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異世界転生ものの背景
私はアニメをよく見ます。
このところ、作品で目立って増えてきたのが、ライトノベルなどが原作の、異世界転生ものです。
たいてい、こちらの世界で不遇な身の上とか、ぱっとしない人生の者が異世界に転生し、無双するというパターンが多いです。
転生する時、転生者は以前の世界で暮らしていた内容を記憶し、さらに、その転生を司る神様のような存在が、転生者に特殊な能力を授けることも、お決まりです。
そして転生先は、なぜか中世ヨーロッパぽい文化(レベル)が多く、そこで現代人の知識がモノを言う(結局、主人公無双状態になる)ということもお約束みたいになっています。(笑)
このように、転生した主人公が苦労もなく、強すぎ、恵まれた人生を送ることがほとんどなので、転生ものは、現代人の現実逃避的感情が反映されたものとの批判も少なくないです。
確かに、このジャンルに限らずですが、アニメ全体が昔からよく言われるように、現実逃避的な傾向を持つのは否めないと感じます。
しかし、一概に転生ものの流行りが、現実逃避だという批判もどうかと思います。
作品は世相や時代を反映するものですし、もっというと、スピリチュアル的な目線では、大きな進化のうねり、宇宙的成長過程の一環ようなものも影響しているように思うからです。
漫画やアニメーションの分野は、イマジネーションの世界であり、そこには現実を超えたものも存在します。
時間的には、はるか古代から近未来、はては超未来まで表しているのがあるでしょうし、空間的にも、日本だけではなく、世界、そして宇宙、さらには多次元的な世界(宇宙)も表現されます。
言い換えれば、私たちの常識だと思っている現実の時空が超越された情報空間に接触しているのが漫画やアニメの表現だと、考えられるのです。
この意味では、非常にタロットと似ています。タロットも絵であり、イメージの世界と関係するからです。
私はたまたまアニメ好きな上に、(マルセイユ)タロットと深く関わってきましたので、超越的な情報がアニメにあふれていることに気づきました。
さて、話を異世界転生ものに戻します。
一見、安易な異世界転生ものですが、ここまで、テンプレ的な形で作品が数多生み出されている背景には、ずばり、今の社会の限界が投影されていると見ます。
異世界に転生して無双したいほど夢想(しゃれではありませんが)してしまうのは、それだけ現実生活・社会に希望が持てないからでもあるでしょう。
はっきり言えば、今の社会は楽しくない、苦しい、生きがいも感じられないのです。特に若者たち(年配の方もですが)が、どうしていいいのかわからず、混乱しているようにも感じます。
異世界転生もので、転生先に中世ヨーロッパぽいものが多いのは、もちろん、それがこうした作品のお約束(もとはゲーム世界からの引用と思われます)ではあるのですが、日本的な舞台だと日本人目線では異世界感がないのと、日本人は、中世ヨーロッパ(実際には近世に近いですが)の街並みとかお城が、(絵本などで)メルヘンチックにイメージとして刷り込まれているからだと想像されます。
当然ですが、いわゆる創作もので「異世界」ですから、実際の中近世ヨーロッパの文化とは別もので、都合よく、清潔化されていたり、魔法が当たり前のように存在していたりと、異世界転生ものならではのお約束、ご都合主義(苦笑)があります。
ただ、うがった見方ではありますが、深い観点からすれば、まず、近世からのヨーロッパが、大きく世界としての時代が変わってきた時点であり、現代社会の基礎となっている部分が色々と多いのも確かです。
となりますと、中世ヨーロッパという舞台が異世界転生もので選ばれるのも、単にイメージの刷り込みとかメルヘン的な意味だけではなく、現代につながる部分の変革前の時代であるからこそ、その時代に戻って、今の社会にならないように、変化のやり直しを行いたいという集合的心理が働いているようにも感じます。
転生ものには、イデアや理想が描かれる場合が結構あります。こちらの世界では不遇であった主人公が、転生先で力を得たがために、成し遂げたい、あるいはそいう社会で暮らしたいと思っていた理想社会のイメージを、少しずつ実現していくというパターンです。
それは人々の心や関係性に関わることで描かれ、本質的には文化レベルとか技術革新だけで生活が豊かになったり、人々が幸せになったりするわけではないことも表現されています。
転生する主人公は、一見、神様から特別な力を与えてもらったから、転生先ですごい人物になっていると思われがちですが、実際は、その人物本来の性格や行動力が発揮されて、尊敬を得たり、愛されたりしています。
