ブログ

違いと同一感のケース その意味

この世の中は、たくさんの人がおり、それぞれ個性を持っています。

まさに色々、いわば、バラエティある世界になっています。

ところがスピリチュアル的には、「ひとつ」だとか、「全て」、「宇宙全体」というような、分けれられないものというイメージで語られます。

ということは、その観点からでは、当然、私たちそれぞれも、この世界も、すべてはひとつだとまとめられてしまうわけです。

実際には、これだけ多くの違いがあるというか、違いばかりの世界だというのに、ひとつとか、同じとは、これいかに? という不思議なことになるのですが、この「違い」ある世界と、「同じである世界」とがイコールであるという気づきが持てれば、真理のようなものが見えてくるのではないかと思います。

これは、マルセイユタロットでいえば、タロットとして同じひとつのデッキながら、大アルカナと小アルカナの構成に区分されたり、その大や小の中にも、それぞれのカードの個性(違い)があるというのに似ていると思います。

ゆえに、マルセイユタロットは、世界や宇宙を象徴しているとも考えられるわけです。

さて、この世界では、違いがありながら、同じでもあるという矛盾した話の解説は、今日はさておき(笑)、考えや思いとして、違いを意識したほうがいい場合と、同一性と言いますか、共通性、同じを意識したほうがいいケースとで、人生におけるシチューエーションや場面によって、切り替えていくと生きやすいのではないかということにふれたいと思います。

まず、違いを意識したほうがいい時、あるいは人のタイプです。

それは、同調意識が強すぎる時や人の場合です。

人のタイプとしては、簡単に言えば、皆と同じでなくてはならないとか、目立つのは嫌とか、人の頼みは断りにくいとかという感じになる人です。

こういう人は、自己主張が弱くて、他人と自分との境界線があいまいなのですが、逆に言えば、自分のことを意識しすぎて、自分を守ろうとするあまり、人とのトラブルを避けたいと思い、自分が責められたり、悪く言われたり、気分を害されたりするのが嫌なわけですね。

一見、人に気遣いをすごくするようでいて、そのベクトルは、人より自分に向いているという方です。ナーバスな人には、こういうタイプの人が少なくありません。

もっとも、本当に心が優しすぎて、人に気遣ってしまう、自己犠牲で幸福感を得るタイプの人もいるので、必ずしも、自分の方向にベクトルが向いているというわけではなく、反対に、自分のことより、人の幸せを第一に思うという方もいます。

いずれにしても、こういう方々は、他人と自分との違いをもっと意識したほうがよく、一言でいえば、人は人、自分は自分という区分け、峻別をしたほうが、気が楽になります。(自己犠牲で快楽にある人は、最初は苦しくても、やがて、その中毒を解くことにもなります)

実際、自分が思っているほど、人はこちらのことを意識しているわけではありませんし、外国ではありませんが、きちんと自己主張していないと、承諾した、あるいはどうなってもよいということを意味してしまうことにもなりかねないので、嫌なことは嫌、できないことはできない(逆にこれならできる、これは好き)ということを言っておいたほうがいいです。

自分の見ている世界と、他人の見ている世界は違うのだということを、改めて、自分に問う(そういう視点を持つ)と、過ごしやすくなります。

また、ケースとしては、いわゆる「ウリ」を出したい時にも、違いは意識したほうがよいですよね。特に商売やコンペティションなど、多くの中から選ばれなくてはならないような状況では、ほかとの違いや個性が重要になってきます。

これは何も、勝ち負けだけのことではありません。

生き方として、私は私、俺は俺、自分は自分という道、ライトには趣味や嗜好、重くは使命などのようものに至るまで、人とは違うものを意識したほうが、より人生に目的や張りができたり、やはり、生き方としても楽になったりする場合があります。

いわば、自分としての絶対値、いや、絶体位置を持つということで、他人と比較したり、周囲の影響をあまり受けたりせず、マイペースな、まさに自分の人生を自分のものとして生きていくことができるのです。

では、次に、違いではなく、同じを意識するとよい場合とは、どんな時や人でしょうか?

これは、まず、共感を得たほう(共感が持てたほう)がよいケースの時と言えます。

例えば、自分、またはほかの人が傷ついたり、ショックのような状態であったりした時、共感を持つ(得る)ことで、慰められ(慰め)、ほっとした安心感に抱かれます。

マイナスな感情を抱いたり、落ち込んだりした時、ピンチや困難な状況に遭ったりした時もそうです。

「ああ、自分だけではなく、ほかの人もそうなんだ、同じなんだ」と感じることで、人は癒され、勇気も出てくることがあります。

それから、まったく知らないグループに入る時とか、初対面の人と会う場合なども、お互いの共通点や同じところがわかると、安心することができます。

例えば、好みの作品や食べ物が同じとか、同じ出身地であるとか、外国でなら、日本人に会うなどで、ほっとすることもあるでしょう。

また、人のせいにばかりしている人、ベクトルが外に向きすぎている人にも、他人と自分の同じ点を顧みる、発見してみるのはよいことです。

自分自身が気が付かねばならないことがあるから、他人のことで不快になったり、怒りが出たりすることもあるからです。まさに他人の振り見て、我が振り直せというわけです。

あと、やはり、スピリチュアル的な進化とか霊的・統合的視野を広げたいという時も、究極には「すべてはひとつの宇宙」みたいな感覚が必要と言われますから、少しずつでも、自他の境界線をなくして、自己が拡大し、自我そのものか解体していく過程で、より(霊的に)発展していくと考えられ、そうした目的を持つ人は、違いよりも同じところを意識していく方向性になるでしょう。

