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タロットリーディングのスタイルについて その1
タロットリーディングのスタイルについて、考えてみたいと思います。2回シリーズで、まず最初は、プロかアマチュアかと言うことをテーマにします。
タロットリーディングスタイルをプロでやるのか、アマチュアでやるのかのテーマがあります。
どちらもいい加減な気持ちではできないと思いますが、やはりプロのほうがシビアだと言えるでしょう。
そして、何をもってタロットリーディングのプロと定義するのかは、人によって異なるでしょうが、今の現状から考えれば、端的に、サービス料金をいただけるかどうか、お客様からお金をいただいてもよいレベルかになるかもしれません。
このお金の問題が常にプロスタイルを選択すると関わってきます。料金をいくらにするのかから始まり、そもそもビジネスや生業として、経済的な糧とするのかによっても、色々と変わってきます。
しかし対人援助相談であり、モノとしての商品を売るわけでもないタロットリーディングの性格上、ガンガン儲けていくというスタイルにはなじみにくい面もあると言えます。それなのに、今の自由主義経済の世界では、商売としての熾烈な競争があり、人から選ばれないと生き残れません。(商売として成り立たない)
商売も、努力とか情報によって左右されるとは言え、大きな組織ではなく、個人事業主的なタロットリーダー、タロット占い師ともなれば、個人の才能によるところが大きいように思います。
ここで言う才能とは、タロットに関することではなく、あくまで商売、サービス業でのことです。
何事も得意・不得意があり、自分のウリに長けた人、またすばらしい行動力を持つ人など、商売の成功は、その才能によるところも大でしょう。あまり言われませんが、運も大きな要素です。(ただし、よい運に巡り合うための底上げ、努力と準備は必要だと考えられます)
ですから、結局、特別な人を除いて、タロットリーダー、タロット占い師として、経済的完全独立を成せる人はなかなかいないのではないかと思われます。
それ(経済的独立や成功)に向かって、タロット営業を目指すと、どうしてもお金儲け(営利)やサービスの拡大、商売目線ということになってきて、自分が本来したいタロットリーディングというものができなくなったり、葛藤を持ったりすることにもなりかねません。
そうした葛藤を、結構、お金のブロックなどと言って、本人の心理的思い込み、枠のように言う人もいますが、それは確かに一理あるとは言え、そればかりが問題ではなく、究極的には、タロットリーディングという行為の本質と競争経済原理との間に、相入れないものが大きく存在しているからだと考えられます。
これは医者が完全に病を治してしまえば、最終的には医者自体もいらなくなるというのに似ています。
優秀な医者は、存在さえ知られれば多くの人が訪れ、それが医業営業であれば、サーヒス業として流行ることも当然あるでしょう。しかし、どんどん患者が治れば、患者、つまりお客様は減って行きますので、ビジネス・営業としては苦しくなります。
すると、別のことを行うか、何か新しいサービスを考えないといけなくなるでしょうが、それが本来的な医者の仕事ではなくなってくると、医師自体が悩むこともあるかもしれません。
また良かれと思い、病になるのを未然に防ぐためのことをすると、ますます患者は減りますから、営業としては成り立たなくなります。完璧な治療薬などできてしまうと、医師界どころか健康産業全体の存亡に関わってきます。
ちょっと話がそれましたが、上記のことは、自由主義経済が本末転倒なことにもなりかねない危険性も示していますので、あえて書いたところです。
ともあれ、プロでお金をいただいて、経済的独立をも成立させるのは、個人的なタロット業では厳しい面があるということです。
ですから、できれば、経済的なことが二次的になるようなスタイルで行うことが、かえってのびのびとタロットリーディングができるのではないかと思います。
さらにはお金とは無縁に、趣味か生きがいか、使命かはともかく、ボランティア的にタロットリーディングを行うのは、もっと楽(楽しい)でしょう。
ただ、お金をいただくことが悪いわけではなく、自分の活動費、学習向上費、そして、何よりも、リーディングの価値(エネルギー)を別の形で評価してもらい、受け取る意味で、お金というものはその代替になるものです。
お金をいただかない完全ボランティアの場合、弊害として、タロットリーダーの消耗が激しいこと、継続していくのに無理が生じやすいこと、リーダーもクライアントも真剣味に欠けるということがあげられます。
お金をいただかないことで、タロットリーダーがリーディングがうまくできない言い訳とか、免罪符にしていることもあります。(無意識的なこともあるので厄介です)