こうした転生ものに、批判として多くあるのは、「環境が悪いから私は不幸なのだ」(言い換えれば、適切な環境・能力が与えてもらえれば自分は活躍できる、幸福になれる)という考え方を助長するというのがあります。
それは一理あると思います。自分自身を問題視せず、悪いことは他人や周りの責任にしてしまうという態度です。
ですが、たいていの転生ものは、お気楽なように見えつつも、先述したように、無条件で主人公たちが評価されているわけではなく、それなりの努力やアイデアの実行、本人の真っ当な思いも見受けられるものです。
責任転嫁の態度は自分の成長を阻害しますが、環境や社会自体が、自分自身を生きづらくさせるものであるのなら、自分のせいだけにするのもおかしな(苦しい)話です。
実際、私たちのいるこちらの世界、こちらの現実は、最初から理不尽なものと言えます。生まれた時から能力とか体力、家庭環境等、もしパラメーターで示されるのならば、一人一人本当にバラバラで、不平等極まりない世界です。
その中で、いわゆる普通の生活が過ごせ、幸せを感じるように生きるというのは、(便利さや技術は向上しても)時代が進化するほど難しくなっているように思います。
そうした中で、すべて自己責任の世界だと苦しいばかりですし、社会が変わる可能性が低くなります。また、時の為政者たちに騙され、奴隷扱いされていることにも気づきにくくなります。
私たちに今必要なのは、むしろ外(社会やそれを普通に思わる環境・システム)がおかしいことに気づくことではないでしょうか。
究極的には、すべてを自分に帰せるという考えもスピリチュアル的にはできますが、それは相当深い次元での話だと思います。
異世界転生もの(の流行)は、現代の社会システムによる生き方が限界に来ていること、もはや、それでは、ほとんどの人が幸せと感じることが難しくなっていることを示唆していると考えます。
想像できるものには、創造の元型があります。
もし、アニメで想像した世界が、よいものを示しているのなら、それは私たちの心の中に元が存在していることになります。
それに幸せや心地よさを感じるのであれば、私たちはどのようなものがよいのか、すでに知っているわけです。
マルセイユタロットで言えば、「愚者」が「世界」(のカードの境地)を目指しているかのごとく、異世界転生ものを表現することで、現実を超えた、言わば天上世界的な理想を思い出そうとしているのです。
マルセイユタロットでは、21「世界」のカードと1「手品師」のカード、最後と最初のカードが細かくリンクしあうようにに描かれています。
まさに天上から地上へ、その本質が降ろされているようにも見えます。
現状(現実世界)は「手品師」として、こうした実際の社会の表現がなされていますが、同じもの(それはタロット的に言うと四大元素)を使いながら、もっと変えることができるとタロットは語っているようでもあります。
異世界転生ものは、私たちに、魂の故郷を思い出させ、今の社会には問題があって、それを変容させるべき時に来ていることを、軽いタッチで表現している作品だと感じます。
ですから逃避的ではあっても、癒され、希望や勇気、愛をも不思議と想起させる作品が結構あるように思うのです。
「悪魔」の束縛と解放
今日はタイトルの通り、「悪魔」のカードから、束縛と解放について考えてみます。
なお、最初に、勘違いしないように強調しておきますが、束縛している「悪魔」からの解放という意味ではありません。それだと、「悪魔」は悪い意味だけになってしまいます。
「悪魔」というカードには、束縛と、その反対の解放の、両方の意味があることを述べたいわけです。
今回は悪魔とは何か?というテーマではありません(これはとても興味深いテーマではあるのですが)ので、悪魔自体への深堀りはしません。
その代わり、「悪魔」がもたらす、ふたつの矛盾する力にふれたいと思います。それが先述した「束縛」と「解放」なのです。
マルセイユタロットの「悪魔」は、二人の人物をつなぎとめています。そして、悪魔も、つながれた人たちも、皆笑っているところが注目されます。
ということは、この状態が三人にとって楽しいとかうれしいものであるように想像できます。ただし、「悪魔」は舌を出していますが、つながれている人たちはそうではなく、まるで悪魔を崇拝しているかのような、恍惚の表情を浮かべています。
このことから、悪魔とふたりの人物との間には、絶対的な力関係、言ってみれば「悪魔」の強大な力がうかがえるわけです。それでも、つながれた人は喜んでいます。
