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今後の状況 タロット占い

私は占いを否定する者でありません。それどころか、まじめな占い師がたくさんいらっしゃること、そしてその方々がとても占い体系と学問を勉強され、世のため人のために少しでも役に立つように思い、頑張っていらっしゃることも知っています。

要は、占いに対する扱い方・姿勢の問題だと思います。それによって、依存する対象にも、よい指針にもなると言えます。

それから、占いを欲する人の心というものがあります。それは未知なるもの、現時点での情報とか知識ではわからないもの、そういう場合に、人は人智を超えたもの、神とか目に見えない超現実的なものに頼ってでも知りたくなります。

わからないものを知りたいという欲求、または、不安な気持ちを何とか知ることによって収めたい、安心させたいという思いが、人にはあると思えるからです。

ですから、人が占いをしたがったり、占い師にみてもらいたくなったりするのもわかります。

占いを妄信することは危険ですが、エンターテイメント的に、あるいは、ちょっと別種の情報ルートから物事を見てみるという視点では、占いも面白いと言えます。

さて、今、世界の最大の関心事と言えば、コロナウィルスの問題でしょう。

日本でも変異型の感染者が増え、一部地域とはいえ、三度目の緊急事態宣言も出されました。(ちなみに私の住む兵庫県も対象です)

この先、どうなるのか、どうしたらよいのか、不安に思っている人もたくさんいらっしゃるでしょう。

いろいろと情報を見ても、コロナウィルスに対して大げさにし過ぎという人や、今言われているコロナウィルスなど、そもそも存在しないという人、反対に極めて深刻にとらえて、特に変異の多様さ、その対応の困難さから、あと十年くらいは治まらないのではないか、元の生活は永遠に不可能という悲観論の人まで、様々です。

それもただの一般人の意見ではなく、医学関係者からも両極端みたいなものがあるので、私たち凡人には、何がなんだか、どうすればよいのか、混乱するばかりと言えます。加えて日本政府の対応の後手後手、全体的なまずさも多くの人が感じているところで、ますます先行きの不透明さに拍車がかかります。

まあ、コロナ関連ではいろいろとおかしな点はあると思えますが、今切実に思うのは、世界的パンデミックを迎えて、まだまだ猛威をふるっているのに、東京オリンピック開催が、なぜか止められないことです。

後世から見ても、この当時の人はいったい何を考えていたのか?と疑問に思われるでしょう。人としての常識・普通の判断を超えた何かが裏にあると考えられるわけですが、それにしても、それができない(常識的に、こういう状況で巨大祭典が停止できない)世界と日本は…と思うと、グノーシストの私からすると、ますますこの世界は悪魔の創った世界、あるいは悪魔的堕落に満ちた世界だと思わざるを得ません。(苦笑)

話を元に戻しますと、とにかく、この先、どうなるのか不安に思ったり、混乱していたりする人は多いということです。

ですから、心理的にも、占いで、結果はどうあれ、また占いとはいえ、先行き、今後の傾向を知ることで、少しは落ちついたり、心構えができたりするのではないかと思えるわけです。

藪蛇みたいなところも懸念されますが、占いをしてみるのも、心理的安心効果のひとつと言えるかもしれません。

ということで、今後の、特に日本におけるコロナウィルスの状況をタロットで占ってみました。言っておきますが、私はタロットを業としていますが、占い業や、占いの講師をしているわけではありませんので、当たる当たらないで言えば、当たらないかもしれません。(笑)

ところで実は、タロット講義においても、生徒さんに占いを息抜き的にやってもらうこともあります。先日、ある生徒さんにコロナをテーマにカードを引いてもらったことがあります。

驚いたことに、あとで、自分でやった展開(カードの出方)とほとんど同じだったのです。こういうところがタロットの不思議で、面白いところなのですが、違う人がタロットを引いても、テーマが同じであれば、結果的にも同じものが出る、同じことを表すということは普通にあるのです。

それによりますと、意外に安心できる(すごい感染拡大とか、悲惨なことにはならない)ということです。新たな治療法とまで言わないですが、治療や対策に関わる、よい情報がもたらされそうです。フェーズの変化という言葉がありますが、今は悪い意味でフェーズが変わり、緊急事態宣言を出す事態になってきたわけです。

しかし、これからはよい意味でのフェーズの変化が予想され、画期的、あるいは、これまでとは違った方法が生み出されり、常態化・一般認識されりすることで、比較的安心できる状況に移行して行きそうに見えます。それがワクチンによるものなのか、治療薬でのものなのか、それらを含める総合的なものなのか、それはわかりませんが。。。

