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タロットリーディングに才能は必要か?

タロットリーディングに才能は必要か?

というタイトルですが・・・結論から言いますと、どちらとも言えないという、またあやふやなものですみませんが、私自身はそう思います。

ところで、この世(現実)は残酷な部分があり、いくら平等を訴えても、あらゆるものに違いがあり、だからこそ、皆同じというわけには行きません。不公平な世界というのが実情でしょう。

逆に言えば、だからこそ、ルールや法律を決め、皆が同じようになれるよう(権利が受けられたり、扱いが等しくなったりするよう)にしているわけです。

話はそれますが、現実において生きやすくするためには、違いがあるのがこの世であり、そういう世界になっているのだとまず認めることからだと思います。

そのうえで、差別とか理不尽なことをいかに是正するか、皆が人として等しく権利を享受できるかを考えたいです。簡単に言えば、区別を認めて差別は変えていくみたいなことでしょうか。

さらにスピリチュアル的に言えば、違いというのは演出でしかなく、大元までたどれば、違いを作り出している装置と言いますか、仕掛けに気づくようになっていると考えられます。

ただし、人として現実空間に生きている間は、なかなかそのことは実感できないよう、極めて巧妙で精巧な作りの世界になっているのだと想像できます。

結局、この演出世界を体験する何らかの宇宙的必要(必然)性か、自分の真の意思のようなものによって、違いある世界を味わっているのだと言えるかもしれません。

話は戻りますが、そういうわけで、みんな違った才能・個性があるようにできており、その程度・質・表現等、まさに千差万別です。

当然、(三次元における)タロットに関しても同様で、誰もがまったく同じに読む才能が最初から揃っているわけではなく、また、みんなが平等にリーディングできる力となる方法もないと言えます。(あとで述べますが、ないとも完全には言えない・・・のですが)

シビアですが、そう考えますと、元からタロット(リーディング)に才能のある人と、あまりない人という差はあるのが普通でしょう。

私は、タロットは独学ではなく、スクールに入って学びましたので、一緒に学んだから方々を見ております。

その中で、やはり、タロットに向いているといいますか、すごく最初からセンスのある人と、いまひとつである人、という差はあったように思います。

そして自分がタロットを教えるようになって見ても、ほかの人に比べてタロットセンスが初めから高い人、そうでない人という違いはあるように感じます。

今までとても印象的だったのは、まったくタロットを習ったことがない、自分で学んだこともないという人が、入門コース的な簡単な内容を少し伝えただけで、かなりサクサクとカードを読まれた方がいました。(コンビネーション的なものも含めてです)

ところが、世の中、不思議なもので、この方はそれほどタロットを続けて行く気はなかったようで、それっきりのご縁でしたが、あのまま本格的にタロットリーディングの学習と実践を続けられていたら、すばらしいタロットリーダーになっていたのではないかと思います。もしかしたら、別の種類のタロットを学ばれて、使っていらっしゃるのかもしれませんが。

このように、才能・センスとの違いは、どうしてもあります。

では、努力によって元ある才能を凌駕することができるのか? よくスポーツや勉強の世界で言われることですが、これもまた難しいところでしょう。

そもそも、すごい努力ができるというのも才能のひとつだと私は考えています。

ただ、タロットの場合、それほど才能・センスに依存する分野ではないと思います。

何を隠そう、私はタロットリーディングのセンスは凡人です。(苦笑)

最初にスクールで学んだ同期生たちに比べ、おそらく一番、タロットが読めなかった人物だと自覚しております。

かといって、そこから人一倍努力した、というようなスポ根ものみたいな話もありません。(笑)

それでも、私の場合、タロットのセンスはあまりなかったかもしれませんが、センスを磨く工夫をすること(トレーニングによるコツの習得)には、もしかしたら恵まれていたのかもしれません。そして、習ったマルセイユタロットが好きということに変わりなかったことが、継続していく力になっています。(やればやるとほど好きになっていました)

いくら才能やセンスがあっても、その対象のことが嫌いだったり、興味がなかったりすれば、続けて行くことは難しいでしょう。すると、熱心にコツコツと長くやっていく人に比べると、ウサギと亀ではありませんが、やがて追い抜かれることになります。

この、対象に対しての好ましい感情や情熱が持てるかということは、才能よりも重大な意味があると考えられます。

さらに、人には誰でも何かしら、よいところはあるものです。

そのよいところをもって、訓練していくことで、ある程度、才能をもともと持つ人に近づけることはできると思います。

タロットの場合、タロットの知識・象徴性に興味と関心があり、タロットリーディングはそれほどでもないという学びのタイプの人もいます。こういう人には、センスとか才能はあまり関係ないでしょう。

