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杖を持って歩く
マルセイユタロットで大アルカナと呼ばれる22枚のカードのうち、手に何かを持っている人物が見られます。
その数は多いと言えるかもしれません。
つまりは、タロットの絵柄では、何らかの道具を持つことが結構示唆されているわけです。
その中でも、やはり棒のようなものがよく見受けられます。
これは、タロット的にはそのまま「棒」ということもありますが、メジャーな言葉では英語的に「ワンド」と呼称されることが多いです。
そう、結局、小アルカナのパートを入れて構成されるのが「タロット」なのですから、小アルカナ的要素、日本語では剣・杯・杖・玉と私たちマルセイユタロット界隈では訳し、一般的には英語としてソード・カップ・ワンド・コインとそのままで呼ぶ、いわゆる4組の組(スート)のひとつ、杖・ワンドと関係していると見ることができます。
ただし、厳密に言えば、英語においても、そして日本語訳においても、「杖」的なものの種類は異なります。
必ずしも「ワンド」が「杖」を指すのではないのです。
むしろ、「ワンド」というのは、魔法使いの魔法道具のようなもの、まさに魔法の杖であり、日常的にはほぼ見ない杖です。(「杖」にはステッキとかロッドとかメイスとかセプターとか、いろいろあります)
大アルカナと小アルカナの関係で言えば、先述したように、大アルカナで出てくる杖も「ワンド」と呼べるかもしれませんが、大アルカナの絵柄をよく見ると、「ワンド」だけではない杖の形も描かれています。
ここではあくまでマルセイユタロットの絵柄で言いますが、例えば、「愚者」「女帝」「皇帝」「法皇」「戦車」「隠者、」「13」「悪魔」と、多くのカードが、パッと見だけでも、魔法使いの杖「ワンド」ではないことがわかります。
厳密にワンドと呼べるのは、「手品師」と「世界」だけかもしれません。
当然ながら、この二枚がワンドになっている意味があるのですが、それはここでは言及しません。
今回言いたいのは、タロットの杖は、一般的には「ワンド」と呼ばれはしますが、実際にはカードごとに違いがあり、その形、その杖の意味での象徴性を理解しましょうということがひとつです。
そして、もうひとつは、ワンドというより、日本語的な「杖」という意味で見ていくと、タロットは私たちに、杖を持って進んで行くこと、その必要性が場合によってはあることを示しているのではないかということです。
マルセイユタロットの大アルカナは、全体をもって、言わば人間の完成を表すとされています。
とすれば、杖を持つことは、人として当然のこともあるわけで、その成長、完成のためには、杖の助けとか意味が強調され、必要とされることがあるのだと解釈できます。
それには、一枚一枚のそれぞの杖を持つカードの意味を理解することだと言えるのですが、非常にシンプルで、しかしあまり普段は意識しないことで言いますと、「歩く(進む)には、杖がいる」または「杖があっても(持っても)いい」ことを述べたいです。
杖は補助であり、助けであり、自分の力を分散したり、逆に集中させたりしてくれます。
これは道具でもありますが、象徴的に言えば「自分を助けてくれる人や事柄」も表すと言えます。
若い人でも、たとえば 登山などでは杖は必要ですし、年老いたのなら尚更、普段使いにも入用になります。
かっこ悪いからと言って用いないと、大変なことになる場合もありますし、逆に、やたらと杖を不必要なくらい持ち歩き、石橋を叩いて渡り過ぎるような、過度の心配、不安、依存も問題でしょう。いつまでも杖がないと歩けないようでは、独り立ちもできません。
ですから、タロットで、もし杖を持つカードがよく出ている時は、その象徴性に着目し、自分(あるいはクライアント)が、杖を必要としているのか、反対に杖に頼り過ぎていないか、その出方や位置によって判断することで、当人のあり方、これからの行動の仕方も見えてきます。
よくあるのは、真逆になっているケースです。
