ブログ

生と死の世界の考察 救済システム

マルセイユタロットを見ていると思います。

平板(停止のような)な世界と波(動き)のある世界があるのだと。

これは言わば、死後の世界と生きている世界の関係なのかもしれません。

ただ、おそらく、どちらにあっても、動きのある状態とない状態というのは、それぞれの世界なりにあり、しかしながら全体的に見れば、やはり現実の「ライブの世界」のほうが流動的で変化が多いのは想像できます。(死後の世界があるという前提ではありますが)

聞いた話によりますと、死後の世界は本来穏やかで、あまり変化のない世界と言われていますが、生きていた時代に強く執着したり、死を受け入れられなかったりすれば、ほとんど生きている時と同じような状態の世界に住むとの話があります。

これは自分で(カルマ浄化のために必要な)世界を仮想的に作り出す場合と、現実の世界に彷徨う場合とがあると言います。

言い換えればそれは、本当に行くべきところ(例えると成仏したあとの世界)に行っておらず、何かしら別のところに留まってしまっている状態と考えられます。

この留まりの世界は、先述したように、自分が作り出す仮想的な狭間の世界の場合と、そこにすら行けず(創れず)、現実世界のままに死を自覚できなくて、あるいは自覚していても強い執着があって、いわゆる地縛霊・浮遊霊として留まってしまうのでしょう。

どちらにしても「霊体」として存在し、生身の体はなくなってしまうわけですから、特に物質的実感を得ることが困難になると思われます。ただし、自らが作る仮想空間に留まっている場合は、すべてがバーチャルなので、実感に近い感覚はあるかもしれません。

現実空間にいる霊体が、もし執着望みが物質的な実感を伴なわなければならないものであるのなら、それを味わうことができなくなるので、満たされることはできず、飢餓感ばかりが感じられますから、それは地獄と言っていいのかもしれません。

物質的な感覚だけではなく、感情や気持ち的なことでも、生きている人の世界、つまり現実の人に自分の存在や思いは伝えようがないので(特別な方法はあるのでしょうが)、これも苦しいままになるのではないかと思います。

あえて科学的に考えれば、死後は生きている時の存在状態から変化するのだと想像され、分子・原子とか素粒子レベルで見ていくと、すべてのものは同じながら、振動状態などの違いにより、固体で三次元感覚(表現)中心の現実世界では、霊体のような状態になると、固体と気体の違いのようなもので、まさに表現世界も違って、生きている時の感覚とは異なってくるのは当然だと思えます。

結局、自分の状態を真に認識する、理解することが、成仏の近道なのかもしれません。しかし、現実に生きている時の私たちもそうですが、案外、自分の過ちと言いますか、誤認、思い込みを正したり、解除したりするのは、難しいことです。ましてや、世界・状態が違うとなおさらでしょう。

現実世界では他人が固体として実在する感覚がありますから、他者からの影響、働きかけ、交流で、思い込みを解くことが可能です。

ところが、霊体になってしまうと、他の霊体も存在するでしょうが、より現実世界より精妙になり、自分と異質なものは見えないと言いますか、感じられなくなるのではないかと思います。よって、ひどい場合には、自分ひとりしか霊体として存在していない感覚のようになってしまうかもしれません。

誰かにコンタクトを取ろうとしても、状態の異質性によって気づいてもらえず、また誰かからのコンタクトにも気づくことができないおそれが強いです。これもある意味、地獄でしょう。

それでも、例えば日本では先祖供養などあるように、昔の人は、伝統的に、状態の違う存在たちに対してコンタクトできたり、影響を及ぼせたりする方法を知っていた(知らなくても儀式として伝承させていた)と考えられます。

ほかに、現実世界でも、霊体の世界を認識できる(つなげられる)特殊な能力者もいますので、そうした人の手を借りる場合もあるでしょうし、生身の人間本人が自覚なくても、心霊的に波長が合う人には、霊体側から憑くなどして(そういう人は霊体側からすれば、存在を感じ取れるのだと思います)、コンタクトしようと試みることもあるのかもしれません。

さて、現実世界に留まらざるを得ない霊体とは別に、成仏の前に、自分でこだわりをなくすための仕掛けを作り、そこで自己浄化を果たすこともあるのではないかと書きました。現実と成仏世界との間に、自分のカルマに応じた別種の世界を創造するようなことです。

これは人によって異なりますから、まさに、千差万別、それぞれの世界が生み出されていると言えましょう。

中には、自分の理想や願望を満たすための現実と変わらない世界を創ることもあるでしょうし、自らの苦悩、後悔などがあって、それが浄化されていない場合は、その設定を再現する世界を創造するかもしれません。天国のような世界とも言えますし、反対に地獄のような、その人自身しか経験しない不思議なバーチャル世界と言えます、

それでもこれは疑似(バーチャル)世界なので、自分の目的が達成されて、疑似であることに気づけば、成仏空間へ昇天していくのだと考えられます。ですから、この疑似的な創造空間は、それまでの、一種のモラトリアム空間(世界)と言えます。

このようなものが本当にあるのかどうかはわかりません。本で読んだり、人から話を聞いたりしてイメージしたものです。

また、創作の世界、特にアニメには、このモラトリアムの世界を描ているものが少なくなく(例えば「Angel Beats!」など)、もしかすると、そうした世界の記憶やシステムを、イメージの世界から情報として受け取っているのかもしれず、創作物に接していると、実在性を感じることもあります。

ここで最初の話に戻りますが、固定された状態というのは、このように地獄(人によっては偽物の天国)でもあり、そこに何らかの動き、流動性が生じることで、救済の可能性が出てくるということです。

いわば、違い(同じことが続く中でのイレギュラー)が救いを呼ぶのです。ところが、矛盾するような話ですが、異質(違い)過ぎると、そもそもコンタクトや交流ができず、存在さえ認識することができなくなるのです。

