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「世界」のカードと現実の世界

タロットカードで伝統性を受け継いでいるものなら、大アルカナの最後にして最終の到達地点、かつ最高の境地といわれる「世界」のカードがあります。

この「世界」を文字通り、私たちの今の現実の世界と取るか、そうではない別の世界や次元を描いていると取るのかでは、大きく解釈も違ってくるでしょう。

最初の一文で書いたような解釈(到達地のようなイメージ)では、後者、今の現実の世界の状態よりも、もっと高いレベルの世界であると考えられます。

しかし、普通に、そのまま私たちの世界を示す、としてもよいわけです。

そして、実は、両方の解釈を成り立たせることもできます。

この現実の世界は、一見すると、無秩序で混沌としており、完全とは言い難い、不公平や問題が山積された世界のように見えます。

それでも、もし「世界」のカードが示すように、この現実世界さえも完全で、最高の状態(の世界)であるとすれは、いったい(この矛盾を)どう受け入れればよいのでしょうか?

ひとつには、全員が一致して世界を見るのではなく、一人一人が自分の見る“世界”として感じることで、その説明が可能になります。

個人なら、世界が完全だと思うこともできますし、逆に不完全だと見ることもできます。要するに、あなた次第、自分次第で、この世界をいかようにでもとられえられる、解釈することが可能という見方です。

これは極めて心の問題、物事の考え方によることになります。平たく言えば、気の持ちようというレベルの話にもなってきます。

それだけに、誰でも、思考さえ変えれば、世界は完全性をもって現れるということになり、あとは平穏や完全を、結構なレベルで感じられる(思考できる)メソッドを身に着ければよいことになります。(よくあるのは瞑想など)

この方法が通じるのは、かなり自己洗脳に近いくらいの強烈な思い込みや信念がないとできないかもしれません。それに、人には不完全さに偏る思考や感情が常に働きますから、なかなかやっかいです。

それでも、あまたの人が、完全や平穏に(比較的)日常的になる方法を開発し、披露したり、教えたりされています。

そうやって、心のコントロールというようなものに成功すれば、まさにいつも天国状態、何があっても、それはネガティブや問題として感じるのではなく、エンターテイメントとして楽しむことができ、自分の世界が現実世界となり(自己のリアリティが現実のリアリティと一致する)、完全なる「世界」という思いで、現実を生き生きと過ごしていくことができるでしょう。

さて、もうひとつの矛盾統合的な方法は、パラレルワールドや次元別世界を設定することです。

普通、私たちの今の世界(過去の世界も、歴史を知るうえでは)が完璧、完全だとは、なかなか思いにくいのが通常でしょう。

自分ひとりだけではなく、周囲の人、地域、国、地球全体を見渡しても、平和で何の問題もない世界であるとは、よほど能天気な人しか思えないはずです。

先述したように、それでも、一人の個人的な観点であれば、自らの内に、あるいは高次の存在として、天国や神、仏、天使などの観念をリアリティをもって信じていた場合などで、「この世は、いかなる時も神(最高の存在・状態)の思し召し、意志、計らいによる完全」を表していると、信念として思い込むことも可能でしょう。これは、宗教的な見方と言ってもいいです。

ただ、多くの人はそうではありません。冷静かどうかは別としても、客観的に外を見て、自分だけではなく、世界には問題が様々にあり、完全なる世界とは言い難いと見ているでしょう。

ところで、さきほど、パラレルワールドや次元を設定するという話をしました。

これは、今、私たちが実際で現実だと感じている世界のほかに、別の世界や、レベルの違う世界が同時に存在していると見る方法です。あるいは、同時ではなくても、「世界」というものには、レベルの違いがあるのだと、ただ想定してもよいです。

そして、ここが矛盾統合で一番重要な点ですが、どのパラレル、または次元の違う世界においても、やはりそのレベルにおいて完全なのだという認識をすることです。

「世界」(の種類)には、非常に高度な発達と調和を遂げた天国的レベルの世界から、かなり低レベルの、見た目は争いや問題の絶えない修羅や地獄のような世界まで存在し、しかしながら、そのどれもが、そのレベルにおいては完全になっているという考えです。

