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ささやかな救いの世界

今の時代、情報機器とシステムの急速な発達によって、誰もが自分から発信することが簡単になりました。

ちょっと前は、文章で、そして次第に映像や動画でと移っていき、おそらく、ほとんど普通の状態と変わらないくらいリアルな感じで、すぐに思いついたら、あらゆるところから自由に発信できるようになるのもすぐでしょう。

そうなると、いわゆるメディアというものが、企業とか組織だけではなく、普通に個人それぞれが情報局、発信・放送局になってくるわけで、テレビ的に言えば、人口分だけチャンネルがあるようなものと言えます。本当に選びたい放題で迷いますね。(笑)

とはいえ、そうなってきますと、テレビで視聴率が気にされるように(まあ、これはお金を出すスポンサーの意向が関係しているわけですが)、自分の発信や情報は多くの人にどう見られているのか、そもそもそ関心を持ってくれているのか・・・というような不安も出て来るものと思います。

いや、すでに、SNSではそのような状態になっているとも言えます。

目立つ人、エッジの立つ人、とても個性的な人、コンテンツや内容が面白く、それを皆に提供できる人・・・このような人は、ますます持てはやされ、人気者となり、カリスマ化されることでしょう。

一方で、前にも書いたことがありますが、これだけ誰でも気軽に自分から表現や発信ができる時代になってきますと、それにうまく適応できなかったり、自分から特によいと思えるものを出せなかったりする人も、それだけ多く出ることになると思います。

簡単になったとは言え、例えば動画でも、それなりに企画力や編集技術などがいりますし、文章を書くことや、話しをするのが苦手だったり、そもそもネットとはいえ、人前で何かを表現するというのには抵抗があったりする人もいるでしょう。

ですから、この、メディア表現の過渡期とも言える時代のこれからとして、ますます二極化が進むのではないとかと危惧しています。

その二極とは、どんどん自己表現・自己発信して、自我としての自信、言い換えれば、自分自身を生きているという実感を持つ者(平たく言えば、人生が充実していると感じる人)と、一方では、多くの人に埋もれ、目立つこともなく、得意なものがあるとは自分で思えず、平均以下のように自身を思い、自我が喪失気味になる人(人生が空しい、つまらないと思う人)との二極です。

しかし、最終的には、本当の意味で、誰もが簡単に自己を発信できるようになれば、それが当たり前となるので、定番の自己紹介みたいな形で、自己表現の世界は、一度、フラットなものに統合されていくのではないかと予想しています。二極化はそれまでの間の、移行期に起きる特徴と推測しています。

しかし、移行期がどれだけ続くかは、まだ予想がつきませんので、しばらくは、前述した二極化で、特に後者の人は、自分を見失い、世界に落胆、ひどくなれば絶望することもあるかもしれません。

ここで重要なのが、やはりリアルな関係や交流、ふれあいだと思います。しかも、何かリーダー的な一人のもとに集まるという(集団・組織的な)ものではなく、一対一とか、少数グループによる交流、ふれあいみたいなものが特に重要でしょう。

精神の世界では、距離や場所は関係ありませんが、現実の世界では、やはり、それは無視できないものです。つまり、直接会うのと、ネットをや何かを介してのものだと、情報・交流の質が違うと言えます。直接会い、話すことで、響く世界があるとでも言いましょうか。

スピリチュアルなことで言えば、それはアストラル空間やその世界の話に関係すると考えられますが、人との、特に生身の交流によって感情の刺激が起こり、それによって不快なことや嫌な気持ちも生じる一方で、逆に、心地よさ、いわゆる「愛」というものを感じる世界が、心の中に現れます。

それがまさに「救い」となることがあるのです。これはマルセイユタロットで言えば、「節制」のカードに象徴されることだと私は思います。

皮肉なことに、人は人によって傷つきますが、同時に、人によっても救われ、つまりは、人の気持ち(心)を避けていては救いも訪れない仕組みが、どうやらこの世界にはあるようなのです。

ということで、昔からも言われていましたが、ますます、これからの時代は、特に自己表現が苦手だったり、ポジティブに多くの人と交流できなかったりする人は、だからこそ、極少数の人とのリアルな関係、あるいは(特に直接会話するような)時間を大切にするとよいかと思います。ただ、そういう人やグループに依存するという意味ではありません。