今は杖が必要なのに杖を捨ててしまっている人、杖はいらないと思い込み、すべて一人で背負い頑張り過ぎている人、逆に、もう杖はいらないのに、幻の杖を頑なに握りしめて離そうとしない人、いつかそれこそ魔法の杖を自分が手にして、成功や勝利を手にしたり、今の問題をあっという間に解決してくれたりすると思っている人です。
あなたは杖を堂々と持っていいという人もいますし、あなたの思うような杖はないですよ、杖がなくても、もう歩けるはずです、という人もいるのです。
とはいえ、新しい段階、未知なるところへ進む時は、杖は必要なことがあります。だからこそ、杖を持つカードは多いわけです。
杖を持つことは恥ではありません。それどころか、杖とともに歩くのが、タロットが示す王道と言えるのです。
タロットの活用今昔、そしてこれから。
いまだ世間では、一般的に占いの道具と見られている“タロット”ですが、それだけ占いに実際に使える(活用されてきた)からこそでもあり、その積み重ねと実績がそうさせているとも言えます。
ただ、ここでも何度も書いてきているように、タロットは占いだけのものではありません。
そもそも、歴史的にタロットが占い道具として見られるようになったのは、比較的新しいと見られ(ある種のタロットのようなカードを、特定の移動民族や芸能集団が占い的に古くから使っては来ていましたが)、本来というべきか、その使用目的はゲームのためのものであったと考えられます。
※マルセイユタロットの大アルカナ「手品師」は、それを表しているようにも思えます。
それはトランプのようなものと見てもいいでしょう。
トランプよりもタロットのほうが枚数とか構造が複雑であるので、それだけ高度なゲームができますし、逆に言えば、トランプはタロットを単純化して、もっとゲームで使いやすくしたものとも想像できます。
このタロットが先か、トランプか先かの成立論は、どらちにも言い分があるので、決めきれないのが正直なところでしょうか。
しかし、タロットとトランプは確実に関連性があり、兄弟のようなものと言えそうです。
ということで、占い以前はゲーム道具として使われてきたタロットですが、やがて占いにも広く使われるようになり、そして現代では、ほかの様々な活用が見られるようになっています。
そのひとつは、一見占いのように見えて異なる「タロットリーディング」です。技法的には「占い」と同じでも、質問の仕方、目的、ひいてはタロットの読み方が違います。
またそこから派生するもので、セラピー的な活用、さらには自己認識を深めたり、改革したり、自分自身を統合していったりする活用などがあります。そしてこれには、心理的が内容が主となります。
それで占いは、精神世界とか見えない世界のことを扱うように思われがちで、確かにその面も強いのですが、しかし占い(に来る人)の目的は、実際の人間生活におけるよい選択をするためと言え、それは多分に現実的な話(現実レベルでの良し悪しの規準で、よい選択を求めること)となります。
ゆえに、占いは、私の解釈では、現実レベル、現実次元にフォーカスするものと見ています。
これに対して、先ほど言った心理面を中心とした世界を扱うレベルがあり、これが日本における平成で進んだタロットの扱いになってきた感覚があります。
その前の昭和はバリバリの占い時代とも言え、そして令和は霊性へのアプローチになっているのではないかと思えますし、別の見方では、各人のフォーカスするレベルによって選べる時代に入ったとも表現できます。
一応整理すると、タロットの活用が、日本の時代区分によって、昭和は占い中心の現実世界次元、平成がセラピー中心的な活用で心理・メンタル面での次元、令和以降は霊的次元、あるいはそれぞれ(各個人やグループ、教室等)によって、活用目的や次元を選択する世界へと移行しているのではないかという説です。
ところでタロットは象徴のカードですので、一枚一枚の象徴性はもとより、構造別、全体としての象徴性もあります。
それらは絵が変わらない限り普遍であり、ずっと同じ本質を表し続けています。
しかし、それをどう活用するかはまさに人によって、時代によって変わるものであり、言ってみれば、そこは自由だということです。
