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月のタイミング

タロットカードでは、どのカードもそれぞれ関連性があると言えますが、あるテーマや問題を意図した場合、特にその関連性が強まって来るカード同士があります。

今回はそのような例として、「月」のカードと「運命の輪」を取り上げ、特に「月」についてふれてみたいと思います。

この二枚は、タイミングをテーマにして結びつけることができます。そしてタイミングと言えば時間に関係します。

「運命の輪」はその回転性から「時間」を象徴することは知られていますが、「月」は時間と関係あるのでしょうか?

かつては(の運行)を基準にした暦が使われていたくらいですから、月は太陽とともに私たちの生活時間に密接に関係していますし、ある意味、私たちの日常的な時間を作っている天体のひとつとも言えます。

特に「月」の時間・タイミングは、太陽のそれと違い、見えない領域、自然の生命的リズムなどを司っているように感じます。もちろん、太陽も一日を支配し、一年を形成しており、それも自然と言えば自然です。

しかし、太陽が何か意思があるような、表に現れる強い時間のようなものをイメージさせるのに対し、のほうは優しく、オートマチックに流れている(無意識の)ような感じがあります。言ってみれば、太陽が表の時間、月が裏の時間という表現になるでしょうか。

月が裏で自然的な時間であることは、マルセイユタロットの「月」に、人間ではなく動物やザリガニのようなものが描かれているところからも想像できます。

ところで生命を育んできた大きな存在といえば、地球では「」が思い浮かびますが、「運命の輪」と「月」には、その海と関係するような絵と言いますか、水の部分があります。

「月」のほうは、水たまり的な感じではありますが、手前側はもっと広大になっているかもしれず、それは海とつながっている可能性もあります。

一方、「運命の輪」は、明らかに大海に浮かんでいるかのようなマシーン的な回転体が描かれていますので、海というイメージは明確です。

そして、海の潮の満ち引きは、月の引力によって起こされていることが知られています。ここからも「月」と「運命の輪」が関係していることがわかります。

タイミングや時間をテーマにすると、この二枚が今述べたように関連し、地球における時間、あるいは「運命の輪」の名前のように、人の「運命」さえ「月」が影響を及ぼしている可能性がうかがえます。

人生において、タイミングが大事だとよく言われますが、確かに、選択や物事が起きるタイミングによって、私たちの人生は大きく変わってしまいます。

もし成功と失敗と言う概念を入れるとすれば、「あのタイミングたから成功した」「あのタイミングを間違えたから失敗した」という人も多くいることでしょう。

「運命の輪」のほうの時間・タイミングは、もしかすると自分で選べたり、ずらしたりすることができるのかもしれません。けれども「月」の時間・タイミングは宇宙の天体のことなので、一人の人間の力ではどうしようもなく、だから月のタイミングは皆に共通で、無慈悲なところもありそうです。

逆に言うと、月のタイミングをよく知っておくことで、私たち人間が意識する時間(地上の生活時間)をうまく活用できる可能性もあります。

また、タロットカードは単なる組み合わせだけではなく、構造や要素として立体的に組み入れて見ることができます。このことはあまり知られていません。

どういうことかと言えば、簡単に言えば、あるカードの中にほかのカードが入るような構造で見ることです。

今回の場合、「運命の輪」の中に「月」が、その逆に、「月」の中に「運命の輪」が入ると見立てるわけです。

こういう見方をすると、宇宙時間・地球時間・個別時間(一人一人の時間)などの時間の性質、種類分けのような感覚も生まれてきます。

占星術でも、それぞれの惑星の時間性質を見るのがひとつの技法だと私は考えていますが、それと似たようなことになってきます。

そうしますと、私たちが実際に何か意図(計画)して実行したり、働きかけたりしても、なかなかすぐに効果が出ないことがあるのも、時間の性質が異なるからだと見ることができます。

これは二枚のカードで言えば、「運命の輪」中に「月」があるということであり、月のリズムが自分の実際のタイミングに関わってきている感じになります。

月に満ち欠けがあるように、満月や新月になるにはその途中の過程があり、つまりは物事の成就、変化、消失(終わり)には、月の満ち欠け的なタイミングがあり、それが自分の時間の中にも影響してくるわけです。

