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新たな「手品師」の誕生に向けて

マルセイユタロット、アルカナナンバー1、私たちは「手品師」と呼んでいるカードがあります。

ちなみに、ウェイト版などのほかのタロット種では、同じ数のアルカナは「魔術師」と呼ばれ、そのほうが一般的です。

しかし、マルセイユタロットの図柄を見てもらえばわかるように、このカードは大道芸を披露している人の絵であり、彼はテーブルの上で手品道具を見せ、やはり手品をしていると想定するのが、素直な見方だと思います。

ですから、「手品師」、もしくは「奇術師」、あるいは広い意味で「大道芸人」と呼ぶのがふさわしいと個人的には思います。

さて、これからの時代、この「手品師」をモチーフにした時代が新たに始まるのではないかと予想しています。

実は、タロットカードに時代を象徴させることもでき、それは逆に考えれば、タロットに時代の進展も描かれていると見ることができるのです。

そういうと、ナンバーごとに時代が進むのでは?と予想する人もおられるでしょう。確かに、それも一理あるのですが、ことはそう単純なものではないのです。

これは宇宙の進化の構造を考えないと見えてこないところがありますが、それだけに、宇宙の進化・発展のプロセスがおぼろげながらでもつかめてくると、その時、改めてマルセイユタロットを見直すと、タロットがすでにそのシステムを描ていること、タロットのシステムと宇宙のシステムがシンクロするように作られていることに気がつきます。

それはまた、自分の理解や気づき、解放が現れれば現れるほど、タロットは宇宙の秘密を開示させていくようなものになっています。

最初は、そうしたこと(タロットの象徴システムの基本知識)を誰かにに教わる必要はあるとしても、やがて、自分でいろいろと気がついてくるようになります。だからこそ、タロットは智慧の宝庫あらゆるものの象徴図と言われる所以になります。

話を「手品師」に戻します。

「手品師」について、書物やスクールでマルセイユタロットを学んだ人においては、主な意味に「仕事」として覚えられた人も少なくないと思います。

実際それは言えることで、しかも、アルカナナンバーが1であることで、現実的に暮らしていくための基本の「最初、始まり、第一の理」として、人との関わり、仕事を持って報酬を得て生活していく象徴として「手品師」をとらえてきたこともあるでしょう。

私たちの社会・暮らしを見ても、その意味では、ほとんどの人が「手品師」であり、それを経験していると言えます。まあ中には、「愚者」のように、仕事や定住性を持たず、フリーに生きている人もいますが。

そうすると、「手品師」になるということは、現実生活の基本をマスターする、経験するみたいな、ちょっと固い意味と言いますか、とても堅実な感じがしてきます。

しかし、最初にも述べたように、この「手品師」は大道芸人で手品をしているわけです。たとえそれが彼の仕事であっても、大道芸人は、今でいうサラリーマンではないでしょう。

中世から近世の頃のヨーロッパの風習・民俗性をもとに描かれているマルセイユタロットです。その頃の大道芸人と言えど、今でも芸を披露して生活する人がそうであるように、(特に収入的に)安定した確実性のある仕事とみなされていたわけではないでしょう。

ならば、この「手品師」の意味は、忠実に絵柄を見ると、今でいう雇用者、普通に勤務して仕事する人を象徴しているとは言い難いことになります。

もし、そのまま大道芸人の意味を中心に据えるとどうなるでしょうか?

すると、興味深いことに、これからの時代の基本みたいなものが、もしかすると見えてくるかもしれないのです。

突飛な話に聞こえるかもしれませんが、これからは、皆さんが大道芸人化すると考えるのです。

例えば、すでにユーチュバーなどが一般化してきまして、誰もが動画で発信することが容易になり、まるでそれは「YouTube」という舞台(大道)で、芸を披露する芸人たちのように見えます。

この芸もいろいろです。

料理を作る人もいれば、歌やダンスをしたり、釣りしたりする人もいる、難しいことを簡単に解説する人もいる、怖い話や陰謀論を話す人もいる、自分の趣味や得意分野を皆に見せる人もいる・・・とにかく皆さん、なにがしかの「芸」を見せているわけです。

これには、YouTubeからの広告収入が入るという「仕事」の面もありますが、それだけのために、これだけの人がYouTubeで芸を披露しているわけではないでしょう。つまりお金や生活のためだけではないのです。

今、Zoomなどのオンライン会話・会議システムが一般化しつつあります。そのことで、これまでより、例えば人に何かを教えたり、伝えたりする講師的な仕事をしてみようと思い立つ人もかなり増えている状態です。

