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人と違うからこそのタロットリーディング

この現実世界は、誰一人としてまったく同じ人がいません。全員、どこか違うわけです。

ということは、自分の問題は、究極的には、他人が解決できないということです。なぜなら、みんな、自分とはどこか違うわけですから、あなたの問題を完全に自分のものとして把握できる人は皆無だからです。(笑)

ですが、人はまた同じ部分、共通点持ちます。ミクロで言えば遺伝子構造が同じだから、「人」になっているわけで、人としての仕組みは同じなわけです。

またユングではありませんが、人は心理的にも共通のパターンを持つと考えられており、結局、思考・感情的にも、ある種の同じような型を持っているとも言われます。

同じようでいて違う、また、違うようでいて同じなのが(現実の)人間というわけです。

さきほど、究極的には自分の問題は他人には解決できないと言いましたが、矛盾するようですが、他人だからこそ、自分の問題を解決できる可能性が高まるとも言えるのです。

それは、自分とは違う部分があるのが他人だから、文字通り、客観視点でもって見ることができ、自分だけで考えて袋小路に陥っているような場合には、突破口が見つかりやすいからと言えます。

それでも、自分を救うのは自分であることには変わりありません。

当たり前ですが、他人が誰かの代わりになることができないからです。(完全に入れ替わることは不可能)

前にも言いましたが、たとえ誰かを救ったと思っていても、救われた本人自身が「救われていない」と感じていたら、それは救われていない、つまり、本当の意味ではその人を救ってはいないのです。

結局、その意味で、最終的には、自分で自分を救わねばならない(自分が救いを自覚しなくてはならない)ことになります。

しかし、だからと言って、他人が何をしても無駄ということではなく、本人が救われたと思う道筋をサポートすることはできますし、やはり他人の力がないと、本人自身ではどうすることもできないケースが多々あります。

タロットは、ちょっと大げさな言い方をしますと、人助けに使うことができます。その一番の方法は、タロットリーディングを行うことでしょう。

さきほど言った、一人一人違うからこそ、人は客観的視点をもって、別の人の問題点や解決点を指摘することができやすい点が、そのままタロットリーディングにも当てはまるのです。

さらに、これも先述したように、人は違っているけれとも、似たところを持ってもいます。

その似たところが、タロットの象徴性で把握することができるので、さらにタロットは人への援助に便利なものになってきます。

言わば共感性を持ちつつも、きちんと他人目線で、その人を見ることができるツールなのです。

しかも、マルセイユタロットの場合は、絵図には特別に仕掛けが施され、タロットに陥りがちな直感的判断の誤りやブレを修正する、論理的根拠も入っています。

また他人目線は、客観的ではあるものの、一方で、その人の思い込みが反映されやすいという場合もあります。

「他人」という、人の信じている、ある種の思想とか色メガネのようなものがあるわけで、それがかえって狭い視野にしてしまうこともあります。

それを防ぐのが、マルセイユタロットの絵図における論理性と言えましょう。

タロットを学習していくと、タロットリーダーとなって、他者援助をしてみたいという思いが出て来る場合があります。

それは、人として自然なことです。

ですが、中には、もっと完全に読めるようになってからやりたいとか、かなり、自分にブレーキかけてしまう人もいます。

もちろん、未熟過ぎる技術段階では、人に手助けどころか、迷惑になってしまうこともあり得るかもしれません。

しかし、ある程度学んだあとなら、自分の素直な気持ちに従って、人へのリーディングをしてみるのはよいことだ私は考えます。

その理由のひとつに、最初にも述べたように、人は誰しも違う部分を持つからというものがあります。

言ってみれば、誰しも、問題や悩みがあれば、誰かの手助けを待っているのです。

最後は自分でどうすればいいのかをつかむことはできても、それまでのヒントや道筋は、他人によってつけられていくことが多く、それは自分ではない者(他人)だからこそ、観点が違い、堂々巡りからの脱出を可能とさせるからです。

つまり、現実の世の中は、人(他人)あっての自分であり、自分あっての人(笑)なのです。

従って、まだ完全ではなくても、いや、完全ではないからこそ、他人へ(おせっかいにならない程度に)協力を惜しまないことがよく、それは結局は、自分を救う(完全性を回復していく)ことにつながるのです。

