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タロット旅の思い出と意味

この時期(春に向かう時期)になりますと、思い出すことがあります。

それは、マルセイユタロット、厳密に言えば、フィリップ・カモワン氏のタロット(ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットにおける、カモワン流を基礎とするタロット技術と思想)を学習するために、フランスでのコースに参加したのがこの時期だったからです。

当時、日本でフィリップ・カモワン氏から直接学びを受けるコースは、タロット大学という機関が担当・開催しておりました。(ヨーロッパでカモワン氏が開講しているものを学ぶ方法もあったとは思いますが、海外在住とかで、通訳なしでもOKな語学堪能でないと難しかったでしょう)

カモワン氏から学ぶコース(タロット大学のタロット上級コース)は、結局、あまり長く続かず、開催された回数的にも多くはなかったので、今では幻のようなものかもしれません。

そういう意味では、ライブで、カモワン氏のリーディングを見て学べた者は数的にも少なく、貴重な機会だったかと思います。(ちなみに私の参加した時は、別で行われていたホドロフスキー氏のワークショップを見学することもできたという幸運でした)

そういう技術的な面においても貴重ではあったのですが、当時のタロット大学からのコースには、カモワン氏から学ぶ講義だけではなく、希望者のみでしたが、マルセイユタロットに関わる土地や場所をめぐる旅もついていました。

これがまた、非常に貴重だったのです。(簡単に海外旅行ができないコロナ禍の今では、もっと貴重さが出ている気もします)

このコースで学んだ方たちのうちの何人かが、のちに、同様の旅企画をされていました。

そのような同様の企画が行われたのも、タロットの学びにおいて、タロットが生まれた(育まれた場所)を訪問することが大事であることを、その方たちも、当時感じたからだと思います。

できれば、私もそのような旅をやってみたいと思うくらいです。

このブログでも、書きましたが、マルセイユタロットには、その歴史的背景や文化的背景を知っておくほうが、活用する意味でも、意味合いがかなり違ってきます。

タロットに向き合う感覚、覚悟の違いとでも言いましょうか。

その他でも、リーディングにおいても、支援される力、気づくエネルギーも異なってくると思います。(実は「見えない技術部分」としても、関係あると考えられます)

学びには、純粋な技術的側面と、それを支えるかのような精神性の両面があり、さらにそのふたつを統合するようなスピリット(霊性)があります。

逆から言いますと、霊性に至る(向上させる)には、見た目や理論だけではない、見えないところにもある精神性を実感・認識していくことが必要でもあるということです。

特にタロットのようなものは、見た目や論理の技術側面だけではなく、精神性、見えない部分が重要になってきます。

技術がただうまくなるだけでは、本当の意味て、タロットが上達したとは言えません。

例えば、カモワン氏のタロットを学ぶコースにおいても、カモワン的技法を学ぶだけならば、氏の講義部分のみに参加して帰国すれば目的は果たせたかもしれません。

しかし、一見、技術には関係ない旅に参加することで、得られる精神性の部分はとても大きなものがあったと言えます。

あの旅に参加したからこそ、見えない部分のもの、肌で感じるマルセイユタロットの生まれた背景の場所、蓄積、物語のポイントを押えることができ、まさにタロットの学びに“いのち”が宿ったような気がしたものです。

マルセイユタロットには、異端カタリ派に関係するものが流れていると伝えられていますが、私自身、このカタリ派の人々の思いを、実際に関係する都市・村を巡ったことで、知識だけではない、感情的・精神的部分を受け取った気がします。

ヨーロッパでは当たり前にある教会、城壁、石造り建築の数々・・・これらもタロットには登場し、深く関係があるものです。それも目の当たりにして、写真とか動画で見るのとは違う、体感をしました。

旅では、教会にかなり多く行きましたので、途中、教会酔い(苦笑)みたいな感じにもなりましたが、私だけではなく、ほかの人にも不思議なことも起こりましたし、日常的にキリスト教の精神と日常性、その裏に流れる古代からの思想・信仰・土着の精霊的なエネルギーなどを感じることもありました。

マルセイユでは、町の壁にタロットが描かれていることもありましたし、タロットが私たち日本人が思うものよりも、流通していたこと、使われていたことを実感させます。

思えば、このコース、旅に参加したからこそ、私のそれからの人生において、マルセイユタロットが中心となることが決定したようなものです。

前にも書きましたが、この時、私はタロット活動をしていくことに迷いとか疑問もあったのですが、ある事件と言いますか(起きたことはとても小さなことでしたが、自分にとっては大きなこと)、事柄が起こって、旅をする中で、次第にタロットと自分との関係が構築されていくのを感じました。