個人的には、どちらかというと慎重派で、変異株(インドなど新たなものも来ていますし)のこともあり、去年よりも深刻で、この先の戦いも厳しいところがあるのではないかと思っていましたが、タロットによると、想像よりはましなようです。まあ、占いなので、はずれもありますが。(苦笑)

もちろん、現実的には、だからと言って、手放しで喜べる状況ではありませんが、恐怖や不安にかられている人、萎縮して悲観的になってしまっている人に、タロット占いからではありますが、少しでも気持ちが軽く、生きる希望、意欲をもっていただくようになれば、幸いだと思って、やってみた次第です。

これは私見ですが、コロナウィルスは人類の変容、これまで眠っていた人の能力を呼び起こすきっかけになるのではないかと思いますし、またそうありたいと願います。

マルセイユタロットで言えば、今後、鍵となるのは「審判」のカードでしょう。


4組、「剣」を例にして。

タロットにおける概念と言いますか、思想体系のひとつに、四大元素(風・水・火・地(土))というものがあります。

簡単に言えば、この世界は四つ要素から成り立っているというものです。

タロットでは、主として、小アルカナと呼ばれるグループにこの概念が明確で、いわゆる4組のモノの形(括り)で表現されています。

マルセイユタロットで、私たちの言い方では、「剣」「杯」「杖」「玉」、一般的には英語で、ソード、カップ、ワンド、コインなどと呼ばれているものです。

このうち、「剣」・ソードは、一般的なタロットの見方では、厳しい意味やネガティブな意味にさせられていることが多く、それはやはり、「剣」という“武器”からイメージされるからだと考えられます。

「杖」も、ワンドというより、実は棍棒と言ったほうがよく、これも武器になり得るのですが、タロットの種類によっては、武器になるような棒のようには見えず、バトン(魔法道具となるとワンドになります)のように描かれているものもあるので、「剣」ほどの武器性はないと言えます。

ということで、4組の中でも、武器としてのイメージが強く、これを持って相手を倒す(ひどい言い方をすれば傷つける、殺す)ことがイメージされることもありますので、「剣」は何か厳しく、怖い意味にもなっているようです。

ですが、私たちの考えるマルセイユタロットにおいては、大アルカナもそうですが、小アルカナや、その小アルカナを貫く概念である「四大元素・4組」においても、吉凶とか、いい・悪いは見ないので、「剣」であっても基本は中立と考えます。

もちろん、切る道具のイメージから出るような厳しい意味合いも見ることもあるのですが、基本、中立であり、状況や設定によって、ポジにもネガにも取ることができると考えるのです。

これには、実際のタロットの絵柄の影響も大きいてす。

例えば、ウェイト版のタロットでは、小アルカナ「剣」のグループは、絵としても厳しく、怖いイメージがありますが、マルセイユタロットのそれは、特に数カード(数札)では、そもそも絵というより、記号図みたいなものに見えるので、絵柄から特別な印象を与えづらくなっています。

絵柄が抽象的なので、イメージから意味を見出しにくいという欠点はありますが、逆に言うと、上記のように、何か偏った印象を持つことが少ないので、カードの(意味の)中立性が保てるという長所もあるわけです。

ですから、マルセイユタロットでは、「剣」をことさら、厳しく、怖いイメージ、ネガティブな意味合いで取ることは少ないと言えます。

とはいえ、大アルカナに目を転じると、「剣」を持っている(描かれている)カードで目立つのは、「正義」と「13」があり、そのふたつは、ちょっと見た目のインパクトも強く、なかなか穏やかで優しいというイメージは取りづらいかと思います。

小アルカナと大アルカナの違いは、一応、基本法則みたいな考えでは、大アルカナが大きなことを表し、小アルカナが具体的なことを示すとされています。

ですが、その逆もあり得ることは、マルセイユタロットにおいては可能です。

四大元素という思想体系がどのようなものであるのかを理解するには、実は、小アルカナから入り、それを大アルカナで見ていくという方向性が意外によいこともあるのです。

今日は、言ってみればタロットにおける4組の「剣」をテーマにしているわけですが、このことも、この小アルカナから大アルカナへの検討で、理解が進むのではないかと目されます。

つまりは、小アルカナで4組、四大元素を公平に見て、それが実際の私たちの世界で表現されるとどのような意味合いを持つのか、形を取っていくのか、あるいはどのように働いているのか、ということなどを、大アルカナによって理解するという方法です。

