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マルセイユタロット 主観・客観

タロットは、主観性のツールと言えます。

タロットカードという絵柄の象徴を見ている者が何かを想起させたり、判断したりするわけで、結局、そのカードを見ている人の思考や感情、モノの見方のパターンは必ず入ります。

言ってみれば、カード(タロット)を読む人の脳によるのです。

個人の脳は、構造は皆同じでも、一人一人データ・働き方は違うので、タロットを読むことは、その人個人の脳に基づくと考えられるわけですから、当然、主観となる仕組みです。

しかしながら、タロットはまったく逆の、客観性に導くところもあります。

それは、タロットが極めて優れた象徴システム(シンボリズム)を持っているからです。ただし、タロットのすべてが、よい象徴システムになっているとは言い難いです。

時に、客観性というテーマで見た場合、作者が特定され、その思い・主張が入り込み過ぎているもの、独特なものは主観性が強くなります。

その作者の頭の中ではバランスが取れていても、ほかの多くの人が見ても同じに理解できるかどうかはわかりません。

その点、マルセイユタロットはとても客観性があると言えます。

それは、マルセイユタロットはひとつの版の作者の名前は伝わってはいても、その元型としての絵柄の根本デザインは、誰がどのように作ったのかはわかっていないからです。

要するに、特定の作者の個人的な考え・思いでは作られていない可能性が高いということです。

しかも絵柄自体は、絵画としてのでデザイン性、芸術感は少なく、おしゃれでもありませんし、おどおどろしくもないです。言わば、インパクトには欠ける絵柄です。

このことは、実は客観性にはよいことで、強烈な印象がない代わりに、多くの人に違和感を持たせない普遍的なスタイルがあると言えるからです。

確かに絵柄自体は、中世から近世にかけてのヨーロッパの人物・雰囲気を描いていますが、現代の日本人から見ても、さほどおかしな印象は受けず、意味がわかってくると、スーと心にも入ってくると言いますか、受け入れやすい絵柄となっています。

もちろん個人差はあるので、絵柄に癖を感じる人もいて、嫌いだという方もおられるでしょうが、ほかのタロットに比べると、特徴はあまりないと感じることが多いと思います。

ということで、基本、主観性のものであるタロットですが、こと、マルセイユタロットを選択する場合、多くのタロットに比べて、すでに客観性の点では秀でているということが言えるかもしれません。

ここで、改めてになりますが、客観性を持つことは、何がいいのかということについて、タロット的に簡単に記します。

1.自己に対して、冷静さやバランスが保ちやすい

2.リーディングにおける相談者の立場が確保しやすい

3.大局的・本質的・統合的観点に導かれやすい

ほかにもたくさんありますが、重要なところではこんな感じでしょうか。

主観に入り込み過ぎると、いわゆる自分勝手、自分の思い込みの世界に囚われやすくなるのは誰でもわかるかと思います。

自己の問題は自分では気づきにくいところがありますし、文字通り、客観という他人視線があれば、自分の盲点にも簡単に指摘可能となります。

ビジネスや商売の世界でも、お客様視点は基本であり、売る側が「これは売れるはず」と確信していても、さっぱりだったということもあれば、逆に「えー、こんなのが売れるの?」と、思ってもみなかったヒットもあります。それは買う側でないとわからないこともあるからです。

私は今でも経験しますが、クライアントさんから問いをお聞きした時、「これはこういうことかな?」と原因や解決策を予想していても、タロットを実際展開してみると、自分の思いとは違っていたということがあります。

マルセイユタロットと、タロットそのものが表す、人の共通・普遍パターンがあるので、タロットを出すことによって、タロットリーダーといえども、その思い込みはありますが、そこから脱する働きがあるわけです。

客観性があると、まさに自分本位から逃れ、相手側との調整、バランスが働き、調和へも近づきやすくなります。

そして、他者に対してタロットリーディングする場合、クライアントは自分ではないので、すでにそれ(他者リーディング)自体が客観性を持つのですが(だからこそ、人の相談ができるとも言えます)、それでも、タロットは基本、主観であるとお話したように、どうしても、タロットリーダーの主観性の影響も受けます。

そこに、タロットが間に入ってくると、タロットによって、タロットリーダー側の最初の思い込みとか、途中での感情的な揺れ動きなども修正され、客観的視点が出てきます。

さらに、客観性は主観性と対立することがありますが、たからこそ、主観と客観の相克の中で、それらを超えた超客観性とでもいうべき視点や立ち位置が出てくる可能性があります。