私たちが「悪魔」のカードを客観的に見れば、つながれた人物たちはかわいそうに見えますし、愚かにも思えます。それは悪魔に束縛されていると見ているからです。
けれども、「悪魔」は解放をももたらすと言えば、どうでしょうか。絵柄からは信じられないかもしれません。
一般的に悪魔は、神という善に対抗する悪い存在とかエネルギーと考えられています。
神と悪魔という絶対的な二元による対立、対比の構図では、そうなってしまいます。しかし、世の中、白黒はっきりとすべてが決まるわけではありません。いわゆるグレーゾーンもありますし、悪にも正義はあり、また正義が必ずしも善とは言えないでしょう。
一元や統合的な意味では、善も悪も、神も悪魔もない、そのように決まらない世界もあると考えられます。
マルセイユタロットの大アルカナは、もうかなり知られていることですが、数順に進化成長が行われるとか、統合過程を示しているとか言われています。
すると、「悪魔」は15番目に位置するもので、21「世界」のゴールの途中でもあるわけです。面白いことに、15「悪魔」の次のカードは16「神の家」となっていて、悪魔と神という名前がつくカードが、隣同士に並ぶ構造になっています。
つまりは、マルセイユタロットでは、二元対立は描かれていても、それが最終境地とか最高度のものではなく、あくまで過程に過ぎないことを示しているように思えます。
要は、マルセイユタロットの「悪魔」のカードは、一般的なネガティブオンリーの悪魔や、善なる神・至高神に反発したり、神を信仰する者を堕落させたりする存在ではない可能性があるということです。(そういうニュアンスがないとは言いませんが)
そこで、「悪魔」の解放(の意味)なのです。
マルセイユタロットでは、8の「正義」のカードより、「悪魔」のほうが、15という上の数になっています。ということは、「正義」よりも高度な概念が「悪魔」にはあるということです。
言わば、下手な正義思想よりも悪魔のほうがまさっていると言ってもよいのです。
下手な正義思想とは、自分の信じているものが絶対に正しいと思うような態度です。頑固な正義感と言ってもいいかもしれません。また(低次の)純粋さとでも言いましょうか。
正義は大切ですが、すべてのことが正しい、信じてよいというものでもないでしょう。
人の成長や意識の拡大には、実は疑いも必要だと考えられます。今の自分の段階では、正しいものと正しくないもの、あるいは善と悪とか、何かにつけて線引きしているものがあるはずです。
ただ、意識が拡大・向上したり、知識が本当の意味で増大したりすれば、以前の自分とは異なり、良いもの・悪いものとの線引きは消え、もっと包括的に、大きな目で見ることが可能になります。
ちょうど、小さい頃信じていたものが、大人になれば裏も表もわかって、単純なものでは見られなくなるのと似ています。
この意識の拡大に、「悪魔」は効果的に働くのです。まず、「悪魔」の象徴による「疑い」とか「抵抗」というものが(意識に)現れます。
これは本当に正しいのか? ほかの方法とか裏の理由があるのではないか? これに従うことはよいことなのか? あの人・あの組織に従ってきたけれども、それで本当によかったのか? このルール・規則は守るべきことなのか? 自分の本当の気持ちはどうなのか? 常識と非常識の境目は?…など、こうしたものが自分の中に湧き起こり、それを支援する力が「悪魔」のパワーと言えます。
体制を疑い、破壊をも辞さない勢力は、体制を守りたい側からは「悪魔」とは呼ばれることはよくあります。
自分一人の中でも、これまでと変わらない自分と、変わりたい自分とが葛藤することがあります。悪魔は、その両方への力があります。
しかし、その本質は、「自由」がテーマと言えます。なかなかわかりづらいかもしれませんが、(マルセイユタロットの)「悪魔」が表す本質は、「自由」への希求と個人的には考えています。
自分がいかに自由でいられるか、これによって「悪魔」は、破壊者側にも保守側にも回る気がします。
ただ、「悪魔」の自由にも限界があり、さらに自由になるには、それこそ「神の家」の段階が必要だとも言えます。
それでも、「悪魔」によってもたらされる自由は、それまで束縛されていたものからの解放でもあるでしょう。言い換えれば、下手な正義から混沌(疑いや葛藤)を経て、次の自由を獲得するための力です。
自分よりもっと自由で魅力的な人がいる、それは自分が自由になるためのモデルでもあります。そういう人に魅かれるのも、ある意味、当然と言えます。
しかし、そうしたモデル(つまり「悪魔」)によって解放された自分も、あまりにモデルを絶対視すると、そのうち、モデルによる束縛が生じます。
