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インドの話から。
昨日、関西で続いているカモワンタロットの勉強会に出席していました。
そこの常連の出席者から聞いた興味深い話をご紹介します。
その方はインドがお好きで、ヨガの勉強やその他のことでも何度もインドをご訪問されていらっしゃる方なのですが、やはりインドと日本ではいろいろな意味で、かなり異なるところがあるようです。
そんな中でも、貧富の差と申しますか、特に貧しい人たちの生きるパワー、術(すべ)というのは、それはすさまじいものがあるようです。
このあたりは私はまだ未見なのですが、少し前に話題になった映画、「スラムドッグ$ミリオネア」でも描かれているようです。
さて、そんな状況のインドで、その方はヨガの研修に訪れた時、研修施設に入るためにサンダルを脱いで置いていたら、たちまちのうちに盗まれ、気がつくと、別の場所で「売り物」として売られていたということです。
それも盗っているの貧しいは子ども達だそうです。たくさん履き物が集まる場所を知っていて、商売にして生きているのですね。
しかし、今回言いたいことはそんなことではありません。
この話には続きがあります。
その方が盗まれたサンダルは、100円ショップで買った安いものなのですが、それでも複数用意していたサンダルを何回も盗まれたそうです。
しかし、不思議なことに、一足一万円近くするような高級サンダルを置いていた人のものは、盗まれなかったそうです。
「高そうだからかえって避けられたのではないか・・・」と思うかもしれませんが、ほかの人のものでも値段の高低に関係なく、いつも盗まれる人と、ほとんど盗られることのない人、さらにはなんと一回も盗まれなかった人もいたそうです。
どうしてこんな差があるのでしょうか?
その人がインド人に尋ねたところ、「そいうカルマなので、あなたが盗まれることはよいことなのだ」と教えられたそうです。
つまり、ある人はそこで盗まれなくてはならないカルマ(の精算・因縁)があり、また盗られない人はそこには盗られるカルマや因縁がないということなのです。
また最初、その人は盗られてはいけないと思ってサンダルを持って上がろうとしたところ、逆に「人の責任を背負ってはならない」注意されたそうです。
盗られることがお互いのためにもなっており、よかれと思うことでも視点を変えればよくないと見えることもあるのだということでもあります。
この時からその方は、「すべてをあるがままに任す」という姿勢と態度を心がけ、「インドに本当の意味でなじむことができた」と語られていました。
これは極端な話とはいえ、何か「自然であること」や「ゆだねること」、「与えること」などの意味を再考させられる気がします。
このことはタロットで表すと、「運命の輪」と「星」のイメージが浮かんできます。
まさに「運命にゆだねる」ということは、かなり視点や視野の違いでもあり、現実的・常識的に私たちは人のため、自分のためと思っていることでも、実はそれが大きなお世話であったり、ピントはずれであったりすることもあるのかもしれません。
自分の行為の影響というものはどんな形でか、またどんな時(時代)に及ぶのかなど、長期的・霊的にはとてもわかりにくいことです。
こういうことを思うと、あまりいろいろなことを考えすぎて、右往左往することは空しいことだといえるでしょう。
ですから私たちは今、この時この時を大切に、もっと気を大きく楽にして生きればよいのだと思います。
タロットにおける「占い」は「現実」的である。
私の場合、どちらかといえば、タロットカードは占いで使うというより、自分自身や物事を知覚して整理し、自らをさらに向上していくために使えることを伝えています。
けれども、タロットはあらゆることに応用が可能なツールですので、当然、一般的に日本で使われている「占い」としての道具としても非常に有効です。
それで、この占いに使うタロットの解釈と、先述した自分自身や物事を把握するために使うのとでは、実際には異なることも生じます。
いえ、タロットをどんなことに使うとしても、大きな総合的な意味では同じことを示すともいえるのですが、具体的・現実的になってきますと、多少の差異が出てくるのです。
たとえていえば、「人間」を「人」としてのくくりでみると、男性も女性も、年老いた人も若い人も皆一緒ですが、細かく見ていけば、国籍・地域・仕事・性格と様々な「人」に分かれていくようなものです。
