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友だちはいなくてもいいけれど。

マルセイユタロットの大アルカナでは、数の順に成長していくという考えがあります。(小アルカナ数カードでも、ある視点からは言えることですが)

その観点でカードを観察すると、いろいろなことに気づくと思います。

そのひとつに、タロットの絵柄に出てくる人や動物の数の違いがあります。

全体の傾向として、数の小さいカードよりも、大きいカードのほうかそれらの数は多くなるように見えます。もちろん、数の小さいカードたちにも、人が多いもの(例えば「恋人」カード)もあります。

実は、そうした例外にも意味はありますが、今回は、この人や動物のようなものの数が増えていくことをヒントに、私たちの生き方について、考えてみましょう。

私たち人間は、ややこしい生き物と言いますか、たいてい、二律背反のような、別の心とか考えを併せて持ち、それらが葛藤することもあれば、どちらかのひとつを場面やシーンで選択して生きていることが多いものです。

そして、このこと(ふたつの相反する状態)は、一人のほうがいいと思うか、誰かと一緒にいたいと思うかという、誰しもよくある気持ちでも表されます。

性格や好みの差も当然あります。孤独を好む人、一人でいたほうが落ち着く人もいれば、常に誰かといなければ安心できないという人、大勢でにぎやかに過ごすのが楽しいと感じる人など、様々です。

しかし、たいていの人は、一人になりたい時もあれば、誰かと一緒にいたいと思う時もあるというのが普通でしょう。

これを、どらちかにしなければならないと思い過ぎると苦しくなります。

コミュニケーションの上手下手や、人間の価値を計る意味から、孤独、いわゆるボッチ(笑)を忌避したり、逆に、群れ・グループに入ることで、自分の存在を確認したりするようないびつな考えでは、自分が人とどう距離を保てばいいのかわからなくなって、不安になることでしょう。

タモリ氏も、「友だちなんかいらない」と述べたように、誰かといなくてはならないとか、友だちがいなければ人からなんと思われるだろうかとか、友だちから悪く思われないよう異常に気遣ったりするとかで、自分を見失い、自分が楽しく、あるいは穏やかに生きられないようでは、自分の人生なのに(他人のために生きるみたいで)本末転倒になってくるわけです。

その意味では、孤独、一人でもよしと割り切ったほうが楽かもしれません。

また、西尾維新氏のライトノベルで、アニメ化もされて人気になっている「化物語(ばけものがたり)」の主人公、阿良々木暦(あららぎこよみ)君も、最初は、「友だち作ると人間強度が下がる」という理由で、孤独を選んでいました。

これは、孤独の選択による精神性を中心とした強さが養われるという考えによるものと思われ、友だちを作ると、なるほど、友だちとの楽しい時間はあるかもしれませんが、反面いろいろと人間関係でわずらわしいところが出たり、気遣いするところがあったりで、自分というものが弱くなる(自分中心で決めらず、自分でいられなくなる)ということでしょう。

昨今の承認欲求オンパレードの付き合い方をしている人の多さを見ると、阿良々木君の主張も当を得ているかもしれません。

しかし、タロットの話に戻りますが、マルセイユタロットでは、先述したように、次第に人(や動物)は多くなっていきます

それでも中には、明らかに孤独が強調されているカードもあります。例えば「斎王」とか「隠者」などです、「隠者」に至っては、9の数なので、大アルカナでも半分くらいのそこそこの位置ながら、孤独性が謳われています。

昔から、精神的・霊的な成長のためには、俗世や一般の人から離れ、孤独な時間と空間に身を置かねばならないとされ、修行者に実践されてきました。その意味については、あえて今回は書きませんが、マルセイユタロットが霊的な成長プロセスを描いていると仮定するのなら、孤独の絵柄もあってしかるべきです。

一般生活においても、やたらと人と群れるのは、すでに言ってきたように、自分を見失うだけで、一人の時間は、いろいろな意味で必要でしょう。一言で言えば、人に依存しないように、一人になる、一人で生きるというシーンも大事だということです。

ただ、やはり、この世は自分一人だけの存在で成り立っていないのは明らかです。

たとえスピリチュアル的な意味で、「この世界は自分の創造にあり、究極的には自分しかいない」という考えであっても、自らを中心に、多様なものが放射されるがごとく、いろいろな階層・レベル、表現でもって、存在性は分化し、多様に「いのち」として表現されています。

ですから、他は自分でもあり、自らを救うということは他人も救うことになり、その逆もまた真なりで、他者を救うことは自己を救うことにもなると考えられます。

「化物語」の阿良々木君は、当初は人間強度が下がるからと、友だちを作りませんでしたが、本気で思っていたわけではなく、言ってみれば、友だちができない変わり者的な自分をすねていたのであり、孤独である自分を正当化して、かっこいい理屈をつけていたに過ぎません。それは強度どころか、自分の弱さでもあったのです。

結局、阿良々木君は、怪異と関係する者たちとの壮絶な体験を重ねることによって、友だちとも仲間とも恋人ともいえるような存在が増えました。その結果、むしろ彼の人間強度や魅力度は上がったように見えます。

