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高齢者の運転問題

最近、法改正されたように、高齢者の自動車運転免許の問題が再び、社会的にクローズアップされています。

実は、私の父もこの問題に直面している一人です。

父はすでに認知症と診断されたので、免許は取り消しか自主返納するしかないのですが、それまでは、車の運転には当人は自信を持ち、一生運転すると言って、家族からの返納の申し出も、まったく聞かない状態でした。

しかし、事故を起こしたことで、警察が入り、状況が変わりました。

今はようやく、なんとか車も売却し、物理的にも免許的にも運転できないことになって、少しずつ、父も理解しはじめているところです。

とは言え、認知症なので、なぜ自分が運転できなくなったのか、そのこと自体を毎日のように忘れるので、再び説明して、納得してもらわねばならないという苦労がつきまといます。

いろいろと調べますと、もっと大変な状態の親御さんもたくさんいらっしゃるようで、運転をやめさせるための、ご家族の労苦が偲ばれます。

実際、高齢者の運転問題については、当人にやめさせればいいとか、強制的に法で支配すればいいという、単純な話だけでは解決できないと考えられます。

言ってみれば、マルセイユタロットでは「戦車」の象徴性に関係する話です。

マルセイユタロットの「戦車」は、馬の乗り物(馬車)なので、現代的に解釈すると「車」とも言え、まさしく車の問題とリンクします。

次に、タロットの「戦車」は、ふたつのものという象徴がいくつか見受けられます。

特徴的なのは、二頭の馬、台についている両輪、「戦車」の人物の肩にあるふたつの顔と言ったところでしょうか。

そして、高齢者の運転問題に戻りますと、これは高齢者自身の自覚とか行動だけでは、とうてい解決できない問題と言えます。

確かに、年を取りますと誰しも、運動能力、判断力、記憶力、空間認知能力、反応速度等、車の運転に必要な能力が衰えてきます。ましてや、認知症を発症する(した)ような方ならなおさらで、運転うんぬんの以前の問題です。

そう考えますと、高齢者当人の能力的な問題(衰え、病)によって、運転しないように持って行くのは、ある意味、社会的には必然と言えます。

しかし、車がないと生活できない地域にお住まいとか、仕事で必需という人もおられます。さらに、高齢者であるからこそ、若い時のように簡単に歩いたり、他の交通機関で移動したりはできにくいのです。

体が言うことを聞かなくなってきますから、簡単に楽に移動したいのが高齢者なのです。そういう移動手段の問題が、高齢者にはあります。

ということは、当人自身の判断の問題だけではなく、社会的・物理的な移動の問題性も一緒になって解決していかないと、なかなか自主的に免許を返納したり、運転をやめようという気になったりはしにくいということです。

まさにこれが「戦車」の両輪とか、ふたつの顔みたいなものです。

加えて、別のふたつの観点を持てば。車の運転に関しても、高齢者(高齢者に限らずですが)の物質性と精神性のふたつの問題があげられます。

物質的なほうは、移動手段としての問題、精神性のほうは、楽しみとか生きがいとしての問題です。

特に後者の、精神性については、あまり言及されません。

すなわち、人はただ移動のためだけに車に乗っているのではないということです。

高齢者の中でも、田舎などに住んでいるので、移動手段として車は必須で、乗り続けるしかないという人がいる一方、都会においては、代理手段があるはずなのに、それでも運転をやめない人がいます。

後者の人は、当人とって、まさに車(に乗ること)が生きがいであり、車を運転している自分が健康で社会的であることの証明と、衰えてない自分への自負となっているのです。

こういう高齢者から車を取り上げると、認知症でなかった人でも認知症になってしまうなどの危険性があるようです。

それは、上記のように、やはり、車が当人の精神性の健康増進、生きる意欲に結びついているからだと考えられます。私の父など、まさにこのタイプと言えました。

ということで、高齢者の車の運転問題については、「戦車」ではありませんが、両輪、ふたつの顔の観点から少なくとも考えないと、なかなか解決の方向に行かないと思います。

そして、本当は、車自体が生きがいという人は少数で、車を運転して向かう先のもの(移動しての先にあるもの)が、本当の当人の生きがい(趣味の場所とか、人間関係など)であるケース、あるいは運転していることへの自己評価、自信(誤解ではあるのですが)などがあると推察されます。