こう書くと、競争には違いを意識し、和合には同一感を意識するとよいように、一概に言えてしまうようにも思えますが、それだけでは、むしろ問題があると言えます。

上記のような定義にしてしまうと、どうしても、違いを意識した時、比較しての競争や分離意識を持ってしまい、自我・エゴの肥大、他人への無関心などを生み出してしまいかねないからです。

また、同一を意識し過ぎると、全員、金太郎アメのように一緒でなければならないという、強制的な同一感に支配され、差別と区別を混同してしまい、個性が認められない、あるいは、向上心が失われる怠惰で窮屈な世の中になってしまいます。

そういうことで、意外に、局面・場面における、違いの意識と、同一意識とで、どちらが重要であるかということが自分ではわからないことがあります。

マルセイユタロットでは、カードの個別的な違いと、全体的な統一性があるので、ある問題やケースでは、それぞれのカードの象徴性を見れば、違いを意識したほうがいいのか、そうでないのかがわかりますし、同時に違いの中での共通(同一)性や、反対に、同一性の中の違い(異質性)についても判断することができます。

このような作業は、つまりは、心理(学)的に言えば、ユングの個性化を知るようなことでもあり、自己の統合を図りながら、やがて全体(社会)の中で、自己の個性を活かす最善の道が見えてくるようなことと等しいと言えるでしょう。

結局、全体と個ということで、宇宙から生かされている自分、全体からの分離意識を“分け与えられて”、自分自身の人生を生きるプロセスが、この世界での人生であるように思えてきます。

ですから、何の個性もないとか、特徴もない、つまらない自分だとか思う人があっても、おかしな表現になりますが、「生きているだけで自分を生きている」ことになり、とにかく生き切ることが全体に対しての使命になっているのではないか想像できます。

そのうえで、できれば、「自分が幸せであること」を人生で表現できれば、なおよいかと思います。違いから同一へと観点を変えれば、そのことが、結局、全体・宇宙としての幸せとイコールになるからです。


万策は尽きたのか?

「SHIROBAKO」というアニメがあります。

アニメーション制作の現場から見た物語で、とても面白いですし、感動もするので、おススメいたします。

そのアニメ「SHIROBAKO」の登場人物が、アニメ制作の過程で困難に遭い、「もう無理だ、納期までに納められない」と絶望する時に使う有名なセリフとして、「万策尽きたぁ~!」と叫ぶものがあります。

まあ、結局、そうは言いつつも、何とかなってしまうのですが・・・それが物語というところです。ただ、本当にアニメ制作の現場は大変らしく、そのようなことは、事実としてあるんですよね。

ここでアニメ話をしようというのではありません。

この「万策尽きた」が今日のテーマとなるので、引用したまでです。

人間、人生の中で、一度や二度は、ものすごいピンチの状況という時はあるものです。まさに「万策尽きたぁ~!」終わりだぁ」と叫んでしまいたくなるようなことがあります。

まだ叫ぶくらいの元気があるうちは、実はまだ余力が残っていることが結構ありますが、状況・環境も最悪で、自分の生命エネルギー自体もなくなっているような、いわゆる極度のうつ状態にまでなっていますと、叫ぶ元気さえもなく、本当に「死」というものを考えてしまうことがあります。

私自身も恥ずかしながら、うつ病などの時代、その他の時でも、死を思ってしまったことが何度もありました。

しかし、マルセイユタロットを学習し、その象徴性を知るにつれ、どん底、絶望のような時でも、救いがあるのではないかと、少しでも光を思う機会が出るようになってきました。

それは、意外に思われるかもしれませんが、タロットを展開してリーディングするような形ではない、光や救いの希望なのです。

タロットの活用といえば、タロットリーディングのことを想像される方が多いでしょうが、他人に対してはそうと言っても過言ではないところがあるのですが、自分にとっては、タロットを展開してリーディングするというより、タロットそのものの象徴性を思うことで、助かったり、楽になったりすることがある気がします。

それは通常の方式の自己リーディングでは、なかなか客観的にはなりにくいからです。

ところで、マルセイユタロットには、「吊るし」というカードがあります。

ほかのタロット種の解釈では、このカードは、「吊られた男」とか、「吊るされ人」と呼称され、まるで拷問や逆さづりの刑にでもされているかのような、苦しさや犠牲のようなイメージがされています。