これは、自分の弱さや限界を認め、受け入れることでもありました。

「化物語」はしょせん創作の話で、しかも怪異が出るようなファンタジーで、現実の私たちとは関係ない話と思うかもしれません。

ただ、タロットでも人の数が増えていたように、私たちは、一人よりも、全体(多勢)として見た時、その強さは最強になります。それは、さきほども述べたように、現実世界では、一人ひとりでは限界があり、できないことも多いからです。

霊的覚醒レベルになると、その一人の限界も超えていくようなことになるのでしょうが、現実的な意味においては、私たちが世界(全体)の力を知ることが、タロットからも示唆されているように思います。まさに「世界」と「力」のカードの関係のようでもあります。

私たちが、自分の個性を探求し、それを理解しつつも、同時に限界や苦手なところも知って、その面は、他人が担ってくれることを、「世界」というカードの視点を持つと気づいてきます。

よく言われるように、一人では無力だが、集まると大きな力になり、とてつもないことを成すことができるのです。

「化物語」の阿良々木君の言う、“人間強度”は、他人への依存(または逃避的な孤独)だと確かに下がることになりますが、自分の弱さも強さも個性も認めたうえで、他者を尊重すると、それは他者(が与える力)=自分(を救う力)にもなってきて、カードで言うと、「節制」の協同的力(それは救済力でもあります)が発現されてくるようになります。そうなると、逆に、人間強度は増すのです。

シンプルに言えば、私たち自身が世界であることを知る、世界と人々を好意的に見る(ただし、何でも甘んじて受け入れて支配されること、平均的思考で皆まったく同じになること、無抵抗になることとは別です)という感じでしょうか。

マルセイユタロットの「世界」の真ん中の人物が、周囲の四つの生き物とリースに囲まれて、踊っているように見えるのも、霊的には自分が宇宙になっていることでもあると考えられますが、現実的な話では、やはり、自他の協同、理解、助け合い、学び合い、能力・考えの提供、交換などの、それぞれの個性を活かし、調和する社会(世界)を示しているように思います。それが一人ひとりの強さと自信にもつながってくるのです。

全体で支え合えれば、一人ひとりの安心感も増し、自分自身の人生を豊かに、創造的にしていく機運もますます上がり、さらにはそれが全体の向上へと還元されてくるでしょう。

孤独で生きるのもよいですが、全体へ世界へと意識を向けていくことも、結局、自分のためにとってもよいことになるので、「自分のできる世界への開き方」を考えてみましょう。


タロットへの質問 いろいろな考え方

タロットへの質問(クライアント、自分がタロットに聞きたいと思っている問い)について、これまでも何度かこのブログで書いてきました。

私の考え方としては、一見、矛盾するようですが、タロットへの質問は、あまり意味を持たない(いらないわけではありません)という立場と、質問の工夫によって、タロットをうまく活かすことができるという立場との両方が混在しています。

アメブロで、1年前に書いた記事が自分のページに提示してくれる機能があり、偶然かシンクロか、ちょうどその1年前に書いたものとしてあがってきた記事が、後者(質問の工夫によってタロットリーディングも変化し、機能すること)について、わかりやすいと思いますので、それを再アップしておきます。

この過去記事では、まず、占い的な「なになにはどうなりますか?」のような受動的な問いより、「なになにする(なになにを実現する)にはどうすればよいか?」という能動的な質問にすることで、創造的な視点に変換できることを述べています。

当然、タロットからの指針も、「運命的にこうなる」というのではなく、自分が思い、行動するためのメッセージ、情報として扱うことができ、主体は自分自身であると自覚することができます。(タロット占いへの依存や、変に神秘性にあこがれるような事態になりにくい)

また、この記事には書いていませんが、質問そのものを絞ったり、具体的にしたりすることで、本来抽象的ともいえるタロットの絵柄とその意味を、現実的なもの、判断のしやすいものに落とし込むことができます。(しかし、これには問題もあり、そのことは後半の記事に関係してきます)

あと、記事では、タロットに質問をするのではなく、タロットの象徴性が自らに問いかけているという「リヴィジョン的な見方」のことも取り上げています。

たとえ、タロットへの質問があったとしても、タロットの意味に質問をあてはめるのではなく、質問そのものをタロットの象徴でもう一度見直す(ゆえにリヴィジョンと言われる)方法です。

これ(リヴィジョン)は、質問を工夫することの一種でもありますが、最初に述べた「タロットへの質問は、あまり意味を持たない」という立場にも近い技法と言えます。

では、その、「タロットへの質問は、あまり意味を持たない」という考えについて、一部になりますが、お話します。

とりあえずは、よく混乱するケースで、見てみましょう。それは言葉の問題が原因のものです。

例えば、「この講座を受けることはよいですか?」というタロットへの質問を行うとします。

そして、出たタロットによい・悪いという意味があったとします。すると、明確に、よい意味のカードが出れば、講座は受けたほうがよいという判断ができますし、その逆に、悪いカードが出れば、講座は受けないほうがいいとなります。

ところが、同じような質問ですが、ちょっと違う言葉(文章)になった以下の場合はどうでしょうか?

