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カモワン流とホドロフスキー流

日本では、マルセイユタロットと言えば、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット(通称カモワン・タロット、以下カモワンタロットと表記)が結構有名になっています。

おそらく、世界的には創作系マルセイユタロットの区分に入れられ、マイナー扱いではないかと推察されます。

それは、カモワンタロットが、古いマルセイユタロットをもとにしながらも、現代において創作を加えながら、復刻されたものであるからで、言わば新しい(マルセイユ)タロットなのです。

マルセイユタロットは、17から18世紀にかけてフランスを中心に出回った(同じタイプの絵柄の)タロットの総称ですから、本来はその時代のものがマルセイユタロットだと言えます。

マルセイユタロットの歴史につきましては、研究家も世界では多く、日本でも夢然堂さんあたりが、とても詳しいですので、歴史的なことや成り立ち、各版における微妙な違いなど知るのに、非常に参考になりますし、日本でこのような方がいらっしゃるのは、すごいことだと思います。

ちなみに、日本ではカルタと呼ばれる遊戯カードの歴史も、意外に古いもので、タロットのようなカードが、ポルトガルなど南蛮貿易により入ったことで、カード類は日本人にもなじみになって行きます。

花札などもタロットと関係すると考えられます。今やコンピューターゲーム会社として名を馳せる、あの任天堂さんも、もとはと言えば、カルタ、花札などの遊戯カード販売の会社でした。(現在もカード類は販売されていますが)

それで、私自身は、もちろんマルセイユタロットリーダー、講師である以上、そういうカードの歴史には興味はありますが、それよりも、マルセイユタロットの象徴性自体に強い関心があり、それも学術的、あるいは歴史的にそれがどう成立したのかという観点は、私にとってあまり重要ではなく(軽視もできませんが)、私たち人間において、マルセイユタロットの存在・システム・絵柄の象徴が、どのよう意義を、古代のみならず、現代的な意味においても持つのか、考察と活用、そういう点に興味の中心があります。

ですから、カモワンタロットが、たとえ創作・復刻版的な現代のマルセイユタロットであったとしても、象徴性において優れているのであれば、大いに活用できるものだと考えています。

私自身、タロットと言えば、マルセイユタロットにしかほぼ興味がなく、最初にカモワンタロットから入った口ですので、今もって、リーディングにおいてはカモワンタロットを使用させてもらっていますし、このタロットを作ったフィリップ・カモワン氏とアレハンドロ・ホドロフスキー氏、さらには、日本でカモワンタロットを広め、教えを受けました大沼忠弘氏には敬意を表しております。

ですが、今は独自路線として、マルセイユタロット講師・タロットリーダーの道を歩んでおりますから、ある意味、どこにも所属していないフリーの立場で、客観性をもってカモワンタロットを見ることがてきます。

カモワンタロットを純粋に学ぼうとすれば、やはり本家本元、カモワン氏の認定講師のもとで学ばれるのがよいと思います。一方で、カモワンタロットは、もう一人の製作者、アレハンドロ・ホドロフスキー氏のタロットでもあります。

数年前に、このホドロフスキー氏が書いたタロット本が日本語訳されました。「タロットの宇宙」(国書刊行会 黒岩卓訳 伊泉龍一監修)という本です。

この本の訳が出たおかげで、ホドロフスキー氏流のタロット観、タロットリーディングが、日本でも多くの人に知られることになりました。

もともと、ホドロフスキー氏のほうが、映画監督や創作・芸術家としても世界的に有名ですので、どちらか言えば、カモワンタロットと呼ばれるより、ホドロフスキー・タロットと言ったほうが、世界では通じるかもしれません。

ホドロフスキー氏がタロットの愛好家、研究家であることは昔から知られており、彼の作品にもタロットをモチーフにしたものが結構あります。

ホドロフスキー氏はその作品もそうですが、強烈な個性を放つお方ですので、それだけ熱狂的ファンも多く、あのホドロフスキー氏が使うタロット、作ったタロットとして、マルセイユタロットに関心を持たれる方がいらっしゃいます。

ということで、カモワンタロット(ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット)を独学する方の中には、カモワン氏関連からではなく、このように映画世界のホドロフスキー氏関連、特にタロットにおいては、日本語訳された「タロットの宇宙」を基にして学ばれる方もいらっしゃるのではと思います。

またかつて、タロット大学(現イシス学院)の講師や受講生であった方からタロットを学習する人もいるとお聞きしますから、そういう(習われた)方が参考書として、「タロットの宇宙」を手に取ることは想像に難くありません。

しかし、ここで注意が必要です。

私はさきほど、自身の経歴で、カモワンタロットを学びながらも、独立し、今は客観的立場で、カモワンタロット(カモワンタロットを教える講師ではありません)を見ていると申しました。ですから、カモワンタロットにおいての、いわば、カモワン流とホドロフスキー流の違いも指摘することができるのです。