さにに言えば、昔は宗教(お寺など)と地域で補完しあっていた高齢(衰えや死)への準備と言いますか、精神的な助けとか備えがあったところに、現代はそういった機能がほぼなくなり、一人一人孤独であったり、せいぜい身内による関わりくらいであったりという状況が多くなってきたことも、遠因としてあると思います。

年を取ると、できなくなることが多くなるのが当然ですが、それが忘れられ、現代の便利なモノの生活に慣れて、高齢者が心身の状態の変化を(病気以外で)認識することが、少なくなっているという事態です。

まあ、昔は、心身が衰える前に、亡くなる人が大半でしたので、問題が起きる前に済んでいたという実情もあるでしょう。

けれども今では、医学や便利な道具の発達とともに、逆に問題があとになって起きることになって、社会問題化していると想像できます。

高齢者の運転問題の解決に向けては、なかなか難しいですが、これまで述べたことを整理しますと、

●運動性、認知性、判断性などの検査問題(一斉的なチェックの設定、年齢制限等)

●移動性の問題(気軽かつ、簡単、経済的にも負担にならない交通手段の確保)

●精神性、生きがいの問題(車以外の楽しさ、車で移動しなくても生きがいの持てる生活)

●準備性の問題(体力や機能の衰え、欠落してくことへの備え、車が運転できない生活へのイメージと備え)

を検討していくことが必要かと、「戦車」的に思います。

少子高齢化と言われる現代、車の運転問題だけではなく、これから様々なことが表面化してくるでしょう。

何事も、自分自身が当事者にならないと、現実感が出ないかもしれませんが、問題の直面性というのはそういうものであり、当事者以外は他人事です。

また別の機会に書きますが、それでもいいのです。

経験する当事者の問題性が、ひとつのデータとか社会への提議になり、仮に自分がその問題と向き合うようになった場合には、当事者の方の経験とデータが役に立つからです。

やはり、時代は助け合い、マルセイユタロットでは「節制」に象徴される世界に移行することが大事だと思います。


自分の支配とコントロール、「力」のカードから。

私たち自身の存在について考えてみますと、面白いことがわかります。

まず、一人一人、自分がいる(一人の自分として存在している)と誰しも思っているでしょう。(仮想現実とか、スピリチュアル的な話とか用いだしますと、存在も幻という話もありますが)

次に、言わば、「役割」や「関係性」として見ますと、必ずしも一人の自分という存在とは限らないということにも気がつきます。

つまり、自分にもいろいろな顔があるということです。換言すれば、たくさんのパーソナリティを持ち、自分は複数いる(存在している)とも言えるわけです。

一人なのに複数、複数なのに一人という奇妙な存在性です。(笑)

まあですが、本質と仮のようなことで考えれば、常識的にも理解はできます。

今日は、その本質と仮の違いとは何かとか、本質の自分とは?みたいな話ではありません。(苦笑) それはそれで興味深いテーマなのですが、それは別の機会にするとします。

本日は「仮」のほうがテーマと言え、それは関係性、タロットカードで言えば「力」にまつわる話です。

マルセイユタロットの「力」のカードの図像を見てみますと、ライオンを女性が制御している姿があります。

女性が大人の雄ライオン(たてがみがありますので)を生身で抑えているとは、すごいですね。

もちろん、ライオンや女性には、特別な象徴性の意味があり、単に女の人とか動物のライオンそのままを示しているのではありません。

例えば、タロットを知らない人でも、ライオンというものが、なにがしかの象徴性や意味合いを持っていることは、古代の文化とか伝統性などで知っている方もいるでしょう。

ですが、そういうことは自分で調べるとか、講座を受講するなどで学んでいただければよいです。

今回は、見たままから推察される、この女性とライオンの関係性を敷衍して、自分と他者(あるいは物事)との関係を考えたいというわけです。

ライオンが女性の支配下に治まっているのは、女性の力のほうが明らかに上であるか、何かのコツをつかんでいるかで、いずれにしも、ライオンは女性にはかなわない、または抵抗できないという、上下、力関係みたいなものを自覚していることになります。

飼い主とペットという関係性にも似ているかもしれません。絵柄的にサーカスの猛獣使いのようにも見えますね。(余談ですが、ホドロフスキー監督ではありませんが、サーカスの芸とか表現は、結構マルセイユタロットのものと似ているところがあるように思います、逆を言えば、サーカスは西洋的な人間模様の元型があるとも言えます)

