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カードの人格化を行うと

タロットカードを人格化する技術は、その方法を詳しく知らなくても、カードに接する時は自然に行っているものです。

人格化とは、要するに、タロットカードを人間のように見るという方法なので、特にタロットと親密になりたいと願う初期の頃は、感覚的にそのようにカードを扱うことになります。

あまり適切なたとえではないかもしれませんが、しかし本質的には同じとも言える、幼ない子供がぬいぐるみに話しかけて、会話するようなことに似ています。

ただ、マルセイユタロットの場合、小アルカナの数カードが記号的な絵柄になっているので、人物(人間)として見るのは難しいでしょう。

従って、マルセイユタロットでは、カードを人格化する時、まずは大アルカナ22枚の扱いが重要(モデル)になってきます。

そうしてマルセイユタロットの大アルカナの絵柄を観察しますと、人間(のようなもの)が描かれているカードと、そうではないものとに分かれるのに気づきます。

カードにはだいたいは人物がいるのですが、まったく人が見当たらないカードもあります。具体的には、「運命の輪」と「月」です。

この二枚は、人間ではない生き物が中心の絵柄で、「運命の輪」に至ってはマシーンがメインと言えます。

また、人間的なものは描かれてはいるものの、人数が多数であったり、人間ではないもののほうが大きく描かれていたりして、一人の人格としてはとらえがたいカードもあります。「恋人」「悪魔」「神の家」「太陽」「審判」「世界」などは、それらに該当するでしょう。

しかしながら、そういった、一人の人間・人格に見えないカード、そう設定することが難しいカードにしても、何とか一人の人物として性格づけしていくことに、タロットカードの人格化の技術の向上があります。

そもそもカードを人格化することは、最初にも述べましたように、タロットカードとそれを扱う者との関係性を近づける、親密にする意味があります。

ほかには、タロットリーディングを(カードとの)コミュニケーション的に行うための前段階という位置づけもあります。

なぜカードを人間のように扱うと、上記のような目的がかなうのかと言えば、人はコミュニケーションするのに、やはり同じ人間的な方法がやりやすいからです。

そしてコミュニケーションがスムースに行けば行くほど、自ずと相手との理解も深まりますし、自分の意思を伝えることも可能になってきます。

もちろん、カードは人ではなくモノなので、「そういう気がする」という範囲でメルヘン・思い込みの世界とも言えますが、そういう世界観を作り出すこと自体に実は大きな意味があります。

モノを人間のように見るという行いは、霊的な通路を作ることでもありますし、私たち現代人が失ってしまった感覚を取り戻す意義もあります。

カードを人格化するうえで、人物がメインで描かれているカードを人間のように見立てることは、単純にやりやすいです。

しかし、先述したように、人間がメインではないカードたちは、イメージ的に一人に人格化することは困難ではあるものの、これもすでに指摘したように、それを可能にしていくことが、カードの扱いの意味でも大事になります。

想像力が試されますが、最初は難しくてもチャレンジしていくことで、人物が“創造”されていくのです。

大アルカナ全22枚を人格化できた時、面白いことが起きます。

まず、リーディングにおいては、カードからアドバイスを人間のようにもらえたり、いろいろと会話できたりする感覚が出てきます。

慣れて来ると、カードを引かずとも、その人物をイメージしただけで、脳内コミュニケーションのようなことが可能になります。

そして、心理的には、自分自身の分身のように見ることもできます。

人は代表的な性格、自分でもこう思っている自分というものがありますが、それとは違う、様々な性格の自分も隠れていると言われます。そういったものが、カード(の人格化)で表せられるのです。

このニュアンスで自己リーディングを実施する場合、言わば、別の自分との会話・相談をしているようなものになり、自分の分身たちが合議し、ある答えを出すかのようにリーディングが行われるのです。

ところで生成AIのチャットGPTが少し前より話題になっていますが、その使い方において、チャットGPTに、「あなたは、〇〇の専門家です」と指定すると、それらしい雰囲気とか内容で答えてきます。

