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マルセイユタロット、感情とフォース

マルセイユタロットの絵柄は、ほかのタロットと異なり、比較的シンプルと言えます。

ですからあまり芸術性もなく、絵の不思議さや美しさにひかれるという人は少ないでしょう。

ですが、これもあえてそうしていると考えられるところがあります。それは、シンプルなゆえに、普遍性が高まっていることがあげられます。

言い換えれば、マルセイユタロットを見る誰もが、カードそれぞれに同じようなもの感じたり、とらえたりする可能性が高いのです。

ユング的に言えば、人間の(思う)元型がマルセイユタロットにはあるということです。

そういう意味からも、心理的にマルセイユタロットは活用できます。特に、自他の感情や、自分でも気が付かない潜在的な意識について、タロットを使って浮上させることができます。

感情的なもの、潜在的な意識というのは、なかなか普段自分でもわからないものです。それは目に見えない領域だからで、言語化するのにもぴったりするものがなく、なかなか困難です。

マルセイユタロットの「月」が示すように、感情は人にとって意外に大きな影響を及ぼしています。

もちろん、気持ちですから、コロコロとその都度変わっているわけですが、おそらく強い感情や、長く同じ気持ちになっている時は、心の中にデータのように刻み込まれてしまうものと考えられます。

この点も、まさにマルセイユタロット「月」のカードの、水たまりとザリガニに象徴されているかもしれません。

これが「力」のカードで表現されている、その名の通りの「フォース」(フォルス)というものに影響を与え、フォースが現実を作り出す要因(材料のようなもの)となって、私たちの前に(自分の世界として)現実化します。(ただし、あくまで自分のフォースの範囲でということで、自分が創り出す自分の世界という感じとなります)

感情や心が、行動などに実際に影響することは心理(学)的に言われていることですが、マルセイユタロット的には、そこにフォースが介在していることが重要だと、個人的には考えています。

いずれにしろ、フォースに影響する感情のデータは、悪い(影響の)ものになっているのなら、何らかに変質させる必要が出できます。

まず大事なのは、潜在化したものを顕在化することです。要は、自分の隠された気持ちとか感情を発見する、自覚するということですね。

これには、言語というものを利用することができます。言葉は思考と結びついており、タロット的に言えば、感情としての「水」のとらえどころのない世界を、「風」による思考で浮上させるような働きになります。

例えば、もやもやした気持ちを言葉に表してみることで、「自分はこう(こういう気持ち)だったんだ」と囚われの感情の気づくことができるわけです。

それが先述しように、普通、なかなかぴったりな言葉にすることは難しいのです。

しかし、マルセイユタロットのカードの絵柄を使うことで、次第に感情が浮かび上がり、覚えたカードの象徴の意味とともに言葉も当てはまってくるようになります。(もしくはタロットリーダーが、クライアントにふさわしい気持ちの言葉を、その出たタロットから導き出してくれます)

これは、マルセイユタロットとの、特に大アルカナが人の意識のパターンを表していると考えられるからで、最初に述べたように、誰にも当てはまる感じ方のような型がそれぞれのカードにあるため、その元型を汲み取れば、その人の感じている、あるいは潜在している感情というものを指摘することが可能だからです。

そうして、自分の潜在的、またはフォースに強く影響を及ぼしている感情に気づけば、それだけで解放につながり、フォースの正常化の可能性も出ます。

西洋でも、悪魔の名前を指摘することができると、その悪魔は立ち去るという話があります。これは言わば、(自分を苦しめている)感情を言葉にして、こちらがコントロールできるようにするような例えとも言えます。

こうして、悪魔となっている感情を、天使や神に換える(聖なる浄化を行う)わけです。

この時、しかもマルセイユタロットでは、絵柄的に実際に天使や、神に関係するカードが存在しますから、絵の力とイメージによる変換も可能です。

ビジョン・イメージも、言ってみれば見える世界と見えない世界をつなげるものであり、気持ちや感情を変化させるのに有効なものです。

それから、フォースの意味で重要なのは「状態」です。これが言葉とリンクしていくとさらに効果的なものになります。

例えば、言葉と真反対の状態にある時、人は矛盾を感じて、その言葉の内容を実現することが難しくなるでしょう。

経済的にとても不安があるのに、「私は裕福だ」と宣言するようなものです。また、「ありがとう」と何回言っても、実際に「感謝する」という気持ちの状態になっていないと、その効力は薄いと言えましょう。(まあ、言霊として、言葉の力もあるにはありますが)