それは構築というより、回帰や思い出しのようなものだったかもしれません。

ところで、マグダラのマリアの伝説は、マルセイユ近郊には特にあるのですが、例えば、マグダラのマリアの頭骨(あくまで伝承であり、本物かはわかりません)が収められている教会、マグダラのマリアが最後に籠り、修行したといわれるサント・ボームの洞窟などにも訪れ、マルセイユタロットでは「星」の女神としても描かれる彼女の存在を、現地の風土で、信仰というより、エネルギー的な存在として、土地の精霊や人々の心にいるのがわかりました。

こういうものは、日本では、同じエネルギーを持ちつつも、仏教的なものとか、神道的な神々として、別の形象で表現されているものと思います。

言ってみれば、誰の心の中にも存在するものです。ですが、その土地土地で、形や表現が変わるわけです。

比較民俗学ではありませんが、そのように、ほかの土地、場所、文化のところに実際に行くことで、自分たちのものと比較することもでき、それによって、比較の中から浮上する本質な存在・エネルギーというものを認識することもできるのです。

訪問先で、「私はかつてここにいた」とか、前世的感覚になる人もいるかもしれませんが、それもひとつのストーリーとしてあってもよいかと思うのですが、大事なことは、そのよにうに感じる自分の特質と言えましょう。

前世で自分がいたのかどうか、そういう事実的・物質的なことよりも、精神的・霊的に同調する何かがあるということで、それが何なのかを思うことのほうだと感じます。

そこにずっと自分が継続してきた魂的な方向性とか、傾向があるかもしれないからです。

また、「愚者」のように旅をすることで、私たちはいろいろなものを目にし、感じます。

しかし、「愚者」が数を持たないように、旅人は、そこの住人でもなく、そこの場所そのものでもありません。

これと同じように、私たちは、何かに縁を感じたり、強く何かに惹かれたりして、自分はこうだとかか、自分はこういうもののために生きているとか思っても、その本質は旅人であり、(自分が思う)それそのものではないのです。

ですが、訪れるもの、感じるもの、惹かれるものが無意味なわけでもありません。

旅を彩り、楽しませるためには、興味を引くものがあったほうがいいわけです。

人生もいわば、旅と言えます。私たちは、肉体と個性を持ち、現実の人生を歩みます。

しかし、旅をしている中で、いつの間にか、旅先やそこて経験するもの自体に囚われ、それそのものだと錯覚してしまうことがあります。

それは、さきほども言ったように、旅を楽しむための装置であり、演出です。

ですから、何かに熱中したり、使命感をもったりすることは、旅(人生)を面白くするためには必要ではあるのですが、それがすべてで、自分をそれそのものだと思ってしまうと、囚われやこだわりになり、自由性を失います。

楽しむための演出だと見れば、人生も、もっと楽になるシーンも出てくるかもしれません。

私は、タロットのコースに参加することで、マルセイユタロットに関わる使命や運命のようなものを感じましたが(しかし、それも帰国してから、タロットを続けて行くことで、より培われたものです)、だからと言って、タロットで縛れていては元も子もないのです。

ほかの皆さんも、何かタロットとは別のものの学びとか技術習得で、思い切った旅をしたことがあるかもしれません。

きっとそれは深い思い出となって、心に刻まれていることでしょうし、中には、仕事や使命として、その学習し経験したことをもとに頑張っていらっしゃる方もいるでしょう。

人生には転機ということで、自分の生き方を大きく変えるタイミングがあります。タロットで言えば「運命の輪」の回転ですね。

ですが、「運命の輪」の動物たちのように、輪の中にいるものと、輪の上にいるものとでは視点が異なります。

輪の中にいる熱中性、当事者意識によって、まるで遊園地にいるかのように、エンターティメント的な要素も働き、また恐怖の乗り物のように怖かったり、つらかったりする時もあるでしょう。

しかし、その輪から出ている視点・存在では、それが演出であることに気づき、幸不幸の事件、どちらてあっても、それそのものではなく、舞台装置(演出・仕掛け)であることが理解できます。

こういった両者の視点で、自分に起こる人生の出来事を見て行けば、空しくなった時は充実性を補い、、やるべきことに疲れたような時、多忙で自分を見失いそうな時には、立ち止まって、客観的に見ることもできます。