それと似たような感じで、例えば「隠者」のカードを専門家の人格のように設定すると、そのようなアドバイスが「隠者」より、もたらされることがあります。

タロットカードも、設定とか扱いによって、使い勝手が大きく変わることが長年やっているとわかります。

カードを人格化して使う方法は、いろいろと便利なもので、自分自身にも、他人に対しても有用なものになります。

もしカードを人間のように見ることに違和感があり、ばかばかしいと思う人は、タロットを真に扱うことは無理でしょう。「運命の輪」で言えば、向かって左側の動物、アーリマンに毒された人と言えるからです。

また、かと言って、人間のように見過ぎてしまうのも問題で、これは「運命の輪」の右側の動物、ルシファーに毒された状態になります。

そういったバランスを取るのも、マルセイユタロットのいいところなのです。

とりあえず、もしマルセイユタロットを持っている方ならば(それ以外のタロットでも行けますが)、一枚引いてみて、そのカードを人物化(人格化)し、その者が語ることを想像して、何かメッセージとか示唆をもらってみるとよいでしょう。

その意味では、リビジョンタロット的な方法と言えます。


タロットリーディングにおける過去生(過去世)情報

人間は情報で生きていて、もっと言いますと、人間自体、情報でできている体(情報体)とも言えそうです。

私たちが生きている間は、外も内も情報を処理しているのでしょうし、コンピュータ的なたとえで言いますと、記憶(自分が覚えていない潜在的なものも含めて)もデータと表現できるかもしれません。

言わば、生きている証のような、これまでの記憶データは、普通自分が生まれてからのもので考えられます。

通常の心理学的な範囲でも、実際の自分の生育史においてですし、せいぜい遡っても、両親や祖父母くらいの影響まででしょう。

しかし、トランスパーソナルな心理学になってきますと、言わばサイキックや霊的な範疇まで扱うことがあるようですから、そうなりますと、よくスピリチュアルな分野で言われる「過去生(世)」「前世」というデータまで、一個人に関わるものとして見る向きもあるかもしれません。

とはいえ、前世のようなものは確かめようがなく、言ってみればオカルト(本来のオカルトの意味ではなく、ここでは一般的な意味で使っています)みたいなものですから、話のネタとしてはあっても、普通はまともに扱わないでしょう。

さてでは、タロットリーディングにおいては、どのデータ範囲まで扱うのかという問題(テーマ)があります。

端的に言えば、上記の「前世」まで扱うのかどうかの点も入ります。

過去生を読むチャネリング的なスピリチュアルタロットリーディング(このような言い方があるのかはわかりませんが)というものなら、アリなのかもしれません。

そもそも、タロットリーディングもカードという象徴ツール・システムを使いながら、一種のチャネリング作業を行うようなところもありますから、前世データがダウンロードされてくる場合もありそうです。

ただ、あくまで基本は、今の自分個人(現世)としての人生を範疇とすると、前世情報・データは、サブ扱いするのが妥当のように思います。

私はどうしているのかと言えば、上述の基本姿勢(今の自分としての人生で考えること)を採用しつつも、時折、前世的なデータをタロットから読むことがあります。

これには大きく分けてふたつのものがあり、ひとつはタロットカード(使用しているマルセイユタロット)そのものに描かれるもの(象徴されているもの)に、世代を遡るような意味合い(日本人的にあえて言えば先祖因縁のようなもの)が認められるのと、もうひとつは、タロットカードからインスピレーションを受けて、タロットリーダー個人に入って来る前世ストーリー・ビジョンのようなものがあります。

また、両方(カードの意味とインスピレーションやビジョン)が重なって来ることもあります。

最初は私も後者のような読みはあまりなかったのですが、マルセイユタロットを長く扱っていますと、ある種のゲートやアクセスポイントとつながるのか、現実情報を超えたものが入って来ることが度々起こるようになりました。しかし、毎回ではなく、そのクライアントに必要性がある場合に限りです。

