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タロットに向いている人、向いていない人

タロット学習において、最初、あるいは途中からでも、結構、質問として来るのが、「私はタロットに向いているのでしょうか?」というものです。

これは、まだタロットを学んでいない時の場合と、すでにある程度タロット学習を進めている段階のものとでは、質問の言葉は同じでも、ニュアンスが違います

今からタロットを学ぼうかという人で、「自分はタロットに向いているのか?」と発する場合は、未知なるものへの不安が中心ですし、裏返せば、それだけの期待感もあるのです。

気持ちとしては、「自分が学ぶものに対して相性が良ければいいな」とか、「タロットを自分や他人に活かせるようになれれば嬉しい」というようなワクワクもある反面、「できなかったらどうしよう」とか、「ちゃんと学習についていけるかな?」という不安もあり、これはタロットに限らず、誰しもが抱く、「初めて感覚」のようなものです。

しかし、学習途上で抱くこうした質問は、やってみてからのものであり、単純な不安と期待のものからではないことがあります。

それは、一言でいえば、自分に対する不安、自信喪失であり、一見、技術・知識的な問題であるかのようでいて、実は本人の精神的な問題(の浮上)や危機ということがあるのです。

具体的な表現としては、「自分はタロットを学んできたけれど、なかなかうまくリーディングできない」「結構学習したのに、タロットを活かすということができない、わからない」という感じが多いでしょうか。

これか先述したように、純粋な技術と知識面の技量不足問題であるならば、やり方を変えたり、もっとポイントを絞って指導を受けたり、修練したりすればいいのですが、そうではない精神的なことまて来ているとなると、それだけでは問題は解決しません。

最初は、タロットを読む力とか活かす力が足りないという思いから始まっていても、次第に、学習してもうまくならない自分にあせりとか、怒りとか、情けなさを感じ、自己否定状態になっているわけです。

指導者側から見ると、本当のところ、そういう発言をする人は、最初の頃よりも格段に進歩しており、すでに十分な力があるのに、自己評価が低いという場合がほとんどです。

本人は努力家の人が多く、なかなか頑張っていらっしゃいます。

そして、やはり、普段からも、自己に厳しい評価を下している傾向があります。

結局、できないことを大きくとらえて、自己否定をすることで、自分の成長を促そうとしているのですが、同時に励ましてほしい、勇気づけてほしい、自分の進んできた(学びの道)の選択が間違いではなかったと言ってほしいという思いも強くなっているので、悩みも大きくなります。

もうひとつは、ある程度の学びまで来ると、それまでのものを破壊して再構築していくような段階があり、それはタロットなどの精神的・霊的のフィルードを多く扱うものでは、顕著だということです。またこれも自己成長のプロセスとつながっています。

その段階まで来ると、成長のためには、一時的な落ち込みや混乱、退行のようなことが起きます。

言い換えれば、自分にタロットは向いていないと思えるほどの状況を迎えた場合、逆に順調に進んでいるということなのです。

ですから、学びの途中で「私はタロットに向いていないのでは?」という人は、祝福だと取ってもいいわけで、その人に言えることは、「それだけ強くタロットと自分のことを思えるのは、あなたがタロットに向いている人だからですよ」ということです。(笑)

最初に「向いているかどうか」という質問する人も含めて、私から言いたいのは、タロットに関心を寄せ、しかもそれを学びたいと思った時点で、あなたはタロットに向いている人なのです。

逆に言えば、タロットに向いていない人は、タロットに全く関心を示さない人です。

ここで意外なのは、関心を示すということは、何もポジティブなものだけには限らないのです。

タロットは怖いとか、タロットが嫌いとか、あんなものはしょせん占いの道具などと、バカにしたり、ネガティブに思っていたりしていても、それはマイナス方向での「関心」には違いないので、こういう場合は、あとで180度印象が変わって、タロット好き、タロットに向いている人になるケースがあります。実は私も、タロットに対してはネガティブなイメージがあった側の人間です。(苦笑)