ですから、タロットにおける才能・センスが活かせるというのは、タロットリーディングの分野がメインです。

それでも、そのタロットリーディングにおいても、知識と論理で読んでいく方法と、直感・感覚・センスで読んでいくものとがあります。

才能・センスのある人は、後者の力を行使していく傾向が強く、だからこそ、センスの薄い人(普通の人)は、前者に力を入れるとよいのです。

ただし、知識と言っても、カードの意味を丸暗記するような方法ではありません。それではスポーツにおいては、あまりよくないコーチの言われるままに根性トレーニングするのと同じです。そのやり方では、応用や、さらに伸ばしていく力も出て来ないです。

才能ある人に対抗するためには、教えられることだけではなく、自分が思考し、実践していく力を身に着ける必要があります。

そのため、タロットにおいても意味を丸暗記するようなやり方は、あまりお勧めできるものではありません。(暗記という方法自体は悪いわけではありませんが)

カードを論理性をもって読むことができるようになれば、能力にあまり左右されず、安定したリーディングの力を発揮することができます。

しかしながら、タロットの種類によっては、論理性があまり通用しないと言いますか、そのタロット自体が論理性に欠けているものもあります。それでは、意味がありません。(そのため、論理性に欠けるタロットには、イメージや感覚の力で読む傾向になるのです)

論理性をもってリーディング技術を上げたり、安定したりできるのは、そもそもリーディングに使うタロット自体に、しっかりとした論理性(合理性)が整っていてこそです。

どうも、タロットは感覚の世界の産物と思われ過ぎているので、タロットカードのシステム・論理性が軽視されているところがあり、新しい創作系タロットのほとんどは、作者の感覚で作られていることが多いので、タロット全体としてバラバラな印象があります。

たとえイメージの世界、元の世界での論理性があったものでも、それを受信した方に、論理・オーダー・システムの全容と個別の仕組みが包括的にわかっていなければ、それを現実のカードとして精巧に表現することは難しいです。

これはマルセイユタロットで言えば、「斎王」と「法皇」(大アルカナナンバー2と5)のセットによってできることなのです。「斎王」のみ、「法皇」のみでは困難です。(人間が二人必要だと言っているのではなく、そういう二面の性質が合わさる必要があると述べています)

マルセイユタロットのある版の場合は、この点、極めて精密にできており、それが実際に表現されているカードなので、論理性をもってリーディングする技術を学べば、才能・センスに頼る読み方を超えることも可能だと思います。

そういう意味では、こと、そのタロットに関しては、才能はあまり必要ないと言えるでしょう。(論理的に読むこと自体に才能を見る、あるいは向き不向き考える場合は、また別ですが)

しかし、先ほども述べたように、タロットは一方で、感覚・感性というものも大事な読みの力となります。

これがもともと優れている才能とセンスのある人は、極端なことを言えば、学習をほとんどしなくても、リーディングはできるでしょう。

タロットのすごさは、学ばなくても読める人を生み出す力そのものがあることです。人の才能を引き出す力と言い換えてもよいでしょうか。

とは言え、そういう人も、人間ですから、才能はあっても、いつも安定した力が発揮できるとは限りません。体調や環境によって左右れることも大きいです。

ですから、それを補うためにも、やはり論理性での読みも学んでおいたほうがよいです。才能に頼るだけでは、エネルギーの消費も激しく、タロットリーディングに疲れてしまいます。

それに、センスのある人は、好き嫌いの感情が強いところがある人が多い気がします。(これには理由があるのですが、ここでは省きます)

タロットが好きである必要性は説きましたが、リーディングそのものに、ただ感情的に取り組んでいては、やがて飽きたり、興味を失ったりします。ある時はとても面白くても、別の時は嫌になり、もういいや、みたいになるわけです。

ですから、タロットリーディングをする人は、使命感のようなもの何のためにやるのかという意味付けを自分で作っておく(持っておく)ことが重要です。

まだまだ才能・センスとタロットリーディングについて書きたいことはありますが、長くなりましので、今日はこのあたりにしておきます。


ムーミン少年(少女)の末路と僥倖

今も刊行されていますが、オカルト雑誌に「ムー」というものがあります。

この雑誌の読者、ファンのことをムーミン(ムー民)(笑)と呼びます。

実は、私はムーミンでした。まさに創刊の時以来、中学生の頃から愛読していたのです。

メインの記事も興味深いものでしたが、中綴じの付録のようなものも面白く、それには魔術特殊能力開発のための簡単な実践記事が書かれていました。

その大体はやってみたのですが、いかんせん、飽きてしまうことが多く、効果もすぐ出るわけではないので、途中で投げ出してしまうことが問題でした。

今思えば、コツコツとちゃんと継続していたら、中には、それなりの力が出たものもあるのではないかと思います。(苦笑)