なお、タロットを学ぶ人は、これを他人に対するタロットリーディングによって、行える場合があります。

他人リーディングと言っても、何もプロでする必要はありません。

ボランティアでも、趣味でも、自分がタロットリーディングが少しできるということで、他人に対し、リーディングする機会を持つことができるわけです。

普通、なかなか他人といきなり接するのは難しいものです。

ですが、「タロットリーディングができます」と言えば、それをきっかけに、人と会話する機会が持てます。もちろん、リーディングを行うことで、相手も自分も、問題における何らかの解決策、指針、癒しなどを得ることもできるでしょう。

でもそれ(リーディングによる問題解決)が目的でなくてもよいわけで、とにかく、ライブやリアルで人と会話したり、時間を過ごしたりすることが、タロットリーディングによってできるわけです。

こうすると、いわば空虚で乾き、色のなかった自分の心の状態にも潤いが与えられ、少しは自分がいてよかったこと、生きていく価値のあることを思い出すこともあるでしょう。

そのことを多くの人に発信できなくても、自分(と相手と)の中では、確かなものとして存在することができ、外の世界はどうあれ、愛の世界(エネルギー)を自分にチャージすることができます。

別に自分を無理に高めたり、評価したりしなくてもよいのです。

人は人、自分は自分てす。それでも、この世の中、人と比べ、落ち込んでしまう自分がいることもあるでしょう。

そうした外の世界や時間は無視できないものではありますが、これとは別に、自分の世界、自分に流れる優しくゆっくりとした世界もあるのだと思ってください。

そして、それは閉じこもっていては逆に見つかりにくく、またたくさんの人と関わってしまうと、エネルギーを失い、閉じこもりたくなります。

だから、ほんの少しの人とリアルに関わるそうした時間と空間を持てばよいのだと思います。

さらに、そうした人物(相手)に自分がなってあげると、意外に(自他に)救いをもたらすことができるのではないかと想像します。そのツールとして、タロット使ってみるのはいかがでしょうか。

タロットは、これからの時代、意外に、必要で、よいツールになるのかもしれません。


タロットの精霊、心理バージョン

タロットの精霊と言う言葉と言いますか、存在を聞いたことがあるでしょうか?

一般的には聞くことのないものですが、タロットに関心のある人、関わる人、リーディングを実際に行う人には、常識的存在かもしれません。

ただ、タロットを習う人、学んだ人でも、このタロットの精霊の存在を知らない人もいますし、言葉は知っていても、どういうものなのか実感として、あるいは知識としてもわからないという人が多いように思います。

私も、ここでは詳細に語ることはできません。

それは、タロットの精霊という定義が難しいからでもあります。

タロットを魔法(魔術)世界の道具として扱う場合、タロットの精霊は、ある意味、サイキック・メンタル界的なもの、そういったエンティティ(存在性あるもの)として、感覚化することが課せられると思います。

そうした世界になると、はっきりとタロットの精霊は実在するものとなります。

ただ、魔法の世界に参入するには、それなりの訓練や指導者が必要となってきます。タロットと魔法世界は、今や日本でもメジャーなタロットとなっている「ウェイト版(通称ライダー版)」タロットが、近代魔術結社ゴールデーンドーンの団員によって作成されたことからも、関わりの深さは明白です。

中には、「魔法(技法・知識)に結びつかないタロットは、形式的・表面的・遊戯的なものでしかない」という人もいます。パスワーキングのようなタロット瞑想などのテクニックも、公にされているものは、ほとんど近代の魔術結社による技法の一部だと推測されます。

しかしながら、もともとサイキック的な素養のある人などは、その人自身が見たり、感じたりするタロットの精霊とのコンタクトが可能な場合もあります。

私の知人や生徒さんの中でも、そういった人は、その方なりのタロットの精霊とコミュニケーションして、リーディングする人も実際にいます。

さて、ここでは、魔法的・サイキック的な意味でのタロットの精霊とは別に、意識的なもの、心理的なものとして、タロットの精霊を見ていきます。そして、そうした存在の仮定をしたほうが、場合によってはよいことも示します。

タロットの精霊が、何か目に見えない、ファンタジー世界の住人のような存在か、心霊的エンティティなのかはともかく、ここはその証明や説はひとまず置いておいて、タロットの精霊なるものを、とにかく空想・仮定して、あなたの心の中では存在させるとします。

これは、いわば、心理的なテクニックと言えます。心で想像することで、少なくとも、あなた自身の中にはイメージや観念だとしても、存在することになります。客観的な存在証明はもちろん必要ないのです。