人生には意味がなく、また意味があると、両方見ることができるのです。

その使い分けをしていくと、生きるのには楽になりますし、人にアドバイスもしやすくなるでしょう。


マルセイユタロット「手品師」について

マルセイユタロットに「手品師」というカードがあります。

一般的なほかのタロット名では、魔術師と呼ばれることが多いかもしれません。

ウェイト版のタロットでは、明らかに魔術をしているかのような絵柄なので、魔術師と呼ぶ方が適当かもしれません。(そもそも製作者のウェイト氏は魔法団体所属の人です)

マルセイユ版の「手品師」は、例えば、数年前に出版された、著名な映画監督でタロット研究・実践家でもあるアレハンドロ・ホドロフスキー氏の本「タロットの宇宙」では、このカードのことは「大道芸人」と訳されいます。

別にこのカードの人物は、ウェイト版のように、魔術をやっているわけではなく、まさに大道芸人のように、出店で手品という芸を披露しているように見えます。ですから、呼称するには、大道芸人でも、手品師でもよいわけです。

しかしながら、ただ大道芸をやっているだけの人物では、それこそ芸がありません。(笑)

見た目だけのものではない、口伝的内容「手品師」の象徴性にはあるのです。

なにも「手品師」だけに留まらず、ほかのカードたちも同様であるのがマルセイユタロットの特徴です。つまりは見た目や見せかけの意味と、隠された意味とがあるということです。

この裏の意味を知らないと、カードをきちんと扱うことができません。もし表だけだと、それはタロットが普及した一番の意味であるカードゲームとしてか、カードの絵柄に芸術性がある場合に美術鑑賞用のものとしての意味(価値)しか見出せません。

何よりも、そのことを大アルカナの最初のナンバーを持つ「手品師」のカード自身が示しているのです。(大道芸人・手品師の絵柄と道具に隠された意味があること、それらの本当の意味を認識し、使いこないことが暗示されています)

さて、この「手品師」、さきほど述べたように、裏の隠された意味合いなどもあるわけですが、もちろん表・見た目だけからでも出る意味もあります。

この「手品師」は、手品をして観衆からお金をいただくことをしているので、彼にとっては「仕事」をしているとも言えます。

そこで、「仕事」ということが意味としても表されるわけなのですが、タロットは象徴であるので、「意味=カード」という図式が成立するわけではありません。カードから意味が出るのであって、意味をカードにあてはめるわけではないのです。

ですから、たとえ「仕事」という意味や言葉があったとしても、それは「手品師」だけの意味とは限らないのです。

タロット学習において、カードの意味を暗記する人もいますが(それは悪いわけではありませんが)、方向性(「カード→意味」であり、「意味→カード」ではないこと)を間違えないようにしないと、意味を覚えたのに、リーディングできないという事態に陥りますので、タロット学習において注意が必要です。

「手品師」は彼にとっての仕事をしていますが、大規模なビジネスをしているわけではありません。屋台をはって営業している大道芸人ですから、しょせんしれている規模です。

ですが、カードは成長性も示し、特に大アルカナの数が増えるごとに成長していくという考えがあります。そこからすると、「手品師」の彼は、「皇帝」とか「戦車」へと発展していく可能性も秘めているのです。

すると、やがて大きなビジネスに成長していくかもしれず、その可能性は「手品師」にあるかもしれません。

たとえば、今は彼は、道端で手品を披露しているだけの一人の芸人かもしれませんが、やがて経験と年を経て、手品師団体や組織を作り、会社みたいにして、多くの手品師・大道芸人を雇い、経営していくことも予想されます。

若い時だと体も無理がきき、また新しい芸を覚えて披露することも柔軟に、スピーディーにできますが、次第に年を取ってくると、そうもいかなくなってきます。

しかし、経験や知識は増え、直接、体や芸を資本として稼ぐより、違う方法(稼ぎ方)を思いつくようになるでしょう。

そうやってタロットを見ますと、「手品師」のカードの人物はわざと若い人物のように描かれているのがわかりますし、テーブル上の手品道具も種類があり、それらを扱うように用意されているのが見て取れます。

それと同時に、表情はちょと自信なさげでもあり、まだ経験不足のところも見受けられる感じです。

こうして、若さで仕事する特徴が、手品師には描かれているわけです。すると、タロットは見ようによっては、仕事やビジネス、あるいは人生そのものの流れ、成長、発展を、やはり(全体として)表しているのではないかと推測することができます。

「手品師」は、その若さもあり、好奇心旺盛な人とも言えます。新しい道具、ツール、技術にも関心が行き、それを使いこなそうとするでしょう。

現代においても、好奇心旺盛な人は新しいものに目が行き、それを採り入れよう、使ってみようという人が多いですし、そういう人は比較的成功する素養があると言えるかもしれません。