もし、ライオンが、女性には力がない、抵抗可能と思えば、たちまちのうちに女性はやられてしまうかもしれません。

ということは、女性は意識的か、無意志的にも、ある「力」をライオンに示す必要性があるのです。

その「力」とは、いろいろな解釈ができ、本来はフランス語では「フォルス」、英語では「フォース」と呼ばれる、映画「スターウォーズ」でもおなじみの、宇宙的で、かつ、人に内在する力とも言えます。

ですが、ここでは、単純に意思とか、実際的な力になるものと見ます。“実際的な”というのは、体力とか、能力とか知力とか経済力とか、およそ“人の力”になるものです。

ただ、大事なのは、そういう物理的な目に見えるものより、最初にあげた「意思」の力ではないでしょうか。

ともあれ、女性のように、ライオンのような強いもの、侵入をしてくるもの、つまりは自分の権利やテリトリーを侵してくるものに対して、抵抗する姿勢とか、物理的な力とか、何よりも強い意思が必要だということなのです。

他者軸で生きてしまう人は、言ってみれば、ライオンに支配されてしまうようなタイプです。

実はそのほうが楽なこともあるのです。

しかしそれは、「力」のカードで言えば、「自分は、か弱き“女性”なので、“ライオン”君に任せておけばよいし、そもそもライオン君に抵抗する力もない弱い人間です」と表現しているようなものです。

(八方美人的に)優しくしていればすべて丸く収まる、あるいは、問題に対処せず、じっと耐えていることで過ぎ去る、みたいな態度を続けていると、一時的にはよくても、結局、どんどん弱みにつけ込まれ、ライオンは狂暴さを増し、自分のテリトリーに侵入してきます。ひどい時には、自分だけではなく、自分以外の大切な人・モノまで、食われることになります。

自分(と大切なもの)を愛し、守るためには、力の女性のように強くあらねばなりません。

いや、強くなくても、自分の領域が侵されないよう、自分自身がコントロールすることが重要なのです。このことが、今日のもっとも言いたいことです。

だから、繰り返しますが、自分が強くあろうと頑張る必要はありません。大切なのは、自分自身がコントロールする意思と実行性を持つということです。

相手や外側(ライオン)に支配の実行性を持たせるのではなく、できる範囲で、なるべく自分の意思と判断で決定や取り消しなどができる状態を作るわけです。

簡単に言えば、物事の主体は自分にする、自分の力を取り戻すということです。

私たちは、意外に外部に決定権を委ねてしまっている場合が結構あります。

もちろん、仕事などで、どうしても自分だけでは決められないこともありますし、最初の話に戻りますと、世の中にいる自分(パーソナリティ・仮の自分)というものは、他者との関係性でできいますので、相手あってのものであることもわかります。

それでも、相手あってのものだからこそ、力と決定権を相手(外)に全面的に渡すのではなく、自分自身で行えるように取り戻す(コントロールする)ことが大事です。

相手ではなく、自分がコントロールするのだと決めると、力関係が次第に実質的にも変わってきます。

恋愛でも、「自分のコントロール」ということを意識すると、相手に振り回されにくくなります。(まあ、惚れたものが負けと言われているように、好きの比重によって、関係性が決まってしまうこともありますが、その中でも、相手任せにしないことを少しでも心がけ、実行することがポイントです)

なお、マルセイユタロットでは、「力」のカードは11で、次の12は「吊るし」「名前のない13」と続きます。ここからすれば、関係性において、どうしようもなくなった時は、ペンド(吊るし・保留状態)と、最後は「13」として、覚悟して割り切り、切り離す(断ち切る)こともありだと言えます。要は捨てる、逃げるということです。

ライオンを、いつまでもかわいいとか、私を守ってくれるものとか、逆に、私に危害を加える、逃げられない怖いものと見てしまっては、関係性が悪い意味で癒着し、悪い状態で固定してしまうことにもなりかねません。

だから、自分のコントロールができないとなれば、最後はとにかく逃げて、関係性自体を捨てることも考えたほうがいいです。

タロットでは、名前のない「13」のあとは、救済を意味する14の「節制」が待っているのですから。

私たちの苦しむ原因のひとつは、自分の力を必要以上に外に明け渡していることにあり、そのまた反対に、全部自分で何とかできる、何とかしなければならないと過剰に思いこんでいることにあります。