まさに、マルセイユタロットの「節制」の象徴(ふたつの壺を混ぜ合わす)で、協力、助け合いによって、お互い、人類全体を完全性に導くという感じでしょうか。

とはいえ、タロットリーディングにも段階やレベルがあり、お金をいただくとか、仕事として行うとかになってきますと、それなりの責任度が必要で、趣味レベルでやる時とは異なってきます。

人助けとして、積極的にタロットリーディングを活用してほしいと思う反面、自分の技術レベルや、責任の度合いにも、それ相応のバランスは取っておくことは求められます。

しかし、たとえまだ駆け出しの頃でも、上記を理解しつつ、他人目線というものは、今まで説明したきたように、それだけで人の力になる部分があるのですから、タロットという強力なツールを得たのなら、早い段階で、勇気をもって、他者へリーディングしていくこともよいと思います。

あなたはあなたでいるだけで、人とは違うのですから、それ自体が、人を救う力となり、あなたの存在価値として高いものがある(存在価値をよい意味で自覚できる)のです。


「手品師」のサイコロから

私は乗り鉄ほどではまったくないですが、比較的、電車の旅が好きです。

前に、父親の話で、父が車(の運転)が好きなのに、認知症て乗れなくなっているというお話をしましたが、私は父と反対で、車(の運転含めて)はあまり好きではありません。

とはいえ、若い時は、かなり車でいろいろなところには出かけましたので、車の便利さと楽しさも知ってはいますが、どちらかと言えば、鉄道のほうがいいですね。

よく考えると、バスや飛行機(残念ながら、航空中耳炎にかかるようになってから、なかなか飛行機には乗れなくなりましたが)でもよいので、結局、自分が運転操縦するのではなく、乗せてもらうのがよいのだとわかります。ということは、乗り物に関しては受動的だと言えます。

なぜ受動的なのかと言えば、性格にもよるでしょうが、旅の過程や風景などを楽しみたいというのがあるからだと思います。自分で運転していては、さすがに十分景色を楽しむことはできませんので。

逆に運転が好きな人は、景色を見ながら物思いにふけるというようなことよりも、自分で操縦している感覚自分の意思が行使できる自由性と支配感、目的地に自分で向かっているプロセスが心地よいのだと思われます。この点では自分が主体であり、能動的性質を持ちますね。

さて、前置きが長くなりましたが、そんな電車旅を好む者として、最近、JR西日本が、「サイコロきっぷ」なる企画を打ち出したことを知り、興味深く見ました。

これは、サイコロの出目によって、大阪を出発として目的地までのチケットが変わるというもので、一人五千円で、最遠は博多があります(確率は低いようですが)し、どの目的地でも往復分以下のお得価格になるようです。

それでサイコロと言えば、マルセイユタロットでは大アルカナナンバー1の「手品師」というカードが思い浮かぶのです。

一方、市場で普及率の高いウェイト版の大アルカナ1は「魔術師」であり、その絵柄には手品道具ではなく、魔術道具化したものが描かれています。そこにサイコロらしきものもありません。

マルセイユタロットの「手品師」はその名の通り、手品をしていると見られるため、手品道具が色々とあり、そのうちのひとつにサイコロも存在します。(ただ、サイコロかどうかが、古いマルセイユタロットではわかりづらくなっていて、サイコロとは言い切れないこともあります)

現代にリニューアルされたマルセイユタロットでは、サイコロとしてはっきり描かれているパターンがあり、特にホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットでは、出目とサイコロの数までこだわっています。

サイコロの目は、ご存じのように6つあり、通常、その対となる側を合計すると「7」になるよう設計されていて、それが三通り(「1,6」「2,5」「3,4」)あります。

出目の組み合わせも、二つのサイコロの時は21あり、もし三つあれば56通りになるということで、明らかにサイコロを、タロットの数や構成に関係させていることがわかります。(詳細は講座で語っていますし、口伝的内容なので、深くはここでは言及できません)