従って、救いのためには、何らかの形で異質なもの同士を同調させる仕組みが必要となります。(マルセイユタロットでは「節制」の象徴性)

言ってみれば、携帯電話を通して別の場所にいる者同士を会話させたり、翻訳機(通訳者)を通じて、違う言語同士を訳したりするみたいな話です。または、見えないものを形にする工夫、例えば絵にしたり、音にしたりするようなこととも言えましょうか。

生の世界と死の世界、生からすると死んだら終わりと思われがちですが、ふたつの世界をシステム的に思えば、両方の世界の必然性も見えてきます。

そのひとつが、今述べた、救済のシステムです。(成長のシステムと言い換えてもいいです)

生の世界、つまり生きている現実の世界は、常に流動する変化の世界で、逆に、死後の世界は、モラトリアムであれ、成仏的な世界であれ、どちらかと言えば、本質的には同じ世界、固定された世界と言えます。

一見、現実世界のほうが残酷に見えますが、もし、死後、ある状態で変化もなく、延々と同じことが繰り返されるのならば、「涼宮ハルヒの憂鬱、エンドレスエイト」の世界ではありませんが(アニメネタばかりで恐縮です・・・)、非常に退屈で、人によっては地獄になります。(繰り返しが平穏であれば、人によっては天国でもあると言えますが、ずっと続くと飽きてしまうでしょう)

その状態に救いをもたらすのは、ライブの世界、変化のある現実です。だからこそ、私たちは輪廻転生するのかもしれません。

逆に、変化や動きが多すぎても疲れてしまいます。ドキドキワクワクは楽しいかもしれませんが、悪く言えば、ハラハラの意味でのドキドキもあり(笑)、現実世界はなかなか気が休まることがありません。この世は生き地獄という人もいるかもしれず、生老病死、苦しみはつきものです。

そこで、死、死後の世界という固定的な世界に移行することで、私たちはひとときの平穏や浄化を経験します。そうして準備ができれば、あるいは退屈すれば(笑)、また現実の生の世界へと旅立つのでしょう。

これは、まるで、タロットで言えば、「愚者」の旅をしているようなものです。

マルセイユタロットでは、「愚者」が私たち自身を象徴し、一枚一枚、カードごとに体験の旅をしているという考え方があります。よく見ると、カードもまさにいろいろ、同じものがなく、これらの象徴を体験することは、変化そのものと言えます。

ただ、そうしたいろいろなカードたちではあっても、ある性質に分類することができます。それが大きくはふたつになります。

すると、ここでも、固定と流動、穏やかさと激しさ、光と影のような、二種の経験があり、旅が円滑に進むよう、活動と休息が交互にやってくるよう、設定されているように見えます。

さきほど、生と死の世界で、救済や成長のシステムが行われていると述べましたが、それをタロットに持ってきますと、タロットの描くところ(「愚者」の旅)は、現実世界だけではなく、死後の世界も象徴しているのだと思うことができます。

生と死というシステムの中では、私たちは両方を実際に体験する必要があるのですが、もっと別の、大きな宇宙的進化の視点で見れば、もしかすると、この生と死も統合されて、また新たな状態の二分による成長や救済のシステムに移行していくのではないかと思います。

カルマ的な表現で言えば、人類全体の旧カルマの浄化を終え、新しいもの(新しい形態の人類、存在)に変化する行先です。

もし進化した宇宙人や天使のようなものがいるとすれば、それは、私たちの今までの生と死の状態を超えた存在になっている者ではないかと想像します。

マルセイユタロットも、生と死の世界を描くだけではなく、それを統合した新しい状態を示唆していると考えらます。生と死を超越すれば、それは永遠の世界(命)で、いわば神でもありますが、その神にもレベルや段階はあるのでしょう。

進化的には、固体(肉体)と霊体というふたつの、かなり異質な状態に分かれる私たちの生と死が、半霊半肉みたいになり、やがて素粒子的な本質、つまり霊に戻る(成長)していくのだと考えられます。

とすると、現実の生の世界にいる中でも、霊的な世界、死後的な世界の状態を感じ始めることが増えていくのではないでしょうか。

変化や流動が過剰になって、疲れている人、止まろうとする人も増えるのかもしれません。マルセイユタロットで言えば「吊るし」であり、そのカードが「13」という死や解体、変容を象徴するカードの前にあるのも意味深です。

ダイナミックに動くだけが成長とは限りません、私たちは、一度立ち止まり、自他ともに救済モードに入る必要もあるのだと、今の時代、感じます。


アニメ映画「天気の子」から

アニメ映画「君の名は。」で一大ブレイクした新海誠氏の新作、「天気の子」を観てまいりました。

新海作品の特徴である写真のような美しい背景、絵の描写は今作でも同様で、それを大画面で見るだけでも、なかなかの感動があります。

すでに100億の興行収入に至ったと報道されており、いくら「君の名は。」の余韻と期待の影響とは言え、面白くなければこんなヒットはしないでしょうから、多くの人に評価されたのだと思います。

ただ、個人的には、今回の作品にはひっかかる点が多く、総合的には評価を低くせざるを得ませんでした。日本のアニメーションは質が高いものが多いので、アニメ慣れしている者からすると、満足できないところもありました。また、隠された意味なども、推測範囲ではありますが、今回はそれが設定の色づけや雰囲気で利用されている感がありました。

ここからは、映画「天気の子」に関連しつつも、内容(映画の作者の意図や意味など)からは少し離れ、マルセイユタロットとからめつつ、別の話もしてして行きたいと思います。