「月」のカードが出ますと、まるでほかのマルセイユタロットのカードで言うと「吊るし」のような待機モードを指していることも多く、ただそれは「吊るし」で待っているのとは違う「月」の待ち方があるのです。

「月」は何やら不穏なイメージもありますが、大アルカナの数の順序では、「太陽」の前の段階でもあるのです。

ということは希望もあり、自分が迷いながら行ってきた様々なことが、やがて有機的に結びつき、効果を出すタイミングがやってくるという意味もあると言えます。

それが「運命の輪」のような明確な変わり方ではないことが多いために、一見、暗闇状で救いがないような、曖昧模糊とした様子に自分は感じてしまうのです。

タロットの展開で「月」が出ている場合(正逆を取る場合は正立の時)、「月」を信じると言いますか、「月」の中に「運命の輪」を見るというような感じで、やがて訪れる夜明けを待って、静かに裏であっても進めて行くと、いつか効果・変化は出ると思うとよいでしょう。(ほかのカードとの組み合わせで、解釈は変わってはきますが)

ただグノーシス的には、この月の支配も超えねばばならず、それが「運命の輪」ともつながっており、「運命」や「運勢」に作用されている段階(吉凶的運勢を過剰に意識する段階、もしくは全くの惰性・反応で生きている段階)では、月の支配がますます強まることが、マルセイユタロットからも示唆されています。

換言すれば、「月」と「運命の輪」が創り出している(仕掛けている)「時間・タイミング」のリアリティ(感)から逃れることが、大きなカギだと言えるのです。

 


マルセイユタロットは中立的

マルセイユタロットのよいところは、絵柄が芸術的であったり、特定の人が恣意的に描いたりしたものではないので、(絵柄が)中立的に見えやすいということがあります。

一般的なタロット占いでは、どうしても、吉凶的な意味をカードで見てしまい、カード自体も、いいカード、悪いカードというように種類分けしてしまう傾向が出ます。

もちろん、何事も両面があると考えますと、吉凶が出る(と見る)のも悪いわけではなく、はっきりいい・悪いを判断してもらえるなら、それは結構、現実的な意味で有用な場合もあるわけです。(中途半端に出されるより、実際的な選択がしやすい)

しかし、もう少し深く見て行くと、そういう白黒はっきりつけていくのもどうかというレベルも見えてきます。

まず、吉凶とは、簡単に言えば良し悪しですが、ではそのよいと悪いは、何が基準になっているのかということです。

吉凶を決めているルール、価値のようなものです。

それは大きく分けて、全体的な常識性のものと、個人的なものがあると言えます。

全体的なほうは、いわば一般感覚、みんなが思う一般的大衆的価値観というべきもので、個人的なものは、文字通り、一人一人の個人がいい・悪いを判断する基準(価値観)です。

全体的なものは、人間の快不快をもとに、痛み・苦しみから逃れたいという思いと、もっと楽したい、満足したい、充実感を味わいたいという、言ってみれば欲求から来る価値がもとになっていると考えられます。

お金を得たい、健康でありたい、恋人やパートナー、友達に恵まれたい、注目されたい、有名になりたい・・・などなど、ほとんどの願望は、人間の快不快(肉体だけではなく精神も含む)から出ており、結局、幸福や不幸というのもそこに起因しているように思います。

そして、もうひとつは、その時代における価値観も合わさって来るでしょう。昭和と令和では大きく物事の価値観も違うように、時代やその時の民衆の置かれた状況で、考え方もかなり変わるからです。

いずれにしても、全体的なものは人の共通的価値観と言ってもいいでしょう。

一方、個人は、人それぞれであり、ある人がいいと思っても、別の人には悪いと判断されることも当たり前にあります。こちらはバラバラな(分離的)価値観と言えます。

この全体的・共通的なものと、分離的・個人的なものとの、ふたつのルール・規則のようなものによって、いい・悪いが判断され、決められて行きます。

ルールであるからこそ、これは一種の縛りでもあります。ということは、吉凶、幸不幸、いい・悪いのような二元的判断ばかりしていると、ずっと、先述したふたつの価値による縛りの中で生きて行くことになります。

