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タロットの逆位置(リバース)

タロットの展開法、タロットのスプレッドには、たくさんの種類があります。

有名で、よく使われているメジャーなものもありますが、タロットリーダーやタロティストのオリジナルなものも少なくないでしょう。

かく言う私も、オリジナルスブレッドはいくつか持っています。その中でも、リーディング用と占い鑑定用みたいに分けているものもあります。

ただ、もともとカモワン流のマルセイユタロットから入った口でもありますので、カモワン流のカード人物の視線を追う流動的スプレッドに慣れていたこともあり、いわゆる固定スプレッド、例えばケルト十字などのタロット界ではよく使われている方式は、逆に違和感があったのも事実です。

まあ、展開法、スプレッドというものは、目的のための手段ですから、目的からはずれていないのであれば、やり方、方法としては何を選択してもOKだと思います。

要するに、自分かタロットの種類に合っていて、使いやすく(読みやすく)、タロットを使うその目的に適っていればいいのではないでしょうか。

さて、そうしたタロットの展開法の中で、カードを正立に置くか、逆位置(リバース)に置くかという違いのもの(種類)があります。

私自身は、正立だけの方法と、逆位置も出す方法との両方を使い分けています。このブログで、時々やっている企画モノでは、正立だけ置く方法を採用していることが多いですね。

間違っているかもしれませんが、私が調べたり、聞いたりした話では、タロットの逆位置(リバース)をリーディングや占いで取るようになったのは、それほど古いものではない(新しいものだ)ということです。

マルセイユタロットを見てみれば、小アルカナの数カード(数札)は、正逆が一見しただけではわからないものもありますし、説によっては、正立と逆位置が反対のものさえあります。(ある正立状態が実は逆であるという解釈が存在しています)

おそらく、デザインから見ても、マルセイユタロットの数カードは正逆で見るものではないと私は思っています。

大アルカナや小アルカナの宮廷カード(コートカード)は、明らかに正立がどの状態かが見てわかるような絵柄ですから、これに逆位置のケースを考えるのは、あってもいいかもしれません。

ともかく、いつの頃からか、タロットでは逆位置・リバースを見るようになり、正立の場合との解釈や意味を変えるようになってきました。

その理由として考えられるのは、私の推察ではありますが、やはりシンプルに判定がしやすくなるという利点があったからではないかと思います。

つまり、正立は良し、逆位置は悪い、または、正立の意味と逆位置の意味では真反対になるという読み方です。

逆位置を採用することで、カードそのものを読むよりも、正逆の位置だけで良し悪しが最初にわかるというのは、鑑定的な意味では効果的だったと考えられます。ということは、パフォーマンス(的意味合い)も大きかったのだと推測されます。

そういう意味では、やはりタロットが占い(の道具)としてよく(メジャーに)使われるようになってきたことが、逆位置・リバースの取り入れにつながってきたと考えられます。

あと、ウェイト版(ライダー版)の登場により、小アルカナの数カードにも絵がつけられたことで、正逆を判断しやすくなったこともあるのかもしれません。そのウェイト版が、占いで多くの場や人に使われるようになることで、さらに逆位置解釈も拡大して行ったと思われます。

逆に言えば、もともとタロット占い、タロットリーディングにおいては、逆位置(解釈)はなかったのではないかと想像できます。

ましてや、占い・リーディング以外での活用になってきすと、ますます正逆の区別は意味がないということになります。それよりも、カードの図像そのものや、構成に注目するのが自然です。

ともあれ、今やタロットでは、逆位置・リバースを取ることが、普通になってます。

ただ、その解釈はまちまちでもあります。

さきほど述べたように、正立では良い、逆位置では悪いと解釈するものと、正立の意味と逆位置の意味が正反対で読むものがまずあり、これはタロットの逆位置解釈では、一般的と言えるかもしれません。

これに対して、あくまで正立の解釈を基本として、逆位置は正立を阻害したり、ブロックしていたり、正立からのズレ・不調和を来している状態と見る方法があります。

これだと、逆位置は必ずしも悪いという意味にはならず、また正立の反対の意味というわけでもありません。いわば、一時的な「正立の別状態」で、何かの気づきや修正が図られれば、正立に戻すことができることになります。

逆位置の解釈は、すでに書いたように、タロット活用が自分の目的に適っていれば、どのようにしてもよいとは考えますが、個人的な意見としては、正立を良い、逆位置を悪いとしてしまうのは、少々問題があるのではないかと思います。

もちろん、正立が良いこと、逆位置が悪いことと設定していれば、カードの位置だけでもおよその判定をすることができて、特に占いには便利であるとは考えますが、この解釈方法は、そもそも良し悪しとか、善悪という二元的価値を強く植え付けてしまいがちで、つまるところ、カード自体にも良し悪しをつけて見るようになってしまいます。