それと、向いている、向いていないという見方ではなく、シンプルに好きか嫌いで見てもいいと思います。

好きこそものの上手なれと言われるように、好きであれば、困難が多少あってもタロットを続けていくことができますし、向いている・向いていないという基準で自分とタロットとの関係を計ることはあまりしなくなります。

タロットのことを語る時、あなたは他人からどのように見えるのかです。私はとても生き生きとしているらしいです。(笑)

それから、そもそも向いている・向いていないとかの二元で分けた捉え方(判断、ジャッジ)をするのではなく、「向いているよにうなる」という方法があります。

私の話をしましょう。

私はもともとはタロット大学(現イシス学院)でカモワンタロット(カモワン版マルセイユタロットとその技術)を学びました。今はカモワン流(カモワンタロット認定講師)ではありませんが、当時の学習システムとして、最終段階では上級コースというのがあり、これはフランスへ行き、グランドマスターであるフィリップ・カモワン氏から講義を受け(通訳つき)、資格認定してもらうことになっていました。

この時は、私はそこそこ自分なりに、今まで構築してきたリーディングには自信がありました。(今の私から見ると、驕りのレベルですが・・・(^^;))

しかし、カモワン氏のリーディングとその技術を初めて直接見た時、これは今まで自分がやってきたものとは次元が違う、別物であるという非常なショックを受けました。

これまでのプライドも技術的なものも何もかもが一気に崩壊したかのような気分でした。(まさに「神の家」のような衝撃です)

それ以来、講義の間中も、うまくタロットが読めなくなってしまいました。初心者に逆戻りした感じです。

そして、講義中のリーディング演習の時間に、組となったお相手がタロットリーダーの際、私は「今混乱しているので、自分がタロットに向いているのか、タロットをこのままま続けてよいか知りたい」という質問(リーディングの題)をしました。

その時のタロット展開はなかなか複雑でした。そして発表(組リーディングにおいて、それぞれのタロット展開と、どうリーディングしたのかを講師及び他の受講生の前で発表するもの)の時に、カモワン氏が私に、最後に新たにカードを一枚引くように指示されました。

私が引いたのは、カモワンタロットでいうところの「斎王」(大アルカナの二番のカード)でした。

カモワン氏は、「これは“タロットリーダー”を表すカードなので、タロット続けるのはよい」みたいな講評をされ、私はとても勇気づけられました。

しかし、これにはオチがあります。(苦笑)

実はこの時の展開法は、タロットの正・逆を取る方法だったのですが、逆位置はネガティブな意味ではないとはいえ、カモワン流では問題を示すカードでした。

私は斎王のカードが正立で出たのか、逆位置で出たのかはほとんど記憶しておらず、というのも、追加でその場で引いたカードなので、落ち着いて正逆まで確認せず、ただ引くことだけに意識が集中していた感じだったからです。

ですから、カモワン氏にどんなカードが出たのかと問われた際も、「斎王が出ました」と答え、カモワン氏から正立か逆位置かを確認されても、よくわからないまま、「正立だったと思います」と述べました。

ところが、あとで、上級コースが終ってだいぶん経ってから、このエピソードを仲間に話すことがあったのですが、同席していた組相手の方が、「宮岡さん、あのカードは逆位置だったんですけどね(笑)」と言われて、「ええっー!!」とズッコケたのを思い出します。

何が言いたいのか言えば、結局、向いている・向いていないなどは超えて、自分がどう思うかだということなのです。

私は斎王が正立で出たということに(正逆という意識がなかったので、斎王が出たということ自体そのものに)感銘を受けて、自分はタロットをやってよいのだという自分に許可を出したことで、いつの間にか、タロットが向いている自分に切り替わっていたのです。

もちろんグランドマスターの言葉、フランスでの講義という、日常とは違う、異質かつ衆目の状況による演出効果・・・これらも私にリアリティを感じさせたに違いありません。

今思えば、一連のことは、すべてタロットの意思や自分の心が見せたものだったのだと考えることができます。

ということで、タロットを学びながら、自分はタロットに向いていないという人は、それは逆説的に言えば、タロットに向いている自分になるチャンスなのだと思っていただければよいです。

