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2020年の終わりに。

今年は、世界的規模大変革、大きな事件の年と言えました。そう、新型コロナウィルスのパンデミックです。

この影響は来年以降もさらに続きそうですが、一方で、このことで、今年ほどいわゆるバランス思考のような、物事の中立性を感じた年はなかったと言えます。

つまり、マイナスにはプラスあり悪いように見えても、観点を変えれば同じくらいよいこともあるという考え方です。(当然その逆の、プラスにもマイナスありになります)

コロナ禍は、「禍」というように、かなりのマイナス面が一般的に見てありますが、これがきっかけで見直されること、よいこともあったはずです。

例えば、リアルで人に会いにくい世の中になりましたが、反面、ネットコミュニケーションが飛躍的に活用化され、距離に関係なく、あくまでネット環境ではありますが、映像でオンライン会話することが普通になりました。

今までもツール環境(ハード・ソフト面)としては整っていたにも関わらず、コロナ禍にならなければ、オンラインで会話すること、リモートで仕事することはあまりノーマルにはならなかったわけです。

そして、今年、移動する(移動して人に会う)こと、距離というのが感覚やブロックとしては、なくなってきたと言えます。

一面では、実際会えないわけですから、距離は物理的には今まで以上に離れてしまった人も多いわけですが、オンラインでは距離を感じず、つまりは精神的な距離は近づいた人もたくさんいたのです。

もしここに、翻訳機能が普通に付与されるアプリが出て(おそらくそれは実現は近いかと思います)、さらにバーチャルな空間とか部屋とかがホログラフィック的に共有されるようになれば、もはや、物理的距離は、世界的に、ほとんど意味がなくなってくるかもしれません。

ところで、私たちが現実としての三次元にいるという感覚を持つには、物事の差異(の感覚)が必要です。

その代表的なものが、距離と時間です。グノーシス的には、悪魔、デミウルゴスの本質と目されていたり、人間を縛る仕掛けとされていたりするので、(グノーシス)神話的にも面白いのですが、とにかく、このふたつは現実認識には重要です。

それで話を戻しますと、さきほど、距離は、特に精神的にはなくなってきたことを述べました。距離は長さとしての空間的差異です。それが精神的には意識されづらくなってきたわけです。

とういうことは、精神的には、私たちの現実認識が変わろうとしている、いや、自然に変わって行く可能性もあると言えるのではないでしょうか。

物事の見方の変化は、物理環境が変わることと、もうひとつ精神的な変化があることです。

今は、普通の人には、精神と物質がまったく違う次元で、別物だと目されていますが、距離の感覚がなくなってくることで、次第に、ココロとモノの間にかかっているベールが巻上がり、ふたつが同じ次元や構造で見えてくる方向性に進んでいるのではないかという気がします。

コロナ禍という大きなネガティブな問題の発生は、人々に現実認識を変える土台そのものへの変容を、自然に促しているようにも思えます。

来年以降はさらに、コミュニケーションというものが、方法だけではなく、質的にも、かなり変わって来るのではないかと予想されます。

人々は次第に、言葉だけではない伝達方法、交流方法を身につけるようになると思います。いや、身につけるというより、思い出す、復活させると述べたほうが適切かもしれません。

今もすでに、文章・言葉よりも、映像、そして動画のほうが伝わりやすい時代に変化しました。

文章がうまい、しゃべりがうまいという技術的な評価と効果は、これからも残っていくとは思いますが、今までのように、それがコミュニケーションや宣伝での王道的評価ではないことが当たり前になってくるでしょう。

伝え方、伝わり方の幅が拡大し、人々は好みのようなもので選ぶ(あるいは表現する)ことがもっと評価されたり、許されたりすることになり、しかし、それは従来のような単純な好き嫌いとか、エゴや欲求に基づく好みというより、思考・論理とも一体化した、新しい形の好みでの選択というものが出てくるようになると予想されます。

いわば芸術的な感覚に近く、大小、レベルはさまざまですが、多くの人がアーティスティックになっていくものと思うわけです。そうすると成功概念も観念的なものとなって、かなり多様性を帯びることになります。

ただ、よく言われるように、選ばれる自分らしさや、尖った自分のウリを出すみたいなこととは違うと感じます。

相互関連と言いますか、もっと広い視野で、他者、社会を含めた自己実現、自己の特質を発現するようなものと言えるでしょうか。

ですが、その基礎は、今の単純な好きとか嫌いとか、安心感や違和感というものにあると考えられます。

ですから、自分の今の感性もないがしろにせず、しかし、自分勝手にならず、自分が心地よくも、無理に相手に気に入られたり、認められようとしたりせず、自然に相手も自分も認められるような接点、着地点を目指し、どちらも幸せになっていくような方向性が、よいように思います。