これは別の意味でのお金のブロックと言えます。お金で自分への価値が、きっちりと出てしまうことの恐怖があるわけです。
最初は誰でも文字通り初心者です。経験を積み、実行していかないと、技術も向上しませんし、自信も持てません。
お金をいただかないという方法でやっていくのもありですが、先述したように、その弊害がないわけでもありませんので、ボランティアでも、少しはいただいたほうがよいかと思います。
よく、最初はワンコインから・・・というケースがありますが、それもひとつの方法ですが、私は、お金をいただくと決意した場合、もっと最初から金額を上げたほうがいいように感じます。
そうしないと、ワンコインのまま、ずっと続いてしまう恐れがあるからです。(ワンコインで長く続けて行くと決めている場合はよいですが)
ましてやビジネス・営業としてプロ的に行うことを考えている人は、ワンコインからではなく、せめて千円単位から始めると、覚悟もでき、技術もそれについてくるでしょう。
まあそれでも、理想としては、ビジネス・営業スタイルで行うより、ボランティアか二次(サブ)的な活動で、自分が納得する、過剰ではない料金(お金)をいただくタロットリーディングのスタイルが、自由があって望ましいように思います。
もちろん、ビジネスとしてやりたい人、その自信がある人は、どんどんやっていけばよいでしょう。
さて、次回は、プロかアマかということではなく、別の観点から述べてみたいと思います。
人間の選択、マルセイユタロットの指針
マルセイユタロットと言いますか、伝統的タロットでは、78枚を一組にし、大アルカナ22枚、小アルカナ56枚という構成になっています。
二部構成のアルカナは、その数から、大アルカナは3と7、小アルカナは4と10の原理によって解釈可能です。
特に、3と4の違いが、大アルカナと小アルカナにはあると考えられます。
大アルカナと小アルカナは、いわば次元が違うので、同じように見ては理解ができなかったり、うまく使いこなせなかったりします。
さきほど、3と4の違いがあると言いましたが、大アルカナの3は縦に見て、小アルカナの4は横に見ると適切になってくると思います。
ところで、人は何かを選ぶことで人生を過ごしているとも言えます。人生において、選択がないことはめったにありません。一日単位でも、一年単位でも、常に選択の連続と言えます。
ゆえに、人は選択に迷い、悩むことが多くなります。そして、タロットを使う者、あるいはタロットリーダー、タロット占い師に相談する者も、やはり、自分の何かの選択についてが主題になることがよくあります。
そこで、さきほどの大アルカナの3と、小アルカナの4を、選択のテーマで見ます。
すると、選択には7つ(3+4)の方法(区分)があって(考え方によっては3×4の12)、大アルカナ縦の3と、小アルカナ横の4に分けられます。
これを別の言葉で表しますと、大アルカナには3レベルの選択があり、小アルカナは同レベルながら4つの性質があるわけです。
大アルカナの三つのレベルとは、言わば低・中・高の選択段階があるとも表現できます。ただし、ここでいうレベルの違いは、縦階層ではあっても、低いものが悪くて、高いものがよいというわけではありません。
三つのレベルは、あえて宗教的に言えば、神から見た選択と人間的な選択、その中間的な選択があるというものです。神の選択はもっとも高次ではあるものの、それが必ずしも、普通の人間にとってよい選択であるとは限りません。
なぜなら、高いレベルになればなるほど、一人の人間の良し悪しなど、どうでもよくなってくるからです。多数決ではありませんが、宇宙全体の進化のために、ただ一人の人間への忖度はないみたいなことです。
※(別に人の犠牲を肯定しているわけではありませんし、小宇宙大宇宙の法則からすれば、一人の人間と全体とはリンクしていると考えられ、おそらく全と個が切り離されて進化するものではないとは想像できますが)
神の思し召しという言葉があるように、神様の考えるレベルとか規準は、我々人間にはわからないものです。でも、人は自分の人生を普通に生きているわけですから、通常レベルでの選択における良し悪しを無視するわけにもいかなくなります。
ワタクシの事情というものに神は考慮してくれなくても、ほかならぬ、ワタクシ自身はワタクシのためによい選択をしなくてはと思うわけです。
しかし、一方で、神次元からすれば、一人の人間の本当の成長のためには、その人にはわからないレベルで善きことがあり、その選択を勧めることもあるでしょう。人間レベルだと欲望や私情に囚われて、目が曇ってしまうこともあるからです。
もし天使という存在がいるのなら、天使は、そうした高い神の次元と、普通の人間との間に介入して、相互理解と、人の本当の成長(霊的進展)のために働きかけることになるのではないかと想像します。そういう意味では、天使の選択もあるということです。