しかし、私たちのマルセイユタロット解釈では、この人物は自ら逆さのスタイルを取って、むしろ悠然と楽しんでいると解釈するのが基本です。

いわば、能動的かつ、変則的待ちの状態です。

ただ、マルセイユタロットの「吊るし」においても、やはり、つながれている、困難で苦しい状態と読むこともあります。

「吊るし」の人物の手は後手であり、足も組まれていて、ひもにひっかかってはいますが、縛られていると見る人もいるでしょう。

言ってみれば、手足の自由を奪われ、狭い二本の柱の間に押し込められているようにも見えるのです。

となると、この人物にとっては、「万策尽きた」状態となっていることも考えられます。

確かに、漢字の囚人の囚の字(人が囲われた中にいる、閉じ込められている)に見えなくてもないですよね。

いや、果たしてそうでしょうか? 本当にこの「吊るし」の人物は、出口や解決策が見つからない状態なのでしょうか?

もう一度、よく「吊るし」の図像を見てみますと、彼(男性であるとは限りませんが)の逆さに向いた頭の方向は、木で囲われていません。なるほど、三方は囲われていますが、ひとつ、下の方は開いているのです。

実は、ここにはすごい秘密があり、詳しいことは口伝的な秘密なので明かせませんが、普通に考えても、頭の方向が開いているということは、「考えれば出口はある」という象徴として、見ることも可能でしょう。

しかも、彼は逆さの姿勢なのですから、まるで天地が逆転したかのような見方をしているわけです。この象徴性をよく考えることです。

なぜ、あなたは万策尽きたと思ってしまっているのか、なのです。

そう、「万策尽きた」「もうダメだ」と思っているのは、あなたの中の現実が、です。

見方によって、現実は変わります。本当は、策がないのではなく、策がないように思い込んでいる、思い込まされているだけかもしれないのです。

そうは言っても、現実は自分の現実認識として、とても強固なものになっているので、どうしようもないと思うわけですよね。

ここで、マルセイユタロットの大アルカナ、それぞれのカードが生きてくるのです。

特に、マルセイユタロットでは、数の順に偉大なる智慧が隠されています。

「吊るし」の場合、その数の前後などのほかのカードを見ていくことで、「吊るし」状態の良し悪し、打開策を発見することができます。

特に、次の「13」と「節制」については、その象徴性を学べば、本当に救いになってきます。この二枚のカードの組み合わせが偶然ではなく、意図して配置されているのが、よくわかるのです。

何度、この組み合わせに救われてきたことかと思うほどです。

また、「吊るし」単独だけでも、困難さと同時に、その解決や解除策も示唆しています。

それはほかのカードでも同様で、それぞれのカードは、それぞれのカードによって修正されることもあるのです。言い換えれば、一枚一枚の象徴性において、問題と解決が同時に示さているということなのです。

「吊るし」では、出口の話や姿勢の話をしました。ほかにも、「吊るし」における問題性の解決は、「吊るし」自身に示されています。

よく言われるように、「神は、私たちに越えられない試練は与えない」と言われます。

また、カルマ論などをあえて用いるとすれば、今の苦難は、霊的・魂的には、その解消や浄化の大チャンスともいえるわけです。

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉もあるように、まだやれることや救いを求められる対象・方法がないか、頑張って探して見ましょう。

もちろん、本当に万策尽きたと思われる状態に陥ることもあるかもしれませんが、自ら死ぬことは最後の「策」ではなく、むしろ、さらなる縛りをかける、自分への長い呪い行為になると考えられるので、よい意味でのあきらめ、自分への完全承認みたいな、一見、放棄のような受容をしてみると、逆転や救いの可能性も出てくるのではないかと思います。

例えば、マルセイユタロットの「力」から「13」の流れには、「吊るし」を真ん中に挟んでという配置になっています。

一度、この三枚を並べてみるとよいです。

「力」は「吊るし」を見ており、さらにその先には、大きな鎌をもった「13」が見えます。「力」と「13」は数が進む方向性を見ています。

二本の木で囲まれている「吊るし」は、もしそれが困難な状況を表しているとすれば、「力」と「13」によって、どうなっていくことが望まれるでしょうか?

私たちの中には、計り知れない神性のエネルギーが流れている(存在する)とされています。この力を信じて、自分を貶めず、神(性)と通じるのなら、すべての問題は解決していくと言われています。

あなたの問題や苦しい状況は、あなた自身の歪みでとらえた現実にあると心理的・霊的には例えられますが、そうであるならば、歪めさせられているあなたの自我を赦し、解放し、新たな世界を創造していけばよいわけです。(それゆえ、「吊るし」と「世界」は共通した絵図であり、テーマがあります)

言うは易し、行うは難しかもしれませんが、マルセイユタロットの自己成長の象徴性を深くインプット、いや、そのプログラムを思い出すことで、それらが自動的に働くようになっているように感じます。

従ってマルセイユタロットの学びは、苦しい時もあるかもしれませんが、歪んた自分というものが少しずつ浄化、解体されていき、本当の意味で楽になっていく方向へ、自らの神性が導ていくのだと思います。