すると、まず、タロットと自分の関係が、人とモノ(カード)というふたつの立場から変化していきます。

あくまで、自分が(主体で)タロットを扱い、読むのだというのが、普通の感覚でしょうが、ここに、自分の心の中に、タロットの精霊のようなものがいるとすると、自分がタロットと対峙した時に(そのイメージ的存在が)仲立ちとしての機能を発現させてくるようになります。(結局、自分自身が行っているのですが)

「タロットの精霊」ですから、当然タロットには詳しく、むしろ精霊にはそれが家であり世界であり、専門の存在たちと言えます。(と空想する)

一方、こちら側は、タロットは手にはしていますが、しょせん人間であり、カードの中に実際に入ることはできません。(笑) 物理的な意味でのタロットカードは、あくまで紙に図像が描かれた絵に過ぎないからです。

もちろん、ここから自分なりにカードを生命体のように思って扱い、タロットとのコンタクトを図りやすくする方法もあります。

実は、そうした方法の一つとも言い得るのですが、あらかじめ、タロットの精霊を自分の心の中に仮想しておくことで、もっとカードと自分自身のコミュニケーションを行いやすくするわけです。

「それは単なる思い込みじゃないですか」といぶかる人もいるでしょう。でも、最初は思い込みからなのです。

自分が思い込まないと、何も自分の中には生まれません。妄想のようなものでも、タロットの精霊を想像することで、まさに創造が可能になってきます。

それが次第に強くなれば、自分だけでタロットと接しているのではなく、自分と、心の中のタロットの精霊との協同で、ふたつの見方によってタロットを見るようになります。

それは、人間としての知識や常識的な見方と、もう一つ、タロットの世界の感覚とでも言いましょうか、直感的なもので、タロットカードのそれぞれの一般的な意味とは異なる、独特な解釈やインスピレーションが生まれてくることがあるのです。

心理的な言い方に戻れば、顕在意識が前者であり、タロットの精霊を仮定した心を通して出るものが、より潜在意識的と言えましょう。

そう、タロットの精霊を心に置いた場合、(心理的な場合は、自分自身との)コンタクトやアクセスする回路が通常とは異なってくるのです。

私たちは、普通の意識の時は、日常的によく使っている脳の神経回路を使っていると言われます。

これに対して、何かすごい経験があったり、いつもとは違う環境に置かれたり、緊張から解放された瞬間だったりすると、脳内電流の通る神経回路が別ルートを通ったり、一気に多く走り抜けたりすると聞いたことがあります。

こうした機能と似て、タロットとの精霊を強くイメージし、自分の心にひとつのアクセス回路として機能してくると、非日常感が増し、普通の読み方とか、意味とかを超えたものがやってくる可能性があると考えられます。

言わば、情報の取り方・ルートが、タロットの精霊を置くことで違ってくるわけです。

これは、神や天使がいるいないの問題とは別に、そうした存在を信じていたり、身近にイメージしていたりすることで、そのような力や守護が自分に働きかける、起こると感覚するものと同じようなことです。

心理的に説明した場合は、心の像が自分を納得(いい意味で錯覚させる)と考えてもよく、実はサイキック的に言えば、本当にそうしたエネルギーや通路が作られていると見ることもできます。

ですから、タロットの精霊の実在性はともかくとして、そういう存在を仮定してタロットを扱うほうが、タロットとはお近づきになりやすいのです。

しかし、これもあくまで一手段ですから、人によっては向き・不向きもあります。

何か見えないものをイメージしたり、ファンタジックな世界が好きだったりする人には、とても効果的と言えますが、空想やイメージが苦手で、そういうことをすると、かえって思考や感情、感覚が混乱したり、ストップしたりしてしまうような人は、タロットの精霊という仮定も向いていないかもしれません。

まあ、本当にタロットが好きで、タロットに継続して関わっている人には、自分が作り出しているか、本当にタロットの世界から来ているかはわからないにしても、何かしら、タロットの精霊のようなものを感じることはあるはずです。信じなくても、タロットのほうがわかってくれるみたいなものと言えましょうか。

とりあえず、大アルカナの中でも、特殊で数を持たない「愚者」は、それだけやはり特別(どのナンバーのカードでもない)のですから、一組のタロットの代表として思ってもよく、あなたのタロットカードの「愚者」の図像を前にして、心の中でもイメージし、「愚者」が動き出したり、語ったりしてくるのを待つとよいでしょう。

タロットの精霊のようなものを、自分が作り出すという説においては、当然ながら、自己(の性格・キャラなど)が反映されやすくなりますから、イメージした「愚者」が、あなたの分身であるように見えることもあるかもしれません。そういう場合、あなたはちょっと苦笑いしそうですね。(笑)

