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大・小アルカナの関係と使い方

タロットには大アルカナと小アルカナというパート、カード構成があります。

このふたつの違いは、大と小と名前があるように、簡単に言えば、大きな見方と小さな見方が適用されるものと言ってもいいかもしれません。

ただし、ここでいう、大と小は、良い悪い、優劣の意味で高い低いというわけではありません。

要するに、適用される分野や次元が異なるということです。

マルセイユタロットの場合、大アルカナと小アルカナ、特に数カード(数札)の絵柄とはかなり違っていますので、明らかにこのふたつが別であることが示されています。

しかしながら、タロット全体としては必要なセットとして組み込まれているわけで、タロットシステムからすれば、そこにはきちんとした理由があると考えたほうがよいです。

ということは、タロット全体からすれば、大も小も必要で等しく、しかし、絵柄の違いからして、別物と見ることも自然になるわけです。

全体としては同じ、しかし個別としては異なる・・・これは何かと似ていませんか?

そう、まるで宇宙全体(完全性)と私たち一人一人(の世界、個別性)の関係を見ているかのようです。

タロットが宇宙や私たちの象徴・モデルであるということは、このように、タロットの構成を検証するだけでもわかってくるものなのです。

こういう見地からすれば、自ずと、大アルカナと小アルカナの使い方、適用する分野というものも理解できてきます。

講義ではこのことはしっかりとお伝えし、具体的にタロットの使い方・読み方を、大アルカナと小アルカナで説明しておりますが、ここで簡単に大と小の関係性と使い分けをご紹介しておきます。

まず、大アルカナは一種の元型・アーキタイプのようなものと設定します。

そして、小アルカナは大アルカナひとつひとつに対して、4つの分野に細分し、表現されたものと考えます。

この4つとは、四大元素(風・水・火・地)思想をベースとした四組のことです。すなわち、剣・杯・杖・玉(一般的にはソード・カップ・ワンド・コイン)となります。

四組のとらえ方、表現分野には諸説ありますが、一般的・簡略的に述べるとすると、思考・感情・行動・物質(環境・結果など形)と表現できます。

このうち、内的なものとしては思考と感情があり、外的なものとしては行動と物質的環境があります。(杖は火の象徴なので、内的な情熱やモチベーションを表すこともありますが、今は便宜上、あえて簡単に種類分けしています)

元型的な大アルカナ一枚一枚に対して、この四組の表現方法や働きかけがあると見るわけです。

構造的には1対4(大アルカナ1と小アルカナ四組)の関係性です。

これは、大アルカナ自体にも、「手品師」や「世界」のカードに図像として表現されています。特に「世界」がわかりやすいでしょう。「世界」のカードには、真ん中の人物と、周囲には四つの生き物が配置されている絵になっています。

では事例として、「節制」のカードで説明しましょう。

「節制」という元型に対して、四つの表現方法があり、どの分野を自分が選択するかという向き不向き・適合不適合も考えられますが、同時に、「節制」を完全に理解、自分のものとする(現実化する)には、四つの分野それぞれが必要であるという考えにもなります。

「節制」は救済や治療を表すとすれば、そのために必要なものは四つのうちどれか、あるいは、四つのバランスで歪になったり、ないがしろにしていたりする部分はどれかというような見方ができます。

どこか調子が悪いのなら、まず内(思考・感情)か外(行動・環境)か、というものを見て、さらに内・外のそれぞれの因子を調整したり、取り入れたり、過剰さを排除したりすることで、元型としての(この場合は「節制」)本質が現れてくるというイメージです。

ほかにも、「節制」を別の意味にして、例えば経済的節制、つまりお金を節約する課題として考え、小アルカナ的に四つの分野からアプローチする、手段とすると見ることができます。

今は単純な例でやりましたが、実は四組構造はもっと複雑化したり、逆に単純化することもでき、かなり具体的・個別的に絞っていくこともできれば、元型次元にまで抽象化して、ほとんど元型と変わらない意識までもっていくことも可能なのです。

