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タロット学習の基本。タロットは画像であり、映像である。
昨日は四国高松でのタロット講座でした。
合間に受講生の皆さんから誕生日のお祝いをしていただいて、とても驚きましたし、うれしかったですね。いやー、あんな風に外で祝ってもらうのは幼稚園以来かもしれません。(笑)
自分の誕生日を祝ってもらうことは、自分が生まれた喜び、大げさにいえば生きる価値みたいなものを思い出す行事といえるでしょう。四国の皆さんありがとうございました。
さて話は変わって、タロットといえばカードであり、中身は絵(画像)でできていますよね。タロットカードの種類によっては絵のない白紙のカードもありますが、それも結局は自分で絵を描いていくものです。
タロットは画像だということ。まずこの当たり前のことを覚えておいてください。
次にタロットリーディングを行うとした場合も、やはり「絵」「画像」は大切となってきます。いや、画像といより映像やイメージです。
何のイメージかいいますと、リーディングの仕草・作法からはじまり、実際にどのようにタロットを解読し、クライアントの相談に乗っていくのかというリーディング全体の一連の流れのことです。
要するに、文章や言葉だけのものではタロット(リーディング)はなかなか理解できないということを言っています。
つまり、タロットを学習するには、どうしても自分の目で見て生で体験する必要があるのです。
それもできればたくさんの事例を見ることです。
もちろん、文章と画像で構成された事例本・解説本のようなものがあれば、それでも十分に勉強は可能でしょう。
しかしながら、そこにはライブの動きがありません。ライブの動きとは、たとえばリーダーとクライアントの間に交わされる会話、タロットを一枚一枚引いて、それを両者が見て感じる心の動き、反応・・・などです。
最初から書かれた文章・画像にはアクシデントのようなものがありません。読んでいる途中に文章や絵が変わっていくなんてことはないからです。
けれどもライブのものにはそれらに満ちています、練習とはいえ相手は生きているからです。
これが実践での臨機応変さにつながり、実際見たイメージは体験(身体感覚も記憶を補強します)とともに色濃く記憶され、タロットリーディングの全体像をつかむことに貢献します。
以前、通信教育でタロットを習われた方が、はじめて複数の人たちと練習をされた時、作法や感覚に大きなとまどいを感じたり、手順を誤解して覚えていた事がわかったりしたことがありました。これなどもライブや映像としての一連の動きを経験していなかったら生じたことです。
今後私も、特にマンツーマンの受講生の皆さんや、タロット実践練習の機会が少ない受講生の方々に向けて練習会を行って行きたいと考えています。
先生だけのものではなく、同じ学習者同士での立場で他人のリーディングを見ることは、励ましと共有感覚ともあいまって、様々な違った観点も味わうことになり、とても勉強になることなのです。
関西(に来ることが可能)の方で、カモワン流のタロットリーディングの練習を希望される方は、一度当方までご連絡ください。
※京都新聞文化センターの受講生の方は是非次の講座を受講されて、実践練習経験を積んでください。リーディングのイメージがつかめます。
調和・救済への必要な作業
タロットを使うことでも使わないことでも、セラピーやカウンセリング、セッション、占いなどで人の役に立ちたい、対人援助を仕事にしたいと思っていらっしゃる方は少なくないてじょう。
しかしその前にはまずはやっておかねばならないことがいくつかあります。
その中でも非常に重要なのが、自分を知る作業を行うということです。
つまりは自分を見つめ、自分を理解していくことです。
人の援助をするということは、人のことをよく知らねばなりませんが、その前には自分と向き合い、特に自分の中に取り残されてきた感情や思い、ネガティブな反応やパターンなどを洗い出す必要があるのです。
もちろん全部完璧に見つめ切ることはできないでしょうが、少なくともその作業を行っていく覚悟はいりますし、いくつかの偏見や色メガネとなっている内側のものは出しておくことが望まれます。
そうでないと、自信のないままにクライアントを相手するばかりか、自分の中にあるネガティブな思いがクライアントをも巻き込むことにもなりかねません。
自分を見つめ、向き合う作業は孤独でとてもつらい仕事です。一人では難しいこともありますので、心理のプロの方などとともに取り組むこともあるでしょう。しかしそれでもやはり最終的には自分自身で克服したり、統合したりしていかねばならないのです。
自分を知らねば人を知ることもできず、自分(の内面)を救わねば、人も救えないというのが究極的な真理といえましょう。