もちろん、なんでもかんでも目新しさに飛びついていては損をしたり、危険な目に遭ったりすることもあるでしょうが、やってみないことには始まらないということもあります。

「愚者」と「手品師」を合わせる(並ぶと)と、まさにベンチャービジネスとか、新しい仕事にチャレンジみたいな意味で見ることができます。

たとえサラリーマン・アルバイト的な人でも、新しい職場に行くとか、転職するとか、新規の気風が漂います。

古いことを守っていくことも大切ですが、仕事・ビジネスというのは、現実の状況(経済情勢・景気・情報等)に多分に関わって来る分野ですので、新しいもの、移り変わる世の中の情勢に関心をもっておくことが成功の鍵でもあるでしょう。

そして「手品師」が道端で実際に芸を披露しているように、現場、実際のフィールドに出ること、そこからの情報と経験を活かすことも示されているように思います。

「手品師」の次の数の「斎王」(一般的には女教皇)は、「手品師」と違い、本を手に取り、静かな環境で控え、勉強しているような雰囲気ですが、まず「手品師」というカードが出ていることは、学びばかりし、引きこもったりしていても始まらず、とにかく一通り覚えたらのなら、世間(実際)に飛び出し、やってみることが大事だと、タロットは言っているようです。

まあ、これは、タロット、特に大アルカナ中心に、数の順に物事や人物が成長、発展していくという前提で見た場合のことです。

これとは違う見方があり、それによれば、まず「手品師」になってみよう、「手品師」のように行動することが一番、というわけではなくなります。

人には得意不得意、向き不向き、言わば個性があり、「手品師」や「愚者」のような人もいれは、「斎王」や「隠者」のような、保守的で慎重な人もいます。

いわゆる経済的な成功分野は、現実としての経済(お金の世界)が重要で、それは数値で計れて、ある程度の成功法則があると言え、理論・良質な(あるいは斬新な)情報・アイデアとともに、実践・行動、そしてそこから得られた結果とその修正、再チャレンジというサイクルの、特にスピードと行動性が重要視されます。

しかし、人は経済や物質だけで生きる存在ではありません。

価値と目的が変われば、目指すもの、過程も変わってきます。

本質的には、どの分野であれ、実は同じ要素や順序、法則のようなものがあると考えられますが、目的・レベルによっては、入れ替えとか、ルート、表現が違ってくる場合もあります。

「手品師」が仕事をしているというのなら、現代的にいえば、仕事をして経済的糧を得て、人生のある程度の安定を得るか、さらなる(経済的)発展・成功を目指す人となるでしょうが、最初にも述べたように、「手品師」(その他のカードも含めて)には裏の意味もあるわけです。

それを見れば、「手品師」が行うこと、学ぶこと、主題は別にあると言えます。

それは実際の年齢とは関係なく、あなたが年を取っていたとしても、今から「手品師」としてスタートすることもできるのです。ここにおいては、若さの絵は完全に象徴化されます。

または、すでに「手品師」の意味すものをやっていたことに気付く段階があるかもしれません。

「手品師」は「」という数を持ち、この数は、大アルカナにおいて、ほかに「11」の「力」、「21」の「世界」と続きます。それらのカードには共通した象徴・シンボルが描かれています。

またローマ数字においても象徴性があり、ローマ数字の1を持つ数も、関係します。

そのようなことで、あなたが、どのタイプの「手品師」になるのか、あるいは、どのタイプの「手品師」の学び・実践が必要とされ、自分の傾向としてある(合う)のか、それはまた、「手品師」のカードと会話することで現れてくるのです。すべてはカードの絵柄に描かれているのです。


「世界」と、私たちの構成とのシンクロ

この世の中は理不尽なものです。

しかし、多くの人が、公平な社会になるよう尽力し、運動しています。それには敬意を表しますし、人類の歴史は、ある意味、矛盾さ、理不尽さをなるべく解消し、真の公平な世界になるよう努力してきたとも言えます。

おそらく、スピリチュアル的な意味では、もともと人は本当の意味で(完全に)公平で平等であると考えられます。それはもう、私たちの思う「人」ではないのかもしれまず、すなわち、神、神性と呼ぶ概念のようなものと言えそうです。

それを私たちは、どこかに記憶しているのでしょう。だからこそ、それ(真の状態)を目指して(モデル・イデアとして)、世界をよくしようと頑張るのだと思います。

もし、最初からすべてが公平で、何の理不尽さもない完璧な状態だったら、それは停止と同じであり、何もしなくてもいいので、それでは宇宙の拡大・発展(というより、バラエティさの実感)には足りないのかもしれません。