これは、端的に、マルセイユタロットの「運命の輪」の輪と動物二匹そのものの状態です。そう、ずっと同じ輪の中で、グルグル回り続ける事になります。

ですが、決め事が明確なので、早く決断できたり、情報と判断を的確にしたりして行けば、よい選択をし続けることも可能でしょう。

「運命の輪」の輪で言えば、輪の回転スピードを上げて行くことができるので(回転が速くなる)、物事がスムースに進み、充実した感覚も起きてきます。

ちょうどメリーゴーランドで楽しんでいるみたいな感じとも言えますし、ドライブ好きな人が、快適に運転ができ、自分の操縦と流れる景色に充実感を覚えているようなものとも言えます。

ところが、それはあくまで輪の中の話なのです。ここから出ているわけではありません。つまり、同じ世界とレベルの中で回っているだけなのです。「井の中の蛙大海を知らず」ということわざがありますが、まさにそれかもしれません。

この現実の世の中は、あらゆることが二元(ふたつの性質、ふたつのセットであるもの)で象徴される世界であると、マルセイユタロットからも考えられます。

同時に、二元を超えた世界観もあり得ると想定できます。二元を超えるとは、すなわち一元的な世界です。

それは、現実の今の普通の認識でとらえている(感じている、実感の)世界ではあり得ないものですが、それでも一時的・瞬間的・局所的には至ることもあると想定できます。

私たちの現実世界は、おそらくどこまて行っても二元的なものが連なる世界だと思われますが、たとえ二元が続くにしても、そのレベルは異なるものだと想像します。

同じところに多重の世界があると言えばよいでしょうか。それがレベルを変えて、同じ二元構造で連なっているイメージです。

多重の世界には、レベルの違いがあり、上位レベルと下位レベルでは、まさに世界が異なるとも言えます。

上のレベルに行くためには、今の自分が属している二元世界を超越しないとなりません。それには、二元を一時的に統合して、一元的な境地を体得することが求められます。

到達した一元的世界でも、すぐにまた二元に変わるでしょう。そうしないと、バラエティある、個別世界の現実認識は生まれないからです。

しかし、元の世界より上昇しているため、今までのレベルでの思考・感覚とは違ったものとなり、すなわち、とらえている(感じている)世界もまた変化するのも道理です。

この下から上へと上昇するためには、今も述べたように、従来の二元的世界の認識、つまりは自分の価値観(全体的な一般の価値観も入っています)を統合して一元的なものに変えないといけないわけです。

一元的なものにするということは、これまでのいい・悪いがなくなる状態にするという意味であり、自分が常識的・日常的に思っていた、いい・悪いの選択において、どちらでもあり、どちらでもないと真に見える(思える・感じる)境地となることなのです。

それは、白でも黒でもないので、まさにグレーゾーンとなるわけです。グレーゾーンと言えば中途半端に思えますが、どちらでもないものに戻すこと、グレーにすることで、上のレベルの見方と認識が現れて来ると言えましょう。

スピリチュアルの言葉を使えば、グレーには、アセンション(上昇)の過程のグレーと、停滞・デセンション(下降)のグレーとの、ふたつがあると表現していもいいかもしれません。

話は最初に戻りますが、マルセイユタロットは中立的な絵柄なので、吉凶的、白黒的な二元的価値観に染まりにくいものであり、一元的な世界に導くきっかけにもなり得ることを強調したかったわけです。

マルセイユタロットは、人によっては、平板でつまらない絵に見えるかもしれませんが、それこそが意図的にされていることで、マルセイユタロットの特質なのです。


自分リーディング、他人リーディング

私は占い師ではありませんので(占い店で占い師の経験はありますが)、自分占い(自分のことについて占うもの)が可能なのかどうか、それについては言えません。

しかし、経験上、自分占いはなかなか難しいことだと思っています。

それと同様に、自分のことをタロットでリーディング(自己リーディング)するのも難しいという話があります。

それは確かにそうでしょう。

一般的に、自分のことを見る場合、文字通り、主観ですから、逆の客観にはなれず、中立・冷静に判断することは困難と言えます。

一方で、自分だからわかる(自分のことは自分が知っている、他人にはわからないところがある)という点もあります。

だから、このふたつのいいところを取れば、普通に質問者(問いをする者、クライアント)とタロットーリーダー(タロットを読み、クライアントを導き、支援する者)に分かれてリーディングという行為がなされればよいことになります。