本質は変わらないにしても、人との関係性で形成されるパーソナリティ(役割)は仮のものですし、自分で変えることができます。

そこに「愚者」的な自由性がある(どんな数になることもでき、どの数でもない)と見ることで、もっと楽になれるはずなのです。


タロット観、前提として理解するもの。

マルセイユタロットの中でも、日本ではカモワンタロットという名前で、フィリップ・カモワン氏とアレハンドロ・ホドロフスキー氏が共同で製作したタロットがあります。

私も、もともとはカモワンタロットから入った口ですし、一番よく使用しているカードも、いまもってそのホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット(通称カモワンタロット、現在入手困難)です。

カモワンタロット自体はひとつでも、製作者のお二人の考えはいろいろと異なるところがあるように思います。

ですから、厳密には、同じタロットを使っても、カモワン流とホドロフスキー流とがあり、さらには、カモワンタロットを使う方でも、この両者とはかけ離れた流儀や方法をもってされている人もいます。

しかしながら、それぞれの思想や技法を混同してしまっては、まさに混乱を来すばかりなのです。

それでも「違い」を知る人は実際には少ないですし、カモワン流はカモワンスクールが日本でもありますが、ホドロフスキー流の場合、正式なスクールのようなものは日本にはないと思われますので、ホドロフスキー流技術を日本で駆使されている方は見つけにくいと言えます。

また、技術の前に、思想や考え方、タロットに対する思いのようなものが各人あります。

そのタロットの技術を理解し、使いこなすためには、考え方を知る前提がいるわけです。でないと「仏作って魂入れず」ではありませんが、タロットも技術も活きないと思います。

まあ、そのことは、製作者の思いだけに関わらず、そもそも、あるタロットを活用していくのなら、そのタロットに流れる思想や歴史なども知っておいたほうが、はるかに「魂」が入り、使い方の質が違ってくると考えられます。

人間と同じで、ただの他人だと思っていた人も、その人の背景・内情を詳しく知れば他人事ではなくなり、特別な存在と見ることができるように、です。

一方で、あまり技法にこだわり過ぎるのも考えもので、結局のところ、大きな括りとして「マルセイユタロット」とすれば、自分の目的にかなうならば、誰のどの技術・考えを使ってもOKだという、柔軟な姿勢も大事かと思います。

とはいえ、まったくの無知では、柔軟性を出そうにも、そもそもがよくわからないので、いい(柔軟性ある)選択ができないと言えます。

ですから、やはり最低限の知識はつけておいたほうがいいですし、できれば、学びのうえでも、知識的な分野を多く身に着けたほうが、タロットの扱いに長けることになるでしょう。

言い換えれば、直感だけのタロット活用というものは、しょせん半分(一部だけ)のアプローチに過ぎないということです。(逆も言え、知識ばかりで直感性を無視するのも問題です)

さて、カモワンタロットの製作者のお二人、カモワン氏とホドロフスキー氏のタロットについて、カモワン流では「秘伝カモワン・タロット」という本と、ホドロフスキー流では「タロットの宇宙」という本が、日本で出版されています。(絶版や入手困難にはなっていますが)

残念ながら、本格的で大著である「タロットの宇宙」に比べて、ややライトで入門書的な「秘伝カモワン・タロット」とでは、質の違いが顕著です。(カモワン流が劣っていると言っているのではありません)

しかも、「秘伝カモワン・タロット」の本では、重要で肝心なことがあえて省かれており、説明がないとわからない部分も結構あります。それでも今や、古本でも、とても高額な扱いになっているようですね。

「秘伝カモワン・タロット」の最大の欠落だと私が思うのは、「タロットマンダラ」という、大アルカナのある構図、並べ方説明がないところでしょう。もちろんこれは、ある理由で、わざとだと考えられます。(ちなみにカモワン氏のホームページには「タロットマンダラ」は掲載されています)

一方、ホドロフスキー氏の「タロットの宇宙」には、私自身「風車マンダラ」と名付けている(笑)、タロット78枚による立体的な構図が掲げられています。(スワスティカマンダラとも呼ばれます)

さらに、大アルカナにおいては、両端に「愚者」と「世界」を置き、11から20(「力」から「審判」)と1から10(「手品師」から「運命の輪」)の10枚ずつを、上下二段組にした図も載せられています。