ただ、レベルの違いがあるので、上から下を見れば、下はとんでもなくひどい世界と感じ、逆に、下から上を見れば、上はすばらしき世界、理想的で完全だと思えるような世界に見えるわけです。

言ってみれば、地獄は地獄なりに、完全なる世界として調和しているということです。(笑)

この完全と調和という概念は、理想やイデアというより、そのレベルにおいて過不足なしとか、バランスが取れているという意味であると思っていただいたほうがよいです。

地獄にたとえお花畑があったとしても、それは天国とは違う、地獄にふさわしい花が咲いているというようなもので、それでも地獄の花は地獄の花として、それなりの(地獄としてのバランスのための)役割があるということになります。

翻って、私たちの現実世界を考えますと、問題がある、おかしい、解決すべきことが多いと感じている場合は、どこかもっとレベルの高い世界を知っている可能性があります。

それでも、今の私たちの(集合)意識レベルでは、この世界しか作ることができず、そして、さきほども言ったように、この世界はこの世界のレベルにおいて完全なのです。

私たちが選択し、表現している層の世界が、今のこれなのです。

個人レベルで、この世界は神の創造した世界であるから完全なはずとか、モノの見方・考え方次第で天国にも地獄にも世界は映るという話はしましたが、多くの人は、この世界に矛盾を感じたり、発展途上的な思いがあったり、もっとすばらしい世界にできるのではないかと思っていたりするのではないでしょうか。

ということは、ほとんどの人は、別のレベルの世界を知っているのです。少なくとも、この今の世界の表現においてのレベルと調和・完全性において、全員満足しているとは言い難いのです。(もちろん満足している人もいると思いますが)

言わば、「レベルにおいて、どれも完全」という世界説を取ると、私たちの世界はこれが限界なのです。というより、いつも、いつの時代も、その時点の世界は最高で完全なのです。

ただし、レベル違う世界の移行を思えば、天井はありませんし、上から下を見るような感覚になって、成長の余地が意識されます。

それにしても、私たちはなぜ、別のレベルの世界を知っているのでしょうか?

普通に人の持つ向上心や、文明の発達という概念だけでは説明できないところもあるように思います。

マルセイユタロットも語るように、実体、現実としての形が現れるのは、その前にイデアとしての発想、ビジョン、イメージを想起したり、キャッチしたりする必要があります。

行動の前には、確信のイメージがあると言われるものです。

ということは、私たちの中に、世界のイメージ(様々なレベルの世界イメージ)がもともとあるのではないでしょうか。

それは心が知っているというより、魂・霊が知っているような気がします。

ということで、私たちの世界は、もっと上のレベルの表現(これは現実という意味と同じです)ができるためには、さらに多くの人のイメージ・意識として共有する必要があると思います。

そして、これも矛盾のような、おかしな話に聞こえるかもしれませんが、ひとつのレベルを超えるためには(移行するためには)、今の表現レベルを十分に自覚し、この時点でも完全であることを認識することが重要になると考えられます。

ひとつのレベルの世界を表し尽くすと言いますか、この今の世界が、不足や過剰、問題ある世界と思ってしまっては、逆にそこに留まざるを得ない仕組みがあるように思います。

ピースがそろって初めて次に進めるかのように、今の世界での完全性をできるだけ感じ取れる認識力が十分に発達すれば、やっと、次のステージの世界の表現の道ができるという意味です。

従って、問題意識を放置したたま、やたらと上を目指すより、遠回りなようで、一人ひとりが自分の問題と向き合い、完全性(の認識)を取り戻すことができてくれば、結局それが早道となって、別次元の世界に到達すことができるようになるのではないかと、マルセイユタロットの「世界」を見て思うのです。

この世界と、その表現を決めているのは、私たち自身です。

ただ、もうほとんどの人は、忘却していた、もっと上の次元の世界と表現のイメージや感覚、あるいは人によっては故郷のような郷愁をもって、思い出しているのではないでしょうか。

そんな、時代の移行点に来ていると個人的には思います。


関心の方向性と、そのバランス

マルセイユタロット、中でも、私が特に使用しているのは、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットです。

