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泣く男、怒る男はやめておいたほうがいいです。

パートナーを選ぼうとしている女性の皆さんへ。


今までのタロットでの相談事例や、いろいろな人のお話などを伺っても、やたらと泣く男と怒る男はやめておいたほうがいいと私は思います。


実はどちらも同じような因子をもっていると考えられます。


双方とも自分に極端に自信がない人に多いのです。


今はそうでもないでしょうが、一昔前は、男は人前で涙を見せないものと教育されていました。


ファーストガンダムでも、「男は涙を見せぬもの、見せぬもの・・・」と歌われているじゃありませんか。(すいません、古いアニメネタで。笑)


まあ、そんな教育自体は今や時代遅れだともいえるかもしれません。


しかし、やはり普通、男性でメソメソ女性や人前で泣くというのは、感情のコントロールができていない未熟な部分があると想像できます。


そもそも泣いてどうなるというのでしょうか。


女性なら「女の涙は武器」という人もいるかもしれませんが、男は絵になりません。泣いてすべてがOKとなるのなら、町中赤ちゃんだらけで騒々しいことこの上ありませんしね。(笑)


また反対に異様に怒る人もバランスが崩れていると言えます。


こういう人は、自分より上の人や強そうな人には決して怒ったりしません。むしろへりくだってペコペコしています。


だから反対に力の弱い人に対してや、立場的に物がいいやすい場合(お店のお客さんの時など)には、異常に強気に出て、理不尽なクレームをつけたり、恋人に対して暴力をふるったりします。


泣くことや怒ることが多い人は、基本的に自分の中に劣等感があり、そこから逆に過剰な優越感の確認を他者に求めます。


本当はとても悲しい人たちです。心の奥底には認めてもらいたい欲求が隠されています。そしてたいてい男性の場合、生育歴において、母親との密着が過剰だったか、不足だったかに要因があります。


このような人は母親に認めてもらうことが慰めであり、価値であったりしたのです。ただ大人になった以上、母親とは精神的に離れ(母親も子供から離れ)て、自分自身で自己の価値を高め、認めていくことをしなければなりません。


泣いて自分を貶め、同情を買うことにより愛情を得て、不足している自己評価を補うことも、また怒って相手より優位に立つ幻想により、偽物の自己価値を上げていくのも、両方間違ったやり方なのです。


自分を自分で認められないのですから、ましてやパートナーをひとりの人間として認めてくれることは難しいと考えたほうがよいでしょう。


ですから女性の方は男性とおつきあいしている時、相手が泣きすぎるか、それともこんなことで?と思うくらいキレて怒りやすいか、観察しておいてください。


「ちょっと、この人、おかしいぞ」とあなたの普通の感覚(センサー)が何度も警報を鳴らした場合、相手との今後のつきあいを考え直したほうがいいでしょう。


けれども、泣く男、怒る男でも、正当な理由がある場合はかえってよいこともあります。


怒るべき時にきちんと怒れる人もまた貴重なのです。


それから滅多に泣かない男性が、本当に苦しい時、心から女性のあなたに気を許してほろりと涙を流すこともあります。それは大目にみてあげたほうがよいですし、男性からの信頼の証でもあるでしょう。