同じタロットの製作者であるお二人ですが、そのタロット観とリーディング方法(技術)はかなり異なるものです。

特に、用いられるリーディング技術、展開法、読み方も、全く違うと言ってもよいくらいです。

例えば、カモワン流では、正逆の位置とタロットに描写されている人物の視線を追って展開していく方法が採られますが、ホドロフスキー氏展開法は、正立のみであり、視線との関連を見ることはあっても、それほどカモワン流ほど厳密ではありません。

むしろ、視線を取らないことのほうか多いと言えます。公開されている動画など見ますと、ホドロフスキー氏の主とする展開法は、スリーカードであり、最初に三枚、正立で引く(最初に三枚引くのは、カモワン流でも用いられますが)のが普通です。

解釈の違いの例も示しまょう。

例えば、二枚引き(二枚カードを並列に置いて読む方法)においては、ホドロフスキー氏は、その著書「タロットの宇宙」では、大アルカナの場合、数の順番通りに並ぶほうが、エネルギー、方向性としてよい、うまく流れると解釈するように記述されています。

しかし、カモワン流では、視線の向き合い方がかなり重要な意味を持ち、正立同士のカード人物の視線の向き合い、もしくは、視線が他のカードに注がれている場合、カードの数にはあまり関係なく、その二枚の視線の関連性が強調される読み方を取ります。従って、大アルカナの数が右方向にマイナス(左のほうが数が上)で並んでいても、よい解釈になることもあるのです。

もし、カモワン流を習い、まだタロットの理解が浅い段階で、ホドロフスキー氏の「タロットの宇宙」を読むと、特にリーディングの解釈において、かなり混乱したことになるのではないかと予想されます。その逆もまた言え、ホドロフスキー流に慣れてしまうと、カモワン流の正逆と視線を追う展開法が、なかなかわかりづらいものとなるでしょう。

もちろん、どちらの見方も間違いとか正解はありりません。ひとつの解釈の技術と言えます。

ただ、実際に、カモワンタロットを使い、リーディングをしていく場合、両者の読み方や解釈(を生半可で知った状態で)の整理がついていないと、どちらの読み方(解釈)が正しいのかわからなくなったり、どのケースにおいて、どの読み方を適用すべきかということも、よくわからないままで、いろいろなパターンを言うだけ言って、リーダーだけではなく、クライアントを迷わせてしまうこともあるのです。

知識自慢ではありませんが、たくさんの読み方や技術を知っているからと言って、よいリーディングができるとは限らないのです。自分の使ってる技術、読み方がどのようなものかをきちんと整理して理解しておく必要が、タロットリーダーにはあります。

そして、、ホドロフスキー氏とカモワン氏とでは、ここが決定的で重要な違いと言えますが、それぞれが「是とする思想」と言いますか、「本来的に人間はどうあるへきか」の考え、置きどころ、根本が異なるところがあると私は考えています。(さらに、人間向上のプロセスとしての、重要選択事項が異なるとも言えます)

土台となるタロット観自体が違うので、リーディング解釈も両者によって変わってくるのも当然です。

ホドロフスキー氏のほうがタロットと現実の扱いにおいて柔軟であり、より人間的と言え、カモワン氏は、よく言えば純粋であり、二元論的、物質と霊の対立、そこから(霊に向かう)浄化というところが強調される見方になっているように感じます。

一見、ホドロフスキー氏のほうが、限定的・地上的に見えますが、その逆で、むしろ宇宙的・包括的であり、カモワン氏のほうは一見、霊的で抽象的でありながら、その実、とても限定的・地上的なところがあるように見受けられます。

そして、リーディング技法においては、ホドロフスキー流のほうがシンプルには見えますが、学んだり、実際に行ったりするのにはなかなかなか難しく、カモワン流のほうが逆に取り組みやすく、読みやすいのではないかという(個人的な)感想です。

本業が映画監督であり、創作家として現実世界との関わりをたくさん持ち、サイコロジストであり、セラピストでもあるホドロフスキー氏と、タロットメーカーの子孫として生まれ、タロットを自身の至上命題とし、孤独に引きこもりのように霊的探求をし、スピリチュアリストとも言えるカモワン氏との違いとも言えましょう。

このように、かなり異なるお二人なのですが、それでも共同でタロットを製作したわけですから、二人の共通点、意気投合したところもあるはずです。

マルセイユタロットについて理解が深まってくれば、お二人の読み方の違いと、その奥にある共通観点も見えてきます。それこそが、私たちが(二人のタロットから)知るべきことなのです。

どのような人にも、タロットが好きであるならばなじみますし、タロットは、その人の思想・信条を補助したり、整理したりしてくれます。

そういう意味では、タロットは、どんな人が扱うにしても、(解釈・考え方に)自分色というものが出ます。

同時に、(マルセイユ)タロットは、ホドロフスキー氏とカモワン氏が違っていても、同じタロットを作り、それぞれがタロットを深く信頼しているように、何か普遍的で確かな魅力、論理、感性のようなものも持ちます。