まだまだモノのあるなし(多寡)が評価の中心になってはいますが、質というものが見直され、量と質が同じように見られる意識が普遍化していけば、お金・経済についても大きな変質が起こり、もっと多くの人が生きやすい世の中になるのではないかと思います。

とにかく、今の世の中、悪いことばかりではなく、宇宙には正しい方向に進んでいくエネルギーがあり、それに多くの人々の意識は向かっていると個人的には感じます。

現実的には楽観できない年の切り替わりではありますが、見方を変えれば、本当によいことも見えてくる、そんな2020年から2021年だと言えます。

希望をもって、新しい年に向かいましょう。


精神的な問題や不調が起きる人に

いろいろな分野の講師たちが集う、とあるグループのスピーチコンテストに参加しました。

と言っても、私自身は聞く側に徹していまして、皆さまのスピーチから勉強させていただく立場です。

スピーチの内容的には、ご自身の経験からの学びや、役に立つこと、伝えたいことなどが披露されました。

それで、不思議なことに、と言いますか、今の社会ではもはや当たり前のようになっているのか、聞いていますと、たいてい、皆さん、精神的に何かトラブル(うつ病とか神経症とか、精神の不調を来すもの)に遭っているのですね。

そして、これまた皆さん同様に、そこから立ち直り、社会貢献やビジネスの形で再起し、自分の伝えたいことを伝える講師になられているのです。

私自身も神経症うつ病とか、パニック症状を起こしていた時期もあり、その後、マルセイユタロットに出会い、リーディングや講義の講師をしております。

以前は、その頃のこととか、回復に至る道などのこともブログに書いたり、人に語ったりしていたこともありましたが、今となっては、先述したように、精神的なトラブルや問題が起きることは、普通に誰しもによくあることになっており、別に人に話すようなことでもないと思って(心や精神は、回復してもまた何かあると問題になる場合もありますので)、誰かに聞かれたり、そのことを話す必要がある特別な場合を除いては、あまり語らなくしています。

ただ、人というのは、ドラマチックなストーリーを好む傾向があり、これは自らもそうでありたいというのと、他人の話がそう(ドラマチック)であると、聞く側の自分も楽しい、感動するということがあり、いわば自他ともに、ドラマ性を期待する思いがあるわけです。

ということで、自分を宣伝する必要のあるビジネスシーンにおいても、プロフィールは平板なものより、波と起伏のある、ドラマチックなものにすべしと言われることもあるようです。

例えば、昔ヤンキーをしていたけれど今は人気弁護士ですとか、ただの主婦だった人が、有名カウンセラーになって、多くの人を救っていますとか、大転回・大逆転ストーリーは、人の興味を引き付けますよね。

人を癒す仕事の場合、かつては自分がいかに大変な状態であって、癒されていなかった時があり、そこから今は調和に至り、幸福な人生を歩んでいるということを知らしめれば、今現在、癒されていない人、不幸だと思っている人にとっては励みにもなりますし、この人ならきっと自分をわかってくれる、救ってくれると思うことでしょう。

それはともかく、話は戻りますが、講師たちのスピーチを聞いておりまして、私なりに、ちょっと気づいたことを書いてみたいと思います。

 

●精神不調(心の問題・トラブル)の経験が当たり前の時代になっている

先ほども書きましたが、私が神経を病んでいた時よりも、今はもっと普遍的というと変ですが、誰しもが神経・精神の不調を経験してしまう時代になってきたということです。

これには様々な理由がありますが、そもそも、健全な世の中、社会であれば、これほど多くの人が精神や心を病むようなことはないはずです。

たいていの人はそのような体験がある、ましてや投薬や治療を受けたことがあると人も多くなっている状況なのです。

ですが、そうした精神関係の医療機関は増えたものの、医学的進歩の意味では、ほかの病気の分野より、まだまだ遅れている感じは否めません。

同時に、だからこそというわけではないのですが、代替医療や様々な心理療法、果てはスピリチュアルな分野からのアプローチまで、心や精神の問題を軽減したり、復調させたり、よい意味で改変したりすることが増えてきたと思います。