従って、フォースを正しく機能させるには、やはり(自分に正直な)感情・気持ちが大切と言えます。感情が望む状態になるよう、感情自体を浄化したり、整理したり、希望の方向の気持へ転じていく手段を講じたりする必要があるというわけです。

それに、マルセイユタロットのカードたちが使えるということです。

マルセイユタロットの「力」のカードが表す「フォース」を、どう感情と切り離したり、融合させたりするのかが、自分を生きやすくするための鍵と言えるかもしれません。

「フォース」の扱いについては、これもまた小アルカナ的な4つの視点があるのですが、それはまたいずれお話できればと思います。

ともかくも、お勧めは、まず大アルカナを使って、自分の気持ちを確認すること、それを言語化することを述べておきます。


タロット、一枚引きあれこれ

タロットを習いますと、一枚引きという技法が伝えられることは多いかと思います。

一枚引きとは、そのままの意味で、一枚カードを引いてリーディングしたり、メッセージを受け取ったりする方法です。

たった一枚なので、情報量としては最少ですから、意外と解釈は難しいです。

むしろ、カードがたくさん出るほうが、いろいろとシンクロも傾向も判断できるので、普通に他人にリーディングする場合は、カードは三枚以上は出したほうが読みやすいでしょう。

ということで、一枚引きというのは、実は自分用に使うほうがいいと言えます。

自分用に活用とした場合、それでも様々な目的に分けられるのですが、一枚引きの場合、大雑把に言えば、リーディングの訓練と、自分向けのメッセージ・示唆として行う目的とのふたつがあげられるでしょう。

まず、リーディングの訓練ですが、これは私の初級的な講義でも述べていることですが、初心者がタロットになじむために行うものと、リーディングを向上させるたの技術的トレーニングとして行うものとの区別が必要です。

一枚引きだから読むのは簡単なだろうと思われがちですが、先述したようにたった一枚なので情報が少なく、それだけに解釈に迷うこともよくあります。

タロットリーディングの学習にと、一枚引きから始めたり、指導されたりすることは普通ですが、初心者がいきなり一枚を読もうと頑張っても苦労します。

それよりも、初心者が一枚引きでまず行うことは、タロットそのものに慣れること(慣れるために引くこと)です。

タロットというものを味わい、カードの手ざわりを感じ、表返した時に感じる印象、雰囲気などもつかむようにします。

小アルカナで言えば、玉(コイン)→杖(ワンド)→杯(カップ)という流れです。そのうえで、最後に意味や内容を解釈する、いわば「剣」(ソード)」の段階に移行させます。

一般的にこの逆の順になることが多く、初めから知性・言葉・意味・論理で解釈しよう、当てはめようと一枚引きを行うと、余計、わけがわからなくなるおそれがあります。

現代人は「剣」の分野から始めることに慣れており、いわゆる頭(暗記や思考)から入る学びが中心になっています。

それも悪くはありませんし、学習の王道でもありますが、こと、タロットに関する場合は、小アルカナの4組で例えられる、ほかの「剣」以外の分野によってタロットを知ることも重要なのです。

それはタロットが精神や霊的な向上・探求のツールでもあるからで、言ってみれば、生物的な、いやもっと言えば人間的な扱いによる理解も必要だからです。理解というより、交流というのに近いでしょうか。

人を理解・信頼するのでも、理屈や損得ばかりでは相手に嫌われますし、本当の理解・信頼にはつながらないものです。

「同じ釜の飯を食う」という表現もあるように、体感であったり、手にして一緒に過ごす感覚だったりで、タロットと自分とが結びついて来て、それが読みのセンスにも活かされてくるのです。

ということで、タロット学習初心者は、一枚引きにおいても、その引いた一枚をむやみに意味的に解釈しようとず、手に触ったり、絵柄の雰囲気を感じたり、シャッフルして楽しんだりするなどてして、タロットと交流することを、まずはしてみたほうがよいでしょう。

そうしてだいぶん慣れてきた、タロットと親しくなってきたと感じた時、いよいよ意味的な解釈に移りましょう。

そうすると、覚えたカードの意味とはまた違ったものも出て来るはずです。でもそれが、タロットからのあなたへのメッセージということも多々あるのです。これは、タロットの絵の象徴の働きでもあります。