映画の内容にふれますので、ネタバレも含まれますから、映画が未見の方や、これから鑑賞しようという人は、鑑賞後に読んでください。

新海氏の作品では、大ヒットとなった「君の名は。」でも、巫女(的な人物)の存在が鍵となっています。

今回の「天気の子」でも、天候を操ることができる(映画においては、雨を晴れにすることができる)巫女的な女性が登場し、その能力が物語の根幹をなすと同時に、結末に大きく関与します。

両作とも、神社・社のような場所が登場します。「君の名は。」では田舎の自然に、「天気の子」では廃墟ビルの屋上に描写されていました。

特に「天気の子」では、都会・廃墟ビルとの対比が際立ち、特別かつ異質な場所であることが強調され、しかも、ある意味、見捨てられた存在でもありました。ただし、完全に荒れ果てた社にはなっておらず、誰かがお盆の精霊馬(牛)のようなものを供えていたようにも見えました。つまり、聖なる場所として息づいている、生きていたということです。

私は大学時代、民俗学もやっていたので、こういう場所の意味については学んだことがあります。「天気の子」のあの描写から見ると、「屋敷神」的なものであり、ビル(に入居する会社・人間)を守る神になりますが、映画では、もっと大きな意味合いを持たせていたように思います。そもそも屋敷神も、日本の「家の神」と同様、祖先が神格化したものが多く、そうすると、身近な霊的世界との通路を、あの場所は示していたとも考えられます。

ところで、タロットをするようになって、民俗学で学び・経験したことが、霊的な意味をもって響いてくるようになりました。

現代は科学的な目線と心理的な目線で、民俗・風習を見ることが多くなっています。(それは悪いわけではありません) こうしたもので民俗的なものを考察すると、どうしても、意味合いに現実的なもの(言い換えれば物質的・三次元感覚的なもの)を見てしまいます。

例えば、神社があるから森(自然環境)も守られると見て、それが逆転し、森を守るために神社が機能していたというような見方で、さらに言えば、心理的な意見になってくると、森と神社の区域が継続されていくことで、当然、神社の区域は通常の居住域と違う環境になり、神社に行くだけで不思議な気持ちになるのだ・・・というものになります。

確かにそうとも言えるのですが、それは実益的な目線での機能論的であり、また結果論で、物質中心の考えみたいなものです。

霊的な見方になりますと、実は、本当に神社の存在に現実を超えた理由と意味合い(霊的理由、必要性)があり、その霊域のためには森が必要であるということになります。最初に「霊」や「見えない世界」ありきなのです。

もともと、神(物質次元を超える領域)を感じる場所だからこそ、神社や聖域があるというもので、区別したからほかとは違ってきたというのとは後先が別です。これは、「占い」をデータや統計の結果だと見るのと、もともとの根源的な象徴体系があって、統計から出た法則や結果ではないというのと同じとも言えます。

それはともかく、新海氏の作品で、このところ、立て続けに、巫女と、その巫女の特質による霊的通路を開くというモチーフが見て取れるわけです。

このことは、古代世界では、むしろ当たり前のことで、日本でも普通にあり、沖縄などでは今もって、、地域や家により、その伝統が受け継がれているところもあります。

マルセイユタロットでは、「斎王」(アルカナナンバー2の、普通では女教皇と呼ばれるカード)が巫女に該当します。

マルセイユタロットの大アルカナには、22枚のカードでもって、全体性や統合、完成を示す象徴性があります。数の順霊的成長を表していると言え、「斎王」は二番目という早い段階で登場するカードです。

ということは、タロットの作った者たちから見ても、「斎王」の存在がいかに現実の世界でも重要だったかがわかります。

マルセイユタロットでは、「斎王」の視線は、1の数を持つ「手品師」に向いており、「手品師」の作業を見守っているかのようにも見えます。ちなみに、「手品師」は若い人やそのような男性像も表しますので、ここでは女性が若く未熟な男性を見守っている、そういう力があることを示しているようにも感じます。

すると、その場合の巫女的な女性は、地域社会の母親的存在にもなっているわけです。社会的範囲に押し広げれば、男性の社会的・経済的仕事は、女性の霊的保護あって初めてうまく行くのだということにもなります。

「天気の子」では、島から家出をした主人公の少年が、天気を操る不思議な女の子と出会う物語であり、これは島が閉塞的な社会、もっというと、自分を閉じ込める限界的世界、旧世界を表し、それは実は自己を囲い込もうとする自分の母親(実際のではなく、像・イメージ・象徴としての存在)でもあるのです。

しかし、少年は家出をしたものの、新しい世界(東京)では経済的・社会的に困り、その救済の第一歩は、巫女の女の子からされているのです。それは、新しい母親代わりの出現でもあります。しかし、少年は守られることによって、まだ自分の本当の成長(独立・自立)はなされておらず、巫女の少女も、姉的な役割で、実際、映画でも年齢を偽り、少年よりも年上と言って、年下扱いをしていました。

少年の成長には、母性的なものだけではなく、父性的なものが不可欠で、新しい自分と社会に向かって生まれ変わるために、父性的な者からのイニシエーションが必要なのです。

その父性的役割に当たる人が、少年を雇ってくれた編集プロダクションのライターの人でしたが、いかんせん、映画では役割があいまいになってしまい、どっちつかずのような感じ(この人自身もまだ少年と大人の狭間で揺れていたと言えます)に描写されていた気がします。言い換えれば、映画では、現代において自分を強くさせてくれる父性の欠如(あいまいさ・揺らぎ)も示していたのかもしれません。

物語ては、結果的に巫女を喪失することで、母親的な保護がなくなり、少年は大人(あるいは女性と対等な存在として)へと、自ら選択せざるを得なくなったようにも見えます。

さて、女性性・男性性の統合によって、真の調和がなされると、スピリチュアルな世界では言われます。

このことは、象徴的にも、実際的も、霊と通じていた古代社会では、多くの人に直感的に理解されていたように思います。

しかし、時代の進化のために、あえて、両性質の分離状態が強まり、これにより、物質的なもの、目に見える世界重視の傾向に、ますます拍車がかかりました。(分けるということは、はっきりすること、個性を持つことにもつながります)