好き嫌いではなく、本当に自分がこれは苦しい、つらいと感じることと、心地よい、少しはましであるという境界線を、落ち着いて見極めていくことです。その線引きがあいまいになっていて、ただしなくてもいい苦労や、本当は楽になっていくはずの方向性を、自らで見えなくしていることがあります。

ほかの世界、次元に移れば、今まで思っていた「万策尽きた」状態ではなくなります。新しい世界では、昔の世界とは見方も考え方も、利用できる資源さえも変わってくるからです。

万策尽きたのなら、その(あなたを形成させている、これまでの認識)世界では限界だという意味でもあります。

ならば、次の変容(13)へ自分を進めさせる必要があるのです。

その勇気は、力とともに、あなたの中にあるはずなのです。


自分の幸せか、人の幸せか。

スピリチュアルや心理的な問題の話題などでよくあるのが、自分の幸せが大事なのか、人の幸せや、人との調和が大事なのかというテーマです。

これには、結論としては比較的、まずは自分の幸せが大事だということが言われています。

そうすると、問題は、自分の幸せのために、人の幸せを犠牲にしていいのかということが疑問として起こってきます。

例えば、親の幸せと自分の幸せ観が違っていて、しかし、親を無視することはできないので、結局、自分の幸せを全面的には肯定して生きて行くことがてぎず、妥協するか、自分を優先するところと、そうでないところを、自分なりに調整して生きていくかということが、ケースとして多くあります。

あと、「幸せ」という言葉の定義にもよるでしょう。

何を、どのようなことを、どのような時に幸せと思うのかについては、人それぞれと言ってもよく、全員がすべて一致する幸せ観はあり得ないのが、個性を持つ私たちの世界とも言えます。何を幸せに思うかは、そのほとんどは個人的な価値観で決まってきます。

また、幸せという言葉の響きだけ見れば、いい感じではありますが、極端なことを言えば、他人にものすごく迷惑をかけている状態が、当人にとって幸せと感じている状態かもしれず、しかしそれは幸せ・幸福感というより、個人的な欲望が満たされた状態と言い換えてもよいものです。

となれば、幸せは個人の欲望の達成、充実、満たされ感のこともあり、それは「幸せ」と言っていいものか、ちょっと疑問はありますよね。

こうして考えますと、個人の欲望を満たす、いわば「小さな幸せ感」というものと、個人はもちろん、それを超えた「大きな幸せ感」というものがあり、後者のほうは前者に比べて、ほかの人と対立するような幸せ感(観でもある)とは質と規模が違ってくるのではないかと予想されます。

そして、それはまた、マルセイユタロットの象徴を見ていると、わかってくるテーマ(問題)でもあります。

要するに、自我(自分と現実意識を構成している意識)による幸せは、どうしても自我範囲でのものでしかないということなのです。

この自我が認識している世界というのは、究極的に言えば、本質からは離れた、言ってみれば自我が思う(構成する)バーチャルみたいな世界です。

ただ、やっかいなことに、バーチャルではあるものの、リアリティがものすごくあるので、映画「マトリックス」のように、バーチャルな世界でのケガや死は、そのまま本体にも影響される(同じになる)ほど、リアルな世界にもなっています。やはり自我にとっては現実なのです。

従って、個人の思う幸せというものは、自我である自分が作り出すものであり、どこまでいっても勝手なものと言えます。

結局、欲求まみれの自我の感じる幸せは、まさにその通りであり、エゴの欲望を満たすことでの幸せが中心となります。

欲求とは、いろいろな理由や感情、因縁から起こるものと想定されますが、心理的に言えば、他人や外側の環境と比較して、その不足感から来ていると考えられます。

簡単に言えば、ないと思っているからから求めるわけです。

ただし、外のものと比べての不足感ではありますが、つまるところ、不足だと感じさせているのは、自分の自我・エゴでもありますから、自分(自我)が理想(イメージ)とするものに達していない、不足している、違っているという感覚が、欲求や欲望を生み出していることになります。

最初に例にした、「親子の幸せの違いの問題」は、親の理想・幸せ(親が思う子の状態から不足している、かけ離れているもの)と、子自身の理想・幸せ、(親の言うことが、自分の理想から不足・乖離しているもの)とが、対立しているからです。

でも、よく考えると、それはお互いのイメージ・心の中にあるもの同士の対立です。

究極的には、お互いの自我の現実認識が異なっていて、本当の・本質の理解(スピリチュアル的に言えば宇宙的調和)が、どちらもできていないことで、幻想の理想同士で対立していることになるので、大元・宇宙から見れば、取るに足らない、どちらも真実ではない誤解による争いと言えます。

しかし、そうは言っても、なかなか、親子でも、他人同士でも、それぞれが悟りを得て語り合えるわけではありませんよね。(苦笑)