そして、ここが重要で、今日言いたいことにもなるのですが、そうした前世データとか、現実を超越したような情報が本当かどうか(例えば過去生で、その人が実際にそういう人でそのような過去であったかどうか)は問題ではなく、相談する人(クライアント)自身の今生の人生をより良くしたり、生きやすくなったりするために、よい情報材料となればいいということなのです。

そもそも前世があるのかないのか、またたとえあったとしても、一個人の魂が別の人間として生まれ変わるようなことなのか、はたまた、いろいろな個人のデータが混在して、ひとつの新たな魂としての情報が固まるのか、様々に過去生とか輪廻転生については考えられるわけで、その証明は難しく、当面はそれを解決する(はっきりさせる)手段を人類は持たないでしょう。

であるならば、何か眉唾的なものだとしても、ひとつの物語、ストーリーとして過去生などを設定することにより、実際の今の人生に好影響が出るのなら、それを採用するのもありという考え方が出て来ます。

私はそうした考えを入れて、過去生データというものを扱っています。事実かどうか、過去生そのものを認めるかどうかとはまた違うわけです。

さらに、たとえ自分の過去のデータではなかったとしても、そうした情報の物語が何らかの形で、その人に影響を及ぼしていることは確かで、それは今生(のどこか)で、何かの話を聞いたり、経験したりするなどして、無意識の領域で自分が気づかない間に入れてしまっている(あるいは創造している)情報ということが結構あるように思います。

言わば、過去生の情報というカタチを取りながら、何かその人の改変とか浄化のトリガーになっているものとも考えられるわけです。

過去生情報のカタチの中に現れる物語の骨格(構造)とか、登場人物、特に自分がその人であったと想定している人物像は、夢で見ている別の自分のようなもので、その過去生が事実かというよりも、自分自身で作り上げている情報の一種で、それが潜在的に影響を及ぼしている可能性があるという印象です。

マルセイユタロットリーディングでは、過去生というカタチを持ちつつ、その人が潜在的に創り上げ、知らず知らず自分に影響を与えてしまっている物語を読み解き、自身で気づくことを促します。

物語に気づくことは、大きな解除になり、物語の中に閉じ込められていた、あるいはなり切って演技していた自分から解放され、その演技(物語)を見ている側の自分に戻り、我に返ることができます。

そうすると現実にあった問題が問題でなくなったり、より生きやすくなったりするのです。

こういうことも起こり得るのが、マルセイユロットのリーディングなので、とても興味深いところがあります。


「愚者」と「13」の共通点から

マルセイユタロットのカードは、すべては異なっているのですが、よく見ると図像が似たようなカードもあれば、意味的に同じようなことを示唆しているカードもあります。

そういう意味では、ある事をテーマにグループ分けも可能ですし、逆に言えば、タロットカードをあるグループに分けることができたのなら、そこからグループのテーマ、共通する意味というものが浮上してくるでしょう。

さて、一見似ていないようで、その象徴性を学んでいく(つかんでいく)と似ていることがわかるというカード同士、組み合わせもタロットにはあります。

その一つ(の組)として、「愚者」と「13」を取り上げたいと思います。ただし、ここではマルセイユタロットの話をしておりますので、ほかのタロット種では今から話すことにはなりませんので、ご注意ください。

「愚者」と「13」、一見すると、あまり似ているところがないように思えます。いや、それどころか、絵柄や雰囲気はまるで違うように見えるかもしれません。

実際、図柄を見ていただければわかるように、「愚者」は旅姿の人物でどちらかといえばカラフルな服装をしており、深刻さも感じさせない、ラフな雰囲気があります。

一方、「13」は、全体的に黒い色が目立ち、骸骨姿の人物が大きな鎌をふるっているところからしても、何か恐怖や、ただならぬ雰囲気、真剣さを感じさせます。

そうすると、真逆とも言えるこの二枚の印象となります。

端的に言えば、楽観と悲観、気軽さと気重さ、おふざけと真剣さ、楽しさと恐怖みたいな対比・対立にも思えてきますし、それはその通りのところもあるのです。

ただ、あえて二枚の共通点を見るとしますと、どちらも人物が右に向かっています。

マルセイユタロットは方向性にも意味があり、右方向は進展や発展、変革、未来を示すと考えられています。(※図像的には、口伝の中で、数々の厳密な意味での共通点があるのですが、それは口伝ですのでここでは言及しません)