これは「次元上昇」と言い換えてもよい状態です。

他人も含めて、従来の世界観・常識が超越し、新しい次元の世界に、これまでの主観と客観が統合され、導かれるのです。

物語風にいえば(笑)、同じ人間レベルで、たとえ他人を交えて話をしていても、結局、同じレベルでの方法しか思いつかないけれども、天使や神、はたまた地球文明を超えた宇宙人レベルのような存在だと、超越したレベルの発想が出ますよ、という話です。

マルセイユタロットは、すでにあるだけで、客観性が確保できるところがありますから、持っていて損はないかと思います。

ただし、その客観性の精度を上げていくためには、象徴・シンボルの知識を学ぶ必要があります。

学びや学習もまた、客観性を助けるものとなります。

感情・感覚的なものは主観から来ていることが多々ありますから、その感覚を客観性に置き換えていくためにも(これは「斎王」と「法皇」のカップル性でもあります)、学習・研鑽・知識が重要となります。

しかし、客観性に傾き過ぎると、機械的、パターン的な思考のループにはまりますので、やはり主観的な感性も必要です。

みんながいいと言っていても、あなたが嫌なら、それは実はあなた自身にとっては何か大きな意味や問題があるのです。ほかの人にはわからない、あなただからわかる、感じている何かがあるわけですから。

でも、時には、人の意見や視点のような客観性が、自分を救うこともあるわけです。

宇宙はいわば、神のような完全性のバランスにあると考えられますが、そのバランスが、いろいろなレベルにおいても働いており、高次元であればあるほど、そのバランス・公平性はわかりづらく、低次であるほど、わかりやすいと言えます。

しかし低次のバランスは、高次のバランスから見れば、局所的・一時的には整ってはいても、実はアンバランスであることがほとんどではないかと考えられます。

つまりは、低次になるほど、高次的な意味てのバランス・調和性は無視され、悪い意味の主観中心、自分だけがよいという意識に囚われていくのだと想像されます。それは言い換えれば、非常に狭い範囲でのバランスを保とうとする働きです。

狭過ぎるがゆえに、主観・自我ばかりの世界での考え・感覚に陥るということです。短期的見方と言ってもよく、それは面白いもので、短気的(笑)でもあります。

とりあえずは、狭い世界においても、客観という意識を持てば、ひとつ分、世界が広がることになります。

だからこそ、私たちは「客観」という「視点」が求められるのです。

それでも主観を殺していいわけではありません。あくまで主観の修正、狭い主観性のモノの見方から解放を促すための客観であるべきで、客観があなたの主観に取って代わるわけではないのです。(つまり、他人の言いなりにならない)

とにかく、マルセイユタロットは、まず、「タロット」という主観性の道具でありながら客観性を促すという意味で、主観と客観のバランス・統合を見るには、とてもよいツールだと言えます。


ペア・カップル性 「斎王」と「法皇」

マルセイユタロットリーダー、マルセイユタロット講師を名乗っている私ですが、もとはと言えば、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット、日本では通称カモワンタロットと呼ばれるタロットから入った者です。

今でもリーディングでは、主体としてカモワンタロットを使っています。(ほかのマルセイユ版も使います)

そんなカモワンタロットの技法にはいくつか特徴があるのですが、 そのひとつにペアやカップル性をカード同士で見ていく(結び付けていく)というものがあります。

もっとも、カモワン流に限らず、カードをペアやカップルでくくるという概念は、タロットでは普通にあるかと思いますが、カモワン流の場合は、それがかなり強いと言いますか、ベースを占める考え方になっているのが、ほかとは違うところでしょうか。

そのうえで、私自身、さらにカップルやペアの概念を探求しいくうちに、実際の人間関係・役割においても、それは重要であることに気が付いてきました。

そもそもタロットは、ホドロフスキー氏が述べられているように、「宇宙のモデル」になっているところがあり、現実の考察と活用ができるものになっています。

ですから、カードを使えば実際フィールドでの気づきが生まれますし、現実の変化や改革もやりやすくなるのです。

タロットには霊的・精神的な側面と、実際的・現実的側面があります。あるというより、それらを象徴しているといったほうが正確でしょうか。

ですから、ペア・カップル性においても、霊的・精神的カップル、現実・物質的カップル・ペア性がカードからは推察することができます。

いわば、世の中のカップル・ペアとなる人間関係(だけとは限りませんが)には、種類・性質の違いがあるよ、ということであり、それを理解していると、人間関係もスムースになったり、自分に足りないところ、逆に有り余っているようなところの調整・活用も、うまく行ったりするわけです。