つまるところ、向いている・向いていないは、自分が決めることなのです。

また、人から言われないと向いているように思えないのは、まだ承認を人に求めている部分が、タロット以外でも自分の心理にあることに気づかれるとよいでしょう。

でも、それは悪いことではなく、自立のための過程なのです。


マルセイユタロットの動物形象

マルセイユタロットの大アルカナ小アルカナの宮廷(コート)カードには、動物形象のものが描かれています。

それには、犬や狼に見えるもの、鳥類で鷲や鷹のようなもの(フェニックス含む)、蛇のような長物、ライオン(獅子)、馬的なもの、猿のようなもの、ザリガニ・蟹のようなもの、そして何者ともわからない複合獣のようなものなどがいます。

動物はすぐにそれとわかるものもありますが、よく見ないと(アルカナとして口伝で伝えられているものの説明を受けないと)、なかなか見た目ではわからないものもあります。

※蛇類は特に難しいでしょう。しかし、ある種のルールがわかれば発見することができます。蛇が難しいのは、それだけグノーシスが隠され、暗示されているためだと個人的には思っています。

ほかにも動物・獣ではありませんが、羽のついた天使は、獣とともに描かれていることもあり、特に「世界」のカードでは、いわゆる四聖獣として、四つの生き物の中に天使も出ています。

これらには、それぞれ象徴的な意味がもちろんあります。

タロットリーディングにおいても、それぞれの動物・生き物がどれだけ(重なって)出ているのか、あるいは散らばっているのかなどによって、またそのなどによっても読み方は変わってきますし、タロットが示す意味をつかむための根拠にもなります。

動物・生き物象徴の読み方としては、まず読み手(タロットリーダー)やクライアントが、そのカードに描かれている動物形象を見て、素直にどう思ったか、どのように感じたかを取り上げます。

ただ、これはもっとも低次な読み方であり(ながら、時には高次のインスピレーションにもなります)、だいたいはタロットを知らないクライアントの方は、どう感じるかと言われても、正直何も思わないというのが普通かもしれません。

マルセイユタロットの場合、特段、犬などの見慣れた動物も、かわいく描かれていたり、芸術性をもって描写されたりしているわけではないので、動物好きな人でも、特に何も感じないということはあるでしょう。

しかし、次の読み方として、絵そのものよりも、その絵の意味合いにふれていくというものに移行しますと変わってきます。

例えば、犬が好きでペットとして飼っているという人は、犬の絵を見て、自分のペットのことだとか、もし犬と一緒に描かれている人物があれば、それは自分ではないかと感じることができます。

とすれば、わざわざ多くの中からそのカードが出たのは、何かしら自分を象徴しているものと見ること(自分として強調されていると見ること)が可能になります。

そして、次の段階では、再び動物の絵柄に着目することで、その動物が自分におけるペットの意味だけではなく、もしかすると自分の対人関係(例えば人との付き合い方や距離感)を表しているのだと気づくこともあるかもしれません。

愚者」というカードにはが描かれていますが、この犬はよく見ると、後(足)の部分は(わざと)省略されたかのようになっていますし、前足が「愚者」の人物にかかっていますが、そのかかり方、あるいは犬の表情などに注目してみると、この犬が見る者の一種の投影装置のようになっていることがわかります。

つまりは、見る人によって、犬のイメージ(様子や感情)が変わってくるのです。

そして、ここからが真髄になってきますが、動物形象のそれぞれを象徴学として学び、知識を得ますと、時代を超えた普遍的な(宇宙的もいえる)象徴性を想起することができ、心理や霊的な背景と相まって、タロットの示唆することの奥深さが見えてきます。