大アルカナにおいて、カモワン氏は「愚者」を当事者・修行者(旅人)として置き、ほかの21枚のカードを、3段×7列に置く「タロットマンダラ(カモワン氏談)」を思想の中心にしています。

そしてホドロフスキー氏は、先述したように、10枚ずつ二段組(下段が11から20、上段が1から10)と「愚者」と「世界」を両端に置く図を示しています。

両者では明らかに、基本とする(大アルカナの)構造図が違うわけです。

もっとも、カモワン氏も、ホドロフスキー氏のような、10枚ずつの二段組を使いますが、これは一見同じように見えて、実はホドロフスキー氏のものとは異なり、10枚ずつの組の上下段が入れ替わっています。(ホドロフスキー氏にもカモワン氏にも、その並べ方には理由があってのことです)

言ってみれば、同じ世界や宇宙を見ていても、その人の見方・とらえ方・分け方があり、カモワン氏とホドロフスキー氏とでは、同じタロットを使っていても、そこは違っているのだということが明確にわかるわけです。

すなわち、その違いこそが、タロット観の違いです。

先にも言ったように、究極的にはマルセイユタロットの表す(象徴する)世界はひとつ(同じ)であっても、見る人・扱う人によって違いが出てくるのですから、私たちも、タロットの技術について、どのオーダー(階層・システム)やレベルで見ているかを知ることが重要なのです。

その区別がついていないと、自分の使っているタロットと技術を人に説明できないばかりか、どの技法がこの場合有効なのか(逆にあまり役に立たないか)を自らが理解できず、困ることになります。(最悪、無知のまま、間違った使い道をしてしまうこともあり得ます)

例えば、上記でふれた二人の「マンダラ」の違いでも、単純に見たとしても、カモワン氏が3段であり、ホドロフスキー氏が2段で、数の違いがみられるわけですから、その区分が同じであるはずがないとわかります。

なぜ3段なのか、なぜ2段なのか、どういう時に、どのような理解のもとで、この区分を用いて活かすべきなのか、なぜあなたはそのどちらかを使用しているのか、何の目的と理想あってのことなのか…こういうことがきちんとわかってやっている人ならばいいのですが、そんなことを考えたこともない、あるいは、タロットを教えてもらった先生からも説明されていないなどのことでは、あなたは形式的にそれを使っているだけと言えます。

私自身は、今は何流でもありませんが、それぞれの違いを説明することができますし、規則性と柔軟性の、一見矛盾したようなタロットの使い方が自分でできるよう、その理由とともに指導しております。

タロットは、ただ占いなどに使われるだけのものではありません。

むしろこれからの時代は、思索のツール、思考道具(しかし、ただの知識ではないもの)として、私たちに宇宙の構造や進化を高レベルで理解していくための「導き(気づき・啓発)の書」のように使っていくものとして提示されると考えられます。

まさに、学び、感じ、「考える(破壊と再生的な思考です)」ことが、とても重要なのです。

「占ったり、リーディングしたりする使うタロット」(それも継続されますが)から、「考える(通常の思考を超えて)ためのタロット」ということが、今後は期待されるように思います。


「なる」「する」のふたつの読み方

少し前に書きました「リーディングの能動・受動」に関連する話です。

タロットカードの読み方には、色々な種類分けができると思いますが、その分け方の基準に関わらず、どのやり方でも、大きく分けてはふたつになると思います。

それは、この世(世界)自体、まずはふたつに分けた見方ができるからです。例えば陰陽・男女・昼夜…など様々です。

何度もふれていますように、私たちの認識する現実世界というものは、言わば、ふたつの表現によってコントラストが作られ、違いのある世界として出てきているものと想定できます。

要するに分離(感)があるからこそ、私たちは私たちでいられ、この世界を堪能しているとも言えるわけです。

反対に考えれば、下手に悟ってしまう(笑)と、一元的世界観になってしまうということです。つまり、違いのない世界です。

すべてはひとつ」という言い方はすばらしいものの、悪く言えば、すべて同じに見える世界で、もしかすると味気ない話かもしれないのです。

この世の体験や経験を楽しむ」という言い方が、スピリチュアルな世界ではよくされますが、これなども、この世が「違いの世界」であるから色々に楽しむことができると述べているかのようです。