これだけ、心が不調になる人が普通になってきますと、それに対する問題解決を行う者や方法も増加するのは当然だと言えます。

経済原理的にも需要あっての供給です。ただそれが純粋な、これまでの医学的な観点からだけではないというところが、見えない心の分野だけに、特徴があるのかもしれません。

それと、単に心の病的な意味での不調というより、自分の生き方の悩みや、社会・世の中における自分を、いかに調整し、生きがいを持って生きたり、創造的に人生を歩んだりできるかという観点から、いわば治療的な対処だけではなく、発展的・創造的対処が、心・精神の分野には用いられているように感じます。

簡単に言えば、現実世界において、健全な精神でいられる状態をいかに作るか(保つか)ということです。

精神のトラブルを「病」の状態と見るのではなく、完全性の不均衡、調和に対する不調和、自分で自分を縛っているものによる影響で病のようなものになっていると見る向きです。

心の問題が多くの人に自覚、共有されていくことで、私たちの内面に向ける意識や考え方も変わり、精神、そして霊・魂というものにさえ、関心が行こうとしているように思います。

病む人とそれを治療したり、サポートしたりする人が、同時発生的に増え続け、これはマルセイユタロットで言えば、「13」と「節制」との関係とも言えそうです。この二枚はセットとして考えられ、すなわち、変容と救済なのです。

つまり、病む者、助ける者という役割分担で分離しつつ、一元的には、ともに変容し、救われるようとしているのです。(これを一人二役で体験する人も増えているわけです)

また変な話ですが、救済しようとする人が現れると、救済してもらいたい人が現れるという逆現象も起こっています。

しかし、それは順番が逆のようでも、結局、救わなければならない部分や人が潜在的に眠っていただけで、大きな意味では人類全体としての大浄化の流れに移行しているのだと見ることもできます。

 

●救済時に出会うメソッドと個性の強化

例えば私の場合は、マルセイユタロットでしたが、精神的な問題を抱えていた者が、何かのきっかけで、ある治療法や心を変えるメソッドなどに出会うことがあります。

もちろん治療のためということもありますが、人生のことを深く考えていた時に出会うということもあります。

出会う対象そのものについては、優劣や良し悪しは関係なく、たまたま、回復や治療のタイミングで出会ったものが、自分のその後の人生に大きく影響することがあるように思います。

回復・治療に至ったメソッドが仕事になる人もいますし、病気をきっかけに、自分を見つめ直す過程で、新たな自分として生まれ変わり、その体験から得たこと、気づいたこと伝道していく人もいます。

ともかく、出会うのが何であっても、また気づきがどんなものであっても、その人に与えられた新たな個性として、自分というものが際立ってくるようになります。

この現実世界では、際立つほうが生きやすいと言えます。

これは目立つというのとはちょっと違い、いわば、自分が自分である根拠とか、特徴、精神的には使命感のようなものでもあります。言い換えれば、生きる意味、反対にすると、意味をもって生きる、と表現してもよいでしょうか。

こうしてみると、精神的な問題は、マルセイユタロットの「隠者」のひとつの意味でもある霊的な危機と覚醒を象徴しているのかもしれません。

そして「隠者」と似たようなカードである「法皇」で表されるように、自分の経験から得た個性を用いて、人に伝達していくことになります。

ともあれ、技術・メソッドは何でもいいと思います。

運命的に言えば、出会うものは決まっていたようなもので、それがヨガであれ、レイキであれ、何でもよくて、重要なのは、あなたはそれによって個性が持て(自我が補強され)、現実を生きやすくしていけるということです。

精神の問題によって、心やスピリチュアルなことに関心が行くことで、一見、エゴから離れるような方向性に見えますが、その実、エゴは強まるのです。ここでいうエゴとは悪者のエゴではなく、自分を自分として認識する自我のことです。

つまり、精神的な問題を抱える人は、自我が弱い、あるいは逆に自我が強いものの、それがエゴとなっていて、しかしながら強いエゴなのに抑圧されている(自分であることを発揮できない、主張できない)状態にあるから問題となっていると考えられます。

ですから、まさに自分らしく生きる方法を選べば、自我・エゴが解放されるか、いい意味で強まって、その人にとっては楽になったり、生きやすくなったりするのです。

個人的には、マイナスのようなことから立ち直りや気づきを得て、成功していくストーリーというのは飽きていますが(笑)、ここで言いたいのは、今、精神的な問題やトラブルを抱える人は多くなっている時代でも、いろいろと見て行けば、全体としての成長に皆さん貢献している可能性があるということなのです。