言い換えれば、人の組み合わせの意味合いと使い分けを見ましょうということです。

例えば、カードで言えば、「斎王」と「法皇」に当たるカップル性(カップル・ペアとなるカード)があります。

これは特に、スピリチュアルに関心を持つ女性の方に述べておきたいです。

「斎王」(アルカナナンバー2に当たる大アルカナ)は、言ってみれば巫女的な女性ですが、精神世界・スピリチュアルな傾向(関心)を女性が持つ場合、自身の中にこの「斎王」を見ます。

いや、「斎王」をきちんと蘇らせる必要があるとも言えます。(数秘的には同じ2の数と関係する、「力」や「審判」とも深く関係します)

しかしながら、その力の安定した発現には、一方で男性性の援助も求められるのです。

女性性である「斎王」の感応力は、ある条件や場所、あるいは血筋などによって目覚めることが可能ですが、それを安定したものにして、社会や現実に活かすためには、男性性の力と支えが必要となります。

一人の人間の中には、男性性も女性性も存在しますので、究極的には、一人の人間で両性を統合・具現化、発現することも可能に思いますが、生身の人間性、統合プロセスの途上にある者としては、異性同士の協力があったほうが早いと言われます。(ただ、巫女の力の性質上、男性性の支えということでは、人間の男性でなくてもよい場合もあります)

そのため、女性で、自分一人で何かの感応を得たとしても、それを安定化し、外に向かって、社会的に活かすには、男性の力や表現も借りるとよいということになってきます。(さきほどのも述べたように、一人でも可能ではありますが)

もっと言えば(逆に言えば)、女性から見て、心から信頼する(精神的な)男性がいれば、眠っていた斎王の力が復活する可能性があるということです。

そして、男性側からすれば、自分を信頼し、自らを預けることのできる(巫女的な)女性が存在することで、より社会的な力(影響力も含め)が増し、変革の力と実現性が強化・拡大します。

たとえ、他者からその男性が攻撃されたとしても、立ち直りと修復は、女性の巫女力(癒しの力でもあり、その元型は、マルセイユタロットで言えば「星」のカードから流れてきます)によって、早められます。

よく例えられるように、港と船の関係が、女性(港)と男性(船)に言えます。

ところが、このたとえは、逆転もあり、船が女性で、港が男性にもなります。

特に霊力・巫女力は船のように海に出るような感じで、海の情報を船に乗せる、入れるような感覚になるため、大海に揺られる小舟では不安定になるので、男性が港と灯台化することで、女性の船を安全に導くことが可能になります。

感応と言語は(感情と思考でもあります)対立する関係にありつつも、相補うものでもあり、女性(性)の感応は、適切な言語化によって、多くの人に理解してもらうことができますし、女性自身も自分の感じていることを客観視できます。

男性(性)は、いくら言語化できると言っても、元となる発想・アイデア・感応がなければ始まらず、分析はできても、神聖なる直観的示唆が得られていないと、宇宙(神)の本質からはずれ、ただ現実的(エゴ的人間同士の)正しさの世界、理屈の世界で競い合うはめになります。

この「斎王」「法皇」の男女ペアは、本質的には愛によって結合する二人と言えますが、恋愛感情のようなものとは違い、さらに現実性での良し悪しとか損得が入るペアではありません。

ですから実際の恋人関係とか一般の夫婦関係の男女とも異なります。しかし、実際にはその(恋人・夫婦)関係であっても、「斎王」「法皇」のペアとなり得ることもあります。

そこには非常に高度ともいえる関係性があり、肉体次元(肉体的性、打算や現実的立場・グループなどの次元)を特に超えていく間柄(現実世界にいながら)と言えます。簡単に言えば、精神性のカップルではあるのですが、そういう言葉では表せない絆があるペアです。

ですから、本来的には、相手はたった一人でよく、また唯一無二の人となるでしょう。

カード的には「恋人」から「審判」の高次の愛に目覚めるための関係性となるのですが、同時に、神聖なる意思を伝えていく協同的な者として、「太陽」的な二人にもなります。

しかし、二人の関係性があまりに閉鎖的に、独善的になってきますと、新興宗教の教祖と狂信的伝道者みたいな間柄になり、二人の間の理想が周囲に理解されず、忌み嫌われたり、現実離れした二人だけの世界に逃避してしまったりします。(犯罪協力者同士となり果てる、「悪魔」のカードとも関係)