それでも、もし、自分が作り出しているのではなく、タロットの世界という異世界があるとすると、あなたは「愚者」を思うことで、その世界にコンタクトを取っていることになります。

自分が招くのか、あなたが招待されるのか、こちらの世界にあちらの世界を一部シンクロさせるのか、はたまた、こちらの世界からあちらの世界へ旅をするのか、表現や方法はいろいろあるわけです。

いずれにしても、たとえ分身であっても、それはあなたの全部ではないですし、あなたそのものでもありません。

例えば「愚者」という絵柄があるために、あなたの中の愚者的部分を投影して、その性格を受け持っていることも考えられます。

ということは、解離性人格障害ではないですが、普段の自分とは違う性格の者と会話をすることになり、現れる言葉、直感もまた、常識とこちらの世界で生きているあなた自身とは異なっていることも、心理的にはありえるでしょう。

通常意識のあなたが読むより、あなたのタロットの精霊(心理的には、あなたがタロットモードに入った時の別のパーソナリティ)が読むほうが、すばらしいかもしれないのです。

ただし、普通のあなたが統合し、コントロールしていくことは必要です。それは、タロットの扱い、リーディングを行っているのは、こちらの現実の世界でのことだからです。

タロットをされている方は、一度、あなたの(心理的な)、タロットの精霊を存在させてみましょう。


人は天使になっていく

マルセイユタロットには、グノーシスという思想や背景が隠されていると言われます。

グノーシスについては、細かくなれば、いろいろな考え方がありますが、端的に言えば、自分が神的存在であることを知るという意味になります。

言い換えれば、自分が神(いわゆる外在的な神ではなく、完全性を象徴する内在的な神)であることを認識する叡智の獲得と言いますか、想起(思い出し)、覚醒のようなものです。

私は、マルセイユタロットを学習し、教えているうちに、グノーシスの方向性に自分がひかれるとともに、そこに自他(つまりは全体)の救いがあるのではないかという、確信めいたものを感じ、いわば、グノーシス探究が使命のようなものにもなっています。

さきほど、グノーシスにはいろいろな考え方があると言いましたが、そうなると、実は様々な探求、覚醒の方法があることにもなります。

言ってみれば、スピリチュアルや精神世界で言われるようなことは、皆、グノーシスに関係するとも言えるのですが、そこは、タロットの4組ではありませんが、タイプによって、自分の好みや関心もあり、導かれる方法・技術・論理も、それぞれに違ってくるのは、個性を持つ人間である限り、当然でしょう。

換言すれば、自分の覚醒には、もちろん、全体に共通するものはあったとしても、自分なりの方法があるということです。

この(個性の)違いを認めて行かないと、例えば、(変な)宗教の救済方法絶対論、ドグマに浸食されます。(救いの方法はひとつしかないとか、皆、同じ神を信じないといけないとか)

マルセイユタロットの小アルカナと、大アルカナの、特に一桁の数を持つカードたちは、そうした個性ある世界を象徴しているとも考えられ、どの道の覚醒方法を選ぶのかは、人によって任されている、あるいは各人の特徴(低いレベルでは好き嫌い、得意不得意にも関係します)によって決められるようなところがあると言えましょう。

しかしながら、大アルカナの中盤から後半の数を持つカードたちになってきますと、いくつかの目立った共通点も出てくるようになり、これらは、まさに統合的な存在に進化していくことを象徴しているようにも感じます。

すると、途中から大アルカナのカードには、天使なとの羽をもった存在が出たり、裸の人物たちが多く登場してくることに気づきます。それには、きちんとした意味(絵画的のルール的な意味と、タロットの隠された意味など)があるのですが、単純に言えば、見た目通り、次第に軽やかになって行っているように見えます。

軽さと言えば、、軽薄さとか、チャラいとか(笑)、悪い印象もないわけではないでずが、反対の「重い」という言葉と比較すると、ポジティブなイメージもたくさん出てきます。

だいたい、重いものは、あるところに固定するのにはいいですが、持ち運ぶには不便です。とすると、移動ができにくい、こだわってしまうという意味も出てきます。けれども、軽くなると、移動もしやすく、道具だと数も持てます。