例えば、同じ「剣」であっても、先述の「正義」とか「13」では、その剣のニュアンスも変わってくることが絵でわかるわけで、まさに現実における「剣」の使い方、使われ方が見て取れるのです。

そして、小と大と併せて考察していくことで、最終的には、四大元素にそれぞれの区別がなくなっていき、第五元素という大元に還っていくよう、マルセイユタロットでは仕組まれ、構成されていると考えられます。

おかしな言い方になるのですが、実は、4組とか四大元素というものは、四つの要素とか元素が実在するのではなく、そのような見え方とか表現を取っているように私たち自身が決めている、一緒の世界観投影のようなものだと気づいてきます。

今の化学的な元素の見方とは、かなり違うものなのです。しかし、本質的には今の化学の元素も、古代の四大元素も、同じものを違う表現でしているに過ぎないとも言えます。

そう思うと、マルセイユタロットは、ある意味、(違う次元の)化学的な構図をもっているのだと考えることもでき、改めてそのすごさが実感できます。


タロットから意味を見出すルート

タロットの意味を見出す(読む、意味をカードから抽出する作業)ことでは、主として、ふたつの方法があります。

ひとつは、カードの象徴的な意味合いから、そしてもうひとつはカードの絵柄のイメージからです。

前者と後者では、まったく別の意味が出ることもあります。

厳密に言うと、どちらを通ってカードから意味を見出したかについては区別しておく必要はあるのですが、こと、タロットからとにかく何か意味を思い浮かべるという点では、どちらでも構わないところがあります。

例えば、「月」のカードから、「カニを食べに行く旅行」(笑)というような事柄が出たとしても、それによって、旅の目的に悩んでいた者が、旅のヒントを何かつかめたのなら、アリなわけです。(ちなみに、マルセイユタロットの「月」のカードには、ザリガニのような甲殻類が描かれています)

しかし、それでは何でもいいじゃないですか、こじつけでもOKでしょ?と思われるかもしれません。

はい、イメージから読む場合は、こじつけでも、何でもアリです。つまり、タロットの絵柄のイメージが、アイデアのヒントであったり、自分の言語化できないものを形にしたりするきっかけ・呼び水になっているわけです。

ただし、それだとタロットである必要性はないとも言えます。その通り、イメージから読むだけの場合は、必ずしもタロットでなくてもよく、それこそ絵画とかポスターとか、ランダムに見た風景、イラスト、動画でもよいのです。何らかの答えとか、解決策のヒントになれば何でもOKというわけです。

だったら、わざわざタロットの意味を勉強しなくてもいいんじゃないですか?と言われるでしょうが、それもその通りです。(笑)

単にイメージから言葉を出すだけなら、タロットの学びはいりません。

では、なぜタロットの、特に絵柄の象徴の学びをするのかということですが、ここにタロットなりの論理があるからです。象徴を通して得る知識・智慧のシステムとでも言いましょうか。そこから把握する意味は、単純なイメージから浮かべるものとはレベルとか、意味合い(カードから出る意味のことではなく、そういう作業を行うことの意味ということ)そのものが違います。

結果的に、タロットによって、問題の解決や何かの指針が出たのなら、それはタロットからのイメージからの意味でも、タロットの象徴からでも、本人の救いになれば何でもよいと言えます。

ですが、タロットの象徴、システムを通して、霊的な向上、統合的な人間完成を目指す、宇宙の真理を探究するという点においては、イメージからのこじつけのような意味だけを見ていては、進歩はないと言えます。(心理的には、イメージから意味を思い浮かべるのには、なかなかの意味があります)

タロットは学べなくても使えますが、一方で、学ばないとわからない、活用できないレベルが確かにあるのです。


世界や人生に意味はあるのか?

このテーマは、何回か取り上げたことがあるものです。

世間でも、「(明確に)意味はある」という考えと、「意味はない」というものに二分され、様々な意見があるようです。

私自身は、マルセイユタロットを見ていると、どちらもありで、どちらでも言えるという立場を取っています。

マルセイユタロットの大アルカナで例えると、ある意味、「愚者」と「ほかのカードたち」という形になるでしょうか。

「愚者」を人物として見ると、彼自身、「世界や人生に意味はなんてないさ」というように答えるでしょう。(笑)

そしてまた、もしかすると彼は、「そうだね、もし意味があるとすれば、僕の行先そのものかな」と続けて言うかもしれません。

これは、「愚者」の旅に意味があるというより、その旅先・訪問先自体に何かの意味がつけられるという風に考えてみてください。つまり、訪問することに意味があるのではなく、その場所での経験に意味づけすることができるというものです。