それゆえに、タロットは勉強する必要があるのてす。直感だけで読むものは、タロットリーディングのほんの一部に過ぎません。

さらには、動物形象がほかの動物と関連し、その象徴性の本質が把握できますと、世界中にある動物的な比喩・象徴について理解することもでき、連綿と見えない次元で生き続けているとも言える動物霊(サイキックの世界で言われる、いわゆる低次の憑依的な動物霊とは別です)のようなものが自分に語りかけてくるのがわかります。

私も、マルセイユタロットの獅子について思いを馳せている時、これは龍と同じ象徴性があることを感じました。

また、馬とも関係しますが、聖獣としての一角獣・ユニコーンも獅子とつながっていると思います。(マルセイユタロットにおいて、ユニコーンは非常に重要な意味があります)

獅子は日本の神社で言えば、狛犬として見ることもでき、狛犬のような「あ・うん」の姿は、マルセイユタロットの獅子(ライオン)にも描かれています。

獅子を龍として見ますと、特に「」のカードの意味は、とても面白くなると思います。

ところで、フランス国立クリュニー中世美術館所蔵の、有名な「貴婦人と一角獣」というタペストリーがあります。(日本で展示されたこともあります)

これは六枚にも及ぶ、かなり大きなタペストリーで、その名の通り、貴婦人と一角獣・ユニコーンが描かれており、ほかにも獅子などの動物も複数登場し、さらに植物も豊富です。

一般的にはそれぞれのタペストリーが、五感ともうひとつの感覚を表していると言われますが、作られた時代や地方、書かれている文言の謎からして、マルセイユタロットと非常に近いものを感じ、本当の意図(象徴)は別にあると個人的には考えています。

このタペストリーでは、獅子と一角獣がむしろ対になって、貴婦人を中心に対立概念、相補、統合すべきもののように見せています。

この関係性が、非常にタロット的でもありますし、先述したように、マルセイユタロット自体に獅子(ライオン)、そして一角獣(ユニコーン)も描かれていることはすでに述べた通りで、それらの動物には、タロットでも必ず女性、もしくは女性的な人物が描かれているのです。

ともあれ、マルセイユタロットにおける動物形象を見ていくのは、とても興味深いことで、伝説や物語にも彩られ、それらの象徴性に感応していく時、聖なる使いとして、私たち(それぞれ個人)を導く存在にもなってきます。

なぜ古代の人が、その動物を神の化身としたり、使いとしたり、眷属のようにとらえていたりしたのかもわかってくるでしょう。

あなたにも、縁のある霊的な動物存在がきっといますし、それは自分の力の源泉でもあるのです。


苦悩する人は幸いである理由

マルセイユタロットは、悟りへの道を示している体系とも言えます。

「悟り」と言えば、何か一般的には、どんなことにも動じない、波風立たずの澄み切った境地のようにイメージされます。

しかし、マルセイユタロットの最終局面、つまりは「悟り」を体現する絵柄ともいわれている「世界」のカードでは、中央の人物はダンスしているかのように見え、周囲は四つの生き物が囲み、ある種、騒々しい(笑)感じさえ受ける、バラエティさに満ちています。

そして、ここに至る経緯を示すとも考えられるほかのカードたちも、すべて同じ絵柄はなく、みんなそれぞれ違っています。

ということは、単純に言えば、すべての違いを味わって受け入れた先に「悟り」が待っているとも想像できます。

であるならば、私たちは幸いだと言えましょう。

なぜなら、おそらくほとんどの人は、そんな澄み切った境地などになることは少なく、いつもなにがしか心を迷わせていたり、考えを巡らせていたりしており、それは、もし一言で例えるのであれば、様々な感情を体験しているという状態であり、言い換えれば、悟りのためのバラエティさを経験し、学んでいる最中だと述べられるからです。

そう、私たち皆、悟りのためのプロセスを歩んでいるのだと言えるのです。

だから、つらいことや悲しいことがあって心を一時的に閉ざすようなことがあったり、もうあんな経験は嫌だからと、自分から距離を置いて、客観的になり過ぎたりするのも、かえって霊的な成長(統合的発展)の遠回りをしていることになるかもしれないということなのです。