女性にしても、男性にしても、ペア性・カップル性を思い、自分だけですべてをやろうとせず(特にこの現実の世界では)、異質な力を持った者同士が組み、目的を成し遂げていくのがスムースであったり、楽であったりするかと思います。

また、役割は違っても純粋に対等であることは、常に関係性の念頭におき、相手への依存や支配(独占含む)が働けば、それは均衡と統合の力を発揮するペアではないと認識しておくことも重要でしょう。関係性に癒着が見られると、依存か支配に取り込まれるおそれが強いので、注意が必要です。

実はこの世界、どの人もパートナーを求めており、得難き人が見つかれば、物事の成就はもとより、人生の安心感、ピースがはまる安定感、さらには万人を敵に回しても(多くの否定感に支配されても)、一人の大きな理解があれば自己を全力肯定できるすばらしさがあります。

恋の始まりも(「恋人」カード)、これらの意味があるのではないかと推測されます。

結局は、私の中のあなた、あたなの中の私を見つけることなのです。


再掲 タロットへの質問

何度か扱っているテーマですが、また「タロットへの質問」について書こうと思い立ちました。

ところが、自分のアメブロサイトに、二年前の同時期に書いた「タロットへの質問」に関する記事があがっていまして(笑)、偶然のような必然かと思い、再掲載しておくことにします。

この記事自体は、「占いからの脱却を観点にした“タロットへの質問”」についてですが、占いのことは抜きにしても、タロットへの質問そのものが、タロット活用(の種類)を変えていくことが述べてありますので、タロットリーディングする者にとっては、結構、重要な記事かと思います。

特に後半は、自分に対してタロット使う(自己リーディング)する場合の方法を、質問のやり方のほうからふれていますので、自己リーディングは難しいという人には、是非読んでいただきたいと思います。

2018.9.17の記事「占いから離れるタロットの見方」

 

ここで、また少し補足しておきます。

タロットへの質問は、タロットリーディングには必須なものと考えられていますが、実はそうでもありません。

特に、自分を洞察したり、客観視したりする自己リーディングにおいては、質問があるほうが読みにくい場合もあるほどです。

ですから、質問はあえてせず、タロットを展開してから(引いてから)質問を見つけるという、逆の方法もあるのだということをお伝えしておきます。

カードが出たあとで、それを見ながら、「自分は何を質問したかったのだろう?」と推測するわけです。

結局、絵柄から想起されることは、図像という「象徴」を通して、あなたの意識(顕在・潜在含む)にあったものを言語化、表面化させたものと言えます。(そうとも限らないことも、本当はあるのですが、ここではそれはひとまず置いておきます)

ならば、質問はなくても、それはあなたの関心や注目として浮上してきたものなので、いわば「答え」みたいなものと見ることができ、そこから逆算すれば、質問もわかってくることになります。

質問とは知りたいことでもありますから、まやかしではなく、本当の意味で、自分が求めていたものとなり、「ああ、私はこの質問がしたかったのだ」と気づくことにもなります。

この場合、変な話になりますが、真の質問の発見ために、タロットリーディングしていることになります。

タロットリーディングは、ある意味。答えを探すものというより、質問を見つけるための方法になることがあるのです。


タロットにおける視線、目の意味

マルセイユタロットには、カードに描かれている人物の視線が、比較的はっきりしています。

私自身、カモワンタロットから入った者なので、そのカモワン流では、カード人物の視線を重視した展開や、リーディングをすることで、自然、カードの視線については敏感になりました。

カードを観察すると、厳密には視線と言っても、微妙な違いがあるのに気付きますし、それらにはきちんと意味が込められていると感じます。(カモワン流で伝えられていること以外の意味もあると思っています)