ふたつの分離は、精神と物質、霊的なものと実際的なものの境界を切断し、ふたつはまったく別のものとして見なされ、特に見えない霊や精神の世界は、存在しないものと扱われるようになったのが現代の特徴と言えます。

ところが、しばらく前から、その反転が起こり、霊的なもの、見えないものの実在性を人々は認識し始めてきたと言えます。そもそもふたつは別なものではなく、ひとつであり、見方の違いによって、離れている(違うもののように見えている)たけには過ぎないという理解が、少しずつ出て来たように思います。

古代のやり方をそのまま現代に持ってくることはないでしょうが、少なくとも、かつては感じていた霊的なつながり、その存在性を再び新たな形で見出す必要はあると言えます。

「天気の子」では、一人の巫女的な女の子が、全体の天候の調整のために犠牲になる世界を、少年の少女への思いが変えることにより、別の世界線を選択するという話になっています。

すると、ここでは、多くの人が、主人公の最後にした選択がよいのか、少女を人身御供として多くの人を救う(天候不順を回復させる)ほうがいいのかという、二元的な正義の議論みたいになっています。

前者ではいかにもロマンという感じで、ボーイミーツガール、セカイ系アニメ(二人などの狭い人間関係が、世界全体の危機に直結したり、影響を及ぼしたりする話)でよくある形で、世界がたとえ滅んでも、少女との一緒の世界(瞬間・時間)を選ぶみたいな、これまたよくある感じにもなります。二人だけの恋の選択では、それも美しいかもしれません。マルセイユタロットでは恋人カードの次元の話(選択)です。しかし、言ってしまえば、それはある意味、全体への責任を放棄した、利己的な心中とも言えます。

いい意味で解釈すれば、人のことより、自分の幸せが大事だ、自分を犠牲することがよいこととは言えないという、他人や外側に忖度して(笑)、自分がどうしたいのか、どう生きたいのかを忘れてしまう人が多い今の警鐘とも考えられます。ですが、先述したように、わがまま、自分たちさえよければいいという自分勝手と紙一重です。(苦笑)

少年少女の純愛的なものでは、「交響詩篇エウレカセブン」というアニメがあり、「天気の子」のシーンとよく似ていたところがあって(物語の構図も似ています)比べてしまいますが、エウレカセブンのほうは、50話も描き続けた二人の関係の積み重ねがあり、なおかつ二人の選択が自分勝手とは言えず、多くの人を救い、愛を波及させるものであったので、主人公たち少年少女の恋愛に、胸を打つものがありましたが、「天気の子」は、正直、それほどでもなかったです。

では少女が人身御供になればよかったのかと言えば、これも「魔法少女まどか☆マギカ」ですでにされているように、ひとつの解決ではありますが、やはり、犠牲というのはつらいところがあります。古代社会においても、いけにえという儀式があり、それはそれで深い意味があったとは思うものの、ほかのやり方もあるのではないかという気がします。

言ってみれば、特別な能力の者に、特別な役割を担ってもらうということなのですが、イレギュラーに頼るそのやり方は、全体として覚醒がなされていないから、ということもあります。イエス・キリストの磔刑の型にそれを見ることも可能てす。

多くの人の目を覚ましたり、それこそ世界全体にまで影響を及ぼしたりするためには、特別な者の命の犠牲もやむを得ないところがあるのかもしれませんが、もっと別の解決策がないのかという思いが出るのも当然でしょう。

もしかすると、新海氏は、どちらの選択も問題があることをあえて示し、私たちにもっと高次の(創造的な方法の)見方を促したのかもしれません。そう見ると、「天気の子」も面白い作品となります。

「天気の子」の中のセリフで、「この世界はもともと狂っている」というような言い方が出ます。

これはある意味、グノーシス的な言葉と言えます。

私たちはこの狂った世界で、深刻にならずに、タロットで言えば「愚者」のように気楽に、自分の幸せを求めて生きて行こうじゃないかという人生の応援歌のようにも聞こえますが、グノーシスの見地に立てば、そんな能天気なことにはならないのです。

ですから、私から見れば、グノーシス的でありながら、反グノーシスなのが「天気の子」です。

「天気の子」では、雨が降り続く世界を選択したせいで、東京の街はかなり海に沈んだようになっていました。まるで、エヴァンゲリオンのセカンドインパクト後みたいな感じです。

それに対して、あまりにも以前と変わらない、能天気な人々が描かれており(そもそも、その前にも雨が続きすぎる天候では、あんな平常感ではいられないはずです)、災害続きの日本人の感覚では、おそらくありえないと感じた人も多かったのではないでしょうか。

映画の話は創作であり、どのように描かれても、それは自由です。

ここで言いたいのは、映画の話ではなく、現実の私たちの世界と選択のこです。

今の世界観や常識の中で、選択や方法を模索しても、堂々巡りになったり、何かの多大な犠牲を払わねばならなかったりします。

ここには、物質と精神(霊)が隔絶された世界観による、二元的な悪循環が根源的な問題となっています。

マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の中の二匹の動物状態です。

私たちが、ふたつに分かれた両者を統合できる視点を持てた時、「運命の輪」(その時点でのどちらかの世界・選択)を超えることでき、新しい世界に(次元)に移行します。

「天気の子」でいえば、ラストのどちらの選択でもない世界です。それは登場人物の思いが共有でき、しかも、特別なものの犠牲なく、霊的・社会的に進化した世界と言えます。(作品としてそれを描くかどうかはまた別の話であり、あえてすっきりしない終わり方をするのも、アートの世界の表現としてはありだと思います)

