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家族、人間関係、タロット、力

タロットカードの象徴性の力は、一般的な意味での「象徴」(抽象的のものを形や図などで表すとか、比喩的に見るとかの意味)とは別のものがあります。

それはまさしく、「力」と言っていいもので、マルセイユタロットの大アルカナにも、「力(フォース)」というカードで直接表されています。

余談ですが、フォースと聞けば、映画スターウォーズを知っている人ならば、その言葉は聞いたことがあるはずで、そこで描かれている“フォース”は、いわば、このタロットが示している「フォース」の映画的(エンターテイメント的)表現と言ってもよいと思います。

今回はフォースが何かについて語るのではなく、とりあえず、タロットには象徴的な何かの力が宿るみたいな話です。

マルセイユタロットの、中でも大アルカナと呼ばれている22枚のカードたちは、わかりやすい絵柄になっており、まさに象徴としての機能が明確です。

象徴機能としては、個人的にはほぼ万能であると見ていて、あらゆることをカードで表す(理解させる)ことができると考えています。

従って、マルセイユタロットを学習することは、とても物事の理解、把握、整理に役立つことは確実で、さらに言えば、普通のことだけではなく、いわゆる見えない領域(心とか霊的なこととか)にもそれは及びますので、何倍もの価値があります。

さて、私たちの悩みには、いろいろなものがありますが、その中でも人間関係というのが、大きな位置を占めています。

人間関係の悩みを解決するには、タロット的には「愚者」(自分軸の自由の象徴)になるのが一番なのですが、そうなれないから皆さん、悩むわけですよね。まあしかし、今日の本題とは、ずれますが、日本人の場合は、特に自分中心(自分自身を大切にする)考えと行動をもっと取ると、楽になって、人間関係的にも悩みが少なくなる気はします。

話を戻します。

人間関係の悩みの根本的な要因になっているもの、または原因のパターン(型)になっているもので、自分の家族があります。つまりは、自分が育ってきた家族環境や構成、その力学的なものの関係(による影響)です。

それが身の回りの社会の人々(関わる他人)にも投影されて、父や母、兄弟・姉妹のような感じ(対応)で、無意識に自分がふるまってしまうわけです。

それには単なる好き嫌いの感情のレベルもありますし、自分が意識(自覚)できていない部分での、様々な感情・思い・ルール・トラウマのような深いものもあります。

それらが、全部とは言いませんが、やはりひとつの反応パターンとして、対人関係に出てしまうわけです。

そして、知らず知らず、自らで自分の家族を再現し、かつてあった問題性や反対の心地よさを別の人にあてはめようとして、何らかの心理的調整を他の人間関係で図ってしまうということになります。それが問題として生じることもあるわけです。

そこで、タロットの、特に大アルカナを家族の象徴として見立て、関係性を客観視し、偏りや思い込みを浮上させて、カードの世界で修正してしまうことにより、家族から発生させていた、現実の対人的(人間関係)問題を変えていくことが期待できます。

ただ、これには、カードを学び、象徴を単なる思想的なものでなく、本当の力・フォースとして扱う必要が出てきます。

ファンタジー的な言い方をすれば、タロットカードと世界がつながって、カード自体、一種の世界(環境)操作のパネルとなるというイメージです。

周り(世界)のことをタロットにあてはめるのではなく、タロットのことを世界にあてはめる作業と言え、普通の見方(方向性)とは逆になります。

別の言い方をすれば、タロットの象徴世界をリアル空間の情報とリンクさせ、ほとんど同じ感覚にするということになります。

多分に魔術的でもありますが、比較的ライトな段階では、心理レベルで扱うことができ、そのレベルにおいては安全と言えます。(逆に魔術レベルまでにしてしまうと、それ相当のフォースの扱いの訓練がいり、サイキック的影響の懸念もあり、下手に介入するのは危険です)