現実的には、個人個人の価値観でもって対立したり、妥協しあったりしているものです。

だから、自我の中の世界といえども、リアリティのある現実世界の対処として考えれば、お互いの理想(この理想は先述したように、どちらがいいとか悪いとかではなく、本質的にはどれも自我の思う幻想的理想です)や思いが伝わっていないということがあるかもしれませんので、まずは、それをきちんと伝達する、説明するということが求められるてしょう。

だいたい、近しい関係ほど、言葉や文字では言いにくいもので、言葉も本質を示すものではなく、仮のものでしかありませんが、それでも、本質に近づくための手段でもあり、自分の欲求や理想を押し通すというのではなく(主張をするのではなく)、ありのままの正直な気持ちを伝えるということがポイントかと思います。

最初からケンカ腰で行けば、同じ反応(戦闘態勢)で、相手も反応せざるを得ないからです。

そして、ともに理想(と相手への自分のイメージ)があるのを理解し、ここで折衷したり、お互いに妥協したりするのもひとつですが、それでは、幸せ半分どころか、妥協感がある分、かなりそれぞれの幸せ感も少なくなることがあるでしょう。妥協するくらいなら、今まで通り対立していたほうがいいという人もいるくらいです。

ここで、例えば、ドクター・ジョン・ディマティーニ氏の考えを入れれば、幸せ観の違いは、それぞれの価値観の違いでもあるので、自分と相手の価値観の中でシンクロできるものを見て、関係づけや紐づけができれば、妥協ではなく、ともに理想に近づける感覚が得られることにもなりますから(お互いの価値観に沿うので満足感を得る)、それもひとつの方法でしょう。

マルセイユタロットの成長過程や、スピリチュアル的な考えでいくと、自分の低次の欲望から出るようなレベルの自我への認識をしっかりとし、少しずつその自覚と解体(浄化)をしていくことが必要かと思われます。

自我を構成している様々な要因は、たくさんの意識層の中にあり、いわば、貯蔵庫・記録庫のようなものからのデータ類が発動して影響していることが考えられます。まさに、自分が思考し、感じ取った影響のすべてがあるわけです。さらには、カルマ的に言えば、今生だけではないものもあるかもしれません。

ですから、最初は低次の欲求・願望が出できて、それが満たされない苦しみが生じると想像できます。

しかし、次第に霊的な意味での成長(厳密には違いますが、わりやすくあえて言えば心の成長のようなもの)が進めば、気づきとともに、自我の欲求度も違ってくるようになるはずです。

最初に、自分の幸せが大事か、他人の幸せかせ大事かと問いましたが、この境界線・線引きが、自分の成長によってあいまいになってくるのではないかと思います。

つまりは、次第に強い自我枠が解体されていき、意識も拡大され、宇宙と調和した同一の流れ、一体感になって戻ってくるものと推測され、そのため、自分の幸せと他人の幸せとが、自然と一致するようになってくるわけです。

いや、もっと別の言い方をすれば、自分と他人の幸せという区別そのものがなくなるのではないかと思われます。従って、そこに対立という思考・感覚も、次第に消えていくわけです。

多次元宇宙的に言えば、自分と対立していた人が、ほかの宇宙次元では、応援する側になっているというようなものでしょうか。これは相手が変わったのではなく、自分が変わったから、そういう他人に作り変えた(生み出した)と言ってもいいわけです。

ですから、本質的な意味では、結論としては、自分の幸せが大事だということです。

けれども、人との調和を無理に目指してしまうのは、それはまだ浅はかな自我が、自分の現実だと思う世の中で、あくせく相手と自分の妥協を図ろうと策を弄するようなもので、汗をかいたわりには、一時的には関係性は維持できても、不安はつきないという事態が続きます。

それよりも、自分の汚れを落としていく、心の中を見つめ、浄化し、意識を拡大して成長していく方向でのやり方のほうが、お互いの本当の幸せに戻ることの、遠回りなようで近道ではないかと考えられます。

ただ、自分が大事、大切だからと言って、自我・エゴの欲求を強く叶えていく方向と方法は、そのレベルに応じて人と対立することになるのは必然ですから、それも学びや成長のために気づきが起こることならよいのですが、警告や教えを無視して突き進むと、いずれ、人間関係的に破綻を来したり、自らに何かもっと大きな問題が発生したりするので、注意は必要でしょう。

自分のわがままを押し通すことは、ずっと自分の気持ちを抑圧していた人には、自己解放の段階として奏功することもありますが、だからと言って、自己主張が何でもいいわけではないのです。

反対に、相手への配慮というのは、結局、自分への配慮でもあり、過剰に自分に配慮するのも、それはそれでお互いに問題となります。

まあ、人間、皆、自分の考え、想像した世界に一人ひとり生きていますので、間違いがあって当然なのです。考えが皆違うので、意見の対立があるのも当たり前です。

でもそういう中で、共感を得られる経験ということは、すばらしいことでもあります。(しかしまた、共感を得ることに固執するのも、意見の違いで対立していることと同じですから、あまり意味はありません、共感も対立もひとつの同じ経験です)