たとえモデルの人が縛ろうとはしていなくても、自分自身が自らを縛ってしまうのです。簡単に言えば、理想が崇拝になり、その幻想に囚われるのです。
本当の善的なものと、疑いなき心というのは似ているようで違います。自分が、誰かや何かを崇拝するようになることは、まったくの疑いを知らない子供のような幼さに堕してしまうことでもあります。
皮肉なことに、神に疑いを持つのが悪魔なので、悪魔はまさに矛盾する存在として、純粋な心に濁りを与えつつも、ひとつの教義や思想に染まり過ぎることから、救いももたらします。
こうして、「悪魔」は私たちに、解放、そしてまた束縛を与え、次なる解放のための(真の、あるいは自身の中にある)神の力を入れる(起動させる)準備を行うのです。
「法皇」と「隠者」その存在
マルセイユタロットの大アルカナを見ますと、似たようなカードがあることがわかります。
その中で、今日は、教えるとか伝えるということで、似たカードを取り上げたいと思います。
端的に言えば、それらのカードとして、「法皇」(一般的には法王とか教皇とか呼ばれていますが、キリスト教のその立場の者ではないと考えられるので、あえて違う呼び名をしています)、「隠者」があげられるでしょう。
ほかにも、告げる・話すというテーマを含めますと、「恋人」とか「審判」、それに「太陽」なんかも人物が複数いる画像ですので、何か告げている、語っていると見ていいかもしれません。(もっとも、すべてのカードが、何かしらを私たちに伝えているということでは、全部が当てはまるわけですが(笑))
実は、それら三枚、特に「恋人」と「審判」については、伝える・告げるの意味で、とても深い内容を示すことができるのですが、それはまた別の話として、本日は、「法皇」と「隠者」での話とします。
「法皇」と「隠者」、先述したように、“伝える・教える”のテーマでは共通していると言えます。
しかし、たとえ同じようなテーマで見たとしても、どのカードもまったく同じ図像(画像)というものはありません。
その違いこそが、細かな意味の違いにもなっています。
言わば、(同じと見る)テーマは「あり方」であり、カード同士の絵柄の違いは「やり方」でもあると言えるでしょう。
「法皇」と「隠者」でも、伝えるというあり方は同じでも、その伝え方(やり方)が異なるわけです。
タロットのよいところは、絵なので、絵の違いを視認することができるという点です。口で説明されるより、文字通り、一目瞭然なのです。
だから、タロット理解の基本は、その絵をよく観察することから始まります。
「法皇」と「隠者」の絵を見て、違いを確認してみますと、やはり場所と人数の差がわかります。
「法皇」では、中心は法皇自身ではありますが、法皇の話を聞きに来ているような人たちも描かれています。一方、「隠者」はただ一人です。
場所も、宗教施設(教会)のような公会堂的なところで描かれているのが「法皇」ですが、「隠者」は場所は特定できず、背景がないと言ってもいいくらいです。
ここから、「法皇」は実際の人間のいる場所、多くの一般的な人々に語っていたり、伝えていたりするのがわかりますし、反対に「隠者」は、その名の通り、隠れた者(場所)で、伝えようとしている対象者も定かではではないという雰囲気が見えます。
法皇は確実に人間でしょうが、もしかすると、隠者は通常の人間ではない存在ということも考えられます。隠れた者という名前からしても、隠者は私たちの目には見えない存在なのかもしれません。
タロットはいろいろな解釈方法があり、例えば、すべてのカードを現実性に置き換えることも可能ですし、逆に、現実を超えるイデアとかイメージ、形而上的世界や見えない領域(物質次元を超えた世界)を表すこともできます。
その意味で、隠者を実際に存在する人物と見れば、孤高でその分野の深い専門知識(あるいは技術)を持つ者と解釈できます。
しかし、違う見方をすれば、やはり、人間を超えた存在という解釈もできるわけです。
そうすると、法皇が人間レベル(実際の人間)での先生とか伝道師を表すのに対し、隠者は見えない世界や高次の、人間を超越した存在の教師ということを象徴している可能性があります。
タロットの学びにおいて、そういう、ふたつの教師・伝達者が必要であることを表しているようにも思います。
いや、そもそも、私の考えるタロットの学び(目的)自体が、人の霊的向上、覚醒(思い出しでもあります)にあるとすれば、すべてのことにおいて、ふたりと言いますか、ふたつの異なる次元からの先生がいると言えるのかもしれません。