心理的・スピリチュアル的には、自我・個性の問題が隠れているという点も指摘しました。

自分が今、救われるほうの側である人、つまりトラブルや問題によって苦しんでいる人は、先述したように、救う人もたくさん同時に生まれていますので、そういう人たちに出会うように自らを持って行けばよいかと思います。

平たく言えば、我慢して一人で抱え込まず、誰かに助けてもらうようにすればいいということです。

そうして助け・助けられという循環が活発になると、分離した個性は、やがて統合され、個性を持ちつつ他者と共有していけるような、新しい感覚が発達していくことと思います。

精神や心の問題が増えてきたのは、多くの要因として、今の社会システムの問題にあると言えますが、それとは別に、多くの人が精神・心・霊の重要性、内面の方向性の大切さに気づき、極端な物質的観点が解除されていけば、心のフィールドから共有化が推し進められ、全体としても解放と望ましい発展の流れになるからとも言えます。

精神的に苦しい状態にある人は、悲観的になったり、つらくて毎日大変だったりすると思いますが、今述べたように、全体としての成長に貢献しているので、生きている自分の価値はあるのだと思ってください。あきらめず、求めて行けば、救いの道は必ず開かれるでしょう。


大きなの流れと個人のポイント

冬至も過ぎ、太陽周期のうえでは、新しい年が始まったと言えます。

かつて書いたことがありますが、クリスマスやサンタクロース冬至と関係していると考えられ、昔ながらの太陽信仰がキリスト教に取れ入れられた結果だと思われます。

日中が一番短くなる日を境に、再び日が長くなっていくところから、この時期に、物事の再生・復活を象徴化させているとも言えます。

私たち、現代人の考えからすると、このような「象徴化」は、単なるこじつけのように見えるかもしれませんが、そこには現代ではとらえられないきちんとした別の理論と言いますか、大局的見地と古代から続く伝統的論理があり、簡単に言えば宇宙や自然の構造が、根本的には同じであるという認識から生まれていると考えられるものです。

霊的な感性(思考性でもある)をかなり失った(というより、隠れてしまった)現代人では、暦の巡りは、毎日のスケジュール、日の移動という直線的・単純なものでしか見えなくなっています。

すべてにはつながりがあること、モノと霊(精神も含む)の関係として意味があることは、霊的感性が回復してくれば、リアリティをもって感じられてくるものと想像できます。

その回復のための、ひとつの手がかりが「象徴」という考え方・とらえ方なのです。タロットはその象徴システムからできています。

ですから、タロットを扱うことは、霊的感性を取り戻すためでもあるのです。

日本においても年中行事等を通して、祭りなど特異点のような日、行いがありますが、それもお祭り騒ぎをしたい(民衆の気持ちとしてそれはありますが)というものではなく、背景に物質次元を超えた霊的な意味があったと考えれます。

私は大学時代、民俗学にふれていまして、その私たちの民俗学担当教授は、実際に離島などでフィールドワーク(現地調査や現地での収集・研究)をされていたこともあり、「現地の人の素朴に見える信仰には、皆さんが思うより大きな意味がその人たちにはあるのです」と、心を込めて語られていましたが、その理由が今なら本当によくわかります。

それは学術的な意味合いのことではなく(それもありますが)、そこにいる人たちの信仰が、その人たちには特別な意味を持つ霊的な力と関係する(その場や環境に働いていたこと)をおっしゃっていたのだと思います。(儀式と信仰の力と意味合い)

そして部外者の者、その場の霊的フィールドを共有感覚化していない者には、結局、学術的な目線か、部外者の常識目線、観光的な興味本位でしか見ることができず、変わった風習だなあ・・・とか、なんで今時、こんなことをしているのだろうか・・・とか、不思議がったり、面白がったりしているわけです。

そのため、本当に行事の意味を知るには、そこに住んで生活しないとわからないこともあるのだと思います。

アニメで「蟲師(むしし)」という作品がありますが、この作品に描かれる部外者と当事者の感覚の違いが、雰囲気的には近いかと思いますので、参考になるかもしれません。

さて、同じ冬至のことでも、話題は変わりますが、今年の冬至の時期は、少しスピリチュアル的には話題になっていたようてす。いわゆる地の時代から風の時代に変わるポイントだと。

確かに、そういう切り替えの時には来ているのかもしれませんが、闇雲にそういう情報に踊らされるのにも注意しないといけません。

ここで前半の記事とリンクしてくるのですが、重要なのは、全体の流れを個としてどう感じるかであり、言い換えれば、私たちが大自然や宇宙の一部であること、いやその逆に、私たちの一部が大自然や宇宙であること(この言い方はおかしいですが、こちらの言い方のほうが、鍵に近い言葉だと思います)の回復にあると言えます。

