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「愚者」はなぜ“愚者”なのか?

タロットには「愚者」という、ほかのカードとは違った特徴を持つカードがあります。

トランプで言うと、「ジョーカー」にあたるもので、ゲームでは切り札であったり、変幻自在、オールマイティーの力が付与されていたりします。やはり、トランプにおいても特別です。

タロットの「愚者」の、他のカードとのもっとも大きない違いは、数を持たないということです。大アルカナにおいて数がないのは、この「愚者」だけです。

それゆえ、トランプのジョーカーのように扱うことができ、どの数のカードでもない代わりに(数の配置に入らない)、どのカードにもなれる、どこにでも配置できるようなところがあります。

そんな、ある意味、強い力を持っているカードなのに、名前が「愚者」とは、いったいどういうことなのか?と思う人もいるかもしれません。

名前はもっとかっこいいと言いますか、強キャラ感(笑)漂うものであってもいいはずです。

もちろん、タロットカードの名前は、絵柄から由来しているので、マルセイユタロットの「愚者」の絵柄を見ると、ズボンが破れているのに気にもせず、上を見て歩いている人物がいて、まるで愚か者のように見えるので、当然のネーミングのようにも思います。

さきほど、私は、タロットカードの名前は絵柄が由来していると言いました。

しかし、そうではなく、もしも名前が先に決められていたとすればどうでしょうか?

私は長いこと、マルセイユタロットを見てきまして、その可能性もあるのではないかと考えています。

いや、名前が先とか、絵柄が先というより、同時進行のようなもので、ある思想や型・パターン・設計図のようなものがもともと製作者(たち)の中にあり、それをモデルとして図示した場合、あのような絵柄になり、実は一枚一枚の名称としては、最初から決まっていたものがあったのではないかと思えるところがあります。

いや、名前の厳密性よりも、型やパターンとして登場させる予定の象徴存在を描くと、今のタロットカードのそれぞれの名前になっている、あの一般的な名前で表すのが適切(な名称)だったというところでしょうか。

こう考えますと、「愚者」は、愚か者のように描きつつも、本当はそうではない(愚か者ではない)可能性が高まるのです。

むしろ、あえて愚か者を装った風に描く必要性があり、「愚者」の中にある何かを隠そうとしたのかもしれません。あるいは、愚か者、愚者になることそのものが、マルセイユタロットを作った人たちからの伝言ということも予想されます。

これはどういうことかと言いますと、簡単に言えば、賢いふりをしていても、真実(真理)はつかめないよ、わからないよ、ということです。

アニメ、ドラゴンボールの最初のエンディングソング、「ロマンティックあげるよ」の歌詞にあるように、まさに「大人のフリしてあきらめちゃ、奇跡の謎など解けないよ」というわけです。(笑)

歴史的に見ても、いわゆる本物の賢人や革新を起こすような人は、通俗性を超え、変人であったり、愚か者を装ったりすることがよくありましたし、一般人から見て、時には嫌われたり、常識はずれと思われたりしました。

いつの時代も、その当時の常識、世間体のままにいれば、やはり枠にはめられた凡人と言いますか、未知なるものへの探求心と行動は鈍るかと思います。

だから、マルセイユタロットの製作者たちは、「愚者」のカードとその姿に、私たちへの意識の変革を促そうと託したのかもしれないということです。「愚か者」と思われるくらいにならないと、本当のところはわからないし、今の自分を超えることはできないよ、と。

人間、思えば、バカになることは、実は難しいものです。他人をバカにすることは結構するのに、自分がバカになること、バカだと思われることは、プライドが許せないし、感情的に不快なのです。

でも、よく言われるように、バカは最強です。創作の世界でもバカキャラは実は強キャラであり(笑)、恐れもプライドもなく、何も知らないので、ある意味、最強なのです。

ところで、ソクラテスの言葉として有名な「無知の知」というものがあります。正確にはソクラテスの言葉というより、ソクラテスのことを記したプラトンからのものと言われますが、ともかく、この言葉も、「愚者」と関係すると思います。