それはさておき、私たち人間においても、視線方向というのは意味を持ちます。

普通は意識的に何かを見る時に視線は向けるものと考えますが、無意識的にも視線を向けていることもあります。

この無意識の視線の向け方が意外に重要なのではないかと思います。

心理療法やNLPの世界でも、視線の向け方には意味があるとされており、視線の動きによって意識を変えることは、普通に行われています。

おそらく眼球と脳には密接な関係があり、その動かし方、働きによっては、心や意識を変化させたり、逆に縛ったりすることもできるのではないかと予想されます。

そういえば、漫画・アニメのナルトに出てくる「うちは一族」の特殊な目は、脳に強烈なストレスがかかることで、特殊な目の力が開眼するという設定でした。

いわゆる「目力・めぢから」と呼ばれるものは、古くから知られており、陰謀論でおなじみのプロビデンスの目(これ自体は陰謀による支配の目ではありませんが)も、神の全能なる力を示す目ということで、目の特別な力を象徴しているように思いますし、エジプトのホルス神の目として、ウジャトとラーの目の力が伝えられています。

ということで、視線、目をどこに向けるのか、あるいはどこに向けられているのかということは、実際的にも、象徴的にも大事になることがあると、マルセイユタロットを見ると感じます。

普段、自分はどこを見ているのか、何にもっとも視線を向けているのか、これを調べてみると、自分の関心や結果を出そうしている分野にまでわかるかもしれません。

当たり前ですが、無関心なものには視線は注がれず、「視線がくぎ付け」という言葉があるように、強い注目があれば、視線はそこに向きます。

ということは、自分の関心の中心は視線の先と、注がれる時間の量にあると言えます。これは他人もそうでしょう。

しかしながら、最初に無意識の視線があると述べたように、自覚していない視線の向け方もあるので、それは無意識の関心ともいえ、自分ではない他人から確認してもらう必要があるかもしれません。

いずれにしても、たとえ無意識であっても、視線は関心や注目を示していると言えますから、自覚はなくても、あなたはそれに何らかの強い関心があるのだと言えます。

ただし、関心・注目と言っても、ポジティブなものだけとは限りません。相手に向ける敵意とか嫉妬とか執着など、ネガティブな理由もあります。

さらには、無意識のうちに縛られてしまっている関心(トラウマや何かの固定観念)もあり、やっかいなのは、他人から、意図的もしくは無自覚に植え付けられた印象があり、これは簡単に言えば「呪い」「呪縛」ということになります。

無意識の場合、見えない領域にそれはかけられますので、サイキック能力者とか呪術師などは、シンボルや使役する心霊的存在などを使い、いゆわる「呪(しゅ)」をかけます。

つまりは、対象者の視線を、無意識のうちに常にそれに向けさせるような話です。実際の意識としては、普通に対象や関心を見て生活をしているわけですが、呪縛があると、実は見ているようで見ていなく、無意識の視線(力のある視線)は別に向けられていると言ってもいい状態になります。

そう、タロット的に言えるのは、私たちの視線には、力のある視線と力のない視線があるということです。

通常は、その両方があいまって、私ちは物事を成し遂げていくのですが、残念ながら、視線によっては、力のあるものとないものとが分離し、実行力のない視線ばかりを使っていることがあります。

グノーシス的には、神の視線と自分の視線を一致させるのが、視線に力を復活させることになりますが、これらは特に、「力」から「審判」「世界に」至る過程で描かれていると言ってもよいです。

いわゆる第三の目の開眼も、視線に真の意味で力を宿らせることにつながると思われますし、そのことは、第三の目をいろいろなカードで象徴させているマルセイユタロットからも指摘できることです。

「太陽」や「月」になぜ視線(人物の顔)があるのかも、人の視線の力と関係していると想像されます。

とにかく、視線については、一般的には普段、ほとんど意識していないでしょうけれども、マルセイユタロットを扱っていると、視線について、文字通り注視することになり、意識的な視線と、無意識的な視線、それぞれの力について、思いを馳せるようになるでしょう。

そして、何事かを達成したい場合、よく言われるように、それに向けて視線が向くように、それがよく視線に入るように工夫する必要がありますが、反面、無意識に縛られている視線のほうも重要で、いくら視線に望ましいものを常に入れようとしても、無意識に注がれている視線の方向性によって、本当の視線は力を失っていますので、物事は現実化しにくいと言えます。

心理的に言いますと、自分の心が本当に向けている的(まと)が何なのかということで、囚われているもの、こだわっているもの、不安にさせたり、行動にブロックがかかったり、無意識のうちに取ってしまったりする行為など、その要因を探って解除させることであり、そのほうが、実は重要な場合もあるのです。