人によっては、つらい世の中かもしれませんが、時にはタロットの「愚者」のように、気楽に行くのもよいかもしれません。

自他の幸せや、自利・利他について迷っている人の参考になれば幸いです。


あえて、足掻き、もがいてみる。

よく言わるように、水鳥は、水面上では穏やかに泳いているように見えて、水面下では、もがくように、バタバタと足掻ていると言われます。

見えないところでは努力しているとか、平気な顔をしているようで、実は頑張っているのだというたとえにも使われます。

ただ、私たち人間は、だいたい水鳥で言うと、水面下と水面上の区別がなく、必死でやっていることは、ほかの人にもわかることが多いですね。(笑)

ただ、この「水面」というのを、また別のたとえでしますと、人間にとっての「意識」と「無意識」の境界線みたいなことでも表現できそうです。

自己啓発では、もはや常識のように、無意識や潜在意識のことが取り上げられ、私たちには自覚できない意識層があり、そこにあるデータを書き換えたり、消したりすると、(自覚)意識にも影響し、行動とともに現実も変わると言われています。

そのことは、もっともだと思うところもある反面、無意識や潜在意識というのは、自覚できないからわからないのであって、いったいどういう構造になっているのか、どこにどのような情報が存在しているのかなど、詳細な地図などのようなものは明らかにされていません。

人間として、全員同じ構造は持つと予想されますが、一人ひとり、中身は違うことは容易に考えられ、それは遺伝子構造は同じでも、配列や情報の働き(スイッチが入る、入らないなど)が異なるのと同様なのかもしれません。

ということは、無意識や潜在意識と言っても、万人に共通するような確かな書き換え方式などというのは、あるようでない(個別、オーダーメイドである)、逆に構造的には、ないようである(全体としては通じることもある)とも言えそうです。

だから、自己啓発で、講師から、この方法でうまく行くと伝えられても、それは講師の方と周辺が成功した事例であって、すべての人が適応できるとは言えず、たまたま合う人もいれば、そうではない人もいると思います。

とにかく、まだまだ私たちは無意識のところは、一般的には、よくわかっていないのが実状でしょう。(古代や現代のすごい人では、わかっている人も個別ではいらっしゃるでしょうが、一般化の意味ではまだまだかと)

しかしながら、何となくでも、自分の自覚している意識(自覚する思考や感情パターン)だけでは、自分というものは形成されていないだろうとか、自分の預かり知らないところで、自分の意識や行動というものが影響されているのだろうということは、多くの人には、理解(想像)されているのではないかと思います。

少なくとも、自分ひとりで生きてきた人は誰もいないのですから、親や、これまで生きてきた中で関係した人たちの影響が知らず知らずあることは、普通に予想がつくことです。

マルセイユタロットのを心理的に扱う場合は、こうし影響をタロットの図面の象徴として浮上させ、無意識を意識化することで、心の整理と浄化を果たしていきます。

ただ、先述したように、無意識層というのは、自覚できない層であり、その構造やデータのありか、在り様などをはっきり確認できるわけではありません。

いろいろな技術で、確かに無意識にあったものの一部が意識の表面に上がってくることや、それを上げていくことはできますが、すべてとは言い難いでしょう。

また、「これが無意識や潜在意識に刻み込まれた問題だった」と、たとえ確定したとしても、それが今の問題の全部の根であったという保証はありません。

それがわかるのは、結局、自意識が問題だと思っていたことが実際に消失したり、自分の自覚する思考・感情の中で気にならなくなった時でしょう。

言ってみれば、未来によって、過去の要因がはっきりするようなものです。(この話をしていくと、ちょっと時系列を超えた不思議な話になってきますので、それはまた別の時にでも記事にしたいと思います)

今日言いたいことは、タイトルにもあるように、無意識や潜在意識の構造はなかなかわかりづらいことろがあるので、その中にあるデータが問題の原因だとしても、それを確認したり、本当に問題の原因なのかを特定したりすることは、「今」の時点ではわからないので(わかるのは未来)、とにかく、思いつくものは色々やってみると、奏功することがありますよ(あるかもしれませんよ)、ということです。

まあ、反対に、あまりジタバタするのも、余計混乱を生み出す元になるので、マルセイユタロット的に言えば、「吊るし」のような態度も重要なのですが、何が原因なのか、いろいろと調べてもわからないような問題の場合は、原因追求していくより、行動やプロセスを重視、やれることを、すべてと言いませんが、とにかくひとつとひとつやってみることが打開策になる場合があります。

まさに、水鳥の足ではありませんが、足掻いてみるのです。

ところで、マルセイユタロットの「恋人」カードには、三人のやり取りしているような人間たちと、上空のキューピッドや天使と思われる、異次元存在が描写されています。

この三人は、人間の知るうる情報と方法で、様々なことをやり取りしている、行動しているとも考えられます。

つまりは、目に見える世界のことであり、意識と無意識で言いますと、自覚する意識の部分と言えましょう。

一方、上空の天使は、目に見えない世界(の存在)であり、無意識も象徴していると考えられます。

この天使(キューピッド)は、通常ではなかなか見えないものとされているわけで、だから、私たち人間では、自分たちのわかる(自覚する)世界での選択や行動をしていくわけです。