ですから、あるフィールド(階層)で横に見た時は共通であっても、縦にレベルや次元を変えた時は同じものでも違うように見えることもあるというわけです。
それで、タロットを「占い」というフィールドに置いた場合、やはりそこには吉凶という判断が出てきます。
経験的にやっていくとわかりますが、ある特定のカードには正立であってもやはりあまりよくないことを示す、あるいは時には凶的な傾向を持つカードが存在します。(反対に、「吉」的傾向のものもあります)
しかしながら、たとえば凶的なものとして、それはよくいわれるような「死神」とか「塔」というカードには限りません。
そのタロット占い師、そしてその人の使うスプレッド(展開法)によって特定の意味を持つと考えられるものです。
これは現代的な理屈では説明しづらいものですが、私の感覚では、あるカードがある種のエネルギーと反応するような癖をもっているのではないかというものです。
それは自分の中にあるネガティブ(ポジティブ)なものと結びつく場合もありますし、タロットを習った時に「そのカードのこの状態は凶事(吉事)を示す」と教えられて、実際に何度か占ってその通りに出たことで、エネルギー的に反応がセッティングされたとも考えられるかもしれません。
あるいは、やはり長年多くの人に同じ種類のカードが占いで使われることにより、目に見えないデータレコードのように蓄積されて、そこに共鳴しやすくなっているとも想像できます。
「占い」という実際の場面では、このように吉凶判断的な意味を持つカードは確かに存在するといえますが、しかしながら、それもフィールドを抽象的に上げていく(象徴的に大きな視点に上げていく)と、結局は凶的なことも、吉的なことも、一緒に一枚のカードには含まれていることがわかってきます。
またなぜ、そのカードに吉を感じ、別のカードに凶を見るのかも根源的に理解できるようにもなるのです。
従って、実は占いというのは、タロットにおける現実(具体)なのです。
言い換えれば、高いものの象徴(イデア・精神の世界)を、下のわれわれの実際の世界(現実世界)に置き換えて見ていることになります。
最初にも言いましたように、タロットの世界は広く、いろいろなものに活用していくことが可能なものです。
ですから、占いだけではない使い方も意識すると、横だけではなく、縦の移動(次元・階層の移動)もできることになり、カードの意味もその分深めていくことができます。
それは取りも直さず、自身や世界・宇宙の理解につながっていくことになるのです。
あなたは満足していますか?
世の中が不況になってきますと、少しでも節約、節制という意識が出ます。
それはある面、仕方のないことでしょう。
収入が限られている、一定のものしかないという状態では、お金を有効に使うため節約していく(出る方をコントールしていく)のは当然の考え方です。
これはまさに、その名前の通り、「節制」のタロットカードに示されていることです。
このカードには、天使が二つの壺を持ち、交互に入れ替えている様が描かれています。
つまりひとつの限られた「水」を、二つの壺による「入れ替え」「工夫」によって有効利用しているわけです。
100万円あれば一切を無駄にすることなく、ここぞという集中性をもって、とても効率的に巧みに使い分けているようなものですね。
ここまで書くと、「節制」のカードの読み方も、ある程度わかってくるのではないかと思います。もちろん「節制」の解釈はこれだけではありませんが。
一方、カードの数の上では、「節制」の次の「15」に当たる「悪魔」というカードがあります。
確かに節約は大切です。しかしすべてに節約意識が働きすぎますと、気持ちまでが窮々としたものになって、ますますお金も心も窮する(不満足する)ことになります。
と言っても「ないものをどうしろというのだ」とお怒りにならる方もいらっしゃるかもしれません。
ないものは増やせばいい(入れる方を広げ、コントロールする)のですが、これはタロットでいうと、「節制」意識から「星」になるということでもあります。
ただ、今日はその話(増やすこと)ではありません。
現実問題、サラリーマンやアルバイトをしていると、なかなか収入を直接的に増やす道というのは難しいものです。(難しくないといわれる方もたくさんいて、そういった方は意識がタロットでいうと「星」になっています)
しかしながら、物質的には増えないかもしれませんが、精神的にはある程度は満足度、心の潤いの増減が可能です。