ただ先にも述べましたが、最初から完璧な人間などいませんから、ある程度のところで対人援助を行いながら、また自分の枠やブロックを解除したり、解体されていたものを統合したりしていくのが現実的かもしれません。とはいえ、時には仕事を中断し、集中的に自分の課題に取り組む時間も必要となってくるでしょう。
それはまさにタロットでいえば「吊るし」「13」「節制」のサイクルのようなものです。
また何も対人援助を志さなくても、自分と向き合うことは厳しくとも結果的には喜びの人生、有意義な人生に導かれると予想されます。
バラバラになった、あるいは隠されていたいくつかの内面の自分を直視し、つらいくともひとつずつ癒しや解決を図っていくこと、そのプロセス自体「心の錬金術」ともいえますし、本来の自分を取り戻す自己成長の旅路だといえましょう。
運が悪い、恋人に恵まれない、結婚できない、人間関係に苦しむ、仕事がうまくいかない、お金に困っている、体が弱いなどといった人生における悩み事は、元を正せば自分の中にある問題が放置されていることに原因があることが多いものです。
本当に苦しい時はすぐに助けや救済を求めていけばよいでしょう。とにかく余裕がない時ですから。
ですが、とりあえず苦しみから一息ついた時、今度は改めて自分と向き合っていくことです。根本的な解決はそこにあるかもしれないからです。
その過程で一時的にはまた苦しみや災難と思えるような事態が訪れても、それは浄化の道においての泥だし(浚渫作業)のようなものだと考えられます。泥が外に出れば、臭って醜悪にも見えるものだからです。
自分を見つめるには、タロットもその一役を担うことができます。
タロットをすると驚きと感動があります。
タロットに最初にふれて、占いでもリーディングでも、自分のためにカードを引くと(あるいは引いてもらうと)、そのカードがまさしく今の自分(の状況・心境)と関係していることを知って驚きます。
たくさんのカードの中(通常は78枚、大アルカナだけなら22枚)から偶然引いたのに、なぜそれほどまでに自分にぴったりのカードが出るのかにびっくりするのですね。
この最初の驚きはかなり衝撃的でインパクトを持ちますので、のちのちタロットを続けていくにしても、ずっと忘れない記憶になることもあります。
しかしながら、これはほんの入り口であり(でもとても重要なものです)、次第にタロットが問いや自分のことにふさわしいカードが出るのは、むしろ当たり前と感じるようになってきます。
それは単なる偶然ではないかと思う人もいるでしょう。
またうがった見方をすれば、こう考えることもできます。
たとえば血液型占いの本を手にして、A型の人に何型の項目を読んでいるのかを知らせずにB型の所を読んで聞かせると、A型の人は「そうそう私はそういうとこ、あるある」とうなづいてしまいます。
実はこれは人間は誰しも総合的に全部当てはまるパターンは持っており、その一部分を指摘されると、皆、「そういうことはある」と感じる仕組みを利用したものなのです。人は単純にひとつの型にはあてはまらないのが本当だからです。
ですから、タロットカードが人の心や事柄の普遍的なパターンを象徴しているとすれば、どれを引いても自分にとって当たっていると感じることもあり得るわけです。
ところが、タロットカードを引いて行けばわかりますが、確かにどれを引いても自分には関係するとはいえ、たとえば仕事のことを質問すると「仕事」を最も象徴するカードが偶然以上のタイミングで現れたり、自分でも気付かなかったことを象徴するようなカードが出てきたりと、その登場の仕方には何かの意志がある(宿っている)のではないかと思わざるを得ないところがあるのです。
百歩譲って、すべて偶然だったとしましょう。それでも、カードに自分を投影することができ、自己を分析したり、顧みたりして、指針を得ることのできるカードというのはそうそうあるものではないと思います。霊的なことを抜きにしても、心理機能的には十分役割を果たしているといえましょう。
さて、最初の衝撃を経験したあとは、今度は(カモワン流展開の場合)自分のストーリーが過去・現在にわたってそのままカードにも展開されていることにさらなる驚きと感動を得ます。だからこそ、未来のカードも信用することができます。
そして今度は、単なるカードと自分の符合・一致を確認するだけではなく、カードからのメッセージもくみ取ることによって、自分の運命や人生が自分で変えていくことも可能であることを知ります。受動から能動に切り替わるのです。
心やあなたの持っていたネガティブな自分へのイメージは変化し、心が変われば態度や心構えも変わって、実際に行動するようになります。
行動は私たちの住むこの現実世界でもっとも有効な「働きかけ」の手段といえます。なぜなら形ある世界には形ある実際の動きこそが効果があるからです。たとえれば固形物の形や場所を変えるには、ハンマーをふるうとか、手で動かすとかが必要であるということです。
こうして少しずつ自分と現実にもいい意味で変化を経験し、タロットに対して揺るぎない自信と信頼を得るようになります。