それは、タロットにはよいカード・悪いカードがあるという前提になり、吉凶判断に囚われた見方になるのです。

タロット、特に大アルカナは、二元を統合する方向性にあると私は見ていますので、あまりに吉凶のような二元分離の価値観にはまってしまうと、自己の成長や拡大、意識の向上が滞ってしまうおそれがあるのです。

良し悪しというのは、見た目や形ある世界のルール、一般的価値観(世間体や外の人、環境から押し付けられた価値観)であることが多く、これが個人の心理・精神の世界になってきますと、一概に良し悪しは決められなくなってきます。

またスピリチュアル的に言えば、高次意識になればなるほど、善悪、吉凶の境目はなくなり、すべては同じ(金太郎アメみたいなコピー的な同じという意味とは別です)という思考・感覚になると言われ、つまりは、同じレベルの価値観からいい悪いを判断していては、そのレベルの世界観でしか物事を見ることのできない人間で固定されてしまうことになります。(言い換えれば、霊的な成長が見込めない)

ですから、正逆を採用した展開を用いるにしても、その解釈に、単純に正立が良い状態・良いことが起きる、逆はダメ・悪い状態というような見方をしていては、まずいこともあるわけです。

また正逆で正反対の解釈するもの、例えば悪い意味のカードと決めているものは、逆になればよいことになってしまいます。これもちょっとおかしな話で、結局その違和感は、もともとカードに吉凶的な解釈をしてしまっていることにあると言えます。

ということは、正逆解釈問題に関わらず、カードごとに善悪、吉凶、良し悪しを意味として決めていることが根本的な問題だとなるでしょう。

そのほうが読みやすく、スピードも速く、何かと便利であるのもわかるのですが(そして実際に、いいこと・悪いことはカードの通りに起こるという人もいるでしょうが)、そうした(吉凶)次元を超えて解釈する読み方に慣れていくほうが、長い目で見れば双方(クライアント・リーダー)のためになるかと思います。

とはいえ、正立だけの展開法を推奨している(逆位置採用を否定している)わけでもありません。

何度も言うように、展開法は手段であり、目的ではありません。正逆を採用することで、リーディングがしやすくなり、総合的なセッションとして見た場合、効果的になることもあります。

それに、案外、正立だけで読むというのは、あらゆる要素(ポジティブ・ネガティブ)を考慮に入れて読まないといけないので、実はかえって高度な場合もあるのです。

ただ、正立だけ出す展開の良さもあります。

タロット界では、もはや正逆両方を取ることが普通になっているので、やってもらうほうも、逆位置(リバース)は何か悪い意味ではないかとマイナスにとらえてしまうことが多くなっており、逆が出ただけで恐怖や不安に駆られる人も少なくないのです。

それに対し、正立だけ出るということは、見た目の安心感がかなり大きくなります。言ってみれば、自然にポジティブな気持ちにさせるわけです。

聞くところによれば、あのホドロフスキー氏も、正立だけのものでしかカードを展開しないのは、心理セラピストでもあるホドロフスキー氏にとって、クライアントに余計な不安を与えない配慮もあるということです。

タロットカードの正逆の展開、あなたはどう採用し、どのように解釈しますか? それを決めるのもあなたの自由です。


正義と悪魔 罪悪感

マルセイユタロットの「正義」のカードと「悪魔」のカードでは、まったくの正反対の意味のように思いますが、この両者は、ある心理的な観点からすると、関連性を持って見ることができます。

それは罪悪感にまつわることです。

罪悪感がない人、持ったことのない人は、中にはいるかもしれませんが、普通は、皆さん、何らかのことで抱いたことはあると思います。

それはまさに文字通り、「悪いこと、罪だと感じる感覚」ですので、悪を断じたり、悪いと思うことを自分で認めたり(反省したり)することにもつながりますから、決してダメなことではないでしょう。むしろ人間の成長のためには、よいことなのかもしれません。

しかし何事もバランスであり、歪(ひずみ)をもった罪悪感、本当は持たなくてもよい過剰なる罪悪感であるのなら、それはやはり問題となります。

そもそも「悪」や「悪いこと」と思うには、その反対の正しいこと、正義という基準・価値観がないと生まれません。

ということは、自分にとっての悪は、自分にとっての正義の反対であり、その逆(自分にとっての正義の反対が自分の思う悪)もまた真なりです。

やっかいなことに、個人の場合は、そのふたつの線引き、価値基準が人によって違うことです。

国家的・社会的なものは、一応、明文化された法律・規則というものがありますから、それに反することはたいてい悪(というよりルール違反ですが)になり、順守しているほうは正しいとなります。それが個人的感情として納得するかどうかは別としても、あくまで公式ルールなので、従うしかないわけです。