今までは「講師」というと、ちょっと堅苦しく、何か遠い存在であり、教えるための設備や準備もなかなか大変だと思われてきました。

ところが、コロナウィルスのことがきっかけでオンラインでのコミュニケーションが普通になり、案外、簡単に自宅からでも、全国、世界の人にモノごとを伝えられるということがわかってきました。

前にも書いたように、リアル(実際)でのものと、オンラインでのものが相対化してきたわけです。

今はまだ、経済的な意味で生活のための労働があり、また「手品師」の意味は、経済的・人間関係的生活の基盤の確保ということが大きいかもしれません。

しかし、もし新たな時代に、これまでのような、とにかく経済ベースで仕事を選び、働かなくてはならないという状況が変化した時、人はその時存在するツールを利用して、ほとんどの人が何らかの発信をしていくのではないかと予想します。

言ってみれば、皆が大道芸人(パフォーマー)になるような社会です。

それで報酬をもらう人もいるかもしれませんが、報酬・生活のためだけに芸を披露するわけではないので、そこに大きな自由性があります。

本当の意味で「愚者」と向き合う「手品師」であり、「手品師」と関係性の深いカードと言われる(マルセイユタロットを学んでいる人にはわかります)「恋人」とも結びついてきます。

これは「手品師」のレベルや次元が上昇したものと言えますし、本来の「手品師」に回帰した状態と言えるかもしれません。

タロットは時代をそのまま反映させ、それぞれのカードの意味さえ変えていくようです。

「手品師」が1の数を持っていることは、すでに述べました。

まさに新たな始まりがある時、「手品師」はそれにふさわい新しい「手品」を習得し、披露するのです。

今から、昔風の「手品師」を脱して、新たな時代の「手品師」になるため、準備したり、実践したりしていくのも面白いと思います。

それには。まず自分自身を「愚者」のように思い、軽やかに次に渡り歩いていく気持ちも大事です。「愚者」を逆向きにしてしまうとわかるように、悪い意味でこだわりを持ちすぎると、いつまでも動けない状態・人物になってしまいます。

それと、仕事とか報酬(お金・経済)を強く意識し過ぎないことも大事です。

芸を披露して報酬を得るのはすばらしいことですし、それが仕事だといえるかもしれませんが、すべてをお金に換算する価値観のもとではそうであっても、誰かに喜んでもらえること、また自分自身が楽しめること、という内的なエネルギーとして見ると、必ずしもお金にごたわらなくてよいと思います。

労働報酬や経済的基盤のための芸だとしてしまうと、いくら誰もが簡単に自分のものを出せる環境になったとしても、人に見てもらうため、人から選ばれるためには、競争意識が働き、最初はよくても、次第に厳しい「売れる」芸人のための生き残り、熾烈なレース社会に入っていくことになります。

それは旧来の、仕事は厳しくて当たり前、苦労して当然、勝ち組になるために頑張る・・・みたいな意識に囚われます。(「仕事」をなめてかかれとか、楽がとにかくよいと言っているわけではありません)

旧来意識をはずし、もっと愚者的になり、自分がただ大道芸人として発信することだけでも、思ってもみなかった人とのつながり、展開が現れるかもしれません。それがこれからの財産になる可能性もあります。

あくまで仕事として、報酬を目指す(芸)人はそれはそれでまたひとつの道です。そこは簡単ではないと思いますし、才能の問題や、相応の努力は、今しばらくは社会や全体が変わらないと、続くと思います。

それでも、新たな時代に向け、仕事や報酬の意味だけにとらわれない「手品師」になっていくのも、もしかすると、あなたの可能性をもっと開いていくかもしれませんので、気軽にチャレンジしてみるのもよいと思います。


厳しい世界と優しい世界

皆さんの中で、自分は心が弱いと自覚している方がおられると思います。

かくいう私も、断然(苦笑)弱いほうだと思います。そんな私だからこそよくわかるのですが、「弱き」ほうへ向かう時、しゃれではありませんが、それは「弱気」になっているからだと言えます。

そこには心理的には自己防衛のようなものが働いていることも見えてきます。逆を言えば、そのため、強く成長するための課題が与えられているのだと考え直すこともできます。

ただ...この現実の世界は、あまりにも厳しいところがあるという思いも出ます。

スピリチュアル的なことで言いますと、もっと皆が幸せや楽を感じられる、生きやすい世界(星や次元)があるのではないかと、まるでそこが心のふるさとであるかのように、想起されることがあります。