こう書くと、まるで事象を変えるためにタロットを使うみたいな怖い印象・イメージも出ますが、それはその通りで、タロットと外の世界が同じ次元と情報レベルとして同調させることができると、おそらくそのタロットを扱う人は、かなりの度合いで、自分の望み通りに世界を変えていくことができるでしょう。

※ただ、実際の世界が変わるというより、あくまでその人の世界観が変わる(そのように感じ、見えてしまうようになる)と言ったほうがよいでしょう。とても主観的な世界の話なのです。

まあしかし、そこまでできる人は、先述したように、それなりの訓練、修行が必要ですし、そのような目的(利己的な願望実現)でタロットを使うものではないと私は考えます。

とはいえ、タロットが実際的な力としての象徴性があることを知ると、カードというのは絵空事ではなく、現実と世界に影響を及ぼすことができるものだとわかってくるでしょう。ただし、何度も言うようですが、その扱いには注意が必要ですし、技術的にも難しいところがあり、単にタロットをやっているだけで、そのようになるわけではありません。

ともあれ、家族関係について、カードで象徴させて、それを見直していくという作業が、一般的に自分の人間関係の修正や改善につながっていくという話です。

この反対の、まず人間関係そのものをタロットで見て(象徴させ)、自分の家族などの関係性・力学的なものに実際に入って行く(気づきを得て行く)という修正方法もあります。

これはむしろ、タロットリーディングとかタロットの活用のノーマルな方向性と言え、普通に多くの人(タロット使用者)がやっていることでしょう。

マルセイユタロットの研究家・実践家としても知られている、映画監督のアレハンドロ・ホドロフスキー氏は、家族療法をタロットを使って施しており、それを実際に私も見たことがあります。

氏はまた、独特のサイコマジックという手法で、人の心理的・サイキック的な悩みや問題を癒していますが、それもある種の「力」としての象徴を行使しているのだと見ることができます。言ってみれば、魔術の原理と、とても似ています。

要するに、実際的な力として影響が出る「象徴」なのか、単なる文字とか思考においての比喩、言い換え道具のような「象徴」なのかの違いというわけです。

タロットの場合は、その両方で扱えるわけですが、特に「力」をもった象徴になるということでは、ほかのもの(ツール)とは大きく異なるわけです。

しかしながら、その力も、結局は、タロットというものを自分の中に落とし込む程度によりますし、つまるところ、タロットをどこまで信じるか(リアリティを持つか)にかかってきます。(妄信ではない信念です)

漫然とタロットをやっていてもダメですし、また占いばかりになって、「〇〇になる」というような、託宣を受ける受動的な態度が固まってしまうと、「力」との関係はできず、逆に世界の情報に自分が操られる(環境や他人側のフォースに屈する)ことになります。


リーディングの能動・受動

この世界の表現には、大きく分けて、ふたつの方向性があります。

それには様々な言い方があるとは思いますが、シンプルに「能動性」と「受動性」と言っておきます。

タロットを誰かのために読むということにおいても、この能動性と受動性が働きます。

読む、つまりリーディング行為自体は、「読む」わけですから、タロットリーダー(タロットの読み手)の立場からすれば、能動的なものとなります。

しかし、受け手側(相談者・クライアント)は、文字通り、受動的な立場にあります。

マルセイユタロットにおいては、タロットの読み手、タロットリーダーを大アルカナで例えることもありますが、一番多いのは、「斎王」(タロットの通常の名前では「女教皇」とされるカード)かもしれません。

この「斎王」とセット・組になる存在が、「法皇」と考えられています。

タロットリーダーの例え(象徴)としての「斎王」は、確かに本のようなものを開いていますが、言葉や口で伝えている風ではありません。むしろ、黙して語らず、みたいな印象があります。

そういう点では、「斎王」は受動的と言えましょう。仮に「斎王」の手にしている本がタロットであったとしても、それを見ている、受け入れているだけで、その内容を他人に口頭で伝えているようには見えません。