自分が壊れてしまわないよう、ある程度の防御、防衛反応は、この世知辛い(苦笑)世の中を生きていくうえでは必要な場合もあるでしょう。

しかし、先述したように、本当の成長や喜びを迎えるためには、感情的な起伏を十分に体験し、味わう必要もあると考えられます。

またそれは自分と他を分けて、自らの感情を切り離すようなことではなく、自他が一体となった没入・共有体験とも言えます。

マルセイユタロットの体系(システム)で言えば、「月」のカードと「恋人」カードで、この感情体験の必要性や仕組みを述べることができます。

このブログでもよく語っているように、現実世界は分離の世界であり、いわば二元原理を色濃く分けて住む世界です。

その二元区分には様々な象徴性で例えられますが、ひとつには、「天上性」と「地上性」という分け方もできます。

平たく言えば精神や心・霊の部分と、肉体や物質の部分の二元と言ってもよいでしょう。

すると、「月」のカードは天上的であり、「恋人」カードは地上的となります。(この分け方にもいろいろあって、とりあえず、ここではそうした区分を使います)

これは、地上の選択における迷いの感情的エネルギーが、天上的な「月」のプールに貯められると表してもよく、また逆に天上的葛藤(二元対立と相補原理の)エネルギーが、地上的選択(「恋人」カード)に反映されると言うこともできます。

違う言い方をすれば、、私たちが実際の生活で何かを選び、迷うような時、言ってみれば人生の局面局面で味わう心の揺れ動きが、一種のエネルギーとなって、私たちを天上なる悟りの世界へ導く原動力になっているのだということです。

そして、天上の魂のようなものが、地上の私たちに、もっと感情を味わうよう、もっと感情的にエネルギーが起伏するよう促しているのです。

「月」の犬は根本的な二元原理の交流による、いわば電気的エネルギーの増幅や推進と関係しています。(簡単に言えばプラスとマイナスによる電気発生)

おっと、つい、かなり奥義的な話をしてしまいました。(笑)

たぶん「令和」の時代になるので、霊的な開示を積極的に行うような流れになってきているせいもあるのでしょう。

ということで、今、悩み苦しみの渦中にある人も、それは天と地の間で、人として、感情体験をし、すべてある世界に回帰するために、まさに(できるだけ)すべてを味わい、経験する過程を実際に(現実というバーチャルな世界で)行っていることなので、大きな視点では幸いなのです。

しかし、苦しいことばかりが感情体験ではありません。喜怒哀楽と言われるように、喜びや楽しさも味わってこそです。

世界のカードに四つの生き物が描写されているのも、この四感情と無関係ではないでしょう。

現実世界は救済措置として、ずっと同じ状態が続くということがない世界です。常に変転し、まさに常ならずです。それは時間や空間というものがあるからです。

ですから、同じ感情が続くということはなく、いつも大なり小なり動いて、喜怒哀楽をその都度体験しますし、気の持ちよう、心の持ちようと言われるように、自分で気分を変えることもできます。

同じ状況が続いていると思う人は、悪いサイクル(堂々巡り)に入っていると言えますので、そこから脱出して違う感情を体験するために、こういう場合は、客観的姿勢、あるいは他人からのアドバイス、介入、手助けが求められます。

どちらにしても、心を閉ざすのではなく、開いて、実際(による感情)を体験することがこの世界では重要なのです。

タロットで言えば、いつも最初の数を持つ「手品師」に戻り、新鮮な気持ちになる状況をもたらせるとよいと言えます。

さらに、一人で経験するばかりではなく、誰かと、仲間と、組織で・・・という具合に、他人と一緒に経験することで、また違った感情を味わうことができます。それは一人の時よりも、深かったり、大きかったりします。

一人過酷な修行に臨む悟りの道もありますが、こうして普通に生きながらいろいろな人と交流し、視点を変えていくことで、それ自体が悟りの道となっていると考えることもできますので、いわば、神(仏)とともにある日常も体験できるわけです。(神や仏が悟りや完成を示す境地であるのなら、その過程にある実際の生活は、神・仏とともにある生活と言えるからです)