そこでは、おそらく、間違いをしてしまうこともあるでしょう。(正しくは間違いや失敗だと、自分の価値で認識する事象の経験)

三人での図像を見て、悪く考えると、誰かに言いくるめられたり、お金や時間を無駄にするような情報も入れられたりするかもしれません。

しかし、逆によいこともあり、それこそ、問題を解決に導いたり、クリアにする情報というものを教えてくれたりする場合もあります。

そういう、ひとつひとつは、天使側から見ると、低い次元の話や方法だったり、無意識や潜在意識の層には、何ら効果のないものもあったするかもしれません。

それでも、コツコツと、あるいはバタバタと(笑)足掻いて、必死でいろいろなことを試したり、行動したりして行けば、この「恋人」カードの図像にもあるように、上空の天使(キューピッド)の背後の光のようなものと接触し、天使(キューピッド)に伝わり、矢が放たれるかもしれないのです。

矢が当たると、それは、実際や現実の効果として、確実に変化が生じます。

私たちの目の前には、もしかすると、空からたくさんのお試しのような、あみだくじ的なロープが垂れ下がっているのかもしれません。

そのほとんどは、はずれくじでしょうが(笑)、数当たるうちに、当たりを引くこともあるのではないでしょうか。あるいは、ひとつだけ輝いているもの、正解としてのものが、引っ張るくじでわかるようになるのかもしれません。

また、失敗くじも、チャレンジしただけ、ご褒美とか、再チャレンジ券とかが配られる可能性もあります。(笑)

ともかく、失敗・はずれも、上空の天使次元から見ると、無駄ではないはずなのです。

もがき、足掻ているうちに、いつか、ふっと、気づく瞬間がやってきます。

それは、「なんでこんなことしているのだろう」というおかしさに気づくことだったり、やっているうちに、「これだ!」とひらめいたりすることで、現れることもあります。

現実的にも、問題の原因は、抽象的にはひとつであっても、具体的には、複合的にからみあって生じていることが多いものです。

カルマ的なことも入れると、それは、もう、一人の人間の浅知恵では、なかなか判明のつかないことです。

ならば、原因を突き止めようとするより、改善しようという行動やプロセス自体が重要であり、それを神や天使が(自分の魂)が、促しているということもあるのではないかと想像します。

今、問題状況にある人は、あせり過ぎず、でも足掻くように、ひとつひとつ可能性のあるものを試して行くと、やがて何らかのよい状況を招くことができるのではないかと思います。


マルセイユタロット 数カードの一考察

タロットの構成にある、大アルカナと小アルカナ

私はマルセイユタロットをしておりますが、すでに何度も書いてきているように、最初はカモワン・ホドロフスキー版のマルセイユタロットから入り、いわば、通称カモワンタロットと日本で呼ばれるタロットでの学習でした。

それが結構長く続いたので、かなり「カモワン流」という方法がしみついておりました。

今のカモワンスクールにおいてはわかりませんが、昔のカモワン流では、小アルカナをあまり使わないこともあり、小アルカナの実際の活用や、その研究に対しては、どうしても後回しとならざるを得ない状況がありました。

ただ、カモワンタロットが、ホドロフスキー氏によっても作られていることは当然知っていましたので、ホドロフスキー流のタロットの使い方はどうなのかということも気になっておりました。

そこでフランス語で出ていた本を見たり(フランス語はできませんので、読むというより見るです(笑))、氏のタロッリーディング動画や映画の解説で時折出てくるタロット観などにふれたりして(カモワンタロットの講習時に、フランスでも直接ホドロフスキー氏のセミナーを見たことがあります)、氏がカモワン氏と違い、小アルカナも重視しているところは感じておりました。(ただ、一般的に今見られる動画では、ホドロフスキー氏も、実践において、大アルカナが中心のようにも思います)

とにかく、マルセイユタロットに関しては、日本での文献は極めて少なく、ましてや、さらに小アルカナパートとなると、その解説はあるにはありますが、実質的には、今もって皆無に近い状況と言えます。

ところで、日本では、タロットと言えば、通称ライダー版と呼ばれる、ウェイト氏の作成したウェイト版が有名で、メジャーに使われています。

このウェイト版のタロットは、枚数、構成としてはマルセイユタロットと同じですが、小アルカナ(の中の数カード)に関しては絵がついていて、4組ごとのシリーズ・物語のようになっています。

従って、絵による物語があるために、大アルカナのように読みやすく、イメージもしやすいという利点があります。

一方、マルセイユタロットの小アルカナ(の中の数カード)は、一見すると記号のような模様の図柄がついているだけで、絵というにはほど遠い図像になっています。見ようによっては、タイルとかモザイク模様に近いです。