「無知であることを知っていることが、本当の知の始まりになる」という意味でもあり、また、結局は、無知であることを自覚すると、自分を真の知に向かわせることを示唆する言葉と言われます。

この言葉に関連するソクラテスのエピソードとして、デルフォイの神殿とその神託があるのですが、そのストーリーは省略するとしましても、デルフォイの神殿の入り口に掲げられていたとされるもののひとつが、「汝自身を知れ」という文言であったと伝えられています。

※ちなみに、マルセイユタロットにはアルカナナンバー2としての、神託を得そうな、巫女的な女性のいるカード「斎王」もありますし、ナンバー16には「神の家」という、神殿そのもののようなカードもあります。さらには賢者として見える「隠者」も、ナンバー9として控えています。

この言葉は、グノーシス的にも非常に重要なものですが、(これはあくまで、ひとつの仮説・見方ですが)マルセイユタロットの中にグノーシス思想があると考えますと、「愚者」というカードの存在は、極めて意味深いものだと思います。

私たちは、まずは「何も知らない」と思うこと(知ること)であり、そしてそれは、裏を返せば、実はすべてを知っているからそういうことにもなるのです。

禅問答のような話ですが、マルセイユタロットの「愚者」とその他の大アルカナを見ていますと、実感してきます。

なぜ「愚者」は旅姿をしているのか?  ここにもヒントがありそうです。

ちなみにタロットの種類によって「愚者」のカードの絵柄は違いますが、それはそのタロットの目的によって変わるからであり、マルセイユタロットの場合は、「愚者」という名前ではありますが、実際の「愚者」に描かれている人物の絵はフラフラとはしておらず、しっかりと大地を踏みしめて歩いているところが、例えば、ウェイト版などの「愚者」とは違う点だと言えます。(ウェイト版とは人物の向き・方向性も逆です)

「無知の知」の自覚を通して真実の知は私たち自身の中にあると知るのでしょうが、そのような精神的・哲学的なことだけではなく、現実の地上世界を旅する理由も、「愚者」にはあるのだと考えられます。

そして、その旅人とは、ほかならぬ私たち自身、あなたの姿なのです。

皆さん、「愚者」になって初めて、真実の旅が始まることを自覚しましょう。

逆に言えば、自分は知識がある、賢い、わかっている、えらい、ほとんど経験した・・・などと驕っていたり、どうせ私はこの程度とか、しょせん、何もできない人間だとか・・・自己を低く見たり、投げやりだったりしている時は、真実の世界ではなく、いまだ幻想の世界に生きている(旅をしていない)と言えるのです。


カードから見る異質の時間や世界

人は何か不確かな状態や、曖昧模糊のはっきりとしない感じが続くと、落ち着かないものです。

まあ、性格による個人差も大きいとは思います。

何事もきっちりとしていないといやだという人もあれば、テキトーでいいや、という人など、世の中にはいろいろな人がいます。

人間関係、恋愛関係においても、あまりにこうした(違いの)部分が大きいと、きっちりとした人のほうがイライラし、関係自体、ギクシャクすることも多いでしょう。

世の中、意外にテキトーな性格のほうが、腹が立つことも少なく、何かにこだわることも減り、楽に生きられるのかもしれません。ただ、そういう人は、案外、たくさんの人を自覚なく傷つけていたり、不快にさせていたりすることもあります。

ともあれ、性格というものはなかなか変えることができず、結局のところ、自分の性格をうまく扱い、他人ともつきあっていくのがよいのでしょう。

何でも人に合わせるのではなく、自分の性格を認め、受け入れ、そのうえで他人との違いも自覚し、他人は他人、自分は自分として割り切るところと、調整や妥協もしつつ、お互いに合わせられるところは合わせていくのが、人間関係的にも求められることのように思います。