こうしてみると、特にマルセイユタロットの大と小のアルカナ構造は、本当によくできていると実感させられますし、マルセイユタロットを使う多くの人が、小アルカナをあまり活用されていないのではないかと残念に思うところもあります。

そもそも日本においては、ホドロフスキー氏の著作以外、本格的に、あまりマルセイユタロットとしての小アルカナの解説や使い方が教授されていないので、仕方ないのかもしれません。

私自身も、もとはカモワン流から入りましたので、当時のカモワン流ではほとんど小アルカナを使わない技法ということもあり、自力で小アルカナと大アルカナの両面の活用について探求・実践してきたところがあります。

その過程で、やはり小アルカナはタロットシステムにおいて必要不可欠なものだということがわかりましたし、一般的に言われている小アルカナの考え方・使い方とは、また別の方法もあるということも気が付いてきました。それでも、大アルカナとはセットで考えたほうがよいのです。

何事もそうですが、使わないものは衰えたり、疎遠になったりします。

タロットもしかりで、大アルカナばかり使っていては、小アルカナを理解することから遠ざかりますし、小アルカナとあなたの関係はよそよそしいままです。

実は、小アルカナは現実と強く結びつく性質があり、大アルカナばかり使っていると、現実逃避や地に足のつかない状態になってしまうこともあります。(しかし、リーディングしたり、占ったりする内容が現実性を持てば、大アルカナもその次元にシフトしていくことができるので、必ずしもそうとは言いませんが)

ということで、せっかく小アルカナのパートがタロットではあるのですから、使ってあげるとよいです。魔法的には四大の精霊と仲良くなる感覚でもあるでしょう。

面白いことに、ゲーム世界では四大の精霊はよく表現されていて、子供たちは名前も知っているはず(笑)です。

ゲーム世界では、四大はアイテムや能力においても不可欠な要素で、ロールプレイングゲームでは、その四大要素の特質を持つ人物も現れ、パーティーを組みます。それがアンバランスだと、パーティーも、最悪、全滅します。

つまりは生きる力と関係しているのです。これはゲームを私たちの現実世界(これ自体もゲームだと考えることができます)の例えだとすると、よくわかると思います。

タロットの活用は、78枚あってこそなのです。


「皇帝」となるチャンスを活かす

今日はマルセイユタロットの「皇帝」のカードについて書きたいと思います。

その前に、知っておいてほしいのは、このブログでは、カードの基礎的な内容については、ほとんど言わないようにしているということです。

ここでいう基礎的なこととは、例えば、カードの意味などノーマルな事柄についてで、いわば教科書的な内容ということです。それは世に出ている本とか、マルセイユタロットでなくても、ほかのタロット種などでも、同じカードであれば共通していることも多いですので、それらを参照していただけれはわかることだからです。

今回の「皇帝」のことで言っても、「皇帝」には、現実性とか経済性とか、指導・統治、父性みたいな意味が出てきますが、それら(がなぜ意味として出るのか)をいちいち解説しても、たぶんこのブログを読んでいる皆さんにはつまらない(知ってる人も多い)から、あえて説明しないみたいな理由です。

また、それらを教えている先生とか学校に対しての営業妨害(笑)にもなりかねないので(苦笑)、基本事項の解説を体系的には書かないようにしています。ということで、このブログで、タロットの基本を学ぼうとしてもダメですよ。(笑)

まさに私が好き勝手書いている雑文タロットブログなんです。もしかしたら、ちょっとタロット、特にマルセイユタロットをかじっている人には有益かもしれませんが。

さて、話を「皇帝」に戻します。

「皇帝」はその名の通り、国を治めるトップです。(厳密な意味で「皇帝」となれば、単なる国王を超えた存在ですが、そのことも実は大事なことです)

もっと拡大解釈していくと、いわゆる組織や集団のトップの象徴と言ってよいかもしれません。

今の世界的危機のご時世、国のトップはもとより、組織のトップの手腕が真剣に問われています。

ある意味、平和で穏やかな世の中よりも、ピンチで危機な時ほど、皇帝(という役割)が際立つと言ってよいでしょう。一般的には現実性の意味が強い「皇帝」なのですが、意外にも、非日常の状況こそが、「皇帝」の強さが現れるわけです。