一人一人、違っていて当たり前でありながら、深いところ、高いレベルではつながり、共通している・・・と言えば、それはまるで私たち人間と同じと言えます。

タロットによって人(自他)を知り、宇宙を知ると言われるのも、このような所以からだと思います。まさにホドロフスキー氏ではありませんが、「タロットの宇宙」なのです。


タロットの78枚と私たちの個性

タロット、そしてこのブログの主題となっている「マルセイユタロット」は、78枚もの枚数があります。

これら、一枚一枚が違うカードであるのは、もちろん絵柄から見ても違いは明白であり、だからこそ、数多の物事をカードで例えたり、事象をシンボル(象徴)として扱うこともできるわけです。

このことは、ごく当たり前のことを言っているのですが、それでも、実は、ある意味、重要なことなのです。

それは逆から考えてみればわかります。

占いでもリーディングても、タロットを引くことで、それが私たちの生活や物事、さらに心まで表していることを知りますが、ということは、この世界は、タロットの数だけ、いやそれ以上のバラエティさ(違い、種類)があるのだということになります。(たくさんの枚数を持つタロットが、私たちの世界を表すことができるのなら、私たちの世界も多数からできていると考えることができるという意味)

タロットの枚数が多いのも、私たちの世界を象徴させるためには必要だったと考えられます。

このことを踏まえて、改めてタロットを見ますと、マルセイユタロットにおいては、すでに「手品師」によって示されていたのでした。「手品師」のどの部分がそれを表すのかということは、暗号事項にもなりますから、ここではふれませんが。

ともかく、結局、この世界は、個性や違いでできていると言ってよいでしょう。

ところが、タロットは、現実の世界だけを象徴しているのではありません。

さきほど、「心」についても言及しましたが、心は自分や他人の部分として目には見えませんが、実際的であると言えます。それは、「(心が)ある」ということを、普通は意識できるものだからです。

しかし、もっと大きな範疇とも言える、宇宙の真理とか、集合的な意識など、全体的ともいえる目に見えない領域になりますと、あやふやなものになってきて、どうとらえていいのか、わからなくなります。

すると、タロットで言いますと、78枚に分離した、それぞれのカードの個性という見方ではなく、ある括りや、グループ、統一された概念、法則のようなものを見ていくことになります。

面白いことに、マルセイユタロットはそれさえも可能なのです。

ということは、マルセイユタロットは、私たちの(現実的な)世界の表現だけではなく、もっと何か別のものまで表している、または表すことができるのだと考えることができます。

とまあ、ここまでは前提の話、前振りです。(笑)

さきほど、私たちの世界は、個性の世界で、タロットで言えば、78枚のそれぞれの世界だという言い方をしました。

タロットでは、一枚一枚、本来はいい・悪いの意味はないのですが、シチュエーションによっては、ポジティブ・ネガティブな意味合いに取れることもあります。占いの場合は、明らかに、吉凶に分かれるカードの区別を持つ(区別をつけている)こともあります。

個性の世界(つまり現実の世界)では、それぞれが別々の価値観や思いを持つことになりますから、タロットカードのように、一枚一枚、つまり一人一人や各物事ごとに、違い(個性)を帯びることになり、それには、いい・悪いとか、良し悪し、ポジ・ネガみたいな見方も当然出てくるわけです。

仮にあなたが、ポジティブ、よいことだと思う個性を持っていたとしましょう。その個性は、皆からも認められ、賞賛され、言わば、華々しく自分の個性を表現できている状態と言えます。

ところが、こんな自分はダメだとか、劣等感のごとく、ある自分の部分が嫌だとかという意識でいますと、それはある意味、ネガティブな個性とも言え、自分で自分の個性を認めたくない、忌避したくなる心境となるでしょう。

加えて、周囲からはあまり良く思われず(実状は、自分がそう思っているだけのことが多いのですが)、とにかく、自分を認められず、そんな自分と周囲であるこの世界(現実)をも、否定したくなるかもしれません。

要するに、ポジティブな個性では自分の人生がよいように感じ、ネガティブな個性では、悪く思ってしまうことになります。

ネガティブな個性を自分自身が信じ、それに凝り固まってしまうと、なかなかその心境から抜け出せなくなります。先にも述べたように、ネガティブな個性にあると認めてしまうと、人生そのもの、いや、自分の生きている現実世界そのものが、悪くなってしまいます。

タロットカードで言えば、ある一枚に悪い意味を付与して、その意味だけで解釈してしまうような状態です。

できれば、自分は悪いカードになりたくありませんよね。(笑)

ここで、余談ですが(しかし極めて重要なことでもあるのですが)、「自分はネガティブな個性でもよい」と、あえてネガティブを選んでしまう人もいます。

それはなぜかと言いますと、たとえ悪い意味でも、目立つからです。いや、むしろ、悪ければ悪いほど、強烈な個性を放ち、周囲から埋もれることがなくなります。まあ、悪目立ちみたいなものです。

こういうタイプの人が恐れることは、没個性になってしまうことであり、凡人であること、普通であること、無視されることなのです。また、何らかの事情で、ある特定の人か、グループに向けて、自分の存在、すなわち個性を訴えなくてはならないと(潜在的に)思っているケースがあります。