ですから、カードの基本的な象徴の意味をつかんだ後は、今の時代、もっと自由に、制限なく行ってもいいのではないかと思えます。
例えば、伝統的とも言えるタロットの展開法(スプレッド)がありますが、それにこだわらず、オリジナルでやってもいいでしょうし、その都度、展開の方法を変えていくこともありかもしれません。
また最近はAIも発達してきているので、AIに展開と解釈を任せて、人間と一緒になってタロットを読んでいく、活用していくこともできるようになってきています。
タロット面においても、もうほとんどAIにできることばかりで、普通レベルのタロット占い、タロットリーディングなら、AIを使えばいい時代になっているのではとさえ思います。
では今後、タロットをどう活用していけばよいのかということですが、上記のように、単なる占い、リーディングではAIには勝てなくなると言いますか、それに任せてOKであるならば、そのような従来的な使い方ではない方向性が指向されます。
それが結局のところ、自己認識や霊性向上のための活用ということになり、引いたタロットの意味を知るというものではなく、それはもう当たり前にようにわかるのが前提ですから、それは有用な情報として扱い、自分自身で自分を深く認識していくような方法の道と言えましょう。
AIが展開し、AIが教えるタロットの意味とか情報をもとに、AIとタロットと会話しながら、自己認識、集団認識、世界認識、宇宙認識へ拡大、統合していくような活用です。
とは言え、いくらたくさんの情報、精度の高い情報が得られたとしても、それをどうするのか、何のために使うのかということを、人間である自分自身がはっきりしておかないと(主体意識を持たないと)、得た情報に振り回されたり、その情報を得た満足感だけで終わったりしてしまうことになります。
結局、わかっているようでわからない自分=世界や宇宙というものを、深く知るために(本当はもう知ってはいるのですが)AIもタロットも活用するということです。
言わばこれは、一種のゲームであり、タロットは再び、別の意味でのゲーム道具になる(戻る)のかもしれません。
タロットリーダー(を目指す人)へのアドバイス
マルセイユタロットを学習して、他人にリーディングをするようになると、気づいてくることがあります。
それは、人の為にリーディングしていることが、結局、自分に還ってくることを、です。
これにはいろいろな意味があります。
まず、多くのタロットリーダーが気づくのは、自分と似たような人とか、自分の問題や課題と同じようなものを持った人がクライアントとして現れるということです。
ただ、全く同じ内容というのではないです。
もしそのままの同じ問題だと、誰でも気づく単純構造になり、そういうことは改めて(宇宙や全体から)お知らせしてもらう意味が少ないので、起こりにくいわけです。(全く起こらないわけではありません。単純ゆえに、タロットリーディングを通して知るよりも、もっと日常生活において気づけるレベルであると言っています)
では、どのような意味で同じなのかと言えば、それは象徴的な意味でになります。
タロットにおいて象徴的と言えば、まさしくカードが表していることであり、タロットは基本絵であり、言葉が書いているわけではなく、そこから言語・論理・理由へ落とし込み、クライアントに即する実際的なストーリーに置き換える必要があります。
この置き換えた時には、クライアントの具体的なことや実際(現実)的な内容に、タロットの象徴性が変わるのですが、その元となる、そもそも出たカードたちの象徴的(抽象的)な意味合いこそが、読み手側・タロットリーダーにも関係しているのです。
ですから、例えばクライアントは人間関係の問題や悩みでタロットへの相談を受けていても、その出たカードは、タロットリーダーにとって見てみると、今の自分(タロットリーダー)の仕事の課題ということも起こりうるわけです。
この構造が理解できてくれば、クライアント側でも、たとえそれが複数の別々の問題であったとしても、ひとつのタロット展開で、タロットリーダー側は共通して読むことができることに気づくでしょう。