と言うのも、怪しげなものも結構ありましたが、それなりに西洋魔法テクニックの初歩的なものとか、東洋的な気功術とか、サイキック修行の一部が出ていたように記憶しているからです。

実際、これで、“氣”の何たるかを実感できた時もあります。

まあ、そんなムーミンの私でしたが、さすがに大学生の頃には読むのをやめてしまいました。

しかし、大人になってから、いろいろと悩みが深くなっていた時、再び書店でムーを手にしたのです。

それがマルセイユタロットとの出会いになろうとは、思ってもみませんでした。

私にとっては、ムーを読ことは運命的であったとも言え、人生を逆から見ると、未来にマルセイユタロットをやるために、過去の中学生からの私がムーを読んでいたわけです。

もちろん、ムーに載っているようなことが好きだったから、タロットに惹かれたという当たり前のことも言えるのですが。

ただ言っておきますが、ムーミンであった私でも、タロットにはまったく興味がなかったのです。先述したように、あることがきっかけで、大人になって、たまたまムーを開いたことで、マルセイユタロットを知り、タロットへの関心が初めて出たのです。

ムーを読み始めて20年くらい経って、タロット(マルセイユタロット)に興味が出るというのも、考えてみれば不思議な話です。

さて、そんなムーですが、今の内容は読んでいないのでよくわかりませんが、昔の記事を思い返してみると、まあ、ほとんど荒唐無稽、真剣に信じてはいけないものだったなとわかります。(苦笑)

例えば、UMA(未確認動物)の話があります。

日本ではツチノコとか、ヒバゴンとか、湖に住む巨大な動物とか・・・まあ、世界的にもいろいろ言われていますよね、ビッグフットとかネッシーとか。

当たり前ですが、生物学的に言えば、繁殖しないと個体数も存続できないわけですから、巨大な生物などは特にですが、まずえさとして食べ物も大量にいりますし、繁殖には最低雌雄二匹いないといけないわけで、その子供がほとんど見つからないくらいの数だと、その生物種はすぐに滅亡してしまいます。

雌雄の必要のない、単体で増やすことができるのなら別ですが、微生物ならいざ知らず、通常は無理でしょう。

よって、言われている未確認動物のほとんどは、三次元的に存在しないと考えるのが論理的です。

動物とかではなくても、UFOのような未確認の物体でも、同様に、論理的・科学的に考えればそんなものはないと見たほうがまともです。

強いていえば、新しい時代においては、どこかの国の兵器説はまだ信じられる可能性があると言えますが、宇宙人の乗る円盤とかなると、もう眉唾もの、妙な話になってきます。

ムーミンであった私がそんなことを言うと、なんか元も子もないと言いますか、大人になって夢を失った悲しい人みたいに思われるかもしれませんし、逆に、まともになってよかったねと、ほっとされるかもしれません。(笑)

しかし、今、タロットをしている私なのですから、ガチガチの常識に固まっているわけでもありません。

ただ小学生・中学生のような考えで信じるようなことはしなくなったというだけで、実は、そうした未確認の動物とか物体の存在を、違う形や別の考えで思うことができるようになったわけです。

さきほど、「三次元的に存在しない」と書きましたが、もしこれが異次元的な存在、異世界的動物・物体たったら話は別となってきます。

例えば霊体のようなものだとすれば、人によっては見えることもあるかもしれませんので、次元の違うものなら存在の可能性はあります。

動物の場合、雌雄とか繁殖の概念は物質・肉体を持つというものが基本となるので、それが霊体のようなものだとすると、そもそも概念自体、変わってきます。

つまり、物質的・三次元的な見方をしている限り、ほとんどの謎現象・謎存在を証明することは無理だということです。ほぼほぼ、信じるに値しない話となります。

ですから、これは個人的に思うことですが、謎めいた話を具体的・物質的、三次元的に、物事や存在を説明しているものは、そのまま鵜呑みに取るのはかなり滑稽と言いますか、幼いレベルであり、大人の見方ではないと思います。

例えば、なになに宇宙人が地球と人類を創ったとか、その宇宙人が円盤に乗って来ていたとか、なになに星から私は来た(たとえ魂の話でも)とか、そんなような類のものです。ほかに、日ユ同祖論なども、今の時代のままで信じると、とんだ間違いを犯します。

陰謀論などのほとんどは、今の目線や見方でとらえているものが多く、誰それが、どの組織がとか、かなり具体性と言いますか、特定の団体とか民族とか個人とか、またその逆に、いきなり宇宙人とか未来人とかが関わっているというような話になるのも、同じだと言えます。