その意味では、地の時代から風の時代へというのも、ひとつのきっかけ、契機に過ぎません。

私たちはそれこそ地の時代の感覚のまま、全体と個が分離され、モノと霊、モノと精神を分断して見るようになってしまいました。

それでは、前半で述べたように、暦も、時代の流れも、直線的にただ進むだけ、過去・現在・未来と、一方向で経過していく感覚であり、ひとつひとつ、記憶や感性さえも、モノのように一方向に並べられたたような状態でいます。

数や日で言いますと、21日と22日は、一日の違いがあるだけで、21日から時間が経過して次の日になったに過ぎないというとらえ方です。

ですが、私たちそれぞれにとって、21日と22日は精神的に決定的な違いがある人も世の中にはいたでしょう。

例えば誕生日が21日の人は、22日とは明らかに意識が違うはずです。なんでもないただの一日の人、一生の思い出の日になった人、忘れたい嫌なことがあった日の人・・それぞれにとって、特別の日とそうでない日があるわけです。

これは結局、数量の違いではなく、質の違いで見ているからです。

あくまで個人としての日にちの見方だとバラバラな印象ですが、ここで言いたいのは、質を見る感覚を思い出してほしいということです。

そして、一年スパンで見た場合、(個人の感覚)とは別の、宇宙や自然の流れの全体的な質の違いも、やはりあるのです。

まず全体が、その質の違いによって回転している(循環している)ことを知り、それが大小、様々なレベルで働いていること、それらが次元、階層を変えて、ついには自分、個としてのレベルにおいても流れていることを知るのです。

イベントが一見、個人それぞれで無関係で起こっているように見え、さきほど述べたように、ある人にとっての日は日常の日でも、別の人にとっては特別な日となっています。

それもまた、カレンダーの日の流れだけではなく、宇宙のサイクルの一部として見ると、実は同じシステムによって起こり、消滅していることに気がつきます。

無理矢理、誰かの言うような、大きな流れを自分にルールとして適用して、例えば、いついつまでになになにをしないと流れに取り残されるとか、ゲートが閉じるとかで恐怖や不安に囚われたり、あせったりする以前に、外側ではなく、内側、自分自身を見つめ、個の質を知ることが大事です。

しばらくは人の言っているようなことは無視して、自分がどういう流れにあり、どういう現実と心の動き方をしているのかを確認してみることが先決です。

そのうえで、少しずつ大きな流れというものを意識してみましょう。

他人の言う外側の情報に、自分を無理やりあてはめることは、それこそ地の時代の考え方・やり方なのです。

自分の感覚を主観と客観で確認していくこと、いきなり全体(宇宙や自然のようなもの)へ適合しようとあせらないこと、自分が自分であること、ここをまず確立させていくほうが、遠回りのようでいて、結局、スピリチュアル的にもしっかりとした道を歩んでいくことになると考えられます。

それはマルセイユタロットが示す、霊的成長の道のりからも言えることです。

よく見てください。

「なになに、いついつは変わり時、変化の大きなチャンス・・・」などと言っている人は、毎年毎年、何かのネタを引用して広告しているわけです。

春分秋分・冬至夏至しかり、ミレニアムしかり、平成・令和の元号しかり、マヤ歴しかり、惑星運動しかり、歳差運動周期しかり、彗星の近接しかり、満月・新月しかり、毎月一日しかり、誕生日しかり・・・ネタをあげればキリがありません。(笑)

重要なのは、そう言ったものが、なぜ切り替えや変化のポイントになるのかという意味の背景を知ることと、霊的感覚の回復です。

誰かのいうポイントに、カレンダーで赤丸をつけて、そこに向けて自分を追い込むようなことではないのです。強いて言えば、自分の中の感覚に気づいて、ふとカレンダーを見ると赤丸がついていた・・・みたいな感じになるという、逆のような形です。

そして、人によってポイントは違いますから、大きな流れのポイントに乗れる・乗れないにあせるより、まずは自分にとって重要なポイントはいつか、どこかを注視し、人と違ってもよいのだと思うことです。

いわば、それぞれ個人に列車は用意されていて、その列車内の車両を移ることをまずは意識していると、列車自体(自分の乗っている列車自体)は、いつのまにか線路の切り替えポイントに導かれながら、皆それぞれの乗った列車が同じ路線に集まって来るような感じです。