それからさらにタロットリーディングにおける自他構造がわかってくると、クライアントとタロットリーダーの集合意識的な部分がつながっていることも感じ、それはある意味、人類全体の課題と関係するので、大きな意味で考えれば、タロットリーディングを行うこと自体が、自分も含めて全体を浄化している(少なくとも何らかの全体データへアブローチしている)ことになるのです。
つまるところ、タロットリーディングという行為は、他人のためにやっていても自分の為であり、なおかつ全体とも関係していることになります。
そうなると、人の為にまったくならないのかと思うかもしれませんが、そういうわけでもありません。
相手・クライアントにも確実に、象徴するカードによって何らかのことが示唆されるわけですから、それはそれでクライアント側の課題(を視覚化・言語化するもの)として意味があるのです。
要するに、両方にとっての意味があるカードが出ると理解すればよいでしょう。
ただタロットリーダー側だけの視点で見れば、クライアントが来るのはただの偶然とか、逆に、現実的に自分が広告・宣伝・集客した結果だから当然に現れると思っているかもしれませんが、そうではない(実際的な行為の影響がないわけではありませんが)ことも想定されるのです。
その意味は、自分がクライアントを創っているという言い方に近いものとなります。
いや、これを文字通りに解釈しないでください。自分が人間も環境も世界すべてを、物質的なことを含めて創造しているという意味ではありません。
自分の中のある種の同じ象徴性が、外のものに共鳴して磁石のように引き寄せているみたいな感じです。
これは引き寄せの法則といえば引き寄せの法則ですが、一般的に言われている願望実現的な意味合いではありませんので注意してください。
ということなので、自分の技術をもっと上げなくてはとか、集客を頑張らなくてはとか、タロットリーダーとしては、あせることもあるかもしれませんが、本質的には全部自分が起こしている(自分の内側が外側に共鳴させている)ことなので、実際的なこと、外側のことに力を入れても、あまり変わらないわけで、結局、今の自分の内側の状況にふさわしいクライアントが現れますし、集客的にもそうした感じ(内側が整っていないと、人が来ない、あるいは望ましくないお客様がよく来るなど不都合の状態)になります。
逆に言えば、外側に起こること、タロットリーダーのあなたのもとに現れるお客様・クライアントは、まさにあなた自身の内側を表していることになりますから、自分の今の状態(タロットリーダーの課題・問題・歪み)を教えてくれているのです。
こういう意味でも、クライアントに対してタロットリーディングをしていても、結局、自分の為になるというわけで、タロットリーダーは特にこの視点が重要になります。
そして自分がまだまだだと思っていたり、お客様に失礼なレベルだとか思っていたりして、かなり学んでいるのに、なかなか実践しないタロットリーダーを目指す人も結構います。
これもあなたがそう思っている限り、自分では対処できない、読めない展開のクライアントと問題の人がやってくることになります。
そうして、いつまでもデビューせず、他人から批判を受けない安心の場を守る(継続させる)のです。
自分のやった行為と結果を、自分の存在価値そのものと結びつけている人は、他人評価=自己評価となりますので、こういう傾向が強まります。
とは言え、たいていの人は多かれ少なかれそういうところはあります。しかし、行き過ぎたものが問題というわけです。
自分が純粋にタロットリーディングしたいと思えばそれでよく、学びの段階に応じて、少しずつ実践していけばよいのです。
他人への評価で自分の価値を補うようなことをしなければ、純粋な思いで行うタロットリーディングでは、自然に自分にふさわしいクライアントが現れ、自分も相手も充実感を味わうでしょう。
まあ、あまり心配せず、とにかくやってみることです。初めの頃は、うまく行かなくて当たり前です。私も最初はまったくタロットが読めない口でしたから。(笑)