「運命の輪」に見る運命の対処方法

マルセイユタロットの「運命の輪」というカードには、文字通り回転する輪が描かれており、そこに動物に見える不思議な存在が何匹か登場しています。

どのカードも解釈が多様にできて面白いのですが、とりわけ、この「運命の輪」というカードも様々な見方ができて楽しいカードといえます。


今回はそのひとつをご紹介します。


このカードには運命を変える(運命や流れにうまく乗る)にはどうすればよいのかが示されていると言ってもよいでしょう。


その解釈のカギは先述した三匹の動物にあります。


輪に乗っている三匹の動物は、見た目、左側に下向きの猿、右側に上向きの犬、そして正面輪の上に乗っているスフィンクスです。


タロットを教える時は、この三匹に霊的・物質的側面から深い意味を持って象徴としてお伝えするのですが、ここでお話するのはそれとはまた別の読み方になります。


三匹を、さきほどふれた「運命の対処方法」という観点から考えると、興味深いことに気付きます。


右側の犬の形相はまさに必死であり、何とか輪を回そうとしているように見えます。


一方、左側の猿は浮かぬ顔というか、よくわからないような面持ちで輪にしがみついているように感じます。


さらに輪の上にいる何者かわからない動物(スフィンクスです)は、ただ平然と悟ったかのように落ち着きを見せています。


それぞれが乗っているのは「運命」の輪です。


つまり、自らの運命に対する態度がこの三匹で表されており、その態度いかんによって運命も変わっていくということを示唆しているととれるのです。


整理してみまょう。


犬は自分で運命の輪を回そうとしている

→ 実行力、熱意をもって事に当たっている


猿は運命の輪につかまり回っている

→ 流れに身を任せている


スフィンクスは泰然と見ている

→ 何もしない、気づきや観察を重視している


本当はネガティブな意味も犬や猿にはあるのですが、今回はすべてポジティブにとらえています。


結局のことろ、運命を変えるには、


1 自分で運命を変えるのだという強い意志 あるいは外からの刺激で(環境や心を)変えてもらう


2 無理をせず、うまく行っている時はそのまま流れに身を任せたり、うまく行っている人の流れに乗ったりする


3 客観的に運命や自分を見て、自分にとってのある法則を理解する。新しい発見を得る


というようなことがカードの図像から読み取れるわけです。


この三つのどれもがケースバイケースで必要だと思えますが、輪に対するスフィンクスの位置から見ても、3のことは特に重要だといえるでしょう。 


そのためにタロットを学ぶということも、また選択のひとつです。


タロットリーディングにおける数稽古

どの世界でも上達のためには「数をこなす」ということが言われます。


タロットリーディングにおいても、もちろん数(実践)をこなすということは技術の向上を生みますが、単純に数さえこなせばいいというわけではありません。


以前、別の所でタロットを習われた方で、「自分がリーディングができないのは、とにかくリーディングす.る数が足りていないからだ」と信じ、がむしゃらに「100人をリーディングする」と自分に課された人がいらっしゃいました。


しかし、その結果、「ますますリーディングがわからなくなってしまった」と嘆かれることになってしまったのです。


これはどういうことかと言いますと、自分の中に仮説や柱を立てずに、ただやみくもに数をこなしたことで、情報だけが大量に流れ込み、収集がつかなくなったことを物語っています。


つまり、リーディングの方法の整理がつかず、混乱している状態だといえます。


これを避ける意味でも、いきなり大量に実践をこなすより、まず自分なりのリーディングの方法をおぼろげながらでもつかむことが大切です。


特にカモワン流での展開法(スプレッド)でリーディングする場合は、出るタロットカードの枚数が一定ではありませんから、ある種の法則を理解していないと、やればやるほど余計にわからなくなってしまう危険性もあります。


ですから、カモワン流のタロットを上達させるには、まず、


1.少ない枚数(少ない枚数の展開法)で読みの推測ができるように練習すること。

が求められます。


次に、

2.少ない枚数の練習をもとに、自分なりの読み方の見当(ルール、パターン)を作る。

というようなことを行っていきます。


この時、1において数をこなすことはよいことです。数をこなしながら自分なりの読み方のパターンや仮説を想定していくのです。それが2の過程となります。


だいたいのパターンや読み方の予測・見当がついてきたら、今度は普通の展開法で実践に移行します。


しかしここでも無目的に数をこなすのではなく、目的をもって読み方の推量をしながら実践を行っていきます。あとの検証も必要不可欠です。


結局のところ、タロットリーディングでも、よくいわれるように「プラン、ドゥ、チェック、アクション」のようなひとつのサイクルをもって進んでいくとよいのです。


数をこなすというのは、このサイクルの数をこなすということです。


なお、最初にあげた100人実践の方に、このことを伝えたことで、それからはリーディング技量が加速度的に進化しました。


もともともっていた実践を恐れない積極性と、すでにあった100人以上の心の中に蓄積されていたデータを、ルールのもとに整理することができたので、結果的には数をこなしたことが活かされたのです。


実行ばかりでは意味がありませんし、考えるばかりでは現実に変化を起こせません。その両方が必要なのです。


もちろん単純に数をこなすだけでプラスになるものもあります。タロットリーディングの例でいえば、慣れる、度胸がつくという心理的な効果が期待できます。


ただやはり何事も数をこなすということだけではなく、そこにプランをもって臨めむことを加えれば、さらに効果はあがるものと考えられるのです。


やりたいことをやらないともったいないですよ。

今日も「愚者」と対話していました。


先日、愚者には大きな力があるとお話をしました。


日本人は我慢を美徳と教育されがちなので、必要以上に自分を抑えつける傾向にあると感じます。


ところが人間、欲求はいつも奥底からわき出てくるもので、これをうまくコントロールしないと見えない自分の心の中にずっと押し込めてしまうことになります。


まさに地下にたまったマグマのようなものです。これがいつかは爆発することになるかもしれませんし、爆発しなくても、ふつふつとうごめく膨大なエネルギーの存在が不快感を生じさせます。


潜在している欲求エネルギーは、まるでたびたび起こる火山の小規模な噴火のごとく、衝動買いに走らせたり、自分か他者を攻撃したりするような自分にとって不都合なことを働かせます。



ところで、あなたはなぜ、やりたいことをやらないのですか?


