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カモワン流での小アルカナ 動的展開法において。
カモワン流でタロットリーディングする場合、小アルカナは極端なことをいうと、ほぼ使う必要がありません。
ただし、いわゆる「動的展開法」といわれるカモワン流独特のスプレッドを使う限りです。
動的展開法とは、カードの人物の視線を追うルールと、逆位置に出たカードを問題カードとして扱い、それと連動させて問題の解決策に当たるカード(解決カード)を置いていくという流動的なスプレッドのことを言います。
簡単に言えば、それはクライアントの心模様やドラマを絵物語として見せているのです。
ですから、たくさん出たカードたちによって紡ぎ出されているその物語を、何よりもクライアント(相談者)自身にわかってもらわないといけません。
一方的にタロットリーダーや占い師がカードの意味を述べて、クライアントに告げるという形式ではないのです。
そこには両者の会話・コミュニケーション、カードを見ながらのお互いの解釈のし合いがあります。
でも解釈といっても、クライアントはカードの意味を知らないんじゃないの? カードを見たってわからないじゃない?と思うかもしれません。
確かにカードやそれに描かれている象徴などは、通常クライアントにはわからないでしょう。それはタロットリーダー側が持っている(知っている)ものです。
しかし、クライアント自身の情報、その問題における実際の内容は、外ならぬクライアント自らが一番知っているわけです。
リーダーはカードの象徴とカモワン流独特の展開法によって現れるタロット的な(象徴的な)意味とストーリーをそこに見いだします。
そしてクライアントはその説明を聞きながらも、自分の実際のことと(自分の内面・気持ちも含め)照らし合わせ、象徴的なストーリーとの符合を感じます。
両者(両方の解釈)がある瞬間に一致した時、そこに新たな創造されたストーリーが始まります。そのことによって、クライアントは自分の問題や人生がタロットに映し出されいたことを実感し、また今後に向けた価値ある物語を選択していくことも可能だと知ることになるのです。
いわばこれは、多面的な自分のスートリーを映し出す鏡を見せられるようなものなのです。
ですから必然的に「映り」を重視することになります。マルセイユ版の小アルカナの場合、「映り」「映像」としては弱いと言わざるを得ません。
しかし大アルカナは違います。人物や動物、物が「絵」としと描かれ、またその内容はシンプルでもあるので、説明されればほとんどの人が素直に自分のスートリーに当てはめて考えていくことができます。
よく食べ物屋や飲み屋なんかで、人に何かを説明する時、その場にあるお手ふきや醤油びん、お皿など(笑)で人や状況にあてはめて話をするシーンを見たことがあるでしょう。
でもそんな風に説明されるより、まずは絵、そして映画やアニメーションなどの人物が出て、背景・状況が動く映像で見せられたほうが理解は早いです。
カモワン流の大アルカナをメインにした動的展開法は、見やすい絵柄と、まるで動いているかのように見える流動的なスプレッドによって、クライアントにわかりやすく「見せる(魅せる)」ことができるものなのです。
カモワン流のタロットリーディングがクライアントとリーダーの共同作業で行われるものであることにより、やはり大アルカナ重視、動的展開法になじむ大アルカナ22枚を使う方法が向いているといえるのです。
従って小アルカナよりも先に大アルカナをしっかり理解することが、カモワン流リーディング上達への近道となります。
たった22枚で深いリーディングができるのですから、考えようによってはお得かもしれませんね。
※もちろん小アルカナも重要であるという考え方もでき、そもそも78枚、大も小もなく重要だというとらえ方もあります。その立ち位置でやる場合は、また違った理解とスプレッドも可能です。
※カモワン流でも小アルカナを最初から使って効果的なリーディングをする方法もあります。独特な読み方をします。(「秘伝カモワン・タロット」に書かれてあるものとは少し違う方法もあるのです)
「秘伝カモワン・タロット」の本
以前、学研から発刊されていた「秘伝カモワン・タロット」(大沼忠弘、フィリップ・カモワン共著)の本が増刷されないこと(つまり絶版)になったため、もはや通常での新品は入手ができなくなっています。
この本は、日本での唯一といってもいいカモワンタロット(カモワン版マルセイユタロット)の教本でした。