マルセイユタロットの大アルカナは、この三つの階層の選択を示唆しているものと考えられます。
ただ先述したように、どれ(どの階層の選択)がよくてどれが悪いというのではありませんし、このカードが出れば特定の階層の選択をすべしというものでもないと考えます。
大切なのは、三つの階層を総合的に判断し、なぜそのカードが今回出たのかの意味をよく見極め、結局、自身自身の成長に役立てることではないかと思います。
一方、小アルカナの世界は、人間レベルの選択における4つの性質を表し、すなわち、四大元素の風・水・火・地で、物質的には剣(ソード)・杯(カップ)・杖(ワンド)・玉(コイン)になります。
簡単に言えば、四つの視点・見方みたいなものです。
人間世界は、損得や、快不快・好き嫌いなどの感情、時間や投資の効率性、やりがい・生きがい、面白い面白くない、関心無関心などの判断の規準があります。(人によって異なる規準にもなっています)
これを分析するのに、4つの性質は役立ちます。自分は何を重視して選択するのか、また、足りない性質、考慮すべき性質は何なのかなど、こうしたことに小アルカナは使えます。
個性を特化していく、悪く言えばわがままを突き通すみたいな選択の使用法もあれば、バランスを見る、統合的な自己成長のための選択に使うという道もあります。後者は結局、大アルカナに通じる道であり、やはり、マルセイユタロット的には、人間が神に戻る方向性(霊的成長)を示唆しているのではないかと考えます。(使い方にもよりますが)
マルセイユタロットを使っていくと、現に私自身がそうですが、現実的なことにおいて、タロットを使って何かを選択するというようなことは、ほとんどなくなってきます。そして、タロットで何かを決めるという使い方に、空しささえ覚えるようになります。
ですが、それがよいと述べたいのでもありません。
タロットで物事を決めることも別に悪いわけではありませんし、タロットの使い方ではメジャーな方法でしょう。従って、それもまた自分の選択であり、どのような使い方をするのかは自分次第で、それにタロットは応じてくれるというわけなのです。
タロットリーダーが役に立つ理由
タロットで自分のことを見るのは難しい
という話がよくされます。
長年マルセイユタロットをやってきている私から見ましても、それはその通りのところがあると思います。
ただ、世間で言われるそのことは、だいたい、タロットを占いとして扱う場合のことに当てはまると言えます。
とはいえ、占いでない使い方をしたとしても、例えば、タロットリーディングにおいて自己判断のみでは、少々難しいところがあるのも確かです。
私は最初の頃は、タロットリーディングの方法を統一して行っておりました。統一していたというのは、具体的に、他人を見る場合と、自分一人で行う場合との展開方法や読み方(リーディング)を同じにしていたということです。
しかし、前述したように、自分で自分を見るのは難しい部分があるので、やがて他人向けと自分向けで方法を変えることにしました。(同じ方法を使うケースもあります)
その方がわかりやすいからですし、そもそも、他人リーディングと自己リーディングというのは、同じ「リーディング」という呼び方にはなっていますが、根本的に異なるものであることを理解してきたという理由もあります。
このことについては、またいずれふれたいと思います。
さて、自己リーディングの難しさの最大の理由は、客観的になれないことがあげられます。文字通り、客観ではなく主観なのですから当然です。
そこに感情的なものが加わると、「こうなってほしい」という希望や、逆に「このようなことは嫌だ」という思いが、リーディングにどうしても反映されがちです。
タロットカードでは、結構幅のある読み、あるいは、相反するような意味が出ることもあります。
それはタロットが象徴のカードだからで、オラクルカードのように、決まった意味とか言葉があるわけではないからです。(何を象徴しているのかの根本はあります)
その「幅」こそが、自己の感情と相まって主観が作用し、読みの客観性をなくさせて、判断を迷わせることにもなります。
このことからも、他人向けに行うリーディングスタイルと同じにしては、自己へのタロットリーディングとか活用は難しいことがわかります。
極端なことを言えば、自己占い的なものや、自分に対して何か現実的に決断するようなことに、タロットは使わないほうがよい(この場合のタロットを使うというのは、タロットを引くという意味)とさえ思っています。
ですが、主観でありながらも客観性をあげるための工夫をすることで、上記の問題も多少は改善される場合があります。
それはそれとして、今日言いたいのは実は別のことなのです。
それは、なぜ他人に対してタロットリーディングを行うのかの問いに、ひとつの答えになるものかと思います。