そんなものは逃避だと言えばそれまでですが、もっと優しき世界、幸せな世界が、現実を超えたところで存在しているのではないかという憧憬のような感覚です。

確かにそんなことを思い過ぎると、現実逃避になり、それこそ、引きこもりや無気力な生活をしてしまいがちになります。

マルセイユタロットの教義にもあると考えられる「グノーシス」にも、実は、そんな理想のどこか、天国や桃源郷のような神の世界と、現実のシビアで、生きるのに必死な世界との対比を見て、後者は悪魔によって作り出された偽物の世界であり、本当の世界は前者で、私たちの魂が本来あるべき故郷、住むべき場所だと、神話的に象徴されているところがあります。

従って、グノーシス思想を原理主義的にとらえてしまうと、現実逃避の考え方にもなりやすいところがあるので、ある面、危険なのです。

心の弱い人の中には、現実というものが、普通の人以上に厳しくとらえてしまうところがあり、たとえ自分はよくても、他人や外の世界まで気遣い、悲嘆にくれてしまう面があります。その気持ちは私にはよくわかります。

しかし、ここであえて、スピリチュアルやグノーシス思想を逆手に取るような感じで、別の見方を導入してみましょう。

それは、「霊的な問いかけ」という意味では普通にあるような言える形式ですが、「何のためにこれを経験しているのか?」とか「何のためにそれがあるのか?」みたいな深い意味を見るやり方です。

これらの答えは、言ってみれば、すべて「学び」のためとしてしまえばそれまでなのですが、学びというと、何か修行めいた苦しみを生み出しかねませんので、単に学びのためという答えだけではなく、さらに「では、何のために学びをするのか?」と、何度か質問を繰り返していくことに、救いが見えてくる気がします。

今、個人的に思うのは、心弱き人がシビアなこの現実次元に生きているのは、個別の意味もそれぞれあるとは思いますが、スピリチュアル的に考えれば、宇宙全体の(進化・深化)のためと言えるかもしれません。

個我と全体というのは対比されるものですが、さらにそれさえも循環するものであるのが宇宙の仕組みのようにも思います。

私たちには、個我としての自立を、あるレベルにおいて完全に確立しなければ、全体へと復帰(還元)できない宿命やシステムのようなものがあると見られます。(そして全体はまた個別へと分かれていく道の繰り返し)

それはいわば、宇宙全体の呼吸のようなふたつのサイクル・動きと言えるかもしれません。

個別(一人一人)においても、その大きな動きは凝縮された形で表現され、つまりは、一人一人の自立が促される問題・課題が常に起きてくることになります。

心弱き人には、特に自立心より依存心が先行します。それは保護と挑戦、いわば陰陽、能動と受動、保守と革新みたいな二元表現の偏りでもあります。

一見、責任を強く感じるくらいのまじめさを持っていても、その実、完璧でないと、あるいは、安心と思えるサポートがされていないとできない、責任が持てないという心の構造になっている人がいます。

極端に言えば、チャレンジや改革に対する逃げであり、責任からの逃避、言い訳みたいなものです。

もちろん、チャレンジばかりがいいわけではありませんが、何事も、挑戦し、改革しないことには、現状を変えていくことはできません。

チャレンジして、自信を深めていくことができれば、すなわち、自立した自分がどんどん確立していくことになります。なぜなら、自立すること(真の意味で)と責任を持つことは同意義のところがあるからです。

ですから、自立ためにはチャレンジしていくことは不可欠と言えます。

おそらく、スピリチュアル的に言えば、人は誰しも完全性を持ち、心弱き人も強き人も、本当はいないのだと思います。

ある環境や条件、次元下のもとで、そうした性格や特徴を持つよう、付与されてきたものであり、表現方法のひとつだと考えられます。言い換えれば役割です。

もし自分が心弱き人だと思う場合は、それはそういう役割を自分が受け持っていると考え、弱さからくる逃げではなく、少しずつでもチャレンジし、責任と自信が持てるようにし、自立を促していくことにあり、結局それは全体としての寄与になるのです。一人一人の使命と言ってもいいかもしれません。

この現実世界では、例えば経済的自立などとして、自立の形(目に見える形・結果)が明確ですが、本当はエネルギーのようなものが大事で、自分はもう大丈夫!みたいなゆるぎない心的エネルギーが、宇宙にとっては重要なのではないかと推測します。ただ、現実次元においては、形も大切だということでしょう。

グノーシス的に言うならば、心弱き人が持つ理想の心優しき世界・天国に帰るためには、自分の役割を思い出し、それを果たしていくことがその道になるのではないかということです。