つまり、「客観」としてのタロットリーダーの示唆によって、自分でしかわからない「主観」としてのクライアントの問題が、まさにクライアント自身で気づくことになるというわけです。

よく「答えは自分の中にある」と言いますが、たとえ自分が答え持っていたとしても、それが答えであるのかは自分一人では実はわからず(気づかない、またはどれがよいのかわからない)、結局、他人との共同作業によって答えが見つかる(答えだと気づく、答えだと決める)のです。

これが分離しているのが基本の、現実社会の仕組みのひとつと言えましょう。分離しているからこそ、自分と他の人との融合によってたどりつけるものがあり、それが(あるテーマにおける一時的な)統合でもあるのです。

人は完全性(神性)や宇宙を内在させているとスピリチュアル的には言えますが、だからと言って、実際(現実)では、覚醒している全人的状態ではないので(分離・個の状態)、簡単によい答えが一人で見つかったり、一瞬で全能・幸福状態になったりしないのです。(一人でなれる場合でも、必ず、何らかの別の要素があって完全性が訪れます)

男女のペアなどが顕著ですが、例えば愛し合うカップルが至福感に包まれることがあるのも、男女統合による「全」的なものに移行する瞬間があるからです。

逆に言いますと、私たちは常に片割れ感、分離感があり、それは不足感のもとにもなって、モノや愛情など、電気のプラス・マイナスのように求めてしまうのだと言えます。

このあたりは、マルセイユタロットの「恋人」カードや「節制」が物語っているように思います。

何が言いたいのかと言えば、私たちは、この分離感によって悩むようできている存在だということと、だからこそ、一人だけでもがいていても解決しないことが多いという話なのです。

もっと言えば、一人引きこもっていても余計つらくなることがあり(ただ「吊るし」のように一人で籠る防御も必要な場合はあります)、他人、もしくは違う場所、環境、考え、思いなどにふれていく(交流する)ことで、統合的状況が訪れ、その問題やテーマにおいては満足する(つまり解決であり、完全性に戻ること)可能性が高まるでしょう。

私は、マルセイユタロット講座において、タロットリーディングの技術と意味をお伝えしていますが、他人リーディングに興味がなくても、少しは他人に対してリーディングしたほうがよいことをお勧めしています。

その理由は、上述したように、主観だけでは成長は難しく、客観が必要だからで、他人をリーディングすることにより、反対に、よりカードや自分のことがわかる場合があるからです。

もちろん、「自分のことは自分でしかわからないことがある」とも言ったように、自分自身で自分をリーディングしたからこそ気づくこともあります。

ただ、多くの人が誤解していますが、他人リーディングの技法(例えばタロットの展開法など)をそのまま自分リーディングに適用しても、難しいものがあるのです。

自分リーディングと他人リーディングは別モノです。

だから、自分を見るには、それなりの方法を取らないとなりません。その方法や要点は、私の動画(受講生用)や講座でお伝えしています。

マルセイユタロットを扱ってきますと、私たちがいかにひとつの視点でしかものを見ていないのかがわかります。

少なくとも、両方向は必要ですし、さらには、三つ、四つの視点も入れて、多角的に見ることで、物事の本質が浮かび上がってきます。

タロット占いでは、視点とか価値観がひとつであることが多いので、どうしても画一的なものになり、また二元的な良し悪しで判断してしまう傾向が強く出ます。

タロットの意味も、「単語」として覚えてしまって、「象徴」という機能が使いこなせないことになりますし、最初に述べたように、自分を占うことができにくくなります。

やはり、占いではなく、タロットリーディングとして、様々な視点、観点、見方を持って、考察していくことが、よりタロットを活かすことになろうかと思います。

自分へのリーディングも、技法を変えればできることになります。(ただし、占いのような、いい・悪いの鑑定・判断を求めると、自分リーディングも困難になるのは言っておきます)