言ってみれば、もしカモワンタロットを独学するとしたら、この本以外では普通はできないというくらいのものだったのです。それが今やほぼ不可能という事態にあります。
もちろん中古品などで取り寄せる方法もありますが、すでに相場は定価の倍くらいになっています。
現在、この本を持っていらっしゃる方は、貴重なものといえますので、大切に置いておかれるとよいでしょう。(いらない人は求める人に譲ったり、売ってあげてください)
そしてカモワンタロットをすでに習った人でも、ふり返ってもう一度ゆっくりと読んでみることをお勧めします。
しかし不思議なもので、こういう状況でも、まるで導かれるかのように偶然本屋さんで残っていたこの本を見つけてしまうことがあります。(または誰かから譲ってもらうなどして手元に来るなど)
実は私もそうなのです。
私は自分用、そして講義用として当然ながら数冊持っていますが、それでも新しいものがあれば何かと便利なので、見つかったら買おうと思っていました。すると、何のことはない、地域の本屋に置いてあったのを発見したのです。地方ゆえの有り難さでしょうか。(笑)
いずれにしても、今見つけた人はラッキーです。あなたはカモワンタロット(マルセイユタロット)と、もしかするととても縁が深いのかもしれません。(南仏に関係したり、弾圧されたりしたものとも関係があるかも?です)
ただ、実はこの本を読むだけでは、なかなかカモワンタロットは理解しにくいところがあります。
たとえば大アルカナの説明の項目を読んだとしても、その行間にある「書かれていない文章」「説明されていない言葉」があるのです。
「○○は△△の意味である」と書かれてあっても、なぜ「その○○が△△という意味になるのか」という過程説明の部分が大幅に省かれているからです。
また動的展開法といわれるカモワン流独特の、カード人物の視線を追った展開方法も、掲載されているルールだけではおそらくきちんと理解することは難しいでしょう。(しかも本には旧バージョンともいえるものが載っています)
百聞は一見に如かずで、実際見て覚えた方が早いのです。タロットゲームの説明書を読んでも、ゲームができないのと同じです。
そして大アルカナの部分もそうですが、小アルカナは特に本だけではわかりにくいと思います。そのほか、カモワン流の神髄ともいえるタロットマンダラの解釈、シンボルの連繋の詳細なども断片的に書かれているだけです。
正直言って、本だけの独学はかなり困難ではないでしょうか。
あの本の価値は、本当は講義後に増してくるのです。講義で説明を受けたあとに確認の意味で本を読むと、まるで水が染み渡るかのように自分の中に入ってきます。
講師としてタロット大学で教えていた私でも、読む度に新しい発見と納得の再確認がありました。カモワンタロットを習えば習うほど、味の出る本だともいえます。
手元にこの本のある方、もう一度言いますが、再読してみてください。
一本の見えない道を見る。(後編)
前回は 、私が公務員に就職したものの、やがて心身の不調から辞めざるを得なくなったというところまでお話しましたね。
では続きです。
さて、私の最後の公務員の職場というのが、奇しくも最初に私が就職をして配属された信用金庫の支店の近く(同じ市内)だったのです。
公務員を退職する最後のその日、その所属長さんたちと挨拶を交わして、私は寂しくも、しかし何かさっぱりしたような気分で、職場を辞しました。しかしまだ反面、かなりの不安といいますか、世間では考えられない選択をしてしまった自分に、なにがしかの後ろめたい気持ちと、もっと踏みとどまるべきではなかったのか・・・という自責の念もあったのは事実です。
そんな心持ちのまま、バスに乗り込みました。駅までのわずか5分ほどの車中で、私はぼんやりと車窓から外ををながめていました。
その時です! 突然、私の目にある彫像が飛び込んできました。それはカドケウスという杖を持つ「ヘルメス神」の像でした。「ヘルメス」といえば、ギリシア神話では「伝令の神」であり、また別の意味では「錬金術」や「神秘思想」の祖といわれる特殊な人物を指すのですが、何よりもそれは私の学んだタロットと深く関連するものであり、タロットとヘルメス(思想)は、切っても切れない関係にあるといえるものでした。
そして何と、そのヘルメス像は、私がかつて在籍していた信用金庫の、あのまだ当時は未完成だった本店の前に立つ像だったのです。これまでいつもその前を通っていたというのに、なぜ気がつかなかったのでしょう?
