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天の自分と地の自分

マルセイユタロットでは、リーディングにおいて、特に高度になってきますと、視点や見方が複雑になってきます。

言い換えれば、いろいろな立場とか段階(レベル)での見え方、読み方があり、同じカード展開でも、様々な読み方が可能になるのです。

そういった数ある見方のうちに、天上的視点・地上的視点というものがあります。

平たく言えば、神の視点か、人間の視点かみたいな話です。

もちろん、私たちは神などなれるわけではないので(スピリチュアル的にはどうかわかりませんが、ここでは常識的な話においてでは、です)、当然、神の視点などわかるはずもありません。

しかし、あえてタロットの象徴性から、神と言ってしまえば大げさですが、通常の意識・次元を超えた視点、見方を援用しようというものです。マルセイユタロットならは、それができる体系・システムがあるのです。

とはいえ、読み解くのは人間ですから、どうしても人間である視点・視野からは逃れることはできません。それでも、天と地、神と人という対比、構造を設定しておけば、たとえ人間が読み解くにしても、いつもよりは違った見方を導入することができるのです。

このふたつの視点・見方を持つことは、生きづらさを感じている人や、どう生きてよいのか、何を選択すればよいのかに迷っている人には、よいメソッドとなります。

ふたつに分けると言うと、結局「分離」であるので、特にスピリチュアルな教えに傾倒している人には、「分離」という言葉だけで嫌悪感を示すかもしれませんが、分離の逆の「統合」においては、ふたつの違いを明確を理解しているからこそ、できることなのです。

ですが、分離の弊害も確かにあります。

分ける視点自体はよいにしても、天か地かに極端に分かれてしまうことに問題性が出ます。

あまりに天を求めすぎると、地から離れることになり、要するに現実逃避となり、生きている実感がより乏しくなったり、現実世界そのものに嫌気がさしたり、虚無感に襲われたりします。

あるいは、自分がほかの人よりはえらいとか、神から選ばれた存在だと特別視して尊大になり、周囲のものを見下し、軽く扱うようになってしまうこともあります。(これはマルセイユタロットでいうと「悪魔」のカードの問題性の部分ですね)

逆に、地、つまり現実や人間的なものにフォーカスし過ぎると、精神性や霊性を軽視し、人生・生活の質、クォリティを物質中心や実際の成果に置きがちになり、勝ち組・負け組の世界での競争に明け暮れることになります。

また、結局、他人と比べ、何もできない自分、特別な何かを持てない自分、人から認められない自分というものに悩まされ、天を求めすぎるのと同様、現実が空しくなってしまいます。

つまるところ、どちらかに極端にならず、ふたつの間のバランスを取っていくのが、まずは落ち着けやすい方法かと思います。

そしてここからが肝心なのですが、天と地、これを大目標・理想と、実際や現実での表現方法というふうに考えてみるとわかりやすくなります。

人は地、現実の中でなりたい自分とか、理想の自分というものを目標として持ち、それに向けて努力する人もいれば、「そうなれば理想だけど、無理よね」「そんな夢みたいなこと言うより、現実を見ようよ」という具合に、理想をあきらめてしまう人もいます。

しかし、これはいずれにしても、地(実際・人間性・現実時空)の中での話です。

ここにとしての、別次元とでもいうべきフィールドや世界を想定し、自分はそこの住人でもあり、だからこそ、そこでは本当の理想的な自分でいることができる、理想を実現している自分であると見ることができます。

ですが、地上世界、実際の現実とは違うので、まったく同じにする、同じになるということは難しいです。

そこで、天の自分である理想を、地の自分がいかに表現できるか、その方法や、やり方を楽しむような視点に変えます。

地の世界は天の世界とは異なるので、先述したように、そのまままったく同じにすることは困難でも、天の理想を地として別の形で表すことができないかと考えるわけです。

つまり、設計図(理念)と実際の家(現実にやれること)の違いみたいなものです。

理想と現実が違うことは、言われなくてもわかっている人はほとんどでしょう。

しかし、ここで言っているのは、天の自分と地の自分は違っていても、本質的には同じ自分の中の二人であり、この関係性を意識して結び付けることを常態化すると、自分の(現実)での環境、行動、思いに天の自分の意思が入ってくるようになるということなのです。