そのために重要なのが、タロットカードの「悪魔」なのです。「悪魔」にはいろいろな意味がありますが、ひとつには人の「満足感」に関わるものがあります。
そしてそれは自分の「満足感」を意味することもあります。
「節制」が行きすぎて、すべてが狭まり、余裕がないように感じられて苦しい時は、「悪魔」のように自分の満足(する心)に気持ちを向けてみるとよいでしょう。
具体的にはこういうことです。
食べたいものがあるのをいつも「節約」のために我慢している。
それを完全な満足とは行かないまでも、ほんの数十円上げるだけでも、自分が食べたいももの(満足)に近づくのならば、たまにはそちらを選択してみるということです。
回数や機会を決めて、今回のみ少しだけ贅沢というか、自分の望むものをしてみるという選択もありです。
我慢に我慢を重ねていくと、いつか潜在的に押し込められた不満が反動となって爆発することがあります。(大量消費や感情の乱れ、病気、人や物など何かへの極端な依存など)
一度でも心からの満足を選択することで気持ちが安定し、欠乏の中にもある種の余裕を実感し、ベクトルが豊かさの循環に変化していくこともあります。
そう、少ない中でも、自分の満足感を得ることと余裕が大切なのです。
「悪魔」のカードは悪魔自身も、またつながれている人も皆楽しそうです。
つながれているという実態(たとえば完全な環境ではない状態)はあるものの、その中で満足感は得ているのです。ちなみにながれてるい綱はとても緩く、このことから「余裕」を感じさせるものです。
「節制」と「悪魔」は天使と悪魔という意味でとらえられることもありますが、節約過剰と満足感という観点からは、「悪魔」のほうが大切になることもあるのです。
全体的な不満足感より、ひとつでも、ワンポイントでも満足を得られたほうが、気分的に楽なることはあります。
タロットカードの展開の中で「悪魔」がよく出る人は、自分が本当に満足しているか、自分に問うてみるのものもよいでしょう。
名前を変えて流れを変える。
タロットカードの大アルカナは22枚あり、このブログでもこの22枚が、大きな意味では人類の奥底の意識に存在する、ある特定のパターン(元型)を表し、個人としては自分の分身(パーソナル・心の象)を示すと言ってきたところです。
ということは、22枚(が象徴すること)は自分の内にあるということですし、もっといえばすべては自分自身だということでもあります。
それにしても22の自分がいるとは、想像してみるだけで面白いものです。
そうすると、時には「手品師」の自分もいれば「節制」の自分もいるわけで、もちろん「悪魔」もいます。(笑)
ところで、誰しも変身願望というものはあると思います。
私も中学生の頃、「どこかに転校して、まったく自分の知らない人たちと新しい生活を一から始めて見たい、そうすれば生まれ変われるかも」と思ったものです。
で、実際に転校することになって、夢とは違ってえらいことになったのですが・・・(苦笑)
ま、それは置いておきまして、「今の自分とは違う自分に」「現在の自分を知っている人たちの自分とは別の人間になってみたい」と考えた時に、よい方法があります。
それは名前を変えることです。
いえ、現実的には名前を普通は変えることはできません。両親からいただいた尊い名前でもありますし、そうそう変えるものでもないとは思います。
ただ、「どうも今の自分はぱっとしない」「運が悪いように思える」「別の人生を演出してみたい」・・・など感じていたら、芸名みたいな別名を持ってもいいでしょう。
占いでも姓名判断で改名することもよく行われていることですし、昔の人は節目節目で改名していたものです。
ここで最初のタロットの話に戻ります。
少なくとも、22の自分の分身が存在するのですから、タロットをもとにしても、あるいはそうではなくても、自分のなりたい自分にふさわしい名前を別名で名付けることも可能でしょう。
それを名刺にしてみるのもよいですし、ブログ名につけてその名前で活動することも面白いです。
普段お堅い職業についている人、まじめな人が、意外なイメージをもって名前をつけ、裏の(これが本当かもしれませんが)自分として活躍することもできます。(そのまた逆もありです)
とにかく、今の自分からガラリと変えてみたいと思っている場合、手っ取り早いのは「名前」「ニックネーム」を自分の希望する雰囲気のものに変えることです。
そして大切なのは、それでなにがしか実際の活動を行うことです。