しかし、矛盾するようですが、スピリチュアル的な理解が進めば進むほど、いい意味では、この世の(違いある世界の)楽しみ方がわかってくる(この世だからこそ味わえると気づく)ようになるのではないかと考えられます。

まさに「違い」によってワンダーランド化しているのが、この世界(この世界を認識する通常の私たちの感覚)なのでしょう。

さて、それをふまえた上で、話をタロットリーディングのほうに移します。

先日の「リーディングの能動・受動」の記事でも、最後のほうに書きましたが、タロットを読む上では、「そのようになる」という読みと、「そのようにする」というものとの「ふたつ」の見方(方法)があります。

タロット占いや、タロットからの託宣(お告げ・メッセージ)的なものでは、前者、すなわち、「そのようになる」という読みが主流でしょう。

一方、私が提唱している「タロットリーディング」や「タロットを使ったコーチング的な方法」では、「そのようにする」という読みが中心になります。

どちらがいいかと言えば、基本的には私自身は後者だと思っていますが、その理由は今までも書いた通りです。

一言で言えば、自分自身に力を取り戻すためです。

しかし、これも場合によりけりです。

タロットリーダー、タロティストたるもの、あまりひとつの考えに固執するのは望ましくありません。

タロットというもの自体が、自由性をもたらすために作られているところがあると目されるからです。その象徴は「愚者」というカードで表されるでしょう。

ともあれ、せっかく自由性のためのタロットが、逆に私たちを束縛するものになっては本末転倒ですから、タロットの使い方・考え方についても臨機応変さが必要と言えます。(大アルカナナンバー1の最初のカードの「手品師」にも、それが示されています)

ですから、「そのようになる」と読むやり方も、時と場合によっては、採用すればいいと私は考えています。

その代表的なシーンとしては、

1 心配や不安がある時

2 期待や前向きな気持ちになりたい時

3 どうなるかを気持ち的に確認したい時

4 日本や世界情勢など大きなものを見たい時

5 占いエンターテイメントとして行う時

などがあげられます。

この列挙したものには、矛盾するものもありますよね。特に1と2です。まるで気持ちが正反対ではないかと。

しかし、これは、要は、気持ちがネガティブでもポジティブな意味でも「揺れ動いている場合」のことを言っているのです。

そのような時は、「このようにする」という読み方ができない心理状態があるのです。従って、「どうなるか?→こうなるのでは?」とタロットにお伺いを立てるみたいに見るわけです。

ただし、この場合は、もともと気持ちが不安定(揺れ動いている)と言えますから、タロットを引く(展開する)ことにより、かえってわけがわからなくなったり、ネガティブな意味合いのカード展開が出たりして、まずいケースもあります。藪蛇状態ですね。

例えば恋愛問題で悩んでいて、「あの人との関係はどうなるんだろう?」とカードを引いたら、悪い結果になりそうだと出た、というような場合ですね。

タロットの展開法によっては、(予想される)結果だけではなく、解決策や打開策を出すやり方もありますから、最初からそうした展開法を採用してやってみるのが、落ち込みを防ぐひとつの方法ではあります。

とはいえ、人間心理としては、「気になるものがどうなる(どうなっていく)のか知りたい」という思いもありますから、それに応えることも悪いわけではなく、結局、その趣旨(タロットを展開すること)は、「気持ちを落ち着かせる」ことにあると見て、そのためなら、状況の推移や結果を占ってみる、どうなるかタロットに聞いているという態度はありだと思います。

言ってみれば、喉が渇いている人に、食べ物より、まずは水を与えたほうがいいということです。

それから、タロット展開では、正立・逆向きで、ポジティブ・ネガティブとか、いい・悪いを見る場合があります。

「どうなる」という読みでは、結構、それが採用されていることがあり、平たく言えば、逆向きが出ると悪いことが起こるみたいな見方になるケースがあります。

となりますと、タロットを引いたがために、(逆位置が出るなどして)心理的に逆効果になったということもあり得ますから、最初から正立だけでタロットを展開したほうがよいかもしれません。特に「どうなる」という読みをする場合はです。

あと、4にあるような、大きなものの流れとして「どうなる」の読みを適用することができます。

個人レベルでは具体性があったほうがいいですし、具体的に読みやすいところがあるのですが、やはり範疇が広いもの、全体的なことは、抽象的になりがちで、でもだからこそ、「どうなる」的な読みで、ざっと見て行くとよい場合があります。