それぞれが違う路線を回っていても、最終的には同じ駅の何番線かのホームに、皆到着するというイメージでしょうか。確かに人によっては、たどるルートは違うでしょうが、目指す駅は同じで、そこを目指すことさえ意識すれば、必ずたどり着くようになっていると考えられます。

見た目の比較だと、あなたが各駅停車の列車で、他人は特急列車に見えるかもしれませんが、それは今のあなたの目に、そう映るだけで、演出なのです。

あなたは普通電車でもいいのです。すると、関西圏のJRではよくありますが(笑)、途中から快速電車に変わることもあります。

まずはマイペースというものを大切にし、他人に踊らされないようにすることのほうが、今の時代、真の意味でスピリチュアル的だと言えるかと思います。


自己評価は低くてもよい

自己評価が低い・高いというのは、心理的に大きな意味を持ってくると考えられています。

自己評価のテーマは、最近ではスピリチュアル的にも言われいます。心理的な意味と、スピリチュアル的な意味とでは少し違うのですが、とりあえず、自分自身による自らの評価ということで定義しておきましょう。

ところで、一般的と言いいますか、もはや常識的に、自己評価は高いほうがいいとされています。

平たく言えば、自信であり、それがないのとあるのとでは、生き方も大きく変わると思われています。

言葉は面白いもので、「自信」は「自分を信じる」と書きますので、まさに、自分に対する信頼感、自らを信じている強さとも言えます。ということは、自己評価が高いというのとほぼ同意ですよね。

よって、自己評価の高低も、自分に自信が持てるかどうかにかかっているとも考えられます。

今回は、自分に自信を持つにはどうすればいいのか?ということが主題ではありません。

その方法は、多くの心理系の方々によって説かれていることであり、それを身に着ける(自信をつける、自分を認める)セミナーとか個人セッション、カウンセリングなどもたくさんあるわけで、自信のない方、自己評価の低いと思っている人は、そういうものに参加したり、受けてみたりされるとよいかと思います。

話は変わりますが、時代とともに、いわゆる心理的援助、悩みや苦しみ、問題の相談をされる仕事やビジネスをする方は、昔に比べて格段に増えました。

さきほど、ビジネスと言いましたように、単なるボランティアではなく、プロの仕事としてされている人が多くなったわけですから、これを利用しない手はないと思います。お金がもったいないと思う人もいるかもしれませんが、それは価値観の問題です。

極端な例を言えば、毎日パチンコするような依存症になり、借金して人生を破綻してしまうより、依存症の問題を誰か専門家に相談したほうが、今後のお金の損失程度から見ても、効率的だと言えます。

また、なかなかいい人と出会いがない、相手ができても、いつも同じような問題のある人とつきあってしまうという人が、婚活とかそういうカップリングを目指すことにお金をかけるより、もし心理的に問題があるのなら、そこを解消しておいたほうが、望む結果が早くなったり、かかるお金にしても少なく済んだりすることもあり得ます。

人生をよくするには、いろいろなサービスがこの現実世界ではあるのですから(それがまたこの世の面白いところと言いますか、救済措置のひとつだと思います)、そうしたものをうまく利用することも考えてみるとよいでしょう。なんでも自分一人でやらねばならいとか、解決しようと思わないことです。

現実世界の特徴は、個別意識、言わば分離的個性にありますから、逆に言えば、全体によって個人を救う仕組みになっており、簡単に表現すると「持ちつ持たれつ」なのです。

このことに世界の人が気づけば、もっと暮らしやすくなるのですが・・・まあそうさせない勢力もありますので、単純なことなのに、難しくされている世情があるわけですね。

さて話を戻しますが、今日言いたいのは自己評価が低くてもいいよ(いい場合がある)という、ちょっと非常識(苦笑)な話なのです。

実は私自身は、自己評価が低いほうだと思います。以前は、例にもれず、これではいけないと改善を試みようとしました。心理的に学んだり、セッションやカウンセリングを受けたりしたこともあります。

それでも、やっぱり低いままなな感じは残っていました。自分に自信がなく、自己評価が低い部分が残存し続ける感じです。

と書いて来て、気になった方もいると思いますが、「部分」と私は書きました。そう、ある程度、自己評価の問題に取り組んで来て、気づいたことがあります。

自分と一口に言っても、実は様々な自分が存在しており、そこには自己評価の低い自分もいれば、自信をもっている自分もいるのです。

シーンや状況によって、それらの各々の自分が出てきて、ある時は自己評価の低い自分になり、ある時はましになっている自分が出ます。

つまり、高い・低いの問題ではなく、高い自分と低い自分とが混交し、それが一人の自分として形作っているのです。となれば、状況によって、登場してくる自分も違うことになります。