でもそれは非現実ということではなく、より現実に向き合わされるから、非日常時、つま非常時にその仕事が重要になってくるというものです。やはり、彼と現実は深く結びついていると言っていいでしょう。

マルセイユタロットの教えでは、実は現実から離れていくというものがあるのですが、それは夢や幻の世界に逃げ込む意味ではなく、現実の世界に生きながら、(通常認識している)常識を超えていくことにある、現実と非現実の統合を果たしていくというような意味であり、現実逃避ではないのです。

よって、「皇帝」を自分のものにしないと、真の意味で進化していくことができないわけです。

「皇帝」が治め、コントロールすべきは、自分の現実にあるのですが、それは一見、外にあるようでいて、内の現実性も象徴するのです。

結局、自分という国を支配すること、それが「皇帝」の役割であるのかもしれません。

「皇帝」の基本的な意味のひとつに、父性や男性性、まさ父親そのものを象徴することがあります。

自分というものは、最初は母性的なもの、母親に守られる存在ではあっても、やがて父的な者がライバルとなって、その父的なものを乗り越えて自立する過程を経ると言われます。(特に男性の場合はですが、女性にも関係します)

マルセイユタロットでは、特に男性的カード、自立・自活・独立をテーマとすると言ってもよいのですが、「皇帝」はその典型でもあるでしょう。

自立は、つまるところ、自分という国を治めることと象徴的にも言えます。

しかし、さきほど述べたように、自立する前には父親、あるいは自分を強く支配する存在(思いや感情、思想、論理、正義などということもあります)から独立していく必要があるのです。

それまでは、自分が「皇帝」ではなく、誰かや何かが「皇帝」となっています。あなたという国を仮に支配している者、代わりにやってくれている者と言っていいかもしれません。

そうすると、自分は息子や娘としてふるまっていればよく、甘えた子供でいたり、逆に反抗したり困らせたりしますが、ともに未熟なままの仮の「皇帝」への抵抗なようでいて、保護を求めていることにもなります。

本当にあなたが子供でいる場合はよいのですが、すでによい年をした大人であるのに、いまだ仮の父親、「皇帝」にあなたの国を任せていては、いつまで経っていも、自分の国の力(民であり資源であり国力そのもの)を思う存分、使うことはできません。

もしかすると、成長に応じて、一部の国を治めることが許されるようになったかもしれませんが、それは国王であって「皇帝」ではないのです。

「皇帝」の命令には背けず、ビクビクとしつつ、ほんの一部の国の力が出せるに過ぎない状態です。

この仮の「皇帝」が、虚勢の意味での権力やお金などと結びつくことも多く、(仮の)「皇帝」の命令・欲望によって、どんどん自分は働かせられることになり、仮の「皇帝」を満足させるため、あなたは従者となり、暴君皇帝の奴隷となっていくこともありえます。最終的にはその「皇帝」が「悪魔」のカードになっていくこともあり得ます。

ですから、あなた自身が「皇帝」の座につくよう、勇気を持ち、成長し、自立の精神を醸成していくことなのです。支えや助けはあってよいのですが、依存ではなく、あくまで自立するための手段として考えることです。

アドバイスはもらっても、自分で決める、自分で行動する、自分が行ったことはだれかや何かのせいにするのではなく、自分の責任と考えること、こういうことが重要になります。

マルセイユタロットのヒントで言えば、王冠を持つカードたちと関係し、「皇帝」も当然ながら王冠を持ち、その王冠のカードたちの象徴、示唆を自分のものにすることが求められるのです。

先述したように、「皇帝」は、日常よりも、非日常、危機の時に真価が問われます。

ですから、今のような時は、あなたが女性であれ、男性であれ、内なるリーダー性、男性性、言ってみれば、あなた自身の国の「皇帝」になることが促進される事態となり、立ち位置や自信がとても揺らぐようなことになるとは思いますが、それこそが「皇帝」になるチャンスでもあるのです。