でもフィードバックしてきちんと修正してくれたり、うまく行かない時に相談できたりする先生や師がいたほうが、安心で確実ではあります。
反転する人生、心の解放
マルセイユタロットの表す道というのは、スピリチュアル的に言えば、宇宙や大自然へと戻る一元化の過程という感じでしょうか。
しかし、それではあまりに抽象的で、つかみどころのない話となります。
従って、もう少しレベルや次元を下げて、自分の心の中、内側の世界として、現実的には心理ベースで見ていくとわかりやすいかもしれません。
心理ベースであっても、内が外に反映している(言い換えれば、自分の心が外側の世界を創り出すかのような仕組みになっている)霊的なレベルにも気づくようになってきますので、結果的に行き着くところは同じと言えます。
いきなり霊とか魂、スピリチュアルという世界観に抵抗のある人は、まずは自分の心の探求(これは相対的には他人の心にもなります)において、(マルセイユ)タロットを扱っていくとよいと思います。
それで、たとえ心理的な観点からであっても、やはり、タロットの表す道というのは最初に述べたことと同じで、これを心理次元に下げて解釈すれば、すなわち自らの「心の解放」という表現になるでしょう。
それは、心も自然体に戻ることと同意儀です。
とはいえ、人間、大人になって行く過程で社会性を持つほど、自制していくようになります。それは当然のことで、ある意味、心の成長と言えます。
いつまでも子供の心のままでは社会に適応していくことはできず、人に迷惑をかけて、必要以上に誰かの世話になることになります。
ただ、自分を律するあまり、本当はしなくてもいいことまでやってしまい、自分を知らず知らず追い込んでいることが多いものです。
いつしか、心から楽しむこともできず、しかし刺激を求めて、あたかも成長しているかのような幻想に囚われて、資本主義経済の発達した今の世の中で、お金や地位、名誉を中心とした成功、または反対にそれらをあきらめて、身の丈人生みたいな惰性的な生き方をしてしまう人が増えます。
そうした中で、それでも人間は欲求が出るものですから、自分の望み・欲求をかなえよう、また、不快にならないよう、過程と結果をコントロールしようとやっきになります。
意外にまじめな人や完璧主義である人ほど、物事を(自分の思い通りになるよう)コントロールしようとします。
それは結果によって自分の評価が決まると思っているところが大きいのと、人によっては敏感過ぎるがゆえに、傷つくことを恐れ、その(恐れた)結果にならないよう、必死で事態を最初からコントロールするわけです。
ですが、自然や宇宙は人にコントロールされるほど、軽い存在ではありません。むしろ逆で、人自体がそれらからコントロールされている(存在)と言ったほうが正しいかもしれません。
なのに、人は自分では制御不可能なものに向かって、愚かにも立ち向かっていこうとします。まさにドン・キホーテです。
これをしていると、莫大なエネルギーを無駄に注ぐことになり、疲れるのも当然で、しかもコントロールしようとした(よい結果になるよう頑張った)のに、結果は悪かったということもよくあるため、費やしたエネルギーの分、ショック度も大きいのです。
これが人生を不幸に思わせている要因のひとつでもあります。
マルセイユタロットに戻ると、特に大アルカナの絵柄は、ずっと二元の分離を統合・融合していく世界観を示しています。
よく見ると、絵柄のすべては、人物がコントロールしているようで、コントロールしていないことに気づくでしょう。
例えば正義とか節制、力、戦車、悪魔のようなカードがあり、それらは一見すると、何か人や動物、規則などをコントロールしているように見えるかもしれません。
しかし、カードの象徴的意味を理解していくと、決してそうではないことがわかってきます。もし束縛するようなことがあったとしても、それは解放のための仕掛けとしてとらえられるのです。
マルセイユタロットが表すのは、心理的には心の解放であり、サイキック的には自然サイクルとの調和への働き、霊的には宇宙や自然への大回帰と言えます。それらはすべて、分離から統合が鍵となります。