ところで、一枚引きのリーディングの訓練の方法にはいろいろとあります。

ポピュラーなものでは、何かテーマとか問いを決めて行う方法がありますが、問いを何も決めずに引くやり方もあります。

どちらにしても訓練としての良し悪しがあるので、どちらかだけに偏らず、両方行ってみるとよいでしょう。

また異色なものでは、天気予報を一枚引きでするという方法があります。

これが結構曲者で、頭で意味を解釈する傾向にある人は、なかなか天気を読むことは難しいでしょう。(笑)

この訓練は、まさにタロットというものは絵が中心であり、文字的な言葉てはないことをわからせてくれます。

それからよくあるのが、「今日一日のテーマ」として引くというものです。

漠然とした「一日のテーマ」とするのもよいのですが、もっと絞って、「今日仕事で気をつけることは何か?」とか、「今日の楽しみ(と思ったほうがよいこと)は何か?」「今日はどんなことを課題にして過ごせばよいか?」のような感じにして、タロットを引いてみるのもありでしょう。

学習の初級においては、タロットへの質問は具体的にしたほうが答えも探しやすく、そのまま回答も具体的になりやすい傾向があります。(中・上級になってくれば、むしろ質問・問い自体にあまり意味を持たなくなってきますが)

とは言え、一日の始まりは何かと忙しい人がほとんどでしょうから、逆に一日が終わる夜に、落ち着いた時を選んで引いてみるとよいでしょう。

その場合は、「今日はどんな一日だったと認識すべきか?」とか、「私にとって振り返るとよいものは何か?」とか、別に明日への問いでもよいので、明日に対する何かを問いにして、タロットで引いても面白いでしょう。

大事なのは、しばらく同じようなテーマとか問い、あるいは行為で継続することです。

続けて行くうちに、いろいろなことを発見し、タロットとあなたのつながりもますます深まり、最終的には、カードを引く前に、すでにカードからメッセージを受け取っているような感覚まで出てきます。(人によりますが)

ほかに、トレーニング的には、大アルカナ一枚を引いて、その後小アルカナの4組と併用させ、それぞれ剣・杯・杖・玉の分野からその一枚(大アルカナ)を解釈するという方法も、小アルカナの訓練にもなってよいです。

特にこれは数カードが記号的な絵柄になっているマルセイユタロットにおいては、有用な訓練になります。

占いとして、一枚引きを行う場合、結局、その一枚が当たるかどうかという観点になりがちなので、一枚引きは占い目的でやらないほうがいいかもしれません。

吉凶占いで一枚引きを行うには、カードそれぞれに吉凶を決めて行くほうがやりやすいので、やっていくうちに、カードに吉凶ランクをつけてしまう癖がどうしてもつき、せっかく象徴としてのタロットの使い方があるのに、それがおみしくじ的なものになって、もったいないことになります。

ですが、人間の感情として、吉凶というのは怖いですが面白くもあるので(苦笑)、エンターテイメント、あるいは占い師になりたい人が修行として行う場合はありでしょう。個人的にはお勧めしませんが。

この場合も一枚引きトレーニングを重ねることで、タロットと事象の吉凶が結びつき、当てやすくなる可能性が高まると思います。

ただ、その吉凶解釈は、万人に当てはまるというより、そのタロットと関係のある(結びつきが強まった)あなた自身の価値観による解釈が中心となります。この辺りは難しい問題なので、またいずれブログ記事で書くかもしれません。

以上、一枚引きについて、ほんの一部ですが、特にこれからタロット学習を始めたい方向けに書いてみました。


ドラゴンボールとマルセイユタロット

アニメファンの私にとって、漫画家の鳥山明氏死去の報に衝撃を受けた矢先、声優のTARAKOさんもお亡くなりになるという、二重のショッキングな出来事があり、茫然としておりました。

とにかく、お二方のご冥福を心よりお祈り申し上げたいと思います。

鳥山氏の作品の「ドラゴンボール」については、特に40から60代の男性諸氏にとっては、日本の(世界においてもですが)かなりの数の人が何らかの形で接していて、皆さんに与えた影響力はすさまじいものがあったと思います。

ですから、その喪失感たるや、生半可なものではないでしょう。私も例にもれず、いまだ信じられない気持ちがあります。何か自分の生きてきた歴史の一部が抜け落ちような気分にさせられるのです。