パソコンでも、動きがにぶい時は「重い」と表しますよね。つまりは処理速度が遅くなり、軽いものは、処理スピードが速く、いろいろなことが高度に扱えるようになります。

心の表現で言っても、重い心と軽い心では、苦しさの印象がまるで違ってきます。

要するに、私たちが向上や覚醒を目指そうとすると、軽くなる必要があるということです。スピリチュアル的な言い方をすれば「浄化(による魂の浮上)」ということにもなります。

いくら自分が上昇しようとしても、足を引っ張られるがごとく、なかなか浮上できないのは、重しのような、重たいものをつけているか、気づかない重い何かが残っているからです。

重い・軽いは、苦・楽とも関係するように思います。苦は重さと結びついており、そのため、よい面では、苦によって、重厚で、何ものも動かしがたい信念や決意のようなものも芽生えます。人間としても軽佻浮薄にならず、しっかりした謹厳な人にもなります。

しかし、苦ばかりになると、やはり文字通り、苦しく、つらくなり、心も折れるでしょう。何かにしがみつていないと離れることのできない、重いしがらみを(自分で)抱え、ループのような生き地獄を味わう恐れもあります。

考えてみれば、これまでの普通の歴史(有史)では、人間中心の時代に向かって進んできたと言え、軽く楽しいことも、個々の人ではあったと思いますが、全体としては人間のいろいろなしがらみ・ネガティブなものに悩まされ、重たく苦しいことが多かったのではないでしょうか。

人々の想念は、もしかすると、宇宙の法則では、ネガとポジは半々なのかもしれませんが、今までの人類の蓄積、現在の世界の人々の出す想念は、ネガティブなほうが多いのではないかという気がします。いまだ人類が、そういうレベルにあるという印象です。

ですから、これからのことを思うと、なるべく軽いほう(軽薄という意味ではなく)、簡単なほう、楽なほうを思い、選ぶということが、タロットの絵図からしても、よき方向性ではないかと考えられます。

ただ、すでに述べたように、羽をつけただけでは、自分が重たいままだと飛べません。

自分自身の重しを軽くする、落としていく作業が必要でしょう。

そのために、今後、地球全体としても、また、個人個人として、すでに羽をつけて飛んでいるに近い感覚の人はともかく、まだ重たいものをつけている多くの人には、一層の浄化、重し落としのような出来事が加速度的に増えていくのではないかと想像しています。

重しを落とすには、それを破壊するくらいの衝撃、重しをぶつけるという方法が、ひとつには考えられるため、その場合は、苦や大変なこととして、自分の身に起こるかもしれません。(少しずつ、水が浸透していくかのように、内部から破壊していく方法もありますが)

もしかすると、今まで肉体的・精神的・経済的・人間関係的なことなど、様々な理由で苦しいばかりだった人は、自ら浄化役を人類の蓄積分も背負って、知らず知らず勤めてきたのかもしれません。こういう人は、非常に感謝される存在ですし、また、希望的観測で言いますと、浄化が全体で進む分、このような人は、ある日を境に、急激な上昇・(霊的)覚醒を起こす可能性があるようにも思います。

常識とは違う観点ですから、実際に苦しく、大変な人に安易なことは言えませんが、そういう人は、天使的な意味(地上的な意味とは異なる意味)で、「幸い」に近い人だと言えるのではないでしょうか。

ひどく落ち込んだり、絶望したりするような状況も人生ではあります。

それでも、光を見ることをあきらめず、自分の苦しみが、すでに実は備わっている自身の羽によって飛べるように、身を軽くしている(浄化していね)のだと思うと、光の存在が少しずつ見えてくるように思います。苦しみによって、確かに重たさを感じますが、だからこそ、逆の軽さ、楽しさの世界を志向することができるのです。

マルセイユタロットでは、光は(象徴的に)至るところに表現されていますが、「隠者」というカードでは、具体的なランタンの光のような形で登場します。この「隠者」の光は、一見、見えづらく、絵でも光っていませんが、まさに進む道を照らす光明として、あなた次第で、輝きを見ることができるようになっています。

「隠者」自身も、その名の示すように、耐え忍び、隠れている存在です。それがために、かえって、彼は光を持つ(見る)ことができるのです。

あなたの羽は、この時代、すでに羽ばたき始めていると思います。あとは、本当に飛べるように、あなたの重たい部分を軽くしていくことです。

それには、楽しさや軽やかさを、現実的な世界で求めていくことが向いている人もいれば、浄化役として、つらさも受けながら、成長していくような人もいらっしゃるでしょう。

それでも、全体的には、もっと軽く、もっと楽しく、もっと希望を持つこと(あきらめず、堕落せず、自暴自棄にならず、そうした思いが出る道、方法を探すこと)がよいように思います。ただ、人類全体の蓄積の影響か、なかなか明るく、軽く、楽に思えない人も少なくありません。それも個性です。