さて、人間の性格による物事のとらえ方、印象の違いは先述したようにあるわけですが、一方、外の世界側の法則やリズムのようなもの、言い換えれば自然の流れというものもあり、これに反したり、無視したりすることで、うまく行かない時があります。

つまりは人対人の問題だけではなく、人対自然という対立(不和、不調和)みたいなものも、問題の要因として考えられるというわけです。

人対自然については、近代以降の基本姿勢みたいになってしまいましたが、人がすべてをコントロールできるとし、あまつさえ、最近は生命にも手を出して、遺伝子操作などを施し、自分たち人間の支配下に自然を置こうとしています。

しかし、今年のコロナ禍のように、人の外側では、コントロールできないことが起こってきました、今までも、人がすべてを理解し、支配下にできたことは一度もなかったはずです。

まあ、新型コロナウイルスも人工説がありますが、たとえそうであったとしても、ウイルスのもとは自然のものだったでしょうし、それに手を加えて、かえってコントロールができなくなってしまったのかもしれません。

だからと言って、昔に戻れとか、すべて自然の意のままにということを主張したいわけではありません。

ここで、マルセイユタロットの大アルカナを見てみますと、自然のリズム・流れを表しているように思えるカードたちがあります。また、流れといようり、動きそのものが止まっているもの、はっきりとしていないものもあります。

その典型的なものは「月」のカードであり、ほかには、「運命の輪」とか、「吊るし」のようなものがあげられるかもしれません。さらには、「愚者」については、数もないですし、ある意味、混沌としているカードと言えます。

これらのカードは、もし現実的な時間の枠で当てはめようとしても、つかみどころがないというか、過去・現在・未来という、人が認識する時計的な時間感覚にも収まり切れない印象も出ます。

私たちは、今太陽歴で世界標準として動いていますが、旧暦を使う文化のところでは、月の暦、太陰暦を使用している国・地域もあります。日本でも季節を感じること、伝統行事、農業・漁業など自然相手の仕事では、月の暦のほうが使われ、その分野では合理的なのです。

毎日は時計時間で過ごしますが、熱中(集中)している時、楽しい時、反対にものすごい苦しい時など、時間が静止してしまったかのような感覚に陥ることがあります。これなど、まさに「吊るし」と言えましょう。

それなのに、内的には人がどう感じていようと、外の世界は、やはり時間が現実では一様に動いて行きます。それは、地球や惑星が回転(自転・公転)しているからです。いわば、時間は回転によって生み出されています。

すると、タロットの「運命の輪」は明らかに、回転運動の絵であり、こうした時間を生み出している「そのもの」のようにも見えます。

しかし、すでに述べたように、私たちには、時計の時間での日常とは別の、それぞれの感覚による時間(止まっていたり、ものすごく速く動いたりする時間)があり、そして、ほかには、これも回転によって生じているものですが、自然のリズムとしての月などのほかの天体の時間があります。

そう、時間の質の差によって、人対人、人対自然、人対宇宙・・・と対比が作られているのかもしれません。

私たちは、現実での時間が「時計での共通時間」だけだと思っているので、そこからすべてを判断・決定してしまいがちになります。

自分や人の幸不幸、成功・失敗、うまく行くいかない・・・なども、普通の一般時間で見ているから、同じような(正しいと皆が客観視するひとつの)答えしか出せないのです。

タロットカードを見ていると、時間には種類があり、いわば、それだけ世界も違ってくるのだということです。別の質の時間の世界では、明らかに通常世界と違っているところがあり、時間世界の認識(の相違)によって、モノごとの価値観も変化しているのだと考えられます。

私たち日本人が太陰暦(太陽太陰暦)で暮らしていた時間の世界と、現代の太陽暦(のみ)の世界とでは異質になっているのは、何となく、今の私たちにもわかるのではないでしょうか。