この講座を受けるのはよくないですか?(講座を受けるのは、自分にはあまり価値がないことですか?)

これに対し、よい、イエスと思われるタロットが出れば、講座を受けることがよいのか、あるいは、「受けることがよくないのでは?」という質問なので、質問自体に「イエス」と答えているとみて、つまりは、「受けることはよくないですか?」「はい、よくないです」という読み方をしてしまうことも考えられます。

また、カードの正逆と、吉凶的な意味のよい・悪いを入れた見方をする方法を取るならば、ますますこの混乱が顕著になります。というのは、正逆で意味がまったく反対になると見るものがあり、それだと、悪い意味のカードの逆向きはよいことになり、言葉だけで見ていると、質問に対しての答えがわかりづらくなります。

この問題の解決は簡単なことです。第一には、カードを吉凶、よい・悪いで決めつけた見方を採用しないことです。

もうひとつは、要は、否定の問い方をしなければよいということです。「なになにするのは悪いこと(よくないこと)なのか?」「なになにするのはダメなのか?」みたいな否定の問いかけをすると、カードが否定の肯定をしているのか、否定の否定をしているのか、それとも質問内容そのものの肯定なのか否定なのか、わからなくなってしまうわげす。

まるで、バカボンパパの「賛成の反対、反対の賛成なのだ(賛成の反対に賛成する、結局反対のこと)」みたいな感じです(笑)。(ちなみにバカボンパパのこの言葉は違う解釈もあって、意外に含蓄があり、なかなか哲学的・スピリチュアル的には面白いです)

次に、たいていの具体的な質問は、二元的な判断によるものがどうしても多くなります。それは、人間の現実生活が分離(どちらかの)判断基準を強いられる世界が常だからです。

ですから、生身の質問、現実(生活)の悩みから出る質問ほど、どちらがいいかとか、どうすれば(一般的・現世的な意味で)幸福になれるか(つまり、幸か不幸の)二元的選択の問いになります。また具体的でもあるということです。

ところが、言葉としての問いは確かにそうではあるものの、自分、あるいはクライアントが本当に求めている質問や、知りたいこと、気づきたい内容は別にあることが多いのです。

もう少し違う言い方をすれば、二元的な判断を求める自分も存在しますが、ほかの質問と答えを欲する自分、さらには、答えはもともと知っていて、質問と答えをまるで自問自答、自作自演のようにして楽しんでいる自分などがいるのです。

いわば、複数の自分が内に存在し、それぞれ、求める質問と回答が異なるのです。

そのため、一般的な、よく占いであるような現実的・二元的質問と答えは、確かに、ある自分を満足させはしますが、一方で、ほかの自分は不満であったり、もっと別の回答を求めていたりするので、そうした(別の)存在が自分の中に重要となってきた人には、もはや、通常の質問と答えのレベルでは、違和感を覚えたり、どこか納得しないところを感じたりするのです。

あるいは、別の自分の存在がまだそれほどではないにしても、一般的な質問と答えの繰り返しでは、同じ次元をループするだけのことになり、特に、精神的・霊的成長が望みにくくなります。

言い換えれば、その場限り、一代限りの自分が物質的に満足すればOKみたいなことです。(それが悪いわけではないですが、全体的、中・長期的に見れば問題であり、実は大きく現実的問題にも関係して来るのですが、そのことはいずれ別の記事で述べるとします)

ちょっとわかりにくくなりましたので、カウンセリング的なケースで簡単に説明しますと、例えば、恋愛の質問で「彼ができますか?」という人がて、それに対し、「いついつの恋愛運はよいですから、可能性があります。場所はこういうところで、相手はこのような人です」と占ってもらうことはあるでしょう。

しかし、実際にそのようなタイミングで、希望する人に出会え、恋仲になったとしても、すぐ別れてしまい、また、占い師のもとに、「次の出会い、彼はいつ現れますか?」と聞いて、同じように教えてもらったとしても、再び別れてしまったのなら、このクライアントの問題は、出会いとは別のところにあるのかもしれないことが予想できます。

このクライアント、彼女の質問は、現実的なものであり、彼との出会いについての質問ですが、それにそのまま答えることは、当人はおそらく満足し、実際に出会いがあれば、歓喜するかもしれません。

しかし、先述したように、これまでも、そして今後出会いがあったとしても、恋愛やあつきあいがいつもうまくいかないとすれば、本人の内面や、何か本人も気づていない問題データが残っているからとも考えられます。

このクライアントの質問自体は出会いへの方法やタイミングではあっても、本当の問題解決には、その質問を超えたレベルのものが求められることになります。

これは極端な例ではありますが、このように、当人の質問の言葉(当人が発する今の望みや疑問)をそのままをトレースして回答することは、一時的な満足や対処療法的なことになる場合があるわけです。

従って、「タロットへの質問は、あまり意味をなさないことがある」のも、これでわかると思います。

タロットへの質問はあくまで導入であり、そこから本人の気づいていないところまでアプローチし、最初の言葉とは別のレベルの回答を(本人がタロットリーダーととに)導き出すことも可能なのです。そのほうが、本質的に、タロットリーディングというものに近いと言えましょう。