一言でいえば、「このために生きている」という信念のようなものが生まれてくるわけです。

天命を知ると言い方がありますが、それよりも、天命を生みだす、天命を地上にリンクさせるみたいな言い方のほうが適切でしょうか。

そうすると、自分のやっていることだけではなく、やらされていること(現実世界ではそのほうが、認識としては多いでしょう)に対しても、天とリンクさせることで、天に沿うか、沿わないかの視点でもって判断でき、ここは耐えるべきか、無駄なことをしているのでさっさと次に行くべきかなどが、自ずとわかってくるのです。

言ってみれば、理想の自分、理想の在り方としての自分(天の自分)と相談するような感じで、天の価値観を入れながら、地上、現実としての自分の行動、表現を決めていく(決められていく)わけです。

すると、よくあるように、これは試練(耐えることなのか)なのか、無駄な(犠牲になっている)ことなのか(やめていいものなのか)などの迷いで、今までよりかは判断がしやすくなるはずです。

天という自分の理想や在り方からすれば、地上・現実でやっていることは、大きくはずれているのではないかと思えば、やっていることにこだわらなくてもいいですし、やはり、天から見ても必要なもの、それに沿っていることだと思えば、一見嫌なことや、つらいことであっても、ここは耐えるべき、経験すべきことだと理解ができるかもしれません。

注意すべきは、天と地を、同一なものと錯覚しないことです。

引き寄せの法則のように、強く願えば現実に叶う、引き寄せるというものでもないのです。

むしろ、地上世界の価値による利益の実現を願うよりも、崇高で理想的なもの、そうでなくても、地上的条件をとっばらっても、やりたいこと、好きであること、いわば魂・ソウルの方向性みたいなものを思い、それはそのまま地上や現実で叶うわけではないものの、その精神が生かされた表現方法、やり方は取れるのではないかという姿勢なのです。

すると、「ここだけは譲れない」みたいなことも出てくるかもしれませんし、反対に、「(天に適っていれば)何でもやり方はありなんじゃないか」と自由に思えることもあるでしょう。

マルセイユタロットで言えば、「審判」と「恋人」カードのような関係性かもしれません。

これは地上において、天(天国の光)を見つけることでもあり、最終的には地と天を統合する方向にも進化していくことでしょう。

多くの人は天の自分を忘れ、地の自分だけで生きています。また、天を知っていても、地と切り離し、それこそ分離して、リンクはできないと思い込んでいます。

それは天と地では、エネルギーや表現方法が違うので、むしろ当然ではあるのですが、違っていても同じであること、しかし、同一なものとして、同じことをそのまま表現することは難しいという両方を理解していると、この世も捨てたものではなくなってきて、「いかに地の自分によって、天の自分を楽しませてやろうか」という、マルセイユタロットで言えば、地の最初でもあり、好奇心の象徴でもある「手品師」となって、その手品を皆さんに披露していくことになるのです。


「運命の輪」から見る、それぞれの視点

マルセイユタロットに「運命の輪」というカードがあります。

このカードは、マルセイユタロット以前の古いタロットカードにも、同じようなモチーフのカードがあり、かなり昔から、西洋では共有されている「運命」というものの象徴表現ではないかと考えられます。

まさに、人が思う運命というものは、「運命の輪」の絵が示すように、回転している様、回っている何かに乗せられているような感じでイメージされたのでしょう。

そう思うと、運命というものは、私たちをグルグル回転させる何かなのかもしれません。

また面白いことに、輪は人為的な機械・マシーンとも言え、マルセイユタロットでは、その輪には、人ではなく動物のようなものが描かれています。

ということは、運命に振り回されているのは、人ではなく、動物ということになり、これを逆に解釈すれば、私たちは動物状態になっている時は、運命に振り回され、操られる存在であると言い換えることもできます。

そして、運命というものは、何か私たちは神のような、生命的で意図や意味があるような印象も受けますが、カードから見る限り、それはマシーン機械的なものであり、さらには一定のリズム(回転)で動いているものと解釈することもできます。

「運命の輪」に描かれている動物は三匹ですが、よく見ると、輪の中にいる二匹と、輪の上に乗っている一匹という違いがあります。

特に、この輪の上に乗っている動物は、ほかの輪の中の二匹に比べても異質であり、あまり見たことのない(現実に存在しない)動物のように思えます。事実、私たちマルセイユタロットを学ぶ者は、この動物のことを「スフィンクス」と呼びます。