こうやって見ると、どの人の人生も、すばらしき道であるのに気づきます。

まさに、苦悩する人は幸いなのです。


新元号から 人生の体験・経験

新しい元号が「令和」に決まりましたね。

新元号に対しては、いろいろな意見があるようですが、おおむね、好印象に受け止められているように感じます。

官房長官の発表の時間が、2019.4.1の11:41であったことに数秘的な意味合いを見た気がします。語呂合わせ的にも、41の「よい」が重なって、喜ばしいですよね。(笑)

個人的には、アニメ好きなところもあって、レイという響きに反応する自分がいます。(苦笑)

例えばキャラクターではエヴァゲリオンの「綾波レイ」とか、題名では「喰霊零」とか、とにかく、アニメではレイという名前や、漢字で零、つまりはゼロ式とか、ゼロ話(第一話の事前談に当たるような話)ということがよくあります。

一方、「和」につきましては、皆さん、「昭和」という元号があったので、これが入るというのは予想外だった人も多く、私も意外でしたが、昭和という前の時代も受け継ぎつつ、この字が表す「和する」ということが、新時代にさらに重要なことになってくる気がします。

また、「令和」を霊和、霊輪といういうように同音の違う字で置き換えますと、物質より霊性へ回帰してくる方向性、霊的な和合に向かっていく時代になるのではないかという暗示のようにも見えます。

しかしながら、世界的には西暦として、ある意味、キリスト教暦(歴でもあります)で統一されていますので、そこからすると、元号など関係ないようにもなり、さらっと流していくのもいいかもしれませんし、ハッピーな気持ちで新時代を迎えるのはよいとしても、商売的に変に煽られ、下手に乗せられないようにも気をつけたいところです。

いずれにしても、元号が時代を作るということもあるかもしれませんが、私たち自身が時代を生き、その結果として「令和」の時代であったということにもなると思いますから、一人ひとりの人生の総論として、私たち皆が、新しいよい時代を創っていくようにしたいものです。

さて、元号に関係しないようでする話(笑)をします。

私は昭和生まれなので、一度「平成」に元号が変わる時を経験しています。

昭和生まれの人でも、終わりかけの頃だと、幼少時で、あまり記憶になく、親にその際の様子を聞いたという人もいるかもしれませんが、私などは就職したての頃ですから、はっきりと覚えています。

ということは、すでに元号が変わることは経験済だということです。

従って、今回の「令和」が発表されても、名自体には意外性もありましたが、元号変化の受容性への抵抗は、昭和から平成の時よりも少なく感じました。

それには、今回は天皇崩御によるものではなかったので、全体的に準備ができつつある状況ということもあるかもしれません。それでも、やはり一度経験したことは、人間、慣れが出るものです。

ここから思ったのは、実経験の大切さです。

前回の記事では、想像の創造について、つまりはイメージすることの重要さを述べました。

今回は逆に、実体験することの強調です。いくら想像し、計画しても、それを実行に移して、現実の経験(生の体感)として味わうことをしなければ、それこそ絵に描いた餅、砂上の楼閣であり、経験(した)とは言えません。

タロットリーディングもそうですが、タロットを学習し、知識と技術はあっても、他人を実際にリーディングし、それが評価される(評価にはよいこともあれば悪いこともあります)という実の経験がないと、真の意味では上達はおぼつきません。

しかし、生の経験をしていると、次第に落ち着いて他人へもリーディングできるようになりますし、座学やデスクで学んだことだけでは対処できないこともわかってきます。

霊的な話をすれば、私たちの人生(地上生活、現実を生きること)は、やはり、実際の経験、生の体験を味わうことに大きな理由があると考えられます。

思考やイメージだけで予想したものと、実際に体験するのとでは、まったく違う次元の話であるということです。

おそらく、死んだあとの世界、あるいは宇宙的なたとえで言えば、違う星とか、違う次元の世界というところは、私たちが空想するイメージの中の世界のような感じではないかと思います。