ですが、「蓄積」といったように、蓄積には蓄積が効果的でもあります。少しずつ、自分のネガティブな思いを払拭できる環境、心境、状況へと、瞬間・瞬間でも(たとえわずかでも)移行していくと、その積み重ねは、やがてあなた自身だけではなく、人類全体の蓄積にも影響し、クリーニングされ、重さは軽さに書き換えられていくことでしょう。

おそらく、どんな苦しみにあっても、象徴的な言い方をすれば、皆、統合されたイデア的・天上世界には向かっているのだと思います。あとはその実現のリアリティさの問題でしょう。人のリアリティ(現実感)は、つまるところ、人それぞれの感覚によりますから、希望を持つ想念の状態は、現実的にも大きな影響を持つと考えられます。

自分自身で希望が持てなくても、励まし、夢、応援、明るい未来図などを描けたり、提案したりする人と関わったりすることで、自分の中の光も消えずに済むことがあります。自分では見えない光も、他人には見えていることがあるからで、その逆もまたしかりであり、だからこそ、シェアし合うこと、助け合うことで、希望は出ます。

マルセイユタロットの「節制」の天使は、シェアや共有、助け合い、交流も意味するのです。一人では運べない重さも、二人三人と、天使の羽が集まれば、重たい人も飛べることが可能なのです。


自分(人間)の世界とタロットの世界

タロットカードを習う時、どうやって学ぶのかという方法と、どのタロットを選ぶのかという問題と言いますか、テーマがあると思います。

前者(学び方)は、書物やネットなどで独学するという方法、タロットを教える機関や先生から学ぶ方法が、まずは検討されるでしょう。

後者(タロットの選択)は、結局、前者と関係してくることが多いのですが、たまたまタロットを教える教室・先生の扱うタロットがそれだったからなどの理由で、自分が決めるより、学ぶところによって決められている場合もあります。

もちろん、最初からこの種類のタロットを学びたいという、自分の意志で選択した人もいるでしょう。

まあ、しかし、多くの人は、最初にタロットを習う時、私自身もそうでしたが、タロットに対して詳しくないですので、そもそもタロットにたくさん種類があることなども知らず、つまるところ、自分と(ある種の)タロットとの出会いは、表向き、偶然のようなものではないかと思います。

とは言え、世の中に偶然はないという説もありますから、そこから考えますと、自分とタロットとの出会いも、必然、または出会うべき(選ぶべき)運命みたいなものがあるのかもしれません。特に、たくさん種類のある中で、好きになったり、熱中したりするタロット種には、特別な縁があるのだと思ってもいいのではないでしょうか。

これが、よく私が述べている「自分がタロットを選んでいるようでいて、タロットがあなたを選んでいる」という意味やニュアンスになります。

今まで、上記の言葉は、私自身も、タロットとの縁ということで、何気なく、生徒さんに使ってきましたが、今になって改めて考えてみますと、案外、もっと深い意味合いもあるものだと気づいてきました。

それは、物事の見方には、最低でもふたつの方向性があるということです。(最低でも、ですから、二つ以上もあることは当然言えます)

つまり、自分を中心に見た(自分から見た)方向性と、相手側から見た方向性です。

これらが、どちらか一方に極端に偏ると、それこそ文字通り「偏り」になり、偏向した見方・考え方になるのではないでしょうか。

自分中心がひどいと、まさに自己中になりますし、相手側中心になり過ぎると、自己がないがしろにされ、犠牲精神を生み出しがちです。

主体性を持ちつつも、客観性も入れるというバランスが重要なわけです。

そして、こうした主客二方向の見方とは別に、さらに、モノとココロのように分けることもできます。

私たちは、通常、自分が主体となって、モノを見ます。

相手が人間(や生物)の場合は、相手側の気持ちとか心を考慮することを、自然にやっています。相手を思いやるとか、慮るとか、配慮するとか、こういう言葉が出るのも、相手が人であり、感情を持つからです。

また、少なくとも、相手とコミュニケーションができる存在だと思っているから、相手のことも気にするわけです。

しかし、相手や向こうが単なる「モノ」だとすると、コミュニケーションも取れませんし、当然気持ちなんかもないですから、一方的に主体である自分の選択、思いだけになります。

常識的にはそうなのですが、果たして、相手側は、モノとは言えど、本当に無機質なただのモノでしかないのでしょうか?