そもそも、大きなものでは、「どうする」としても、自分一人の力ではどうにもならないことが多く、それならば「どうなる」と読むほうが実際的とも言えましょう。

もちろん、「自分として、世界に何ができるのか?」みたいに、個別レベルで「どうする」的な読みができないわけではありませんが。

最後の5は、遊びとして割り切って、「どうなる」的な占いをしてみるという話です。基本、遊びなので、何が出ても深刻にはなりません。また、タロットの出た通りになるとも限らないという、冷静さを保つこともできます。

いずれにしても、遊びとしての5以外は、「どうなる」的な方法と読みは、何度もやり直すことはお勧めできません。

こういうものは、一度限りの「お告げ」的なニュアンスがあり、本来は神聖な神からのメッセージみたいに扱うところもあるのです。(そこまで神聖ではなくとも、タロットの精霊に感謝しながら伺うみたいなものでもあります)

従って、何度も聞き直すようなことをしていると、人間関係でも想像していただいたらわかるように、「うざい」し、「迷惑」で、「腹が立つ」(苦笑)ように(タロット側では)感じられてしまいます。

ですから、(同じ問いを)やればやるほど、おかしなことになってきます。普通に考えても、何度も繰り返すと、どれが本当か、どれを信じらればよいのか自分でもわからなくなるのは当然でしょう。

ということで、「どうなる?」については、その時一回だけ行うのがよいです。ただ、状況が変わったり、期間がある程度過ぎたりすれば、同じ質問をしてもよい場合はあります。

注意しておきますが、本来は「どうする」の質問、読みのほうが理想なのです。

「どうなる」ばかりやっていると、自分で状況をコントロールしたり、変化を起こしたり、解決させていく力が失われて行きます。結局、弱い自分をますます弱くし、悩みをますます深くし、依存状態を作り出してしまうのです。

大げさに言えば、タロットの使い方が人生を決めてしまうこともあるのです。(タロットを使う人の場合)

それから、気持ちが混乱して自分リーディングが難しい時は、他人に見てもらうのがよいので、上記のことに注意しながら、頼れるタロットリーダーとか占い師に依頼するとよいでしょう。


家族、人間関係、タロット、力

タロットカードの象徴性の力は、一般的な意味での「象徴」(抽象的のものを形や図などで表すとか、比喩的に見るとかの意味)とは別のものがあります。

それはまさしく、「力」と言っていいもので、マルセイユタロットの大アルカナにも、「力(フォース)」というカードで直接表されています。

余談ですが、フォースと聞けば、映画スターウォーズを知っている人ならば、その言葉は聞いたことがあるはずで、そこで描かれている“フォース”は、いわば、このタロットが示している「フォース」の映画的(エンターテイメント的)表現と言ってもよいと思います。

今回はフォースが何かについて語るのではなく、とりあえず、タロットには象徴的な何かの力が宿るみたいな話です。

マルセイユタロットの、中でも大アルカナと呼ばれている22枚のカードたちは、わかりやすい絵柄になっており、まさに象徴としての機能が明確です。

象徴機能としては、個人的にはほぼ万能であると見ていて、あらゆることをカードで表す(理解させる)ことができると考えています。

従って、マルセイユタロットを学習することは、とても物事の理解、把握、整理に役立つことは確実で、さらに言えば、普通のことだけではなく、いわゆる見えない領域(心とか霊的なこととか)にもそれは及びますので、何倍もの価値があります。

さて、私たちの悩みには、いろいろなものがありますが、その中でも人間関係というのが、大きな位置を占めています。

人間関係の悩みを解決するには、タロット的には「愚者」(自分軸の自由の象徴)になるのが一番なのですが、そうなれないから皆さん、悩むわけですよね。まあしかし、今日の本題とは、ずれますが、日本人の場合は、特に自分中心(自分自身を大切にする)考えと行動をもっと取ると、楽になって、人間関係的にも悩みが少なくなる気はします。

話を戻します。

人間関係の悩みの根本的な要因になっているもの、または原因のパターン(型)になっているもので、自分の家族があります。つまりは、自分が育ってきた家族環境や構成、その力学的なものの関係(による影響)です。