また、サイコロそのものは立方体であり、三次元(現実世界)とそれ以上の次元(精神や霊の次元・世界)についての考察が意図されていると予想されます。

こうしたところが、マルセイユタロットの象徴性の解読として、とても面白いところです。

ですが、今日は、そうしたものとは別の見方としてのサイコロについて、少しふれたく思います。

さきほどの、JR西日本の企画もそうですし、その元ネタみたいだと言われている、北海道から全国にも放送されたバラエティ番組で、大泉洋氏を有名にさせた「水曜どうでしょう」にも、サイコロの出目による運命任せの旅企画がありました。

そう、サイコロというものは、一種の運ゲー(運任せのゲーム)の象徴としてもあるわけです。

ということは、マルセイユタロットでは「運命の輪」とも関係するかもしれません。(事実、関係性を示す部分も見つかります)

言ってみれば、私たちの人生は、サイコロの旅をしているようなものとも言えます。

神か運命のいたずらか、何か私たちにはわからない要素で、賽が投げられ、あるイベントが発生したり、事件に遭遇したりします。

最近は、ガチャというたとえで、親さえも、まるでデタラメに割り振られる(どの親に生まれるかは、まさに運命ゲーム)うちのひとつのようにとらえられ、運がよければ恵まれた家庭環境に生まれ、よい人生の基礎が築かれるというわけです。(その反対に、運が悪ければひどい親と家庭環境に生まれ、なかなかまともに人生が歩めない)

そうした気まぐれな人生の演出の装置・象徴性として、賭博ゲームで使うサイコロがあてがわれているのも、なかなか面白いところですし、一種の皮肉のような、人生の悲哀さえ感じます。

果たして、私たちはサイコロ神(笑)にいいように操られ、悲喜こもごものサイコロ人生ゲームを味わされている存在なのでしょうか?

そういえば、今もボードゲームとして有名な「人生ゲーム」とか「モノポリー」などで、サイコロの出目次第で、本当に一喜一憂する感情を、私もかつて味わった記憶があります。

よく言われるように、スピリチュアルな話では、私たちは、その浮き沈みする感覚、感情を経験しに来ていると考える人もいます。

何が出るかわからないからこそ、人生のサイコロゲームも楽しめるということでしょうし、また出た目の数によって、体験することが違い、同じような目ばかり出す人もいれば、毎回異なる目を出す傾向の人もいて、それがまた個性となっているようにも感じます。

ここで再び、サイコロとタロットの数秘的な話に戻りますと、先述したように、サイコロの対の出目の合計数は「7」であり、それが三通りありました。

「7」というのは、ある意味、霊的な完成数、セット、ひとまとまりの段階とも言えます。その証拠に、7つの曜日(占星術的な惑星の象徴でもあります)や、音階とかチャクラの数とか、いろいろな面で、7の基本数的な要素がうかがえます。

サイコロひとつを振る時、必ず、1から6のどれかの数が(表となって)出るわけですが、その裏には、合計すると「7」になる数が隠されており、側面のふたつも、やはり合計すると「7」になる数が刻まれています。

つまり、明らかになっている表の出目の数のほかに、裏とか側面にも完成する(のための)数がいつも存在しているわけで、それは目に見えない部分とか、もっと言えば潜在意識(無自覚な意識)とか、精神や霊の領域と言えるかもしれないのです。

とすると、デタラメの運任せに現れたように見える、私たちの毎度毎度の人生ゲームも、完全なものがその裏と別の観点では隠されており、私たちは、実はいつも完全性の中でサイコロゲームを楽しんでいる(気づかず、遊んでいる、あるいは迷っている、彷徨っている)と表現できるのです。

その完全さに気づくために、マルセイユタロットはわざわざ、最初の段階である「手品師」からサイコロを用意してくれており、続くカードたちが、完全性を取り戻す(意識させる)ための示唆として、次々と現れて来るように配置されていると考えられます。

あるいは、複数以上のサイコロの場合、出目の組み合わせの数の象徴性にいきなり飛んでその人に応じた完全性の回復のための事件・イベントを用意してくれるのかもしれません。

いずれにしても、マルセイユタロット的には、「運命の輪」を超えないと、なかなかサイコロを振っている者の存在とか、仕組みとかを理解するには難しく、つまりは完全性より、不完全性・不足性を強く意識してしまう次元に留まりやすいということになります。