霊的レベルにまで考えて行きますと、そうとも言えなくなってくる(言わば、モノにもココロがある)領域が立ち現れると言います。

これは考えようによっては、自分が心を与えているような状態と見てもいいのかもしれませんし(マルセイユタロットの「手品師」と「世界」の二枚は、ひとつにはこれを表現していると考えられます)、また、仮にモノにココロがあるということではないにしても、とにかく、モノのような物質側・相手側から、自分側に向かっていく方向性(自分がモノを見ている意志や状態とは別の、新たな意思のようなもの)が現れると想定することができます。

思えば、精神やスピリチュアルな世界では、自分とは逆方向からの視線とか、現実空間とは異質の世界(例えばエーテル・アストラル空間)のことが言われ、時に、「見られている」「生かされている」「見守られている」「私たちは大きな存在の中にいる」などと、表現されている気がします。

ちょっとわかりづらくなってきましたので、理論や考察はさておき、皆さんには、シンプルに、タロットに対してふたつの方向性を見てくださいと言っておきます。

例えば、よく、タロットを習うと、最初のほうに、「好きなカードとか嫌いなカードとか、気になるカードなど挙げて見ましょう」みたいなことがあると思います。

その時、あなたが選んだカードは、確かに、自分の気持ちや感情が、そのテーマ(好き・嫌いなど)によって選んだものではありますが、先述したように、相手側からの方向もあると考えますと、そのカードが、あなたのそのテーマの感情を選んだのです。

もし、好きなカードで「太陽」を選んだのなら、あなたは「太陽」の絵柄を見て、気持ちよいとか明るいとかで、好きな感じがして選んだのかもしれません。

このように、常識的には、「太陽」の絵柄が好きだから選んだという見方になりますが、カードの「太陽」側からすると、あなたの「好き」には「太陽」が関係している、「太陽」があなたに「好き」の感情を思い出させている(選ばせている)、「太陽」があなたに「好き」の感情を見たのであり、もっと言うと、「太陽」があなたに「好き」を生み出したということになります。

こうしたふたつの方向性で見ていくと、自分が主体の場合は、タロットに対する質問をカードに当てはめようとして考えますが、カート側が主体となってきますと、カードが、あなたにその質問を選ばせたことになります。

質問したのは私なのに、それはおかしいと思われるでしょうが、カードが主体の場合は、もはや質問する前に、タロットは出る準備をしていたと言ってもよいのです。(笑)

ここにおいて、単純に見ても、タロットリーディングにはふたつの世界人間側中心の世界と、タロットカードの象徴の世界、サイキック的に表現すると、タロットの精霊の世界とのふたつが、最低あることになります。(つまり読み方としてもふたつある)

こうして考えると、一見シンプルなようでいて、すごく奥が深いのがタロットというものなのです。


責任・原因は、自分か他人か?

今起きていること、さらには過去や未来の問題まで、それは果たして、自分が引き起こしているのか、他者や環境によって起こされているのか、このテーマは、難しいところがあると思います。

常識的には、自分だけが問題を起こしているわけではなく、不慮の事故や災害、こらちは何もしていないのに、相手側から理不尽なことをされるなど、たぶん、皆さんの経験的にも、とても自分だけが原因とは思えないものでしょう。

しかし、精神世界とかスピリチュアルな話、または、ある心理的な分野では、実はこの世界は自分が創造しているため、すべては自分に責任がある、つまりは自分が引き起こしているという考えを述べる人もいます。

あるいは、因縁とかカルマみたいなことで、結局、どれも自分に関係しているという話(無関係に偶然起こっているわけではないという話)もあります。

おそらく、自分だけとか、他者・環境側のせいだけにするとか、そういう、どちらか一方的な原因に帰することは、バランスを欠き、葛藤を呼ぶのではないかと思います。

すべての問題が、自分だけの要因からと見ると、どうしても、見えない世界とか、常識を超えた分野を考えないとならなくなり、それは、現実の通常意識では、完全に把握することは、「悟り」にでも至っていない限り、困難だと思われます。

さらに、その態度(自分にすべて原因がある)では、過剰に自己責任を思い、やらなくてもよいこと、考えなくてもよいことまで負担して、自己犠牲を多大に払ってしまうことになるかもしれません。