コントロールするということは、天地(神と人、宇宙と人間、天上と地上、男性性と女性性など)の分離が激しい状態を示します。
分かれているからコントロールしたくなるという、まるで禅問答のような話です。自分と一体だったら、コントロールも何もいらないわけですから。
しかしながら、人は逆のことを経験しないと、その反対のこともわかりませんから、束縛、分離を経験することも必要です。
むしろ若い頃は、そうした経験を味わう時期と言えるかもしれません。
そして、人生の頃合いで、反転転移し、それまで不自由だった人生から自由な人生へと変わって行くことになります。不自由を知ったからこそ、本当の自由の意味がわかるからです。
本当の愛を知りたいと思う人は、逆の愛のない世界、愛されない環境や裏切り、人間関係不全の場所などを経験するでしょう。
ところが、本来は反転して本当のことを味わっていく人生の時期を見失い、錯覚のまま、仮の牢獄経験が本当の世界だと思って、そのまま抵抗や戦い、失望のままで最期を迎えるのが普通になってきているのが現代人です。
苦しい、空しい、生きていて意味があるのか・・・など、究極的に思わされた時、それはあなたが(本当に味わいたかったことに生きる人生に)反転するチャンスに来ていると言えるのです。
マルセイユタロットはそのことも示すでしょう。
マルセイユタロット 大アルカナの道
マルセイユタロットの大アルカナは、22枚のカード構成となっています。
ほかのタロットでも、大アルカナは同じような枚数構成であることが多いのですが、それも古典であるマルセイユタロットを踏襲しているという場合が多いためと考えられます。
この大アルカナには様々な象徴性がありますが、中でも、人間の発展の道が描かれていることは、ここ20年くらいで、結構知られるようになってきたと思います。
あの心理学者ユングもマルセイユタロットを研究していたと言われ、その後、ユング派と呼ばれる人たちで、心理とタロットを結びつきる試みも行われています。
ユング派によれば、大アルカナの絵柄も、ユングの唱えたいわゆる「個性化」の(簡単に言えば本来の自分、トータルな自分に統合していく)道を示していると主張する方もいらっしゃるわけです。
こうした心理的な自己完成の道が大アルカナで象徴されていることもありますが、もっと高次と言いますか、レベルを上げて見た場合、霊的な覚醒、霊的なことも含む人間完成の道を表しているのではないかと考えられます。
もちろん、現実的な意味での目標達成とか願望実現みたいなことの方法論として見ることも可能だと思います。
要するに、その人の望みに応じて、マルセイユタロットの大アルカナは意味を変えつつ、それらの完成の道筋を示すものと見ることができるのです。
逆に言えば、どのようなレベルの完成であっても、この大アルカナのパターン(型)が当てはまるわけです。
こうしたことは、ミクロからマクロまで、あるいは様々な流れとして、同じパターンの宇宙の原理、法則が組み込まれているのと同じと言えます。
何気なく生きていると気づきませんが、昔から人類は宇宙(自然)の原理、仕組みを解き明かそうとして、結局、同じ型、巡りのようなものを見出してきました。それは厳然として今も普遍的に貫き、働いているものです。
こうした原理を、政治から農業、社会、個人生活に至るまで、知らず知らずのうちに取り入れ、この法則のもとに、特に古代の人は動いていた(動かされていた)と言えます。
そして占いも、もとはといえば、こうした宇宙(自然)の法則を研究し、活用したものだったと考えられます。
ですから、ある意味、マルセイユタロットも、宇宙や自然の原理・法則のようものを表していると見てもいいかもしれません。
さて、このマルセイユタロットの、特に大アルカナですが、ある見方によれば、これは私たちが生きている間のことを表すだけではなく、亡くなってからのことも象徴しているのではないかという説があります。
ただ、このタロットといいますか、普通にタロット全般は、生きている人の為に作られている(ゲームであれ、占いであれ)わけですから、生きている私たちに、死後のことを含めての「何か」を知らせてくれているのだと考えることもできます。