実は月の時間世界で生きてきた存在というものもおり、それらは太陽暦になって、見えなくなってしまっています。こうしたものたちには異形(自分とは別存在)のものだけではなく、私たちの中にも存在していたもの(自分の一部であり、今も影としてい存在しているもの)でもあります。

タロットカードは、そうしたことを思い出させてくれます。

「月」などのカードが重要なカードとして出ると、今の常識的で、物事がはっきりと決められる時間の世界とは違う感覚の大切さを示している場合もあると言えます。

ということは、こちらの常識の世界ではあやふやであったり、はっきりとしていなかったり、時には否定されたりすることのほうが、むしろ正解の場合もあるということです。

ただ、この記事中に書いているように、昔に戻れとか、未開の文明時代に帰れというのではありません。

太陽歴になるのにも意味があり、それはタロットの流れとも同じで、タロットは数的に言えば、「月」の次に「太陽」のカードが配置されているのがわかります。

その理由はここでは言いませんが、今の時間の世界になる必然性のようなものが宇宙(の進化)にはあるのだということです。

しかしながら、月の時間のようなものを見捨てていいと言っているのでもありません。

要は、それらの統合にあります。

月が陰、太陽が陽と言われるように、陰陽そろって太極です。

よく「太陽のように輝け」とか、「太陽にように明るく生きよう」とか・・・太陽的に生きるのが正しいことのような感じでたとえに出されますが、何も太陽だけが目指すべく手本とは限りません、月もあれば、その他の惑星もあるのです。

それは個人個人の選択でもあり、合う合わないの、まさに“タイミング”があるのです。

わけがわからない、何をしていいのかわからない、普通に見てこれは失敗だ・・・と思っていても、別の時間の世界では、それはまったく逆であったり、正解や望ましいことであったりするのです。

一般的に言う「正義」であることが、必ずしもあなたにとっていいこととは限りません、タロットカードには「悪魔」や「愚者」もあります。

マルセイユタロットは、常識の世界(多様に見えながら、幻想の唯一オンリーに支配される世界)を一度壊し、そしてあなた自身があらゆるものと調和していく新たな世界(本物の、ひとつでありながら多様でもある)世界を創り上げる装置でもあるのです。


2020年9月からの後半

9月に入りました。

コロナ禍での変革、激動の年とも言える(しかし社会的には動きが止まるという)2020年も、あと4か月となってきました。

ということで、今年後半について、特にブログ読者の方のために、全体としての(流れ・課題)タロットリーディングと、誕生月別に一枚引きしたカード(意味はあえて書きません)を掲載いたします。

ただ今回は、新型コロナウィルスの状況や政治・経済の問題など、日本や世界がどうなるかとか、そのような社会的な大きなテーマ・問題のリーディングではありませんのでご注意ください。

なお、私のHPでは、「ソウルカードアドバイス」と題した、月別のタロットリーディングも掲載しておりますので、興味のある方は、そちらもご覧ください。

【全体タロットリーディング】

ここに来られる方、あるいは偶然ブログにたどり着いた方でも、だいたいはタロットとかスピリチュアル、精神世界などに興味のある方が多いと思います。

しかしながら、タロットの展開によりますと、どちらかといえば、この2020年、残りの後半は、現実的なことに関心や注意を向けてみることが提示されています。

もちろん、スピリチュアル的には、よく言われるような次元上昇とか、大変化の最中とも考えられるのですが、だからこそ、物質次元に向き合い、浄化や課題を処理していくことが特に求められているように感じます。

具体的には、フィジカル面の強化、安定、医学的検査と処置、未病の対策・保健、経済的な立て直し、転職、仕事の効率化、知識や資格の向上・取得、具体的な成長ビジョン・計画の策定、現実的な意味で結果の出ることへの尽力・行動、家族の再生、結婚、婚姻、親子関係の決着、調整、人間関係の整理・・・などなどです。