何回か経験したこととか、慣れている場面とかでは、自信のある自分が登場するでしょうし、未知なるところ、慣れていない時などは、自信のない自分となるでしょう。

ある特技を披露するシーンとか、人よりましなもの、優れているものが出せる時は、、他の場面では自信のない自分であっても、急に自信を持つ自分が現れる人もいるでしょう。

ということで、実は、自己評価とか自信というのも、状況によって変わる(左右される)わけです。時分による自分の違いです。(笑)

それでも、人格全般に影響するような強烈な体験があれば、それが全部を支配してしまうことがあります。この場合は、自己評価の低い人格ばかりとか、そういう傾向をひとつの固まりとして持ってきます。

人格形成は、大人になる前のことが強く影響しますから、やはり心理的によく言われるように、成育歴における事件は自己評価に関わってくると言えましょう。

しかし大人になってからも修正は可能ですので、特に自信を極端に失っている人格を見つけて、平均化していけば、だいぶん全体としても変わって来る可能性もあります。

また、自信の強い人格が他を助けることもありますので、その人格(趣味とか特技とか、自分を自分としてある程度強く出せて、認められる人格の象徴体)を意識的に認識すれば、全体としてもっと自己評価がましになり、生きやすくなるかもしれません。

これとは別に、自己評価は低いままで、超越的なものから支えられていると考え、だからこそ、低くても助けや救済があるとする見方があります。

これは宗教がやっていた方法です。

神とか仏とか、自分の信ずる超越的な存在が、まさに迷える子羊である「私」を見守り、お導きくださるという姿勢です。

だから、自分への評価は、言ってみればどうでもよいのです。むしろ低いのが当たり前と言えます。

人間としての弱さ、未熟さ、至らなさを当然のごとく自覚し(神とは違うので)、だからこそ、神仏を敬い、助けていただく、完全になるよう、お導きの道を進む・・・こういう感覚です。

この立場では、自己評価は低いままでよいと言えます。低くても、自分には完全なる神仏がおり(ついている)、矛盾する言い方になりますが、その意味では限りなく自己評価は高くなります。

このように、外側に神仏を見て、自分を客観的(神仏目線と併せて)に評価していく、成長していくという見方が宗教的なものと言えます。

ですが、外側ではなく、自分の内なる神性とか仏性というものに置き換えてみると、スピリチュアル的な意味での方法となってきます。

現代社会では、こちらのほうをお勧めしたいです。

マルセイユタロットの「悪魔」のように、自我を強めて、現実社会での自信を持つというのが、常識的な、自己評価を高めるひとつの方法なのですが、自分自身が「神の家」であることを認識するという道(人間性が神性へと変化・回帰し、完成させていくという自己認識)は、さきほど説明した宗教的なものと近くなります。

マルセイユタロットでは、「神の家」と、謙虚な姿勢の女神が描かれている「」のカードとセットで考えてみると、よりイメージしやすいかもしれません。

ですから私自身は、自己評価が低いことは、問題としてあまり思っていません。それは人間としての私の部分であり、むしろ当然だと思うくらいです。

とは言え、すべて人間レベル(つまり現実的な認識のみの視点)で考えている場合は、自己評価が低いままでは、きっと生きづらくなると思います。

何度もこのブログで書いていますが、この世界は一種のゲームです。やりようによって、何とかなっていくものだと考えられます。

別に一般的な成功とか幸せを手に入れなくても(そういう設定のゲームにしなくても)生きられます。(笑)

「悪魔」を出し抜くような気持ちで、「手品師」(いかさま賭博師でもあります)から始めてみましょう。

「愚者」となってこの世界を旅するのなら、アウトローで結構だと思えばいいのです。

ワタリガラス、英語ではレイブンと言いますが、不吉の象徴のように思わているこの鳥も、ある文化ではトリックスター的にも見られています。

この世を渡っていく黒い鳥として見れば、自由で面白い存在だと言え、自己評価は黒くても(笑)、ワタリガラスのように人生を渡っていくのもまたよしかもしれません。


タロットの視覚効果

タロットカードは、絵でできているカードですので、当然ながらビジョンやイメージという視覚的な効果と関係します。

視覚と言っても、実際に目に見える部分と、心で想像(イメージ)して見えている(気がする)部分とがあります。

前者は誰でも同じに見えますから(厳密には、同じものを見ていても、ひとりひとり違うでしょうが)、一般化や元型として、言わば人の共通のパターン・あり方などを見ていくのに機能します。