幸い、マルセイユタロットは、すでに述べたように、視線がはっきりしているため、使う技術によっては、意識と無意識の視線の方向を推測することが可能です。

無意識の視線とその的(まと)についても、完全ではないにしても、探索がかなりできることになります。

同じタロットではあっても、視線がはっきりしていないカード、視線はあっても、それに象徴システムとして機能させていない(つまり方向性などに、意味がきちんとつけられていない)ものは、視線の機能はあまり使えないことになります。

ここに、マルセイユタロットの良さのひとつがあげられるでしょう。

結局、言い方を換えれば、真実の視線(目)を取り戻すことが、マルセイユタロットに描かれている目的なのかもしれません。

覚醒と言ってしまえば簡単ですが、「目」は眠っている(眠らされている)ことと、起きていること(自ら起きること)、いわば、無明であることと、覚醒して悟ること(光明を得ていること)の違いとしてよく象徴されますので、目のシンボル図については、それこそ“注目”してみるとよいでしょう。


生きづらさの原因

この世に対して、生きづらいと感じている人は、少なくないのではないかと思います。

実は私もそうなのです。

生きづらさを、もし他人に対して述べると、たぶん、いろいろと慰めてくれたり、この世は捨てたもんじゃないよとか、励まされたりするのではないでしょうか。

まあ、人によっては、「そんなことどうでもいいじゃないか」「つべこべ考えず、働け、ただ生きろ」と言われるかもしれません。(苦笑)

そして、たいていはカウンセリングとか、心理療法、自己分析、自己探求の学び、セルフケアーみたいな方向性に向かいます。

そのことでおそらく、ほとんどの人は、自分の生きづらさの原因がこれだったのだとか、こうすればましになるというものに行き当たるとは思います。

しかし・・・です。

それでも、何か、どこか、やはり生きづらさを感じている・・・何らかのおかしさ、違和感のようなものをずっと覚えている。。。

こういう人もいるのではないでしょうか。

つまりは、心理的要因や療法だけでは完全に納得できない、すっきりしないところがあるわけです。(この場合、外側の環境要因については理解している、あるいは改善、克服しているとしたうえでの話です)

すると、結局、行きつく先は、スピリチュアルの領域、霊的な分野になってくるように思います。

逆に言えば、人は、大きく分けると、肉体的・環境的レベル、精神的・心理的レベル、霊的・スピリットレベルで生きていると言えます。

このようなことは、グノーシス思想では、すでに数千年も前から語られていることでもありますし、スピリチュアルに興味のある方ならば、人の体や意識の領域が、数段にわたって多重性をもっていることは、半ば常識でもあります。

ということで、本当に生きづらさを解消するには、自分の意識の多重性について気づき、それぞれにおいて、受容・ケアー・解放していくことが必要なのだと考えられます。

が、今日は難しい話ではなく、物語・メルヘン風に、生きづらさの解消について考えてみたいと思います。

それには、ズバリ、この世を仮想現実の世界として見ることが、まずあげられます。

その前提であるとすると、大きくわけて、生きづらさについて、ふたつの解決方法が考えられます。

●ひとつは、仮想現実社会をゲームとして楽しむこと。

●もうひとつは、仮想現実世界からの脱出を目指すこと。(覚醒、ゲームからのログアウト)

いや、そもそもこの世を仮想現実の世界と設定するのがおかしいのではないかと思うかもしれませんが、あくまで「生きづらさ」を感じている人に焦点を当てているので、その場合、この世が本当にひとつだけの現実であり、動かしようがない、変えようがない世界だとしてしまうと、救いの道が閉ざされてしまうから、仮想現実の世界としておいたほうがいいのです。

この世が仮想現実、つまりはバーチャルリアリティの世界だというのは、今ではよく言われるようになっており、SF映画やアニメの世界では、非常によく見られるもので、人気の設定になっています。

それが本当かどうかというよりも、そういう考えを受け入れることで、生きづらさを感じている人には、実は一筋の光明となる可能性があり、その意味で、この世が仮想現実であると、とりあえず設定しておくわけです。

そして、仮にそうだとしても、やはり生きづらさは自分としては感じているので、それをどうするかということになります。

すると、さっきの二通りの道が出てくるわけです。

しょせん、この世はゲームの世界だから、割り切って、楽しんだり、経験したりしよう、生きづらさも何も、ゲームのキャラだったら感じて当然であるし、それが本質的(キャラを動かしている本当の自分)には実は問題ではない(生きづらさは本質にはなく、仮想現実のキャラと世界だけにある)ということになります。