あなたは心弱き人ではなく、そうした役割を持ってここに来た、いわば挑戦者、チャレンジャーなのです。あえてシビアな(と感じるセンサーを持って)この世界に降りてきたのでしょう。

理想世界と現実世界が反転した関係にあるとすれば、弱い人ほど強い人になります。(笑)

この現実世界では、今より上のレベルでの平和や安楽の実現のためには、難しいことにチャレンジする仕組みになっています。これはマルセイユタロットでは「悪魔」と「神の家」の選択対比でも例えられます。

苦労しなければ、努力しなければ手に入らないと言っているのではありません。それぞれにおいて、自立を意識し、それに伴う責任を持つ道の選択をしていくチャレンジが重要だと言っているのです。特に心弱き人については、です。(でも、無理をするのではなく、少しずつでいいのです)

この世界は厳しいだけではありません。表裏一体、必ずバランスが働いています。ですから、サポートや支援、救い、癒しもセットで存在します。

厳しいと思っても、見渡せば同時に、あなたにとって優しい世界・人、物事は確かに存在しています。それは天上と地上という垂直な関係(神と人、祈りの関係)だけではなく、平行世界、同じ世界(人と人、実際の関係)の中にも厳しさとや優しさがあります。

つまるところ、それはすべて宇宙の愛の表現であると言えるのではないでしょうか。

厳しき世界の中の優しき戦士さん、あなたは宮廷(コート)カードの小姓(ペイジ)かもしれませんが、実は騎士(ナイト)でもあるのです。あの16人はあなた全員であり、それぞれの世界においての選択する(表現する)人間像でもあるのです。


モノと心の整理、浄化の関係

今、多くの皆さんの中では、これまで日常だったものが非日常化し、逆に非日常のことが日常化したため、前の記事でも書きましたが、物事の相対化、いわば、ひとつのことがふたつの関係性で成り立ち、ふたつは異質でありながら同質であると見ることのできる視点の獲得が起こってきています。

もし前の生活に戻りたいと強く思ったり、やたらとあせって、今後は、自分が勝者、優位に立ちたいと激しく思ったりすると、優劣みたいな感覚が残っていますので、つまりは均衡ではなく、どちらかに偏っていることになり、それでは第三の位置(新たな創造とも言えます)がわからないままになるでしょう。

ともかく、バランス的に多角的、あるいは両方の視点を持つことか、今の時期大切かと思います。

さて、それと関係する話になるのですが、今回は持つことと持たないことをテーマにしつつ、内と外をシンプルにしていく方向性を述べたいと思います。

ステイホームということで、外出や直接の人付き合いを自粛し、家での時間が多くなってきますと、やたらと無駄なものがあったことに気づいてきた人もいらっしゃるはずです。

現に、これはある面では困ったことではあるのですが、時間ができて部屋の中を見渡すと、余計なものが目立つようになり、整理して処分する人が増えたため、ゴミが増大したという話も聞きます。まあ、することがないから、この際、部屋・モノの整理整頓でもしようかと思い立つ人も多いということでしょうか。

こういう部屋のモノだけではなく、テレワークを実施する会社も増えたことで、今まで理想やアイデアの中にはあっても、実際にはしていなかったテレワークを本当に経験することで、毎日勤務していたことは何だったんだとか、家にいてもほとんど仕事が回るじゃないかと、仕事のやり方の無駄に気づいた人もたくさんいたと思います。

雇用者・社員だけではなく、そもそもの経営者陣自体がそれに気づいたということもあるかもしれません。

これも通勤するという方法とテレワークの形式の相対化とも言えなくはありません。(どちらがいい悪いではなく、ともに単なる労働形式の違いと真に認識すること)

こうして、モノや労働という目に見える分野において、無駄なものに気づいて、それがそぎ落とされ、新たな価値観が生まれる(正しくは気づく)ことになります。

これはこれまで、いかに余計なモノといいいますか、しなくてもいいことをしていた(やらされていた)、持たなくてもいいものを持たされていたということでもあります。

おそらくそれは、半田広宣さんの提唱されているヌーソロジー的には、マクロとミクロの三次元的空間感覚に支配されていることからも起きているものだと想像されます。(ヌーソロジーとマルセイユタロットのシステム・教義は非常に近いものがあると私は考えています)