狂った世界であるのなら、狂っていない世界に戻す(戻る)知性と感性を働かせる必要があります。

私たちは、その試しを受けており、奥底には狂っていない世界に戻る鍵を誰しもが持っているのです。それが特定の誰かとか、特別な能力を持っている人のみとかではなく、私たち全員がそうである可能性に気づかないといけない時代になってきたのです。


「吊るし」から見る非日常性

マルセイユタロットに、「吊るし」というカードがあります。

ほかのタロットでは、吊るされ人とか、吊るされた男などと呼ばれているカードです。(大アルカナ12番のカード)

名前の呼び方からわかるように、ほかのタロットでは、このアルカナナンバー12のカードは、「吊るされている」という受動的姿勢、あるいは犠牲的なニュアンスで意味付けされていることが多いです。

しかしマルセイユタロットでは、「吊るし」として、あえてこの姿勢を自らと取っているという能動的なものを見ます。(マルセイユタロットでも、名前を「吊るされ人」として一般的名称で覚えるケースもあります。「吊るし」と呼ぶのは、あくまで私たちの考えです)

と言っても、「吊るし」に描写されている人物自体は動いておらず、足にはひもがあり、手は縛られているのかどうかわかりませんが、後手にあって、自由に出しているわけではありませんから、この姿勢そのものからは能動的なものを感じ取ることは難しいです。

つまりは、自分がやっているにしろ、誰かにやらされているにしろ、この「吊るし」では、何か動かない状態、籠ったような状態、不自由にも見える状態にあるのは確かと言えましょう。

タロットは、私たちの意識や行動の元型を示すという考えがあり、その見地に立てば、こういうカードが存在していることは、私たちの内と外(意識と行動)に、「吊るし」になる状態がある(必要とされる)と見ることができ、それはいかなる時なのかという考察ができます。

「吊るし」の人物の姿勢の大きな特徴は、動かない(停止している)ことと、逆さまであるということです。

逆さまについては逆になることですから、まさに反転したり、これまでとはまるで違った視点を持つことを意味します。

けれども、今日は、動かない、停止のほうをメインに言及します。

私たちが動かない時とはどういう時かと言えば、ひとつには、まさに固まってしまって身動きが取れない状態があります。

これは、外的(環境的・物理的)に八方塞がりのように、なかなか活路が見いだせない時か、精神的(気持ち的)にもどう対処していいかわからない、もしくはショックがあったり、落ち込んだり、鬱になったりして、動けない状態と考えられます。

要するに、大変弱っている、困っている状態です。(苦笑)

ところが、マルセイユタロットの「吊るし」の人物は、余裕とも思える表情をしており、あまり苦しそうではない感じに見えます。

ということは、身動き取れないピンチに陥った時こそ、慌てず騒がず、よい意味での諦観、観察精神のような客観性が求められると言え、動けば動くほど、事態はますます悪くなるという教訓を見ることができます。(「吊るし」カードの構図特徴から言えば、実は、全部塞がれているわけではないので、突破口、打開策は必ずあると主張しているようにも見えます)

あと、動かない時というのは、日常とは異質な状況になっていることも考えられます。

私たちはの日常(意識)では、常に動いているのが普通です。思考も感情も、あれこれと動き、ついでに行動も何かしなければ・・・という意識になっており、無意識であっても、何かどこかしらは動いているものです。

まあ、生命の維持には、心臓も各器官も動いていなければならないわけで、それを言えば、すべてが停止することなど現実ではありえないのですが・・・そこまでの話ではなく、普通の日常の活動、生活においての動きということです。

日常が動きの状態と仮定すれば、逆に非日常は動きのない状態と言うことができます。

タロットでは、この非日常感を重要視します。リーディングの意識の時もそうですし、自己の内部や霊的に成長していく過程においても、日常とは別の世界や感覚が大切になってきます。

吊るしはナンバー12ですが、下一桁として同じ2を持つ大アルカナは、「斎王」(一般的に女教皇と呼ばれるカード)です。

この「斎王」は、現実世界においての巫女的な女性、そうした意識になる状態を示唆します。

タロットではなくても、皆さん、巫女的な女性と普通の日常的・俗世間にいる女性とでは、特に精神世界において(実生活でも)違うことはわかるでしょう。

それはもともとの能力・気質の違いもありますが、巫女になるための状況(儀式)を経験することで、一般的・俗的にあった女性が変容していく場合もあるのです。

言わば、内的に変わるためには外的な環境も重要なことがあるのです。

それが日常とは隔絶された環境であったり、エネルギー・周波数の違う場所であったりするわけで、また、さきほど述べたように日常が動きの世界であるのなら、非日常(内や霊に呼応・感応する世界)は動きのない世界と言えますから、自らを停止させるための状態も(巫女になることや、霊性と接触するための環境のために)あるのです。

よって、「吊るし」は、日常から非日常へ、言い換えれば、現実・通常意識から霊的な意識へと変化させるためのセッティングを行ってると考えることができるのです。

具体的なその方法は、メジャーなところでは、瞑想ということもあるかもしれませんし、もちろんほかの方法もあり得ます。

ただ総じて言えるのは、動かない状態、静かな状態であるということです。「斎王」においても、その絵柄ではヴェールが描かれ、ほかの場所から隔絶された、動きのない、静寂な環境にいることがわかります。

「吊るし」も「斎王」も、現実的(物理的)な意味では自由があまりありません。むしろ不自由な環境と言えます。

実際の僧侶・尼僧、修道士・修道女など、神や仏に仕え、修業的なことをしている人は、あえて不自由な環境で生活し、日常・世間とは隔離された隠遁的な場所で暮らしています。それはやはり、俗世間と自由過ぎる場所では、霊的なものとの接触と、そうした窮地に至ることが難しくなるからだと言えます。