このタロットは、その名前の通り、アレハンドロ・ホドロフスキー氏と、フィリップ・カモワン氏の共同作業による、いわば、リニューアルされたマルセイユタロットです。

従って、現代の技術も使われていますので、カードは、より詳細で、鮮明な画像になっています。

その鮮明さの中のひとつに、カードの人物の視線の明確さ(の復活)があげられます。つまりは、人物がどの方向を見ているのかが、はっきりわかるのと、鋭くなっているということです。

この視線にも、大別すると、三つの方向性があります。それぞれにもちろんが意味がありますし、解釈次第では、多様な見方ができます。

そこで、少し前に起こった事件とともに、この視線方向の三つをヒントに、ある考えが浮かびましたので、書いてみたいと思います。

さて、兵庫県明石市という市があります。対岸に淡路島を望む海辺の町で、神戸市と隣接しながらも、風光明媚なところもある海岸線を主体とした細長い市です。実は私の住んでいる市でもあります。(笑)

余談ですが、東経135度の通る場所として日本標準時の町であり、「ガイアの法則」という本では、地球の経度位置による衰退と発展が周期的に繰り返されると示され、東経135度が将来(未来)的に重要な意味を持つことで、スピリチュアルに関心のある人にも、興味をもって見られているところです。

その明石市の市長の、部下に対する問題発言と、それに関係しての市長の辞任の話題がありました。

最初は、ただ(前)市長の暴言のみがクローズアップされていたこともあり、市長は批判されていたのですが、後日、全文と言いますか、その時のトータルな発言も出ることで、一転して、市長を擁護する人も増えました。いずれにしても、発言があまりにも強烈で、問題性があったので、ご本人から辞任されたという終幕を迎えました。

この前明石市長は、割と市民の間、特に若いご夫婦や小さいお子さんのいる家庭では評判がよいところもあると聞きます。

それは、そういう方々への施策を次々と実行されていたからです。また、駅周辺の再開発や、図書館の駅前への移転など、市民にも便宜を図ることをされていたので、一般市民的にも評価される向きもありました。

ただ、明るみに出た部下への暴言、パワハラ的な態度は、やはり問題があると見られているところもあり、その責任を取って辞任されたわけです。

この(前)市長の場合、どの方向に主に関心が向いていたのかといえば、一般市民の暮らしや生活、利便性などであり、言ってみれば市民に対しての方向性が中心だったわけです。

それは市長という立場では当然のことではあるものの、問題となった部下への扱いから考えますと、職員への関心と気遣いは、あまりなかったか、あっても、ちょっと方向性や熱意の示し方として違っていたものがあったのかもしれないと推察されます。

企業にあっても、社長やトップの立場にある人が、どの方向に関心や注意を払っているかによって、企業の性格はもとより、その発展や存続にまで影響するのではないかと考えられます。(これも当然と言えば当然ですが)

それで三つの方向性です。

企業を例に取ると、ひとつはお客様や消費者中心の視線、もうひとつは、その企業で働く従業員・社員への視線、さらに三つ目は、自分、あるいは私的物と見てしまうような場合の企業(会社)への視線です。※ここで言っている「視線」は、関心ととらえてもよいです。

これは個人の場合でも言えます。

すなわち、自分と関わる他人への視線(公的視線)、家族や近しい人に向けての視線、自分自身に対する視線の三つです。

これらがバランスよく、あるいは順序を間違えない視線と関心があればよいと思いますが、得てして、どれかひとつに偏る傾向があります。

企業の場合、トップが、あまりにお客様志向、お客様のためと思い過ぎて、何もかも犠牲にし、滅私奉公のような状態で、社員にも奉仕を要求し、しかもサラリーに努力や結果が反映されないとなると、これは辞めていく社員も多くなるのでないかと思いますし、辞めなくても社員は疲弊し、モチベーションや、やりがいもなくなっていくでしょう。

しかし、反対に社員ばかりに気遣い、お客様の声を無視していては、会社の売り上げは上がらず、結果的に社員への給料も払えず・・・となるおそれがあり、本末転倒です。

また、自分だけしか目が行っていなく、悪く言えば、自分が大事、自分がかわいい、自分さえよければよいというような態度では、そもそもトップが務まるとも思いませんし、私利私欲で会社を動かしていることになってきます。