結局、そのどちらも、実は今の一般レベル(というより、もっと低いレベルですが)の人間による、物質的な見方だからです。

ではどうすればよいのかと言えば、いろいろな(怪しい話、不思議な話を)象徴的な話として考えるということです。

象徴なので、暗示とかメタファー、抽象的な示唆とかとなり、言われているそれそのもの(具体的な名前とかモノ)ではなくなります。

スピリチュアルが好きな人の中でも、星とか、星座、星雲の出身、その文明、宇宙人との関連が言われることもありますが、例えばマルセイユタロットにも描かれているとみられる「シリウス」という星も、実際のシリウスという意味もあるにはありますが、象徴としてのシリウスを考察したほうが、より本質に近いと言えます。

タロットは象徴のカードです。

タロットにおいても、具体的・実際的に見過ぎてしまうと、「カードが示すことが現実で起きてしまう」というような運命カードのような扱いになってしまいますし、実際の当たりはずれを強調するような見方(が価値の中心)になります。

また、カードの解釈も、ひとつとか数個の意味に決めてしまい、それ以外読めなくなってしまいます。

これはカードを象徴として見ていないからです。

タロットが象徴でできるていること、それが本質理解の手順・方法になっていることを理解すれば、世にあふれるオカルト・陰謀論的な話も、現実的に見るのではなく、象徴として見ることとができ、なぜ説として人々は信じたがるのかということや、その背景(流されている意図等)も、はっきりわかってくるでしょう。

警告しておきますが、三次元的な見方で不思議説を信じていれば、簡単にだましやすい(だまされやすい)人とみなされ、知らず知らず、いいように扱われますので、注意してください。純粋さは大切なことですが、同時に、思考し、洞察して、大人として正常な認識力(判断力)も持っておかねばなりません。

ムーに載っているようなオカルト話を本当の意味で楽しむためにも、すべて鵜呑みに、現実性としてとらえるのではなく、象徴として置き換えてみることをお勧めします。

これは、オカルトをすべて排除する姿勢を言っているのではありません。オカルトに接することで、実は魂的には僥倖にもなるのです。それは話をどう扱い、解釈していくかの姿勢によります。(そもそもオカルトは、隠されたものの意味で、崇高な叡智にもつながるものです)

言ってみれば、純粋な少年少女の心と、すべて疑い、考察していくような冷静な大人の視点との両方がいるということです。どちらかだけだと、おそらく真理には到達できないのではないかと思います。


この世界での生き方それぞれ

私はマルセイユタロットの講座で講師をしている身ですので、教える側になっていることが多いです。

しかし、教えられる側に立つこともあります。タロット以外の分野では、むしろ教えられることばかりです。(笑)

そうして、今も教えられる側に回り、いろいろと学んでおりますが、各種講座などで学びに来られる方々を拝見しますと、皆さん、意識が高いと申しますか、ご自身の成長や発展、特に成功しようという気概にあふれている方が多いように思います。

学んだことを即行動に移す人もいて、その行動力・実践力・熱意のすばらしさに感嘆することもしばしばです。

昔は、私も一般的に言う成功などを考えて学んでいた時もありましたが、いつからか、その目的は薄くなり、私の魂的な部分では、それを求めていないこともわかってきました。

ただ、これはルサンチマン(弱者・負け組の、強者・勝ち組に対するネガティブな感情)から来ていることもあるにはあると思います。それでも、さらにその奥まで探求していくと、もっと別なものも出てきたわけです。

それが、私にとってはグノーシス的なことでした。一言で言えば、この世の矛盾と言いますか、おかしさ、あえて過激に表現しますと、“狂っている”部分に対する嘆きとここから脱出したい精神と言えましょうか。(グノーシス的にもっと言えば、これは人の認識レベルの低さに原因があり、別の世界があるというより、今の世界において、真の世界への認識がなされていないと取ります。認知の違いよって世界は変わるわけです)

常識的に見て、人がこの世界で幸せになるためには、精神と物質両面からのアプローチと考えがありますが、どちらかといえば、物質的なもの、もっと言えば経済的なものが充足していないと、なかなか精神的なものだけでは幸せを体感できないと思います。

とすれば、経済競争のシステムの中で、どうしても勝ち負けという構造の中で暮らすしかありません。今の経済システムは、商品やサービスを、金融を媒介にして、売り買いするというものなので、そこに競争原理が働くことは絶対の法則みたいになっています。

商品やサービスの売買だけではなく、人が採用されたり、認められたりするのも、勝ち抜く競争です。少ない席を争って獲得するシステムだからです。

そうすると、もともとある才能と、努力して得た知識・技術・情報などで、その椅子取りゲーム、勝ち残りゲームみたいな優劣と言いますか、勝利が決まって来るとも言えます。

ほかに、不確定要素の「運「とか「縁」「タイミング」のようなものも入るかもしれません。

これらは目に見えないものであり、自力で完全にコントロールできるものではないので、こういう不確定なものがあるのも、またある意味、この世の矛盾さや難しさを増していると言えます。