ただし、必ずしもそれがよいと言っているわけではなく、ケースバイケースであり、現実的・二元的な質問に答える技術、タロット占い、タロットリーディングもありますし、それがクライアントの満足と救いのプロセスに乗せるきっかけになることもあります。

そして、最初に述べたように、質問に意味があるという立場を取ることもでき、それは質問、問い方によって、タロットをより活かすこともできるためで、ひいては、問い方そのものが、自分の人生を決めて行くことすらあると言え、その意味では、質問は非常に重要なものとなります。


現代の自分探し

自分を知りたい、自分らしくありたい、こういう望みを持つ人は増えたのではないかと思います。

昔から、いわゆる「自分探し」という名前で、自分が何者なのか、自分は何のために、どんな目的で生きているのか(生きて行けばよいのか)と、世界を旅する人がいました。

そして、精神・心理の世界で、自己表現の大切さが謳われようになり、また別の形で、それを求める人が増えたように感じます。

しかしながら、かつての「自分探し」の旅で、よくある結論・結末としてあったのは、結局、自分はここにいた、というもので、世界など旅する必要はなかったのだという「幸せの青い鳥」のような話でした。

まあそれでも、考えようによっては、世界を旅したからこそ、身近なこと、本当に大切なものがわかったということもあるので、探求したり、放浪したりすることは無駄ではないと思います。

そして、現在は、自己表現ということで、自分の個性、自分らしさというものに注目する人が多くなったのは、先述したとおりです。

これは裏を返せば、自分を押し殺し、無意識的に人の言いなりになって、何か社会や組織、大きな存在や常識と言われるものに自分をあてはめて生きようとし過ぎ、自分が本当にどうしたいのか、どう生きたいのかを見失っていた人がたくさんいたからだと考えられます。

ところが、ネット社会になり、SNSや動画などで、簡単に自分を発信・表現できる時代になり、自分自身を見る者、自己表現の方法と世界は増えたものの、他人から認められたいという欲求が増加したり、自分のことがますますわからなくなった、個性がみんなのようにうまく出せない(埋没した自分を感じる)という人も少なからずいるのではないかと思います。

コミョ障を自覚する人も増えたのは、こうあるべきとか、人はどんな場合でもうまく円滑にコミュニケーションすべきという観念のようなものがある中で、そうなれない自分が余計気になるようになったからではないかと思います。

言い換えれば、情報が多く、一般化(情報が伝わりやすく、形だけは共有)するシステムが作られているため)しやすくなったことで、自分がそのイメージとはそぐわないことが際立つ(実際の自分と、理想で語られるイメージとの乖離が強くなる)ようになったということです。

情報が一般化されてくると、このように、昔は考えもしなかった(情報として入らないか、少ない例しか見ないので、気にする範囲が狭かった)ことが、いろいろと嫌でも目に付いてきて、気になるのです。

もちろん、かつてあった地域の年齢階梯的な集団制度も崩れ、少子化で部屋にこもりがちな人が増えたり、あまり他人とコミュニケーションせずとも、お一人様でも生きていける環境が整ってきたりしたことことの弊害もあるでしょう。

要するに、今の社会、昔の自分探しとはまた違った意味で、自分を探さなければならない状況に追い込まれている人がたくさんいるのです。

そして、皮肉なことに、その探している自分は、情報化社会にある無機質とも言える集合概念のような“他人”に対して受けのいい自分、かっこいい自分、何か注目を浴びる自分という、本当の自分かどうかは疑わしい存在なのです。

また、精神・心理系の人が探す自分というのは、言葉では本当の自分、ありのままの自分というものですが、これも、抑圧している(されている)自分でない部分の自分ということで、本当の自分の一部でしかないのが実情でしょう。普段演じている自分も、大きな自分の中の一部であり、結局、どれもが自分なのです。

ですが、抑圧されている自分がそのままだと気持ち悪いですし、いつか暴発しかねませんので、その抑圧されているほうの自分を発見したり、コントロールしたり、浄化したりする必要はあると思います。

自我の二重構造と表現できるかもしれませんが、人に見せやすい自分と、見せにくい自分に対立・葛藤をさせてしまうと、エネルギー消費も無駄に巨大なものになり、歪みも起こしているので、心身に悪影響が出るのは必然でしょう。

よって、そのねじれや二重構造は解消するか、葛藤するふたつの自分を協議・調整させておくことは望ましいです。

とはいえ、あまり情報に踊らされて「自分を探す」ことは、やり過ぎないように注意したほうがよいです。

中には、それ(自分探しの手伝い、コーディネート)をわざと商売にしている人もいます。(そういう仕事があってもよいと思いますが、目的が別にある悪徳的なものも存在するからです)

さきほども言いましたように、自分が表現する(している)自分というのは、全部自分(トータルな自分の一部)ですから、あれが本当でこれは偽物と区別する必要もないでしょう。