ここ(はっきりとした客観的規則があるもの)はタロット風に言うのなら、4組(四大元素)の剣(風)の世界であり、杯(水)、つまり感情によってゆらめいても、線引きは可能だということになります。

しかしながら、個人の場合は自分の中に法律があるようなもので、しかもそれは明文化されていませんし、主観ですから、ずっと同じ基準で固定されるわけでもなくも流動的です。つまりは、正義も悪も人によって異なり、あやふやで、感情や気分によっても左右されます。

とはいえ今の自分、個人として、なにがしかの善悪、正義と悪の基準を持っているのは確かです。そして、その内なる自分の法律に従い、自らを、あるいは他人や物事を裁こうとします。いわば、誰もが内なる法律の裁判官なのです。

そこで罪悪感です。

罪悪感は、このように、自分の内的な価値基準、内なる法律のようなもので、自分では正しくないと思った(裁いた)こと(悪、悪いと思ったこと)に、刑罰を与えようとします。それが、自分にとっての心理的なバランス調整なのです。(「正義」のカードに、剣と天秤があるのも、極めて象徴的です)

これが自分に向かう場合は、自己を罰することになりますから、いわば大きな意味での自傷行為、自罰行為を成すことがあります。

これは自分に対する罰を自分が行っている(執行している)ようなものです。

例えば、恋愛や人間関係でわざと気まずくしたり、よい関係を壊そうとしたり、仕事では大事なところで失敗したり、無理な案件や内容を自分に課そうとしたり、残業など肉体を酷使したりします。

かなりのパターンであるのは、神経か肉体を痛めさせるというもの(罰)です。つまりは何らかの病にかかる、あるいは病気のような状態を呈するのです。

問題は、この罪悪感から来る自罰行為を、自分の表面的な意識は自分がやっているとまったく思っていないことがあるのです。

人生のシーンで、何かうまく行かない、目標や望みが達成できない、心や体が何か調子悪いというようなことに、こうした罪悪感が関係し、自罰行為のシステムが潜在的に働いている場合があり、それが自分ではわからないというケースが結構あります。

これは、カウンセリング、心理的なことを含む相談やセッション、リーディング、セラピーの過程で判明することがあるので、何となく心当たりがある人は人に見てもらうのもよいでしょう。

一方、これが自分ではなく、他人に向かう場合があります。自分の罪悪感を外に押し付けることで自分の責任逃れや、罪悪感から解放されたいという行為です。

この場合は、他人への嫌悪感(結局、投影に近いことですが)とか、攻撃、批判という形になります。

これとは少し異質なのですが、タロットの「悪魔」と「正義」の並びで浮かんでくることは、罪悪感とは逆の、自分の正しさを保証(意味的には保障にもなります)してくれる人を求めて、悪魔のような強い人、カリスマ的な人の下につながれに行く、つまりは依存するというパターンもあります。

場合によっては罪悪感の裏返しの正義(悪いこととは思っていても、自分は悪くないと思いたいがために、開き直るがごとく、他人を利用して自分が正義であることを守るもの)のために、悪魔的な、一般に影響力の強い人とつながろうとすることもあります。

さらいえば、「悪魔」の下に入った人たちは、傷をなめ合うかのように、自分(たち)は悪くない、正しいんだと思い込んで集団で安心するケースもあります。

ただ、言っておくと、誰しも大なり小なり、この「正義」と「悪魔」との、罪悪感と正しさ(自分は悪くないこと)の調整はやっています。小さいことなら、それこそ無数にあるのではないでしょうか。

そうして、私たちは心のバランスを図っているとも言えます。

しかしながら、自分の内的な法律があまりにも厳しくて、自分を縛り過ぎ、いつも自罰行為をしたり、他人へ批判的になったりしていては、自分で牢獄の中に入っているようなものてす。いわば、自分の法律によって世界をとても小さく、窮屈なものにしてしまっているのです。

しかも、自罰、自傷をしていると、自分にとってよいわけがありませんし、実害が自分だけではなく、他人にもかかってくることがあります。

先にも述べたように、公のもの、社会的に明文化されたルール、法律は変えることは難しく(変えることはできますが)、公共の利益・福祉、皆の生活のためには、従うのは当然のことです。それだけにはっきりしていて、誰にとっても明確で悩むことは少ないでしょう。

けれども、個人の内的なものは、不安定でもあり、その正義と悪、善悪の線引きも可変的です。そのため、悩みや葛藤も発生します。

それでも、一生従わなくてはならないことはなく、自らがどうとでもすることができるのです。法律を作るのはあなた自身であり、裁くのもあなたなのですから。

罪悪感で自分を縛る人は、タロットでいえば、もっと「悪魔」と仲良くなること(エゴ、自分が自分であることを受容すること)であり、その反対の、あまりに緩すぎる人は、「正義」を思う必要があります。