今まで、自分では無理だと思っていたこと、人に任せて自分が保護されてきたこと、甘えてきたことの視点を変え、自分の今の時点でできること、独立的にやれること、どんな小さいことでも、あるいはささやかな瞬間・機会であっても、トップ(リーダー)になること、そういうものに目覚めてください。

あなたは無力ではないのです。そして女性性や、保護し、包み込む優しい母親的な性質だけでもないのです。(もちろん女性・男性の性別的な特質はありますが、人は性質としては象徴的に両性を持つと言えます)

これは「無理をしましょう」と言っているのではありません。

まずは自分を国王として見て、仮の「皇帝」から委託されている範囲の支配を現実的に把握し直し、少しずつ思い込みや依存から脱し、国の勢力を拡大し、やがて「皇帝」の座を回復しましょうと言っているのです。

「皇帝」は建築家のシンボルも有しています。

建設は一気にするのではなく、土台作りから、ひとつひとつ築き上げていくものです。その完成された建築物、家がどれになるのかは、マルセイユタロットではすでに示されているのが、たぶんわかるでしょう。そこにも王冠があります。

と言っても、一人の力だけではなかなかうまくいかないこともあります。

そんな時は、パートナーである「女帝」と歩むことです。「女帝」と「皇帝」は並べると向き合う形になります。この二枚に共通する鷲の盾のシンボルにも意味があります。

「女帝」は女性であることから女性性も示しますし、アイデアや計画性としての意味も出ます。「皇帝」の独立、国の治世には、女性・パートナーとしての「女帝」が必要でもあるわけです。この逆も言え、「女帝」には「皇帝」が必要です。

あなたが女性であれば、「女帝」側から「皇帝」を見てもいいですし、男性ならば、「皇帝」側から「女帝」を見てもよいのです。これらは、 実際の人物を表すこともありますが、あなた一人にいるふたりの人物・性質と言ってもよいのです。

特に、非日常や危機感にあふれる時は、アイデアや発想という「女帝」の性質も大事ですが、それを決断し、実行する「皇帝」の力が鍵となります。

まさに今、誰もが王となり、「皇帝」となっていく機会が、訪れていると見ていいのかもしれません。


2020年の数秘とタロット的象徴

タロットにはがあります。

構成的には、大アルカナが22枚、小アルカナが56枚あり、このうち、大アルカナ小アルカナの数カード(数札)には、ナンバーともいえるがあてがわれています。

これらの数にはもちろん意味があります。

ところで、数と言えば数秘術が思い浮かびますが、数秘術というのはその名の通り、数を基本概念といいますか、象徴の元としています。

数秘的には、いわば、数=神であり、数は神の現れ、表現であるとみなすことができるわけです。

ただ、タロットには数もありますが、基本は絵柄です。

数そのものを象徴とする数秘(術)と、数より絵柄が象徴の根源であるタロットとは、その数の扱い、解釈に違いがあるのも当然のところがあります。

タロットの場合、先述したように、数とは無関係ではありませんが、それはあくまで象徴としての絵柄・図柄とリンクさせたものであり、根本は似ているところはあっても、数の象徴の範囲や次元が異なっているのだと考えたほうがよいです。

けれども、矛盾するようですが、範囲や次元は異なっても、やはり、数としては共通のところがあるのも、数秘とタロットとの関係では言えると思います。

このあたりがわからないと、そのまま数秘で学習した意味をタロットにあてはめたり、逆に、タロットの絵柄の象徴性を、数にあてがったりして、混乱してしまうことになります。