さらに私は、なぜか驚いて瞬間的に時計を見てしまったのですが、時計の針はデジタルで「11:26」を示していました。11.26...実はこれは私の誕生日の日付なのです!! 単なる偶然?? そうかもしれません。しかし、その時の私は、確実に「この道でいいんだ」という実感を得た気がしました。
「秘教」の伝説的な人物であり、「伝令」の神であるヘルメス。それが、私の公務員として「最後」の所属地であり、また「最初」に就職した企業の本店にある像であったことが、すなわち「始まりであり、かつ終わりであり、そしてまた始まりである」という永遠の循環、無限大(∞)のレムニスケートを象徴していたように思えます。
何か大きな存在が、ヘルメスのカドケウス(ヘルメスの持つ二本の蛇がからみつく杖)をシンボルとして、私に信じた道を進む勇気を与えてくれたように感じました。と同時に、運命の不可思議さを知った瞬間でもあります。
皆さまも紆余曲折、人生の道にはいろいろとあるでしょう。でもそこに流れる一本の見えない本道のようなものが、誰でも確実に存在しているのだと考えられるのです。
それはこうした不思議なシンクロニシティ、偶然のような必然によって、私たちの目の前に垣間姿を見せるのかもしれません。
そう考えますと、今度新しい環境に入られる方も、またわけもなく人生を歩んでいるように思える人も、きっとその場所・その経験において自らの一本の道とつながっており、深い意味があるのだと信じられます。
今までのことは決して無駄ではありません。そして、これからもあなたの歩む人生には必ず意味があるのだということです。
一本の見えない道を見る。(前編)
その時はわからなかったものが、あとでふり返ってみると、意外にも一本の道でつながっていたのではないかと気がつくことがあります。いわば、見えない大きな意志のようなものです。
そのことがわかる事例として、ほかならぬ私自身のことで、私のHPのブログに以前掲載したものをここで転記したいと思います。
ちょっと長い話になりますので、二回にわけて小さめの文字(見にくくてすみません)で書かせてもらいます。
私は大学を卒業して、最初に就職したのが某信用金庫でした。ところが、もともと当時流行っていた用語でいうと、“ピーターパン症候群”と言いますか、社会に出ることがとても怖い人間だったんですね。それまで、アルバイトなんかもしていたのですが、「就職する」ということに、何か自分が一生縛られるような、牢獄入りするような、非常な恐怖感があったのです。今なら確実にニートとして引きこもっていたでしょう。
とはいえ、就職しないわけにもいきませんでしたので、何とか遅まきながら就職活動を開始したのですが、やはりもともと就職する気が希薄な上に、自己アピールも苦手で、さらに活動が大幅に遅れたことで、面接の受付自体も進みにくい有様でした。また私の専攻する学部も、企業に受けの悪いということもマイナス要因でした。
そんな時に、大学の就職コーナーの張り紙を見ていますと、同じ学部の知人が来て、「俺、銀行に決まりそうだ」という話をしてきたのです。何の策もない私は、「そうか、就職に不利な我が学部も意外に銀行関係はいいのか・・・」と勘違いし(苦笑)、それからというもの、銀行方面にターゲットを変えたのです。
けれども、実は私は、数やお金の計算というものが大の苦手で、その年代の方にはわかるでしょうが、「ハクション大魔王」(笑)のごとく、数字を見るとクラクラしてくるタチなのです。そんな人間が銀行に就職なんて、今考えると、土台おかしな話というしかありません。
それでも人間の運命とは数奇なもので、銀行はダメだったのですが、信用金庫には最終選考まで残り、内定をもらってしまったのでした。これは私という人間を評価してくれたわけではなく、どうやらたまたま人手不足みたいで、大卒も少ない状態だったので、入れてくれたみたいなものです。
さて何とか信用金庫に就職が決定したのは良かったのですが、やはりピーターパン症候群の上に数字アレルギーという決定的な欠陥を持ちつつ(笑)、「信用金庫」というありえない所へ働くことになったために、実際の結果は明白でした。