マルセイユタロットで言えば、大アルカナ22枚に象徴される人格が自分の中にすべているみたいな話で、さらに小アルカナ的にいえば、それらが4つのシチュエーションや性質、10の段階などにも分かれるという感じです。これもすべて自分の中にあるものです。

タロットを知れば、少なくとも78枚(の象徴)の自分がいることがわかります。

ペルソナ、仮面というものがあり、ここからパーソナリティと言葉も出るように、私たちは全員、いつもペルソナでいるようなものです。本当の自分は仮面をはがした者ではなく、仮面全部を統合した者と言ったほうがいいかもしれません。

会社にいる自分、家庭にいる自分、友人といる自分、パートナーといる自分、趣味の時間にいる自分・・・たぶん、皆さん、それぞれの顔や態度は微妙に違うでしょう。解離性同一性障害(多重人格)ほどではないにしても、普通の人にも、いろいろな自分がいるのは確かなのです。

(演技や功利的な意味で)わざとやっている人もいるでしょうが、大半の人は自然に相手や状況に応じて、それにふさわしいと思う自分が出ています。

そもそも劇や映画などで演技が成り立つのも、演技者(人間)の中で、そういう人格を一時的にも形成できるからで、もちろんそれは演技者本人とは別人ですが、演じることができるのは、その性質を持つからと言えます。

だから、誰れしも、悪人にも善人にも、ヒーローにもヒロインにもなれる気質があるということです。

現実には、様々な条件やカルマ等もあり、すべての人格を思い通りに出せて、なれるわけでありませんが、人とはそういうもの(あらゆる人格の可能性を持つ者)だと思うと、自分探しというものが無意味であることがわかってくるでしょう。

あえて言うのならば、この(その)時代に生きることの意味や、生き甲斐を思える自分というものを作り上げることが「自分探し」と言えるかもしれません。

探すのではなく、作り上げるのですから、選択も創造も可能なのです。

性格や経験というベースがあるので、まったく新しい人物を創造することはなかなか難しいですが、結局、自分の生きる価値・生き甲斐ができれば、それは自分らしさとか、自分の個性とかになってきますので、自分探しは、自分なりの生き甲斐、この生(せい)のある人生に自分価値が持てるかにかかっているというわけです。

ですから、死ぬ前なら、いつでも間に合うわけで、この意味において、自分探しに遅いはないのです。

この人に出会えたことが良かったとか、この仕事ができて良かった、このチームに入れて良かった、この動物を飼って良かった、ここに来られて良かった・・・こういう瞬間や状況でも、自分の生き甲斐を感じることができれば、その時の自分は自分を探せていると言ってもよいです。

ということは、「自分探し」で見つけようとしている自分は、自分単独だけの存在(自分ひとりで見つけたり、見つかったりするもの)ではなく、相手や状況など、自分以外のものとの、相対的・関係的な形としての「自分」でもあるのです。

本当の自分とは、全体(世界)とのトータルな自分と、自分単独と思っている自分の両方の接点にあるものだと言っています。

自分らしさにこだわっても、それは本来の自分ではないのですから、あまり悩まなくてもよいです。

逆に、この現実世界では、自分らしさは、抑圧される自分が調整されている(規範性・社会性と、自我・エゴ性の自分がうまい具合に調和しているか、バランスが取れている)自分であり、他者との違いをペルソナ的に持ち、それが生き甲斐になっている自分なので、それはそれで、追求していく(その意味で自分探しをする)のは、現実を生きる意味ではよい(生きる意味を現実に見出す)ことだと思います。


ふたつの悪魔

マルセイユタロットの「悪魔」のカードは、読みにくい(意味が分かりにくい)カードかもしれません。

特に、タロットカードに吉凶判断や、いい・悪いをあてはめて解釈する人には、「悪魔」という名前と、一般的な感覚からして、なかなかフラット(中立)に見たり、ポジティブに読んだりすることはできないでしょう。

これは「名前のない13番」のカードにも言え、こちらのほうは、絵柄の印象がネガティブなものを想起させる感じです。

一方、「悪魔」は、上述の通り、悪魔という一般イメージそのものが、このカードに、いわば、悪いもの、悪意のようなものを見てしまうからネガティブになりやすいと言えます。でも、「悪魔」の絵柄自体は、13よりも強烈ではなく、むしろ愛嬌があるくらいではあります。(笑)

とはいえ、「悪魔」のカードが何を表しているのか、やはり悪魔だけあり、このカードはなかなか一筋縄ではいかないものがあります。

「悪魔」に、ネガティブなイメージが一般的にあるのは当然ですから、無理矢理ポジティブに読もうとせず、そのまま悪い印象を受け入れて見ることで、理解を深めることができることを紹介いたします。

さて、皆さんは悪魔(カードの「悪魔」ではなく、悪魔という言葉)にはどんなイメージがあるでしょうか。

人をそそのかし、悪いことをさせる存在、欲望を焚きつけ、堕落させる存在。犯罪や戦争など、人類のネガティブなものを操作する存在・・・いろいろ一般的にはありますね。

結局、一言でいえば、悪いことと結びつく存在です。

ところで、悪いというのは、逆に、よいこと、正義という概念があってのことです。正義と悪という対比でよくされます。

面白いことに、「7」という霊的成長の段階を示すと言われる数をもとにした場合、マルセイユタロットでは、「正義」が8で、これの7段階あとが15の「悪魔」となっています。ちなみに、「正義」の7段階前は1の「手品師」で、大アルカナの数では、「愚者」を除いて最初の数のカードになります。