もちろんいろいろとやれない理由やしがらみはあるでしょう。


できないのには、一気にやりたいことをしてしまいたい欲求も隠されているのも要因のひとつです。しかし不安が高い人は、大きな壁を一気に越えることは大変です。


実は私がそうでした。(今でもその傾向は多少なりともあります)


石橋叩き派といいますか、不安が高いので、安心できる状況にならないとなかなか行動に移せないのですね。


で、このタイプの人は結局考えすぎて、そのまま手をつけずにいるか、煮詰まって突如、「ええい、もうどうでもいいよ」的な無謀な行動に走るか、になるのです。


そんな人には、


「あなた自身の人生は一回きりだ」と思うことをお勧めしています。


輪廻転生を信じていても、あなた自身でいる人生は一回きりです。


よーく考えてみてください。そして、よーく考えたら、ふっと力を抜いてボケーと何も考えない時間を作ってみてください。


できれば「愚者」のように、上を向いてみましょう。タロットカードを持っている人は「愚者」のカードのイメージするか、実際に置いてみてもよいでしょう。


せっかくのあなたの人生、やりたいことをしないともったいないと感じませんか?


何も「好きなことで絶対生きていく!」とか、極端なことを考えなくてもいいのです。


好きなこと、やりたいこと、いっぱいあなたにはあるでしょう。それには一気にやれるものと、小さな規模の夢というか、したいことが存在すると思います。

 

ノートにそれらを書いてみてもいいかもしれません。めんどくさい人は、やりたいこと、希望を想像するだけでもよいです。


で、その小さい規模のものから手をつけてみるのです。


ところがここでも考えすぎの人は、「○○したいけど、●●だから・・・」と、できない反対理由を、ほとんど条件反射のように登場させます。(笑)


例えば、今の私。


「釣りに行きたいけど、梅雨だし、時間がないし・・・」考えてしまいます。見てください。この後半の「けど・・・」の部分が案外とつまらないことが多いんですよ。


だから、つまらない理由なのですから、すぐに撤回や反論もできるのです。


上の例でいえば、「梅雨って言っても、今日もいい天気だったし、時間がないって、あんた、海が近い所にあるのだから、早起きすれば釣れるタイムだし、一石二鳥じゃないっす」か。


と、もう一人の自分のささやきで、そそのかすわけです。(笑)


これをやるとですね、本当にいかに自分で自分を楽しめないように枷をしているのか、わかってきます。楽しいこと、好きなことをする自分を戒めねばならないというおそろしい洗脳が、骨の髄まで染み渡っているんですね。


いや、ほんと、ブレーキかけていることは大したことない理由なんですよ。


これは「欲望のまま生きろ」と言っているのではありませんよ。普段から欲求を抑制しすぎているので、そのはけ口がなく、かなり心身に悪いことになっているから、欲求をかなえることもしようと言っているのです。


我慢が続くとそれがパターンになって、欲求をかなえようとするストレートな心が曲がり、結局は自己を貶めたり、マゾのように耐える自分をすごいと思いこませることで、試練の状況を引き寄せ、自分に与え続けることをしたりする危険性を指摘しているわけです。


皆さんも「これくらいは大丈夫よねっ」って言いながら行動することはあるでしょう。そういう時はほとんどは「大丈夫」なのです。罪悪感を持つことが一番いけません。


人生一度きりなのですから、できることはやっておいたほうがいいです。こんないろいろなものや情報が集まっている時代です。それを経験したり、活用しない手はないでしょう。


「たくさんの材料がある」ということは、使う(経験する)ことを示されていると考えられるわけです。


タロットカードの番号順では、「愚者」の次に「手品師」(様々な材料が与えられている)であるのには、そういった理由もあるでしょう。


おっと、最後に石橋叩き君だった私からのアドバイスとして、そうは言っても無茶はいけませんよ。やりたいことをやるのと、最低限のバランスとは見ておいたほうがいいです。


収入がないのに豪華海外ツアーに行ってもあとが大変なだけですから。


そうではなくて、旅行がしたいと思っていて、実際に一泊国内旅行くらいならできるのに、何かと理屈をつけて行かずに自分の欲求を抑えつけ、せっかくのバラエティあるこの広い世界と時代での経験を狭めていることを忠告しているだけです。