罪悪感は、宗教的なこと、育った家庭教育の中から生まれていることもあります。一度、本当にそれは自分にとって悪いことなのかどうか、冷静に、いろいろな経験と知識を得た今の自分から検証してみる必要はあります。

同時に、この自分の思う正義、正しいことというのは、どのレベルで言っているのか、ということも考えるとよいでしょう。

よく勘違いされますが、正義や悪は本来ない(人が決めている)のだから、何をやってもいいのだ、自由だという人がいますが、レベルや次元、階層別に、きちんとルールは存在します。

確かに次元が上がれば、その下の善悪、正義と悪はどちらでもないような観点になるでしょうが、上の次元においても、下とは違うものであっても、それなりに善悪はあるはずです。ここは難しいところで、下と上の階層では、二元的なものがまったく逆に入れ替わるようなこともあるのです。

ですから。あるレベルからすると、それは悪いものだよと言われても、また別のレベルでは、必要な良いもの、正義という場合もあるわけですから、一概には決められないと言えます。

言い換えれば、レベルの高い人が言うことは、あなたにとって(あなたの今感じている次元やレベルにおいて)必ずしも、正しいとは限らないということです。

タロットの「正義「と「悪魔」、正反対のようですが、なかなか両者をともに考察していくと、面白いことが見えてくるものです。


問題解決のアプローチ

「問題」、これが一体何なのか、定義しだすと様々な意見や考え方があって、人によってそれぞれと言えましょう。

そう、問題と言っても、まったく同じ状況が起こっても、ある人には問題とはならなかったり、軽い問題に思えたりしても、別の人には大変深刻な問題となることもあるでしょう。

そういう意味では、問題は「本人・自分」が困ったり、異常事態と認識したり、何か悩みごと、心配ごと、気になっていたりすることという意味になるかもしれません。

まあともかくも、今回は問題の意味を探るのではなく、問題の解決方法の迫り方、アプローチについてとりあげます。

タロットリーディングのひとつの作用・目的に、やはり問題の解決ということがあります。

従って、タロットの読み方も、当然当人(クライアント、相談者)への問題解決的な読み方になります。

私はもともと、カモワン流(カモワン版マルセイユタロットの創始者のうちの一人、フィリップ・カモワン氏のタロットメソッド)から学習した者ですので、そのリーディング方法として、問題カード・解決カードという展開技術があったことで、はじめのうちから、そうした問題と、それに対する解決、ソリューションを意識した見方をしていました。(ただ言っておきますと、こうした見方が、必ずしもよいわけではありません)

そのような、カード展開メソッドから問題と解決策を考えやすく(読みやすく)する技術もあるのですが、一方で、カードそのものとは別の、いわゆるアイデア(発想)や思考としての解決に迫るやり方があります。

タロットカードを見ても、その象徴する意味や絵柄から何かは浮かんできますが、それを問題の解決として、問題を解いていく(修正したり、よい方向にしていくための)アイデアとして思いつくようにするには、ちょっとしたコツがいるわけです。

言ってみれば抽象的なレベルの解決策を、もう少し具体的なものにまで落とし込む発想技術という感じです。

ところで、マルセイユタロットには、この世界や人を見る時、物質的・心理的・霊的な次元やレベルとして、階層を意識する考え方があります。

まあ、これはスピリチュアル的な視点や論理としては、ごく当たり前のことなのですが、通常は、常識や目に見える範囲、いわゆる科学的目線での解決策を、問題に対して見るのが普通の人の発想です。

病気で言えば、病院に行って、細菌やウィルス、肉体的損傷などの原因とその治療を(現代医学として)行うというようなものです。

ただ、皆さんの中にも経験があるかと思いますが、医学的検査をしても、特に異常や問題が見当たらないのに、自分としては痛みや不調を感じているという場合があります。要は医学的には原因不明で、よって治療もわからない、治療するに及ばず、みたいなことです。

この場合だと、たいてい精神的・心理的なことが原因ではないかと言われることがありますが、たとえそうであっても、なぜ精神的なことで、今の病状を呈しているのかという因果関係がわからないこともあります。それでも、深く見ていくと、それがわかる場合も出てきます。ただ、現代医学的には、その因果関係が解明できない、はっきり説明できないことも多いわけです。

ということで、一口に「問題」と言っても、その解決には、ただの物理的、肉体的、目に見える範囲からアプローチしても、よくならないこともあります。

ということは、私たちは、タロットやスピリチュアル的な見方で言えば、少なくとも、三つの階層によって、問題を見て、解決も図らねばならないと言えます。

三つというのは、先述した、物質・精神・霊です。言い方を換えれば、現実的・物理的観点、心理的・サイキック的観点、霊的・魂的観点です。

そして、これがすなわち、問題解決へのアプローチ(と発想)となるのです。

さすがに、昭和のバリバリな物質的観点中心のアプローチから、平成には、精神や心の理解、アプローチが増えて、もはや問題の原因や解決にも、心の分野があることは常識となりました。(しかし、迷信や非科学的にものを排し、物質的・合理的・科学的なアプローチを極めていくためにも、物質的観点は必要なものと言えました)

