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図星は痛い。

タロットリーディングには、自分を占う場合意を除いて、いくつかのリーディング技術とは別のものが求められます。


そのひとつがコミュニケーション技術だといえるでしょう。


タロットに限らず、対人相談援助を行う人にとっては無視できないものです。


さらにコミュニケーションの技術の中にもいろいろなものがあるのですが、今回はその中でも、一般的にも「これを考慮しておくといいですよ」的なものをご紹介したいと思います。


それはひとことでいえば、


いきなり、図星のことをストレートに指摘しない


ということです。


人は自分でもわかっている(マイナスと思っている)こと、恐れていることをズバリ言われてしまうと、動揺して心の中はパニックになります。


昨日の話 ではないですが、普段薄々思っていることを指摘されたことにより、感情が自分の中で爆発します。


それを収めるため、何とか理屈づけようとするのですが、言われたことは結構当たっていると心で感じているため、うまく論理で抑えることができません。


そのどうしようもない瞬時の葛藤が、言った相手への否定という形で組み直されるのです。


つまり、「相手は間違っている、間違ったことを言われれば私が混乱するのは当たり前だ」と自分に理由づけることで、とりあえずの落ち着きと取り繕いを行うわけなのですね。


これだけならまだしも、相手への否定は、「ホントにとんだことをいう人だ、一時的とはいえ傷ついてしまったではないか、どうしてくれるんだ!」 と今度は相手への反感や憎悪、敵意へと変わっていくのです。


もうこうなると、その人がいくら本当のことやいいことを言っても、心は聞く耳を持ちません。相手は自分にとって悪人と判定されたのですから。


人は感情の生き物といわれているように、いくら正論でも心が受け入れられないと感じたならば、それを受容することはできないのです。反対にとても正論とは思えないものでも、気持ちが納得すれば人は受け入れます。


私も実はこんな仕事をしながら、普通の人間関係において、何度かこの失敗をしてしまったことがあります。(昔は、しゃべりすぎでちょっと一言多いタイプでもありました)


このことは簡単なようでいて、意外に親しくなったという油断から出てしまい、それまで築き上げてきた両者の関係を崩すことにもなりかねないので注意が必要です。


また自分では何気ない指摘をしたようでいて、知らず知らず、相手を傷つけていることがあるのです。親しき仲にも礼儀ありでしょうか。


では耳の痛い話や正論を聞いてもらうのにはどうすればよいかという話については、次の記事で書きたいと思います。


タロットによる感情の整理

この前の 続きになります。


ある感情が(右脳で)発生して、その収まりをつけるめために、人は理屈を左脳でつけたがるというようなことをお話しました。

そして理屈が脳をうまく丸め込む(笑)ことができれば、もやもやした気持ちにもめどが立ち、気持ちの整理がつくということにもふれました。

私たちはささいなことも含めて、日常的にこのようなことを行い、動揺を沈めながら生活を送っています。

しかし、どうにも強烈な体験や理由のつけられない(頭で理解できない)ことが起これば、脳がそれを整理することができず、トラウマのような形で残り、時にはフラッシュバックや人格分離さえ生じさせるといわれています。

一方、では普通程度の出来事だと大丈夫なのかというと、そうとも言い切れないところがあります。

それは自分をごまかし、嘘の言い訳をついて、とにかくも右脳を一時的にだまらせるようなやり方をとっている場合です。

たとえば劣等感と呼ばれるものがあると、それをごまかすために、いろいろと理屈をひねり出します。

最初は、自分には能力がない、お金がない、時間がないなど、ないないづくしから始まり、さらには、相手が悪い、親が悪い、上司か悪い、会社が悪い、社会が悪い、世界が悪い・・・と外への非難に向かって、最終的には自己の存在すら否定することで、感情のいらいら感、もやもや感を収めようとします。

いわゆる不幸自慢というのもこのからくりに似ています。自分を不幸だと理屈づけることで、自分の今の状況の不満感情に折り合いをつけようとするのです。

時にはそれが攻撃的なものへと変貌し、理屈が理屈を呼んで、「オレが不幸なのもあいつのせいだ」「社会のせいだ」と幻想し、自分をおとしめていると理由づけた対象に対して、異常な執着を見せることもあります。

ここまでとはいわないまでも、意外にも人は、「まあ、仕方ないよ」と「仕方ない」理由をつけて、いつも同じ事を簡単あきらめてしまう理屈づけにより、感情を麻痺させることも少なくありません。

そうなとる、日々一時的ごまかしを続けているようなものですから、本当の意味で処理できていない感情は行き場を失い、潜在意識に乱雑に押し込まれることになります。

「ちりも積もれば山となる」ということわざがあるように、それらも蓄積が続くと、突如表面に躍り出て、今度はどうしようもない暴風雨として暴れ狂うこともあるかもしれません。

また、貯められている混乱感情が磁場となって、同じような混乱した状況を引き寄せることもスピリチュアル的にはあるといえるでしょう。

ですから、ここにセラピーや浄化の意義が出てくるのです。

これらの整理されていない、あるいは偽の理屈で押し込められた感情を、きちんと再び取り出し(向き合い)、ラベルを貼って整理棚の中に収めていく手続きをする必要があるのです。整理ですから、時には消去していくものもあるでしょう。