そこでは、地球の地上生活のような、感情の起伏を激しく経験するような刺激は少なく、平穏無事で希薄、体感も少ない世界なのでしょう。

言わば、体のない、空気のような霊や魂だけの世界を想像すると、それに近いのではないかと思います。

こうなると、(身体的に)体感したい、もっと地上で刺激的に(感情を)味わいたいという気持ちになるのもわかります。

そのため、ここに来ているのではないでしょうか。

また、一度経験したことは、先述したように慣れて落ち着いてきます。冷静になれると言ってもいいでしょう。

すると、これを魂の輪廻的なサイクルでもって見ていくと、自分が初めてなのに、最初からうまくできる、なじんでいる、あまり緊張しない、霊性である、親近感がある、既視感がある・・・という感覚になるものは、すでに似たようなことを経験したり、出会っていたりする過去(データ)があるとも考えられます。

それでもまた経験するのは、以前経験したことより(そのデータよりも)バージョンがアップするなどしてチェンジしているところがあり、それはそれでやはり新しい体験になるからだと思えます。

あるいは、ひとつの分野における専門性を極めていくため、もしくはバランスを取るために、似たようなことも実際に経験しているのかもしれません。

さらには、いろいろな経験をすることで、それこそ叡智を実体験で深め、どんなことにも落ち着き、対処できる自己(還元して全体)の成長を図っているのかもしれません。

いずれにしても、この地上の人生にある(生きる)人というのは、経験をもっとしたい、積みたい、味わいたいというところがあるのでしょう。

ということは、やはり、私たちは、ここにせっかく来ているのですから、頭だけの考えで終わったり、イメージだけして、もう体験した、わかったという風にしてしまったりするよりも、できるだけ、実際に体験・経験してみることが魂の喜びになるのではないかと推測できます。(人には頭だけではなく、手足と体がついています(笑))

ここからすると、やるか・やらないかで迷ったら、やったほうがいいという選択基準になります。

やったせいで、失敗したり、そのことで後悔したりすることもあるかもしれませんが、それは地上の基準で見た場合がほとんどでしょう。天上から見れば、すべての経験は喜びなのかもしれず、たいていのことは、やったほうがいいということになります。

まあしかし、地上的基準も、もちろん無視できないものなので(それは、今生のキャラクターとしての自分は、今(の人生)しかないからです)、限られた今の自分という地上生活の中では、効率・非効率、成功・失敗の概念がどうしても入りますし、それはそれで(時間・空間的)限定人生として見れば、大切な基準だからです。

この地上的価値観と天上的価値観(基準)に、あくまで自分として折り合いをつけながら、人生を過ごしていくとよいでしょう。


タロットとイメージ力

タロットは絵でできているカードなので、イメージと深く関係してきます。

タロットはこのブログでも書いてきているように、様々な使い方があり、その多くの中のひとつが、イメージ力をあげるためのトレーニングツールとして活用できることです。

しかも、ほとんど意識しなくても、タロットを使い自己や他人をリーディングしていくようになると、自然にイメージの力は上がっていく仕組みになっているように思います。

その理由は簡単です。

タロットを読むということは、実際の相談ごとの情景を思い浮かべて、それがタロットの絵として共通しているものがあるか、関係性があるかどうかを、イメージとタロットとの絵柄とで検索するようなことをしているからです。

つまりは、イメージを意識的に使うことが、一連のリーディング作業に課せられているのです。

もちろん、カードがなくても、人はいつもシーンや光景を思い浮かべることはしていると思いますが、タロットリーディング自体が、特にイメージを喚起するような流れになっているので、イメージする力が高まるわけです。

また、最初は何も思い浮かばないという人でも、カードの絵柄、特にマルセイユタロットは、あえて芸術性や刺激のあるような絵にしていないことで、むしろ人間誰しもが持っている意識の元型のような形を描ているので、不思議とイメージが段々としやすくなってくるのです。