ゆえに、私たちは、不公平ともいえる現実の世界に、皆、人として生まれてくるとも考えられます。

マルセイユタロットを見てますと、タロット(カードの象徴)は、実はその現実世界の色々さ(いい・悪いの両面)を示していて、同時に、そこを超える何かも表していると見ることができます。

おかしな話に聞こえるかもしれませんが、タロットは本当は意味のないものであり、タロットから離れることこそが、真の世界・状態への回帰になるのだと、以前に気づくことがありました。

しかしながら、私たちの意識が人である限り、タロットは逆に大いに意味あるものとなるのです。

従って、現実世界でタロットを学び、タロットの示唆や象徴を活用していくことは、無意味どころか、原点(宗教的な言い方をすれば天国)に戻る有用な地図みたいなものとなるわけです。

ところで、マルセイユタロットに流れる思想に「グノーシス」というものがありますが、それによれば、人間は大きく分けると、三つの部分によって成り立っていると考えられています。

スピリチュアル的な見方においても、人間は見えない体と言いますか、エネルギーのようなもので示され、それによると数種類の部分(性質)でできていると言われています。

まあ、普通の人には肉体部分しか見えず、常識的に、それが人間のすべてだと思っている人が多いわけですが、ただ、一般的にも、心の部分は肉体とは別にある(肉体の中にあっても肉体そのもとは違う)と思われていますよね。

ともあれ、そういういくつかの部分・性質のうち、一番崇高ともいえる「霊性」の部分が人にはあると言われます。

それは他の肉体とか、心とか(霊性は心や感情とかとは別だとみなされています)とは違い、なかなかわかりづらく、感じることもできにくいのですが、誰にでもあり、いわば神とダイレクトにつながっている部分と言えます。

コンピューター的例えであえてすると、メイン(神・大元)につながる端末(人の中の霊)でありつつ、メインとシンクロし、データの共有ができ、時に入れ替え可能なものと言えるかもしれません。

しかし、通常、なかなか人はその端末(霊性)を意識することができにくいということでしょう。また、普通はスイッチが入らない(オフにさせられている)と言い換えてもいいかもしれません。

それで、現実生活においては、ほかの性質・部分が支配し、つまりは意識の中心として働くようになっていると考えられます。

まさに、霊以外の部分たちに動かされる毎日と言ってもいいかもしれません。

ここで、量・パーセンテージで見れば、(霊ではない)他の部分のほうが多いわけなので、私たちの通常意識では、量が多いほうが圧倒すると思う傾向がありますから、そちら(霊以外の部分)が優れている、よい状態と錯覚するわけです。

しかし、エネルギーの「」として、もし見ることができれば、量は少なくても強いパワー、影響力があるとわかる場合もあります。

翻って、私たちの現実生活では、質で見ることは意外に少ないことに気がつきます。

特に経済では、端的にお金・利益がたくさんあるほうが勝ちみたいになっています。

勝ち組・負け組的ニュアンスも、まさに持てるものが勝ち、持てないものが負けみたいなところがあります。

その大きな要因は社会の仕組みにあるのですが、スピリチュアル的に見た人間の構造から考えると、人間の中で多くの部分を占めてしまうものに私たちは支配されがちなので、自ずと、物事の見方・価値観も、多いほうの勝ちとなってしまうのではないでしょうか。

もし少ないパーセンテージでも、極めて良質ともいえる人の中の部分を、各々が認識することができるようになれば、その本当の力に気づき、ただ多いだけが支配したり、よいとみなされたりするわけではない、質で見る価値が浮上してくると思えます。

ほとんどは、量的な領域・部分で動かされているからこそ、私たちは、理不尽ともいえる世界を作ってしまっていると言えます。

そう、世界(外側の状態やシステム)が私たちを規定しているのではなく、私たち自身の人としての構造を量的に感じてしまっている(価値を置いてしまっている)から、世界をそのような価値観で見て、それに準じる社会を作り上げてしまうのだということです。

スピリチュアル・心理系ではよく言われる、私(自分)が世界を創造しているという意味にも近くなってきます。

最初にも述べたように、私たちは、もともとは神として、完全で平等で公平な、理屈の通る世界を知っていて、それがために、世界の改革・発展を望むと考えられるわけですが、その記憶を忘却させられ、ただ多いほうの部分で動かされるロボットのような存在になると、ますます矛盾や、一部の者が得をする世界を生み出していく(保持していく)ことになるのです。