一方、TARAKOさんは、アニメ「ちびまる子ちゃん」の声でおなじみであり、もはやサザエさん同様の国民的作品になっていることで広くその声は知られていることでしょう。ちびまる子ちゃんは、まさに年代的に私の小学生時代そのものに当たる(作者のさくらももこ氏と一歳違いです)ので、作品的に共感するシーンがたくさんありました。

TARAKOさんを知ったのは、「戦闘メカ・ザブングル」という作品(この作品はギャグテイストですが、設定的には深いものがある作品で、あのガンダムの富野氏が手掛けています)で、チルという少女を演じられていたのが最初だったと思います。デビューはそれよりちょっと前らしいですが。その特徴的な声優名と、独特の声からとても印象的だったのを覚えています。

鳥山氏もTARAKOさんもまだ60代と、お亡くなりになるお年ではありませんので、非常に驚いております。

さて、鳥山氏の作品の代名詞とも言える「ドラゴンボール」ですが、この作品は西遊記をモチーフに、初期の頃は主人公たちの冒険、その後はバトルものに変わっていきました。まあ、その変化は掲載されていた少年ジャンプの宿命でもありますね。

私自身、少年・青年期の頃は「ドラゴンボール」も、バトルものの時代が好きで、読みながら興奮しておりましたが、今となっては、むしろ初期の冒険メインの頃のほうが懐かしくもあり、また純粋さがあって味わいがあるように感じます。

実は、ドラゴンボールは、もとが西遊記なこともあるのか、マルセイユタロット的に見ても、興味深いところがあります。特に錬金術的なものとリンクするところが結構あるように思います。(西遊記自体、中国的な錬金術や、仏教的な悟りのための象徴的な話だと言われています)

まず、何と言っても、ドラゴンボールのタイトルの由来になっている7つの玉(ボール)、そしてその玉を全部集めると願いをかなえるために現れるドラゴン、シェンロン(神龍)が登場するという話です。

ドラゴンは、よく秘術的な世界で象徴される生き物です。西洋的ドラゴンと東洋的龍では違いが結構ありますが、ただ、共通しているのは、何らかのエネルギーの象徴ということです。

それは大地のエネルギーであったり、錬金術によってやがて金へと昇華していく物質の変化の例えであったりします。また、人間がコントロールしなければならない荒ぶるもの、本能的な衝動とか欲望なども表すことがあります。

西洋でも聖人とか騎士が、ドラゴンと戦うという話はよくあり、ファンタジー世界では、強大な力を持つ種族としておなじみです。

そして、7つの玉は、7という数と玉という暗示があります。玉は東洋の龍ではセットになっているもの(この場合は「ぎょく」ですが)で、龍にとって非常に大切なもので、それは宝であり、なおかつ、魂とか本質に近いものと言えます。

ちなみに、私自身は辰年生まれで、スピリチュアルな鑑定を受けると、不思議と龍に縁があるとよく言われるのと、自分自身が龍だったような時代があるようで、その時に、大事な玉をなくしてしまい、いまだその影響が私の記憶にあるということを言われたことがあります。(もちろん、そのまま信じているわけではなく、自己における象徴的なものとしてとらえています)

龍の玉は仏教的にも如意宝珠とも言われ、まさに願いを何でもかなえることのできる宝であるのですが、やはり、そこは例えや象徴として考えてみますと、統合的魂(完全性・神性・仏性)の分離したものと考えられるかもしれません。(仏教的には8つに分かれるのかもしれませんが)

実はマルセイユタロットにおいても、大アルカナを3段7列に置く、カモワン流では有名な配置図があります。ここに7という数が浮上します。言ってみれば、人間の完成には7つの大きな段階があるということを示唆するでしょう。

チャクラも7つで表すことが普通ですし、曜日のもとになった(古典)占星術的な惑星の配置も7つです。古今東西で表現されてきたように、おそらく霊的に7つの段階、7つの区分のようなものがあることは普遍的な概念であった可能性が高いです。

グノーシス(神話)的には、7つというのは悪魔的な、私たちの悟り(完成)を阻む障害の数にもなってきますが、逆にいうと、これらを克服すると、完成に至るわけですから、ある意味、この7つを知ることは重要な要素になるわけです。

つまり、マルセイユタロット的に見れば、細かく言えば大アルカナで象徴される21の自らの分身があり、それを大きな範疇でとらえると、7つになるというわけです。

ドラゴンボールを7つ集めると、願いをかなえることができるという話は、マルセイユタロットの観点からは、私たちは地上では常に7つに分離されている魂があり、それを拾い集め、霊的に向上していかなくてはならないという教訓・啓示として考えることができます。