カードは、すべての面において(人によって課題は違ってきますが)、具体的なこと、現実的に効果や影響のあることに向けてのものを示しています。ですから、ただ夢のように見ていたり、単なる願望であったり、考えだけして動かなかったりするのとわけが違うのです。

正直言いますと、甘くない現実ということが見えてきます。けれども、それは結局のところ、あなたを楽にし、霊的な成長に向かうための努力と言いますか、もともとやらなければならないことであり、一言でいえば、囚われからの解放の項目(課題)なのです。

注意すべきは、現実への対策と言っても、上記では「やらねばならないもの」とも表現しましたが、本質的には強制されるようなことではなく、あなた自身が本来「すべきこと」になり、自立(自律でもあります)的に、自然に向かっていく方向性、行動なのです。

ですから、人から言われたからしなくてはならないとか、世間的に、常識的にとか、そういう視点と理由からではなく、まさに自分自身のためにという、中心点を自分に置く(自分軸でいる)ことが重要です。

感情的にやりたくないことと、本質的にやらなくてもいいこととは別だということも心得ましょう。

その判断に迷えば、タロットを自分で引くのもよいですし、タロットがない人、タロットを知らない人は、何度も自問自答するなり、内面を見るための補助・サポートを受けてみたりして、世の中の意見や感情でこまかされているものではない、真の希望、(直感ではなく)直観でわかるもの(これらは頭だけ、心だけで考えるのとは違うものです)を見出すとよいでしょう。

今年9月~12月の時期のための誕生月別カード(一枚引き)

1月「運命の輪」

2月「月」

3月「審判」

4月「正義」

5月「法皇」

6月「皇帝」

7月「愚者」

8月「手品師」

9月「節制」

10月「力」

11月「戦車」

12月「悪魔」


タロット事始めに際して。

ちょっと公私ともにバタバタとしており、ブログに間が空いてしまいました。

体調不良ではありませんので、ご心配なくです。

あと、6月末に一度ブログを休止して7月に再開した際にも書きましたが、これまでは記事掲載ペースを二日に一度にしていましたが、今後は少しランダムになることと、内容的にもガッツリ記事(笑)ばかりでなく、ライトな比較的短い記事も掲載しようかと考えています。

連続して書くこともあるかもしれませんし、一週間くらい空くこともあるかもしれません。ですが、二日か三日に一度のペースくらいに、基本はしたいと思っております。ということで、あらかじめご了解ください。

 

さて今日は、タロットを始めたいという方、あるいはすでに学習している人にも参考になる話をしたいと思います。

まず、何はともあれ、タロットを選ぶことタロット事始めみたいなものと言えます。

自分がどのタロットを選択するのか、どのタロットを使いたい、学びたいのか、これを決めるのはすんなり行く人もいますし、かなり迷う人もいます。

ですが、私は思いますが、人とタロットには縁と相性のようなものがあり、結局、最終的には、自分にふさわしい、自分に合っているタロットに出会うことになると思います。(タロットに関心があり、学びたいと真剣に思えば)

たとえ最初に選択を間違ったとしても、途中で違和感が生じ、あまりそのタロットに興味が行かなくなり、別のタロットとか教室とかで学び直す可能性も高く、最後にはしっくりしたタロットと巡り合う(あるいは自分が納得するタロットの使い方に出会う)ことになるでしょう。

中にはカード好き、タロット全般好きというタイプの人もおりますので、複数のタロットを持つこと、扱うことが合っているという人もいて、いくつかのタロットを学習して、使いこなす場合もあります。

私のところに来る方でも、別のタロットをやっていたけれど、マルセイユタロットを学ぶことになったという人、その反対に、マルセイユタロットを学んだけれど、ほかのタロットや教室に学ぶ縁ができ、結局そちらが自分のタロット活動の中心になったという人もいますし、ほかのタロットを使っているけれど、マルセイユタロットも使いたいので習いに来たという人もいらっしゃいました。