個人のケースでは、究極的には、全員、自分のために視線や関心をもってやっていると言えますが、それでも、他者を意識し過ぎるか、自分と他者をバランスよく見たり、冷静に区分けして見ていたりするかによっては、変わってくるところもあると思います。

やたら人のために自己犠牲し過ぎるのも問題ですし、人の気持ちもまったく考慮せず、自我を押し通すことも、周囲とトラブルが起こりやすくなります。また家庭・家族、身内などを顧みずというのも、また問題となることが多いでしょう。

やはり、個人の場合、自分を大切にすることは第一かもしれませんが、先述したように、利己主義、わがままになるのとはまた別で、他人や他者との調整、気遣いもある程度は必要とされます。

三方よしではありませんが、関心の方向性として、自分、他人、関係者それぞれがうまく調和するようなものがベストなのかもしれません。

現在、何やらうまく行っていないと思う人(組織)は、自分(中心や方針を決める立場の人)の視線、関心がどこに行き過ぎて、どこに足りなさ過ぎているかを見直して、バランスを図ると、改善されたり、持ち直したりする可能性があると言えます。

これは、本当にケースバイケース、個人や組織で(理想の)バランスも違ってくると考えられますから、一律(パーセンテージや純粋な割合)で言えるものではありません。

ただ、問題というものが発生していたり、自覚できていたりするのなら、こうした関心の方向性のバランスがおかしいのではないかと疑ってみるのは、解決のヒントのひとつになるかもしれないのです。


「神の家」の自信

私たちは普段何も思わない人でも、不安な状況にさらされたり、決断がなかないできない状態や、何をしていいかわからなくなったりすると、迷い・混乱に陥り、自分への自信を失うことが多くなります。

自分ではわからない、自分では決断を下せないのですから、判断のもとたる自分自身に、しゃれではないですが、自信が持てなくなるわけです。

まさに、自身の揺らぎ=自信の喪失とでも言えましょうか。

マルセイユタロットでは、揺らぎのない自分と、自信を獲得した状態は、「神の家」で表されるものと考えられます。

一方、数のうえで、その「神の家」の前のカードに当たる「悪魔」は、悪魔による自信と、ひとつには解釈できます。

「悪魔による自信」とは、カリスマ的な人や、自分が信仰に近い形で敬愛・崇拝している人に寄りそうことで、自分の自信に換えているというもので、よくあるパターンです。

悪い言い方をすれば、“虎の威を借る狐”みたいなところもありますが、よい言い方をすれば、その人をモデルにしながら、自分の中にある自信の部分を見出そう、創り出そうとしている状態とも言えます。

しかし、その悪魔から承認してもらうこと(ほめられたり、評価されたりすること)でしか、自分の価値や自信が持てない状態が続くと、それは依存ということになります。(中には、悪魔側が依存している、つまりは共依存関係もありえます)

自分が悪魔である(この場合の悪魔は、一般に言われる悪の道に誘惑したり、非道を行う悪魔的存在という意味ではなく、マルセイユタロットカードに象徴されるカリスマや影響力のある魅力的な人物の象徴と取ってください)ことを自覚している人(演出している人も含む)の中には、本当に、悪い意味での悪魔になってしまっている人と、共に成長を図ろうとしているよい悪魔がいます。

言い換えれば、わざとか、無意識のうちに依存させて、自分についてくる人のエネルギー(目に見えないものだけではなく、お金、時間、熱意、その他もろもろの形の場合もあります)を奪い、自分をさらに肥大させようとするのが悪い悪魔で、人からエネルギーはもらうものの、それ以上に自分もよい意味で拡大し、力をつけ、それらを人に還元していくタイプがよい悪魔と言えましょう。

この区別には、やはり、「」というものがひとつの基準になると思います。

悪魔中心(悪魔自身に向けられているだけの、自己愛中心)なのか、双方向(自分だけではなく、他者愛)にもなっているかどうかという点が重要ではないかと思います。

ただ、どちらにしても、この「愛」も、情とからむことが多く、従って、「愛情」「情愛」と書くと、よい悪魔との関係も、理性が働かない感情的なつながりが中心(タロット的にいえば、杯であり、剣の力が薄い)状態になっているとも考えられます。ゆえに、その関係性は断ち切りにくいわけです。