何度もいいますが、数秘的解釈の数の意味と、タロットに使われている(配当させられている)数は違っていながら、奥底では共通しているということなのです。

さて、それを踏まえながらも、今日はあえてと言いますか、わざと単純に、数とタロットを見てみたいと思います。一種のお遊び、ゲームだとみなしていただければよいです。

今日、数的に見るのは、「年」です。

今年は西暦では2020年で、ここに「2020」という数が出ます。

まず、見た目で2と0が並ぶのがわかります。出ている一桁としての数は「2」で、二桁では「20」、3桁では「202」が見え、4桁ではそのまま「2020」ですね。

数秘術では単数化、数字根といって、二桁以上の数を一桁に戻す方法があり、これは数をばらして足すことによって、単数化するものです。

すると、「2020」では、2+0+2+0=4となり、「4」という数が出ます。

さきほど、見た目から抽出した二桁「20」、3桁「202」も、同様に単数化すると、それぞれ「2」、「4」となります。まあ、当たり前みたいなことですが、結局「4」という数が「2020」からは現れますし、その半分である「2」も基本の数としてあるのがわかります。

すると、今年は「2」であり、「4」の年だと、単数的、数の象徴的には言えるかもしれません。

さらに二桁という数で見ると「20」がふたつ並んでいるように見え、20×20の400とかも現れるかもしれませんが、タロット的に見ますと、大アルカナ「審判」の数が、ふたつ並ぶことになります。いわば、ダブル「審判」です。

さきほど、2と4も出たので、タロットの大アルカナに置き換えると、「斎王」(一般的には女教皇)と「皇帝」になります。

まあ、「0」という数もありますので、これをタロットであえて示せば、「愚者」となるかもしれません。ちなみに、「2020」の「0」をないものとすれば、二桁的に「22」という数も出て、これもタロットでは「愚者」を示す数といわれているものです。どの道、「愚者」は出るわけです。

ということで、「2020」をいろいろと数的に分解して、タロットの大アルカナにしてみると、「愚者」「斎王」「皇帝」「審判」ということになります。

ちなみに、日本の和暦的には、令和2年ですから、「斎王」となりますね。(ということは、数の「2」、タロットでの「斎王」が、洋と和の暦で共通していることになります)

これらのカードを、マルセイユタロットで並べてみましょう。

大アルカナの数の順で並べると「愚者」「斎王」「皇帝」「審判」となります。(愚者は本当は数を持ちませんので、ほかの三枚のカードのどの間でも、さらには外にでも位置することができます)

さらに、この4枚をいろいろと並び替えすると、今年の意味が、もしかするとタロットで象徴されるかもしれません。

例えば・・・「審判」「愚者」「斎王」「皇帝」

こうすると、密集するところから逃れて、家に籠る状況の年のようにも見えてきます。「皇帝」が現実での対応や、政治のトップの人の号令みたいな意味にも見えてきますよね。

カードの正逆を取ると、より問題性も露わになり、さらに興味深いことになるかもしれません。

ちなみに・・・「今年のメッセージ」としてカード(正立のみで)を展開してみると、「皇帝」「愚者」「審判」「斎王」となりました。

奇しくも、西暦と和歴での共通する「2」の数を持つ「斎王」が最後に来る展開となり、「審判」が本来のタロット的な象徴の意味である「(真の)復活」「覚醒」的な感じに見えるようになっています。(それを受け入れる「斎王」という図)

皇帝」はおそらく、これまでの次元、システムの象徴なのでしょうね。

タロットは数だけではなく、絵柄があるのが大きな特徴であり、物語としても見やすく、個別のレベルから世界や宇宙的レベルまでを象徴することができますから、あなた個人の今年の意味を、この4枚のカードを並べて(シャッフルして引くのもよい)考察するのも面白いでしょう。

マルセイユタロットを持っている人はやってみてください。


タロット的に結婚について考える。

前回の記事では、危機にあると、人はつながりを求める傾向にあるという話をしました。

人とのつながりで濃密なものには、恋愛や結婚というものがあります。

恋愛と結婚ではまた違いますが、今日は主に「結婚」をテーマにしたいと思います。

もしかすると、このような社会状況にあっては、意外と結婚する人が多くなったり、つきあっている人たちが結婚に向けて加速させるかもしれませんね。

しかし、今は例のモノの影響で、人と会わない、会えないという状態がノーマルになっていますので、逆に、結婚を考えている人でも、先延ばししたり、再考したりする方もあるかもしれません。