幸い、マルセイユタロットの数少ない解説本の中で、数年前出版された、ホドロフスキー氏の「タロットの宇宙」という本がありますから(実は私がフランスで購入していた本の日本語版です)、それには結構詳しく、小アルカナの意味や解説も掲載されていますし、この本をもとに、松村潔氏が、独自の解釈を含めて、大アルカナとともに、小アルカナについても詳細に書かれている「タロットの神秘と解釈」という書籍もあり、今はそれらを読めば、大きな参考にはなるとは思います。

私自身も、独自でマルセイユタロットの小アルカナについて、成り立ちとか歴史とかよりも、特に読み方や活用を研究してきたところがあります。

それは、小アルカナの活用分野として、大アルカナ以上に、私たちの現実と呼ばれるフィールドにおいて使うものだからと認識しているからです。

小アルカナもタロットなので、確かに象徴なのですが、霊的(スピリチュアル的)・心理的レヴェルや、漠然したものを見るというより、具体性や選択性を示していくものと考えたほうがよく、そうだとすると、ただ考察や思考をするだけではなく、読み(タロットリーディング)をして、実践活用していくことが求められるというわけです。

しかも、その読みは、占いに近いもののほうが、小アルカナに関しては、シンクロすると言いますか、なじむと思います。

ただ、マルセイユタロットの場合、先述したように、小アルカナの数カードが記号的な図像なので、具体的な事柄をそこから想像して読むというのは、かえって難しい傾向があります。

ここが、あまりマルセイユタロットの小アルカナが実際に使われない理由のひとつにもなっているのだと感じます。

ということは、マルセイユタロットの小アルカナ、特に数カードについて、ふたつの見方ができます。

ひとつは、まさに模様を眺めるためにあること。

何のために眺めるのかといえば、イスラム教を考えればわかりますが、神というものを具体化・偶像(絵や銅像など)化しないためです。正しくは、神を具体化・形には「できない」のです。

マルセイユタロットには、自らの内に神性が宿るということを教義として持っています。

それは例えば、イエス様のように、具体的な神様像ではなく、内なる魂や霊の次元における(それを通して知るともいえる)神なのです。神というより、宇宙や完全性、大いなる何か、根源といった、スピリチュアル的な言い方のほうが的を射ているかもしれません。

ゆえに、この内なる神は抽象的で、具体的にはとらえがたいものなのです。

だからこそ、小アルカナでは、その内なる神・神性を、ある宇宙的なデザイン・模様として描いているわけです。いわば、神のオーダー・秩序が示されているのです。それが私たちの(現実)世界にも及んでいることを知るために、小アルカナは存在します。

この見方がひとつです。

もうひとつは、大アルカナや、皆さんが思う、リーディングや占いとしてのタロットとは別の使い方があるために、このような絵柄になっているという見方です。

ズバリ言ってしまえば、カードゲームのためのセットだということです。

ただし、この場合は、通常、大アルカナも含んでの、タロットのデッキ一組がカードゲームのセットになっています。ですから、小アルカナだけがゲームのためのカードというわけではないのです。

けれども、明らかに、大アルカナ、そしてコートカード、または宮廷カードは、同じような具体的な絵になっており、数カードの図柄とは異なっています。

皆さんがトランプゲームをした時に覚えがあるように、絵札というものはゲームにおいて強い力・得点力を持ちます。

それに比べて、小アルカナの数カードは、ゲームにおいては弱いと言いますか、得点が低く設定されているものがほとんどです。ただし、エース(それぞれの組の1)は、マルセイユタロットにおいても絵札となっており、トランプのエースと同様、結構強い設定です。

要するに、絵札と数札の違いがあるということです。それはゲームにおいての得点や、力の区分けにもなっているのです。

ということは、もしゲームのためにタロットができたと見れば、ゲームを面白くするため、あるいは得点の計算をわかりやすくするため、小アルカナの、特に数カードは作られ、そう(ゲームの切り札てはなく、使いやすい駒として)使うことにあると考えられるのです。

あと、お金か何か換金のための記録道具みたいな意味もあったのかもしれません。麻雀の点棒みたいなものです。いずれにしても、ゲーム関連での扱いだったと推測されます。

このように考えますと、マルセイユタロットの小アルカナ、特に数カードに関しては、大アルカナの秘儀をシステムとして基盤模様(マトリックス)で示し、宇宙を考察する装置のセットであると見るか、あるいは、割り切って、ゲームのための道具だと見てしまうかにあります。

そして、そのまま、もしこれをリーディングや占いという方法のフィールドにあてはめていくと、小アルカナを使わないか(ただし大アルカナの補助としては使える)、使う場合でも、ゲーム的に(ライトにとか、現実を楽しむためにとかで)活用していくかというやり方が想像されます。

これはあくまで、私の説・考えなので、ほかにもいろいろと考察もできるでしょうし、まだまだ謎の多いマルセイユタロットの小アルカナと言えます。

なお、リーディングに、小アルカナをどのように使うかは、基礎講座から、段階的にお伝えしています。


Top