そこで、「神の家」です。

「神の家」と書くと、神様が住まう神殿とか神社を想像するかもしれませんが、マルセイユタロットの「神の家」は、神殿というより、文字通り、神の家(フランス語で、カードの名前がそう書かれています)なのです。

これでは、まだわかりづらいですよね。

もうちょっと補足説明すると、「神の家」を、例えば、「田中さんの家」というふうに、「神」の部分を固有名詞にして比較すれば、言っていることが、わかってくると思います。

上述の、「田中さんの家」と書けば、それは田中さんの住んでいる家、もしくは田中さんの所有する家と思うのが普通です。しかし、これを「田中さんが家」だとすると、まったく変わってくると思います。

そう、「神の家」も「神が家」と言い換えた、いわば反転した言い方をすれば、「家が神」ということになります。

この(神の)家も建物(メゾン・マンション)みたいなイメージが、マルセイユタロットにはありますから、神の家が建ったというような感じであり、しかも、「神が家」という言い方をすれば、まさに、家=神、建物=神の状態なわけですから、神が来た、神になる、に近いのです。

そして、この神とは誰か?です。

もう皆さん、おわかりかと思いますが、この神とは「自分」です。もともと自分の内にあった神性が、長い間の気づきや修行を経て覚醒し、自分が神であることを認識する強烈な変化が起きたのです。

ここで、やっと、最初の話に戻ります。

こうなると、自分が神(これは、おごった言い方ではなく、完全性の悟りや宇宙、大いなるものと一体化することとイメージすればよいでしょう)になることに覚醒したわけですから、その自信は、もはや人間レベルの比ではないことがわかります。

本当の意味での自信、誇りに目覚めたのです。

「悪魔」では、誰かを悪魔(仮託する存在)にして、自信(自身)を承認してもらう必要がありました。あるいは、自分が悪魔となって、つき従う人のエネルギー、状態を感じて(自分に流入させて)、悪魔としての自信を得ていたとも言えます。

それが、「神の家」になると、完全に自立し、もう、悪魔は必要なくなり、自分の神性そのものによって支えることができるようになっています。描かれているような、揺るぎない強固な建物の自信です。(ちなみに破壊されているように見える上部の王冠も、一説では、天からの戴冠と言われます)

そして、悪魔と情で結びついていたとしても、その悪魔からの自立、解放、脱却ができるのです。

日本語は面白いもので、自信、自身、自神と同じ発音をします。ちなみに地震もそうですね。(笑) これらは、深くわかってきますと、すべて「神の家」のカードに、まるで偶然のように、凝縮されているようにも読み取れます。

ところで、「神の家」と数のうえで関連性のあるカードと言えば、「恋人」カードがあげられます。この二枚は、ローマ数字の「6」で共有していることを示しています。

恋人カードでは、人間が相談していたり、迷っていたりするようにも見えますし、上空には異次元的存在ともいえる「天使」「キューピッド(クピド)」がいます。

一方、「神の家」にも、ひっくりかえった人間のような二人がいて、さらに強烈な光が建物に降下していて、これも異次元的な影響が上には感じられます。

どちらにしても、二枚における(普通の)人間と思える人たちは、揺るぎない状態とは、とても思えませんし、自信という観点からしても、それが強くあるようには見えません。

このことから、私たちの通常状態、普通の人である時は、迷うのが当然ともいえ、時に自信も失いますが、別の見方をすれば、自信を持つということは、段階やレベルに応じたものが存在していると考えられることです。

最初から、揺るぎない自信(=自身)を得られるわけではないのです。

しかし、内奥には、神性なる自分神である宇宙的な自信が存在し、言い換えれば、宇宙そのものである自分がいるため、自信がないとかあるとかの問題ではなく、すべてはありのままで安心立命の境地そのものだとも言えるわけです。