演出でやっているのではなく、伝統的にも、目的達成の効果が、そのほうがあるからされているのだと思います。

私たちは普通、修行僧ではありませんから、そこまでする必要はないですが、それでも、日常の動きある世界にそのままどっぷり浸かり、流される生活をし続けていると、内的にも霊的にも成長が遅れてしまうことがあります。

とは言え、窮屈や不自由にしろというのではありません。

普段の動きのある世界での自分というのは、他人や周囲に気遣い、余分な力もかなり入っていて、身体的にも精神的にもガチガチになっていることが多いのです。

ですから、動きのない世界に入るということは、その逆に、むしろ脱力やリラックスした状態とも言え、日常的な情報を遮断し、外部センサーを動かし過ぎるのを止め、刺激を少なくして、その反応も低減していくことが望まれます。だからこそ、「吊るし」の人物は、手や足が自由に動いていると刺激を受けてしまうので、そうならないように、あのような状態にしているのだとも考えられます。

精進潔斎においても、「籠る」ということがありますが、これも、ひとつには、(外部の俗的な)刺激を遮断するような効果を期待してのものだと言えます

昔から、聖と俗は違う世界としてとらえてられており、その区別がきちんとされていないと、なかなか本当の意味で統合的な境地には進まないのだと思います。現代は、これが混沌としているので、意識的にも聖と俗を区分けする時間と空間を作る必要があるのかもしれません。

なお、「吊るし」と籠りの関係については、こうした聖なる状態を作る意味以外にもいくつかあり、現代的病理や問題現象の観点からすると、いわゆる「引きこもり」についても考察することができます。

それにつきましは、また機会を改めて書ければと思います。


タロット活動の現実化

ちょっとスピリチュアル的な話が記事で続いたように思いますので、このあたりで現実的な話もしてみたいと思います。

私のところに学びに来られる人は、どちらかと言えば、自分のためにタロットを使う目的(自己の成長、探求、開発、発展、統合などの意味)の方が多いです。

それは、私自身がそのような意図でタロットを教えているからというのもあります。

ただ、実は、自分のためにタロットを使う目的であったとしても、他人に対してタロットを使うこともできるのです。(その方法を個人的には推奨しています)

ましてや、最初から、人のためにタロットで役に立ちたい、具体的にはタロットリーダーとなって活躍したい、また、それでもって仕事にもしたいという人は、他者志向が強いわけです。

こういう人のためにも、もちろん講座は開かれています。

それで、タロットを仕事にしたいという人には、初期には、ふたつのタイプがいらっしゃいます。

ひとつは、タロットを学ぶ目的自体もあまりはっきりしないまま、学習していくうちに、目的と意識が次第に定まり、タロットを使って人の役に立ちたい、タロットリーディングを仕事にしたいと思うようになるタイプ。

もうひとつは、最初からタロットを仕事にするために学びに来るというタイプです。このような人は、タロットの現実的な仕事(場)として、「占い師」になりたいという人が結構あり、また、すでに占いをしているものの、タロットはまだあまりよく知らないので、占いの技術のひとつとして学びに来るという方がいます。

私自身は占い技術を教えるのをメインにしていませんので、後者のタイプの人は今は少ないと言えますが、教える内容と技術によって、結果的には占いにも活用できますので、それは本人の活かし方次第にもなります。

まあ、タロット占いの技術習得を目的にしている場合は、占い師として活躍している(実績のある)先生とか、占いに特化したものを教えられている先生に学ぶほうがよいかもしれません。

ただし、何事もそうですが、先生というのは、必ずしも現場で優れた人がよいというわけではありません。スポーツがよい例ですが、名選手は名コーチや名監督になれるとは限らないのと同じです。それは教えるテクニックというのは、現場の技術とまた別だからです。

とはいえ、やはり、現場経験はそれなりにあるほうが、説得力や、リアルな感覚が違ってきます。

さて、なにはともあれ、タロットを学習し、プロとしてタロットリーディングをしていこうとなった時、ビジネス的に成立するかどうかは多くの人が経験しているように、難しいところはるあるでしょう。いや、これも難しいという人もいれば、そんなことは簡単だよ、という人もあって、実際は様々です。

もし、一般的な意味での「成功」で見れば、どうしてもそれを実現している人は、少ない数とならざるを得ないでしょう。

ところで、タロットで成功している人を見れば、ある程度のタイプが見えてきます。

●カリスマ性のある人

●行動力・実践力がすごい人

●もともと資本(資源)がある人

●別の分野で有名か、成功している人

●新しいコンセプトやメソッドを開発した人

こんな感じでしょうか。

まず、カリスマ性や個性が際立ち、いわばエッジが立っていて、本人も自覚していたり、演出したりしていて、多くの人を引き付ける魅力な人(これはプラスイメージとは限りません)になっている場合です。

また、カリスマ性という意味では、人物の魅力だけではなく、タロットリーディング・占いの能力が異次元的レベルにある人(特に占いが抜群に当たるとか、現実的解決策をズバリと指摘してくれて、それが見事に正解だったというような場合)は、神秘性も加わって、人気が出るでしょう。

あとは、やはり、企画力と、それを実現させていく行動力・実践力が、すごくある人も成功する可能性が高いです。

こういう人はチャレンジ精神と好奇心も旺盛で、成功するために努力も惜しまない人です。何より、自分自身も好きで、人や社会との関わりもまた好きな人というところも大きいでしょう。このような方は、自分で組織や団体を作ったり、自分なりのメソッドや技術を開発したりして、それによるビジネスを手掛けることもあります。

それから、自分は最初はそれほど成功する気はなくても、資金が豊富にあったり、人からプロデュースされたりして、祭り上げられて、いつの間にか成功してしまう人もいるでしょう。