ということは、特に「13」はそう見えないかもしれませんが、右に向かっているのなら、何らかの進歩を示しているということになり、どちらも止まったり、戻ったりするわけではなく、成長のために前進していると考えられます。言い換えれば、(「13」でさえ)前向きなのです。

また、「愚者」は明らかに移動しているように見えますが、「13」も、さきほど言ったように、向かって右方向に進んでいると考えますと、両者には進む、移行するという共通項があることに気づきます。

ただ、その移行の質が違うのです。

「愚者」は物理的に移動しているように見えますし、またここが盲点でもあるのですが、左側(の何らかのこと)から逃げていると見ることも可能なのです。

そして「13」は鎌をふるっています。西洋的に言えば、この鎌は麦を刈る鎌で、人を傷つける武器ではありません。

ただ刈ることが強調されて、骨姿とあいまって怖い意味合いにされているところがあります。けれども作物の収獲のための鎌ですから、むしろ、喜ばしいところもあるのです。

ということは、「13」の移行とは、物理的にただ進んだり、逃げたりするというより、精神性も含めて、何か自分が撒いた種が実って、それを刈り取るような象徴性があり、過程を経て、何らかの実り(結果)を得てから次に進という意味が見出されるのです。

よって「13」の移行・進展とは、自らの行為(の結果)を受け止めて自分を改革し、次に向かうことになるのです。一言で言えば、逃げられない進行であり、言わば、先に進むためには、終わらせたり、処理を施したりすることが求められるのです。

この二枚の共通性(のひとつ)は先述しように、進み、移行するということなのですが、それぞれで性質が違うということが重要です。

ですから、タロットリーディングで「愚者」が出れば逃げることもOKですし、楽しく移動すること、旅をしたり、気分を変えるために引っ越ししたり、簡単に転職してみたりすることも許容される感じになります。

本来なら「愚者」は冒険の雰囲気のあるカードですが、左側から逃げていると解釈すれば、「君子危うきに近寄らず」のように、あえて(左のものから)避けることも意味されます。

しかし「13」の場合は、「愚者」とは違い、きちんと状況(他人)や自己と向き合うことが必要でいい加減なまま次に向かうと、逆に厳しい状態になるおそれがあります。

ですが、「13」も「愚者」と共通して、進むこと、移行すること、成長への視点があるわけですから、「愚者」よりも大きな改善、変革、チェンジの可能性がある(というより、それを志すこと)と言えます。

「13」は厳しいかもしれませんが、それも撒いた種がそのような形で実ってきたわけですから、放置せず刈り取ること、すなわち真剣に対処し、うやむやにせず、きっぱりと終結を選択し、新しい道に進むこと、新しい自分になること、よりよい環境にしていくことの決意により、「13」のエネルギーが動き、あなたを新世界へと導くでしょう。

また、タロットリーディングで「愚者」と「13」が一緒に出るような場合、一刻も早い脱出を表している場合があります。それは逃げて自分を守るというようなケースも考えられます。

「13」は逃げられないと言いましたが、それは逃避することが不可能と言っているのではなく、むしろ逃げも含めた自己改革を示唆していることがあります。

「13」の場合、安易にただ逃げることがダメなだけで、逃げるためには何を行うべきか、問題を解決して脱出するにはどうすべきかということを検討し、実行する必要があるのです。

ましてや、単に逃げもOKな(笑)「愚者」も同時に出たとなると、退避、脱出、変転のススメが強く出ていると見られます。

日本人では結構我慢してしまう人も多くて、そのために逃げ時を誤り、心身の故障や経済的損失、依存性の膠着、洗脳完成に陥ってしまうようなことがあります。

視点を変えれば、ほかの方法や生き方もたくさんあるのです。最悪の事態にならないように、そして本当の成長のために次に向かうことでも、逃げることも選択のひとつと考えておきましょう。