すると、悪かろうが良かろうが、とにかく自分が目立てばよい、注目してもらえればよい、気づいてもらえればよいとなり、簡単なのは、むしろ良いことでよりも悪いことでのほうなので、その選択を自覚・無自覚に関わらず、やってしまう場合があります。

自分の問題(状況)、例えば、経済・健康・恋愛・人間関係等、よくある人の悩みは、これが起因していることもあると考えられます。

さて話を戻しますと、人はネガティブな個性を自分で認めてしまうと、人生や世界が悪くなる(ネガティブになる)と言いました。

ならば、自分の個性をポジティブなものに書き換えたり、思い直したりすればよいわけです。

そのための、特に実際的方法や、心理的技法などは、いろいろと紹介されたり、セッションされたりしていますよね。

結局、自分がどう思うかのことなので、自分の心と関係するのですが、自分への思いというのは、環境や他人によってもかなり影響されますから、外側から働きかける(環境の変化、実績づくり、成功体験、自分をよい意味で認めてくれる人たちと交流するなどの)ことでも、ポジティブな自我(個性)認識は可能です。

もちろん、心理的に、癒し・浄化、書き換えなどで、ポジティブな自分への変換ができます。どちら、あるいは両方をやってもよく、自然に人は、誰ても、何からの方法で、ネガティブな自分認識を、ポジティブなものへと、変えようとはしていると思います。

ただ、ネガとポジの関係は、次元(世界)が異なれば、実は表裏一体なものであり、ネガ、もしくはポジを意識すればするほど、その逆の性質も増えたり、強くなったりする仕組みがあります。

タロットカードで言いますと、ネガティブなカードを作れば(意味を与えれば)、逆のポジティブな意味のカードも同じだけ存在しないといけなくなるようなものです。あるカードの意味を変えたところで、ほかのカードが代わりに、その意味を受け持つだけです。

そこで、こういう方法を考えます。

それは、「統合」の概念や意識を使うということです。ポジもネガも表裏一体であるのなら、その表裏一体が見える(認識できる)位置にまで、意識を上昇(統合)すればよいのです。

タロットで言うと、一枚のカードにネガもポジも、両面の意味を見るということになりますし、78枚をバラバラで見るのではなく、ある種の統一感(法則、原理)をもって俯瞰するような形になります。

いい・悪いでカードを受け取ったり、78枚のそれぞれの個性を別々にして意味を見ていたりすると、いつまでもバラバラな次元(バラバラでつながりのない世界)に閉じ込められた見方に固執してしまいます。

それは、言い換えれば、私たちの現実世界で、個性をよい・悪いで見てしまって、いちいち起きる事柄に、吉凶的運命を感じ、喜んだり、悲しんだりする状況とも表現できます。

従って、自分の個性を、現実の常識に照らし合わせて、ただよい・悪いと判断するのではなく、そもそも個性とは何かとか、個性を超越した統合的本来的存在が自分であると認識することによって、少なくとも、ネガティブな個性を思って、自分と自分のいる世界を闇に変えてしまう恐れからは脱却できます。

タロットカードで言えば、カードを個々に、吉凶的に見る(と意味を覚える)状態から、カード全体を俯瞰し、グルーピング化を図り、最終的には78枚を巨大な一枚にしてしまうような感じです。

すべてのカードは我(われ)であり、違いと見えていた世界から、本質的に同じであると認識する世界への移行(旅)です。スピリチュアル的に言えば、自己アセンションとなりますし、心理学的には、人格統合、ユングの個性化のプロセスと言ってもよいでしょう。

言い換えれば、複雑で個性あるバラエティの世界から、単純で、ひとつであり、無(でいて、有)である世界に変わっていく過程です。しかし、不思議な言い方になりますが、同時に、正反対の方向にも進んでいることになります。(例えば、複雑から単純の方向でもあっても、裏の見方では、単純から複雑にも進んでいるということ)

正反対も同時発生しているというのは、なかなかわかりにくいと思います。ですが、タロットを見ればイメージができるのです。

タロット(マルセイユタロット)も、「手品師」と「世界」とか、小アルカナの数カードのエースと10番の関係、宮廷カードの小姓と騎士の関係などから、そのようなことが見て取れます。

ですから、個性を消すことでよくなると言っているのではなく、逆に、個性において、ネガティブもポジティブも受け入れ、認めることで、本当は進化し、悩みや問題もなくなっていく(本当は、なくなるのではなく、認識が変わる)ことを述べているのです。


タロットでの選択

何か選択に困った時、タロット占い(タロットで占ったもらうことで)決める人もいるかもしれません。

タロットが選択のツールとしては、なかなか優れているところがあるのも確かです。

まず、人は、自分で迷ったり、悩んでいたりする時というのは、自分で決められない状態であるからで、その場合、必然的に、他人や何か外からの示唆を求めます。

タロットは、たとえ自分が引くとしても、一応は外(にある)の道具なので、客観性があるわけです。

その意味では、別にタロットカードでなくてもよく、ほかのカードや、極端なことを言えば、トランプでも使えますし、えんびつごろがし(笑)でも、自分以外からの示唆と取ることもできます。