もしかすると、「斎王」は神殿のような場所にいて、そこを訪れた者にだけ、神託のようなものを告げている存在にも見えます。(古代ギリシアなどの、神託の巫女のような存在がイメージされます)

いずれにしても、「斎王」は受動性がメインで、もし「斎王」から何かメッセージがほしければ、彼女に会いに行くという、私たち側からの能動性が必要となります。

一般的に「斎王」のカードが出れば、その絵柄や性格の通り、受動的な態度、受け入れ、学ぶような姿勢が示唆されます。

しかし、今述べたように、「斎王」そのものは受動的であっても、その「斎王」の能力や知恵を引き出すには、自ら(こちら)がアプローチをかけないといけないという意味で、逆に能動性とか行動が要求される意味合いも出るかもしれないのです。

一方、「斎王」と組の人物と考えられる「法皇」においては、その絵柄から見て、口頭や言葉で人に伝えているように見えます。ですから、能動的です。

ただ、これも「斎王」のパターンのように、逆の立場を考えることができます。

「法皇」が“語る人”ならば、その語りを受動的に聞く者たちがいるはずです。事実、「法皇」の絵柄には、そういった弟子とも思える人物が描かれています。

「法皇」は一般的タロット名ては「教皇」と呼ばれることもあり、やはり、タロットは西洋文化・キリスト教の影響もありますから、ローマ法王的教皇として宗教的権威を示す人物像の印象も出ます。

すると、教皇様が語るわけですから、(特に教徒として)いいかげんな気持ちでは聞くわけにはいかず、心して静かに態勢を保っておく必要があるでしょう。いわば、神聖な気持ちで、襟を正して聞くみたいな感じです。

そのようなことが求められているとすれば、「法皇」が出たからと言って、伝える、話すなどの能動的な意味だけではないこともわかり、反対の、受動的な意味も生じるのです。

このように、タロットは当たり前ですが、ひとつの意味だけで固定されるものではなく、また、この世の表現である能動と受動(の読みや意味)が、立場を入れ替えることも含めて、存在するということです。

さらに言えば、カードの読みそのものにおいても、能動と受動はあり、「出たカードのことになる、なっていく」という受動的な読みと、「出たカードのように働きかける、その実現のために動く」という能動的なものがあります。

簡単に言えば「なる」と「する」の違いです。

例えば、「13」という数だけのカードがマルセイユタロットの大アルカナにあります。

このカードは、ほかのタロット種では「死神」という名前がつけられ、絵柄からも怖がられるカードです。

もし、上記のような能動と受動の二種の読みを適用すれば、「死神」となったカードでは、どうしても、その名前と印象に引っ張られ、「なる」、つまり受動的な読みをしがちでしょう。すなわち、何か不吉なことや悪いことが起こるという感じの読みです。(マルセイユタロットの「13」の場合は、そもそも悪い意味で見ることはあまりありませんが)

しかし、「する」という能動性で読めば、ネガティブなことよりも、ポジティブとまで言いませんが、「何かをする」ということで、積極的な読みと意味が見出されるでしょう。

仮に「死神」という名前や意味を踏襲しているカードであっても、不吉から避ける、逃れる、打破する、変えるというような能動的・行動的意味合いを見ることができるかもしれません。

これはどちら(の読み)がいいとか悪いとかを言っているのではなく、能動性・受動性の表現を考慮して、「なる」「する」の二つの見方や、カードの人物から「される」、カード人物が「する」というような二つを思って、幅広い読みを心がけるといいですよというお話です。

今はタロットリーディングの話に絞っていますが、実は、この能動・受動の話は、もっと霊的な観点のことにつながっていきます。

それはまた別の機会にて。


自立には他者の助けと受け入れも必要

ブログを再開して、主題的には、自立(霊的な意味を含む)ということを底流にして記述しています。

しかしながら、逆説的になりますが、自立には他者の力も必要だと言えます。

何もかも自分でできればいいのですが、そういうわけにはいきませんし、自立していく過程には、人(やモノ・制度等)に頼ったり、助けてもらったりしなくてはならない場合も多々あります。