例えば、私がかつて公務員時代、うつ病になった当時、今ほど精神の理解は少なく、心の問題や病気は、かなりの面で、古典的な精神病扱いが多かったように思います。うつなどの言葉自体も、一般的にはまだ特殊なものでした。それが、今や当たり前の常識みたいになっています。

ただ、平成時代に向かった内的方向性、精神・心側への問題に対するアプローチは、令和になり、そろそろ別の転換が求められるようにも思います。ある意味、すべてを「心理的な問題」とする傾向に、拍車がかかり過ぎているようにも思うからです。

精神と物質は別ではなく、つながっていること、根本的には同じものであること(同じところから出ていること)が次第に解明されつつありますし、多くの人がその関係性が分離できないものに気づいていますが、それでも、どうしても、そのふたつを統括的・統合的には見ることができず、別々のアプローチになってしまいます。

例えば最初に出した病気の事例でも、今の治療の扱いでは、内科・外科など各科ごとに分離されていて、特に精神・心療関係と、その他の病気や不調は、病院・診療所として別であることがほとんどです。統合的に見るような場所は一般的ではありません。

これからは、病院で言えば、それぞれの専門性、科として独立しなからも、同時に連携して統合され、情報が共有されつつ、診断と治療が行われていく方向性に進むか、進んてほしいという希望があります。マンガ・アニメの「攻殻機動隊」に出る概念ですが、「スタンドアローンコンプレックス」、独立したものでありつつも、ネットワーク的な集合的情報共有意識を持つみたいな感じです。

さて、結局、問題へのアプローチについては、すでに述べたように、私たちは物質的・物理的・科学的アプローチを持つのは当然としても(宗教やライトスピリチュアルに傾倒してしまうと、このレベルを疎かにしたり、否定したりしてかえって問題を悪化させてしまうことがあります)、精神や心の面から見ること、さらにはもっと大きな魂や霊的なレベル、個人のカルマ的な意味で見たり、さらには人類全体の進化のような視点から見たりすることなどで、これまで膠着状態にあった問題が解決に向かう場合があります。

それぞれにはそれぞれのまた専門性と階層性があり、宇宙や世界の入れ子構造(ホログラフィクでホロン的な構造)を思えば、私たちの現実の世界と人間にも、その専門性と階層性が存在していると見ることができます。

ということは、問題を肉体的・物理的なアプローチで見て解決してくのを得意とする人、心理・精神・サイキックを得意とする人、霊的なレベルで見ることを得意とする人がいて、その世界観があると言えます。

それでも、結局、統合する(本当の意味で問題を解決する)のは自分自身ではあるでしょう。

それから付け加えておきますと、これはあくまで私の考え方ですが、物質的、精神的、霊的という階層において、問題の捉え方も変わりますので、その解決や解決状態というのも、それぞれに違ってくると思っています。

極端に言えば、物理的な解決は良し悪しがはっきりしており、直った(治った)とか良くなったというのが明確なものになります。運の良し悪しでも見るような世界です。

翻って精神や霊的な方向性の解決は、それらが一見普通の人の感覚からすればあいまいで、良くなったのかそうでないのかという見方ではなく、何かの気づきであったり、問題はまだあったとしても、問題として認識しなくなっていく(問題とは思えなくなる)ようなものであったりします。

言ってみれば、より高次的な解決になればなるほど、問題そのものを現象として扱わず、認識への変容として、外的より内的に向かうというもので(しかし、すべての原因は自分にあるというのではなく、外と内の統合性に向かうもの)、認識が変われば、今までのレベルでは問題は存在しても、それはあたかも存在しないかのようになるので、実際に当人から観測されず、観測されないからこそ、問題は現実レベルでも消えてしまうこともあるわけです。

マルセイユタロットでは、「吊るし」や」節制」、「月」などのカードが、問題解決の意識変換と特に関わっており、それゆえに、発想を変えたアプローチが、解決として求められます。

押してダメなら引いてみな」という言葉があるように、ただひとつのアプローチだけてはなく、ほかの階層から働きかけることで、解決に進展することがあります。自分一人では無理な場合(なかなか解決しない問題は特に)、先述したように、それぞれの専門性の人がいるので、援助をいただくのもよいでしょう。

「問題」は、最終的には問題として起こっている意味に気づくようになっていますので、それは「問題が問題ではないという意識に変わること」でもあり、言わば、「問題」と「解決状態・問題のない状態と」が等しいと認識できる意味にもなりますから、それはすなわち次元上昇を意味し、グノーシス(神性・完全性への回帰の認識に至ること)の過程と言えるのです。