そして長年、マルセイユタロットを教えている身の上としては、自分自身が「法皇」の立場になったとしても、「隠者」から教えられること、伝えられることを常に意識せよという教訓のようにも感じられます。
法皇は一般レベルからすれば、その道の先生かもしれませんが、しょせんは人でもあります。ですから、法皇と言えど、まだまだ高いレベルから見れば、未熟者で初心者みたいなものです。
実は、隠者世界から見れば、マルセイユタロットの「手品師」なのかもしれません。ローマ数字も、「法皇」は5であり、縦棒が重なる並びの4から「V」の字になって、新たな段階であるのがわかります。
またローマ数字的暗号で見れば、次の6「恋人」から5に1(Vに縦棒)が加わっているので、本当の意味での次の始まりは「恋人」からとも言えます。
ここがまたマルセイユタロットのすごいところですが、事実、「手品師」と「恋人」は似たような絵柄の表現(詳しくはあえて言いません)が見られ、意図的な配置だと考えられます。
話が少しそれましたが、現実に先生の先生(先生を教えた先生)も人間として存在しますが、「隠者」の場合は、人間を超えた教師を象徴することがあるというわけです。
「隠者」は「斎王」(通常は女教皇と呼ばれるカード)とも関係し、例えば、教える・伝えるという本日のテーマでは、斎王からいきなり隠者に飛ぶ(逆を言えば、隠者から斎王に降りる)教えられ方、伝えられ方もあると考えられます。
斎王は女性(性)ですから、女性(性)は、見えない領域の教師からダイレクトに教えられることが、比較的容易なのかもしれません。
一方、男性(性)である法皇は、隠者から受け取るには、何らかの装置とか儀式が必要な気もしますし、斎王を通して、隠者と接触、もしくは隠者レベルの発動が起こることも想像されます。
ただ、人間の世界で生き、その世界での伝達、教育をわかりやすくして行くならば(あるいは学ぶのならば)、法皇の存在や段階は重要なものであり、法皇によって、まさに実際の理解が進むことも、タロットからは言えるでしょう。
(人間の)先生やテキストがなくても、隠者的レベルからの示唆と学びは可能かもしれません。
しかしながら、人間世界での学び、また、自分が普通の人間の状態からもっと成長していくためには、「法皇」に象徴される人間の先生(実際の教師、人間としての先達)、教えられる場所(学校など)、一緒に学び生徒たち(クラスメートや同志)、一般化された教書・テキスト(これは本を持つ斎王の範囲かもしれませんが)がいるということも、それこそ“教えられている”気がします。
そのうえで、隠者的、人間を超えたレベルの何か(存在だけとは限りません)からの教示があるのでしょう。
法皇は人間世界の人物なので多種多様、かつ、たくさんの人がいるでしょうが、おそらく隠者は、極めて限られた存在しかいない(特化した存在)と想像できます。
法皇は一般化・普遍化・平行方向とも言えますが、隠者では、個別化・特別化・上下方向だと考えられますので、なおさらです。
そうしますと、「法皇」を無視しての「隠者」へのコンタクトは、混乱(非体系化・混沌・独善)の危険性がありますので、やはり、「隠者」の前に「法皇」というマルセイユタロットの並びは、正しい道(王道)なのかもしれません。
完全性・不完全性・中間性
時期的に同じようなことを思うのか、不完全性と完全性について書こうかと考えて、ふと昨年の12月の記事を見ますと、すでにそれについて書いていたものがありました。
ということで、昨年のものを再度紹介しつつ、補足したいと思います。
去年の記事の前文は省いたほうがよいので、あえて文章を掲載し直します。
●昨年の記事
『さて、スピリチュアルの話では、人の完全性を説くものがあります。
一説では、マルセイユタロットも、それを示していると言われます。
ただ常識的に考えて、人はとても完全な存在とは言えません。肉体は弱いですし、精神・メンタルも波があります。
人が完全であるのなら、なぜこのように悩みや争いも多く、皆が幸せな世界になっていないのか?ということです。
それに対してグノーシス思想では、この世界は神ではなく、悪魔が創ったからという神話さえあります。
この「神」というのを完全性に、「悪魔」を不完全性に置き換えると、結構、グノーシス神話の語るところが面白くなってきます。
結局、私たちは不完全性を持つからこそ、人間であり、現実という世界に存在することになるのだと思います。
だから、むしろ、完全性をいい意味であきらめるというのも、現実の世界を生きる上での、ひとつの過ごし方・考え方ではないかと考えます。
不完全性・悪魔性を受け入れる姿勢といいましょうか。
実は、タロットの大アルカナはそれを表しているところもあるのではないかとも思っています。