このようにして本当に収まりがついた時(真の意味で理由をつけることができた時)、非常にクリアーで前向きな気持ちになることが可能となるはずです。今までは重しを抱えていたようなものなのですから。

ごまかしの理屈は自分でも(忘れようとして)気がつかないこともありますが、薄々普段感じていることもあります。

タロットはこの感情の整理に役立てることができます。なぜならば、タロットに示された絵柄と象徴があなたの心を映し出す鏡となるからです。

そうしてタロットという鏡を見ながら、あなた自身、ゆっくりと埋もれていたものを整え、再編成していけば、目に見えない負担が減り、きっと気持ちの上でも余裕といい変化が見られることになるでしょう。


結果主義と過程重視について

人は思うに、「効率主義」と「非効率でもよいとする」大きなふたつの考えで生きているような気がします。


それは結果に重きを置くか、過程に重きを置くかの違いと言い換えてもよいかもしれません。


スポーツやビジネスの世界ではほとんど前者に価値が置かれます。


たとえば今のサッカーW杯で、予選を順調に勝ち抜いてきた優勝候補の国でも、負けてしまえば本国のサポーターから叩かれたりしますし、まったく売れない営業マンが、営業セールス術を話しても誰も耳を傾けはしないでしょう。


また誇張した話にはなりますが、「たとえ悪いことをしても見つからなければOK」だと思っている人、「人をだましてでもお金が儲かればいいんだ」という結果がすべてという人もいるでしょう。


これらのことを聞くと、皆さんはすぐに悪い部分を指摘することはできると思います。そう、あまりにも極端だから間違っているのだと。


ところが、これくらい極端であればすぐ理解できるのですが、普通はそうそう激しいコントラストがある場合は少なく、私たちの多くは結果主義と過程重視の微妙なその間で生きているといえます


ですから、「今の自分はどちらの方向が正しいのか」と悩むことも生じるのです。


結局このことは、「自分にとって正しいものはひとつでしかない」という思いこみによる悩みだと考えられます。


「今の自分には結果を出すことが正しい」と思う心と、「いや、努力している過程も大切で結果はあとからついてくる」という心とで葛藤が起きており、その決着が現時点ではつかないので迷うことにもなっているのですね。


ですから「正しい」と思うのではなく、どちらも成長の要素では大切なものがあるし、両方を複合した考えを自分に認めていくことだと感じます。


以前にも書きましたが、 すべてのものはバランスが極端にどちかに傾き過ぎれば、自然に元に戻ろうとする力が働きます。振り子のようなものです。


従ってひとつのことに思い詰めると、反対側のことを求める心、その考えと正反対のものが出てくるのも自然の流れだといえます。


「正しいものにこだわらない」ことを先述しましたが、別に正しいと思って進んでも構いません。その時はそれなりの確信のような気持ちがあるからです。この「確信」的な強い気持ちが生じないうちは、迷いのままの行動となって、結果は難しいものになってくるでしょう。


けれども、その時は過程を重視すればよいのです。迷いながらでもひとつひとつこなしている自分、あるいは迷っているそのものの自分を見つめることに焦点を当てるのです。この時は結果にはこだわらないほうがよいでしょう。


皆さんにイメージしてほしいのは、らせんの動きです。


結果や過程という両極端の狭間で、右や左に行き戻りつしながら、結局同じような道を進みながらも、気がつけば以前より少し上の視点(あるいは下の実際的視点)に行き着いているのです。


立体的にらせん運動を想像してみれば、自分が以前とは異なる地点にいることが確認できるでしょう。


つまりはらせん運動によって、輪が何重にも広がっていき、人間としての幅が増えるということです。それこそが自己成長だともいえるのかもしれません。


ただ、悩み迷って何もしないまま、あるいは何も意識せずにただ流されるだけの生き方をしていると、自分自身をある心の地点に縛り付けていることと同じになります。それではらせんの動きにはなりません。


自然の反動が起こるとはいえ、それではただの左右運動に終始するおそれがあります。


悩むことには価値があります。しかしだからといってある考えに固執したり、反対に思考や知性、自己省察などを無視して、ただ感情の心地よさのみに生きることは、とても怖いことだと私は思います。


龍馬伝でのタロットシーン

先日お会いしたはるひなたさん のご自身のブログ 、またそのはるひなたさんとご一緒に活動されているアフィーノさんのブログ からもお知らせされていましたが、6月27日のNHK大河ドラマ「龍馬伝」に、マルセイユタロットが登場しましたね。


テロップでも、きちんとタロットの監修ははるひなたさんと出ていらっしゃいました。


いやー、それにしても大河ドラマにタロットが、しかも私も愛好するマルセイユタロットが出たことは、すごくインパクトがありました。


あのシーンでタロットが使われたのには、脚本家やスタッフの方などに、タロットがお好きな人がおられたということでしょうか。


それはともかく、個人的にはマルセイユタロットが一般的なメディアに登場したということで、とてもうれしく感じます。


さて、ドラマのシーンでのタロットの展開法は、スリーカード(三枚を並べる方法)でした。


これは、左から「過去、現在、未来」を示したり、ほかに「原因、取るべき行動、結果や願望」を表したりすることもある、今では非常にポピュラーなスプレッド(展開法)です。