ただこれはタロットを神と信奉するのではなく、もともと自分の中に備わっていた神性なる部分、高次の自分とタロットがコンタクトするように導いてくれたと考えるべきです。
ですから、本当はタロットが変えてくれたのではなく、タロットを通じて自分自身で自分の価値を高めた(本来を取り戻した)ということなのです。
この時、また別の意味でタロットへの感動が起こります。いや、むしろそれはタロットへというより、自然や宇宙、そして自分の中にある崇高さというようなものへの畏敬の念ともいえるものでしょうか。タロットマンダラでいえば、「星」のような段階と感覚です。
このように、タロットを続けていくと、段階的に別種の驚きと感動があなたに訪れることになるのです。
イヤーカード
以前にもソウルカード、パーソナルカートの記事 で、イヤーカードのことについては少しふれてはいました。
ここで改めてイヤーカードについてお話したいと思います。
イヤーカードは、自分にとってのその年(2010年、2011年などの年)の課題やテーマといったものをタロットカード大アルカナ一枚で象徴させたものです。カモワン版マルセイユタロットに限らず、どのタロットでも「数」さえついていれば使える技法です。
イヤーカードをどうやって出すのかということは詳しくは講座で説明していますが、要は自分の誕生日の月日と見たい年(西暦)とを足し込んで算出します。
占いとして「年運」(年の運勢)的に見ることも可能なのですが、そうしてしまうと、たとえばある特定のカードに悪い印象を抱いていると、ある年のイヤーカードがそのカードならば、その年は不運な年だと決めてしまうことにもなりかねません。
それではせっかくの可能性の芽も最初から自分で摘んでしまうことになります。
極端な話、カモワン版では「13」と数だけで呼称されるカードも、もし「死に神」という名前で不吉に感じていると、その年はまるで死が待っているのではないかと恐れることにもなります。
ですからまずイヤーカードで年を見るということを行う前に、カード自体にいいも悪いもなくニュートラルなものだということを理解しておく必要があります。理解することが難しければ、特定のカードに対するネガティブな思いをできるだけ払拭しておくことが求められるでしょう。
さて、このイヤーカードなのですが、新年一月一日をもって新しいイヤーカードに切り替わると考えるものと、自分の誕生日から新しい(その年の)カードに変わるというふたつの考え方があります。
どちらが適当なのかは、過去に遡って自分で計算してみることです。すると、過去の出来事・イベントなどとカードがぴったりくるのはどちら(誕生日で切替か新年で切替か)であるかがわかります。
イヤーカードの計算方法は流派みたいなものによって変わることがあります。私の習ったものでは、イヤーカードは一年ごとに一つずつ数(カード)が進むのではなく、10年スパンで一度大きくバックしてまた進んて行きます。
それを立体的な図で表してみると、らせんを描いて進んでいるかのように見えます。カモワン流のタロットマンダラに当てはめれば、人により特定の階層や道筋を何度も通ることになります。
ここからイヤーカードが、いわぱカルマのような、その人固有の何か大きなテーマを表しているのではないかと考えられることもできるのです。
一年一年、その年や課題を象徴しつつ、巨視的には自分の持っている宿命・カルマのごとき大テーマをも含有している。それがイヤーカードなのかもしれません。そのように思うと、イヤーカードも実に味わい深いものとなってきます。
先に悪い例で出しました通称一般的に「死に神」と呼ばれている「13」のカードも、イヤーカードとして積極的に課題やテーマとして見れば、まさに「改革、変容、変化」の年でチャンスだとも言えるのです。
また自分や周囲の環境、あるいは精神的なことでも新しいステージに移っていくということも考えられます。「死」よりも次の「再生」をイメージするのです。それには「死」と考えるのではなく、「再生」のために「終わらせるもの、終わるものもある」と見ていくとよいでしょう。
さらに、「13」は大きな鎌をふるっていますので、ある実りを刈り取っているとも想像できます。そうすると、その年は象徴的に何かを収穫(育てたものが獲得できる)することがテーマとなるのかもしれません。
また反対に、鎌で土地を耕しているようにも見えますので、その年は将来に向けての種まき、地ならし、肥やしを与える時なのかもしれないのです。そういう意味では変化の派手さより、地味な年として見えることもあるのです。
タロット大アルカナ22枚は心の元型、世の事柄の22のパターンだとも言えます。
ですから、イヤーカードは特別に22の中のひとつ(一枚)として、その年に考える(見つめる)課題(そのカードが示す自分の中の心、世の中の仕組み・パターン)として与えられたものと考えることができます。
結局のところ、ソウルカード・パーソナルカードと同様、自分とタロットを深く関連づけ、タロットを通して世界と自分を知るための窓口・方法としてイヤーカードも機能するのです。