ですから、普段からロボット化されないように、霊的記憶へのアクセスを思い、崇高で純粋な、いわば魂の世界にリンクさせていく必要があると考えられます。

その鍵が、量だけの世界に毒されるのではなく、質を見極める観点です。

多数決は民主主義の原理として働きますが、必ずしも、多数がよいというわけではないのです。

少数派にいても、負け組と言われる者であっても、そこにいるのは、実は、少ないながらも良質なものを思い出し、指向している存在なのかもしれません。

多数にある悪魔性に気づき、少数と言いますか、個であっても、その中の輝きを発見することです。もちろん少ないからいいというわけでもなく、量が必要なこともありますが、重要なのは質・本質です。

一見、量的には少なくとも、実は大きな力と真なる世界とのつながりを導く人の中にあるそれは、マルセイユタロットの中に描かれているものでもあります。

現実(現境や今の社会システムの中での暮らし、個人の人生)をよくする観点も大切ですが、それを超えた世界、自分自身が真に記憶している大元の世界への変質・回帰を意識することが、量から質へと変換する、ある種、錬金術的な世界変容とへとつながるのだと、マルセイユタロットを見ていて思うものです。

やはり、私たち自身が高次になること(レベルアップ・価値観の変容・アセンション)が、世界や社会を、より平和で公平なものへと変えるのだとわかります。


タロットとの縁、双方の小宇宙。

タロットと関係する人というのは、最初からカードとかタロットが好きで、当然のようにタロットを手にする人もいれば、タロットなどまったく興味はなかったのに、ふとしたつながりで、偶然のようにタロットと関わるようになったという方もいらっしゃるでしょう。

私は完全に後者です。

そして、ことマルセイユタロットで言えば、前者の人もおられますが、そして統計を取ったわけではないのですが、どこか、感覚的には後者、つまり、タロットに最初興味はなかったけれど、偶然のような必然で関係するようになったという方が多い気がします。

私は、マルセイユタロットを学び扱うようになって、より思うのですが、物事は双方向(時には多方向)から見ないと本質はつかめないと考えるようになりました。

そこからしますと、タロットとの縁も、自分からつなぐ縁と同時に、タロットからつなげられる縁もあると感じます。

前々から言っておりますように、自分がタロットを選んでいるようでいて、実はタロットから選ばれているところもあるのだと。

これは、タロットだけではなく、人やモノ、あらゆる事象との出会い、縁でも言えることかもしれません。

自分はあの人を選んだ、あの学びを選択したと思っていても、向こうのほうがあなたを選んだのかもしれないのです。

そして、その双方向の働きと言いますか、複合的な作用、化学反応にも似た状態によって、両者の関係による体験、事件、事柄、意味合いが生まれてきます。

これは両者によってできあがったものなので、決して一人だけでは誕生しなかったものです。その意味では、あらゆる関係は「結婚」という象徴で言い換えることができます。誰もが、いろいろな結婚を体験しているのです。

しかし、両者によって生まれたものであっても、それぞれの見方、認識は異なることもあるでしょう。人との出会い、関係性はこの意味が強いです。

それでも、同じ時空と言いますか、関係性でできた小宇宙とでも言える中に両者はいるのです。思えば、この小宇宙が、山のように世の中にはあるのだと想像します。

この両者の共同作業によって生まれる経験や時空は特殊であり、まさに双方によってできあがるものなので、両者の関係性のエネルギーによって、様々な状況を見せることもあるわけです。

例えば、あの人のおかげで自分は救われたとか、その逆の場合もあるでしょう。

まさに、小宇宙の中の色とりどりの星々の動きみたいな感じです。

片方の自分からだけの視点では、「自分がなになにをした」とか、時には傲慢に「自分がなになにをしてあげた」と思うこともあるかもしれません。

しかし、双方の関係性から見ると、その反対の解釈にもなるわけです。それこそ、自分こそ、「してもらった」とか、「させられた」ということにもなるのです。

よく、失ってはじめて本当の大切さ、本当の意味を知った」と言われますが、双方の関係性で生まれていた小宇宙が壊れる時、つまり、別れとか新しいものとの関係性に移る時、今までの双方によってできあがっていた小宇宙で体験した貴重な経験性を知ることになります。

すると、自分の主体性・能動性は、客観性・受動性として認識され、その逆もあり、自分が受け身であったと思っていたことは、実は自分が引き起こしていたと、その能動性・主体性(よい意味でも悪い意味でも)に気がつきます。