一番最初に出たのは「月」のカード、そして次に「皇帝」、最後は「世界」のカードです。


このようにカードの名前を書いただけで、あのシーンのタロットの意味がわからなかった人でも、大まかなことが想像できるのではないでしょうか。


ただそれでも、初めの「月」のカードはちょっと難しいかもしれません。「月」のカードの映像シーン自体が短くて見にくかったこともあります。(一緒に見ていた妻は「太陽」のカードと勘違いしていたくらいですから)


「月」のカードは、二匹の犬が月に向かってほえあっている絵柄のカードで、葛藤やふたつのものの対立や拮抗などを示します。


また絵柄の下の方にはプールのような入り江があり、そこにはカニのような甲殻類も描かれています。


ですから細かく「月」のカードを見ていくと、月に向かう二匹の犬と浮かび上がってきたカニの構図という形になります。


見ようによっては、月(理想や幻想イメージ)に向かい対立する両者と、その間に漁夫の利を狙う者という関係ともイメージできます。


次の「皇帝」のカードは、そのまま文字通り、皇帝と当てはめるとよいでしょう。この頃のフランスの歴史をひもとき、フランス本国ではどういう体制になっていたかを知れば「皇帝」の意味はわかります。


最後は「世界」のカード。これもまさにカードの名前の通りです。この時のフランスが何を狙っているのかを考えれば意味は一目瞭然でしょう。


それからおそらく、監修のはるひなたさんは、この三枚に「数」の意味も入れたと想像しています。


それは三枚のタロットの数の合計数に秘密があります。


全部ばらすと面白くないので、これからは皆様のご想像にお任せしたいと思います。


少なくとも、私の発展コースを受講した方はわかるはずですが。(苦笑)


タロットは右脳と左脳を統合する。

昨日はタロット瞑想というものをご紹介しながら、タロットは理屈で考えよりイメージの世界へ入って、ダイレクトに象徴から心に落とせば理解は早いというようなことをお話しました。


今回もその延長線上の話で、感情と理屈の関係についてタロットを交えながら書いてみたいと思います。


人はストレスや問題発生によって不安やイライラなど抱えますと、それに何とか対処しようという思いが働きます。


この時、感情(不快な気持ち)が先行していますので、機能的には右脳が活性化している状態ともいえます。


気持ちがよくないのに活性化? と妙に思われるかもしれません。


つまりこれは、どんな気持ち(感情)であれ、何かを強く感じてしまうと右脳を働かせていますよ、使うことになりますよといっているのです。


思いが強いと、右脳に過度に負担がかかると考えればわかりやすいでしょう。


このままでは本当に「気持ち悪い」ので、今度は左脳を使って、何とかそのことに理屈をつけようとがんばり始めます。


もし、今起こっていることに対して論理的な理由を見つけることができれば、もやもやした気持ち(感情)は収まります。


ここでいう論理的な理由というのは、厳密な意味での「論理的」ということではなくて、まさに「理屈」というのに近いです。


だから極端に言えば、「屁理屈」でもいいのです。自分の過去の経験、あるいは身につけた知識や予想から、「このことはこういうことなんだな」「これはこうやって対応すればいいんだな」と、脳に「ナットク」させればOKなのです。


ところが、あまりに強烈な出来事であったり、まったく未知のことに出会ってしまったりすると、左脳で理屈づけることができず、右脳の不快感、働き度合いに拍車がかかって人は混乱を迎えてしまいます。


実はタロットリーディングにおいても同じようなことが起きているのです。


タロットを見て感じたことが論理や言葉で説明できない、だからパニックまで行かなくても、不快なので「読めない」と自分からあきらてしまう。そうやって自分の平静を保とうとするのですね。


言い換えれば、「読めない」「わからない」と理屈づけることで、自分の安心を得たということでもあります。(まじめな人ほど「放棄の理屈」をつけないで、パニックになったままになります、これが以前話したリーディングにおける「硬直」です)


けれどもタロットを続けていくと、タロット的な合理性をつかんでいくことができますので、こうしたことは少なくなってきます。(右脳と左脳の統合が働きやすくなるからです)


このことをふまえて、外に目を向ければ、右脳の活性化で左脳で抑えられない事態が出現しても、タロットによる訓練をしていると、何もしていない時よりもコントロールが可能となりやすいと考えらます。


ここにタロットを扱う意義が出ます。


人は日常的にもどんどん自分で屁理屈、小理屈を含めて(笑)、何らかの理由をつけて自分を納得させながら生きています。


しかしこの中には表面的な理屈づけを繰り返しすことで、問題を一時的に収めて(隠して)いるだけのこともあります。


このことを考えていくとセラピーや浄化などと関係してくるのですが、その話はまた次の機会に譲りたいと思います。


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