そのことを思い出す旅をしているのが、人生なのかもしれません。

どんな人にも悩みや迷いはあり、その度(旅)に、自信を失うことはあるでしょう。

また、悪魔の登場によって、つながれたり、承認されたりする形ではありますが、他人からの影響と学習で、自信をつけていくこともあるでしょう。

様々な状況の中で、私たちは、本当の自信(自身)を構築していくのです。それが「神の家」を目指す作業とも言えます。

頼り・頼られしながらもありだと思います。人は一人では生きて行けません。

あなたが、誰かの自信を回復させたり、得たりするためのサポートやきっかけとなるかもしれませんし、反対に、自分の自信喪失を、誰かに取り戻してもらったり、与えてもらったりすることもあります。

人を助けるのもいいですが、ますば自分を助けて、自らが自信を持つことが、ほかの人の自信を取り戻させる流れとなるでしょう。

そのように、マルセイユタロットは全体像から語っています。


自分と他人 大アルカナの象徴

マルセイユタロットの、特に大アルカナ22枚は、いろいな象徴と元型を表しますので、活用の幅は広いです。

ここで、ひとつの見方として、22人の人間パターンというように考えてみますと、外向きには、ほかの人たち、個人それぞれの性格や職業、特質としてとらえることもできますし、内的には、自らの内にある、別人格と見ることも可能です。

カードを中心(基準)にして、内と外を見る、そうすると、面白いことに気づいてきます。

それは、まるでカードが、あるいは切り替えゲートのように感じられ、結局、内も外も、カードを通してみれば、反転しているだけではないかと考えられるというものです。

タロットカードがあるだけで、内外をつなぎ、その壁を取り払うことができるのです。

性格や人間パターンをテーマとする時、カードは、あなたの中の人間(人格)と、周囲の人、すなわち自分とは違う他人の性格や人格との共通点(パターン)を、見る人に自覚させます。

「私の中のこれは、あの人の中のあれにある」 反対に、「あの人のあれは、私の中のこれにある」 このようなことがカードの象徴を通して、見えてくるわけです。

人は共通点が見つかると、親近感を覚えるものです。

自分と他人は違う存在(人間)であるのは間違いないのですが、それはあるレベルにおいての話です。通常次元と言い換えてもよいでしょう。

しかし、もう少しレベルや次元を上げていけば、違いは少しずつ消え、共通点のほうが目立ってきます。

究極まで行けば、人はみな同じということで、確かに遺伝子構造レベルでは同じ種ですし、もっといえば、生物全部という概念で、すべてのものは根源的なものとして、ひとつの存在に象徴できるでしょう。

面白いもので、人は、思考や感情によって、他人と一緒の統合空間や抽象空間を作り出すことができます。

例えば、愛し合っている者同士の間では、共通点のほうが意識することが多く、それは、二人がともに「同じ」でありたいという気持ちから生み出されているものです。

特に時間と空間を一緒にしたいという思いが出てきているため、三次元の中に別のスポットを作り出しているようなもので、そこでは、まさに“二人の世界”ができあがっており、その意味では、その世界は狭いようでいて、次元やレベル、質が変容しているため、二人という間では、ほかの人よりも共有感が出ているのです。(逆に別れたいペアは、お互いが違うことを意識し、現実の一般時空に戻ろうとします)

愛し合う二人の間では、「あなたは私、私はあなた」という感覚(を求める気持ち)が強くなり、個別・具体・違いとして隔てていた壁は薄くなるか、消えるかしています。(とはいえ、そういうモード状態の時だけの話で、これは、どちらかというと幻想空間に近いですが)

人間関係の問題では、違いや異質性を発見・強調し、指摘することで、反発やこじれがひどくなってきます。

相手を嫌な人、嫌いだと思えば思うほど、自分と相手との違いを見つけようとします。

ところが、タロットカードによる元型パターンに戻して、レベルを上げ、抽象化していくと、違いはむしろ消えていき、同じところが目立つようになります。

たとえ違いを認識しても、それはタロット的に言えば、22の違いでしかないので、逆に個性として認め合うことも可能になります。

ところで、タロットには「世界」というカードがあります。このカードは21という数を持ち、数の順番として見ると、最終局面、到達点のカードともいえます。いわば、完成された「世界」(境地)というわけです。

すると、その「世界」というのは、単独で存在するものではなく、バラエティあってのものということが絵柄からわかります。

究極的には「世界」としてひとつでありながら、多くの個性や違いをもって、有機的に統合されているように見えるもの、それが完成された「世界」だと、このカードは語っているかのようです。