要するに、外からの刺激・示しがあれば、自己の堂々巡りからの打開が図られる可能性が高まるわけです。

さきほど、外からのものなら何でもいいとは言いましたが、タロットの場合は、極めて練られた象徴体系(シンボリズム)がありますので、その象徴の意味を理解していると、偶然引いたカードの中にも、心理的には潜在意識とか深層心理、霊的には多次元的な意識(高次意識)などと接触できる精度が高まり、解釈に合理性(現代の科学的な意味の合理性ではなく、象徴体系から来る合理性)が出ます。

つまりは、整った絵地図(解答書)のようなものが最初にありきなので、そこに照らして解釈することができるのです。

これがデタラメで、整っていない道具(の集まり)を使う時は、照らし合わせる大元がそもそも整理されていないので、解釈もデタラメになりやすい(整合性・合理性が取れず、判断がつきにくい)のです。

さて、そんなタロットを使った選択ですが、タロットに慣れてくると言いますか、探求が進みますと、タロットを使っての選択はあまりしなくなってきます。

というのも、何かを選択するというのは、ある良し悪しの解釈・基準によるということになりますが、(マルセイユ)タロットはそういった「二元的解釈・判断」を「統合していく」領域に入るためにあるとも言えるからなのです。

統合的な見方を進めてきますと、当然ながら、どちらがとか、どれがとかの、複数から選ぶ行為と言いますか、そういうモノの見方がなじまなくなってきます。

言わば、「どちらでもよい」「どちらもあり」「どちらもない」みたいな、不思議な見方になってくるのです。

もちろん、それでも、どちらとか、どれかを優先的に出す技術は、タロットの引き方で存在します。

しかし、たとえそうした方法で出したとしても、見る側が、包括的に見てしまうようになるので、セオリー的には、「こちらがいいですよ」みたいな解釈が可能でも、別の見方が出てきて、その優先順位がぐらつくようになります。

こうなると、選択において、タロットが使えなくなってきます。(苦笑)

ですが、「選択」「選ぶ」というより、選ぶための要素分析のような観点を持てば、何が今は優先されるのかとか、自分がどれを重視てしまっているのか、などがタロットでわかるようになります。

それを踏まえたうえでなら、選択する、選ぶことも可能になります。

例えば、今回は「経済的なことが中心の選択」であるとか、「気持ちや心の納得感が選択の重要なポイント」であるとか、そういう選択においての価値基準がわかるという話です。

こう書くと、すでにお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、そういった要素の分析・観点という意味では、小アルカナが適用されます。

小アルカナは、大アルカナに比べて、現実的なフィールドの象徴として使えるカードたちです。(実はそうとも言えない考え方もあるのですが、ここでは一般的な小アルカナの活用を述べています)

現実的なフィールドとは、私たちが普通に生活している世界での感覚であり、そこでは四大元素と呼ばれる四つの領域・要素が働いていると(古代からは)考えられています。

この四つの要素での分析によって、優先するもの、重要なもの、あるいは偏りが判断できます。

「偏り」と書いたように、自分が過度に肩入れしているもの、本来はもっとフラットに、ほかの要素も見たほうがよいのに、見えなくなっている状態、こだわり過ぎていることをチェックする意味でも使えるのです。

現実感覚の世界(常識的な世界)では、あれもこれもすべてを同時に選べるわけではありません。

だからこそ、私たちは選択に迷うのです。

それは、時間と空間が、強く、三次元的に認識されているからという理由もあるでしょう。

簡単に言えば、時間制限があるから、空間的制約があるから、選ばないといけなくなるというわけてす。

小アルカナの四つの要素は、それらが分離した時、このような時空制約のある意識とリンクしてきます。

言い換えれば、四つの要素が分離した時、私たちは現実の世界で生きている感覚を持つということです。

ですから、本当は、この四つを統合した世界に参入すれば、選択の迷いは消えることになります。それは意識(だけ)のうえ(世界)では可能ですが、肉体を持って通常の生活している場合は、なかなかそうした意識にはなりにくいです。

従って、人間として普通に生活している限り、選択の迷いは必ず発生すると見てよいでしょう。(意識の統合が図られれば、迷いは少なくなりますが)

そんな時のために、小アルカナでの選択が活用されます。言ってみれば、現実を生きるための、一時的な適用補助装置みたいなものが小アルカナにはあります。

そう思うと、タロットは本当によくできているなあと思えますし、やはり、人間(私たち、市井で悩む人)のために作られていると、感慨深いものがあります。

一方でタロットは、ちゃんと、悟りとか、現実(普通の人間)を超えて、霊的な向上を目指す人にも、大アルカナというもので、その示唆を用意してくれているのです。

このように、大・小を、その時その時によって使いこなしながら、自分の目指す方向性に向かって、タロットとともにに進むことができます。

ところで、タロットの代表ともいえるカードに「愚者」というカードがあります。

このカードには、旅をする人物に、犬のような動物が付き添っているのが描かれています。

まさに、この犬こそがタロットカードの役割なのだと感じられます。

あなたの旅のお供に、タロットカードを、です。


ささやかな救いの世界

今の時代、情報機器とシステムの急速な発達によって、誰もが自分から発信することが簡単になりました。

ちょっと前は、文章で、そして次第に映像や動画でと移っていき、おそらく、ほとんど普通の状態と変わらないくらいリアルな感じで、すぐに思いついたら、あらゆるところから自由に発信できるようになるのもすぐでしょう。