ところが、このイメージの力というものは、実は創造の力とも結びついており、特定のカードで言えば、「女帝」や「力」、さらには「13」や「悪魔」などとも関係してきます。

言ってみれば、現実化する前の元のエネルギーのようなニュアンスがあります。

「引き寄せの法則」「思考は現実化する」などの本、あるいは説などで知られているように、人の想念・思い、つまりは想像力は、日本語として音が同じの「創造」につながり、いわば“想像した通りの創造”が行われると考えられています。(これには、条件や制約がついて回るとは言えますが)

ということは、必ずしも、いいことばかりが創造されるわけではなく、まさにイメージしたことが起こる(あるいは、起こる源泉になると考える)というのなら、ネガティブなことも生じるおそれもあるわけです。

タロットリーディングの際、例えば、さきほど挙げました「女帝」カードの問題性として、創造の過剰さというものがあります。

これは創造にための想像が、悪い意味で過剰(ネガティブイメージのし過ぎ)になっていると言う事態を示します。

女帝(の象徴性において)は本来、創造的な性質を持ち、まだ現実にないものをイメージの世界でクリエイトすることができます。

しかし、これがよいことの想像だったのならいいのてすが、いわゆる取り越し苦労のような、まだ起こってもないことを先々に心配してしまい、その不安で自分を悪くさせている場合があります。

しかも、ネガティブなイメージや思いは、もともと強い力を持つことが多い(この理由は後述します)うえに、タロットを使うような人になってきますと、最初にも述べたように、イメージ力が向上してきますから、人によってはネガティブイメージのクリエイト力が上がってしまい、現実にまでそれを引き起こすケースがあります。

簡単に言えば、ネガティブ想像の現実化です。

ですから、イメージ力が上がることは、いいことばかりではないのです。(何事もよい面と悪い面のセットにはなっています)

さきほど、「人によっては」と書いたように、イメージ力が上がっても、ネガティブの創造性が増す人と、ポジティブの創造性が強くなる人など、個人によって異なってきます。

一般的に、自立性が少ない人、他人の影響を被りやすい人は、イメージ力が向上しても、ネガティブさや、人の想念など、他人の影響によって自分のイメージが作られることが多いため、その力の影響力が、かえってマイナスに作用することがあります。

また、人類の集合的意識のようなものに、かなりのネガティブさが溜まっていると想像されるため、今の地球の人類は、どうしてもネガティブに流されたり、その力に飲まれたりして、本来ポジと等しいネガであるものが、幻想的(仮想現実的)に、ネガが上回るような世界になっているところがあり、そういうことからも、イメージ力の増強がネガティブ想像(創造)強化につながる場合があるわけです。

そして、霊的な向上など、スピリチュアルな成長・発展を遂げたいという思いの人が、イメージ力を上げていくと、イメージ空間とも呼べる、ある種の次元との接触が強くなってきて、自分の未浄化の部分(データ)を掘り起こすことが起き、次々と障壁・障害のようなものが実際に出てくることがあります。

長い目で見れば、それはよいことでもあると言えるのですが、障害が出る現実となると、苦労や大変さもあるのは事実です。

というようなことで、タロットとイメージの力は密接に結びついてはいるものの、その使い方には気をつけるところも必要で、結局、自分の体・心・魂を調和させていくことをしないと、せっかくのイメージの力も乱用させたり、自己を破滅させたりすることになりかねないわけです。

ですが、もちろんよいこともたくさんあり、イメージだからこそ、自由に世界を創造することが可能で、現実で押し込められた自分、必要のないルールで縛られた自分の世界を解放させることができます。

またつかみとごろのなかったものを、絵や像として、とらえることができるようになります。

これらは現実をコントロールすることと、大きく関係してきます。

「人はイメージできないことは実際にもできない」と言われますから、逆に言いますと、イメージの力が強まることは、生きるうえでのパワーやフォースを得ることと等しくなるのです。


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