いや、見方によっては、すでに1という最初の数を持つ、「手品師」(ほかのカードでは魔術師・奇術師)の段階で、「世界」と同じ要素があり、それは、もう、最初からいつも「世界」の状態であることが示されているようにも思います。ただ、その表現やレベルの段階が違うのだということです。

人の違いを、自分から排除するために見るのではなく、むしろ助け合いや生き残りのため(生存戦略)に、必要なこととして観点を変えれば、異質点も、世界全体の中のただの一面(しかし完全性の中では必要なピース)としか見えず、こだわり過ぎることもなくなり、排除するものではなく、受け入れるものとして見えてくるでしょう。

内的に見れば、嫌な人の部分の中、異質と感じる人の部分の中に、自分があこがれたり、ほしいと思ったりしている能力が存在している場合もあります。もちろん、バランス的には過剰なものとして(逆の不足もあり)見せられ、気になってしまうということもあるでしょう。

「あの嫌な人のどこかに、自分があこがれたり、ほしいと思うような要素があるのか」と、誰もが思うかもしれませんが、それは個人個人として、具体的に見過ぎているからです。

ここでも書いたように、カードを基本として、パターンや元型として抽象化していけば、個人的人格(その人の表す実際の人間性や性格、考え方・行動様式の意味での人格)から離れ、ひとつの人の型として、データのように見えてくるでしょう。かといって、記号化(単純な機械的な形式で見てしまう方法)してはいけません。

ここで言っているのは、カードによる自他の人格の抽象化のことであり、結局のところ、他人を見て、自分の内的な人格を統合していこうという方法のひとつを述べているのです。(これには相手から見た自分という視線も必要で、都合、自他統合の意味では、ふたつではなく、四重の統合になります)

と言っても、無理矢理嫌いな人を好きになる必要はありません。それはストレスがかかるだけです。

そうではなく、(他)人というものを現実性や具体性から切り離し、純粋な象徴パターンとしてとらえ直すことで、自らの囚われを解放し、見えてくるものがあるということです。

あなたが気になる人、それは好きでも嫌いでも、中立性(何も思わない)を超えて、そう感じるのなら、あなたの中にそれ(その人)を気にかけなければならない何かがあるのです。

それが、マルセイユタロット的にいえば、大アルカナ22のカードの象徴性として見ることができるのです。

なお、このようなケースでの(象徴化を支援するツールの)場合、大アルカナでなければならない理由があります。このことは、またいつかお話することもあると思いますし、講義では説明しております。

とにかく、タロットの活用と応用は、皆さんが思っているより広範囲であり、特に、ある専門知識とか技術を学んでいらっしゃる方にも、別の整理ツールとして有用になると思います。


タロット展開での未来

以前は、タロットリーディングにおける過去の重要性(過去を読むことの大切さ)を何度か強調してきました。

それは、タロットの使い方において、占いではなく、主として心理部分や、自分の思っているストーリー(思い込みや信念)にフォーカスして、リーディングする技法を用いるからです。

そうすることで、現実(具体、事象、実際のこと)と心(自覚している意識と、無自覚な意識の部分)を調整、調和させ、結果的(段階)に霊的(統合的)な成長や発展につなけていくという仕組みがあります。

しかし、私たちの時系列は、過去・現在・未来と、三つの枠でとらえるものです。

本当は、現在、この時の瞬間〃しかないと言われるように、現在がもっともポイントとなるのかもしれませんし、未来という時系列の方向性があり、未来をタロットでリーディングすることの意味も考える必要があるでしょう。

果たして、時系列的に見て、タロット展開での未来パートは、何を示し、どう解釈すればよいのでしょうか?

あくまで「タロット占い」として見れば、それは、今後起こる事象的可能性であると考えますよね。平たくいえば、これから起こること、このまま時間が進めば、どうなるかを示している内容です。

では、占いとしてではなく、そのほかに未来のパートについて、考えられことはあるのでしょうか?