タロットカードは、人類全体としての象徴の型を示すと同時に、それゆえ、個人一人ひとりの心理構造のような、見えない世界をも象徴します

そこで、「正義」と「悪」というものを個人の中に見た場合、これは誰しも持っている価値観のようなもの、信念体系になっているものと言えます。

全員、自分の中において、「正しいこと」と、それに対比される「悪いこと」の区別・考えがあるはずです。(これは、逆もそうで、悪いと思うものがあるから、いいもの、正義と思うものもあることになります)

ただし、一人ひとり個人で見た場合、その区別や線引きは、まったく同じ人がいないのも確かでしょう。すなわち、悪魔は(正義も)誰しも同じでないのです。

あなたの心の悪魔と、相手の心の悪魔は別なのです。しかしながら「悪魔」としては共通しています。

一人ひとりの中に住む悪魔、これはあなたが思っている「悪」というものの概念(というより観念や信念に近い)の権化と言えます。

さきほど言ったように、悪は正義と一対のものになりますから、あなたの正しさ、よいと思うものも、あなたの中に同時に住んでいます。ただ、マルセイユタロットの数的な象徴性から言えば、むしろ、悪(悪魔)が正しさを規定していると言ってもよいのかもしれません。

従って、あなたの悪魔が非常に(あなたの考え方や行動を規定するものとして)大事になるのです。

悪魔はあなたの中の正しさの裏返しであり、正しくあろうとするものに対して、反抗やレジタンスを担う存在でもあります。

あなたがあなたの価値観で正しくあろうとすればするほど、または正しいと判断(ジャッジ)すればするほど、反対の振り落とされた悪いもの、「悪」は、あなたの中に潜在的に蓄積されていきます。

本来、あなたの線引き・価値観を取り除けば、判断される物事というものは中立で、よいも悪いもありません。別の人からすれば、そのことは、あなたの反対のことと判断されるかもしれないものです。

ということは、本質的には中立で、どちらでもない(どちらでもある)ものが、白黒のように分けられると、元のひとつに戻ろうとする働きも起こるのではないかと予想されます。

あなたが切り分けた悪と正義も、ひとつのどちらでもないものに結合しようと、いつかは動くのかもしれず、その時、かつてふるい落とされた「悪」側のほうは、その存在を主張するために、何らかの形で現れる(アピールされる)ことになるでしょう。

物語風に言えば、魔王の復活であり、正義に対して、戦いを挑んでくるみたいな話です。

勧善懲悪のストーリーでは、悪(魔王)は正義(の味方)に返り討ちにあい、めでたしめでたしとなるのかもしれませんが、そんな単純な話ではスカッとするだけで、話や人間性に深みがないのは、ご承知の通りです。

むしろ、悪が一時的に正義を支配し、時には今まで正義と思っていたものが悪で、悪にも理由があり、見方によっては正義にもなり得、さらには正義と悪が統合されて、新しい考え・境地・世界に至るというほうが、物語的にも面白いです。

悪魔を中心として見ると、あなたか悪いと思って避けていたもの、見下していたもの、あるいは、本当は魅力を感じたり、そこに大きなエネルギーを見たりしていて、しかし、それに引き込まれるおそれ(強大なので翻弄される危険性があること)によって、あえて拒否していたもの「悪魔」にあるのです。

正しいと今まで信じてきた世界に自分を押し込めてはいたものの、次第に狭い世界に自分がいることに気が付いてきて、悪魔の呼びかけが起こっていることに悩みながらも、殻を破ろうという力が出できます。

だいたいにおいて、自分にとって正しいと言われている世界は、誰かから押し付けられた信念・ルールであることか多く、それは依存幻想でもあるのです。

「悪魔」自体、依存性や幻想世界への囚われを象徴するカードですが、逆に、私たちが誰かからの「正義」によって、悪魔につながれたことと同じようにされている(している)場合もあるのです。

その意味においては、「悪魔」は解放者となります。

要するに、「悪魔」は、あなたの正しくあろうとするものの破壊者であり、救済者でもあるのです。

そのレジンタンス性は、正しさの世界ではテロリストみたいなものにも見られるかもしれませんが、あなたの信じる狭い正義のために、あなたが窮屈になって、自由と自立心を失っている状態へ、強烈なカウンターとして、悪魔があなたを救いにやってきているのです。

その時は、あなた自身が悪魔になります。

それまでは、あなたの中に、別の悪魔がいるかもしれません。それはある面では、あなたを支配する存在で、もしかするとあなたのあこがれであったり、あなたに強い影響を公私ともに及ぼしている実際の人、あるいは体制とか組織かもしれません。