漫画・アニメの「ドラゴンボール」では、ドラゴンボールが結局、亡くなった人を生き返らせる道具の意味で使われることが多くなりました。

これも象徴的に考えますと、私たちは魂が分離している間は、言わば死んでいる状態であり、7つが統合されて初めて本当の生者として再生されるという話にも思えます。マルセイユタロットにある「審判」のカードで甦った状態です。

少年漫画誌のために描かれた作品ですから、鳥山氏や制作陣が秘伝的なものを描こうとしていたわけではないでしょうし、そういった知識を盛り込んだものでもないでしょう。

しかし、こうした二次元的な作品は、インスピレーションや想念の世界とつながることが多く、そうした世界から自然に受け取っているところも見受けられます。

ですから、知らず知らず、魂の象徴的な話と関連するケースがあるのです。

孫悟空という主人公は、もちろん西遊記から取れられた名前ですが、それだけに悟空という名前に、「空(くう)を悟る」という仏教的な意味合いが付与されています。

空を悟るために、私たちは旅に出て、いろいろな冒険をし、分離された魂を集め、本当の自分を再生する(出会う)ことになるのです。まさに、これはマルセイユタロットでいう、大アルカナの旅です。

鳥山氏は乗り物やメカがお好きだったようで、その驚愕する画力で、秀逸なデザイン性の乗り物を発明して描きました。奇しくも、マルセイユタロット的には、最初の段階の完成を意味する7の「戦車」が乗り物として登場します。

「ドラゴンボール」の孫悟空は、最初は筋斗雲という、これまた西遊記に出て来る雲の乗り物に乗っていましたが、空を飛ぶ技術(舞空術)をマスターしてからは、雲にも乗らなくなりました。

なお、筋斗雲は心が曇っていたり、邪なものを持っていたりすると乗れないという代物で、もとは悟空の師匠・亀仙人の乗り物でしたが、亀仙人がスケベ心(笑)を持っていたために乗れなくなり、悟空に譲った(もとは亀を助けたお礼で悟空に贈られたもの)という経緯があります。その悟空も、先述したように、筋斗雲は不必要となりました。

そして、マルセイユタロットの「戦車」は、実際的な乗り物のように見えて、本当は霊的な乗り物だと言われます。「ドラゴンボール」において、筋斗雲でさえ登場しなくなっていき、やがて自力で空を飛ぶことが普通になるというのは、こうした霊的な乗り物に乗り換えているという象徴にも思えますし、鳥(鷲)として翼を持ち、自由性を獲得し、やがて天上に回帰するという話にも通じます。(鳥山氏と、鳥山氏を世に送り出した当時の編集者・鳥嶋氏と、「鳥」が重なるところも象徴的です)

というようなわけで、意図していなくても、「ドラゴンボール」というのは、結構、マルセイユタロットに描かれる口伝的な内容にリンクしているところもあるという話をいたしました。

何より、私たちが失われがちな冒険心と可能性(チャレンジ精神)、ワクワク感を思い出させる作品が、「ドラゴンボール」でもありました。「ドラゴンボール」のアニメ初期のエンディング、「ロマンティックあげるよ」の歌詞さながらです。

鳥山氏はじめ、ドラゴンボールを生み出してくれた方々に感謝の気持ちを送りたいと存じます。


人はなぜ恋をするのか?

今日、ふと浮かんだカードは「恋人」でした。

そこから、「人はなぜ恋をするのか?」というテーマも出てきました。

おそらく古今東西、詩人、作家、哲学者のような方から一般の恋で悩む市井の人々まで、多くの人が考えたテーマなことでしょう。

ところで、マルセイユタロットの大アルカナは、合計22枚であることと、「愚者」がほかのカードとは異色(数を持たないカード)であることから、「愚者」とその他のカード21枚を3段7列で分ける方法が知られています。なお、この区分による図は、カモワン流では「タロットマンダラ」と名付けているくらいの重要な絵図ではあります。

3段7列が基本ですから、カードたちは、7の数をもとに3枚ずつ関係していくことになります。そして、こうした図では、「恋人」カードの場合、「名前のない13(以降「13」と略)、「審判」と関係し合うことになります。