今年結婚式を計画していた人も、取りやめや、落ち着くまで延期、または挙行しても披露宴などを行わない形式にすることもあると聞きます。

そうなると、結婚そのものを考え直すカップルもいるかもしれませんし、反対に、式や入籍を待つことにより、ともに支え合う信頼関係が増すこともあるかもしれません。

そういう意味では、今年、結婚を意識しているカップルは、シビアに(純粋に)ふたりの関係性が問われることになります。

本当によい絆、信頼関係があるカップルは深い愛で結ばれるでしょうし、条件や勢いだけで結びついているカップルは、自分の本当の気持ちに気づいて、別れるようなこともあり得そうです。

ただ、世の中は、社会の変化とともに、次第に人々の価値観も変わって行き、いわゆる結婚観とか結婚の形も、これまでにも変化が見られつつあったように思います。

今年のはインパクトによっては、結婚観はさらに大きく変わる可能性もあるでしょう。

ところで、タロットではカード種に関わらず、「結婚」を示唆するカードはたくさんあると思います。しかしそれはカードの読み方によって、いろいろと変わってくることもあります。

つまり、あなた(カードを扱う人やタロットに相談する人)の「結婚の見方・思い方」によって、結婚を表すタロットカードも変わるということです。

そうなりますと、例えば、マルセイユタロットの場合、22枚の大アルカナ全部でも「結婚」が表せることになります。

「世界」のカードのような結婚を望むのか、「法皇」のカードのような結婚をしたいのか、見る人次第です。

ということは、カードはあなたの結婚観を示すというこにもなりますし、それがわかれば、カードによってこだわっていたスタイルや思いから解放された新たな結婚観へと変貌を遂げることも可能になります。

マルセイユタロットで、一般的には「結婚」より「恋愛」を表すと考えられる「恋人」カードにおいても、「結婚」を考察することは可能です。

ただ「恋人」カードから見る「結婚」というものは、恋愛にも通じる本質のようなものだと言えるでしょう。

それは結局、ある存在とのつながり、結合であり、反対に離別することへの恐れでもあり、それでいて離別と結合が同等であると意識てきる次元への回帰(想起)とも言えるのです。

妙な哲学的表現になってしまいましたが、今書いた「ある存在」とは、すでに予想がついている人もいらっしゃると思いますが、それは「自分」であり、自分の中に存在するものです。

しかし、現実次元においては、そのもう一人の自分というものがなかなかわからず、愛する人、恋人、パートナー、結婚相手として現れるように見えます。また、そういう相手側も、もう一人の欠けていると思われる(失っている)自分自身を見出そうとします。

それゆえに、恋人、パートナー、結婚相手は、同質に近いと思える人(似た者同士)か、逆に、かなり異質性を感じる相手となることが多いのです。

現実世界では個性(エゴ・自我・自分と他人の違いを自覚する自分)の世界ですから、常につながりの欠如、不足、どこか何か、誰かを失っている感覚がつきまといます。

これは実は、この世を生きる原動力(不足を補おうとする衝動)にもなって、カオスな世界をエネルギーと行動で満たそうとするわけですが、やはり空虚さは否めないところがあります。

そこで、補える片割れとして、友人やパートナー、形式的には結婚相手を求めることにもなってきます。

現実を超えた世界では、自分一人でも完全性、つまりは神的な存在と言っていいのですが、それであるために、不足感はないと言えましょう。

しかし現実世界では不足感があり、先述したように、そのために相手を求めます。

もし自分自身で完全であったということに気づけば、相手はいらなくなります。いや、相手は自分で、自分は相手でもあることになって、自他は結合すると言い換えたほうがいいかもしれません。

このようなことに思いが馳せれば、今の相手も過去の相手も、また片割れと出会っていないと孤独を感じている人でも、何かしらの示唆を得られると思います。

この考えに立てば、何も異性同士とか、ただ一人の相手とか、二人は恋愛状態でないといけないということはなく、あらゆる関係性に自分が忘れていたもう一人の自分を見ることができ、相手はいつも運命の人であり、魂の伴侶ということになります。