その「悪魔」は、あなたを保護してくれますが、あなたを利用しているか、あなた自身がその人に支配されたり、依存していたりすることも考えられます。

それでも、居心地はよく、あなたも正しい世界、安心できる世界にいると思っているでしょう。

もし、どこか今の世界に疑いを持ってきたり、今まであこがれていた人、安心だと思っていた状態に対して、何かしら疑念のような変化の心が出て来たりしたのなら、あなたの中にある「悪魔」が存在を主張し始めたのかもしれません。

こうして、ふたつの「悪魔」によって、あたたは成長していくのです。


選び、選ばれる存在 生きる価値

私たちは本来、何者でもないのだと思います。

これは色で言えば、色がない、ある特定の色ではないという意味に近いです。

つまりは、個性がないということです。しかし、それはまったく何もないという「無」の状態ではなく、限定した個ではないという意味で、言い換えれば「すべてある」「すべての個が含まれる」というものです。

要するに、「すべて」だから「ひとつの限定した者」や、何か「特定なものである」と言うことができないのです。それが「何者でもない」という意味です。

しかしながら、現実世界で生きると、個性を誰しもが持つことになります。そもそも肉体としての姿かたちが、もうすでに個性(一人ひとり違うもの)ですから、当然です。

従って、現実世界では、「私は何者なのか?」ということが、まさにこだわりを持って追求され、語られます。それ(個性)こそがひとりの人生と言ってもいいかもしれません。

人と違う人生を生きている、私は私であるという実感を強く持てれば、その人(の人生)は充実するのですが、皮肉なことに、人との違いは競争や比較をもって見られることが多いですから、優劣、持てる・持てない(モノや人気)などの感情を持つことも普通になります。

そして、それにより、自分が他者より劣っていると感じたり、無個性(強い個性をいい意味で自覚できない、持てない)を感じ、自分の人生がつまらないもの、取るに足らないものに思ってしまうきらいもあります。

強い個性のためには、人と違わなければならないわけで、多くの場合は、それはポジティブな賞賛を勝ち取ることで得ようとしますが、中にはネガティブな評価や見方をされることよって、それ(個性)を得ていく人もいます。

後者では、犯罪などの潜在的要因になっていることもあるのではないかと思います。

さらに、日本では、むしろ個性を出すことより、皆と同じでいることが無意識のうちに強要されるような社会でしたので、その矛盾性はねじれとなって、深層心理に根付いているのではないかと思います。精神を病む人が多くなるのも当然かと思います。

それでも、時代が進むにつれ、自分から発信することが容易になってきましたので、個性を出すことが、昔よりかは機会もツールも多くなったと思います。それによって、個性を出したくても出せない人や、個性がないと思っていた人が、今は生き生きとしている場合も増えました。

その反面、個性を認めてくれという承認欲求的なものも過度に膨れあがり、個性の表現と承認の応酬が激しく繰り返されている状況でもあります。

もちろん、そうしたもの(応酬パターン)に入らず、淡々と生きている人もいるでしょう。ただ、個性を出しやすくなった分、そんな中でも自分の個性を表現できない、他者から個として強く意識されないというのは、以前よりも深刻になり、自分の価値を小さく感じている人も、かなり多いのではないかと推測しています。

先ほども述べたように、この現実世界では、いかに自分に個性があり、人と違った「自分(他者と違う自分という存在)らしい人生」が過ごせるかによって、充実度が決まると言ってもよいので、自分の価値(個性としての)がないと思えば思うほど、自分の人生の意味は薄く、生きている実感も弱くなります。

セラピーなどでは、自己の価値を高めること、自尊の大切さが謳われますが、それは確かにそうではあるものの、こういう個性こそが現実みたいな世界のシステムの中では、自己の無価値観、空虚さが出やすくなるのも、致し方ないところがあると思います。

まあ、逆にいえば、だからこそ、自尊ができる、自己の価値を取り戻せるセラピーというものが、普通の人にとっても大事になりますから、生きづらさ、空しさを感じている人は、自分の価値を高めるためのセラピーや心理療法を受けるのはよいことだと思います。

そして、セラピストや人の相談をしている方は、その個人の悩みや問題を解消するだけではなく、実は、そうした人々へ自分自身の存在価値を高める仕事をしているのだと自覚することも重要です。

これは私の考えですが、個人の特定の問題や悩みも、その人の個性を訴えているものであり、言ってみれば、「私はここにいる」「私は生きている」「私は無視される存在ではない」「私はよく生きたい」というものの現れでもあると思っています。ですから、その訴えを解決するのももちろん重要な目的ですが、何よりも話を聞くことが大切なのです。

 

さて、もうひとつ、こういう現実のシステムの中で、少しは楽になる方法があります。

それはマルセイユタロットでは、「恋人」カードが示すものです。

このカードでは、三人の人物がいて、真ん中の人が、どちらかの女性を選ぼうとしているように見えます。

このことから、「選択」というキーワードも出るのですが、これが私たちの人生を形作っていると言えます。すなわち、私たちは、毎日、一瞬一瞬、あることを選択しながら生きているわけで、特に人間関係の、選び・選ばれで、自分の人生の色合い(彩)が決まるようなものと言ってもよいでしょう。