人に話をすること、伝えるということ。
タロットカードには「法皇」(通常では法王、教皇の名)というカードがあり、その次の数を持つカードには「恋人」(恋人たち)というのカードが位置しています。
カモワン版マルセイユタロットではカード人物の視線を重視し、視線が向いている(向けられている)カード同士を関連させてリーディングしていきます。
この「法皇」と「恋人」も、二枚を数の順に並べると、「法皇」から「恋人」に視線が注がれているように見えます。
「法皇」は人に話しをしている様子が描かれ、「恋人」は三人の人物が何かを話し合っているようにも見えます。これらのことから、ともに「話をすること」つまり、コミュニケーションが両方とも関係するということが読み取れます。
この二枚で、言うなれば、「人に話を伝える(法皇)」には、「コミュニケーションの技術(恋人)」が必要だということが示唆されているようにもとれるのです。
実はタロットリーディングは、単にタロットの絵柄や展開から意味がくみ取れる(読める)だけではまだ不十分といえます。
いえ、自分のことをリーディングするということではそれで十分なのです。けれども、リーディングした(感じ取った)内容を他人に伝えるという観点では、そこに言葉やコミュニケーションの技術が必要となってくるのです。
初級の段階では、この部分、「人にいかにしてタロットカードから読み取った内容を伝えるか」ということに苦慮し、結局リーディングが客観的にうまくできないという場合があります。
頭や心ではわかっている(感じている)のに、それをうまく言葉で表現できない、伝えられないのですね。
それは友人同士や家族同志の会話とは別に、プレゼンテーションとはいわないまでも、他人に対して自分の思い(仕事の内容など)を説明する機会が少ない人、口べただと思いこんで話すことをためらっている人、話し好きだけれども要領よく話せない人などには多いケースとなります。
ほかにも何かのことで心にブロックがあって、話しづらいという人もいます。
また話をすることはできても、相手にきちんと言うべき事が言えず、(遠慮してしまう、嫌われたり、いやがられたりするのが怖いという恐れを含んでいます)本質を避けた言い回しになってわかりづらくなってしまうということもあります。
タロットを習ったことで人に説明する機会が生じて、はじめて自分がそういう欠点やブロックがあることに気がつく人もいるのです。
これを克服していくには、やはり意識して訓練するしかありませんが、タロットリーディングを習って人と組(ペア)になってリーディング練習を繰り返すことでも、かなり改善されていきます。
また、タロットを使って話しのポイントをあらかじめまとめていくことも可能です。
そもそもカモワン流でリーディングする場合、出たタロット展開にストーリーを作り上げる必要が生じますので、リーディングをこなすに連れ、話を整理していくことは自然と上達していくようにもなります。
わけもわからず、混乱した状態のまま話をしてしまうので、自分でも何を言っているのかわかりませんし、当然相手にも伝わらないことになるのです
話の整理さえつけば、相手に話しをすることも以前よりかは格段にしやすくなり、また相手側にも理解がしやすくなります。
それから普段から言葉・言語に注意を払っていくことです。
自分の言語表現の能力、蓄積を上げていくのです。いわば言葉の貯金です。本を読んだり、文章に多く接することはそのことに高く貢献します。タロットはイメージの力も重要ですが、意外にもこうした「言葉」の能力も要求されるのです。(人にリーディングする場合)
当然のことですが、リーディング内容を伝える以上にタロットを教える講師ともなると、さらに相手に理解してもらえるような言葉、コミュケーションの力がいります。一対一の関係だけではなくなるからです。
自分はタロットがよく読めるようになった、タロットのことはよくわかったと言っても、それを人に伝え教えるともなればまた違った技術の研鑽が求められようになります。これは私自身も昔は錯覚していたことでした。
自分が本当に理解しているかどうかは、まさに他人にそのことを説明してみればわかるのです。
きちんと相手が納得してわかってくれたのならば、あなたの理解度はきちんとしたものですが、そうでなければやはり中途半端なのです。おそらくそのような時は、人に説明をしている最中に、しどろもどろとなるので一目瞭然でしょう。
「法皇」と「恋人」に戻りますが、「法皇」はよく見ると視線は「恋人」の天使に向かっています。つまりは、人間を超えた存在を見ているのです。
それほど人に話をすること、伝えることは言葉を選び、慎重に行い、天使的な目線(上から目線ということではなく、自分の言葉に責任を持つ、人に貢献するというような姿勢)で行うものであることが強調されているのです。
私もまだまだ未熟です。「法皇」目指してがんばりたいものです。