訪れた場所で楽しい経験をしたのなら、そこは楽しむという意味、嫌なことや苦いことを体験したのなら、そこは苦痛の意味、何か学んだと思ったのなら、学びという意味があったという具合です。

結局、大きな次元・レベルで見れば、世界や人生に意味などないと言えそうですが、一人一人、個人個人にとっては、何かの意味をつけたり、見出したりすることはできるのです。その自由が許されているのが私たち人間と言えましょう。

ですから、自分の思いというものが世界や人生を意味づけるということになるわけてすが、面白いことに、私たちは自分一人で現実世界を生きているわけではありません。

また、考え方や環境も同じではなく、極端に言えばバラバラな世界です。

よって、他人から、あるいは様々な環境・状況から、私たちは影響を受けることになります。なかなか孤独に一人だけで生きることは難しいですから。

ということで、ほかから影響を受ける度に、自分の思いや考えも変わり、そのため、世界と人生に意味づけする内容も変容する可能性が高いです。

結局のところ、自分で意味づけしようとしても、周りの影響は多少なりとも受けるので、世界や人生の意味を自分一人では決められないということになります。

であるならば、やはり、世界と人生は、私たち全員によって意味づけられていると見ることができます。このことの意味は、まるでタロットカードが、一組全体によって成り立っているというのに似ています。

世界や人生には、究極的には意味はないですし、意味をみなくてもよいレベルがあると言えますが、現実的には意味を見出さないと生きづらくなるのも確かです。その意味自体も、自分と他者によって成り立っていることを思えば、いがみ合い、争うより、協力し、調和を意図したほうがよいと言えるのではないでしょうか。

さらに、たったひとつのこと、たった一人のこと、ほんのささいなことに救われる意味を見てもいいでしょうし、使命を持ったり、社会を改革するような大きな志を抱いたり、活動したりすることに意味を見出すのもまたありでしょう。

自分が演じている劇に実は意味はないのかもしれませんが、演じているうちに劇のテーマが決まってくるかもしれませんし、自分がこうだと決めてもよいわけです。

言わば、私たちは、マルセイユタロットの「愚者」そのものと言えるのです。


繰り返しの物語

ふと、あるアニメ作品を再び(というか、その作品についてはもう何度も視聴しているのですが)見てしまいました。

それは「涼宮ハルヒの憂鬱」というライトノベルからアニメ化された作品です。もうだいぶん前の作品ですが、いまだインパクトをもって語られるアニメ界隈では有名な作品です。

個人的にはいろいろと気づきを得た作品でもあり、純粋にアニメ作品としても好きな作品です。

舞台のモデルになった地域も兵庫県西宮市で、兵庫県に住む私にはなじみであり、しかも広島時代に通っていた高校に何か雰囲気が近いので、ノスタルジックでもあります。

あの京都アニメーションが製作した作品ですので、凝った作画や演出もあります。

この作品には、いろいろと興味深いところや話題になったことがたくさんあるのですが、何より、一番の衝撃は、同じ話を8回にもわたって繰り返し放映した(と言っても作画とかセリフ、進行は微妙に毎回違うのですが、つまり毎回違うもはの作られていたわけです)「エンドレスエイト」と名付けられたそのストーリーで、当時リアルタイムで視聴していた者にとっては、いつ終わるかわからない、まさに地獄のループにはまったかのような感覚を味わったと言います。

私は幸い、再放送で見たことと、エンドレスエイトの回数も知っていたので、リアルタイムで見ていた人ほどの苦痛はなかったのですが、それでも、さすがに5~6回目になりますと、かなり苦しかったのは確かです。

この話はようやく、8回目の話で終わりを迎えることになり、その解放感たるや、すごいものがありました。今回の再視聴では、さすがに全部は見ることはせず(苦笑)、最初と途中、最後を見ましたが、それでも味わう解放感は、相当なものがありました。(笑)

すでに(アニメ界では)超有名な話ですから、少しのネタバレになりますが、何をループしていたのかと言いますと、主人公(語りのほうの主人公)たち高校生が、夏休みのある期間を何度もリセットして繰り返すことになっていたというものです。

話の中で衝撃的なのは、そのループ回数です。もちろん話ごとにループ回数は変わる(何度もループしているという設定なので)のですが、二回目の話の時点で、すでに一万五千回を超えていたのです。もう二万回にも迫ろうかという、ものすごいループ回数です。