ともあれ、不確定要素は当然としても、目に見える要素や、ある程度、自力コントロールが可能な物質的なことだけでも、それらが他者より優れているようになる(する)ためには、簡単なことではないのが普通です。

そこで、多くの人は、勝つためのモノか能力、情報を入れる自己努力をするか、悪人は、努力ではなく、他者から奪うことをします。

どちらにしても、勝利のためであり、それが自分(と近しい人)を幸せにし、自由にすることになるのだ信じているからです。いや信じているというより、実際のシステム・社会の構造として、そのようになっている現実があります。

ですから、私たちの学びのほとんどは、この価値観やシステムに則ってなされています。

精神やスピリチュアルな学びでさえ、結局のところ、私たちの現実世界でどう生きるか、どう生きやすくするかのテーマから、完全にはずれることはできませんので、求める幸せというものが、つまるところ、成功系の学びと本質的に等しいものになってくることが多いです。

こういうことで悩むこと自体、現実逃避と言われ、どうしようもないことに悩むより、現実を直視し、幸せになるため、成功するため、そこまでいかなくても、少しでも楽になるため、生活を工夫しましょう、仕事で成果を上げましょう、自由な暮らしを手に入れましょう、そのための努力しましょう、とたいていの学びや教えはなっていくわけです。

成長するとはどういうことか? 発展とは何か? スピリチュアル系でも、私たちは進化すればするほど、物質と精神は豊かになり、自由さが増え、になり、人生は楽しくなると説きます。

果たして、本当にそうなのか、そして、そのようになることが人の成長だと言えるのか? 根本的な疑問がある人間もいらっしゃるのではないでしょうか。そのうちの一人は私です。(苦笑)

ところで、最近、サンダーボルトファンタジーという人形劇を視聴しました。

その主人公が言った言葉がなかなか興味深く、先述したような悩みにある私にも、一筋の希望を与えてくれた気がします。というより、前々から考えていたことを後押ししてくれた感じです。

それは、こういうセリフでした。

「弱いから負けて死ぬ、強いから勝って生き残る そんな単純な天秤で世の中、回っていると思うのがそもそもの間違いだ。勝ったやつが生きるのは当たり前、だったら負けてなお生き延びたやつは、さらに強いのが道理だろ?」

これはいろいろな解釈が可能だと思いますが、私には、この世の矛盾は矛盾で認めつつ、こういう世界でも何とか自分なりに生き切ったやつは、別の意味で勝利者になると取れました。

つまりは、この世界は勝ち負け、いわゆる「勝利者」が成功であり、それになるのが第一の価値観と目的であるのなら、同じ「勝利者」としても、別の観点からの勝利者もありなのではないかということです。

言ってみれば、勝利者という言葉を逆手に取り、この世界を創ったものからすれば、「ほほう、その手で来たか、それも実はありなのよね」と言わしめるやり方(生き方)の選択というやつです。

そういえば、私は小学生の頃、ドッチボールで比較的最後まで残っている口でした。

と言っても、ボールを受けたり、投げたりするのがうまいわけではなく、むしろボール扱いは下手でしたが、とにかく逃げること、ボールに当たらないことに徹していたため、結果的には最後のほうまで残っていたわけです。

まあ、ドッチボールの場合は、相手コートにいる人物にボールを当てないとチームの勝利にはなりませんから、逃げてばかりでも、勝つことはできないのですが。(笑)

それでも、逃げているうちに、ゲームそのものが時間切れということもあり得ます。休み時間でドッチボールをしていたら、チャイムが鳴って、やむなく終了、残った者が多いグループの勝ちとなることもありますよね。

ドッチボール、ダジャレ的に言いますと、どっちのボール、どっちの勝利(どんな形の勝利)を取るかによって、ゲームの楽しみ方も変わって来ると言えます。

逃げまくりの人生や、一般的な意味での成功や勝利、幸せの状態を必ずしも目指さない生き方に価値を見出すことも可能かもしれません。

常々、「この世界は、あるゲーム」だと、考察すれはするほど、私は思うようになってきておりますが、やはり、この世はゲームだと想定するのが、いろいろな意味で一番納得できる気がします。

あと、私は、ものすごい努力したり、頑張ったりできる人も、一種の才能ではないかと考えています。

さら言えば、実際的な意味で、向上・成長・成功へ向けての活動を、熱心に取り組むことのできる人も才能かもしれません。

もちろん、そうなれないブロック要因を心理的・技術的に分析・修正・改善して、前向きになっていくことは可能でしょう。

しかし、そんなに頑張ることができない、それができれば苦労はないなど、いわゆるメンタルが弱いとか、実行力がないとかで指摘されるようなこと(人)がむしろ普通で、言い訳のように聞こえてしまうこともあるとは言え、多くの人はそうそう努力できるものではないとも、正直思うのです。