さきほどの「人はなぜ恋をするのか?」というテーマですが、と言えば、マルセイユタロットでは「恋人」カードが、もっともそれを表すカードだと言えますが、同時に、「13」と「審判」も恋に関係すると見ることで、このテーマに、面白い回答を導くことができるように思います。

ただ、あくまで、マルセイユタロットを通じて出てきた、ひとつの仮説に過ぎませんから、「ふーん、そんな考えもあるのね」みたいに受け取っていただければと思います。

さて、「人はなぜ恋をするのか?」について、ずばり結論から言いますと、なんか月並みですが、「愛を知るため」と答えておきましょう。

この場合の「愛」は、宗教的な意味合いで言われる「愛」に近い、まさに神の愛というようなものです。愛にも次元や範囲、対象の違いがあると考えられ、それらによって愛のイメージ・種類も変わってくるように感じます。

しかし、そのような種類の違う愛でも、最後にはひとつひとつが統合され、大きな愛に昇華されていくでしょう。

いわゆる小さな愛とか、エゴ的な愛というものは、大きな愛に至るための過程に過ぎず、過程であるからこそ、色々な道や方法があり、人によって異なる道程も歩む(体験する)と考えられます。

そして、小さな愛のひとつには「恋」というものがあり、「恋人」カードが示すように、それは地上的には男女間、あるいは自分とは違う魅力を持った存在に恋をするという現象になります。

恋は、ほかの地上的現象と同じく、能動と受動(的行為)でできており、日本語では、時にそれが「愛する者」と「愛される者」と表現されるように、(恋が)「愛」で語られることもあります。

恋愛で相思相愛(中)であると、最高の境地(幸せ)に浸れるかもしれませんが、片思いや失恋、思われたくない人から恋されるなどの場合、不幸であり、苦痛や悲しみ、恐怖でもあります。

このように、恋は、人にとって、幸福と不幸の極致を味わわせる現象とも言えましょう。

また、恋をしようとしても、自由意志でできるものでもなく、また、相手とか、何かしら対象が必要です。従って、自分一人で勝手に、例えば勉強のように、計画的にできるものではありません。

そうした自分でコントロールできない状況や、不確かなもの、対象が必要ということを、マルセイユタロットの「恋人」カードでは、主に上空(天上性)の天使(キューピッド)で表し、人間の予測を超えたものとして描かれています。

キューピッドは矢をつがえていて、一般的な話では、矢が当たったものと恋をする(つまり縁を取り持つ)ことになりますが、別の話では、縁を切るための矢でもあると聞きます。

よい出会いがあり、愛し合う恋人同士になったとしても、人間世界ではやがて死を迎えますので、結局、二人は別れること(別離)が運命づけられています。まさにキューピッドの矢の例えのごとしです。

恋の成就は嬉しく、幸せなものですが、反面、現実世界では成就しない恋も当然ありますし、熱が冷めたり、浮気などで別れがありますし、先述したように死での別離は必ずあって、恋の不幸、悲哀が対比されます。

「恋人」カードの上次元とも言える「13」は、恋の喪失や別離、苦しみを表すのかもしれず、死も象徴するカードです。

しかし、さらにその上の次元とも言える「審判」のカードは、祝福、誕生、復活がイメージされ、死からの再生が「13」から「審判」でセットになっているのがわかります。

人の世界は差のある世界で、だからこそ、自分と他人と引き(惹き)合い、恋もしますし、別れもします

言ってしまえば、自分と違う存在にあふれている世界だからこそ落差の体験ができ、それが恋の本質(出会いと別れ、一体感と喪失感)でもあるわけです。

恋はその引き合いと別離の印象から、人間生活の中でも、なかなかに強烈な体験であり、それがたとえ対象が人ではなかったとしても、自分が熱烈に愛してやまないもの、恋するもの、熱中するものに出会うことは嬉しいことですし、それで人生は輝き、楽しくもあるものです。

同時に、それを失う体験、別れる時ということも体験し、大きな喪失感、痛手、落ち込み、怒り、苦しみ、悲しみなど、ネガティブな感情も味わいます。マルセイユタロットのカードで言えば「13」でしょう。

しかしながら、おそらく、人は自分が亡くなる瞬間、それらは走馬灯のように巡り、それが喪失感・別離の思いであっても、貴重なものであったことを知り、最終的にすべてが愛の表現であることを悟る(愛を高次に認識する)のではないかと思います。それが「審判」の状態なのかもしれません。