いや、むしろ、それが普通で、王道なのではないでしょうか。

人の一生を見てもわかります。生まれた時は赤ちゃんで、誰も一人では生きていけません。親の力、または世話をしてくれる人がいてこそです。

これは精神的な面でも、さらには霊的な面でも同じだと考えられます。

精神的な面(自立に向けてのプロセス)については、多くの心理系の方が語っているので、もはや言うまでもないとは思います。

それで、あまり言われないのが、霊的な面でしょう。

おそらくここがはっきりしていないので、下手なスピリチュアルにはまり、余計に(霊的な)自立が遅れ、依存性や停滞、あるいは幻想に囚われてしまう事態を生み出してしまうのだとも考えられます。

ここでいう霊的な面(霊性)とは、英語的に言えばスピリチュアル・スピリットということではありますが、わかりやすく言えば、体と心も含むトータルな面・本質の自分と言えましょう。

日本人的には魂・霊という言い方となります。(厳密には魂と霊は違うものとも言えますが、便宜上、同じようなものとしておきます)

霊性・スピリチュアルとは、目に見えないことや、不思議なことを言うのではありません。世間でいうスピリチュアルという言葉には、悪意も含まれており、それに関心を持つ人・はまる人を軽蔑のまなざしで見ている言い方となります。

ですが、それは依存性をもったライトスピリチュアル(自我の願望・欲求を叶えるため、あるいは、嫌と思っている現実から逃避する方法やその世界)のことで、本当の霊性・スピリチュアルとは異なります。

マルセイユタロットで言えば、最終的には「世界」に象徴される境地に達するものと言えますが、別の表現では「神の家」を構築することとも言えます。

マルセイユタロットにおける「神の家」は、ゆるぎない堅固な建物を建設・完成していくことの象徴性があります。

描かれている天からの光は、その構築された建物(ゆるぎない自分自身)ができて、天から降りて来る(あるいは自分が流入させる)神の意識・エネルギーのようなものです。(大いなる自分自身(宇宙)を自我が受け入れるようなもの)

しかし、そのためには、マルセイユタロット的に言えば、15のプロセス(「神の家」は16なので)が必要となります。

それらは、言わば、「神の家」に積み上げるレンガのようなもので、一朝一夕には築き上げられるものではありません。

物質的にも精神的にも、何かを強固にするためには、何度も繰り返し、固めていくことが求められます。

このように、霊的な成長においても、ひとつひとつプロセスを経て、それを自覚(自分のものとする)ことが大事だと言えるのです。

結局、すべて同じ型のようなものがあり、現実(物質)だから、精神だから、スピリチュアだから、目に見えるから、目に見えないから・・・という区別があるわけではなく、どの分野も本質的には同じなので、それがわかれば、無駄をことをしたり、回り道に誘惑させられたりすることも少なくなるということです。

さきほど、霊的なこととはトータルなことだと言いました。

ですから物質(現実)も精神(心)も含んで「霊」(の全体性)になるわけで、実際の経験・出来事とそこから生じる心のとらえ方、感じ方なども、すべて「霊」の体験と言いますか、霊(の成長・完成)につながっていくわけです。

逆から言えば、霊的(スピリチュアル的)な成長・発展は、現実やモノ、心を無視したり、切り離したりして進むわけではなく、全部関連するので、ひとつひとつ対応していくことが重要になるわけです。

言い換えれば、現実や自分(の心も含めて)としっかり向き合うということです。

逃避的にとか、欲求をかなえたいとかの意味で、スピリチュアル(この場合はライトスピリチュアルになりますが)に関心をもっても、目に見えない領域の神とかパワーとかで何とかなると思い、受動的(時には依存的)になって、本当の意味での霊的自立から遠ざかってしまうことになります。