あのエジプトにあるスフィンクスと無関係ではありませんが、むしろ、かつてローマの植民地であった一部のフランス地方で出土したスフィンクス像に似ており、いずれにしても想像上の動物であることがわかります。

スフィンクスの特徴は、想像上の動物であることから、単なる単独の獣ではなく、何匹もの獣が複合しているところにあります。

マルセイユタロットには動物は何匹か描かれていますが、たくさん出ているカードと言えば、やはり「世界」のカードが挙げられるでしょう。

「世界」のカードは、真ん中の人物の周囲に、四匹の生き物が描かれています。

テトラモルフともいわれるこれらの動物たちは、伝統的な象徴性を持ち、キリスト教でも取り入れられていて、教会の入り口にイエスとともにレリーフされていることもあります。

詳しくは言いませんが、このテトラモルフと「運命の輪」のスフィンクスが関係していると見ることは可能です。

ともかく、私たちは、運命というものに対して、単独の獣のような状態になるのか、複合するスフィンクスのような視点を持つのか、その違いを強調しているように、「運命の輪」から感じられるのです。

さきほど、視点と言いましたが、「運命の輪」の動物たちは、そのまま、(輪=運命に対する)それぞれの視点や態度を示すものと考えることができます。

何か強烈な運命に対峙した時、私たちは上がるか下がるか、はたまた、上りも下がりもしない視点でもって、それを受け止めると言えます。

ラッキー・幸運に歓喜し、不運・不幸に落ち込み・・・というのが普通の態度です。

しかし、不運にも幸運にも動じず、「運命の輪」の回転を冷静に読み、その波・リズムに乗っていく姿勢とでも言いましょうか、それがスフィンクスの位置・視点と表現できます。

この場合、ちょうど大波・小波の上を船に乗って進んでいるかのように想像すると、その船の安全性がわっかていれば、波の揺れはかえってスリルのように楽しむことができるかもしれません。

また、下手に抵抗せず、まさに波乗りのように、波に身を任せ、上や下へと、波と一体化していると、自分は波そのものなので、沈没や転覆することはないでしょう。

その境地に達している者にとっては、ほかの二匹の味わっている運命の波、まさしく翻弄する波は、翻弄されるものではなく、予測可能で純粋に楽しむことのできるアトラクションに変わるわけです。

これだけでもすごいことなのですが、タロットはその先も、数の順を考えると示しており、実は最終目的地の半分くらいの状態だということもできます。

おそらく、通常の運勢学、占いの基本である運命学みたいなものは、このスフィンクス状態を目指すことを想定されている、あるいはそれが目的みたいなところに置かれている(本当はそうではなくても、学ぶ者や活用するものの意識レベルがそれになっている)のがほとんどでしょう。

運勢・運命(のシステム)を学び、それを活用したり、コントロールしたりして、現実の人生を豊かに充実したものにするという目的です。

それが、マルセイユタロット大アルカナ全体像から見れば、まだ半分の段階なのです。(真の目的ではない)

その理由は、マルセイユタロットを学んでいくと次第にわかってきますが、最初の段階では何が何だか意味がわからないと思います。

まあ、しかし、あまりに高いレベルを想定し過ぎると、それは絵空事ともなりかねませんから、レベルを下げて、「運命の輪」(の象徴性)を見ていくことも必要です。

大事なのは、やはり三つ(三匹)の動物の位置、視点と言えます。特に、先述したように、輪の上にいるスフィンクスと、輪の中にいる他の二匹の動物との関係、さらに輪自体が回転しているということも重要です。

輪は運命だけではなく、回転するものの象徴にもなりますから、世の中に回転しているものをイメージすれば、いろいろな意味合いで、とらえることができるでしょう。

回転は、漢字を入れ替えれば「転回」となり、同じ音で「展開」というのもありますので、日本語の妙味で、これらが関連してくると言えなくもないです。展開するには転回し、回転しくてはならないのです。(笑)

回っているものといえば、地球もそうであり、自転・公転により、あるものが生まれています。

あるものとはすなわち、時間です。

このことから(それ以外からの理由もあるのですが)、この輪は時間も象徴します。

すると、時間に対する私たちの態度もまた、三つあることになります。時間コントロール、時間の活用にもつながってくる話でしょう。

さらに言えば、このマルセイユタロットの「運命の輪」には、取っ手がついているのがわかります。

ですから、回されるだけではなく、回せる意味もあるのです。これは見落としがちですが、意外に大事なところです。

輪の回転の影響を受けていない者は、説明したように、この絵ではスフィンクスになるのですが、もう一人、描かれていない存在があるのです。

それが取っ手を回す者です。

自らが回すのですから、輪の影響を受けないどころか、輪の回転そのものを創造しているとさえ言えます。

当然、輪に対して受動的ではなく能動的になります。

それはいったい、何者で、誰なのでしょうか?