これはいわゆる運が良かったり、自分自身は感じていなくても、他人から見れば、それなりの魅力や能力がある人だったりするからということもあります。巫女的な能力を持つ女性などに、こういうケースがあります。

ほかに、他分野ですでに有名だったり、成功したりしていて、その人がタロットもやってみた・・という人が人気が出ることもありますし、タロットとはおよそ関係ないと思われる異質な分野・経歴を持つ人が、タロットをやることで注目され、成功していくこともあります。

こう書いてくると「私は成功するのは無理・・・」と思ってしまう方もいるかもしれません。

そうですね、もし思いと現実がある程度一致するという考えを入れるならば、成功は無理と思う人は、厳しい言い方になりますが、やはり現実的にも無理なのだと思います。(苦笑)

成功したければ、タロットであれ、何であれ、それを信じる心と方法(行動も含む)が大事でしょう。タロットにもある四大元素で言えば、が重要で、もちろん、ほかの風、水、土の要素もいるということです。

それでも、タロットと仕事の意味では、あきらめるのはまだ早いです。

今までは一般的な意味での成功、厳密に言えば、大きな経済的成功を手にする観点から見た場合でした。

では、成功のイメージを一般的な意味ではなく、別のものにすればどうでしょうか?

言い換えれば、あなたが思う、タロットでできそうな成功(あなた自身が可能だと思う)イメージはどんなものかということです。

それと、一般的な意味での成功(大成功みたいなもの)を比べると、いかがですか?

そこに乖離があればあるほど、あなたの成功は実現しないでしょう。

自分ができると思う成功と、一般的な成功とが、かけ離れているのは、そこに大きな溝があるからです。

ビジネス的には、そこを埋める情報と実践が必要となるのですが、ここでは、違うやり方を述べます。

まず、一般的な成功(大成功)イメージを切り離します。それと同時に、自分の思う描く成功とか活動状態との比較を止めます。

次に、成功イメージをもう少し現実的なものにレベルを下げ、言ってみれば、あなたがほかの仕事で、アルバイトとか定職で稼いでいた金額レベルと同等か、少し上くらいのものをイメージします。

つまり、手が届きそうな成功イメージをするわけです。

次に、稼ぐ手段を複数化します。(実現していなくても、まずはアイデアから)

例えば、電話占いとか、占いの館で稼ぐもの、自分の発信で稼ぐもの(自らお客様を呼び込むもの)、他人や別のものとのコラボ、共同作業で稼ぐもの、タロットを教えて稼ぐもの、場合によってはタロット以外での仕事で稼ぐもの、自分以外の者(家族など)の収入、その他補助されるお金なども考慮します。

こうしてタロットによる、あるいはタロット活動するためのお金、収入、稼ぎを複数化していくことで、独立、ビジネス、仕事としての可能性を増加させるわけです。

人は、「できるというイメージ」がリアリティを持てば持つほど、現実化も促進されてきます。

タロットによる稼ぎ、タロット関連による収入、タロットをしていくためのお金が、現実的に、最初は少額でも、複数からのルートで集まれば、自分が可能だと最初に思った成功イメージに近づくことを実感してきて、本当に自分はタロットを仕事としてやっていけるという確信に変わってきます。

ここまで来ると、おそらくあなたは、タロットを仕事として続けていくことができるはずです。

そうすれば、最初に設定した成功イメージのレベルを上げることも可能になり、もっと上の成功も現実味を帯びてくるでしょう。

もちろん、達成したレベルに留まり、安定したものを構築・維持することでもよいです。その判断・選択は自分次第です。

タロットに関心のある人は、スピリチュアルや精神世界への比重が高いため、物質的なもの、端的に言えばお金への関心が薄いです。これは私にも言えることですが・・・(苦笑)

そこで、仕事やビジネスにタロットを活かすとなれば、矛盾とか、違和感を覚える人も少なくありません。

と言っても、現状の貨幣経済システムがありますから、サービスとお金、もっと言えば、あなたの精神とお金をリンクさせないと、まさに物質・現実としてのお金を手にすることは難しくなります。

言い換えれば、(経済的なものとして現実化するためには)あなたの気持ちがお金に向かうことを許し、身に着けた知識や技術、提供しているサービスをお金に換えることをする必要があるのです。

心を浄化したり、スピリチュアルなことを探求したりするのと、次元や表現が違いますので(本質的にはつながるところもありますが)、これの切り替え(物質の波動に下げる、お金と心をリンクさせること、お金に無関心であったり、亡者のごとく囚われたり、運任せや博打のようなことをするのではない正しいリンク性)が重要となります。

タロットを仕事・ビジネスにすることの現実的な意味では、お金とは無関係ではいられません。

物質やお金と向き合うことも、また成長の糧になるものです。(そこからの超越のためにも必要だと考えられます)


自分を出す時代 光と影

スピリチュアルの世界では、これからは統合や霊的な時代になっていくと言われています。

そのことは、このブログでも、特にここ最近、よく書いているところです。

しかし、その前には、それぞれ、個としての確立も求められることも指摘しておりました。言い換えれば、いきなり、全体が統合されるのではなく、一人ひとりが自分としての個性を成り立たせて、成熟させたうえで、そうなると考えられるわけです。

ビジネス的なサービスの面でも、どんどん個人に対応したもの、皆さんの個性に合ったものが提供されてくる傾向にあります。

同時にそのマイナス面として、理不尽とも言える個人の要求をするクレーマーとか、わがままとも言える個人的対応を当然とするようなふるまいをする人も増加してきているように思います。

求めるほうも求められるほうも、より個性化(心理学用語のものではない、単に個人化するという意味で)の時代になっているとも言えます。

個人を進めていくと、全体との確執もまた現れてきます。

その全体というものが、何を指すのかが難しいところですが、「大勢の意見」とか、「一般的な常識」とか言われるようなものになるのかもしれません。ただ、そうなると、心理学的にはスーパーエゴ(超自我)となって、自我の確立に対峙してくる存在にもなります。