本当のレベルでは、私たちは神であり、完全なる性質を持つものの、その次元にいるのではなく、不完全性がデフォルトである世界に住んでいるわけです。
不完全さは、ペルソナ(仮面)状態と言え、その付け替えも許されているのが現実世界であり、大アルカナはそのペルソナの特徴と、うまい使い方をも表していると目されます。(小アルカナとの併用で、さらに具体化できます)
ただ重要なのは、完全性のある前提で、不完全性を活用するということです。
完全性を無視して不完全性を許容すると、その行いは、不完全世界を理想としたものなって、平たく言えば、その場限り、刹那的、損得勘定的な生き方になってしまうということです。
それは霊性なき活動、肉体衝動中心と言ってもいいです。
ですから、大アルカナ全体で完全性を意識しながら、現実世界では、全部あるから私は完璧だと超然(天使性だけの純粋性に浸るとか、生悟りのような姿勢でいる)とするのではなく、不完全性世界の中にいて、自分も自我的に不完全であることを認めて、大アルカナ一枚一枚を象徴としながら、時と場合による自分に変化させながら生きていくという態度が必要という話です。
完全であるからこそ不完全を知り(知ることができる)、不完全であるからこそ、完全を想うことができる(完全性に恋し、向上できる)わけです。
よく人と比べるから苦しくなると言われますが、上記観点を持てば、人と比べるのがこの世界では自然で、そこに実は壮大な完全性への想起が仕掛けられているというのが、本質的に面白いことなのだと気づくでしょう。
ということで、何かができなくてもいいですし、できるために努力することも、またすばらしいことになります。
そのままでいい(と思う)人はそのままでよく、改善したり、もっと言うと改悪したりしても自由なのが、不完全世界でもあるのです。』
▼ここから補足です。
マルセイユタロットの構成では、全体的に三つに分かれ、さらに詳細にすれば、四つや、もっとたくさんの数にも分かれると考えられます。
しかし、ここでは「3」と「4」を基本とします。
今回は人間の完全性と不完全性、言い換えれば、神性と人間性(悪魔性とか、神性以外のほかの部分を含む)の違いがテーマなので、それをもとにした分け方で考えます。
「3」の場合、神性、人間性、そしてその中間性として分けられ、「4」の場合は、「3」に、人間より低次の世界とか階層を加えたものとすることができます。
ですが「4」はまた、元型的なもの、設計的なもの、形が作られていく状態のもの、実際(現実)での活動が行われる世界や状況というような、世界観や次元で表すこともできます。
とにかく、人間には、単純に人間としての部分と活動があるわけではないということです。
マルセイユタロットの「恋人」カードは、これをよく表現しいると言えます。
恋人という名前がついていますが、人は人間同士や現実世界での恋をするだけではなく、天上への恋もあるのです。この恋というのが、思考であり、志向であり、嗜好とも言えます。
人間世界での恋も、天上世界への恋も、人間であるからこそ、不完全な部分を補うために、自らが起こしているのかもしれません。
不完全を補うというのは、つまりは完全になりたい、戻りたいという思い(反応・衝動)です。
完全性は神性でもあるので、要は、神になりたい、あるいは、もともと神(完全)であるのなら、それに還りたいというようなことにもなります。
しかし、完全であると、まったく動きがない状態とも言えますし、違いが見えない世界になります。ひとつだけの世界と言ってもよいでしょう。
そうすると、おかしな(とても人間的な)表現になりますが、神性側も人間側(人間次元)に恋をすることになるのかもしれません。
要するに、変化ある世界、違いある世界体験への望みです。
そうして、私たちはまた神から人間へと次元転換するのでしょう。(あくまで説や物語として聞いてください)
ところが、人間になったらなったで、不完全な思いに苛まされます。人やモノと比べ、悩みがつきません。
それは差異があってのものであり、それこそが豊かさを実感する原因なのですが、逆に不足や貧しさ、苦難をも感じさせるものにもなっています。
「恋人」カードの人間たちが迷っているように見えたり、人を取り合ったりしているように見えるのも、こうした状況をよく示しているように感じます。
一言で言えば、人間世界の苦しみは、すべて不完全性への思いから来ていると言え、それは、完全性を知っているから起こるものでもあります。
従って私たちは、悩み・苦しみが起きる時は、完全性とよくリンクしているのだと言い換えることができまます。