そういうことを考えると、マルセイユタロットを見ているだけで、とても面白くなるのがわかるでしょう。

あなたも、「運命の輪」の輪、動物の三匹、そして取っ手を回す者・・・これらについて想像を巡らせてみませんか?

それだけで、あなたの悩み(波・闇を短縮すると「なやみ」です(苦笑))や問題に対しての、解決の糸口が見つかるかもしれません。

ちなみに、(神話の運命の)糸とも「運命の輪」は関係しており、まさにこのカードには、何かの「糸口」が象徴されているのかもしれません。


自分の幸福は自分でしか知らない

2年前の記事ですが、この世界の理不尽な不平等感に時々さいなまされ、グノーシスを探求している自分としては、つい、この世界の欺瞞性ばかりに目が行ってしまって、暗澹たる気持ちになることがあります。

そんな時は、この記事にあるようなことを思い出すようにしています。

私たち一人一人の人生は、一代限りで見ると、まったく不公平感、不平等さ、理不尽さ、矛盾に満ち溢れているように思います。そんな中で、いくら神(完全性)を見ようとしても、現実的にはなかなか厳しいところもあるでしょう。

過去の宗教の果たしてきた役割は、神を信じることで、そういった現実の不平等感を凌駕した公平性、神のオーダー(世界・ルール・ことわり)を入れることで、個々の自らの苦しみをやわらげていたところがあるように思います。

その反面、あくまでそれは見えない観念のようなもので、万人に本当に当てはまるルールなのか、証明のしようもないのが現実でもあります。

つまり、いくら神の存在とそのオーダー世界を信じようとしても、冷静に現実世界を観察すればするほど、その矛盾性・理不尽さなどが目につき、最終的には神や自分の信じている宗教からも離れ、人・世界というものがわからなくなり、闇に飲まれてしまうこともあると思います。

反対に、現実から目をそらし、あくまで信じる宗教の説くところの神の世界・オーダーを信奉し、それに生きている限りは救われる(救いの物語の登場人物に自分がなっている)のだと思うことで、精神的には均衡を保っている人もいるかもしれません。

ここでは「宗教」という例で話していますが、それが自分の信じるところ、救いだと思っているもの、逃げられるもの、一時的には幸せと感じられるものとして置き換えてみると、いろいろな示唆が見えてくるでしょう。

以下の2年前の記事は、自分自身を例として、こうした悩みにひとつの気づきを述べたものです。

ただ、自分の幸せを実現していくことが、神や宇宙、世界全体を幸せにしていくことになる意味について語ってはいますが、これは一歩間違うと、自我(エゴ)次元の幸福(トランスバーソナル心理学者の諸富祥彦氏の提唱している、人の幸福に種類分けのひとつですが)の追求に入れ替わってしまうおそれがあります。

自我次元の幸福を追い求めることは悪いわけではないのてすが、この記事で言っていることは、それを超えた次元の幸福のことです。

言い換えれば、自分一人の物質や現実的価値からの幸福ではないもので、自分の幸福を追い続けていくと、それは反転して、結局人類全体の幸福につながっていくという、結果というより過程的なものと言ってもよいでしょう。

マルセイユタロットで言えば、「手品師」「力」「世界」の流れとも言えますし、二枚で表現すれば、「吊るし」と「世界」の関係性とも言えます。

いかに、この現実の世界の中に天国を見るか? それはその人の霊的な認識性の向上によって変わってくるでしょう。

今は自分自身も含めて、ほとんどの人が、悪魔的な重しと色メガネでこの世を見ているようなものであり、それに応じた世界が現実として認識されてきます。

この世を不平等な世界と見る人も、その逆に、とてもすばらしき世界だと見過ぎてしまう人も、実はどちらもまだまだの認識性の未熟な途上かもしれません。

それぞれ方法論は違うでしょうが、自分が幸福と感じるものを現実の世界で探しながら(たとえ自我・エゴにおいても、自分の幸せは自分でしかわからないものといういう気づきも重要で、それは他人から植え付けられるものではないという区別も必要です)、自分の単なる欲求を満たそうとするもののさらにその先にある、言わば根源的なものの世界から来ているものにふれようとする時、マルセイユタロットで言えば「月」のカードの次に「太陽」に出会うみたいなことが現れてくるのではないかと思います。