そして、「愚者」と「13」では、その逃げにも性質が違うように、「進む」に対しても、がむしゃらにただ前進するのではなく、状況により分けて対応していくことも考えましょう。


迷いや悩み 天上的・地上的見方

人間生きていれば、迷いや悩みの連続と言えます。

その程度は人それぞれであり、ほとんど悩みなしの人もいれば、毎日、いや毎時間、何かしら悩みを思って過ごしてしまう人もいるでしょう。

私はもともと不安を感じる傾向が強いので、なかなか安心という境地にはなれず、いつも悩みを抱えている種の人間です。

ただ、そうした私だからこそ、特にマルセイユタロットを通して、自分のこのような傾向に対し、どうすればよいのかも考え、実践してきました。

今日は、そういった話を少々したいと思います。

まず、悩みを解決する前に、自分がどういう種類の人間であるかを自覚しておくとよいでしょう。

この世の中は、誰一人として同じ人間のいない世界ですから、いわゆる個性というものがあり、他人の意見とか解決法は参考にはなっても、自分にぴったり適合するとは限らないからです。

もちろん、万人に効く薬とか方法もあるわけですから、「人」として共通の部分もあるにはあります。しかし、やはり悩みとその解消(対応)には、基本的にオーダーメイドの世界だと思ったほうがよいでしょう。

例えば、感じ方が平均的な人より敏感な場合もありますし、もともと幸せ(幸福・安心)を感じやすい人と、そうではない人がいると言われています。(もはや遺伝子レベルの話ですが)

Aさんにとってはこの程度で幸せとか安心だと思うのに対し、Bさんではその半分以下なこともあるのです。

従って、自分が一般的(これも数値では出にくいので、何が一般とか平均かと言われると難しいのですが)なものと比べて、高いのか低いのか、また、何をもって安心とか幸せと感じるのかということを、少しは知っておいたほうがよいのです。

次に、本日のテーマでもあるのですが、特に言及したいのが、悩みについて、地上的観点から見るか、天上的観点から見るかを考えるということです。

このふたつは、言い換えると現実的か精神的か、短期的か長期的かでもあり、要するに、人生全体(長期・天上)としての見方をするか、その場その場でのシーン(短期・地上)として見るかということでもあります。

ちなみにマルセイユタロットでは、天上的が大アルカナで、地上的が小アルカナといったところであり、さらに大アルカナの中でも、より天上的か地上的かも問えますし、小アルカナでは地上的な中でも、どういった性質が優先されたり、重視されたりするべきかということも、タロットリーディング(またはタロットの活用)によってわかります。

ここではマルセイユタロットを持たない人でも、このふたつの観点(地上的・天上的)を持ったほうが、悩みに適切に対処しやすい面があることを述べておきます。

人間の現実的・地上的悩みと言えば、マルセイユタロットの小アルカナ4組に象徴されるのですが、それは知識・情報・価値に関すること、心や感情、関係性・承認に関すること、行動や生きがい、情熱に関すること、お金・経済・健康に関することなどとして、主にあげられます。

このすべては基本、地上的であり、究極的なことを言えば、亡くなってしまえば消えるものです。(笑)

そう、この亡くなってしまえば消えるものという見方が天上的と言えます。天上的な観点は、言わば、人生の終わり(亡くなった時に振り返るような)視点です。

一方の地上的な観点は、まさに現実で悩んでいることになり、生きていれば必ず誰しもに起こる悩み事と言えましょう。

これは人生の経過中の見方になりますし、生まれた時から今まで、またこれからも含む観点で、そうすると、一見全体的なようでいて、実は「今」この時(の選択や対応)が重要なポイントとなるものです。そういう意味からも、やはり、経過中の観点というのが妥当かもしれません。