かろうじて研修期間は持っていたのですが、ある支店に配属されてからは、たちまちのうちにめげてしまい、お客様から預かったお金はなくすわ、開店中の殺気立つ受付お姉様の合間を縫っての機械作業などにもへこたれるわで、情けなくもわずか三ヶ月という期間で退職するはめとなってしまいました。。。
しかし、この信用金庫は結構美術や芸術好きな風潮があり、その点は私は好きだったのです。それでその信用金庫がこの時新しく建設していた本店ビルがあり、完成の暁には、店舗前にある彫像を置くことを予定していたのでした。けれども結局私は、その本店完成前にそこを辞めてしまったというわけです。
その後、ある理由で公務員を目指す決心をして、何とか公務員試験に合格して某地方公務員となることができ、どうにかこうにかそのまま働いていました。思ったよりはるかに難しい仕事ばかりでしたが、公務員生活にも慣れてくるにつれ、「もうここで一生終わるのだろうな」と私は信じていましたし、それなりに公私ともに充実した日々を過ごしていたのです。
しかし私の経歴紹介でも書いてますように、転勤をきっかけにやがて心身の不調に陥り、神経症うつ病になってしまいました。治療のため、休職も余儀なくされました。ここから私の人生において、大きな転機が始まったのです。
私は休職復帰を繰り返しつつも、なかなか完全なペースに戻ることができなくなってきました。「人間とは何か」とか、「生きることは何か」「仕事とは」など、いろいろと考え、もがくように行動していました。
それはまるで人生の迷路にはまりつつも、ひたすら探求の道筋を求めた時代ともいえます。
そんな時、タロットに出会い、公務員の退職も決意することになりました。(この間も相当な迷いと苦しみがありましたが、割愛します)
次回につづく。
因果と時間の関係でタロットリーディングを見る。
時間の流れ方にもいろいろとあります。
と言うと、
えっ、そんなバカな! 時間は過去から未来に向かって流れていくだけじゃないの?
と思われるでしょう。
確かに物理的といいますか、クロノス的な時間では過去から未来に向かって一定方向に同じリズムで流れていきます。
しかし心理的なものや、自分の考えの中ではいかようにでも時間は変わっていくことができます。
イメージの中では過去に戻ることもできれば、未来に行くことも可能なのです。
またちょっとした訓練は必要かもしれませんが、過去と未来を同時に思い浮かべて、それを重ね合わせて「今」にしてしまうということもできます。
実はこうした時間の新たなとらえ方が、今の問題を解決に導いたり、自分を解放に向かわせたりするきっかけになることもあるのです。
たとえば、自分がどうなりたいのかということを目標としてイメージする「時」、それは、ある「未来」だともいえます。そこから逆算のように時間が流れてきて、今に流れ着くと考えます。
ということは、今は未来からの結果だと言い換えることもできるのです。
であれば、自分の未来像をイメージすることがいかに大切かということもわかりますし、未来がいいものと予想すれば、今の状況や問題は、未来を先に変えればそれに応じて今も変わっていくということになり、とても気が楽になります。
つまり因果を過去から現在、未来としてではなく、未来から逆に現在、過去へと流れていくというようにとらえるわけです。
この考え方を取り入れると、カモワン流のタロット展開の解釈も変わってきます。
どういうことかと言いますと、通常は展開の過去、そしてその解決カードからリーディングに入ることが多いのですが、反対に未来とその解決カード群から読み解いていくのです。
未来を変えて、その影響による現在、過去(の認識)を変化させていく解法(問題を解いていく方法)といえます。
それにはカードの人物が視線を伴い、その視線を重視する展開法が非常に役立つのです。
またタロットカードは絵ですから、画像としてイメージを目で確認することもできます。未来をイメージするのにも大変有効性が高いわけです。
そして時間感覚を変えていくことに解決のカギがあることは、「運命の輪」「力」「吊るし」などの、いわゆるカモワン流のタロットマンダラ、天使界に色濃く描かれていることなのです。