私たちは、普通、自分を中心にして周囲に膨大な空間がマクロ的に広がっていると認識(感覚)していますが、それはあくまで、そういう認識に落ち込むレベルや次元に自分が閉じ込められいるからであり、本当は次元認識を上げて行けば、例えばミクロとマクロの感覚も相対化され、もうひとつの空間ともいうべきものが立ち現われ、空間認識が変わることで、私たちの感覚、思考自体も変化することが起きると言われます。

余談ですが、これは思考だけでなく体感としても言えます。師匠に習い、特別な教えの中で、個人が体感から入って本質的な法則を知るのが従来の神秘的実践修行であり、アイデア・論理から入って、誰もが普遍的に体感していくのがヌーソロジーみたいなところがあるように思っています。

私たちが大きな空間の中のちっぽけな存在であると思っているので、自分自身を大きくするには、物質的には空間を埋めるほどのモノや、気持ち(感情)的には、心の隙間を埋めつくす、他人からの賞賛や承認、許可、単純ににぎわいがほしいと思ってしまうのだと考えられます。

もうひとつの空間とでもいうべきものが現れ、認識できるようになると、自分の中にすべてがあるという感覚となり、モノや心がエネルギーとして表現されているようなことがわかってきて、物理的・目に見える普通の世界の認識が反転し、モノや他人の声で満たして優位に立つ、あるいは自分の欠損を補うという発想(感覚)は、ミクロ・マクロの相対化に応じて減っていくと思われます。

あと、別の見方として(まったく上記と関係ない話ではなく、むしろ関連性は濃いのですが)、モノと心を同じように見ていくというものがあります。

部屋の中がきれいになったのに、何か心が落ち着かないという経験はないでしょうか?

もちろん、たいていは、部屋が整理され、きれいになれば、心もすっきりするということは多いです。

このことからも、モノと心、モノを見ている自分の気持ちと、モノ自体から発せられるものが自分かの気持ちを動かしている(反応している)という両方のことが見て取れますが、要するに、モノの状態によって自分の気持ちも変わり、逆に自分の気持ちによってモノの状態も変わるということです。

きれいにしようと思った時から、モノはすでに動き始めているようなものです。

しかし、モノはきれいになったのに心がそうではないということもあるのはどうしてでしょうか? これはやはり、厳密な(本当の)意味ではモノはきれいになっていない、そこにあると考えたほうが、なんだか論理的のようにも思います。

スピリチュアルな言い方をすれば、エネルギーがまだ残ってるとでも言いましょうか。

例えば、失恋して、すべて思い出の品は処分したはずなのに、まだ心は晴れない・・・というのも、感覚としては同じようなものでしょう。

そうすると、この「自分の心に残っているもの」こそが本当の重さ(モノ)であり、それを何とかしないと、見えているモノを処分しても、半分は居残ったままなのかもしれません。

とは言え、モノを処分すれば心がすっきりすることがあるのも確かですから、やはり、モノと心というふたつの次元が存在し、それらがリンクして、完全に均衡が取れている時は、モノと心の世界も同調しますが、不均衡な時は、見えないところで、認識のズレが生じていて、まさに「心残り」という感覚が現れるのではないかと思います。

おそらく、見えない世界、もうひとつの空間がわかるようになれば、そこに人やモノがまだいる・在ることが気づくようになるでしょう。霊的にはエーテル空間にいるような存在たちです。

それらは自分のエーテル(生命エネルギー)を通して投影されているようなところもありますから、自分の心がきれいになれば、それらも変化し、消えていくことになるでしょう。(消えるのではなく、おそらく別のものに変わる)

このあたりは、実は異世界系やエネルギー系を扱うアニメーションなどでは、よく表現されていることです。

何が言いたいのかと言いますと、結局、自分の人生もそうですが、世の中全体をよくするためには、見えるものだけてはない、私たちの心の中も重要であり、その掃除とでも申しますか、浄化が必要であるということです。

モノの無駄がわかってきた今、シンプルな生活でも十分であり、むしろそのほうが自然であったことに気づいてきても、心の中が重たいままでは、また活動再開となってくると、モノや他人の声で埋めようとすることに戻ってしまう恐れがあるわけです。

さらに、これからは人類全体としての集合カルマのようなものを浄化していくことが急速に起き、それが個人としては、自分の重たい心、悪い意味でこだわり過ぎている、無意識層のデータ・束縛心のクリアリング課題として生じてくると思われます。

以前よりも今のほうが、むしろセラピーを受けたほうがよい人もいるかもしれません。

言葉としては癒すということになるのでしょうが、癒すためには、囚われていた思いを手放していける処方・方法がいるということです。ただの対処療法では中毒を起こすことがあります。