要するに、客観性の効果がアドバイスや助けになるケースが、この世だからこそあるというものです。
私たちのこの(現実)世界は、個別や分離の世界です。一人一人個性を持ち、数多のモノがあふれかえる世界で、自分と他人が区別されるのが普通です。
「他人と比べてはならない」とよく言われますが、それはこの世界の構造からして無理な話です。むしろ、比べるためにできているのではないかとえ思えるものです。
ただし、あまり他人を気にしないという選択はできるでしょう。その辺りの自由性があるのもこの世界の特徴です。
何が言いたいのかと言いますと、他人と自分がいての世界だから、それを利用しない手はないということです。
これをタロットリーディングに当てはめると、自分で自分のことを読むことが難しくなるのは当たり前の世界で、だったら、他人に見てもらうほうがわかりやすいですし、受け入れやすい側面があるということです。
皆さんも迷った時、判断に困った時、最初は一人で考える人は多いかもしれませんが、結局、誰かに相談しますよね?(しない人もいるでしょうが)
たとえ解決策が出なくても、人に話をするだけでも気持ちは楽になることがあります。特に困っている状況をわかってもらえたという時は、その効果も高いです。
また、自分以外の者からのアドバイス、助言、さらには客観的データも、受け入れやすく、冷静になれる場合があります。頑固な人でも、信頼する人とか、特別な人から言われれば説得されるケースもよく聞きます。
やはり、客観的なアドバイスは、自分の枠をはずして物事を見ることに、とても役立ちます。
マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の輪の中にいる状態で、そこから脱する視点が与えられるわけです。
このこと(他人の言)により、人は助けられたり、成長したりします。(もっとも、反対に他人から騙されたり、洗脳されたりもしますが)
そう、この世界は、自分以外のものが自分を助け、または貶めることになっている構造の世界なのです。まさに独りよがりでは、その状態で固まったままであり、なかなかその小さな世界から抜け出せないことになります。
視点を変えてみれば、この世界全体で完全性があると見て、だからこそ、自分以外のものがそれを補完することになっているのだと考えることもできます。
タロット自体を客観のためのツールにすることで、何も他人によってリーディングしてもらう必要もないかもしれませんが、他人にタロットを使って見てもらうことで、二重(タロットとタロットリーダー)の客観性が出て、さきほど言った、自分に対する(自分以外のものからの)補完が強くなります。
タロットが当たる当たらないとか、タロットが真実を告げているのか告げていないのかということは、この観点からすると問題ではありません。
タロットリーダーとして、人の客観性のために役立つこと自体が大きな意味を持つのです。
予言、2025年問題などについて。
2024年のスタートが、あまりにも大きな災難から始まったこと、ほかにも悪い出来事が連続したために、これからの先行きを不安に思う人も多いようです。
また、スピリチュアル界隈とか予言の世界では、少し前から2025年問題というのがささやかれています。これは2025年に日本にすごいことが起きるというものです。
このすごいことというのが厄介で、たいてい悪いことや災害という類で言われています。予言によっては、(あえて書きませんが)月日まで指定されています。
予言的なものは、ネットでも結構昔から人気です。これから先、どうなるのか知りたいというのは、人情の面もあるからでしょう。特に世情が不安定であると、余計に未来がどうなるのか知りたくなる人も増えるのだと思います。
ただ、これも古くからよくあるパターンですが、自分(とか特定の組織)に注目を集めたいがために、わざと大げさに不安を煽るような予言をする者がいます。
目的は集金であったり、宗教などの組織に入会させたりするものが多いでしょう。現代では、承認欲求を満たしたり、動画などの再生数稼ぎや、セミナーなどの集客目的だったりなどの場合もあると思います。
ここで、ちょっと前を思い出してください。
コロナ禍のケースでは、果たして、コロナ前にコロナウィルスの病が世界的に流行って、自由がかなり制限される状況を予言した人がいたでしょうか? 病気の流行くらいの予言はあったかもしれませんが、コロナのことを正確に言い当てたような人は見受けられなかったと思います。
そして、コロナ禍になって、当時、いろいろな人が今後のことを語り出しましたが、その多くはやはり不安を煽り、悲惨な未来をイメージさせて、集客のネタにしたり、欲望的な意味で、自分になにがしかの注目を集めようとしたり人が少なくなかったように思います。