ということで、私、近々近所の海に行ってみます。(笑)


地獄に仏、「13」は「節制」の天使に必ず出会う。

これはもう、私がうつ病と神経症を併発して、ギリギリに追い込まれていた時の話になります。


当時の私はすでに限界に来ていました。


これはうつ病になる人でも少ないケースだと思いますが、私の場合、ものすごいイライラ感に襲われて、気が狂うほどの状態に毎日なっていました。


このイライラ感はそれはそれはすさまじいもので、一分たりともじっとしていられない、強烈な焦燥感がありました。


とにかく待つことができないのです。(今なら、うつから来る脳内ホルモンの異常だったのではないかと推測できますが)


神経内科での待合室にいる時などは、まさに地獄でした。長く診察のかかっている受診者には、殺意さえ覚えました。


それはたとえていえば、この試験や仕事を逃すと一生がダメになるという時に、不運にも渋滞に巻き込まれ、刻一刻とその時間が迫っているけれどもどうしようもできない焦り・・・のような気持ちが永遠に続くというような感覚といえましょうか。


もしこの苦しみから逃れることができるのなら、どんなことでもする、たとえ人を傷つけてでも!とさえ思うくらいのものでした。


そんな私の一瞬の安らぎは、ただ寝ている時だけです。しかしまた起きればずっと地獄が続くのでした。

(うつもあって、なかなか眠れないのもさらに苦しみを増しました)


いつも夢を見ました。


「目が覚めると、あの苦しみは夢だった」という夢を。


夢の中の私は「本当に恐ろしい夢を見た、でも夢でよかった」と心から安堵していたのでした。しかし毎朝、それはむなしくも現実だと知り、絶望の一日が再び始まるのでした。


こんなことが続くので、もはや死ぬしかないといつも考えていました。あとはどう死ぬかだけです。


その日、私は仕事も早退し(行ってもほとんど休憩室で休んだり、うろうろするしかありませんでした。出勤しながら欠勤とされた状態です)、夕暮れの住宅地をあてもなくさまよっていました。


「もう生きていく力はないな、どこかで首でも吊ろう」と真剣に思っていました。イライラは相変わらず、ずっと続いています。


そんな時、ふと目の前に「治療院と」いう文字と案内があるのに気付きました。「やく治療院」さんという名前です。


「やく」か・・約・・・アバウトな治療院かなぁ・・・苦しすぎて、奇妙な連想が頭の中を巡り、私はその治療院に自然と足を向けていました。


実はこの頃私は、民間の治療院と名のつくところ、気休めに過ぎないとわかっていても、イライラの治療にならないかと所構わず、訪れていたのです。何かをしないとイライラで死にそうだったからです。


そしてやく治療院に着きました。私は応対された先生に、イライラで気分が悪いこと、なんでもいいので治療してほしいことを訴えました。


先生は私のせっぱ詰まった気持ちを察したのか、とにかく穏やかな口調で「治るかどうかはわからないけれど、苦しみはなんとかしてあげたいです」と、体を温めてくれたり、体をさすってくれたり、いろいろとやっていただきました。


特別な治療方法でもありませんでしたし、今までのこともありますから、おそらくこれでイライラが収まるとは思えませんでしたが、先生の口調やトーンが慈愛に満ちていらっしゃったのは心で理解できました。


その時の話の内容は記憶していません。でも、この時、一瞬でも心が和んだのは確かです。イライラの症状はあったとしても。


結局、治療後でも症状が消えることはなかったのですが、不思議と気分はましになっていました。何か救われた感じがしたのです。


「まだ生きていてもいいのかもしれない」「もしかしたら治るかもしれない」


なぜかそんな気持ちになり、私は治療院をあとにしました。


その後、あの阪神大震災が起こり、私の症状もまた変化を迎えることになったのですが(この話はまたいずれ書きます)、とにかくこの時、タロットでいえば「節制」の救済の天使が、やく治療院さんという形と人物を通して降りてきたのは間違いなかったと思います。


地獄に仏と言いますが、苦しくてもどこかに救いの道や人物は存在するものです。


あともう少し、あと一日、あと一週間、あと一ヶ月・・・と続けていけばどこかで救済が必ずあると私は信じています。


この世の中はどんなに苦しくても、決して地獄だけではなく、救いとセットになっていると私は感じているのです。


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