わかりやすく言えば、ドラッグ(快楽)に頼るかのような一時的な癒しです。セラピーであっても、それは起こりうることがあります。セラピーによって脳内の快楽物質で出て、快楽を感じ、そのため、またセラピーを受けたくなるという悪循環です。

またいずれセラピーによる中毒症状については書くこともあるかもしれませんが、これは提供する側も、受ける側も注意する必要があります。

いずれにしても、モノの整理もいいですが、心の整理も、この際、積極的に取り組むと、これからの時代、自分自身が生きやすくなるのではないかと思います。


相対化が重要な時代へ

最近は例の件で、皆さん、家にいることが多くなったと思います。

すると当然ですが、いろいろなことが変わってきます。

つまり、人間、何かしらの変化が外的に起こると、内的にも当たり前のように変わるものがあるということで、その逆(内的に変われば外的にも変わる)も言えます。

変化があった時、同時に、今まで当たり前・普通・常識だと感じていたことも、そうではなかったことに気づきます。

日常性が失われると、その日常性の特別さに気づくようなものです。言い換えれば非日常が日常となり、これまで日常と思っていたことが非日常化してしまうわけです。

ほかにも、悪い状態でも案外よいこともある、その逆の、よいと思っていたことも悪い面があったこと、というような両面性に気づくこともあるでしょう。

結局、あらゆるものの相対化・両性(完全性)認識(異質ながらも同等性を見る)が進むということです。これは霊的にも非常に大きな気づきと言いますか、覚醒のプロセスに近いと思います。

私事で言いますと、タロット講座については、かなり前にSkype(スカイプ)によって、オンラインでやり始めて以来、昨年途中あたりからZoomに切り替えていましたが、まだまだリアル(直接対面する)講座がメインだと自分では思っていました。(ただ昨年後半あたりから、実質的にはZoomでの個人講座が中心になっていましたが)

数年前では、友人・知人からルームをレンタルしてのタロットリーディングや講義をしており、そのレンタル調整に苦労することもありました。

しかし、次第にオンラインでの講義が増え、いよいよ、世の中も例の件でオンラインで行うのが普通になった今、かつてルームの確保、調整に悩んでいた日はなんだったのかと思うようになり、場所というもののこだわりは消え、全国(もっと言えば世界)へ向けて、対象を広げる感覚がノーマルになっています。

言ってみればリアル講座の価値とオンライン講座の価値が同等になり、むしろオンライン講座がメイン、常態とすることに変化したのです。

さきほども言いましたが、私個人では、すでにかなり前からオンライン講義やセッションはしていたのですが、その時は今のような感覚や意識、気づきがなかったのです。やはり意識が変わってきたのは、昨年に本格的にZoomをやり出してからかもしれません。

これは、本当の意味で、リアル講座とオンライン講座(リーディングやセッション含む)が相対化してきたからと言えます。どちらがいいとか悪いとかではなく、どちらも大事で同じ価値があり、ただやり方が違うだけだということが、真の意味でわかってきたということなのです。

どちらかでなくてはならない、こちらが優秀であちらは間違っている・・・このような相対化できていない認識では、なかなかふたつを統合したモノの見方ができません。

相対化がきちんと行えて初めて、どちらの価値もまったく同等に扱うことができるのです。

そうすると、どちらがいいとか悪いとか、そういう次元・意識はなくなり、どちらもありで、状況によって使い分ければいいとフラットな感覚になることができます。

今、家にいることで、これまでは常識で当たり前だったことと、今まで非常識・非日常・特別だと思っていたことの入れ替えが行われ、意識の上で、かなりのものが相対化されてきていると思います。

統合には相対化が必要であることが、これでわかるでしょう。

もう一度、相対化について言いますと、違いはあってもどちも同等だと認識できる、気づくことです。吉凶とか良し悪しとか優劣とか、そんな感覚が出ている間は、相対化できているのではなく、単なる差別化です。でも差別化からまずは始まり、ふたつの区別がはっきりとできてこそ、相対化ができ、統合に向かうのです。

ところで、最近、家にいることで、悩みがなくなった・・・という人も少なくないと聞きます。

もちろん、逆に悩みが続いている、新たに発生している人もいるでしょう。特に先行きか見えず、雇用、経済、生活の問題・不安を抱えている人は深刻です。

それでも、今までの活動が停止したことで、マルセイユタロットで言えば、「吊るし」となり、そこで様々なことを見つめ直したり、見方が変化したりすることで、物事や価値の相対化が進み、悩みや問題が消えた(問題を問題だと思わなくなった)人が結構いらっしゃるのではないかと思います。