そうなると、いわゆるメディアというものが、企業とか組織だけではなく、普通に個人それぞれが情報局、発信・放送局になってくるわけで、テレビ的に言えば、人口分だけチャンネルがあるようなものと言えます。本当に選びたい放題で迷いますね。(笑)

とはいえ、そうなってきますと、テレビで視聴率が気にされるように(まあ、これはお金を出すスポンサーの意向が関係しているわけですが)、自分の発信や情報は多くの人にどう見られているのか、そもそもそ関心を持ってくれているのか・・・というような不安も出て来るものと思います。

いや、すでに、SNSではそのような状態になっているとも言えます。

目立つ人、エッジの立つ人、とても個性的な人、コンテンツや内容が面白く、それを皆に提供できる人・・・このような人は、ますます持てはやされ、人気者となり、カリスマ化されることでしょう。

一方で、前にも書いたことがありますが、これだけ誰でも気軽に自分から表現や発信ができる時代になってきますと、それにうまく適応できなかったり、自分から特によいと思えるものを出せなかったりする人も、それだけ多く出ることになると思います。

簡単になったとは言え、例えば動画でも、それなりに企画力や編集技術などがいりますし、文章を書くことや、話しをするのが苦手だったり、そもそもネットとはいえ、人前で何かを表現するというのには抵抗があったりする人もいるでしょう。

ですから、この、メディア表現の過渡期とも言える時代のこれからとして、ますます二極化が進むのではないとかと危惧しています。

その二極とは、どんどん自己表現・自己発信して、自我としての自信、言い換えれば、自分自身を生きているという実感を持つ者(平たく言えば、人生が充実していると感じる人)と、一方では、多くの人に埋もれ、目立つこともなく、得意なものがあるとは自分で思えず、平均以下のように自身を思い、自我が喪失気味になる人(人生が空しい、つまらないと思う人)との二極です。

しかし、最終的には、本当の意味で、誰もが簡単に自己を発信できるようになれば、それが当たり前となるので、定番の自己紹介みたいな形で、自己表現の世界は、一度、フラットなものに統合されていくのではないかと予想しています。二極化はそれまでの間の、移行期に起きる特徴と推測しています。

しかし、移行期がどれだけ続くかは、まだ予想がつきませんので、しばらくは、前述した二極化で、特に後者の人は、自分を見失い、世界に落胆、ひどくなれば絶望することもあるかもしれません。

ここで重要なのが、やはりリアルな関係や交流、ふれあいだと思います。しかも、何かリーダー的な一人のもとに集まるという(集団・組織的な)ものではなく、一対一とか、少数グループによる交流、ふれあいみたいなものが特に重要でしょう。

精神の世界では、距離や場所は関係ありませんが、現実の世界では、やはり、それは無視できないものです。つまり、直接会うのと、ネットをや何かを介してのものだと、情報・交流の質が違うと言えます。直接会い、話すことで、響く世界があるとでも言いましょうか。

スピリチュアルなことで言えば、それはアストラル空間やその世界の話に関係すると考えられますが、人との、特に生身の交流によって感情の刺激が起こり、それによって不快なことや嫌な気持ちも生じる一方で、逆に、心地よさ、いわゆる「愛」というものを感じる世界が、心の中に現れます。

それがまさに「救い」となることがあるのです。これはマルセイユタロットで言えば、「節制」のカードに象徴されることだと私は思います。

皮肉なことに、人は人によって傷つきますが、同時に、人によっても救われ、つまりは、人の気持ち(心)を避けていては救いも訪れない仕組みが、どうやらこの世界にはあるようなのです。

ということで、昔からも言われていましたが、ますます、これからの時代は、特に自己表現が苦手だったり、ポジティブに多くの人と交流できなかったりする人は、だからこそ、極少数の人とのリアルな関係、あるいは(特に直接会話するような)時間を大切にするとよいかと思います。ただ、そういう人やグループに依存するという意味ではありません。

なお、タロットを学ぶ人は、これを他人に対するタロットリーディングによって、行える場合があります。

他人リーディングと言っても、何もプロでする必要はありません。

ボランティアでも、趣味でも、自分がタロットリーディングが少しできるということで、他人に対し、リーディングする機会を持つことができるわけです。

普通、なかなか他人といきなり接するのは難しいものです。

ですが、「タロットリーディングができます」と言えば、それをきっかけに、人と会話する機会が持てます。もちろん、リーディングを行うことで、相手も自分も、問題における何らかの解決策、指針、癒しなどを得ることもできるでしょう。