この世は意識と実際(形)があっての世界ですから、意識を変えると次は行動が必要になってくるのです。それで現実は変わります。
この意識を変えるための効果的な作用が、「改名「命名」なのですね。
もちろん名前の響きや波動によっても変化はあるので、その両方の働きかけが期待できます。
ちなみに私は・・・裏も表も同じの正義的なイメージで、リーディングも占いも講義もすべて本名です。ただ釣りをする時や趣味・遊びの時は別名があります。(笑)
自分を頼るか、誰かに頼るか。「13」と「節制」の関係。
タロットカードの「13」と「節制」は数の順番でも、タロットマンダラ(カモワン流のタロット絵図)でも隣同士になるカードです。
カモワン流ではペアやカップルのカードとしてとらえるほど、両者には密接な関連があります。
今日はその関連から、ひとつのお話をします。
さて「節制」のカードには、二つの壺を持った天使が壺の水を交互に移し替えている様子が描かれています。
その壺の水は、超越的な薬のようなもので、その薬を調合することによって人を救済することができるので、いわば「節制」は「救済の天使」と呼んでもよいカードです。
ですから、このカードの大きな意味として、「救済」「援助」「助け」「癒し」などの言葉が出て来るのです。
ところで、人は強気で支配的な場合と、弱気で依存的な時があります。
前者はもちろんうまく行っている時、調子がよい時などに表れ、反対に後者は悪いことが重なった場合や病気やトラブルに見舞われた時になりがちです。
しかしそういった自分の好不調とは関係なく、普段から強気過ぎの人、弱気になり過ぎてしまう人がいます。
こうなると頑固さや、頼りたい気持ちが先に出てバランスが崩れ、やろうとしていることが空回りしたり、いつまで経っても状況が好転しないままであったりということになります。
つまり、「節制」の「救済」の意味でいえば、「助けなどいるものか!」という思いと、「いつも私を助けてほしい・・・」というふたつのアンバランスな心が生じているようなものです。
この状態を回避するには、数で言うと隣のカード、そう、「13」(「名前のない13」)を見ることにあるのです。
「助けなどなくても自分ですべてやれる」と思っている人は、「13」のカードを逆にして眺めてみるとよいでしょう。そうすると、大きな鎌を持って、逆さまで必死に振り回している姿が見えてくると思います。
ここに「節制」を右隣に並べると、まるで「救済の天使」である「節制」から背を向けて、過激に、あるいは攻撃的にやけになっているかのように感じられます。
しかしながら、結局、鎌は空を切り、おそらく何の手応え(つまり実績、成果)もなく終わることでしょう。
そしてだから余計に鎌を力ずくでふるおうとして、最後には自分自身に鎌をふるってしまう(疲れて鎌をコントロールできず、自分の体に当たってしまう)ことになるのです。
一方、「とにかく助けてほしい」「いつも私を助けて、お願い!」というような極端に依存的であるのは、「13」そのものを無視している状態だといえましょう。
鎌をふるう(耕す、刈り取る)ような大変なこと、嫌なこと、怖いことは見ない・しない、「13」なんて私には無縁、厳しいことはないことにしている自己世界です。
このようなことにならずにバランスを取るためには、まず「13」のエネルギー状態があること(必要なこと)を意識し、「13」を自分の中に存在させることです。
その上で、それが過剰にならないよう、カードでいえば「正立」させて、「節制」ときちんと向き合わせます。
「13」と「節制」のカードが正立同士で向き合う時、バランスは回復するのです。
そうすると頑固で独りよがりだった自分が素直に「人の助け」を得ることを認め、誰かに頼りたい一心だった思いは、自分自身が強く改革を起こす決意と行動を取ることで、本当の意味での「救済(者)」に会うことを知るのです。
誰かが何とかしてくれる、あるいは自分ですべてやるしかないという偏った考えと行動は、「13」と「節制」においてはとてもアンバランスなことになっています。
この世の中は一人で生きているわけではありません。しかし、すべてを人に頼って生きていくのは、惨めで自分の人生を捨てたようなものです。
私がやるのだ、私自身が自分の人生の責任を持つのだと思い、なおかつ、自分にできないこと、人と交流して協力してやれることは素直に他者に依頼していくとよいのです。(自分が「節制」になることもできます)
独りよがりと依存過多は結局、人や世界を認めようとしない狭量で傲慢ということなのです。