まあしかしながら、全体的には、マルセイユタロットに縁がある人が集まってくるように思いますし、私の生徒さんは、マルセイユタロットオンリーという人のほうが多数派です。こういう点からしても、人とタロットの縁とか相性というのは感じるところです。

あと、同じタロット種であっても、

●厳密にどのタロットを使うのか

●何を目的をしてタロットを学び、使うのか

●実際にタロットを活用するフィールド、シーンは何か

●タロットリーディング・タロット占いの場合、どのスプレッド(展開法)をメインとするのか

などによって、かなり変わってきます。

同じタロットであっても、実はとか、大きさなどに違いがあり、例えばマルセイユタロットであっても、「〇〇版」というように、作られた年代、工場(出版元含む)、作者などによって絵柄は異なっています。

一見、同じ絵柄に見えても、微妙なところで結構違っており、そのため、一枚全体の大まかな解釈では同じところはあっても、細かいところでは差が出るため(採用する読み方によっては、小さなことでも、解釈の決定的な違いになる場合もあります)、実はタロットの読み方、見方、とらえ方、示唆の受け方なども変わってくることがあるのです。

さらに深く言えば、霊的にも違いが出る可能性さえあります。

これに、自分がメインとして使う展開法(スプレッド)も、教わる教室や先生、本によって異なってくることがありますから、自分の採用するそれによって、また大きく差が出ます。

カードだけでも違いがあるのに、展開法も異なるとすれば、やはり、同じ種類のカードを使ってはいても、人それぞれで、表現・個性はまるで違うことになる場合もありうるのです。

そして、自分はタロットを占いで使いたいという人と(そもそもタロットは占い道具でしかないと信じているような人もいます)、自己実現やセラピー、その他違う目的に使いたいという人とでは、学習内容や活動場所、シーンも違ってくるのは当然です。

気をつけないと、自分がタロットを使ってやりたいことと、教わる内容がかなり乖離していて、たくさんお金を払ったのに、目的とは違うものを学ぶことになったという不満が残ることもあります。

よって、独学ではなく、先生や学校のようなところからタロットを学ぶ場合、その先生や学校が何を目的として(教えて)いるのかを見極めたうえで、学ぶ選択をしたほうがよいです。

よくわからない場合は、その先生自身、または学校の出身者の活動内容、活動している場所を見るとよいです。

占い師として活躍している(人が多い)のならば、それは占いの学校、占いの先生と判断するのが普通ですし、セラピストとして活動されているのなら、セラピー的な内容を教えることが多くなるでしょう。

有名だからとか、すごい活動しているとか、よくネットや広告で目にするとか、そういうもので選んでしまうこともあるかもしれませんが、やはりタロットと同様、先生や学校も相性がありますから、ばっと見だけのことで選ぶと、あとで後悔することになります。

有名な先生は当然多忙ですから、一人一人について面倒が細かく見られないこともありますし(講義はたいてい、多人数同時となるでしょう)、先生自身、最初から特別に能力を持っていて、普通の人の感覚がわからない、ズレているということもあります。

しかし、有名になる人は力とカリスマ性もあり、一方、陰では大変な努力をされている人も多いですので、その感化を受けて、自分も飛躍的に変わることができる場合もあります。

一方、そんなに名は知られていなくても、まるでカードの「隠者」のような人や、教え上手の人、親身にマンツーマンで教えてくれる人など、よい先生もいらっしゃいますので、これもまた縁かもしれません。

無名ながらもよい先生は、広告とか宣伝をあえてしないとか、それ自体が苦手という傾向の人がありますから、見つけること自体がすでに修行、縁を見つける旅になることもあります。(笑)

ですが、きっと、あなたがを持てば、その志に応えてくれ、まさに「志」を持った先生、教育機関に出会える可能性は高いです。マルセイユタロットで言えば、「恋人」カードの天使の矢が当たるようなものです。