これでは、生きるのが苦しくなるだけです。自分の人生は過去(世)や未来(世)の自分より、まずは「今現在の自分にある」ことをしっかり自覚したほうがよいでしょう。

反対に、自分以外のことに全部原因や責任があるとしてしまうと、それこそ、無責任な話になり、成長することができませんし、他者に迷惑がかかります。

私はマルセイユタロットを見ていまして、問題の自己の責任・原因と他者(その他の要因による)責任・原因とのテーマは、ある種のルールや世界観を考えて取り扱うと、うまく行くのではないかと思っています。

まず、1.常識や現実的な世界観と、2.心の中の世界観、さらには、3.見えない世界、スピリチュアルのような、総合的な世界観を想定し、それぞれの違いを考えます。

1の世界では、物質や見える世界が中心ですから、あまり見えない世界のことよりも、実際にわかる、計る(計算できる)、実体として把握できるようなことで、責任の範囲も決まって来ます。もしくは、決めて行きます。

つまりは、自己の責任と、他者の責任との範囲が明確にあるということです。

もちろん、状況によって、その区分けは変わってきますが、ここで言いたいのは、この世界観では、自分だけとか他者だけとかという決めつけではなく、分相応に、しかも見えない、得体の知れない原因ではなく、きちんと見える範囲とか法律・ルールに基づいたうえで存在するということです。

逆に言えば、法律とかルールで決められていないところは不明確になりがちなので、あやふやな面もあります。そういう場合は、次の2に移行することもあります。

2では、心の中の世界なので、自分がどう思うかによって決まってくる世界観です。従って、この世界では、自分(の原因)がほぼすべてになってきます。

自分の心によって、自分の感じ方、行動も変わってきますので、逆に言いますと、自分の思い(心)が変われば、自分の世界(見え方、解釈、行動)も変わってくることになります。

ただ、心の中の世界は、自分が自覚している部分と、潜在的・無意識的な無自覚部分とがありますから、無自覚なところが原因のものは、場合によっては専門的探査と、それによる自己の気づきが必要になります。

わかっちゃいるけどやめられないとか、現実の世界での見方では、どうしても原因がわからず、同じような問題を引き起こしてしまう、続いてしまっているというような時は、こうした潜在意識の中の問題が要因と考えられることもあります。

また、現実では、他者や環境が存在しますから、そうしたものが自分に働きかけたり、原因として刻まれていたりすることもあります。

しかし、その場合でも、自分がどう思うか、感じるか、解釈するかの世界が心の世界なので、結局、自分の原因が主となってくるのです。(現実の世界観を無視するのではなく、現実の世界観での原因を見ることも併用し、例えば環境を変えるなどの自分の心や思い方以外での対応策も試みることです)

最後は3になります。これはもう、見えない世界を含むことですから、常識や現実認識の世界観の考え方は通じないものとなります。

この3の世界観に立てば、一言で言えば、2の世界観とは別の意味で、自分がすべての原因となりますが、他者も自分みたいな世界になってきますから、いわば世界をひとつとして、すべて関係する(過去・現在・未来という時系列を超えての考えも含む)と見ることになります。

こうした世界観では、自分が原因とか、他人が原因とかとの区別もなくなるわけです。

もう少し、個別的な意味で考えるとすれば、すべての問題は、自己の成長のためであり、自分(意識する自分にとっては)「起きている」ことになり、意識していない自分においては「起こしている」となるでしょう。

問題を受け入れ、淡々とこなしていくというような心境で、「ありがたい」という気持ちが、どんなことであっても、大なり小なり、生じるかもしれません。

以上のようなことで、同じ問題であっても、このように世界(観)を分けて考えてみることで、自分の責任、他者の責任、自己の要因、ほかの要因というものをバランスよくとらえることができるのではないかと思います。

まあ、平たく言えば、「世界」の使い分けです。

どうにも原因がわらず悩み切った時は、最後には3で考えたほうが楽になることもありますし、仕事の面では、1のほうが納得することもあります。

2などは、自分が中心ですから、たいていのことは(解釈の意味では)自分で何とかしてしまえることになります。心の達人になれば、同じ環境に遇っても、いかに自分の世界を楽にしてしまえるかが、2によってわかります。

あと、タロットがあると、実際に、どの世界(観)を自分は、このことで適用すべきかがわかることもあります。

タロットカード、大アルカナの最終境地と言われる「世界」のカードから見れば、ほかのカードは、臨機応変に世界観を変えていくための示唆と考えることもできます。

このように、まさに「世界」の見方を変えてくれるのが、またタロットの良さと言えるでしょう。


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