高次や全体を意識しながら、自分自身のオリジナルな幸福を求めていく姿勢とでも言いましょうか。

あなたはあなた自身でしか、本当の幸福を知らないのです。

 

「天国はここにある」

 


コンビネーションでカードを読む

私は本来、教えることが好きな性格です。

そして人間、だいたいは、その逆にも関心があり、つまり、私は教えられること、学ぶのも好きです。

今何かを学んでいても、いつかは人にそれを教えていく、伝えていくという立場になる人もいます。全員と言いませんが、学ぶのが好きな人は、いつか自分が逆の立場になって、学ばせて行くほうに変わって、生きがいを持つ方もいるでしょう。

結局、学びとは、受け入れだけではなく、外に実践したり、表現したりしていくことでもあるのです。

さて、今日はそんな教え好きな私のおせっかい(苦笑)で、独学でタロット、特にマルセイユタロットを学んでいる方に、カードをコンビネーション(複合)させてリーディングするやり方の一例をお伝えしたいと思います。

コンビネーションと言えば、一枚だけでは無論ダメですので、最低二枚から始めます。それが基礎と言ってもよいでしょう。

では、わかりやすく、ここに「運命の輪」と「戦車」を置きます。

タロットは、絵そのものから意味を推測することが普通ですが、それでも、おおよその意味を覚えてしまったあとでは、どうしても、知識としての意味をあてはめようとしてしまう傾向があります。

それはそれで悪くはないのてすが、意味(言葉)を探そうとするよりも、図像の運動性や方向性、エネルギーに注目して読むと、タロットが伝えようしていることがわかりやすくなります。

上記、「運命の輪」と「戦車」を見てみましょう。

「運命の輪」はその名の通り、回転する輪が図像の中心にあります。一方、「戦車」も、車輪のついた(車輪自体はちぐはぐな感じですが)のようなものがあり、その中には勇ましい感じで将軍的人物が描かれています。

ここから見て、ともに何か動いている雰囲気が伝わってくるでしょう。

これが、例えば、「運命の輪」一枚だけだったら、そして、「運命の輪」の意味を言葉として出そうとこだわり過ぎてしまったら、「運命が回っている・・・どんな意味だろう? 確か時間とかタイミングという意味もあったな、ということはタイミングを計れということか、いやいやタイミングと言っても、チャンスを今つかまなければならないタイミングなのか、もう少し待ったほうがいいというタイミングなのか・・・うーむ、これって、今動くのがよいのか?待ったほうがいいのか? どっちなんだ・・・」などと、頭の中でいろいろと逡巡させてしまうわけです。

コンビネーション、二枚以上引いて読むことの利点は、こうした一枚だけでは、どちらともつかないような、判断に困ることようなものに対して、別のタロットを引くことで、方向性や運動性を補足していく(傾向をはっきりさせる)ところがあるのです。

「運命の輪」だけではどちらともつかなかったものが、「戦車」を引いたことで、回転が運動的に働き、積極性が推測てきます。つまり、動かないよりも、明らかに動いて前進する感じが強くなります。

ただ、「運命の輪」が出たことの意味も考え、闇雲に動くわけではなく、まさにタイミングを計って、ここぞという時にギアを入れて前進するみたいなニュアンスともなってきます。

それでも、Goという感じは「戦車」によって強化されているので、そこから「運命の輪」を見れば、この「運命の輪」がチャンス的な意味になることがわかります。

あとで、覚えたカードの意味を照らし合わせると、さらにこのことがしっくりきます。

すなわち、「戦車」が成功や達成、勝利を表すとすれば、まさに成功の時が来た、勝利のタイミングは今、というように読めることが可能です。この読み方は意味を言葉として表した場合のコンビネーション的な読みです。