そのようなことは、以前は、個人の中(の成長の過程で)起きていたものが、スピリチュアル的に見れば、それがひとつの(時代の)流れのように、全体としても起きていると言えるのかもしれません。

ところで、マルセイユタロットの中でも登場しますが、「巨大な人間像」として、アダム・カドモーン(カドモン)という存在があります。

アダム・カドモーンについては書くと長くなるのと、象徴性において、思想的に意見が異なるケースが多いので、深くは言及しませんが、あえて単純に言えば、ひとつに集合したモデルとしての意識人間体のようなものと例えることができるでしょう。

私たちが(理想的に)イメージする人類全体統合人間像みたいなものと言えます。

このアダム・カドモーンに私たちは今なろうと、全体の流れがそういう方向性に来ており、しかしながら、そのためには、一人ひとりが自分がこの巨大人間のどの部分になるのがもっともよいのかを見極めている状況とも言えます。

ちょっとスピリチュアルな物言いになっているので、よくわからないかもしれません。

何が言いたいのか言いますと、おそらく、今もそうですが、これからもしばらくは、自分らしさが追及されてくる世界になり、悪く言えば、より目立ったもの勝ちみたいなことのようにも見えるでしょうが、それも大きな視点で言えば、進化の方向性でもあるということです。

そして、誰しもが、自分自身を表現していくことに対し、もっと自然なことになっていくでしょう。

だから今、自分を押し殺している(抑圧している)人、他人や周囲の目線、自分で勝手に作っている「全体」とか「みんな」とか「親」とかの言葉(実在というより、自分で思い込んだり、イメージしたりしている仮の存在)に、それこそ忖度(笑)してしまっているような人も、そこから解放する衝動、自分を出したい欲求というものが増幅してくると考えられます。

当然、その過程では葛藤や対立も表面化してきますが、それでも、以前は抑え込まれていたり、我慢や妥協で何とか穏便に済ませようとしたりしていたものが、そうも行かなくなって、問題の本質と向き合い、対処することが加速されるように思います。

このことは、マルセイユタロットの数でいえば、5と1に関係すると考えられます。

ところが、自分を表現していく、個性としての自分を出していくということが、多くの人で行われるようになると、先述したように、個々の間の人間同士で対立も起きますし、中にはわがままな欲求をすること、人に自分の思いを押し付けることが自分の表現だと勘違いしてくる人も増えるでしょう。すでに世の中はそうなっているとも言えます。

だからこそ、ここがもっとも重要と言えるのですが、もし、あなた(自分)の表現が、周囲の多くの人を傷つけたり、不幸にさせたり、怒りを持たれたりするようなことになるのなら、それはたいてい、単なる自分勝手な個人的欲求を爆発させているに過ぎないことを認識しなくてはなりません。まるで、駄々をこねる子供の表現と同じです。

もちろん、自分の表現が、必ずしも他人に、全部とか、スムースに受け入れられるわけではありません。

しかし、自分の個性的な表れが、他人にとっても好ましいこと、受け入れられることであるのが理想で、お互いに好ましく自分を表現し合えることが増える状態が個性の成熟度を示すとも考えられます。

そのためには、まずは自分を抑圧し過ぎず、自分としての意見を述べたり、表現をしたりすることは大切で、そうすると自分は楽になってくるはずです。

逆説的になりますが、相手の個性を認めるには、最初の段階として、自分の個性を出す、自分自身を認めることが重要になります。

他人に気遣い、自分を殺していては、他人の個性だけを無条件に受け入れることになり、それは一方的なことなのです。これは別のわがまま(自分を認めず、必要以上に抑圧し、自分を殺すというわがまま)であることを理解すべきです。

その次には、自分のわがままになり過ぎていないか、単に利己的欲求の充足と個性の表現を誤解していないかをチェックし、自分を出すなら相手も出すことを許すことができるかの段階になって行くでしょう。

自分から発信していくツールが、現在、山のように出てきた理由は、当然、機器とソフト面の発達もありますが、霊的に言えば、統合のための個の確立を促進するための流れと見ることができます。

とは言え、何事もマイナス面はあるものです。

個の発信が誰でもできるような時代になってきて、それらの弊害も多く出ているのも否めません。

ですが、すでに述べたように、ある種の意図が宇宙的にはあると見ると、もし、あなたが自己の表現や自分からの発信にためらっているのなら、勇気をもってやってみたほうが、全体の流れには合っていることになります。

そして、反対に、別に今あるたくさんのツールで自己表現、自己発信することが、あなたの「個性」ではないというのなら、それもまたひとつの「個性」であり、その選択も流れには合っていることになります。

要するに、自分らしくあればいいということです。(自分らしくある時は、自分が苦しい状態ではないはずです、もし自分らしくしているつもりでも、苦しくつらいのなら、どこか間違っていることになります、ただし、成長の過程ではつらさ・苦しさは当然あるものですから、ずっと楽であることはないと言えます)

一番まずいのは、ただ惰性的、衝動的、低次の欲求充足のためだけに自覚なく生き(自覚ある場合は、特殊ではありますが、有意義なこともあります)、みんなの意見とか、常識とか、大勢に迎合し、自分の意見を持たずに他人を攻撃したり、自分を抑圧したりすることです。

自分の選択においても、感情と理性、低次と高次、その葛藤は普通にありますが、どちらがよいというのではなく、その葛藤、悩みから何を学び、得るのかという、いわば自分を超えた第三の視点から見てみることだと思います。

マルセイユタロットで言えば、「恋人」カードと「神の家」の接点を見るような感じでしょうか。

皆さん、一人ひとりの成熟した個性の確立、そこから来る祝福を願っております。


Top