とはいえ、最初に述べたように、そんなことはわかっていたしても、人は現実の生活で悩み、苦しみ、迷う存在です。

だからこそ、実は神なる次元・レベルからすると(これも便宜上、神と表現しています)、この私たちの通常認識の現実世界において、救済過程を用意してくれているのです。

それが他者の力を借りる、援助してもらういう意識と実際の効力です。

私たちは無力感にとらわれてしまうことがありますが、それは、自分の力が足りないという不足感、劣等感のようなものに起因しているところがあります。

この世は、人と比べてしまう、ある意味、不公平な世界です。

誰一人として同じ人はおらず、だから他人と比較して、反対に自分という個性、アイデンティティを自覚する仕組みになっています。全員が全く同じなら、それは個性のない(自分と他人の区別がない)世界ですから。

これが悩みの原因にもなっていますが、一方で、同じ人はいないのですから、逆に、自分の問題は自分では解決できないところも当たり前に生じることになります。

自分とは違うのが他人ですから、自分で無理な場合、誰かほかの人ならば解決してくれる可能性が高まります。

このように、実のところ、この世は助け合いが必須と言える構造になっています。

一方で、スピリチュアル・霊性の(ひとつの)完成には、自分の完全性(神の性質は完全性)を認識するということが求められます。

しかし先述したように、この世は一人一人が完全ではないので、ほかの人の助けで補い合うということが必要になります。

霊的に一人の完全性が求められつつ、不足ある自分を常に現実では思い知らされるこの世で、この矛盾を統合(理解)していく智慧・認識が生まれた時、次元が上昇し、世界(現実)は大きく別のものへとシフトするでしょう。

それは自分の不足感・不完全性の経験をして、他者と補い合う体験をし、自分と他者の間に不変と普遍のもの(言葉では愛と言えます)を見る時、完全性のヒントが生まれると言えましょう。(ちなみに、これはマルセイユタロットの「恋人」カードに大きく関係します)

簡単に言えば、よくスピリチュアル系の人が言うような、自分=他人みたいな感覚の想起です。(本当は感覚ではなく、高次の思考というべきものに近い)

ただ、それに至るには、自分(たち)の不足感を味わい、自分だけではできない経験もし、他者から素直に助けてもらったり、逆に自分ができることで、他者をサポートしたり、そういう交流をしていくことで、完全性が何かということを次第に知って行くことになるのだと考えられます。

また別の記事でいずれ書きたいとは思いますが、今日言いたかったのは、霊的(トータル)な自立のためには、現実や心と向き合う必要もある反面、自立の過程として助け合っていくところもあり、一人で悩み、苦しんでいても、余計つらく、迷路に彷徨うことにもなるので、助けてもらうこともありだということなのです。

単純な自己責任論に終始したり、現実や自分自身と向き合えと強く言われたりしたところで、不足感のある状態(自信がない、自分なんて取るに足らない者だと思うなど、多くの人は程度の差こそあれ、そう思う時はあるでしょう)では、余計につらくなるだけで、逆に依存性や逃避性を高めてしまうおそれもあるのです。

弱い段階の自分がいきなり強くなれるわけではありませんし、人には個性があるので、同じ体験でも、へっちゃらだと感じる人もいれば、心が折れてしまう人もいます。

ですから、自分を必要以上に貶めず、できない自分、弱い自分を責めず、そいう個性段階(自分固有の基準で見る、成長していく段階や過程)にあると思い、でもあきらめずにコツコツと、できることからやっていき(あれもこれもと完璧を思わず、本当にできることだけにまずは集中する)、助けを受けられるものは広く利用していくということも(ただし特定のものに依存せず)、結局それが、自分自身の救済と自立への過程になっていくということなのです。

今悩んでいる人は、せめて、物事をバラバラに考えるのではなく、すべてはつながり、トータルな意味で起こっているという姿勢を持つといいでしょう。そして、行動は逆に全部を考えず、自分が今できる簡単なことからやっていくのがよいです。