みんな、心が強いわけではないでしょう。それなのに、ある種、酷とも言える世界のシステム・状況の中で生きている、本当に皆さんよくやっていると感じます。

とでも自己責任や自己努力だけの問題で、片づけられることではないと思います。

モブや雑魚と呼ばれるようなキャラでも、自分自身であれば、誰しも主人公にほかなりません。

ですから、自分の生き方は自分で決められる部分はなるべく決めて、自分の中で納得していれば、世の中や他人の価値観では負けていたり、失敗していたりしていても、この設定されたゲーム世界を生き切る、ゲーム世界を体験しながら何とか時間切れまで逃れ切る(というゲームの楽しみ方に自分で変えて)、そのように暮らして行くのも、現実という矛盾世界に折り合いをつける方法のひとつかもしれません。

もちろん、ゲームの一般クリアー方法と言いますか、楽しみ方として、この世界を享受して成功や幸せを“勝ち取る”生き方も、ゲームのノーマルな楽しみ方だと思いますので、それを目指すのもよいでしょう。

そう思うと、マルセイユタロットの「恋人」カードの意味も、また面白くなってきます。

そして、私のマルセイユタロットセッション(リーディング)と講座は、この世界での、あなたならではの過ごし方を見つけ、この世界の脱出を真には目指すものと言えます。


「月」のカード、理解の段階

マルセイユタロットの大アルカナの中でも、最も読みづらいカードと言われている「」が本日のテーマです。

確かに、読みづらいと言われるだけあり、一筋縄ではいかないのが「月」のカードです。

それは、ほかのカード(大アルカナ)のほとんどが人物、あるいはモノが、メイン・中心となった構図となっているのに対し、「月」はどれかメインであるのか、よくわからない図像になっていることが一番大きいのかもしれません。

「月」一枚の図像をよく見ると、カードの名前の由来である上部の月の部分、真ん中あたりの二匹の犬のような動物の部分、しかもここには背景にふたつの建物のようなものも見え、さらに下部には水たまりがあり、そこにはザリガニのような水生動物とおぼしき存在もうっすらと描かれています。(版によっては、はっきりザリガニが描かれているものもあります)

そして、上部・中部・下部と、どれも描かれているものが結構大きな存在なので、メインがどれであるのか判断しかねます。

さらには、全体的にもトーンがブルーと言いますか、暗い色調であり、霧がかかったような感じ、ボゥーとした感じに見えなくもなく、それが不明慮な印象を増加させているとも言えます。

要するに、見た目からしてわかりづらいというのが「月」です。

しかし、マルセイユタロットには意図が隠されており、どのカードも無造作・無意味に描かれているわけではありません。

となると、わざと、わかりづらい、あやふやな感じの図像にしているのだと見ることができます。

さきほど、出た上・中・下の三部の均等性(メイン図像が何かわかりづらくなっている構図)も、意図的にそうしているのであり、わかりづらいもの三つが並び立っているそのことに自体に意味があるのだと考えられます。

下から見ても、水、植物、動物、土、人工物、水滴、天(宇宙)・・・と構成が変わってきているのが、実は明瞭にわかるようになっています。このことは「月」のカードを理解するうえでは、なかなか貴重な情報です。

私自身、マルセイユタロットと長いこと関わってきて、この「月」のカードとも向き合ってきたわけですが、だいたい、次のような状態で、「月」のカードの理解と言いますか、自分の中への浸透が進むように感じています。

●最初の段階

よくわからない、わけがわからない、神秘的、不安な感じ、複雑な感じに見える(意味不明のように感じる)印象的段階

 

●第一段階

「月」のカードに描かれている細かな象徴の意味を教えられて、「月」のカード全体の意味を考える知識的段階

そのほとんどは心理的・感情的なカードとして見たり、読んだりすることになる

感情の対立や葛藤の意味を見ることがメイン⇒個人的な内面に向かう

女性・母性・母の元型像としての理解

 

●第二段階

個人の内面、感情的なもの、特にその対立や葛藤を「月」によって浮上させる段階から、次第に集合的なもの、全体的なものへと「月」の対象が変換していく段階 内的段階のさらなる拡大

個人カルマから人類全体カルマのようなものへの象徴性・問題性に向かう

人類としての成長・発展と、そのブロックの鍵を見ようとする視点や方向性

「月」を霊的に考えようとする段階

 

●第三段階

さらに「月」への俯瞰性、全体性テーマが進み、人類全体はもとより、宇宙の流れ、生命の改変そのもののテーマとして「月」が見えてくる段階

この頃になると、「月」のカードが多様で各層に適用され、「愚者」にも似たカードとなって現れ(「愚者」とのセットであることもわかってくる)、あらゆる層に鏡のように「月」の問題性が、レベル別に入り込んで来ているのに気付き始める