タロットが読めないと思っている人に

このブログでも、何度かお話したことがありますが、私は最初、まったくタロットに関心がありませんでした。

ですから、タロットの世界(業界)に入ったのも、偶然と言えます。(ただ、見方を変えれば必然ではありますが・・・)

ましてや、タロットにたくさんの種類があること、そして自分が初めて学習したタロットが、その中の古典的なマルセイユ版であることも知りませんでした。まあ、結局、私はマルセイユタロットしかやらないことにはなりましたが。

そんな私ですから、初期の自分のタロットリーディングも惨憺たるありさまで(苦笑)、意味を学んでも、カードがほとんど読めませんでした。

自分はタロットリーダーには向いていないとつくづく最初の講座中思ったもので、リーディングのできない自分が恥ずかしくもありました。できれば講座を途中でキャンセルして帰ろうかとも思うほどでした。(笑)

しかし、当時の先生から聞かされるタロットリーディング以外の神秘学的内容や、古代象徴系の話はとても興味深く、タロットを通して本当の自分や宇宙を知るという教説には、自分の好奇心・探求心に火をつけるワクワク感がありましたし、実はタロットを習うこと自体はとても楽しい面もありました。

ちょっと話はそれるのですが、この受講中の楽しさは、もしかすると自分の特質とも大きく関係しているのかもしれないと思うところがあります。

これまで、ほかのセミナーや講座を受けることもありましたが、タロットの学びは格別でした。

それは人見知りのある私でも、タロット仲間には、気の合う人が多かったということもありますし、その自分の特質というのが、知識などを学ぶことが好きであるということもあったからです。

そして、これらをさらに自分の内的なデータとして掘り進めていくと、仮に過去生というものがあるのなら、私は修道院や僧院のようなところで学ぶ形式と生活が過去にあったのかもしれず、しかもその繰り返しが結構あり、それゆえ自分にはなじんでおり、たとえそれが(経済や自由さにおいて)苦しいものであっても、精神的には楽しく、充実していたのではないかと思うところがあります。

そうした(大人になっても続けていく)学院形式は、悪く言えば現実逃避の部分もあったでしょう。修行生活と言っても、実生活で自ら働いて生活していくのとはまた別で、おそらく、寄付とかお布施とかもあって、稼ぐという行為は、托鉢的なものや半ボランティア的な行為、院による作物や食物の製造(西洋だとワインとかチーズ)などで、院生活のための収入を得るものになっていたかもしれず、いずれにしても、外の社会で働くのとは違っていたと考えられます。

私にはもともと現実逃避的な性質があります。(苦笑) それが先述したように、何かを学んでいる時と、その仲間との交流の時間は、自分の精神としては、現実を忘れるほどの喜びと楽しさを感じることがあり、そのため、今述べたような過去生データのスイッチが入るのではないかと推測している部分があるのです。

話を戻します。

タロットリーディングが、技術的にもまずかった当初の私ですが、ある時を境に、急に視界が開けたように、タロットが読めるようになりました。

いったい何が起こったのでしょうか?

それは、訓練を続けたことと、コツをつかんだということにあります。私の先生も述べていましたが、タロットリーディングは一種のアートなのです。日本語では、芸術というより、「芸事」の「芸」というのに近いでしょう。

芸事ですから、よほどの才能がある人とか、霊感的な特殊能力のある人(そのような人は、タロットを読むのではなく、自分の特殊能力でチャネリングすることが多いのですが)以外は、やはり師匠(先生)について学ぶほうがよく、しかもただ学ぶだけではなく、一人の時も、よく訓練しておく必要があります。

また師匠・先生に言われたことだけをするのではなく、自分なりに創意工夫し、常にリーディングの向上に努めることが求められます。思考だけしていても始まらず、人に見せる実践トレーニングも芸事には大事です。(カードで言うと「手品師」)

このあたりが普通の勉強とは違い、芸事の習得の特徴でもあるでしょう。何よりも、タロットという芸を愛している(好きである)ことが重要です。

一方で、芸やスポーツには、確かにセンスの問題というのもあるかもしれませんが、私自身はセンスはあるほうだとは言えず、普通だと思います。それよりも、「コツをつかむ」ということに集中してトレーニングすることです。

タロットリーディングが芸事であっても少々やっかいなのは、タロットの種類や展開の方法によっては、そのリーディング方法も異なってくることと、教える人の言うコツと、本人のつかむコツというのが合わないと言いますか、噛み合わないことがあるのです。