サイコロの象徴性は、まだまだ色々とあるとは思いますが、ランダム的、運的な要素と、計算的、システム的な面との両方を思っていくことで、「手品師」全体に描かれている意図も見えて来るのだと思います。

そして、私たちの人生ゲームの過ごし方も、それこそ、「手品師」が「振ってくれている(振らされている)」のかもしれず、なかなか興味深いところです。

ひとつ言わせてもらえば、私たちはいまだに「イカサマ賭博」をさせられている(そのカモになっている)というヒントは出しておきましょう。(笑)


タロット自体の縛り

かつてタロットを学んでいる仲間と、定期的に集まって、いろいろと語り合う機会がありました。

そんな頃を、今は懐かしく感じる(笑)日々ですが、ふと、その時(内容も含めて)を思い出すことがあります。

そのひとつに、「我々はタロット学んでいるけれど、タロットが、逆に縛りにならないだろうか?

とメンバーがつぶやいた一言で、皆が、それについて一考するという事態があります。

タロット(学習していたものは当然のことながら、マルセイユタロットです)は、本来、自由になるためのものだと当時は信じていました。(この場合の「自由」は「解放」に置き換えてもよいです)

いや、今も基本的には、私はそう思っていますが、それも場合によると言いますか、使い方次第だと言えます。

話を戻しますと、「自由になるはず(解放のため)のタロットの学びが、逆に、我々の縛りになるのでは?」という問いかけは、タロット学習を楽しくしていたメンバーに、一石を投じるものとなりました。

私も同様に、これについて、ちょっと考えないといけないな、と警告的に受け取りました。

タロットを学ぶことで、タロット的な見方を獲得し、物事の整理と理解が早まる(深くなる)のは、まともに学習した者たちからすれば、実体験として当然のことと受け止められます。

しかしながら、タロットもひとつひとつが象徴絵図であるとともに、枠をもった図像(制限ある絵)であることには変わりないのです。

タロットを愛する(偏愛する)があまり、すべてを捻じ曲げてでも、タロットに落とし込もうとする、無理矢理の理解(こじつけ)は、方向としてはであり、このような使い方をすれば、確かに、タロットが縛りの道具になってしまうでしょう。

今回のテーマの「縛り」とは別のものですが、タロット占いを信じ過ぎ、タロットの言いなりになってしまうような依存的な態度も、タロットによる縛りと言えます。

いずれにしても、ある宗教教義が絶対とされて、それに合わないものは非難、排除されるというのに似ています。

やはり、タロットであっても、囚われの枠や自らを縛るロープになってしまうこと、色メガネの色とメガネになってしまうことを危惧し、使う者は、しっかりとそのことを踏まえながら、自省をもって扱うことが大事だと思います。

タロットが縛りとならないためには、柔軟な姿勢を持つことと、タロット的には、常に個(単体)と全体を考慮することです。

とは一枚とか少ない枚数のミクロ的なタロットへの見方です。これに対して、78枚を一組にした、あるいは大アルカナ全体とか、小アルカナ全体とかのマクロ的な観点(全的な見方)も必要であるということです。

例えば、大アルカナは、全体でもって、真の解放や自由を象徴すると見ますと、一枚一枚は、まさにひとつひとつの解除方法を示していると言えましょう。

さらに言えば、個々で解除されるのではなく、例えば数順に解除されていくという具合に、一種のステージとかレベルのようにひとまとまりにされているかもしれないと考えることもできます。

まるでゲームの(ステージ)クリアーみたいなもので、解除の鍵は、単独のカードがわかったからと言って、即、渡されるわけではない可能性もあります。

また、カードたちが、実は逆説的に、私たち自身を縛ってるもの(こと)そのものをテーマにしていると見ることもできます。

普通、タロットカードは、リーディングとか占いで、ポジティブな意味や、反対のネガティブな意味を絵柄を通じて見い出そうとします。

しかし、カードそのものが実は縛りを表すと見れば、少し、通常の読みのネガティブ面を見るのに近いですが、それとは異なるものが浮上してきます。

例えば、「正義」というカードがあれば、正義が縛る(縛っている)ものは何か?と問われていると見るわけです。

まったく自由に見える「愚者」でさえも、「愚か者による縛りは何か?」「自由や純粋性が縛りとなっていることはないか?」と考えてみるのです。

これが大アルカナを一枚一枚を利用した、縛りへの考察法で、結局、この作業は、自ら(あるいは他者)に解放をもたらすために行うのであり、この意味では、タロットは縛りになると同時に解放にもなると、両方言えるわけです。