それは、言わば「死の準備」なのかもしれません。
私たちは、通常、死のことはあまり考えません。せいぜい身近な人が亡くなった時とか、何か事件や災害が起きた時に意識するくらいでしょう。
それでも、必ず、いつかは人は死にます。
別に無理に意識する必要はないかもしれませんが、人生、死ぬことの最後から見た逆の視点も時には有意義かもしれません。
今の多くの人は、自分の人生が充実していない、あまり生きる実感が持てないという感じになっていることが多いように思います。
不安やあせりがあるのはまだましかもしれず、ひどい場合は、不感症のように何も感じられなくなり、ただ毎日生きているだけに過ぎないという人もいるかもしれません。
それでなくても、仕事、人間関係、恋愛、大切な人や動物の喪失感、健康問題など、特に気になる悩み事があって、鬱々として気が晴れない、怒りや苛立ち、哀しみ、絶望感があるという人もおられるでしょう。
一応、いろいろと解決や解消に頑張ってはいるものの、なかなかうまく行かず、そのまま一生を不満足なまま、終えてしまうのではないかと思う人もいそうです。
結局、何が自分の人生にとって大切なのかわからず、そしてなぜこのようなことになってしまっているのかも不明で、仏教的でいう「無明」のままで死を迎えてしまう、このことの潜在的恐怖は、自分では自覚できていなくても、きっと計り知れなく存在するのでしょう。
こうして亡くなった場合、仮によく言われるような輪廻転生システムがあるとすれば、後悔や課題を残すことになり、自ずともう一度生き直したい、つまりは現世に出生したいという思いが出るのかもしれません。
輪廻転生がない場合はもっと悲惨かもしれず、「つまらぬ人生体験だった」「つらい、空しいものばかりだった」で終わり、もうやり直しも利かないわけです。
ですから、マルセイユタロットがもし死後のことも表すというのであれば、反対に、生きているうちの私たちがすること、できることを強く表しているのではないかと仮定できるのです。
詳しくはここで書けませんが、シンプルに言えば、錯覚や思い込みを修正し、本来のありのままの自分に戻って、人生使命(自分にとっての生きて体験するテーマ)を全うしやすくすることを訴えていると考えます。
マルセイユタロットが死後をも表すという考えの場合、輪廻転生的な説を取る事があり、仮にその視点で見ると、普通は死後、自分が(生きた人生を)見直し、修正するポイントを見つけていく作業があるのだと思われます。
しかし、生前(生きている時)にある程度、それと同じようなことをやっていると、死後は作業が減り、次元も上がって、再び同じテーマで繰り返す必要もなくなって、新たな(次元の上昇した)人生を歩むことができるのではないかと考えられます。
その作業が前述した、錯覚を解き(しかし錯覚を起こすシステムに入る体験も必要)、本来の自分に戻ることだと想像します。
問題が起きて(一見すると問題は外からたまたま起きているように見えますが)、それに振り回されるのは、錯覚状態の自分のままであることを示します。(実態は自らが問題を起こしている)
問題を何とか解決する、自分や他人の人生を支配(コントロール)するという見方ではなく、問題そのものをなくす(自分が錯覚を起こして、わざわざ問題という事象を引き起こす形式を必要としないこと、ただし問題が発生しないという意味とは別です)生き方に戻る必要があると言えます。
そのための解除の象徴性が、マルセイユタロットの大アルカナの絵柄ではないかと考えています。
一般的には、マルセイユタロット大アルカナ・ナンバー1の「手品師」が、ナンバー21の「世界」に至って完成するという見方が多いですが、逆の「世界」から「手品師」になった(次元下降したとも言えます)過程を振り返り、そしてまた「手品師」から「世界」までを見渡していくと、下降と上昇、その途中での錯覚を植え付けていく(植え付けられていく)自分自身の、はずれた道も見つけやすくなることと思います。
こうして考えると、マルセイユタロットの大アルカナは、まさに霊的な象徴図とも言えるのです。