私自身も、その昔、ある人にいろいろ与えていたと思っていたものが、別れた時に、実は、自分のほうがたくさん与えられていたのだと気づくことがありました。

また、自分があの人を見出したのだと思っていたら、反対に、「私(相手)があなた(自分)を見つけたから、あなたが私を選んだのです」という意味合いのことを言われて、なるほどと感心したこともありました。

すべての関係性は(人とだけではなく)、こう考えると、意味があると思えます。

それは自分だけの意味もあれば、向こう側からの意味もあるでしょうが、双方の出会い・関係性においては、小宇宙としての特別な時空を経験する、第三者的意味合い(それは両者を超える高次の視点ともいえます)が、もっとも双方において必要とれさる「本質」なのかもしれません。

タロットにおいても同様なのです。

あなたがタロットに出会った意味もありますし、タロット側からあなたを選んだ意味もきっとあるでしょう。

そして、世の中に、数えきれないほどたくさんの種類のタロットがあるのに、わざわざそのタロット(例えばマルセイユタロット)と出会い、ツールや学びの資本として選んだのも、やはり意味が(双方向的に)あるのです。

ところで、この記事を書いていて、マルセイユタロットで、ふと浮かんできたもの(カード)があります。

それは、「恋人」「運命の輪」、そして「神の家」です。ちなみに、これらの数は「(恋人)」「10(運命の輪)」「16(神の家)」です。

6+10=16ということで、まるで三枚が複合して「縁」というものが回転したり、出来上がっり、選ばれたりするのだとも感じます。

もし、あなたにマルセイユタロットの縁があるのなら(そう感じ、思うのなら)、自ら動くのと同時に、すでに向こう側からは働きかけがあり、両者の邂逅を待っている、言わば第三の視点の存在のようなものもいる(見ている、設定している)のかもしれませんね。

もちろん、ほかのタロットとの縁の人もいれば、そもそもタロットには縁のない人もいるでしょう。

しかし、すでにあなたがこのブログにたどり着いたということは、タロットとの何らかの縁は生じている可能性があります。たまたまであっても、タロットと一瞬でも関わる何かがあるのでしょう。

一瞬であっても、あなたとタロットの間に小宇宙は築かれたわけで、言ってみれば、そこへの小旅行を体験しています。旅行なので、楽しまれるとよいでしょう。


タロットグループにおける利点

かつて、カモワンタロットを日本で学ぶ場所(学校)として、国際タロット学院→タロット大学という機関がありました。

私もここの出身です。

ここ(その時代)での思い出話は、それこそ山のようにあるのですが(笑)、それはまあ、いいとしまして、今日は話したいのは、学びのグループについてです。

タロット大学(時代)では、東京を本部にして、仙台、名古屋、大阪、福岡という各都市を拠点とし、時折、講師陣が出張して、その他の都市などで講座を開催するようなこともありました。

そして、この拠点となっていたところには、自然発生的に、タロットの学習グループが存在していました。

私は関西・大阪でのグループの創成メンバーの一人でした。

私は当時、とてもカモワンタロットの学びと実践が好きでしたので、夢としては、大阪だけではなく、各都市のグループ同士とも交流して研鑽し、学びや技量も高め合いたいと考えていました。

実際、少しずつ、その機運も高まって来て、別都市グループとの合同勉強会なども実現できそうな雰囲気にもなってきていました。

しかしながら、事情をご存じの方がいらっしゃるとは思いますが、タロット大学とカモワンスクールの分離問題が起き、こういったカモワンタロットをメインとする学びのグループは自然消滅か、形を変えていくようなことになりました。

ちなみに、関西・大阪でのグループは、少し変化はしましたが、いまだ大元のグループは健在しており、毎月、大阪でカモワンタロット、及び、マルセイユタロットのリーディング勉強会を開催しています。(私はほとんど行けておりませんが・・・メンバーとの交流は続いています)

おそらく初期のコアの形のまま、今も継続しているのは、たぶん関西・大阪グループだけではないかと思います。

こうしたグループを作り、参加活動してきた感想としては、やはり、よかった面がたくさんあるなということです。

そもそも、私は動きが早いほうではありません。

これまで、いろいろな講座に参加し、学びを深めてはきましたが、特にビジネス系においては、言われたこと、学んだことを素直に実行に移す、シンプルな動きの早さ(実行力)が要求されます。

正直、成功哲学の王道(黄金)ルールのひとつとして、とにかく学びを素早く実行する(そして検証・改善し、再実行していく)ことが言えると思います。こういうことができる人が(いわる一般的に言われる)成功の可能性が大いにあるわけです。