究極的には、タロットなどいらないと言え、個人的にも、タロット学習・活用の最終段階は、タロットから離れること、タロット自体、忘れるほどになることだと考えています。

結構、どの進化・発展パターンにも言えることだ思いますが、勘違いした自由度(無自覚な、狭き自由状態)から、ルールや規則、パターンを学ぶ世界に一度自分を閉じ込め(学習・修行、再構築の準備)、そのうえで、その世界を破壊して、次なる自由度(かつて自分が思っていた自由とはまったく異なる自由や世界)に向かうのだと思います。

マルセイユタロットは、おそらく、ほとんどの人が無自覚だったり、勘違いだったりしている世界観とか自由というもの(無自覚の囚われ、牢獄状態)から、脱出や自覚のために、あえて別の囚われに入り、そこで別の観点から世界を改めて見ることで、ふたつ囚われ(最初の囚われと、あえて入った二度目の囚われ)から解放させ、真の(あるいは高次の)自由に飛躍(タロットでは鷲の象徴が思い浮かびます)するための導きのツールだと考えられます。

そして、「タロットを学べば自由になる、よくなる」という単純なものではないことも自覚しつつ、学びを進めて行きたいものだと思います。


タロットに描かれる動作

安倍元首相が凶弾でお亡くなりになるという衝撃的ニュースで、日本が騒然としています。長期政権を担った元首相の方ということで、様々な憶測があるでしょうが、今はとにかく、ご冥福をお祈り申し上げたいと存じます。

ただ、奈良という、いにしえの土地で、直接的関係はないにしても、安倍姓の方が倒れられたというのは、何か日本において特別なもの(警告)を感じさせる気はいたします。私たちも心して、これからの時代、生きて行く必要があるのかもしれません。

さて、今日はマルセイユタロットにおける(描かれ、象徴される)動き(動作や姿勢)というものにふれたいと思います。

マルセイユタロットに限らず、伝統的な流れを汲むタロットの構成は、大アルカナ、小アルカナに大別され、さらに小アルカナにおいても、宮廷(コート)カード、数カード(スート、数札)に分かれます。

マルセイユタロットの場合、大アルカナと宮廷カードは、ほぼ同じ図柄のニュアンスですが、数カードはまったく雰囲気の異なる、記号的な模様になっています。

ですから、「動き」という点で見れば、あまり数カードにはそれが見えにくいものがあります。しかし、よく観察すると、剣・杯・杖・玉の数カードは、1から10に向かって、まるで細胞分裂する(逆に言えば、何かを形作る)かのように動いているのがわかります。

例えば、剣の組は、明らかに円運動を意識して描かれています。剣そのものは直線的なのに、というのがとても面白いのですが、そもそもマルセイユタロットの数カードの剣は、湾曲している剣が主なので、そういう円的なものに見える構図となるのです。

剣が湾曲しているものが選ばれている理由は、いろいろと推測されますが、運動的なもので見ますと、直線と円を意識させるため(その統合)ではないかという思いも出ます。

というのも、マルセイユタロットには、ふたつのエネルギー(性質)の統合ということが、テーマとして常に描かれているからです。

さて、大アルカナや宮廷カードはどうでしょうか?

これらのカードは、人物が描かれていることが多いです。特に宮廷カードは、人物カードと別称されるくらいですから、すべて人物になっています。

ということは、人間の動きというものを、ひとつのテーマとして見ることが可能です。(ちなみに、私の講座では、宮廷カードの読み方について、人の動きを主眼とするものも教えています)

人間の動きというものは、立つ、座る、歩く、止まる、横たわるなど、基本的動作から、相手や状況により、複雑なものへと変化します。

人は無意識に動作するものもありますし、意図して動作する時もあります。ですが、どちらであれ、体は何かのために姿勢やその動作をする(取る)わけで、意味もなく勝手に動いているわけではないでしょう。

すると、基本動作を中心に、自分が意識(意図)していない場合でも、そういう動作が出ているのなら、自分の中にその動きを取るべき何かが起こっていると見ることができます。