つまりは、軌道修正であったり、調和を図ったり、自分の立ち位置を見たりして、客観的に判断するのに向いているわけです。

一方、後者の場合は、個人個人でカードから心の中でイメージするものなので、それは人によって異なるシーン・絵を見ていることが想像できるでしょう。

ということは、個人の心にあるデータ、思い込み、願望のようなものが現れてくると言えます。

ですから、カードを心でイメージすることは、個人的な問題の解決やセラピーを目的とするのには有効な方法だと考えられるわけです。

ただし、カードの絵を見て、心でイメージする(させる)場合、ある程度、カードの意味を知っておいたほうがよいです。

マルセイユタロットの場合、誰が見ても同じようにそのカードから感じられるような内容になる仕組みがあるのですが、それでも、意味を説明されないと、そのカードがどんなもの(こと)を描いているのか、わからない部分もあります。

そもそもイメージというのも、意味や内容がある程度わからないと、湧きにくいものです。

従って、カードの意味・概要を知ったうえで、改めてそのカードのことを心でイメージしてみるというプロセスが重要になります。

比較的やりやすいのは、大アルカナのカードの意味を知り、そこに描かれている人物になり切るようなイメージをしてみる方法です。

そうすると、イメージしやすい人物とイメージしにくい人物とに分かれるかもしれません。

イメージしにくいものは、思い出したくないもの、過去(記憶)に問題のあることが多く、イメージしやすいものは願望、あるいは実現できそう(可能)なことなどを示す場合があり、時制では現在から未来方向の指針である傾向があります。

また、イメージをした時に、自分の気持ちの状態によって、ブロックや抑圧、その逆の、願望や期待する夢を見出すことも可能です。

とは言え、カードを見ての心の中に作るイメージは、もとは実際に目に映るカードの絵から始まっていますから、先述したように、実際の絵は客観的でもあり、カードからイメージする心の絵(心象)は、逆に主観的と言え、主観と客観、両方が相まっての想像(創造でもあります)になっているわけです。

主観は自分の感じ方ですから、意味を知らなくてもよいのですが(むしろあまり意味にこだわり過ぎると思考に傾き過ぎ、イメージが制限されることもあります)、客観としての絵は意味が必要と言えます。

言ってみれば、カードの絵の一般的象徴性(客観)によって、主観的(心に浮かぶ像や感覚的)なものを精査、新たに意味付けするような感じ(役割・働かせ方)です。

このあたりのことは、タロットが、例えばロールシャッハテストなどのような、心理的投影を見るだけのものではないことを意味します。

ということで、カードの絵からのイメージを使う方法でも、やはり、カードの勉強(カードの意味を知ること)はある程度しておかないと、うまく機能しないのです。

カードの意味がわからないと、ただ主観のみになり、心でイメージしたことが何の意味を持つのか、あるいはそのイメージをどう扱えばよいのか、わからなくなります。そして、カードの概要がわからないと、そもそも心でイメージする手がかりもつきにくいのです。

もうひとつ付け加えると、このように、人は主観と客観によって、より自分を知ることができますので、同じタロットを学んでいる他人との共同作業で、カードを使ってやると(自分を知るのに)効果は高いと言えます。

マルセイユタロットの「月」と「太陽」ではありませんが、主観と客観、自分と他人、二つの見方や立場の違いがあるほうが、実は本質が見えやすく、もし自分があるレベルに留まって問題状態であるのなら、そこからの脱出、成長も図りやすいと言えます。

タロットは心理カードとしての活用度は高いツールと言えますが、さらに霊的な活用まで目指すとなれば、カードが個人的にどう見えるか・どう思うかだけではなく、カード(タロット)そのものの象徴性を個別と全体でとらえ(体系・システムとして見る)、その設計シンボルと調整・調和させていくような視点が必要だと思います。

ですから、繰り返しますが、感覚だけではなく、タロットの学びが不可欠で重要となってくるのです。

学び、感じ、考え、スパークし、今の自分を超えて、新しい世界や自分と出会って行きましょう。

これは、言い方としては、成長とか新しい自分に向かっての脱皮みたいに思うでしょうが、実は本当の自分を思い出す旅のようなものなのです。換言すれば、元(本来に)に戻ることであり、忘却からの回復です。

こういうものが、タロット活用の醍醐味でもあると私は思います。


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