最初からこれをしてもよいのですが、やはり、出ている複数枚のカードの図像を見て、その運動性、エネルギー性、方向性の共通点や、逆に異質点を見ながら、タロット全体としての意味を汲んだり、推測したりしてから、言葉としての意味や文章を作り上げるやり方のほうが、案外、タロットからのメッセージ、本質が読みやすいです。

もし、「運命の輪」の横に、「戦車」ではなく、「吊るし」が出たとすれば、「吊るし」は運動性がストップしている傾向が強いですので、「運命の輪」も、たとえ回転していても、その回りつづける状態を観察するような、輪の上にいる動物(スフィンクス)の視点で見るほうが、この場合はよいことがわかります。

タロットの時系列的解釈をすると、一般的に左から右に移ると読むことができますから、「運命の輪」が「戦車」に移行するのか、「吊るし」に行きつくのかによって、二枚を複合した読み方、ニュアンスは変わってくると思います

例えば、好調、あるいは波乱を呼んだ波(運命の回転)も、「吊るし」では収束に向かうとも見えますし、「戦車」ではさらに加速させられる感じもします。

あと、これはちょっと特殊な見方ですが、「運命の輪」と「戦車」の場合、「戦車」の人物が、まるで取っ手のある運命の輪を回しているように見えますから、「戦車」としての人物や物事自体が、まさに運命を変える、変えていく(ことができる)というように、二枚を複合すると見えてきて、結局、「戦車」がもし自分であるならば、自分で運をつかむ、運命を動かすみたいな意味合いにもなってくるかもしれません。

いずれにしましても、いきなり言葉の意味をタロットカードから出して(読んで)、ああでもないこうでもないと悩むよりも、複数(以上)枚数引いたカードの全体傾向を観察し、特に運動性や方向性に着目して、どう動けばよいのか、待てばよいのかを推察して判断するほうが、読みが早いこともあるのです。

あるコツとしては、自分自身がタロットの(展開されているタロットの画像の世界)中に入るかのように見て(自分が小人みたいになっていると想像してもよいです)、例えば、「運命の輪」に乗っている自分、「戦車」に乗っている自分、その二枚を移動している自分をイメージし、感覚的に見ると、カードの言わんとする物語性がつかめてきます。

あれこれカードに乗っているうちに(笑)、自分の経験していることの意味がつかめてくるような感覚です。

そして乗るカードの順番が違えば、またニュアンスも異なってきて、その中で、自分(クライアント)の質問にびったりと思える物語性が、示唆されてくるのです。

タロットに限らずですが、「これだけでわからなければ、あれも出してみる」「この方法(ルート)でうまく行かないのなら、別の方法(ルート)を試してみる」というようにすれば、リーディング時に困っても、打開策は出ます。

タロットリーディングは、思考と感情、様々な感覚器官を使って、問題解決やアイデアを練るための一種のトレーニングをしているようなものです。

それには本当に、タロットの世界に遊ぶような、一言でいえは「愚者」となる感覚(姿勢)も重要なのです。

難しく、まじめに考え過ぎていても(これは私自身がそういう傾向にありましたが)、リーディングはスムースにできません。

正しいやり方にこだわるよりも、情報を導ける様々な方法を試すことです。

よいか悪いか、合っているか合っていないかなどは、あとから思考で判断すればよいだけで、まずは、いろいろなルートからタロットによる智慧や情報を引き出すことをやってみましょう。


私のマルセイユタロット講座は、かなり様々な情報と知識をお伝えしています。

※もっともライトなコースとか、入門コースなどもあって、必ずしも全部がそういうわけではありませんが。

そういうたくさんの情報のひとつで、やはり重要なものとして私の中で位置づけているのが、タロットに関連する歴史です。

ただし、タロットの製作史とか、公やアカデミズムで言われている歴史というわけではありません。それも大事ではあるのですが、私が主に力を入れて解説しているのは、裏の歴史と言いますか、秘教・秘伝的な話なのです。

何事にも裏と表があり、私たちが見知っていることでも、すべてには二面性があり、それらが表裏一体となって、ひとつの完全を知ることになっているように思います。

もちろん、裏の歴史と言っても、さらに細かく言えば、それでも表裏のようなものが連綿と続いていると考えられ、私も知らない話、マニアックな人でも、ほとんど知られることのない話もあるでしょう。