言わば、心はトータルに、行動は分けてという感じです。

トータルに見ていくと、つながりの糸が少しずつわかってきて、まさにスピリチュアル・霊的な意図としての自覚も始まり、現象としての物事(あなたが経験している事態)も変わって行く(やることもわかってきますし、シンプルになっていく)のです。


マルセイユタロットと年代の象徴性

マルセイユタロットのカードは、時代をも象徴していると言われています。

例えば、一枚が一世紀とか、ある期間を表しているという話があります。

またそれらの一枚が束や組になり、宇宙的・長期的とも言えるスパンを表現していると見ることも可能です。

大アルカナは22枚あり、それらが仮に100年単位だとすれば、全体で2200年になりますが、構成的に大アルカナは「愚者」とその他21枚のカードに分かれますので、「愚者」を除いての21枚が期間を示すとすれば、2100年、まあ、端折っておよそ2000年のスパンを大アルカナが表していると見てもいいのかもしれません。

そして、「愚者」は数を持たないカードですから、その人物の絵姿からしても、ほかのカードで示す時代を渡り歩く旅人という感じになるでしょうか。

約2000年のスパンは、占星術的にも意味がありますし、歳差運動から来る、いわゆるプラトン年の1/12プラトン月のスパンにも該当しそうです。

ということは、「愚者」はプラトン月を移動する主体で、私たちのひとつの時代を形づくる意思とか魂のような集合体かもしれませんね。

21枚のアルカナナンバーを渡り歩いたのち、ひとつの時代の完成を見て、まさに、“ある「世界」”に行き着くのでしょう。それがふたつのミレニアム(1000年)期を重ねる(一枚が100年とした場合)というのも興味深いことです。

宇宙の本質は一元的なものといわれますが、そこから二元分離の運動や相違が芽生え、つまり二元的になることで、見るものと見られるものの世界が現れるようになったと考えられます。

それは言い換えれば、実体として把握できる主体と客体を持ったとも言えます。要するに、観察できる世界が現れたということです。

逆に言えば、分かれた(ように見える)二元が一元に戻る(統合される)、そこにさらなる高次の宇宙、元の世界に移行するとも言えます

いずれにしろ、ふたつの、本質的には同じではあるものの、表現の異なる別のものをもう一度経験することで、完全性になるという示唆がうかがえます。

ということは、先ほどの、ミレニアム二回でひとつの時代期間を経て、ある世界の完成がもたらされるという考えに妥当性が出てきます。

面白いことに、マルセイユタロットでは、小アルカナの数カード(数札)は、10枚ずつの構成(4組で40枚)になっています。

大アルカナは22枚なので、ふたつのグループに分けることができるのですが、先述したように、「愚者」は特殊なカードですから、「愚者」を除くと21枚となり、割り切れません。

しかし、ある考えを導入すると、「愚者」と「世界」を例外にして、20枚でふたつに分けることができます。

このふたつのグループが、ミレニアムの二回を意味するとあてはめることができ、さらに小アルカナの数カードをこれらに振り分けた構造で見る(10枚ずつなので)ことも可能です。

ともあれ、タロットを用いて、時代の流れや象徴性を読み解くというのも、面白いかもしれません。

もし、大アルカナの一枚がおよそ100年を表しているとすれば、今はどのカードと言えるでしょうか?

普通に西洋暦をあてはめた場合、現在2022年ですから、すでにひとつの時代は終わり、新しい時代の最初の100年(次のバージョンの「手品師」)を進んでいると言えましょう。

ただ、西洋暦はキリスト教的なものですから、それではない紀元というものを見れば、また今の時代は違うカードになるのかもしれません。

さらに言えば、一枚が100年を示すのではなく、10年かもしれませんし、50年かもしれません。

大事なのは、そうした細かな具体的年数設定ではなく、本質的な型(周期パターン)のようなものを、タロットと時代の象徴から見て抽出するということだと思います。

その同じ型・パターンのようなものが見えた時、巨大な時間の流れから、中間的なもの、個人的なものまで、実は一致したものになっていることに気づくでしょう。

宇宙時間、地球時間、国時間、個人時間など、いわば次元・レベル別とも言える時間や成長の流れはあるものの、それらは実は同じ型を経験しているということです。(カードで言えば、「運命の輪」が無数にあるものの、同じ回転をしているというような印象です)