そして、これまで考えても考えてもわからなかったことが、案外、環境の変化によって、すぐに変わることができ、悩んでいたことに回答を得たということもあるでしょう。

とすると、精神世界などでは、心が現実を作ると言われますが、その逆で、思考を巡らして何もしないよりかは、外側の環境、現実が変わることで、自分が変わる(変わらざるを得ない)ということのほうが簡単な場合もあるわけです。

実は、思考の変化→現実の変化というパターンと、現実の変化→思考の変化のパターンも、両面性の話で、相対化していくことができると思います。結局、これもどちらも同じだということです。

これから、タロットにおいての相談(クライアントの問いや質問)も大きく変わって行く可能性があります。

これまで(というか昭和のような古い時代ですが)のような優劣や吉凶、良し悪しを判断するようなものは、質問としても減っていくでしょう。たとえそのような質問であっても、本当に望むこと、真の質問は別にあるようになると思います。(すでにそうなってはきているのですが)

タロットリーダーも、今まで以上に高い意識や認識が求められ、クライアントさんの質問そのままをただリーディングし、回答する(それがクライアントさんの満足なものであったとしても)レベルを超えたものを提供しリーダー自身もリーディングが終われば、変容しているような、そういうセッション、リーディングがノーマルになっていくよう、進化することが望まれます。

簡単に言えば、問題を通して物事(の見方を)相対化し、意識統合するための共同作業や場を提供するようなものです。(さらに言えば、真の問いを提示していくようなリーディング)

タロット講座におきましても、前からそれを意識していますが、もっとそれにフォーカスした内容になっていくと思います。

ちなみに、私自身、タロットに「これからの時代、何をタロットで提供できるか?」と質問し展開したところ、重要なカードでは「月」と「審判」、「女帝」と「運命の輪」(プラス「皇帝」も)が出ていました。

ここから見ても、今日書いた記事とぴったりかなという気がしています。(マルセイユタロットの細かな象徴、深い意味、特別な霊的絵図としての設計図的観点を知っていないと、なぜ今日の記事とリンクするのかはわかりにくいかもしれませんが)

最後に、悩みがないことはいいと普通思われますが、そうでもないと言えるところもあります。悩みが深かったり、あり過ぎたりするのが問題なだけで、適度な悩みは自己や社会を成長させるものだと思っています。

そしてこの世は、自分の進化に応じた悩みが発生し、責任度合が増していくことで、その分、これまでの自分では考えられなかった境地・境涯での悩みも起き、それによって、私たちはさらに成長していく仕組みになっているのだと思います。

そういうゲーム世界に私たちは来ており、今、そのゲームの設定が一段上がっていて、知らず知らず、私たちは新しいアップロードされたゲーム世界に踏み込んでいるのです。


変人化のススメ

人間は強い人ばかりではありませんし、いつもいつもクリエイティブで前向きというわけではないでしょう。

他人と自分を比べてしまうと、つい人のよいところばかり目につき、自分はダメだ、何をやっているんだろう・・・と悩んでしまうことがあります。

そのため、メンタル系の話では、人と比べないこと、自分基準でできることを推奨しています。

さらにスピリチュアル系にでもなりますと、すでに自分自身は完全であるので、何も不足も傾きもなく、そのままの自分でよいことを知るべしと言われます。

それは心理であり真理なのかもしれませんが、現実的には、いろいろな違う人たちと暮らす世の中です。

人と比べるなと言っても、比べないようにするほうが難しいです。むしろ、人生は比較の時空と例えてもいいかもしれません。

現実・実際においては、すべては違いというもので表されます。「同じ」という概念・考え方でさえも、違いがあるからこそわかるのです。

時間や距離も長さなどで違いが出ますし、自然や天気も毎日変わります。人の見かけや内面さえも違うことが普通です。厳密に言えば、まったく同じモノなど存在しないでしょう。

ところが、原子や素粒子レベルまでミクロ化すれば、同じ構造を見ることができ、ある意味、すべて同じであると言えます。逆のマクロ方向にしても、超巨大なものは「ひとつ」ということになって、同じに行きつきます。