最後に、ひとつ、意外に小アルカナは自分占いには使えるということは指摘しておきます。

実は大アルカナは自分を見るのに不向きなところがあります。しかし、逆説的ですが、真の意味では、大アルカナは自分を見るためにあるのです。

何を言っているか、わからないかもしれませんが、あえてそんな不思議な表現をして、今日は終わります。(笑)


マルセイユタロット講座とご感想

最近、マルセイユタロット講座へのお問合せがちらほらありますので、講座に関してご案内しておきます。

まず、基本的に、私のタロット講座は、タロットを全く知らない人でも、ほかでタロットを学習した人でも誰でも対象になるものです。

ちょっとこのブログが小難しいことも書いているせいか(苦笑)、「私、タロットを知らない初心者ですけど、大丈夫ですか?」みたいに聞かれる方がいらっしゃいます。その心配はまったく無用です。むしろ、何も知識がないほうが、変な偏りがなくてよいくらいです。

同時に、他所でマルセイユタロットを学んだという人でも、希望する部分を強化したり、補足したりすることもできます。その場合は、本来のカリキュラムに、すでにご存じの部分・学習済みの部分を省き、その代わり、もっと学びたいところ、知らなかったことなどを、時間をかけて教えていくことができます。

ただ、たいていは、結局、学び直しみたいになることが多いです。ですが、学び直し(繰り返すこと)だからこそ、より理解も深まりますし、確実に自分のものにしていくことができるのです。

基本は、基礎講座(基礎コース)というものになり、今はオンライン(Zoom)のみです。マンツーマン、個人講義形式であり、お一人に毎時間(一回につき2から3時間)、じっくりと講義していくスタイルとなります。スケジュールの組み方も自由で、決まった曜日でなければならないということはないです。(時間帯の制約はありますが)

それにタロット以外の知識もかなりの量で伝達していくため(タロット以外の知識は自由選択可)、全課程は40時間程度(人によってはそれ以上)の長期的なものになります。

マルセイユタロット講座で、ここまでお一人様に対して濃密に講義しているものはないと思います。

一対一なので、その人に応じたものにすることも可能で、だからこそ、初心者から、すでにマルセイユタロットを一度学習した人でも、可能になるのです。当然、講座中もタロットを展開して、自分を見て行くこともしますから、言わば、自分と向き合う貴重な時間となり、自己受容や自己変容が伴って、終わる頃には認識の変化(それに伴う現実の変化)、自分がバージョンアップしたことを実感します。

マルセイユタロットの基本的な象徴知識はもちろんのこと、秘教的歴史、リーディング技術など、多岐にわたって講義します。マルセイユタロット講座では、大アルカナだけというところも少なくありませんが、この基礎講座では、きちんと小アルカナについてもお伝えし、その使い方についてもわかりやすくお教えします。

特に小アルカナの使い方は、私が研究したものが含まれ、どこにもないオリジナル性があります。

そして、終わってからもいろいろと特典があります。

マルセイユタロットの学びで困るのは、実は講座後なのです。ほかのタロット、例えばウェイト版と違い、マルセイユタロットは日本ではマイナーです。従って、どこで継続的に学び、技術を向上させていけばよいのか適切な場所とか講師が見つからず、悩まれている人も出てきます。マルセイユタロット学習難民(笑)みたいな話です。

私のところで学べば、終わったあとでも、講座の勉強会、メルマガ、動画視聴、個人的な相談、仲間同士の交流など、様々な場・機会を用意しております。そのほとんどが無料です。公開していないので実際に見てもらえませんが、その質と内容には驚かれると思います。

では、少し前に私のオンラインマルセイユタロット講座を卒業された方のご感想をご紹介いたします。

 