それでも、常識的・表面的なものとは違う歴史の側面を知ることで、タロット、特にマルセイユタロットが何なのかを判断したり、理解したりする材料・情報として、得るところは大きいと考えられます。

タロット占いやタロットリーディングの技術を学ぶことに主眼を置く方には、こういった歴史的な情報はあまり価値がない、必要ないとさえ思う人もいるかもしれません。

実際、タロットに関連する歴史や情報を知らなくても、タロットを使うことができますし、特に支障があるわけでもありません。

むしろ技術面に集中し、それをしっかり学び、実践を繰り返していく中で、タロットを、特に他人に向かって活用するという意味では、有意義とさえ言えるかもしれません。

しかしながら、これは私の経験や体験、感覚も入りますが、こと、マルセイユタロットに関して言えば、たとえ他者向けにタロットリーディングを行っていくことを目的としてタロットを学ぶにしても、やはり、関連する歴史的なことは知っておいたほうがよいと思うのです。

その最大の理由は、目に見えない力とでも言いますか、そういうものの加護のようなものが、実際のリーディング場面でも感じられるからです。

マルセイユタロットが作られるために積み重ねられてきた人々の思いのようなものが、歴史を知ることによって、あえてネガティブな言い方をすれば、まさに「重荷」としてのしかかってくるという感じでしょうか。

それを逆にポジティブに反転させますと、「ご加護」ということになるのです。

そうですね、日本人ならば、自分と関わるご先祖に思いを馳せると、ご先祖のしがらみも背負うことになるのかもしれませんが、逆に、ご加護も得られるかもしれないというような感覚です。

さらに言えば、単にタロットを扱うというものではなく、タロットを“扱わせてらう”使命感・責任感のようなものも、歴史を知ることで出て来ます。

タロットが好きとか、タロットが占いに使えるからとか、そんな理由ではなく、まさに、タロットはご縁によって私に与えられたもので、その意味をかみしめながら、自分と他者に向かって、救済の道を目指して活用していくという自覚が芽生えてくるのです。

マルセイユタロットに関連する歴史的な事項や人々としては、例えば、キリスト教では異端とされたカタリ派の思想やそれを信仰する人々、よい悪い両面の噂もある「神殿騎士団(テンプルナイツ)」、キリスト教関連でも、洗礼者ヨハネとか、マグダラのマリアなどの人物の話などがあります。

もっと古い時代の歴史・話・人物も、たくさん関係してきます。

マルセイユタロットを知ることは、今まで裏で隠され、非常識とされてきつつも、実は表を支えていたり、私たちの中に眠る大きな力や智慧を象徴していたりしたものに近づくことになります。

これらは歴史の表舞台にはほとんど出ませんが、いつの時代も、そして今でさえ、実は存在し、認識されるのを待っているものです。

例えば、「蛇」という動物の象徴は、一般的には邪悪なものとして扱われ、普通は気持ち悪いイメージもあって、あまりよい感じはしないものでしょう。

しかし、これも裏の話、象徴の意味を知っていくと、逆転した見方が出ますし、仮に悪いものだとしても、私たちを締め付け、グルグル巻きにしている“蛇”のような存在は、いったい何なのか? それを知ることで大きな解放がもたされてるのではないか? ということに次第に気づいてきます。

蛇の締め付けも、逆方向の運動回転であれば、緩めることにもなります。

マルセイユタロットを学ぶうえで、伝説的な話として扱われてきた歴史的なものが、実は真の認識・覚醒には重要なものとなっていると考えられます。

「私は(裏の)歴史なんて興味ない」という人もいらっしゃるでしょう。タロットが使えれればそれでよいと。

それも個人の自由で、好みの問題です。

ただ、私は、マルセイユタロットに興味を抱き、それを学びたい方、マルセイユタロットをもって自他に役立てたいという方は、こうした秘密や裏の歴史に関心があり、ご縁がある人が多い気がしています。

そういう方は、おそらく、すでに魂的には知っていることでしょうし、もし前世的なものを設定するとすれば、これまでも何度もそういう側面と関わってきた人なのではないかと思います。

つまりは、マルセイユタロットを学ぶことは、かつての自分を癒し、その自分を応援者として味方につけ、あるいは、途上だった修行や救い・癒し・浄化・上昇を、今の自分が担っていくことになるのではないかと思うのです。

言い換えれば、究極的な意味で、自分を助け、自分を活かす(生かす)ことでもあります。


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