こういうところは、シュタイナーの宇宙発展論に、とてもよく似たものになりますね。

そうやってみると、やはり私たちは単独や個人で生きているのではなく、ある意味、宇宙の意思と言いますか、呼吸のようなものがあり(ということは生命的)、それらが全体と個を動かしているように思えてきます。

古代の宇宙天球論の感覚がリアルになり、それぞれの惑星に回転を与えている第一の存在、「第一動者」という象徴性も理解できてきます。

そして回転そのものが、次元やレベル違いを生み出ししているものであり、私たちに均衡やバランスをもたらしつつ、その次元に閉じ込めておく(閉じ込められる)感覚と、脱出する(覚醒する)ヒントを同時に与えているように思います。

このあたりは、古代のグノーシス論の本質に迫ってくるものだと感じます。

本当に、マルセイユタロットは様々なものを多層・多元的に考えさせてくれる、優れたツールだと改めて思います。

一般的に、タロットは個人的な占いに使われることが多いですが、このように、本来は(本来かどうかはわかりませんが)、長期的なものや、個人を超えたレベルや次元を考察したり、その感覚を想起させたりする意味で作られている(または使う)ものなのかもしれないのです。

ただ、漠然とタロットを眺めていても、そうした感覚は芽生えないでしょう。

当然、占いで使い続けても、占いの精度が上がったり、当たる神秘みたいな不思議さを思うことはあるでしょうが、今の時代感覚(または今の自分の思考レベル)だけに終始するものとなりがちです。

やはり、タロットの象徴性を、知的に、そして感覚的に同時に学び、検証していくことで、まさに象徴の図柄としてのタロットの力が発現するのだと思います。

そして、その使い方に適しているのは、マルセイユタロット(の精巧にできたタイプ)だと個人的には思うわけです。


コロナ禍を経てのタロット講義

今日は自分のタロット講義の変化について書いてみます。

コロナ禍になってから、ほかの皆さんもそうでしょうが、リアルでの講義とかセミナー、セッションよりも、オンラインでのものが増えたと思います。

一般的に普通の仕事自体も、かなりオンライン・リモートワーク化し、自宅に居ながらにして行えるようになりました。

私のタロット講義も、一部例外を除き、今はすべてオンラインでやっております。

何事も良い面と悪い面はセットであり、ネガティブな面としてオンラインでは、どうしても長時間の集中が無理であり、双方疲れてしまうこと(リアル講義のように一日やるのは大変)と、空間的な情報と言いますか、実際の場で講義をして聴くのとでは、情報の質と量(見えない部分も含む)が異なってしまう(次元的にひとつ低くなる)気がします。

しかし、後者の欠点(空間情報の劣化)は、図やイメージを使ったり、感覚を鋭くしたりして感受性を豊かにすると、かなり補えるとも実感しました。

言い換えれば、、講義をする側と受ける側の濃密度を上げることであり、思考と感性をリアル講義の時より、増幅するという感じでしょうか。

となりますと、指摘したオンライン講義のもう一つの欠点のように、長時間は難しいこともあって、結果的にタロット講座を終了させるには、リアル講義の時よりも長期間になってしまうのです。(濃密度を上げることも含めて)

それはまた欠点のようでいて、実は見方を変えれば長所でもあります。

短期間でタロットの技術と知識を習得したいという方には望ましくないでしょうが、期間を長く取ることにより、タロットの落とし込み、タロットの象徴を通じた自分への向き合い、変革や調和、その過程について、無理なく、深くやっていくことができるように思います。

基本、私の講座は、本当にマルセイユタロットを学習したい(マルセイユタロットを通して世界への本質的学びを深めたい、自己の精神的・霊的成長を図りたい)と思う人しか来ないようになっています。