つまりは、私たちの思う「違うという現実世界」でさえも、ある種のレベルや次元、範囲でしかないということになります。

とは言っても、通常認識において、違いの世界がノーマルなところに、何の因果か(苦笑)、放り込まれているわけです。

スピリチュアルでは、違いよりも同じを見る世界と言えますが、何度も言うように、現実世界では違いのある世界です。

よって、現実世界をうまく泳いでいく(渡り歩く)には、違いを意識することが、逆に現実と調和する(なじむ、過ごしやすくなる)ことになるのではないかと考えられます。

例えば、ビジネスや商売の世界では、ほかとは違うウリとかアピールするものがあればよいと言われます。どこでも手に入る、特に目立たないものを売っていても、そこから買う必要性が少なくなるからです。

そして、今から述べることは、あまり聞かない話だと思いますが、マルセイユタロットで言えば「愚者」と「吊るし」に象徴されるものです。

この二枚は、いわば変わり者を表しています。

「愚者」は定住して(定職を持って)、きちんと暮らしている人たちとは違い、ずっと旅をし、その土地や人に縛られることから逃れています。しかしながら、一般人から見れば不安定で異質な人間で、実際、絵柄的にも、ズボンが破れていたり、奇抜なスタイルであったりと、一般の人とは違うニュアンスを醸し出しています。

また、「吊るし」の人物も、逆さで、二本の木の間でぶらさがっており、これまた不思議で変わった雰囲気があります。

言ってみれば二人とも変人なわけです。(笑)

しかし、この二枚に見る変人スタイルが、現実世界での生活に変化をもたらせ、生きにくい、暮らしにくいと思っていた自分を、現実に調整し直させることになります。アジャスト・再適応・再調整と言ってもいいです。

変人というのは、普通とは違うから変人なのです。しかし、普通人である「あなた」が、もし現実が生きにくい、暮らしにくいと感じているのなら、それは普通人であるから、あるいは、普通人(常識人)であろうとするから、ということも言えるのです。

よく、世界を変えたいのなら自分を変えろと言われますが(外の世界を変えることはなかなか大変なので)、それと似たようなことで、普通人であるあなたが、今の世界に適合していないのなら、変人になると、逆に適合しやすくなるかもしれないということなのです。

それは、先述したように、現実世界が違いの世界であるからで、違いを生み出すと、この世界はあなたを認めるという妙な構造というか、システムになっているからなのです。

統合しての「同じ」を極めていくと、それはそれで生きやすくなる(神の次元に近づくため)のですが、浮世離れした感覚が必要となります。

それとは反対に、自分のエッジを立てることで、世界に自分を認めさせるという方法で、生きやすくする方法もあるのです。

こういうと、自分の個性とかブランディングを進めていくみたいな、ビジネス的な話のように思いますが、今回言っているのは、「愚者」とか「吊るし」のように、変わった方法、イレギュラーで、一見ネガティブのようなやり方でもOKという話なのです。

もっと具体的に言えば、「愚者」は普通や常識から逃げることであり、「吊るし」は常識を拒否して籠ることだったり、逆張りをするようなことだったりします。

まさに逃げやブロックという、世間ではネガティブなことと言われている方法を取ることで、自分を変人化し、それでもって、自分の身を守ると同時に、変わり者として認知されることで、逆に生活の自由度を上げていこうというものです。

私など、典型的と言えます。その昔は公務員をやっており、世間一般的には安定したよい仕事、常識人、普通人と見られていましたし、自分もそれでいい思っていたところがありました。

しかし、うつ病などをきっかけに、公務員の仕事も難しくなり、結局、タロットの世界(仕事)で生きていくように変えました。

まあ、今も、普通人的に見れば、まともに生活しているとは言い難いですが、気持ち的にはずいぶん楽になってますし、公務員人間、まじめ人間だったらできなかったこともできるようになったと思っています。つまり、自分の自由度が上がったわけですね。

現実世界は(時間の流れこそあれ)、何も変わっていなくても、私自身が変人を選択したことで(笑)、かえって世界に適合しやすくなった(生きやすくなった)というわけです。

ですから、いいことをしようとか、まともでいようとか思わなくても、変人化するだけで、意外に現実はあなたにやさしくなることがあるのです。

変人化でも、すでに述べたように、自分の特技をウリにするとか、個性的なビジネスするとか、そういうものがいいとは限りません。

この世界はネガティブにしろ(犯罪とか反社会的なものはダメですが)、ポジティブにしろ、違いや個性が出てくれば、世界があなたを活かし(生かし)やすくする仕組みがあるようなのです。(ただし、霊的には一時しのぎみたいな効果ですが)

ということで、皆と同じ、普通、まじめでは苦しかった人、生きにくかった人は、「愚者」や「吊るし」を見習い、変人(笑)になってみましょう。


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