でもそれ(リーディングによる問題解決)が目的でなくてもよいわけで、とにかく、ライブやリアルで人と会話したり、時間を過ごしたりすることが、タロットリーディングによってできるわけです。

こうすると、いわば空虚で乾き、色のなかった自分の心の状態にも潤いが与えられ、少しは自分がいてよかったこと、生きていく価値のあることを思い出すこともあるでしょう。

そのことを多くの人に発信できなくても、自分(と相手と)の中では、確かなものとして存在することができ、外の世界はどうあれ、愛の世界(エネルギー)を自分にチャージすることができます。

別に自分を無理に高めたり、評価したりしなくてもよいのです。

人は人、自分は自分てす。それでも、この世の中、人と比べ、落ち込んでしまう自分がいることもあるでしょう。

そうした外の世界や時間は無視できないものではありますが、これとは別に、自分の世界、自分に流れる優しくゆっくりとした世界もあるのだと思ってください。

そして、それは閉じこもっていては逆に見つかりにくく、またたくさんの人と関わってしまうと、エネルギーを失い、閉じこもりたくなります。

だから、ほんの少しの人とリアルに関わるそうした時間と空間を持てばよいのだと思います。

さらに、そうした人物(相手)に自分がなってあげると、意外に(自他に)救いをもたらすことができるのではないかと想像します。そのツールとして、タロット使ってみるのはいかがでしょうか。

タロットは、これからの時代、意外に、必要で、よいツールになるのかもしれません。


タロットの精霊、心理バージョン

タロットの精霊と言う言葉と言いますか、存在を聞いたことがあるでしょうか?

一般的には聞くことのないものですが、タロットに関心のある人、関わる人、リーディングを実際に行う人には、常識的存在かもしれません。

ただ、タロットを習う人、学んだ人でも、このタロットの精霊の存在を知らない人もいますし、言葉は知っていても、どういうものなのか実感として、あるいは知識としてもわからないという人が多いように思います。

私も、ここでは詳細に語ることはできません。

それは、タロットの精霊という定義が難しいからでもあります。

タロットを魔法(魔術)世界の道具として扱う場合、タロットの精霊は、ある意味、サイキック・メンタル界的なもの、そういったエンティティ(存在性あるもの)として、感覚化することが課せられると思います。

そうした世界になると、はっきりとタロットの精霊は実在するものとなります。

ただ、魔法の世界に参入するには、それなりの訓練や指導者が必要となってきます。タロットと魔法世界は、今や日本でもメジャーなタロットとなっている「ウェイト版(通称ライダー版)」タロットが、近代魔術結社ゴールデーンドーンの団員によって作成されたことからも、関わりの深さは明白です。

中には、「魔法(技法・知識)に結びつかないタロットは、形式的・表面的・遊戯的なものでしかない」という人もいます。パスワーキングのようなタロット瞑想などのテクニックも、公にされているものは、ほとんど近代の魔術結社による技法の一部だと推測されます。

しかしながら、もともとサイキック的な素養のある人などは、その人自身が見たり、感じたりするタロットの精霊とのコンタクトが可能な場合もあります。

私の知人や生徒さんの中でも、そういった人は、その方なりのタロットの精霊とコミュニケーションして、リーディングする人も実際にいます。

さて、ここでは、魔法的・サイキック的な意味でのタロットの精霊とは別に、意識的なもの、心理的なものとして、タロットの精霊を見ていきます。そして、そうした存在の仮定をしたほうが、場合によってはよいことも示します。

タロットの精霊が、何か目に見えない、ファンタジー世界の住人のような存在か、心霊的エンティティなのかはともかく、ここはその証明や説はひとまず置いておいて、タロットの精霊なるものを、とにかく空想・仮定して、あなたの心の中では存在させるとします。

これは、いわば、心理的なテクニックと言えます。心で想像することで、少なくとも、あなた自身の中にはイメージや観念だとしても、存在することになります。客観的な存在証明はもちろん必要ないのです。

すると、まず、タロットと自分の関係が、人とモノ(カード)というふたつの立場から変化していきます。

あくまで、自分が(主体で)タロットを扱い、読むのだというのが、普通の感覚でしょうが、ここに、自分の心の中に、タロットの精霊のようなものがいるとすると、自分がタロットと対峙した時に(そのイメージ的存在が)仲立ちとしての機能を発現させてくるようになります。(結局、自分自身が行っているのですが)

「タロットの精霊」ですから、当然タロットには詳しく、むしろ精霊にはそれが家であり世界であり、専門の存在たちと言えます。(と空想する)

一方、こちら側は、タロットは手にはしていますが、しょせん人間であり、カードの中に実際に入ることはできません。(笑) 物理的な意味でのタロットカードは、あくまで紙に図像が描かれた絵に過ぎないからです。

もちろん、ここから自分なりにカードを生命体のように思って扱い、タロットとのコンタクトを図りやすくする方法もあります。

実は、そうした方法の一つとも言い得るのですが、あらかじめ、タロットの精霊を自分の心の中に仮想しておくことで、もっとカードと自分自身のコミュニケーションを行いやすくするわけです。