まあ、ほかの芸、たとえば踊りとかでも、流派があるように、タロットも一種の流派や流儀の違いがあります。

さらに、先述したように、教える方は、自分のコツを伝えようとしますが、それが人によってはコツとはならないことがあるのです。

従って、先生の言われる方法だけでは、本人としてのコツがつかめないこともあるわけです。ここが、自分なりの工夫がいるという理由なわけです。

それでも、あきらめないことが大事です。コップの水で例えれば、タロットの知識やリーディングの訓練が、次第に自分というコップの中に溜まっていき、いつかあふれ出す時が来ます。

私が急にタロットを読めるようになったのは、コツをつかもうとトレーニングしてきたことと、それらが一定の蓄積を超えて、リーディング脳とも言える、脳内や精神的内部のタロット的思考のネットワークがつながったからだと思っています。

それが突如、読める感覚となって現れます。いわばタロットリーディングにおける開眼みたいなものですが、それにはきちんとした蓄積があってのものなのです。(開眼にもレベルがあり、また次の段階で読めない(これまでのコツでは通用しない)状態が現れ、それを乗り越えて、さらに高度なリーディングに変容していきます、その繰り返しみたいなものです)

タロットとの会話と言いますか、タロットか好きで、タロットをさわっていると、向こうから語りかけてくような感覚も出ます。それらも、蓄積によって現れると言えます。

開眼する前にも、その過程では、「あっ、いい感じで読めている」という、コツをつかみかけるような時があります。その感覚を忘れないことですし、そうしたことが次第にたくさん起こるようになってくるとよいのです。

読めない時はがっかりしたり、自分にダメ出ししたりするかもしれませんが、多くの生徒さんは、できないことにフォーカスしがちで、できていることに意外に無関心なのです。

自分ひとりでトレーニングしていても、比較の意味でわからないことがありますから、やはりタロットを学習する仲間とか、友人とタロットリーディングをし合ったり、勉強会などか開催されると参加したりして、自分ができていること、読めていることを人から評価してもらう機会を作るのもよいでしょう。(当然、できていない部分も見えますが、そこは落ち込まず、冷静に受け止めて、向上させればよいのです)

あと、なるべく具体的な目標も大切で、例えば「いついつのイベントまでには、出演できるよう、読めるようにしておく」という決意と実行が、具体的目標・節目となって、現実に作用しやすくなります。

ほかにも、他人リーディングの修行ということで、一か月何人見るとか、合計〇〇名の人をリーディングするというような目標を立てて、実行していくのもよいでしょう。

ただし、この数稽古形式は、慣れとかコツをつかむきっかけになることもある反面、数さえ満たせばうまくなると思って、検証や理論なしで、ただがむしゃらにやり続けても、ますます混乱を来したり、変な固定的な読みの癖がついたりする恐れがあるので(リーディングが占いレベルオンリーになりがち)、注意が必要です。(「手品師」や「皇帝」だけはなく、「斎王」や「女帝」も必要だとマルセイユタロットでは例えられます)

プロでやっている人でも読みづらいこともありますし、うまく行かないこともあるのですから、反省はしてもダメ出しはせず、コツをつかんで自信をつけ、よきリーダーになっていただきたいと思っています。

あなたのタロットリーディングによって、救われる人もいるのです。


波に乗る 乗らない

量子力学的な引用で、この世界(素粒子レベル)は波動と粒子の両方の性質を持つと言われます。

とぢらでもあって、どちらでもないわけで、それは少し古い言い方にはなりますが、「観測者(の存在)によって変わる」という、一見不確かなようにも見える世界でもあるということです。

ともあれ、粒子とともに、波動、波としての状態もあるということはわかります。

ということは、私たち自身が波であるのか、はたまた粒子であるのかによっても、見え方、感じ方といいいますか、世界そのものの在り様も変わるのではないでしょうか。

私たちはよく波に乗るという言い方をします。

これは調子がいい時や、何か幸運をつかむような時の表現でも言われます。

反対に、調子が悪いと、波に乗れないとか、波からずれている、はずれている、落ちている、合っていないというような言い方もします。

波に乗る、乗らない(乗れない)という表現で、イメージされてくるマルセイユタロット(大アルカナ)と言えば、やはり「運命の輪」でしょうか。

「運命の輪」には、その名の通り、運命を象徴するような輪があり、それに「乗る」ような形で、三匹の動物が描かれています。

そして下には大海のようなものがあり、この輪のマシーン的なもの自体が海に浮かび、波に揺られている状態で、つまりは、波(乗り)との関係性が二重で示されていることになります。

この「波乗り」の二重性は、なかなか興味深いところです。

まず、輪のほうの「乗り」で見ますと、やはり、三匹の動物たちの乗り方が特徴的です。向かって左側の動物は輪からずれたり、降りようとしていたりするようにも見え、方や、向かって右際の動物は、必死で振り落とされまいとしがみついているようにも見えます。