私たちは、生まれるのも親のもと(親たち自身の選択)からですし、誕生以降、関わる人によって、自分の存在も決められてきます。もちろん、自分の意志はありますが、まったく人に無関心、関わりなく生きられる人は、特に現在では皆無と言っていいでしょう。

そして、これまで述べて来た、個性が人生という(他者評価と自己評価が結びつくシステムの)意味においては、選ばれる・選ばれないとう視点が出てきます。

つまり、選ばれる自分こそが優れている、よいことだと思うようになるわけです。たとえ自分が選ぶのだとしても、相手がそれ(選ばれたこと)を受け入れないと双方向にはなりませんので、結局それは、相手から選ばれるかどうかという意味にもなるわけです。

こうして、自動的に、私たちは、選ばれるという意識を強く持つようになってしまいます。しかし、当然ながら、選ばれることがすべて自分の希望通りには行かないのが現実でもあります。むしろ、自分が選ばれることのほうが少ないと言えます。そのため、自分から選ばれるように、アピールする人もいるわけですが・・・

この仕組みを理解したうえで、「恋人」カードの上部に描かれている天使(キューピッド)を思います。この位置は、三人の人間たちとは違い、俯瞰した視点になります。言ってみれば、選ばれる・選ばれないの次元ではないのです。

この天使的視点を持つと、一番最初に書いた「私たちは何者でもない(裏を返せばすべてである)」という状態を思い起こすことができます。

天使目線になると、選ばれる・選ばれない、選ぶ・選ばないという人間たちの行為が、言い方は軽いものになってしまいますが、一種のゲームのように見えて来るのです。

選ばれることが大事ではなく、関係性そのものが自分の色をつけ、さらには色を変えていることがわかってきます。個性は色付けもされ、脱色もされ、さらに塗り替えもされるのです。

「何者でもない」のは、実はもう「何者でもある」ということと同意義であるのだと気づいてきます。

あとは、この理不尽とも皮肉ともいえる現実システムの中で、いかにゲームを楽しむか、味わうかになります。

否応なく、ゲームの世界に来ているのですから、イベントに参加しているのに、自分は無視を決め込むというようにしていても、もったいないと言いますか、それではますます空しくなるばかりです。

天使の視点を持つということは、傍観者になれと言っているのではないのです。ゲームに放り込まれたら(あるいは進んで参加したのなら)、ゲーム設定の世界を味わうしかない、それ(ゲーム)をしたほうが面白く過ごせるのは必然だということです。

ただし、もうひとつ道があります。ゲームであると知ったのなら、ゲームをするのではなく、ゲームの仕組みを解き明かす、ゲーム世界からの脱出(可能かどうかはわかりません、通常は死をもって一時離脱となりますが)を目指すのも、ひとつの楽しみ方(笑)でしょう。

話を戻しますが、結局、個性というものは、この現実世界においての特徴的システムであり、それは仮のものでもありつつ、人間関係のつけ方によって、結構可変的に組み替えることができるのだと思えば、個性を他者からの評価によってもらうループ地獄に、はまり過ぎることは少なくなるでしょう。

心理学的、あるいは霊的に言えば、セルフアイデンティティ(自意識)は、他者評価がすべてではないということであり、もうひとつ、「別意識」によってもセルフアイデンティティは構築されていることに気づくという点です。

その別意識とは、「恋人」カードでは、天使に描かれている領域であり、他者視点ではない世界、つまり、自分の奥(本当の自己)の世界、霊的な空間といってもいいものです

古代や伝統的な社会では、それは神聖なものと呼ばれるものでした。従って、昔の人は、聖域や神聖な場所を、日常と並行して持っていたのです。

こうしたところにつながる機会を持つことで、私たちは他者目線の世界で自分が評価されるオンリーの仕組みから、逃れていたと言えます。いわば、自分で自分を評価する世界観です。(高次の自己が、低次の自我を統合していく瞬間)

すると、生きていることと生かされていることの両方の感覚が出てきます。

また、現実世界においても、選ばれることで誰しもが自分の評価を得ているのなら、あなたが誰かをよい意味で選ぶことで、その人が個性を自覚し、生きる実感を増す(自己価値を増す)ことかてぎます。しかし、現実的・物質的価値に傾きすぎた打算的な選び方では、それは脆いものとなるおそれがあります。

「恋人」カードの天使の矢のように、天使的な、いわば愛の視点で相手を選ぶと、それは強い絆となり、相手にとっても自分にとっても強い個性をもたらすことになるでしょう。

何者でもなかった者が、相手にとってかけがえのない確かな存在、愛する人、愛される人となるのです。色がなかった人に、生き生きとした色がつくようなものです。それはよく例えられるように「バラ色」と言えるかもしれません。

恋をすると世界がカラーになり、生き生きとするのには、そうした理由があるとも考えられます。

他者から求められ、評価される世界の喜びも味わいつつ、それがたとえ少ないものであったとしても、天使目線でいると、人や社会との関係性そのものが自分の個性を作っていると見えてきて、その選択のゲーム性を楽しむことができるでしょう。


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