結構、化けの皮がはがれたと言いますか、コロナ禍という非日常的なことが起こって、その人の本性が見えたという場合もありました。
もちろん、皆さんのためを思って危機を訴えたとか、災難に備えさせようという気持ちの人もいたと思います。今の予言も、親切心から出ているケースもあるでしょう。
それでも、怖い予言をしてどうするのかという疑問が、個人的にはあります。
確かに何の備えもせず、能天気に生きるのがよいというわけではありません。実際、地震や台風など、日本では自然災害も多いのは周知の事実です。
私は阪神大震災を経験しましたが、当時、関西圏では地震の危機感は皆無に近く、神戸あたりでも、大地震など来るはずもないという一般的な雰囲気がありました。(実際は何度も大地震が過去に起きていたのですが)
しかし阪神大震災が起こって、その後からこの地域だけではなく、全国的にも地震に対する防災意識、対策が高まりました。そういった意味では、先に備えや引き締めの気持ちを抱かせるために、危機の予言もありかもしれません。
とはいえ、やはり怖い予言はあまり有意義ではないと思います。それは先述したように、そうしたことを利用して、利己的なものに誘導する力が働きやすいからです。
また、ただでさえネガティブな人が多くなっている時代に、希望をやる気を失わせることにもなりかねませんし、よい社会に変えていくにはどうすればよいかという思考や動きが停止し、受け身にただ運命を待つとか、怖いことが起きるのなら、今享楽的に生きればよいというような意識に囚われる人も出るでしょう。
一言で言えば、創造性が失われるわけです。
もしスピリチュアル傾向の人が言うように、人々の意識が現実を作るのなら、不安と恐怖の予言によって、多くの人の想念がそれになり、本当に未来は暗いものになりかねません。(逆に、たくさんの人が予想すると、その通りにならないという逆張り現実説もあるようですが)
タロットも占いだと思われていますので、先行き・未来についてどうなるのかタロットで見てほしい、見てみたいという人が結構います。むしろそれがタロットの使い方ではないの?と誤解している人もいるくらいです。
エンターテイメント・遊びの意味で、「今後どうなる?」と、タロットで見てみるのもありかもしれません。
しかし、私としては、特にマルセイユタロットでは、そういった使い方はあまりお勧めしないものです。
(マルセイユ)タロット使いは、魔法使いではありません。未来のことを当てたり、自我(エゴ)の思い通りに環境を変えたりするようなツール(と人)ではないのです。
恐ろしい未来がタロットで示されたとして、いったいそれが何の役に立つのでしょうか?
それこそ、「こんな恐怖の未来がタロットからわかった!! 動画を見た人だけがわかる衝撃の未来!!!」という、おどろおどろしいサムネイル・タイトルで人を惹きつけ、動画再生数を稼ぐくらいです。(笑)
タロットを使う者は、タロットの奴隷(タロットの言いなりになること)でもありませんし、反対に、自分のエゴのためにタロットを都合よく扱うのも問題です。
予言のことに戻しますが、2025年にたとえ何かあるにしても、反省や備えをすることを忘れずにしつつも、何が起きるかなどはどうでもよいとし、今の自分を悔いなきように生きていくことだと思います。(不安になることを否定することでもないですし、ダメな一日、悔いのある日々もあるのが普通で、それも含めて人生を旅していると考えます)
ところで、マルセイユタロットは13番のカード以外は、見た目は特に恐怖を感じないものです。(16「神の家」も、ウェイト版ほど破壊の絵柄ではありません)
従って、どうせ先行きをタロットで見るのなら、「どうなる?」としてカードを引くよりも、「どうすれば(よい)未来を築けるか?」として引いたほうが建設的です。(ちなみに先述した「神の家」には、建設していく意味もあります。神への建設、すなわち神性の自分に適った選択と行動が意味されるのです)
そして、できれば、明るい未来を想像し、実際に皆さんで創造していきたいものです。
年初に当たり、マルセイユタロットから。
明けましておめでとうございます。
と言ってもいられない、元旦からの災害、事件の数々に日本は見舞われています。災害や事故に遭われました方々にお見舞いと、犠牲になられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
このような状況では、タロットをする者にとって、あるいはタロットに関心がある方は、やはり、どうしても、「今年はどうなのか?」とタロットを引き(展開し)たくなると思います。
そうでなくても、年始にはタロットを引くのが恒例という方もいらっしゃるでしょう。
私も状況とは関係なく、毎年、全体と個別(自分)について、マルセイユタロットを引いております。
ただ、昨年末の記事にも書きましたが、このように「年をテーマにタロットを引くこと」には、占い的な見方と、そうではない見方の二つがあると思えます。