東京都のUさんのご感想

『当初は終活目的で始めましたが、終えてみて実感するのは、「終活などしている場合ではない」という思いです(笑)
若い頃は活発に動き回り、積極的、前向きに人や社会とかかわりながら、仕事もプライベートも充実した日々を過ごしていましたが、ふと気が付くと「このまま独り身で仕事ばかりの人生でよいのか」という疑問が頭をもたげ、結果として結婚出産という流れを選び、子に恵まれ、必死に子育てをしてきました。
その後、子が成人し、気が付けば還暦間近となり、やっと得られたアルバイト仕事で社会復帰をするも、若さは去り、以前のような輝く世界には戻れず、不安 焦り 諦め 老いや死への恐怖という中で数年過ごしておりました。ああ、このまま人生が終わってしまうのか、という絶望に近い状態だったと思います。
もういいや、という投げやりな気分だった頃に突如起きた新型コロナ・パンデミック騒ぎでステイホームが続いたことがキッカケとなり、これまでのこと、これからのこと、自分のことを見つめ直すに十分な時間の中で出会ったのがマルセイユタロットと宮岡先生でした。
「人生では必要なことしか起こらない」とは言いますが、私にとってこの出会いは必然であり、必要不可欠なものだったと言えるかもしれません。スピリチュアルにはあまり詳しくはない私ですが、何かしら高次の存在の導きを感じます。
結果として、この一年で得られた最大のものは、内的環境の安定でした。今では、自分の中に、何が起きても大きく揺らがぬものの存在を感じます。それは「魂」と呼ぶべき永遠に変わらぬ何かであり、私というものの「中心点」であり、森羅万象、宇宙の全てのものとつながる「始まり」であり「終わり」であるものです。
先生の深く幅広い知識と情報や、タロットと向き合う真摯な姿勢、ユーモア、センス、日本民族特有の「情緒」発現能力の高さなど、素直で美しいその魂に触れられたことは、有難いことであり、また、素晴らしい経験となりました。また、日本アニメの素晴らしさとタロット学習におけるその利用方法を教えていただいたことも。。
本当にありがとうございました。』

マルセイユタロットを学ぶきっかけは様々です。それでも、誰もが、何らかの学ぶ意味があってのことであるのは間違いないと思います。(あとで真の意味がわかることがあります)

このマルセイユタロットは、「タロットが人を選ぶ」とも言われます。日本語で言えば、とても「縁」というものが重要で大切なものなのかもしれません。

ですから、無理に学ぶ必要もありません。違和感があれば止めておいたほうが無難です。また私の講座では、タロット占いの伝達はしておりません。だから占いを学びたい人、スピリチュアルなことで現世利益を得たいとか、他人が評価する幸福を求める人にはまったく向いていないと言っておきます。
お話したように、講座は一対一の個人講義形式ですので、枠がもともと少ないです。そして一度埋まると、終わりまでに時間を要しますので、空きが数カ月、半年以上先と言うことにもなりかねません。

まあ、この方法ではまったく非効率で、ビジネスとしては問題なのはわかっていますが、このスタイルがマルセイユタロットを学ぶのに合っていると私は考えていますし、タロット講座はビジネスというより教育的事業で、それに対してお布施的なもの(笑)をいただいているという認識ですので、このようにしています。

現在、講座枠は残り僅かですから、ご興味のある方は、お早めにご連絡ください。

 


節制」の天使、救い・救われること

今日から9月ですね。

さて、本日、マルセイユタロットから浮かんできたのは、「節制」からのメッセージでした。

「節制」は、天使姿の人物が、ふたつの壺を持って、液体を注ぎ入れているような絵柄です。つまりは、「天使」「ふたつの壺」「液体、水」というようなところが重要な象徴となっているわけです。

今回はこのうちの“天使”に関わるもので、「救済」がテーマとなります。

マルセイユタロットの大アルカナは、意識の元型を表しているという説があります。もう少し別の柔らかな言い方にしますと、自分の中にある22枚の性格、姿、キャラクターなど示すと言ってもよいです。

その考えでは、誰しも「節制」という一枚が、心の中に住んでいるのです。

ならば、「節制」の天使の意味から出て来る、救いや救済というものも、人の心にあるわけです。

私たちは「救われたい」という思いと同時に、「救いたい」という思いも持ちます。おそらく、人間は、この両方を欲求として持っていますし、どちらも満たされないと、充実した感覚にはならないのだと思われます。