先述したように、地上的な悩みのほぼすべては、死んでしまうと消えると思えるものです。

それは、生きている間に比べられる「差」から生じていることがほとんどだからです。

他人と比べるだけではなく、自分自身の中でも比べるわけですが、それは肉体という存在があってのことで、これがなくなれば、問題は心のものくらいになりますが、それも現実的な問題は不足感(満たされていないこと、快ちよくない状態)から出ているものであり、不足を感じることができなくなれば消失するものでもあります。

死ぬとおそらく肉体がないことで、不足感(ほとんどは肉体を通して感じているものであるから)とか不快感もなくなると思われますが、もし肉体がないのに、肉体があるように思ってしまうと、それは結構つらいことになるのかもしれません。

食事で例えれば、お腹が減ることはないのに飢餓感はあり、でも食べることができないという、奇妙な状態です。

たぶんこれが(生きていた時の)執着であり、執着が強いと、お金であれ、愛情であれ、モノであれ、肉体あっての自分として、相手や対象を認識し、それを信じ込んでいると、死後、大変なことになると危惧されます。

よって、やはり終活に向けては、肉体・モノから来る執着をどんどん薄くしていくようにするのがよいのではと考えられます。(これも無理にすると、逆効果ではありますが)

それはさておき、実際の生きている間のことが問題ですよね。

しかし、ここでも、地上的観点ではなく、天上的観点で悩みや問題を思うと、不思議と、いい意味のあきらめが出たり、これもよい意味で、どうでもよくなってきたりする時があります。

長い目で見ると、あるいは、人生の最後から見ると、今、悩んでいることはどうなんだろう?という見方です。

その人でなければ、そのモノでなければ、その〇〇でなければ、本当にダメなのかどうか? ほかでもよいのでないか? あるいは、それがなくても生きること自体、自分という本質には問題がないのではないか?

と、このように思っていくと、悩みはあっても、何とかなる、悩みを受け入れて生きて行こうという感じになる場合があります。

大事なのは、肉体・物質としてはかられる「量」ではなく、経験した「質」だと、天上的観点からは言えます。

ただし、つらい、哀しい、悔しいなど、否定的な性質の類がたくさんあり過ぎると、それを何とかしたいという思いの後悔が残り、結局執着にもつながりますから、こうならないような、地上的対応、観点は必要かと思います。

また天上的観点が過剰になっているケースでの問題は、無気力感、厭世観、独善的気質を生み出してしまうことです。本当の天上的観点とは、何を最後(最期)に持って行くことができるか(量・肉体・物質ではなくて)なのです。

すると、何もなかった、生まれないほうがよかったみたいなことでは、(人生の)終わりから見ても本当に空しいものになってしまいます。

もしかすると、死後の裁判では、「何もなかったのなら、今度は何かある人生を経験せよ」と裁きが下るかもしれません。あくまで、輪廻転生とかカルマ的なものがあると仮定した場合の話ですが。

天上的観点ばかりを言っていますが、地上的観点も重要です。むしろ、スピリチュアル傾向のある人は、この地上的観点をもっと入れたほうが、悩みに対しても有効と言えます。

地上的観点の特徴は、時間・空間限定ということです。また、個性(一人一人違い)があることも言えます。

要は、効率性と個別性があるということです。効率性があるので、正解と間違いははっきりしますし、非効率なものは間違いと言えるケースも出るわけです。

個別性では、正解と間違いの区別は難しく、ひとり一人の正解は違うとも言えます。

それを考慮したうえで、特に時間限定を意識して選択すると、地上的観点では効果が高くなります。それに空間(場所)も、それに応じた効果のあるなし、効率・非効率があるので、そこも無視できないところではあります。

つまるところ、地上的観点から、悩みに対しては、短期的な効果での最善を目指して行動し、同時に、天上的観点として、人生の終わりから眺めることで、悩みへの受容精神(受け入れる気持ち)を併せ持つとよいと思います。

地上的に見てダメな時や、どうしようもないと思えるような場合においては、経験の質を取る(地上的な吉、満足、快楽、安心、幸せが得られるかどうかという観点ではなく、それから何が質として得られるか、どういう意味があるのかを考える)という見方をすると、(新たな)生きる道も現れて来るでしょう。