「それは単なる思い込みじゃないですか」といぶかる人もいるでしょう。でも、最初は思い込みからなのです。

自分が思い込まないと、何も自分の中には生まれません。妄想のようなものでも、タロットの精霊を想像することで、まさに創造が可能になってきます。

それが次第に強くなれば、自分だけでタロットと接しているのではなく、自分と、心の中のタロットの精霊との協同で、ふたつの見方によってタロットを見るようになります。

それは、人間としての知識や常識的な見方と、もう一つ、タロットの世界の感覚とでも言いましょうか、直感的なもので、タロットカードのそれぞれの一般的な意味とは異なる、独特な解釈やインスピレーションが生まれてくることがあるのです。

心理的な言い方に戻れば、顕在意識が前者であり、タロットの精霊を仮定した心を通して出るものが、より潜在意識的と言えましょう。

そう、タロットの精霊を心に置いた場合、(心理的な場合は、自分自身との)コンタクトやアクセスする回路が通常とは異なってくるのです。

私たちは、普通の意識の時は、日常的によく使っている脳の神経回路を使っていると言われます。

これに対して、何かすごい経験があったり、いつもとは違う環境に置かれたり、緊張から解放された瞬間だったりすると、脳内電流の通る神経回路が別ルートを通ったり、一気に多く走り抜けたりすると聞いたことがあります。

こうした機能と似て、タロットとの精霊を強くイメージし、自分の心にひとつのアクセス回路として機能してくると、非日常感が増し、普通の読み方とか、意味とかを超えたものがやってくる可能性があると考えられます。

言わば、情報の取り方・ルートが、タロットの精霊を置くことで違ってくるわけです。

これは、神や天使がいるいないの問題とは別に、そうした存在を信じていたり、身近にイメージしていたりすることで、そのような力や守護が自分に働きかける、起こると感覚するものと同じようなことです。

心理的に説明した場合は、心の像が自分を納得(いい意味で錯覚させる)と考えてもよく、実はサイキック的に言えば、本当にそうしたエネルギーや通路が作られていると見ることもできます。

ですから、タロットの精霊の実在性はともかくとして、そういう存在を仮定してタロットを扱うほうが、タロットとはお近づきになりやすいのです。

しかし、これもあくまで一手段ですから、人によっては向き・不向きもあります。

何か見えないものをイメージしたり、ファンタジックな世界が好きだったりする人には、とても効果的と言えますが、空想やイメージが苦手で、そういうことをすると、かえって思考や感情、感覚が混乱したり、ストップしたりしてしまうような人は、タロットの精霊という仮定も向いていないかもしれません。

まあ、本当にタロットが好きで、タロットに継続して関わっている人には、自分が作り出しているか、本当にタロットの世界から来ているかはわからないにしても、何かしら、タロットの精霊のようなものを感じることはあるはずです。信じなくても、タロットのほうがわかってくれるみたいなものと言えましょうか。

とりあえず、大アルカナの中でも、特殊で数を持たない「愚者」は、それだけやはり特別(どのナンバーのカードでもない)のですから、一組のタロットの代表として思ってもよく、あなたのタロットカードの「愚者」の図像を前にして、心の中でもイメージし、「愚者」が動き出したり、語ったりしてくるのを待つとよいでしょう。

タロットの精霊のようなものを、自分が作り出すという説においては、当然ながら、自己(の性格・キャラなど)が反映されやすくなりますから、イメージした「愚者」が、あなたの分身であるように見えることもあるかもしれません。そういう場合、あなたはちょっと苦笑いしそうですね。(笑)

それでも、もし、自分が作り出しているのではなく、タロットの世界という異世界があるとすると、あなたは「愚者」を思うことで、その世界にコンタクトを取っていることになります。

自分が招くのか、あなたが招待されるのか、こちらの世界にあちらの世界を一部シンクロさせるのか、はたまた、こちらの世界からあちらの世界へ旅をするのか、表現や方法はいろいろあるわけです。

いずれにしても、たとえ分身であっても、それはあなたの全部ではないですし、あなたそのものでもありません。

例えば「愚者」という絵柄があるために、あなたの中の愚者的部分を投影して、その性格を受け持っていることも考えられます。

ということは、解離性人格障害ではないですが、普段の自分とは違う性格の者と会話をすることになり、現れる言葉、直感もまた、常識とこちらの世界で生きているあなた自身とは異なっていることも、心理的にはありえるでしょう。

通常意識のあなたが読むより、あなたのタロットの精霊(心理的には、あなたがタロットモードに入った時の別のパーソナリティ)が読むほうが、すばらしいかもしれないのです。

ただし、普通のあなたが統合し、コントロールしていくことは必要です。それは、タロットの扱い、リーディングを行っているのは、こちらの現実の世界でのことだからです。

タロットをされている方は、一度、あなたの(心理的な)、タロットの精霊を存在させてみましょう。


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