これも、過去の時と同じように、心理的に見ていけば、新たな視点が出てきます。

すなわち、未来に対する(クライアントの)心理、心の内が出ていると見ることができます。

それは、ポジティブなものもあれば、ネガティブなものもあるでしょう。

それをどう判断するのかは、実際の相談場面におけるクライアントの反応、過去や現在のカード内容などからわかることもあれば、タロットの展開方法(規則)に従ったカードの出方によってわかることもあるでしょう。

後者(カード展開規則によるもの)は、例えば、カードの正逆によって、問題かそうでないかを判断するみたいなことです。

いずれにしても、未来に対するイメージを見て、あまりにネガティブに想像していたり、逆に、現在や過去に問題が残っているのに、放置した状態で、ひたすら無理矢理ポジティブにしようとしたりしている状態をバランス調整して、未来を真っ当なイメージに変えていく作業があるのです。

すなわち、これは未来の想像でありつつ、創造に関わるわけです。

ほかにも、考え方によっては、未来のカードが理想や、なりたい状態を示していると見たり、タロットが示唆する未来の対処法や解決策として見たりすることもあります。

さらには、これからの選択肢として、未来のカード(複数出た場合)を想定することもあります。

すると、未来に起こることを予想する「占い」に近いものになるように思われるでしょうが、確かに、タロットリーディングにおいても、そういう未来事象の予測としての部分がまったくないわけではありません。

しかし、違いは、時系列をきっちり分けて読むのではなく、心理的、あるいは無自覚的な意識の層では、時系列の流れは一方向ではなく、同時に存在していたり、逆方向の流れも考えることができる(読む)ということです。

言い方を換えれば、私たちは、心の中では、過去へも未来にも飛べることができ、いつでも三つの時系列の塊が同居しているようなものと言え、その関連性をもってリーディングするのです。

ですから、すべての時系列は(一方向的だけではなく)関係しており、未来を読むことは、現在や過去にも当然つながっていくわけで、その逆もまたあるのです。

パラレルワールド(平行世界観)的に考えれば、未来のカードが示すものは、カードの数、またはカードの象徴性の数だけ存在する可能性として見ることもでき、どの世界のスートリーを選択したいかは、自分・クライアント次第とも言えます。

それでも、タロットが見せる、あなたに提案する、タロット的に言えばよいストーリー(世界)があると考えます。

ほかの言い方をすれば、タロットを象徴として、自分の中にある「いろいろな平行世界」を、タロットとタロットリーダーの協力のもとに、自分が総合的に見て選択するというようなものです。

さらに難しいことを言うと、タロット的によいストーリーというのも、ひとつとは限らず、どのレベルや次元に重きを置くかによって、答えも変わってくるのです。(マルセイユタロットの、ある伝統の場合、どのレベルが今重要かということは、タロットそのものの出方と、細かな象徴の確認によって判明することがあります)

とにかく、少なくとも、「未来は現象・実際としてこうなります」と決めてしまう読みにこだわるのは偏狭だと思います。

そういう読みは、むしろ、人によっては制限や縛りをかけたり、不安や恐れを助長させる結果となってしまい、ある意味、選択可能であった人の運命のレールを、ひとつに決めてしまうことにもなりかねません。

それでも、ネガティブな思い込みや予想に偏りがちな人の思念を切り替えるため、あえて、よいと思われる(そのように出た未来のカードを占い的に読んで)未来予想を告げることで、ネガティブな部分を浄化(変化)させていくこともできる場合があります。

喜び、嬉しさ、ワクワク、ハッピー感は、一瞬で、場や自分(クライアント)の気分・思いを変化させることもあるからです。

ただ、ぬか喜びをさせたり、本当(本質)の問題が未処理のままだったりすると、その喜びもすぐ消えて、また問題意識や不安・恐れが出てきますし、現実に起こることも、自分で創造していくところがありますから、元の木阿弥になることが考えられます。

その面では、占いの未来予測も慎重にしないといけないこともあるかもしれません。

けれども、しっかりした占い師さんの場合は、カウンセラーとしての能力もありますので、怖い未来や、万歳・棚ぼた未来をただ見せるだけには終わらないのが普通でしょう。自分の心理や行動の影響も、ちゃんと言ってくれるはずです。そのうえで運勢的な示唆も与えてくれるものです。

タロット展開の未来パートも、なかなか奥深く、面白いものです。


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