しかしながら、現実世界の中は個性の(濃淡のある)世界でもあるので、強くひかれあう者同士、逆に、つながりがあっても嫌ってしまうような人は、何かしらの濃い反映が隠されていると見てよいかもしれません。

今の現実世界では、結婚は法的な契約となっており、事実婚とか内縁の者でなければ、普通は籍を入れて一緒に暮らします。

ただ、次元やレベルに変化が現れれば、そうした法的な契約結婚の形式も変わってくることが考えられます。ですから、すでに形とか法律にこだわらない、実質的な結婚をしている方もたくさんおられると思います。

また結婚の関係性での意味も、深くは人それぞれだと言えますから多様性があり、子供をつくって家族生活を経験することが自分の課題とか完全性を補うことであればそうするでしょうし、夫婦二人だけの課題を持つ人もいれば、同居せず、別居に生活していく選択のカップルもあるでしょう。

それはカップルどちらにとっても、完全性への次元上昇のための選択と言えます。(「恋人」カード的な選択)

今後、もしかするとオンラインだけで話すだけのパートナーとか結婚相手というのも生まれるかもしれません。

結婚(の形)は時代や社会、人々の意識の反映であるとも言え、あなたがどういう結婚の形を望むのか(独身であっても、イメージとか意識の中では結婚の形を取っている人もいます)は、それは本当に意識のあり方次第と言ってよいでしょう。

あと、結婚には責任(結婚だけとは限りませんが)が伴いますので、それを果たさない場合は、結婚による成長や完全性回帰も難しくなります。

たとえパートナーを変えても、自分が責任を果たさない態度なら、相手も責任を果たさない人を引き寄せることになるでしょう。(この責任は厳しい意味だけではなく、愛を持つという柔らかな責任も意味します)

まさに相手は鏡でありがらも、異質性を持ち、それはすでに述べたように、お互いによって完全性を映し出しているのです。


危機。つながり。愛。

東日本大震災の時もそうでしたが、世の中が危機に陥ったり、世情が不安な状況になってきたりしますと、人はつながりを求めるようになるようです。

つながりの中でも、やはり一番大きいものは、「人と人」とのつながりでしょう。

ほかにも、ペットなどの動物、育てている植物、周囲の自然・・・という感じで、つまりは生きていると感じるものにつながりを求めることもあるかもしれません。

もっと大きなものになると、大地、空、海、地球、宇宙・・・と広がっていくこともあり得ます。

つまり、私たちは、結局のところ、「生命」「いのち」を感じさせるもの、あるいは、それらを育むもの、守るものなどとのつながりを、危機によって回復する(思い出す)ことになるわけです。

普段、ほとんど意識しなかったことが、図らずも、危機や異常事態と思える状況によって、意識されるようになるのです。

これを逆に考えれば、私たちがほかの生命との「つながり」や「生かされている」ことを忘却し、自分一人で生きていけると傲慢になっているような時に、その思いを反省させられるかのように、危機が訪れると言えます。

まさに、これも、マルセイユタロットで言えば、「13」と「節制」のセットのことなのかもしれません。または「吊るし」と「世界」という関係にも置き換えられるでしょう。

さて、今は世界中の人が異常事態を認識している時です。

そうなりますと、先述したように、人は生命的なつながりを、より求めるようになっているはずですし、今後もそれはしばらく続くと考えられます。

しかし、一方で、注意したいのは、人工的・機械的ともいえるつながりも、バーチャル的に登場しているということです。

インターネットや通信技術の飛躍的進歩によって、膨大なデータが瞬時に世界中に流れるようになり、動画も当たり前に見られるようになりました。機器を通して見た動画や画像の世界は、次第に現実と変わらなくなってきています。

人とのコミュニケーションも、ネットを通じて実際に会わなくても、距離があっても、簡単に可能になりました。

最近は、Zoomなどの通信アプリで、皆さんもほかの人と自宅で居ながらにして会話することも多くなっているのではないでしょうか。それは確かに便利で、私自身もその恩恵にあずかっています。

一方で、よく考えますと、会話している相手は現実の人ではありますが、映し出されている映像は機器を通してもので、バーチャルな世界とも言えます。

会話している人が実際に会ったことがある人ならば、映し出されるものに違和感はないかもしれません。たとえ初対面の人でも、きっとこういう人だろうと、実感をもって私たちは映像を見ます。

会わない予定の人であっても、現実に会えば、映像の通りの人であることは、常識的にわかるからです。

けれども、リアル・実際で会うことが少なくなり、それが本当にまれで、めったにないような世界になってしまった場合、どうでしょうか?