もっと言うと、目的のためにマルセイユタロットを学ぶという選択をするだけで、マルセイユタロットそのものを学びたいことでもない場合もあります。(笑)

私の場合、自分でも自覚していますが、一連のお知らせ・ブログなどを見ても、何か敷居が高いような、気軽には受けられないような雰囲気もあるのだと思います。(本当はそうでもないのですが(苦笑))

ともあれ、私のタロット講座は、今はマンツーマン講座が基本となっています。

それを長時間かけていくわけですから、効率的には非常に悪いです。おそらくコンサル的な人には、ビジネスの意味では、やり方のまずい例として指摘されるでしょう。稼ぐため、あるいは自分の余裕のためには、短時間で、多くの人を同時に講義したほうがいいのはわかっています。

ですが、教育的・私塾的なところ(意味合い)のほうが自分としては大きいのです。効率よりも、内容と理解を大切にしています。

だからこそ、同じようなカリキュラムにあっても、一人一人まったく違った講座となり、質問と対話を中心に進めていくようなものになります。

その日の講義までに感じ、気づき、疑問に思った(もちろん当日でも)ようなことを、余すことなく話していただき、それらを講師と共有し、疑問は解消に向けて話(会話)をします。

そのため、日によってはタロット自体の伝達が少なくなり、ほとんど双方の話やカウンセリング的なことだけで終わるよう時もありますが、それも学びの過程としては、実は大変重要なことなので、そのようにしています。

言ってみれば、タロット講座の形を借りたグノーシス(神性・全体性を認識していく、つまりは霊的成長のための)講座(知的ワークショップ)なのです。

正直言いまして、タロット講座としては、このようなものはほとんどないのではないかと思います。そのようなスタイルに、オンライン化して、より変ったわけです。

カードでいえば、「太陽」(意思や魂を共有するものたち)と「神の家」(神性を構築する、復活させる)で象徴されるでしょうか。

同時に、今後の方向性(自分のしたいこと)も見えてきたものがあります。

完全に占いや現世利益を得ることを目的とするようなものから離れ(それらを否定したり、貶めたりするわけではなく、それを求める人にはふさわしい人に教えてもらうのがよいということ)、全体性と個人性を調和させ、深く自身で考察したうえで、部分部分から統合を果たして、個人としても全体としても向上する(次元を上昇させる見方を得て行くこと)ことを主として、講座等を行っていきたいと考えています。(それは今までもそうでしたが、より明確になったということです)

これも選択と自立をテーマにしていると、自然に出て来るものと言えます。

ただ、難しいことばかりでも確かに入りづらいところはありますので、幾分ライトに、シンプルにも、今後、何か別の形で、無料(読み物とか動画とかで)で提供していきたいと思っています。それもあって、ブログ再開(仮)“かっこ仮”と、この前、書いていたわけです。

今すぐにはまだできませんが、いずれそれらも実施できればと思います。

長々と自分語りをしましたが、言いたかったのは、ほかのこともあるのです。

それは、今の変化の時代、結局のところ、自分の本当のやりたいことや、表現というものに落ち着いてくる、収束してくるのではないかと言うことです。

しかし、ここで言う「やりたいこと」というのは、表面的な、欲求(欲望)的なことではないことに注意です。

おそらく、望んでいるのに、なかなかその方向性に行かないとか、現実がなかなかそのようにならないという人は、真の意味で自分の本当の望みではないのかもしれません。

本当の望みというより、「神の家」的な使命のような、魂が求めるもの・方向性、あるいはコンプレックスや不足分を補いたいという願望的なものを浄化し、ネガティブとポジティブを統合して出てくるものと言ったほうが適切でしょうか。

そういうものに自然となっていくというのが、この混沌とした情勢の中で、一人一人にあるのではないかと考えるわけです。

別の言葉で言えば、このことは、私たち一人一人が全体として「覚醒」するためのひとつの過程であるのかもしれません。


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