むしろ、何も問題がない、順調(過ぎる)というのは、不完全なのに完全であるという幻想に浸っているか、騙されているかの可能性もあります。
常に問題や悩みあってこそ、私たちは天上(神)とつながり、それを想起させたり、霊的な向上(霊性の回復)を進展させたりするのだと言うことです。
単に苦しみの中だけにもがいていては、人間性やそれ以下の次元で停滞し、固着することになり、それこそ、永遠に不完全性の世界に閉じ込められる精神にもなりかねません。
神に祈ることは、神に救ってほしいという思いもあるかもしれませんが、おそらく、マルセイユタロット的な指針からは、自分の天上(神性)由来を思い出し、そのリンクを強めることにあるように思います。
そうすることで、一時的な人間性・不完全性を楽しんだり、楽しめないにしても、崇高な目的を思い出して、生きがいをこの現実世界においても見つけることができたりするようになるかもしれません。
幸い、マルセイユタロットの教えでは、天上と地上、神と人間との間を取り持つ、天使(性)が存在する言われます。
この天使的(中間的)意識と活動が、非常に重要ではないかと思います。
いわゆる羽の生えた天使がいるというのではなく、あくまで象徴として考え、自分にも他人にも天使的な役割を持つ部分があり、それを認めるということになるでしょうか。
それは端的には、カードでは「節制」で表されるものです。
人間だけでは弱く、不完全なものなので、すぐに(悪魔的とも言える)誘惑や、過剰な自我(エゴ)の欲求に流されてしまうこともあります。それは高いレベルから見れば悪いことでもなく、もともとそうした経験も欲していたのかもしれません。
しかし、そこに中間の天使性を入れることで、私たちは必要以上に地上性や悪魔性に浸ることから救われる可能性があります。一人ではなく、天使とともに協力するからこその安心感や救済です。
いずれにしても、実は人間も天使も、悪魔も神も、すべて自分自身であるというのも、マルセイユタロットから見た話であり、壮大な自作自演の世界の劇をしていると言えば、その通りなのかもしれません。
それでも、人は最後のカーテンコールを目指し、決して無駄でない成長の物語を続けているのだと感じます。
タロット内の区別とレベル
タロットの種類は、今では数えきれないほどあると言われます。
しかし、古典的と言いますか、昔からあるタロットは、78枚を一組にして、大アルカナと小アルカナというパートにわかれた構成になっています。
正直言いまして、個人的には、この構成になっていないタロットは、タロットとは言えないものと考えています。
いや、この構成からはずれる古いタロットも多いので、そう言ってしまうのも問題かもしれないのですが、あくまで「象徴システム」として使うタロットという意味では、と断っておきましょう。
さて、先述したように、タロットの中には、大と小のアルカナという、一組の中でも、一種の異なるカード同士が組み合わさっているわけです。
当然、そのふたつの違いも出てきます。一般的なタロットリーディング・占いにおいては、この大アルカナと小アルカナを、やはり区別して読むことが多いです。
たいていは、大アルカナが全体的なこと、本質、方向性などを表すのに対し、小アルカナは具体的なこと、現実的判断、詳細な方法などを示すというようにされています。
ただし、流派とか先生によっては、そのような分け方ではないこともあります。
今回のテーマは、大アルカナと小アルカナの違いということではなく、それも含めての、タロット一組の中での差異とか区別のことなのです。
私の扱うマルセイユタロット講座では、カードに良いも悪いもなく、すべて平等の価値で見ていくことを勧めています。
それでも、大アルカナと小アルカナの区別はします。
とは言え、よくあるような単純な区別ではなく、大アルカナと小アルカナの密接な関係性と、そのレベルや次元をきちんと説明しての区別なので、私の講義においては、この両者の使い分けとか扱い・読みに、受講者の方が、その考え方において混乱することはないです。
巷では、特にマルセイユタロットの小アルカナの扱い、読みが雑なところが結構あるようで、そもそも小アルカナが教えられなかったり、ほとんど使う必要がないと言われたりすることもあるようですが、それは非常にもったいない話です。
それはともかくとして、特にマルセイユタロット以外のタロット種では、大アルカナ・小アルカナの違いだけではなく、例えば、大アルカナ中においても、カードの良し悪しとかクオリティを区別してしまうケースが見受けられます。