果たして、あなたが見ている目の前の機械に映し出されている人は、本当にその人自身なのでしょうか? 

昔、出会い系などで、顔写真を加工していたり、別の写真を掲載したりして、実際に会うと別人だったという話を聞いたことがあります。今でもそれはあるかもしれません。

この場合は、文章のやり取りや姿を見ないままの会話が続いていて、想像の世界で人物をイメージしていたわけです。

相手に実際に会うまでは、自分のイメージの中にその人(の姿)は存在していたと言えます。それは架空のもので、現実ではありません

けれども、会うという設定がまったくない関係の中では、本当の姿を確認することができないままになります。それが常態化した世界では、リアルな自分・相手というのは、意味を持つのかどうかさえあやあやになってきます。

直接会うことがないのなら、いかようにでも、姿も性格も変えて、ごまかすことは可能です。

映画マトリックスのようなSF的に言えば、実在の自分はどこかのカプセルの中に固定されたままで、バーチャル空間が一般化されていて、そのバーチャル空間で見せる「自分」というものがアバター(化身)的に作られ、人々はアバターとしての自分(相手)が自分(相手)自身であると錯覚したまま、生活していくような話です。

これはバーチャル空間そのものが現実になっているようなもので、それならば、自分の理想とする姿・性格に変えて一生を過ごせばよいということになり、おそらく、人は似た者同士(理想の姿、理想の性格みたいなもの)になってしまう(悪く言えば金太郎飴みたいな存在になる)のではないかと想像されます。

これはいわば、バーチャルな天国なのかもしれません。(笑)

ならば、それも変な意味で理想社会であり、それを目指すというものも研究者で現れないとも限りません。

自分の望む自分が、全員実現できる世界ならば、それは誰にとってもよい話ではないかと思う人もいるでしょう。

そういった世界は、今は現実的ではありませんが、もし実現可能だとしても、おそらく、ほとんどの人は、本能的に「それは何かおかしい」と思うのではないでしょうか。

私はそのおかしいと感じるセンスが、とても大事だと思います。

しかしながら、一方で、皆の理想が実現するバーチャルな(文明や科学の進歩という言い方をすることもできます)世界が可能なら、それもありなのかもしれない・・・という、どこか幻惑されるような、タロットの悪魔から誘われるような(笑)、魅力もどこかにあります。

今日は何か結論や主張を述べたいわけではありません。

ただ、今起こっていることには、ひとつには、いのちや生命のつながり回復や、私たちそれぞれがバラバラに一人の力で生きている(自分がすべての)存在ではないことを思い出すためであると見ることもできますし、逆に、つなかりを求める気持ちが利用されるような形で、バーチャルな世界が加速し、人類の理想をバーチャル的に実現するような世界に向かっていく流れを考えることもできるということなのです。

これも、単純な良し悪し、善悪では測れません。

危機により、平時ではおよそ、つきあいや結婚の対象にならない人と関係が進むこともあり得るでしょう。

そのおかげで、普通では生じなかった関係性が深くなったり、知らなかった世界(相手)をよい意味で知ることができたりするという、新たな愛に目覚めることもある一方で、普通ならあり得ない人とつきあってしまったせいで、ひどい目に遭った、不安を紛らすためなら誰でもよかった、ただ結婚がしたかっただけ・・・と自分を大切にしないままに他人との関係を安易に持ってしまった後悔も起こるかもしれません。

ただし、後者の場合でも、自らが自分自身への愛を知るという意味では、大きいことである可能性もあります。

いずれにしても、いのち、生命、人とのつながりがなにがしかに刺激され、私たちは愛を学ぶことになるのだと思います。


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