苦しい時、ピンチや危機に陥っている時は、助けてほしい、救ってほしいと願い、自分に余裕のある時、またそうではなくても、困っている人を前にした場合、やはり、たいていの人は助けたい、救いたいと思うものでしょう。

意外に感じるかもしれませんが、いつも救われたいと思っている人でも、反対の、救いたいという思いも奥底では持っているのです。

言ってみれば、助けられるだけの存在ではダメで、私も誰かを助けられる人になりたいという願いが込められているわけです。つまり、救いたい欲求の反動で、救われる立場を自分に演出するという状態です。

それは、救いたい(という思い)がために、救済の状況・場面に自分を置いて、救い・救われの循環の中からはずれないようにしているからたと考えられます。

この救い・救われという構造は、よく考えますと、二元分離であり、救いたい人が満足するためには、救われなければならない人が存在しないといけないことになります。

決して、片方だけの存在で救済は成立しないわけです。

ここに救いの落とし穴があります。

救済願望、救済のループ(救う者と救われる者の繰り返し)の中で、自分の欲求を満たし自己の存在(自分が自分であることの証明)を立たせる人がいるのです。

特に、「救われたい」と思っている人の中に、「救いたい」願望(欲求)が隠されているケースがあるのでやっかいなのです。

救い・救われという二元構造の中では、片方だけでは成立しないことは言いました。

ゆえに、どちらの場合であっても、反対側の願望や欲求が隠されていることがあり、救われたいには救いたいが、救いたいには救われたいがあって、セットというわけです。

では、救いたい気持ちも、救われたい願いも、持たない方がよいのか?と言えば、そうではありません。

と言うより、現実次元、肉体をもって一人一人違う自分という意識を持っているこの世界では、むしろ、救い・救われに分離するのか当たり前で、どちらか、あるいは両方の気持ちを持ったことがないという人は、ほとんどいないでしょう。

ということは、この現実世界は、そうなることが設定の世界だということがわかります。

そういう設定ならば、そうしなくてはならないと言いますか、それを経験することがデフォルトみたいなことです。

この構造から逃れようという考え方もありますが、ひとまずは分離体験を味わい、自分が救う側に回るもよし、救われる側に回るもよしとしてみてもよいのではないでしょうか。

それは一種のゲームであり、役割と言えます。

だから人を助け、救う立場をやってもいいですし、そういう人が出ることは、反対の、救われる者、助けられる者がいてこそですから、その立場になるのも必然で、自分は、時と場合によっては、助けられる側になればいいわけです。

しかし、注意しなくてはならないのは、先述した、自己存在のためのアピールのような理由で、救い、救われるものになり過ぎるのは問題だということです。

「救ってあげている(救うことのできる)自分はえらい」とか、逆に、「私は救われてやっているんだ」とか、「助けてもらわないといけない、か弱い存在なんだ」と、助ける者に依存する状態とかを言います。

一般的には助けられ過ぎることには非難がありますが、いわゆる「お節介」という言葉があるように、助け過ぎるのも問題で、あまり言われないか、やっている本人に悪いことの自覚がない(むしろ親切でやっていると思っている)場合が多いです。

お節介は、本来ある相手の力と責任をスポイルすることになり、自立を遅らせてしまいます。典型的な例では、過保護な親とか、一見、優しいようで支配的な上司などにありますね。

ともあれ、「節制」の天使と言えばよい印象になりますが、天使も行き過ぎれば人を堕落させてしまいます。(それは天使というより、悪魔みたいなものですが)

救い・救われ欲求に気をつけながら、この現実世界での救済ゲームに、立場(救う側、救われる側)を入れ替え経験するということは、おそらく霊的な成長のためには必要なことだと考えられます。(救い・救われの感情エネルギーの交流は、すさまじいものがあるからです)

ひとつ言っておくと、神からの救い(神によって救われる)次元ではなく、私たちは、まず人同士の救いの次元を厚く(熱く)経験する必要があるのではないかと、これからの時代については特に思います。

 


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