それが悪いわけではなく、むしろ良いこともあります。何事も両面あるものです。ですから、逆を言えば、良いこともありますが、悪いこともあります。
よくあるのは、大アルカナカードに吉凶の色付けをするものです。簡単に言えば、「これが出るとよい意味、これが出ると悪い意味」というような、おみくじ的なカードそれぞれを区別する見方です。
確かに見た目的に、怖いカードもあれば、明るくなるようなポジティブなカードもあるので、そうなってしまうのもやむを得ないところでしょうし、タロットは絵のカードなのですから、ある意味、感性に素直(正直)な見方なのかもしれません。
また、こういう区別をすれば、とてもカードの解釈がわかりやすくなるという面があります。質問に対する答えとして、いい・悪いが一目瞭然だからです。
しかしながら、「物事の良し悪し」を問う質問にはいいかもしれませんが、事態の改善(解決)や、本質的な答えとか意味を見出そうとする時、もっと言えば、霊的な成長を求めようという場合には、かえって答えがわかりづらくなるという欠点もあります。
「どうすればいいか?」の質問に、それは悪いです。それはいいです。の答えのパターンでは機械的で困るわけです。
まあ、自分が改善策をいくつか案として持っておいて、それを次々とカードに良し悪しで問うていくという方法ならば、答えが出ないわけではないかもしれませんが。
ですが、そもそも改善策とか解決策の案が思い浮かばなかったら、良し悪し判断を問うことすらできません。これが大きな問題と言えましょう。
それに、極端に言えば、吉凶・良し悪し的には、別にタロットでなくてもよく、数個の棒とか、コインの表裏とかでも占えないことはないです。
せっかく大アルカナだけでも22枚もあるのですから、これに吉凶的な価値をつけてしまうと、22もの良し悪し判断があるということで、複雑すぎて使いにくくもなりますし、吉凶だけに使うのは、カードの持ち腐れ(笑)と言ってもいいでしょう。
まあでもゲーム的に、例えばよく言われるような、16番「塔」とか13番「死神」(マルセイユタロットではそういう呼び名はしませんが)とかのカードが凶札だとすると、たった二枚の凶札を、22枚の中からわざわざ選んだということは、相当恐怖の代物になって、占いとしてはインパクトがあるかもしれませんね。
エンターテイメント的なホラーゲームならいざ知らず、怖がらすためにタロットをやっていては、あまりいい使い方とは言えないように思います。
それで、こういう吉凶的な区別ではなく、レベル(と言っても、これも単純な高い低いというわけではないのですが)で分ける方法もあります。
よく知られているのは、大アルカナの場合は、数が増えるほど高度なレベルになっていくというもので、小アルカナも宮廷カードと数カードにおいて、レベルの順をつけていくことがあります。
この場合、注意すべきは、吉凶(良し悪し)とレベルの順は異なる概念だということです。これを一緒にしてしまう人がいるので、問題なのです。
レベルが高いと言っても、決して悪いという意味ではなく、その反対に、レベルか低くても、悪い・凶的な意味ではないのです。
人間とか世界(宇宙を含む)には、様々なレベル・次元があり、確かにその高い低いはあるとは考えられますが、レベルに応じた状態ということもあり、その差があり過ぎると、かえって害になったり、受け入れられなくなったりするのです。
言わば、本人や状況に適切なレベルがあるということです。
タロットカードの大アルカナと小アルカナの区別も、実はそうしたレベルの違いとも言え、そして今述べたように、大アルカナの中にも、小アルカナの中にもレベルがあると考えます。
そして、他人へのリーディングや、自己の活用において、そのレベルを意識する(設定しておく)ことにより、うまい使い分けや応用が可能になるのです。
病気治療でも、劇薬もあれぱ、穏やかに効く薬もあります。それはその人の体力とか状態、環境などによるでしょう。
同じように、ある問題とか課題があるとしても、それは人それぞれに対応が異なってくると考えられます。
その一つが、タロットのレベルの違いを考慮するということなのです。ですから、カードは普遍的でありながら個別的でもあるのです。
たとえ、全く同じカード、展開が出たとしても、人や状況によって読み方・とらえ方は異なります。
ただ、レベルというものがわかっていないと、それもうまくできません。
タロットを手にしたあなた、あるいは、これから学ぼうとするあなたは、タロットを吉凶おみくじ的に、物事の良し悪しを見る道具にしていくのか、様々なことに活用できる優れた象徴ツールにしたいのか、考えてみるとよいでしょう。
私のところの講座は、もちろん後者です。