私はこういうタイプではないので、学びはしても、いろいろと考えてしまい、結局、動かないままということもよくありました。(苦笑) まあ、今ではそれも個性として受け入れています。(甘んじるというのとは違いますが)

しかし、タロットの場合は違いました。講座後のグループ創設、グループの中での様々な作業など、自ら買って出ることが多く、それは苦にならずに、むしろ楽しいものでした。

ですから本当の意味で、自分が興味や関心を持ち、価値を感じているものならば(必要・不必要とか、成長のためかどうかとか、そういう観点ではないものです)、普段動かなくても、時に早く動いて活発になる(こともある)のだということです。

逆に言うと、それだけ自分を動かすものこそ、自分にとって大事なもの(になるの)だと言えましょう。

こうした(自分が積極的に)学習グループを作るというのも、そういう現れの可能性があります。

ただ、情熱は冷めるものでもあります。何かの学習グループを創設したメンバーであっても、やがては離れ、その学びさえ飽きたり、否定したりする人もいます。

タロットの4組的には、「杖」が火であり、情熱や行動を象徴し、最初はこういう着火により、行動して発展していきますが、それだけでは、やがて火も消えていきます。

ですから、他の要素、「剣」・「杯」・「玉」も継続や存続、変化には必要素となります。

例えば、杯(水)の潤いや感情としては、メンバー同士の学び以外の交流(食事会とか飲み会とか)、玉(土)として会費の徴収、それによる運営、剣(風)として、学習自体の研鑽、理念や組織の方向性・まとめを決めていくことなどがあるでしょう。

関西・大阪のグループがいまだに存続しているのも、実は「杯」の部分が大きいのではないかと思います。(必ず、勉強会のあとには食事会を開いているようです)

さて、タロットの学習グループにおいては、面白いことがよく起こります。

私自身の講座の生徒さんにもグループはあり、卒業後は、アフターファーローも含めて、その学習グループに、希望者は入っていただくようにしています。

そこでリーディングの討議などが、よく起こります。(私自身が課題としてネタを提供することもあります)

すると、当然ながら、様々な見方や意見が出ます。これは、別にタロットグループに限らず、どの分野でも起こることでしょう。

しかしタロットで面白いのは、見えない流域の働き(接触)があることで、カードの絵柄の象徴性により、言わば、グループの参加者の潜在意識下において、ある種のデータ共有化が起こり、課題の展開(出たタロットカード)において、一人一人、自分に関係した問題性を認識したり、まるで集合知のような形で、一人や二人程度では出なかったアイデアや読み方などが登場してくるのです。

そして、タロットの学習グループなので、参加者は、皆、タロットを知っていますから、よりカードの印象も残ります。

たとえ残らなくても、無意識下において、刻み込まれているとも考えられます。

そのことが、たとえ他人の問題と、それに対するリーディングであっても、自分の中でつながるものができ、言わば、知らず知らず、自分の問題性とも向き合っていることになり、また解決に向けたことも、自然になされているというわけなのです。

まさに集合的な作用が働くと言った感じです。

実は、学習グループだけではなく、こういったことは、体験会などでも経験しています。

マルセイユタロットの体験会もオンラインで今後開催する予定ですが、今度はこの集合的作用に力を入れた体験会、いわばリーディング中心の体験会を行ってみようと考えています。

私がリーディングするだけではなく、参加者の方に、タロットのことは知らなくても、直感とかご自分の経験から、他の方の問題や望みに対して、何らかの感想とか意見を述べてもらうというようなイメージです。

マルセイユタロットの場合、カードの絵柄自体はシンプルなものですので、意味がわからなくても、なんとなくこういう雰囲気であるとか、このような感じという印象は、誰でも持てるように設計されています。

ですから、カードの意味をまったく知らなくても、体験会の場合はいいのです。

よく言われるように、他者は自分の鏡のようなものです。他者のことでも、自分に関係しているということがわかれば、タロットリーディングが立体的で多角的、双方向性的なものであるのがわかるでしょう。

とにかく、この現実世界は、一人だけで成立しているものではなく、また、一人一人、個性を持つ世界です。

ですから、一人で解決できないことは意外に多いのです。

そう考えると、この世を生きる術のひとつとしては、他者と交流し、自分を調整したり、癒したり、高めたりすればよいわけです。

つまりは自分一人でもんもんと考えているより、ほかの人とか外部からの意見を入れたほうがよいということです。(いつもいつもというわけではないですが)

一言でいえば、助け合いが鍵になるのです。


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