この天使は「志」以外に、まるで逆のようなことともいえる、ふとした瞬間や、関心をちょっともった程度のことでも現れることがあります。

いつもは見ない情報をなんとなく見てしまった、ついついネットサーフィンしていて見つけてしまった、友達に誘われて参加してみた、久しぶりにあるサイトを見た・・・こんなようなことで、タロットとの出会いが生じることがあります。

タロットを習いたいと最初から「タロット」に関心があって出会う場合と、タロットはほとんど知らず、無関心ではあったものの、自分が悩んでいること、知りたいこと、興味のあることに対して(答えとか手がかりを)探していたら、偶然タロットに出会ったというパターンがあります。

私自身も実は後者なのです。

ですから、やはり、タロットに出会う人には、出会う「運命の輪」があり、それが回る時、「恋人」の天使から放れたれた矢が当たるようなことがあるのだと思います。

今、この記事をたまたま目にした人は、もう、そういうことになっているのかもしれませんね。(笑)

あと、最後に、いくら縁が生じても、自分が決断し、動かないと、現実世界では何も始まりませんから、最終的に選び、活動するのは自分自身であることは覚えておかれるとよいと思います。

タロットに限らず、結果がどうあれ、自分が興味や関心を抱いたものを、やるかやらないかは、結構、この現実世界の中では、大きな意味を持つように思います。


小アルカナのアイテム

タロットには小アルカナというパートがあります。

そもそもタロットは「アルカナ」と呼ばれる秘密のカードで構成されているカード群ということになりますが、そのアルカナに、大と小の区分、パートがあるわけです。

枚数的には小のほうが多く、特にマルセイユタロットの場合は、小アルカナの中でも数カードの絵柄が独特(記号的)で、そのため、小アルカナのパートはがまだまたあると言ってもよいかもしれません。

とは言え、小アルカナは4つの組に分かれているところは、マルセイユタロットとほかのカードにおいても、たいてい共通していますから、この4組を理解することが、小アルカナ解読の鍵にもなると考えられます。

さて、その4組にもいろいろな解釈ができるので面白いのですが、今日は、ゲームアイテムのごとく、この4つを見てみようかと思います。

ところで、私たちは、言わば「人生」という大変困難で、しかしなかなか面白いゲーム(苦笑)に参入していますが、ここで私たちは数々のアイテムを入手しながら、ゲームを進めています。(私たちは人生ゲームのプレイヤーと言えます)

このゲームは、何か敵を倒すとか、宝物を手に入れるとか、何かを育成するとか、プレイヤー全員に共通するようなテーマはなく、そういう性質のゲームでもないようですよね。

もちろん、個々のプレイヤーにおいては、今述べたような目的をもってやっている(人生を過ごしている)人もいますが、「人生ゲーム」そのものを見た時、「このゲームの真の目的はこれです」ということを、なかなか言い当てることができないのではないでしょうか。

それがわかれば、悟ったも同然かもしれません。

ただ、逆に、いろいろな目的や遊びが可能なゲームだと見れば、目的自体がそれであることも言えるかもしれません。言ってみれば、なんでもできる(わけではないかもしれませんが、かなりのことはできますよね)体験型ゲームというわけです。

しかし、ゲームにはルールがあり、フィールドも限定されています。そうした中で、この世界の中で、私たちは精神的なことや物質的なことを、様々な体験や方法で手に入れて行きます。

もし、それらを象徴的に「アイテム」種として分類すれば、意外に、小アルカナの4組になるのではないかと思うのです。(やっと小アルカナの話に戻ってきました)

タロットの4組は、マルセイユタロットののもので日本語訳的に言えば、「剣」「杯」「杖」「玉」となります。英語的には、ソード・カップ・ワンド・コインです。

そのままモノとしての道具であれば、切るためのもの、ためる(あるいは流す)ためのもの、補助・前進させるもの、使われ、交換させるためのもの(それぞれ、ほかの言い方もできますが)と言えるかもしれません。