前者は、主に「どうなるか(どんな年なるのか)」という見方であり、後者はそれ以外で、代表的なものには、「(今年は)どうすればよいか」とか、「(今年には)どんな課題や意味があるのか(を見て、その対処方法も考える)」というようなものです。
言い方を換えれば、受動か能動かの違いと言えましょう。
別にどちらかがよくて、どちらかが悪いと言いたいのでありません。「どうなる?」ということに関心があるのも人情ですし、かと言って、受け身だけの姿勢では、マルセイユタロットで言えば「運命の輪」に翻弄される、輪の中の二匹の動物のようになるばかりです。
物事の変革には、自分から打って出る、自分が変えていくという能動的態度も必要でしょう。それでも、意識高い系(笑)ではないですが、そうした積極的な姿勢ばかりが強調されるのも、人間、苦しいものです。
一人の力では、できないことも多いですし、(自己の)無価値観にとらわれる人も多くなっているからです。
特に今の日本人の多くは、自分に価値が認められないという方が増えていると思います。
昨年には、ラノベ・アニメに、「異世界転生もの」が増えている理由を書きましたが、そこからさらに付け加えると、自分に価値があるのか(いや、ない)、何かの役に立てるのか(いや、役立たずだ)という無価値感を多くの人が感じているからこそ、異世界で自分の価値が認められる環境に転生したいという物語が描かれるのだと感じます。
無価値感は、つまるところ、生きる価値につながります。“自分は生きていていい(存在な)のか”という究極のテーマです。
スピリチュアリストや心理系の方々は、自己尊重、自分に価値を自身で認められる大切さを言います。
ですが、現代社会の中でそれを獲得・回復するのは容易なことではないでしょう。たとえ一時的にそれができても、これだけ多くの人と比較される情報過多の時代にあっては、自分に自信や価値を持つことはなかなか困難だと思えます。
私たちの現実は、一人一人違った個性をもった人と共存してる世界です。ゆえに比較はつきものであり、資本主義自由経済のもとでは、価値を決める中心は競争になります。
当然ながら、どの分野においても勝ち負けが出て、少数の勝者とたくさんの敗者という構図になります。そうなりますと、たとえどこかで勝っていても、どこかでは負けるという仕組みにもなってきます。
言わば、誰もが敗者の感覚を持つことになります。それが自己の無価値感にも関係してきます。
結局、この個性の世界を、比較と競争だけに価値を決めていくシステムにすると、逆に没個性となり、自分に対しての無価値感が増大していくことになると考えられます。
ですから、それを逆手に取り、一人一人違うということは、比較ではなく、加不足・得意不得意など、アンバランス性を助け合うことによって補い合い、完全性を全員で作り出し、共有し合うという観点が大切になるのではと思います。
実は、今年について、全体向けに引いたマルセイユタロットカードは「正義」でした。「正義」は公平なバランスを象徴するカードでもあります。
マルセイユタロットの大アルカナは(目指すべき)時代性も表すと私は考えており、その思想では、「正義」から「節制」までの時代へのシフトというものを見ています。ですから「正義」に始まり、「節制」へ至るというのが、ある意味、近年においての目指すべき完成型だと言えるわけです。
「節制」は、救済の天使を象徴します。この天使は、ふたつの壺を混ぜ併せていることから考えても、助け合いの精神と行動が示唆されていると見ていいでしょう。
自分はなになにができないということで、無価値感に襲われても、誰かを助ける、誰かの役に少しでも立つという実感で、自己の価値は高まります。
誰かの欠点は誰かの長所でカバーでき、個々として不完全でも、全体として見れば、実は完全なる世界であるという自覚が、皆にできる次元です。
それは生きていて当然と思える世界であり、生きているから助けられ、助けることができるのだということが当たり前の感覚の社会でもあるでしょう。
「正義」が出たということは、表面的には厳しい状況、自律(自立)性、現実を直視することなどが表され、決断力、規則やルールが必要であることがうかがえるものですが、その奥底には、本当の価値を取り戻すための宇宙的(本来の霊的な普遍の)バランス復活のための、各々の気づきが示されているではないかと思えます。
これを「そうなっていく」という、受動的なメッセージとして受け止めるのもよいのですが、「そうしていく」という能動的で強い意志を持つほうが、実現力は高まるように思います。
今年は不穏なスタートではあるのですが、だからこそ、私たちが忘れていた本質の部分、隠されていたよい面がクローズアップされて、現実にも表現されていくものだと推測されます。
2024年は、まだ始まったばかりなのです。