簡単に言えば、体は正直だということです。整体師の方などにとっては、常識的なことだと思います。

私は、野口整体系統の整体をしていらっしゃる河野智聖氏の整体を受けていますが、先生は体癖という表現で、人による体の癖のお話をされます。

体癖にはパターンがあるようで、その体のパターンが思考や感情にも影響を及ぼし、価値観の形成、物事の選択にも関係すると言われています。ということは、極端に言えば、自分の人生を決めて行く要因のひとつにもなると、考えられるわけです。

このように、体の動きとか姿勢というのは重要と言えるわけです。

そこで、タロットに話を戻しますと、例えば大アルカナを一枚引き、その出たカード人物の動き・姿勢によって、隠れたもの(自分の恐れ、不安、期待、好き嫌いなど)を探るということができるように思います。

今、体はどう感じているのか(そう体に感じさせている思いは何か)、それをタロットが見せてくれるような印象です。

もし、正逆を取るとすれば、本来正立の姿勢や動作がノーマルで望まれる状態だとすると、逆向きは何か問題性があり、反対の姿勢や動作になっているということもあるかもしれません。

カモワン流をやっている人ならば、カード人物の視線をしっかり見るはずですから、その視線方向により、何か判断もできるかもしれません。(その場合は、二枚以上展開させると、さらによくわかるでしょう)

大アルカナの人物を見てもわかるように、実は一人としてまったく同じ動作をしている者はいません。確かに、あるパターン分けは可能でしょうが、厳密には一人一人違うわけです。

同じ立ち姿勢とか座り姿勢であっても、あるカードと別のカートではやはり異なるのです。

※「13」と「愚者」は、ともに右方向に動作していることで共通しながらも、ふたつは明らかに異なる雰囲気の絵柄になっています。どちらが出るか、あるいは両方(複数枚数以上展開する時に)出ることで、そのカードに描かれている所作から、示唆を得ることができます。

そうした細かいことも含めて、タロットから、自分やクライアントの心情(本当の気持ちなど)を読み取って行くというのも、興味深く、慣れれば、かなり有用なツールとして活用できると思います。


目的・目標を持たない人生

何度か書いたことがあるテーマですが、人には、「目的(目標)をもって生きたほうがよいのか」、逆に、行き当たりばったりほどとは言いませんが、あまり「目的を持たないで生きたほうがよいのか」という問題があります。

私の場合、このテーマへの回答は、ずるいようですが、どちらもありであり、またどちらでもないというものです。

結局、個人それぞれであり、そして、状況次第でもあると言えましょう。

ただ、最近は、前者の「目的をもって生きる」のほうに価値を置く人が多くなったようにも感じます。

いや、おそらく、そのほうが、「生きている」実感が出て、張り合いのある人生になるのではないかと、私も思います。

しかし、問題なのは、それが、人から言われたからとか、そうしたほうがいいと何かで読んだ(聞いた)からとか、自分の気持ち(あるいは状態)を無視して、画一的(機械的)に従っているような場合です。

比較的よくあるのが、成功理論(法則)や自己実現を謳う人たちからのものに、「目的を持った人生」を強制されがちなパータンです。

確かに、目的意識が強ければ、それを達成しようという行動も出てきて、熱意をもって、その間の人生も充実しているように感じるかもしれません。

けれども、意外に、人生は結果論(結果で評価される)みたいなところもあり、結果よければすべてよしに見られる傾向があります。

ですから、ある人が成功しているからと言って、(結果はそうでも)過程では、必ずしも「成功する目的」を持っていたとは限らないわけです。

例えば、好きなことを何となくずっと続けていて、その好きなことが、案外、他人から求められるようになり、気がつくと売れて成功していたという話もあるでしょう。

人間誰しも、多少は「こうなりたい」みたいな目標はあるとしても、その達成に、強烈な思いが絶対に必要であったかどうかはわからないものです。

結局、人生は運ではないかという人もいるくらいで、であるならば、運任せの人生のほうが楽ではないかという話にもなってきます。(だから、「運をよくする」という生き方を選ぶ人もいますが)