※マルセイユタロットが示唆するように、「13」から「審判」の過程は、必ずしも死後の話のことではなく、生きている間への認識を促す意味もあると考えられます。なぜなら、マルセイユタロットは生きている者のために作られているからです。

地上では、恋は対象が必要でしたが、次元が上がるにつれて、その対象と同化するようになり、結局は、自分への愛ということがわかるのだと思います。その自分というのも、エゴ的な狭い自我ではなく、広大な宇宙的な自己というものへの認識です。

他人への恋から始まり、それが次第に愛になっていき、他人への愛は、実は大きな意味での自分への愛ということに拡大していくわけです。

逆に言えば、恋によって、人は自己の認識をどんどん拡大し、恋は愛へと変容し、宇宙大へと自己(の認識)に至る仕組みがあるわけです。

だからこそ、人間生活での地上的恋愛(その対象は人だけとは限りません)体験がなされるのだと言えます。

いや、実は私たち自身は、恋の本質も、自分が完全性を持つこともわかったうえで、地上ではその記憶を喪失するゲームをし、個々人レベルで、地上的体験によって新たなもの(意識)を創出しているのだとも考えられます。

「審判」のカードに描かれている、復活している人の様は、地上で個々人が体験したものすべてを統合した証なのかもしれません。

すると、マルセイユタロットの「世界」のカードが表すように、文字通り、また新しい世界(宇宙)を生み出し、人が活動する領域も造られていくのでしょぅ。

「恋人」カードの次元からすれば、恋から始まる宇宙の壮大な循環・拡大です。だから、私たちが恋をしている時、そこには宇宙の卵が息づいている(新しい宇宙卵が育っている)と言えましょう。

最初に戻りますが、「人はなぜ恋をするのか?」に対して、「愛を知るため」と答えましたが、さらに言えば、(マルセイユタロットから見て)究極的には、宇宙の拡大・成長の意思を人として受け継いでいるため、と回答しておきましょう。


タロットリーディングのスタイルについて その2

前回はタロットリーディングのスタイルにおいて、プロかアマかについて述べました。

今回は同じタロットリーディングのスタイルについてでも、自分の個性という点から見てみたいと思います。

だいたい、自分のタロットリーディングスタイルは、

1 タロットの種類

2 学ぶ先生や資料(本、動画等)

で影響されることが多いです。

1は端的に言えば、ウェイト版(ライダー版)かマルセイユ版か、あるいはその他(特に創作系)かという括りになるでしょうか。

ウェイト版を採用している人は占いスタイルが多くなりますし、マルセイユタロット系では、日本では奇しくもホドロフスキー・カモワン版の人がたくさんいますので、その特徴としてのカウンセリング的なスタイルになりやすいように思います。

次に2ですが、やはり、人はモデル・型から入ることが普通ですから、自分の学んでいるスタイルにどうしても似てきます。言ってみれば先生をコピーするような感じです。しかし、今日の主題にもなってきますが、それが自分の個性と合っているかは別問題です。

1にしろ、2にしろ、最初に自分に影響を大きく与えるスタイルが、そのまま自分のタロットリーディングスタイルへとなってしまうのは仕方ないことです。

ところが、すでに触れましたが、自分に影響を与えたスタイルが、自分自身に本当に合っているかどうかということが、のちのち問題になってきます。

いわゆる「守・破・離」で例えられるように、最初は型を学び、次第に自分のものにしていく中で「型破り」となり、やがては完全に「自分独自」のスタイルを構築するようになるプロセスが、あらゆる分野での習得過程にあると言われます。

タロット(リーディング)にも、これは適用されると考えます。

ですが、あまりに最初に学ぶ型が、自分の個性とかけ離れているもの、言い換えると、自分の個性を殺すようなものだと、学ぶ最中も苦しいですし、なかなか上達や進展を実感できないかもしれません。

いずれにしても、忠実に教えを守って実践してはいても、どこかでその窮屈さ・葛藤が顕在化し、タロットを扱うことさえ嫌になてしまう時期が来ます。

そのような人は、早い時期に、守から破どころか、離を選択してもいいケースがあるでしょう。それでも学んだことは無駄ではありません。

まず、自分のスタイルを確立するうえで、どんなものが合っていて、どんなものが合わないのかが明確になったわけで、その恩恵があります。

また、最初に学ぶ基本というのは、タロットの種類やリーディングスタイルに関係なく、共通していることがほとんどですから、それ自体はむしろ必須であり、通らねばならない道であったと言えます。