第一段階、第二段階、第三段階の過程が必然であり、「月」は私たちを本当に成長させるための悪と正義の両方を持つ象徴体・殻(から)の大元であることも見えてくる

いわば、霊的に拡大した見方になる段階

 

こんな感じでしょうか。

もちろんまだこの先があると思いますし、あくまでこれは私の見てきた・感じてきた「月」理解の流れです。

実際的には、特にリーディングに使うタロットとしては、第二段階が重要で、この使い方とか考え方をしていると、「月」はわかりやすいかと思います。

ただ「月」のカードの特性としては、単体としてより、他のカードと組み合させることで、より力を発揮したり、意味が強調されたりする気がします。

天体の月が、太陽の光を受けて輝くものであるように、ほかのカードの図像・象徴性を映し出すような感じで、「月」のカードも活用されることがあるのです。

この時、「月」の月部分にある人間的な顔の視線を考察することて、こうした使い方が活きます。それはまた、「月」と一緒に出たカードの表ではなく、裏を読めということも言えるのです。

ところで、先述した最初の段階から第一段階に進む時に、一般的な注意と言いますか、心がけてほしいのが、「月」のカードをなるべくポジティブに読んだり、解釈したりするほうがよいということです。

「月」が最初には、よくわからないカードであるだけに、ネガティブな印象が出やすく、さらに言えば人間の視点の癖として、ある対象の真ん中部分が大事だと思うところがあり、「月」だと、二匹の犬のような動物が吠え合っている部分を意味の中心に取ってしまうことがあるからです。

すると、言い合いとか争いとか、感情的対立とか葛藤というネガティブなことを、すぐに当てはめてしまうわけです。

これは「月」のカードからの出る意味としては間違いではありませんが、どうしても言葉的にネガティブなものとなります。

よって、「月」全体としても、悪いカードと決めつけるほどではないにしても、ネガティブな言葉に引っ張られ、あまりよくないカード、もやもやしたカードというニュアンスが強くなってしまうのです。

これでは、「月」の真髄に近づくことが難しくなります。(何事も、どちらかに傾く理解は、真理から遠ざかるものです)

ですから、中立的な見方ができるように、逆に「月」からポジティブな意味や、よい意味で状況を変えていくための方法などを、「月」カードから見出す努力をしてみることです。

そうやっているうちに、最初の段階を自然に超えていくようになるでしょう。

「月」から何とか意味を出そうとしたり、何かに当てはめたりしようとするのではなく(「月」の意味をはっきりさせようとする態度ではなく)、「月」のカードそのものを受け入れるようなことが、本当の「月」の理解につながると私は思います。

それは実は、ほかのカードに対してもそうなのです。

タロットとあなたとのつながりを、もっとつけてみると、タロットは自ずと心を開き、今のあなたに必要なものを示してくれるでしょう。


あこがれの人、モデルの人

誰かにあこがれそういう人になろうとすることは、自身の進歩と向上につながりますし、具体的目標があってよいことではあります。

しかしそれが行き過ぎて、もはや信仰や崇拝にまで変わってくると、今度は逆に自身を縛る人になります。

その人のことを全部肯定し、間違ったことは言うはずがないとなり、その人が自分にとってあらゆるルールになります。

そうすると、結局、自分を支配する人に変わることになります。

この弊害について、普通に考えればわかりますが、あこがれの対象の人が悪いのではなく、あこがれている側に問題があるわけです。(ただし、人によっては、あこがれられる側に問題があることもあります)

あこがれの対象になっている人は、ある意味、勝手にあこがれられ、勝手に支配する人にさせられているのです。

心理的には、あこがれの人が、自分の父親や母親、兄や姉のような、家族関係で問題となっていたり、理想にすえていたりする人の肩代わりになっている場合もあります。

また、パートナーや恋人になる人だと、夢想してしまう人もいます。

繰り返しますが、これはあこがれられる人の問題ではなく、あこがれるほうに問題があるのです。

ですから、自分が誰かにあこがれていると思った時、それが過度になっていないか、崇拝にまでなっていないか、自分の考えや行動が、その人を通してでないと(基準にしたり、想定したりしないと)できなくなっていないか、見直す必要があります。

ただ、過度のあこがれになってしまっている人の場合、自覚ないことが多く、自覚ないからこそ、妄信にまで来てしまっていると言ってもよい状態なので、友人や家族などから、注意を受けたり、何か行き過ぎたことの示唆があったりした場合は、反発したくなる気持ちを抑え、我が身をふりかってみるとよいでしょう。

今回述べていることは、マルセイユタロットで言えば、「悪魔」のカードに関係します。

「悪魔」は、自分のモデル・目標として、よい意味で働いている・設定されている場合は、エネルギーを与え、現実的にもよいほうに作用して行きますが、崇拝・教祖に変わると、あなたを縛り、支配する存在へと変貌します。