面白いことに、剣と杖は、縦長の道具で、攻撃と防御、運動などに使用でき、動的な感じがします。一方、杯と玉は、器や固まりで、玉、つまりお金も鋳造されるものとすると、それを生み出すものからして、入れ物的で静的な印象が強くなります。また地に置くものとして、縦より横幅が重要かもしれません。

これらはわざと対比的な関係にある(されている)と思えます。

もう一度、純粋に、4組をモノとして見て、人生における必要道具だと思ってみましょう。

そすると、あなたには今、が必要でしょうか? それとも? (棒)? (コイン、古い時代なら石のような交換道具)? どれですか?

さきほども言ったように、道具の使用目的から考えると、切るもの、受け入れるもの、支えるもの、交換・購入するものというような感じでしょうか。

道具そのものとしてみれば、そんな機能が浮かびますが、タロットは象徴ですから、ここから、さらに比喩的に拡大変換させていくことも必要です。

その簡単な方法は、道具・機能を、精神的なものや人間的なものとして表現することです。

例えば、剣は切るものでしたら、人間関係を切るとか、モノや人を処分する、断つ、戦うとかになるかもしれません。杯ならば、受け入れたり、ためたり、注いだりですから、感情の潤いとか受容とか、喜び、満足感など精神的なことを中心に出てくるかもしれません。

とにかく、四つのアイテムがそろうことで、あなたの人生は充実したり、うまく事が運べたり、ゲームそのものが楽しくなるよう、設定されているのだと思うとよいです。

そして、それは道具としてのアイテムの意味もあるのですが、まさにゲームアイテムと同じように、魔法的とも言える効果を出す(魔法道具にする)ことができるのです。

魔法的効果というのは大げさな表現かもしれませんが、タロット的に言えば、象徴として扱えば、それは単なる道具的機能にとどまらず、この世界のあらゆるシーンと場所で、四つのアイテムによって、ほかのものを、同じ四つのアイテムのどれかに変化させることができるという話なのです。

これが魔法のからくりです。

ですから、ただアイテムを道具として手に入れるだけでは魔法は発動しないのです。

アイテムをアイテムたらしめている原理を理解することです。

そうすれば、この世界はアイテムに満ちていることに気づいてきますし、それをうまく使って、自分なりの目的を作り、それを達成したり、プロセスを楽しんだりする、この不思議な人生というゲームを味わうことが、よりできてくるでしょう。

実は私たちは、もともと生まれた時からと言いますか、自分自身が四つの性質からできているのです。

つまりは、すでにアイテムはゲットしていることになります。ただ、それを知らず、また魔法の発動法もわからない(隠されている)と言ったところでしょう。

タロットをやっていると、そのありかや秘密にたどり着くことができそうです。少なくとも、四つのアイテムやその世界を知るには、タロットは手っ取り早いです。

四つはエレメントとしての、風・水・火・地と言ってしまえばそれまですが、それでは抽象化し過ぎていて、アイテムとして実態感覚が出ません。

だからこそ、タロットの4組なのであり、それは道具・モノの形をしているのです。

あなたには四つの聖なる道具があり、さらには四つの領域の天使や使い魔がいるようなものです。

ゲームアイテムとの相性のように、人それぞれ、得意分野やアイテムの使いやすさ、使いにくさが個人差としてはあるでしょう。それを知るのもまた人生ゲームのだいご味のひとつです。

そしてゲームでパーティーを組めば効果的なように、それぞれの個性が補い合い、ある目的を早く効率的に達成することも可能となるでしょう。しかし、パーティーによっては、非効率になったり、ライフポイントが減ったりして、大変な目に遭うこともあるかもしれません。

あなたも、タロットを手にして、今いるゲームの世界を、もっと視覚化してみませんか?

もしかすると、行き詰まった問題に打開策が出るかもしれませんし、ゲームイベントのクリアーに寄与することもあるかもしれませんよ。


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