で完全にコントロールできるものではないので、こういう不確定なものがあるのも、またある意味、この世の矛盾さや難しさを増していると言えます。
ともあれ、不確定要素は当然としても、目に見える要素や、ある程度、自力コントロールが可能な物質的なことだけでも、それらが他者より優れているようになる(する)ためには、簡単なことではないのが普通です。
そこで、多くの人は、勝つためのモノか能力、情報を入れる自己努力をするか、悪人は、努力ではなく、他者から奪うことをします。
どちらにしても、勝利のためであり、それが自分(と近しい人)を幸せにし、自由にすることになるのだ信じているからです。いや信じているというより、実際のシステム・社会の構造として、そのようになっている現実があります。
ですから、私たちの学びのほとんどは、この価値観やシステムに則ってなされています。
精神やスピリチュアルな学びでさえ、結局のところ、私たちの現実世界でどう生きるか、どう生きやすくするかのテーマから、完全にはずれることはできませんので、求める幸せというものが、つまるところ、成功系の学びと本質的に等しいものになってくることが多いです。
こういうことで悩むこと自体、現実逃避と言われ、どうしようもないことに悩むより、現実を直視し、幸せになるため、成功するため、そこまでいかなくても、少しでも楽になるため、生活を工夫しましょう、仕事で成果を上げましょう、自由な暮らしを手に入れましょう、そのための努力しましょう、とたいていの学びや教えはなっていくわけです。
成長するとはどういうことか? 発展とは何か? スピリチュアル系でも、私たちは進化すればするほど、物質と精神は豊かになり、自由さが増え、楽になり、人生は楽しくなると説きます。
果たして、本当にそうなのか、そして、そのようになることが人の成長だと言えるのか? 根本的な疑問がある人間もいらっしゃるのではないでしょうか。そのうちの一人は私です。(苦笑)
ところで、最近、サンダーボルトファンタジーという人形劇を視聴しました。
その主人公が言った言葉がなかなか興味深く、先述したような悩みにある私にも、一筋の希望を与えてくれた気がします。というより、前々から考えていたことを後押ししてくれた感じです。
それは、こういうセリフでした。
「弱いから負けて死ぬ、強いから勝って生き残る そんな単純な天秤で世の中、回っていると思うのがそもそもの間違いだ。勝ったやつが生きるのは当たり前、だったら負けてなお生き延びたやつは、さらに強いのが道理だろ?」
これはいろいろな解釈が可能だと思いますが、私には、この世の矛盾は矛盾で認めつつ、こういう世界でも何とか自分なりに生き切ったやつは、別の意味で勝利者になると取れました。
つまりは、この世界は勝ち負け、いわゆる「勝利者」が成功であり、それになるのが第一の価値観と目的であるのなら、同じ「勝利者」としても、別の観点からの勝利者もありなのではないかということです。
言ってみれば、勝利者という言葉を逆手に取り、この世界を創ったものからすれば、「ほほう、その手で来たか、それも実はありなのよね」と言わしめるやり方(生き方)の選択というやつです。
そういえば、私は小学生の頃、ドッチボールで比較的最後まで残っている口でした。
と言っても、ボールを受けたり、投げたりするのがうまいわけではなく、むしろボール扱いは下手でしたが、とにかく逃げること、ボールに当たらないことに徹していたため、結果的には最後のほうまで残っていたわけです。
まあ、ドッチボールの場合は、相手コートにいる人物にボールを当てないとチームの勝利にはなりませんから、逃げてばかりでも、勝つことはできないのですが。(笑)
それでも、逃げているうちに、ゲームそのものが時間切れということもあり得ます。休み時間でドッチボールをしていたら、チャイムが鳴って、やむなく終了、残った者が多いグループの勝ちとなることもありますよね。
ドッチボール、ダジャレ的に言いますと、どっちのボール、どっちの勝利(どんな形の勝利)を取るかによって、ゲームの楽しみ方も変わって来ると言えます。
逃げまくりの人生や、一般的な意味での成功や勝利、幸せの状態を必ずしも目指さない生き方に価値を見出すことも可能かもしれません。
常々、「この世界は、あるゲーム」だと、考察すれはするほど、私は思うようになってきておりますが、やはり、この世はゲームだと想定するのが、いろいろな意味で一番納得できる気がします。
あと、私は、ものすごい努力したり、頑張ったりできる人も、一種の才能ではないかと考えています。
さら言えば、実際的な意味で、向上・成長・成功へ向けての活動を、熱心に取り組むことのできる人も才能かもしれません。
もちろん、そうなれないブロック要因を心理的・技術的に分析・修正・改善して、前向きになっていくことは可能でしょう。
しかし、そんなに頑張ることができない、それができれば苦労はないなど、いわゆるメンタルが弱いとか、実行力がないとかで指摘されるようなこと(人)がむしろ普通で、言い訳のように聞こえてしまうこともあるとは言え、多くの人はそうそう努力できるものではないとも、正直思うのです。
みんな、心が強いわけではないでしょう。それなのに、ある種、酷とも言える世界のシステム・状況の中で生きている、本当に皆さんよくやっていると感じます。
とでも自己責任や自己努力だけの問題で、片づけられることではないと思います。
モブや雑魚と呼ばれるようなキャラでも、自分自身であれば、誰しも主人公にほかなりません。
ですから、自分の生き方は自分で決められる部分はなるべく決めて、自分の中で納得していれば、世の中や他人の価値観では負けていたり、失敗していたりしていても、この設定されたゲーム世界を生き切る、ゲーム世界を体験しながら何とか時間切れまで逃れ切る(というゲームの楽しみ方に自分で変えて)、そのように暮らして行くのも、現実という矛盾世界に折り合いをつける方法のひとつかもしれません。
もちろん、ゲームの一般クリアー方法と言いますか、楽しみ方として、この世界を享受して成功や幸せを“勝ち取る”生き方も、ゲームのノーマルな楽しみ方だと思いますので、それを目指すのもよいでしょう。
そう思うと、マルセイユタロットの「恋人」カードの意味も、また面白くなってきます。
そして、私のマルセイユタロットセッション(リーディング)と講座は、この世界での、あなたならではの過ごし方を見つけ、この世界の脱出を真には目指すものと言えます。