運任せ、まさに行き当たりばったりと言えますが、こちらは、先述の成功理論とか自己実現の方法にはまり過ぎて、結局、望み通りにはならず、色々疲れてしまったような人には、かえってよい場合があるかと思います。

ほかにも、目標はあったのに、年齢とか様々な条件で、どうやら叶いそうにもないと、ほとんどあきらめかけているような人です。

まあ、そういう時は、投げやりになって、もう人生、どうでもいい、というふうにはなりがちですが…

ここで提案したいのは、タロット的に例えれば、積極的な「愚者」人生というものです。

マルセイユタロットの「愚者」というカードは、数がなく、何ものにも規定されない(囚われない)自由の象徴です。また、その人物は旅人の姿をしています。

ここから、人生の旅をしている「愚者」と見て、しかし、旅はしても、先ほど言ったように「自由人」であるので、特に目標とか目的を持たずに生きるような姿勢だと言えます。

ただそれは受動的で投げやりなものではなく、自由をポリシーとするような生き方で、その選択をする積極性があるということです。

一言で言えば、気楽さを自ら選ぶ人生であり、あえて目的を持たないようにすることで自由性を獲得する人生という感じです。

さらに「名前のない13」というカードと「愚者」は関係しており、この「13」は名前がないのですから、名前に囚われることはないわけです。囚われのないという意味では、「愚者」と共通していると言えましょう。

名前というものを、ひとつの出来事とか事柄、あるいはまさに人の名前と見れば(私たちは名前・名称によって物事を認識、決めています)、目的を持たない人生は、ある意味、「13」でも象徴されるということです。

「13」の場合、目的を持たないというより、目的を捨てるみたいな生き方かもしれません。または、目的をその都度捨て(見直し)新たなものに作り直すと表現してもよいでしょう。

目的を持つ人生は、人生にパワーを与えることに貢献するものだとは思いますが、私たちは、あまりに他から・外からの目的を植え付けられて、本当の自分の目的を見失わされているように見えます。

ですから、逆に、目的を持たなかったり、捨てたりする人生を選び、自分を無(ありのまま)になるべくして、その時その時(つまり「今」)を精一杯生きる(愚者的には無邪気に、気楽に生きる)という姿勢もあってよいように思います。

つまり、何かをなさねばならないとか、人から評価されなければ(認めてもらえなければ)自分が充実した気分にならないとなっているうちは、偽の目的・目標があなたを支配しているわけす。

それがために、ますます仮面としての自分が強制され、生きづらくなってくるという仕組みです。

「目的(を持つこと)」は自らを高め、充実させるためにあるものなのに、反対に、目的・目標に自分が操られ、苦しめられているのです。

だから、「愚者」や「13」的な生き方を採り入れて、あえて、行き当たりばったり的な、その日その日を楽しむ予定とか先の計画はほとんどしない生き方、目的はあっても、それをどんどん変えていくことを許可する人生もいいかもしれません。

もちろん、必要な準備とか計画はあってもよいでしょうが、ただ人生を生き切るとした「目標」以外、特に抱かず、流れのままに生きるという意識で、心を楽にしていく時があれば、逆に、確固とした目的も生まれることも考えられます。

私たちは人として共通なものを当然持ちますが、同時に、個人として、別々の個性を持っています。皆同じで皆違っているわけです。(笑)

ですから、よい生き方や成功の概念も人それぞれであり(ですから人生は観念とも言えます)、自分がよいと思えばよい人生になりますし、反対の、悪いと思えば悪い人生になるわけです。

時系列的に、過去と未来に、人は、よく囚われます。いくらよいと思おうとしても、過去と未来への思いが、後悔や不安を生み出します。

従って、特に未来においては、目的とか目標を持つことが、未来への意識を強くしてしまいますので、そういうものをあえて考えないことで、不安や混乱要素を排除していくことにもなるわけです。

ただ、目標ある未来の実現過程が楽しめる場合は、この限りではなく、未来の到達点(目標)が、生きるエネルギーそのものとなるでしょう。

何度も言いますが、目標・目的を持つことがいけないと言っているのではありません。

普通は、そのほうがいいと考えられるのですが、ここで述べているのは、それを持つことで囚われになっては元も子もないので、時には「愚者」みたいになってもよいよという提案なのです。


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