一言で言えば、「何とかする(しよう)」という気持ちと、「何とかなる」という思いとの両方を、悩みに応じて持つという感じでしょうか。

マルセイユタロットで例えるなら、「世界」のカードと「手品師」のカードの同時象徴性のようなことです。

どの道、あなたはあちらの「世界」に行くのですが、「手品師」として、今いる現実で、もがいて色々と試し、経験することも、こちらの「世界」では重要だと考えられます。

そしてまた、謎かけのような話(笑)ですが、あちらとはこちらでもあり、こちらはあちらでもあるのが、マルセイユタロットからの示唆になります。


マルセイユタロットの簡単なシンボル活用

マルセイユタロットの使い道は様々にあります。

一般的には、タロットは占いの道具だと思われていて、実際に、たぶん今でも一番使われているのは、占いでの場面でしょう。

しかし、だいぶんそれ以外の活用法も広まりつつあり、私に限らず、たくさんの人が、タロットの、占いではない使い方の啓蒙をされている効果が出てきているように思います。

さて、そうした占いではない使い方の中で、とても簡単ですが、意外にも神秘的な側面もあるものをご紹介いたします。

それは、マルセイユタロットをシンボルとして活用するというものです。

タロットは象徴ツールですので、象徴=シンボルと解釈すれば、今さらながらの話で、タロットはいつでもシンボルとして活用されていると言えなくもないのですが、ここでいうシンボルとは、イコール象徴というのとは少しニュアンスが違います。

皆さんも何となく感じてはいるかもしれませんが、象徴という言葉とシンボルという言葉とでは、微妙に何か異なる気がすると思います。

それは翻訳とか言語学的な見地で言っているのではなく、まさに生で使う言葉の感覚としてのものです。

“シンボル”と私たちが言う時、それはサイン・記号のようなものも含まれているように感じますし、シンボルという言葉自体、何か呪文を唱えているような趣きもあります。メルヘン的に言えば、魔法的な効果とでも言いましょうか。

このようなシンボル的感覚をもとに、マルセイユタロットの、特に大アルカナカードを何かのシンボルとして使う(無意識のシンボル化)という方法があります。

やり方は簡単です。

●マルセイユタロットの大アルカナカード一枚を、常に目につくところに置いておく。

これだけです。

願望実現とか、何か特定の成し遂げたい希望を叶えたいという時に使うシンボル的な方法もあるのですが、今回のは、そうしたものではなく、ただ気になるカードをシンボルとして置いておくという単純な方法です。

気になるカードが特にない場合、あるいは迷う場合は、シャッフルして選ぶという方法でもよいです。

シンボルは、本当は「象徴」ですから、何かしらの意味をカードにシンボライズするわけですが、今紹介しているのは逆の方法で、カードによって、自分の中の何かがシンボライズされていくというものになります。

仮に目標達成ということがテーマだったとしても、目標をカードに託す(表す)という方向性とは逆で、自分の中からカードによって目標が生まれて来るというような感じになります。

カードを飾っておく期間は個人それぞれで違いますので、長い人もいれば短い人もいます。

最初は何も起こらないでしょうが、いずれ、何らかの気づきとか変化が現れます。

しかしそれでも、その内容がカードからもたらされたとは気づきにくいものかもしれません。

また、人によっては些細なことのケースもありますし、反対に大きな変化ということもあるでしょう。精神への影響もあれば、現実に目に見える形で変わってくるという場合もあります。

まあ、たいていは気づきにくいようなことが多いです。

それでも、ふとした時に、「そうか、このカード(置いていたカード)と関係していたのか」と悟る瞬間がやってきます。

一言で言えば、マルセイユタロットの「女帝」のようなもので、自らの中から創造されてくるわけです。

そのカードと関係した内なる創造が、カードでシンボライズされることによって起きるのです。

何が出るのかはお楽しみというところでしょうか。(笑)

興味のある人は簡単ですので、やってみてください。


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