そんなにループを繰り返していたら、もしすべてを記憶していた場合、楽しい夏休みどころか、地獄でしかありません。ちょっと意味的には異なりますが、絶えることのない間の苦しみが続くという意味では、無間地獄そのものと言えましょう。

ところで、輪廻転生説というのがあります。簡単に言えば、繰り返し生まれ直すという説ですが、もしこの輪廻の繰り返しをネガティブ的な苦痛なものととらえると、このアニメ作品の「エンドレスエイト」みたいなことになるのではないかと感じました。

アニメの視聴者は、たった8回の繰り返しを見ていたに過ぎませんが、それでも強烈な苦しみでした。

同じことが続く、変化がないということは、一見平和で穏やかなようですが、これほど苦痛でもあるのです。ましてや作品内の者たちは、万を超す繰り返しにはまっているのですから、記憶がないから助かっているものの、全部ループ内容を覚えていたら、とんでもない地獄となります。(余談ですが、登場人物の中で、ループをすべて記憶している者がいて、その者があとで事件を起こすことになるのですが、そりゃ仕方ないよね、と理解できるものです(笑))

マルセイユタロットに内包される思想にグノーシスというものがありますが、原理的なグノーシス思想では、この現実世界は悪魔(デミウルゴス)が創った世界で、真の(神の)世界は別にあるとされ、私たちはそこに戻る必要性があると説きます。

「エンドレスエイト」ではありませんが、グノーシス的に言えば、私たちは、悪魔デミウルゴスの世界にいることで、ずっと地獄のような輪廻転生・ループ世界を彷徨っている(閉じ込められている)ことになるのかもしれません。

さて、ループと言うと、哲学的に思いつくのは、ニーチェの「永劫回帰」です。ニーチェの永劫回帰は一般的にわかりづらく、私もきちんと理解しているわけではありませんが、哲学でループ説を提示したのは面白いところだと思います。

しかしニーチェの永劫回帰は、輪廻転生とは真逆とも言えるものです。

私たちは同じことをただ繰り返しているだけで、それに意味はないというものだからです。まあいくら選択肢がたくさんあっても、何度も繰り返せば、まったく同じパターンで同じシチュエーション、同じ選択というものを、いつかはすることになり、その意味では、何をやっても変化はない(同じことは繰り返される)と言えるわけです。

そうすると、まるで生きていることに意味はないというようなことにも行き着き、それゆえニーチェにはニヒリズム・虚無主義という思想も言われるのですが、私は、ニーチェの超人思想からしても、実はそれは、虚無から有と言いますか、真の実存に迫る考えにもなるかと思っています。

マルセイユタロット的には、「運命の輪」と「悪魔」との二枚で象徴されると思うのですが、何度も同じパターンを繰り返していると、完全飽和みたいな状態に達し、そこからループの終わりのようなものが見えてくる可能性があると思えるわけです。しかし、なまじの気づきでは、「悪魔」の世界の遊びのまま(支配のまま)です。

結局、グノーシス思想的なことになりますが、私たちが「生きる」という形のループを取ることで、完全性を目指しているとも言え、それはただ一人のループだけに留まらず、人類全体・宇宙全体ですらループしており、その経験値が飽和を迎えると、「悪魔」からの縛りは解除されるという例えになります。

先述のアニメ、涼宮ハルヒの「エンドレスエイト」においても、登場人物たちは作中で、ループに気づくシーンが何度もありました。同時に、最終的にループを脱出したきっかけも、何万回と繰り返してきた過去(時間的に過去というのはおかしいかもですが)の自分たちによる後押し(デジャヴュ)があったからと語られます。

過去に消された、リセットされた一人一人のループ人生に「意味がある」とする(意味を与える)ことで、その力は蓄積され、ある種の目的力を持ち、解放に向かうのだということです。

虚無から有意義に、しかしそれは結果だけを大事にしたり、プロセスが重要と過程・経験を過剰に持ちあげたりすることではなく、一度、「人生には意味がない」というくらい虚無的な感覚を持つことで、だからこそ、長大な俯瞰した視点と、その時その時の他人やほかから植え付けられる価値観とか影響からも解放され、真の(神の)とも言える自分自身に戻り霊的な実存性を獲得できるのではないかと考えます。

ニーチェの超人思想とはまた別かもしれませんが、ちょっと似ているところもあるのではないかと感じます。

生きる意味はあるようでない、ないようである、禅問答みたいな話ですが、その両方に気づかせてくれるのが、実はマルセイユタロットの「悪魔」でもあるのです。


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