それが身の回りの社会の人々(関わる他人)にも投影されて、父や母、兄弟・姉妹のような感じ(対応)で、無意識に自分がふるまってしまうわけです。

それには単なる好き嫌いの感情のレベルもありますし、自分が意識(自覚)できていない部分での、様々な感情・思い・ルール・トラウマのような深いものもあります。

それらが、全部とは言いませんが、やはりひとつの反応パターンとして、対人関係に出てしまうわけです。

そして、知らず知らず、自らで自分の家族を再現し、かつてあった問題性や反対の心地よさを別の人にあてはめようとして、何らかの心理的調整を他の人間関係で図ってしまうということになります。それが問題として生じることもあるわけです。

そこで、タロットの、特に大アルカナを家族の象徴として見立て、関係性を客観視し、偏りや思い込みを浮上させて、カードの世界で修正してしまうことにより、家族から発生させていた、現実の対人的(人間関係)問題を変えていくことが期待できます。

ただ、これには、カードを学び、象徴を単なる思想的なものでなく、本当の力・フォースとして扱う必要が出てきます。

ファンタジー的な言い方をすれば、タロットカードと世界がつながって、カード自体、一種の世界(環境)操作のパネルとなるというイメージです。

周り(世界)のことをタロットにあてはめるのではなく、タロットのことを世界にあてはめる作業と言え、普通の見方(方向性)とは逆になります。

別の言い方をすれば、タロットの象徴世界をリアル空間の情報とリンクさせ、ほとんど同じ感覚にするということになります。

多分に魔術的でもありますが、比較的ライトな段階では、心理レベルで扱うことができ、そのレベルにおいては安全と言えます。(逆に魔術レベルまでにしてしまうと、それ相当のフォースの扱いの訓練がいり、サイキック的影響の懸念もあり、下手に介入するのは危険です)

こう書くと、まるで事象を変えるためにタロットを使うみたいな怖い印象・イメージも出ますが、それはその通りで、タロットと外の世界が同じ次元と情報レベルとして同調させることができると、おそらくそのタロットを扱う人は、かなりの度合いで、自分の望み通りに世界を変えていくことができるでしょう。

※ただ、実際の世界が変わるというより、あくまでその人の世界観が変わる(そのように感じ、見えてしまうようになる)と言ったほうがよいでしょう。とても主観的な世界の話なのです。

まあしかし、そこまでできる人は、先述したように、それなりの訓練、修行が必要ですし、そのような目的(利己的な願望実現)でタロットを使うものではないと私は考えます。

とはいえ、タロットが実際的な力としての象徴性があることを知ると、カードというのは絵空事ではなく、現実と世界に影響を及ぼすことができるものだとわかってくるでしょう。ただし、何度も言うようですが、その扱いには注意が必要ですし、技術的にも難しいところがあり、単にタロットをやっているだけで、そのようになるわけではありません。

ともあれ、家族関係について、カードで象徴させて、それを見直していくという作業が、一般的に自分の人間関係の修正や改善につながっていくという話です。

この反対の、まず人間関係そのものをタロットで見て(象徴させ)、自分の家族などの関係性・力学的なものに実際に入って行く(気づきを得て行く)という修正方法もあります。

これはむしろ、タロットリーディングとかタロットの活用のノーマルな方向性と言え、普通に多くの人(タロット使用者)がやっていることでしょう。

マルセイユタロットの研究家・実践家としても知られている、映画監督のアレハンドロ・ホドロフスキー氏は、家族療法をタロットを使って施しており、それを実際に私も見たことがあります。

氏はまた、独特のサイコマジックという手法で、人の心理的・サイキック的な悩みや問題を癒していますが、それもある種の「力」としての象徴を行使しているのだと見ることができます。言ってみれば、魔術の原理と、とても似ています。

要するに、実際的な力として影響が出る「象徴」なのか、単なる文字とか思考においての比喩、言い換え道具のような「象徴」なのかの違いというわけです。

タロットの場合は、その両方で扱えるわけですが、特に「力」をもった象徴になるということでは、ほかのもの(ツール)とは大きく異なるわけです。

しかしながら、その力も、結局は、タロットというものを自分の中に落とし込む程度によりますし、つまるところ、タロットをどこまで信じるか(リアリティを持つか)にかかってきます。(妄信ではない信念です)

漫然とタロットをやっていてもダメですし、また占いばかりになって、「〇〇になる」というような、託宣を受ける受動的な態度が固まってしまうと、「力」との関係はできず、逆に世界の情報に自分が操られる(環境や他人側のフォースに屈する)ことになります。


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