人は葛藤に対して、それを統合しよう、解決しようという働きが自然に出てきます。言ってみれば、苦しんだ分、悩んだ分だけ、もっと成長できる可能性が高まるのです。

ただ、苦しみ続けることわけもわからず、つらい状態を選択し続けるのは精神的にも、生き方的にもよくないと言えましょう。

今の自分としての人生は有限ですから、そこには無駄とか効率とかの意味が出て来るわけです。

タロットを学び、リーディングを実践するような人は、ほぼ全員、(その)タロットが好きか、タロットに関心がある人なはずで、仕事でやむなくとか、嫌々タロットを学ぶという方はあまりいないでしょう。

それならば、タロットのことでつらくなるのは、本末転倒な話です。もちろん、成長や上達の過程で悩むことはあるでしょうし、それは自然なこととも言えます。しかし、好きなタロットで、つらい・苦しいが続くのはおかしな話です。

それは、何かが間違っているか、自分には合わないスタイル・方法を取っているからです。

合う・合わないにおいて、よくあるのは、イメージ、感性、感覚、インスピレーション、雰囲気的なもの、自分の感じたもの(見えない領域とのコミュニケーションを含む)が主体のリーディングスタイルと、思考、論理、理屈、意味、言葉、相手(実際・見える領域)とのコミュニケーションが主体のリーディングスタイルとの違いがあげられます。

タイプ的に、自分が前者なのか後者なのかによって、別のスタイルを中心とした方法に力を入れてしまうと、当然ながらうまく行かなかったり、苦しくなったりします。

タロットリーディングというものは、実は両方のものを統合したところにあるとは個人的に思いますが、それでも、自分の個性というものはありますから、合っているほうで続けて行く、伸ばして行くほうがやりやすいでしょう。

途中で自分の今取っているスタイルと、自らの本来的なものとの齟齬、相性の悪さに気づいた人は、自分の思うものを信じて、スタイルを変更するとよいでしょう。

たとえ指導を受ける先生とは異なるスタイル、違う方法になっても、それが自分に向いているものであり、楽にリーディングできるものならば、そちらのほうが正解と言うこともあります。

しかし、先生・指導者によっては、生徒さんの個性をわかったうえで、あえて別のことを指導している可能性もありますから(それは、さらなる生徒さんの飛躍・発展とか、アンバランス部分を補うためなどの理由があります)、一概には言えません。

まあでも、タロットを極めようと必死な思いでやるよりも、時には愚者のように気楽に、しかし目的意識(自分がタロットを使ってどうしたいのか、何がしたいのか)はきちんと持って、自分流で行くもよし、先生に(自己の目的に)必要なことを学ぶのもよしだと思います。

深刻に思い過ぎると、何でもそうですが、かえって視野が狭くなり、あせりが出ます。楽しみながらの努力はいいですが、昭和のスポコンのような(笑)厳しい鍛錬はいらないでしょう。

自分が読めないのは、知識不足・経験不足のこともあるとは言え、そもそも行っているスタイルが自分に合っていない、または必死過ぎて見えていないものがある(努力がズレている)ということが大きいように思います。

もちろんいい加減なことを推奨しているのではなく、向上心は大切です。そのうえで、自分で自分を苦しめていないか、少し見直してみるとよいでしょう。

前にも書きましたが、例えば、タロットリーディングと言えば、質問・問いをして展開するのが普通ですが、問いなしで展開し、逆に相談者が本当に問いたかったことを確認するという方法もあります。

そのほうが自分に合っているという人もいます。

タロットリーディング自体は本当に色々なスタイル・方法があると思います。自分に合った方向性で、最終的にはオリジナルなやり方で、自信を持ってやって行ければ、それが自分にとってベストなのかもしれません。

まあ、本当は、同じスタイル・型のようでいて、実はまったく同じものなんてないのですから、みんな違って当たり前なのです。

型や学びは、自分のスタイルを見つけるための方策だと思えばいいでしょう。

本来、学ばなくても、人はすべてを知っている存在だと考えられるのですが、この世の仕組み上、自分を知るためには、学び・経験することで自分を思い出せるようになっているので、思い出しゲームを楽しむような感じで、タロットにおいても、関わって行くのがよいように思います。


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