そうは言っても、なかなか割り切れないですし、この世はあまりにリアル過ぎて、つらいし、痛いし、苦しいし、仮にアバターである自分であっても、生きづらさを味わうのは苦しいということもあります。

ゲームであっても、ゲームにのめり込んでいる自分としては、ゲームの自分と本質の自分とが一体化していしまい、仮想そのものが、もはや真の現実と区別がつかなくなってしまっていることも考えらます。と言うより、ほとんどの人はそうです。

従って、自分がゲームの仮想世界にいることを思い出し、本当の自分に戻る方法を取っていくことが求められます。

一部の人には楽しいゲームかもしれませんが、生きづらさを感じている人には、そもそもゲーム設定が間違っていて、ひどいくそゲー(笑)を選んでしまった、あるいは難し過ぎるゲームに手を出してしまった・・・ということになり、言ってみれば、ゲームと言うより、ギャンブルをやっているようなもので、間違った楽しみを選択したおそれもあるわけです。

だからこそ、一刻も早く、このゲームからログアウトし、本質の自分に戻るか、別の(真実の)自分が本当に楽しむことのできるゲームをやるほうが、生きづらさから逃れるためにはよいと言えます。

ほかの方法としては、「いやいや、なかなかこのゲームはやり方やコツさえ覚えれば、楽しめるものなんだよ」と、ゲームの達人から教えてもらうのもありかもしれません。

では、ゲームから脱出するにはどうすればいいか?

という大問題(苦笑)があるのですが、これこそが、古代から連綿と続く、秘儀や密儀としての教えであり、一部には宗教の形で伝えられているものなのです。

もちろん、現代的な方法もいろいろと探索されており、様々な方が、いろいろな方法で研究、実践されているところと言えましょう。

マルセイユタロットも、大アルカナは、この脱出を目指す方法の絵図であり、小アルカナはゲームを楽しむほうを示していると言えます。(しかし、その逆の考え方もあり得ます)

脱出・ログアウトの道はかなり難しいかもしれず、たいていは、仮想現実世界としてのゲームを楽しむ、充実させるほうを選択してしまいます。確かにそのほうが、別の意味で現実的です。

ただ、これからの時代は、個別ではなく、全体として「皆さん、そろそろログアウトしませんか?」という問いかけと言いますか、お知らせがゲーム主催側から言われている(マルセイユタロットでは「審判」のラッパのようなもの)ように思います。

このゲームにしがついている時代は、終わりを迎えようとしているのかしもれません。

もしかすると、そうやって、私たちはいくつものゲームを乗り換え、遊んできた可能性もあります。

いわゆる天使とか、宇宙人とか、次元上昇した人など、ライトスピ系で言われる高次の存在は、そのように、多くのゲームを経験し、クリアーしたり、卒業してきたりした方々かもしれません。

その人たちはその人たちのレベルで、また高度なゲームにチャレンジしているのでしょう。その中には、私たちのゲームに入り込むような設定のものもありそうです。

まあ、とにかく、生きづらさを感じている人には、あなただけのせいではないですし、心理的問題だけとも限らないのですよ、ということが言いたいわけです。

人のせいとか世のせいにしてはいけないと多くの人は言いますが、本当にそうなのか?この世界の設定そのものが、どこかおかしいのではないか、と疑ってみると、生きづらさ自体は感じでも、案外、これまでよりかは楽になれることもあるので、お話したまでです。

もっと言うと、生きている価値がないと思う人は、それはその通りですよという、普通ではありえないアドバイスもできます。(笑)

これはあなた自身に生きる価値がないと言っているのではなく、こんな世の中、ゲームの世界なので、生きるも死ぬも、仮想の設定であり、価値そのものは、ゲーム体験自体でのものなので、本質のあなたとは無関係であるという意味で述べているのです。

だから「生きているだけで価値がある」というのも、この視点からすれば、ゲームに参加していることそのものに価値があることで、なかなか体験できるゲームではなく、それゆえ、ゲームキャラが簡単に終わりになってしまってはもったいないので、生きている(ゲームにログインしている)だけでも、それはすごいことに値しますよ、とも解説できるのです。

とは言え、もう飽きた、このゲームはそもそも嫌てす、という人もいるわけで、それが生きづらさの本当の理由である場合も、もしかするとあるかもね(笑)、みたいな話なのです。


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