さらに、一番上の動物は、悠然と構えていて、輪の「乗り」を楽しんでいるか、まったく回転を意に介さないかのような印象です。

もし輪がそのまま文字通り、運命を示すのであれば、私たちはこれらの動物のように、ある時は運命の流れから落とされるかのように感じたり、またある時は、必死で運をつかもうと作為したりするかのように見えます。

そういう中で、真ん中の動物だけは、運命を知っているのか、そういうものを意識し過ぎないのか、輪自体には確かに乗っていますが、回転の影響は受けていないので、ある意味、「乗っていない(動いていない)」とも言えます。

ただ、この真ん中の動物としても、下の大海の上下のような波の運動は感じているかもしれず、その影響はあるようには思います。

それでも、まるで海を進む船が、この船は大丈夫だと確信しているかのように、大海の波乗りと、輪の波乗りのふたつを同時に楽しんでいるかのようです。

一方、輪の中の左右二匹の動物たちは、おそらく大海の波の動きには関心がなく、それを感じてはいても、輪の回転、輪の動きだと誤解したり、混同したりして、波乗りについては、輪のほうに意識が偏っていると推測されます。

私はあえて、大海が何であるかとか、輪が何であるかということを答えのように、ここでは示しません。さきほど、「輪は運命だとしたら・・・」と表現こそしましたが、それはそうかもしれませんし、そうでないのかもしれないのです。

ここは皆さん自身で、自分なりの回答とか、象徴しているものの意味をつかんでほしいと思います。

もう一度、大切なことなので、「運命の輪」から見えてくる構造を、「波乗り」を、描かれている動物を比喩にして書きます。

●回転する輪に翻弄され、それに乗ろう(落ちまい)とする動物と、輪からはずれたり、落ちようとする(落ちてもいいかのような)動物

●輪の回転に影響されないが、輪には乗っている動物

●大海の波を知りつつも、動揺しない動物(輪の上の真ん中の動物)

●大海の波の運動を、輪の左右二匹の動物は知らないか、感じ取りにくい(輪の波乗り、波降りに集中している)

ここで、最初の話に戻ります。

すでに古典的なものではありますが、量子力学では、波動と粒子の二重性が言われていて、もし私たちに波動か、粒子かの選択があるとすれば、波動状態そのものであれば、実は波を実感することはできず粒子であれば、つまり物質的な形のようなものであれば、逆に波は感じられるのかもしれません。

しかし、波の運動によっては、私たちは、自分が小舟のように右往左往してしまうかもしれず、何とか、うまく波乗りしようと頑張って、上手に乗りこなしていると見える時と、まったく波と合わずに、サーフボードから落下してしまったり、船が沈没してしまったりするかのようなこともあるでしょう。

「運命の輪」の真ん中の動物は、なぜ回転の輪の波乗りを平然とこなすことができるのか、そして、大海の波に翻弄されることがないのか、このことは、「運命の輪」のカードそのものからの重要な示唆であると考えられます。

輪の二匹の動物は、絵としての二次元表現でも、動いているように見えます。

それは輪(の絵)とともにあるからとも言えます。ちなみに、輪をよく見ると、マルセイユタロットでは、「運命の輪」が立体的、三次元にも見えるのですが、その三次元感覚でさえ超えるような、不思議な描かれ方もしています。(例えば、輪の中の向こうの景色、背景が見えないなど)

さて、こうして見ていくと、「波に乗る、乗らない」という表現と態度は、もしかすると、逆に私たちを波から遠ざけているのかもしれないのです。

しかし、また反対に、その表現があるからこそ、実体として見えない運命のような波、何かの流れ、波動のようなものを感じ、外に表現することができるとも言えます。

ここに、物質性と精神性、または霊性とのつながりが見え隠れするのです。

ちなみに、「運命の輪」は、詳細は言いませんが、時間とも関係するカードです。

流れる時間と空間の感覚こそが三次元を生み出しているとも言え、波乗り、波降りに振り回される二匹の動物がごとく、私たちは、時間と空間の中で、もがいているようにも見えます。

ところで、大アルカナは22枚ありますが、ある分け方をしますと、10枚×2の分類で、残り二枚が「愚者」と「世界」になるというものがあります。つまりは、「10」という数と括りが、セットやサイクルを象徴することになります。

その数を持つ「運命の輪」が、重要な位置(終わりと始まり、プロセスの重要な転換点)にあるのは想像できます。

運に対しての私たちの考え方も、言葉で言えば、運に乗る、運をつかむ、運から見放される、運に振り回される、運がない、運がよい・悪いという、運をあたかも客観的に自分とは別に存在するかのような表現をよくします。

これがもし主観的なものだったら、どう表すでしょうか。

こうしたことも、波とそれに乗る者、扱う者との関係性で、「運命の輪」をもとにして考察できると思います。


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