「悪魔」のカードにはつながれた人が描かれていますが、まさにその状態です。

このつながれているひもは、よく見ると、緩いロープであり、悪魔側からはきつく強引に縛っているわけではないのです。

むしろ、ゆるゆるなので、抜けようと思えばいつでも抜けられるわけです。

それをきつい縛りにしているのは、つながれている側の人間です。(マルセイユタロットの「悪魔」のカードでは、つながれている人は、もはや動物的になっていますが)

「悪魔」は、よい意味でモデルとなっている場合は、つないだひもを通して、前述したように、エネルギーをつないでいる人に送ります。

実際的には、エネルギーだけではなく、その人の技術とかスキル、精神などの伝達、注入もあるでしょう。

経済的に成功していたり、有名人であったり、精神的に余裕があったりする人が、モデルとなりやすいですが、良心的なモデルとなる人は、たとえカリスマ性があっても、慕って来る人、モデルとして自分を見てくれる人には、ファンへの恩返し、プレゼントとして、自分の一部をその人たちに与えていくことでしょう。

ファンとアイドル、サポータと主人公みたいに、応援され、あこがれられることで、「悪魔」(よい意味で)としての人物は、ますます力を発揮することになります。

悪い「悪魔」の場合、応援されるエネルギーを悪用したり、意図的にしろ(意図的なのがまさに悪魔的ですが)、無意識にしろ、奪ったりします。

ここでいうエネルギーとは、サイキック的には生命力のこともあれば、現実的にはお金や時間ということもあります。

ちなみに「運命の輪」のスフィンクスと「悪魔」は、同じ色をしているマルセイユ版があるのですが、これにもやはり意味があると考えられ、ネガティブに見ると、人の運を奪うような存在でもあり、いずれにしても、人の運命を強烈に変えていくような力を持つと言えます。

このように、「悪魔」というものは、人のエネルギーを奪うようにも見えますが、つながれる側をもっと主体的にして考えれば、結局、「悪魔」をどう扱うか、実際的に言えば、今日のテーマともなっている、あこがれやモデルの人に当たるわけですが、その人をどう見るか、どう扱うかによって、「悪魔」はよい存在にも、悪い存在にもなるということです。

「つなげさせられた」と考えるのではなく、「つないだのは自分であり、はずすのも自分である」と見るのです。

※ただし、本当の意味での悪魔もおり、それは通常の力・意思ではどうすることもできないくらいの巨大な力を有している場合もあります。しかしそれとて、自分にある神性、天使の力、輝く光によって対抗することは可能と言われています。人は弱い存在でありつつも、神の力も内包しており、それによって悪魔を超えることはできるとされているのです。

あくまでモデル・目標として、バランスよく、自分自身も律しながら、モデルとして対象へも、盲目的に一面だけで見るのではなく、その人も人であり、悪いところやネガティブな面もあることは、当然として受け入れることです。(それを断罪したり、否定したりすると、また逆に囚われやすくなります)

自分があこがれ、いいと思う人の中には、一見、自分にはないものがあるから、自分とはまったく違うから、惹かれてしまうと思うかもしれませんが、実は、同じものがあるからこそ、惹かれるのだとも言えます。

あなたはあこがれの人と同質の何かがあるのです。潜在的な能力と言ってもいいかもしれませんし、モデルの人とまったく同じではなくても、似たような気質でもって、自分をモデルとはまた違う形で表現できる力です。

だから、あこがれの人のようにはなれないと落ち込むのではなく、あこがれの人の中にある自分と似た部分、核のようなものに気づき、それを自分の中で再発見することです。

それが、あなたの宝です。

それがわかれば、自分の真の力が出てきて、たとえあこがれの人のようになれなくても、自分に自信が持て、自分なりの道や表現で、充足させていくことができます。

あなたには、自身にふさわしい「悪魔」がいるのです。悪魔という言葉にだまされ、悪魔の力を否定・拒否せず、自分の内なるものに取れ入れ、よい意味で、悪魔の力を復活させましょう。

すると今度は、あなたが誰かのモデルとなり、その力をまだ発現できていない人に対して、たいまつの火を与えていくことができます。

マルセイユタロットの「悪魔」が持つ「たいまつの火」は、偽物という象徴性もあるにはありますが、それには、本物の光を発見するプロセスとしての火があるのだと見ることもできます。

悪魔といえばサタンという名が浮かびますが、サタンもその昔は、ルシファーとして天使であったと言われています。ルシファーは、つまりは「」です。

本物と偽物、これらは実は深い関係や示唆に満ちていて、優れた偽物は、いいかげんに本物を示すよりも、本物を知る手がかりになるのです。


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