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師匠と弟子

皆さんはと呼べる人がいますか?

学びや芸事となると、やはり先生や師匠に指導してもらわないと、なかなか独学では難しいところがあります。タロットも、一種の芸事とも言えますから、独学でもできないことはありませんが、師匠に習ったほうが、習得は早いのではないかと思います。

しかし、どの分野にしろ、まったく新しいことを始める人、創始者的な人物ともなれば、師はおらず、独自で開発した、到達したという方もおられます。

とはいえ、たとえそういう人であっても、生み出すことには、何らかの参考となるもの、最初に例としたものなどはあるはずです。つまりは先人の築いたものを下地に、新しいものが創造されているわけです。

ですから、師というのは、大きな括りで言えば、ひとりの人物とか、実際に指導してもらえる人だけを指すのではなく、自らが参考とした人、モデルになった人、自分の(技術・教えの)型や完成を得るために参照してきた書籍、人の言葉なども、言ってみれば自分の「師」であるわけです。

ところで、人間的な直接のつながりを持つ弟子と師匠の関係において、そこにはお互い人間であるだけに、というものがはさまれたり、生まれたりします。

指導には情を入れてはいけないという説もありますが、考えてもみてください。

機械的にただ教え、学ぶだけの形式では、味気ないことに気が付くでしょう。そこに感情のやり取りも入るからこそ、教えにも幅や面白さがあ出るのです。

けれども、やはり情が入り過ぎるのもいけません。師匠と弟子、どちらか一方において、情が過剰であることは案外多く、両方入り過ぎる場合もあります。

弟子側が過剰であると、師匠に依存的になり、自分の親との関係を投影してしまうことがよくあります。

反対に、師匠側が入れ込み過ぎると、極端に弟子に干渉することになり、過大な期待や細かすぎる指導をしたり、逆に冷たく突き放して「技を盗め」みたいな態度になったりします。

これは師匠の子どものような対象を投影し、いわば、過干渉の親や、放置する親みたいになってしまうわけです。

そして、弟子・師匠がともに情が入り過ぎると、共依存の関係になりがちです。

ということで、私からお勧めするのは、すでに書きましたように、師匠の概念・範疇をもっと拡大し、一人の師匠とか、人間だけが師匠ということに限定せず、ほかの人や、すでに今は存在しない先人、人が書いた書物などを別の師として、自分の架空設定としておいておくとよいのではないかと思います。

このことは、実際に複数の師匠を持てと言っているのではありません。現実に二人からの指導を受けていますと、それは混乱することが多いので、逆効果のこともあります。

自分の人としての師匠の言葉・方法などを、自分なりに検証し、客観的に見つめるためにも、自分における別の「ご意見番」みたいな存在を作っておくとよいと言っているわけです。それが、お互いに情的なものが過剰にならないたの工夫でもあります。

あと、前にも書いたことがありますが、分野ごとの師匠を持つとよいです。

タロットで言えば、小アルカナ4組の象徴でもある、4つの分野で見ていくのもありです。

今回はあえて省きますが、例えばお金や経済的なことでの師となる人、自分の趣味の分野での師匠など、それぞれ別で持つわけです。

中にはメンター的な人物となりますと、すべての分野(いわば人生)のトータルな師という立場の人もいるかもしれませんが、それはそれで、5番目(4つの分野)の、全体を統括してくれる師匠という人で、なかなかそういう方は見つかりにくいですが、もしいらっしゃれば、とてもためになるでしょう。

この先生と知り合いたいとか、この人のセミナーなどを受けて「自分の師」としたいと思ってる人物がいても、なかなか経済的なことや、時間的なこと、距離的なことなどで、知り合う機会、参加する機会が得られないままという方もいるかもしれません。

そういう場合は、直接関わりがないとしても、その人が発信しているものにふれて、その人自身というより、その人が表現しいるもの、述べていること、その内容自体を心の師とすることで、先述した架空設定の師匠に、自分の中ではなってくれるようになります。

結局、究極的には、他人も自分のようなもので、師も弟子も、立場を超越して、学びたいと思う自分の中に存在していると言えます。

あなたにとっては、実際の師も、心の中の師も、実はあなた自身でもあると言えます。

現実の世界なので、実際の「人間」のほうが、やはり影響力は高いと考えられますが、架空の師であっても、自分に何らかの形で影響を及ぼし、自分にとって学べることができる存在だとも言えます。自分が自分を導き、教えているのです。

ただ、それは漫然としていては、架空の師から学ぶことはできません。

自らが真剣に学ぶ態度と行動を示し、知識と経験を積み重ねていくことで、自らの中の架空の師も成長し、あなたに適切な助言や気づきをインスピレーションのような形を通して与えてくれます。

今や、学びの環境は、かつてないほどに整っていると言えます。直接の人でもよいですし、架空の師の設定でもよいので、学びと成長を志すと、それに呼応した人物が現実にも、心の中にも現れることでしょう。

それは誰かの師という立場の人であっても同じで、自分の弟子ですら、別分野では(同じ分野の何かでも)自分の師となることがあるのです。

そして、あなた自身も何かの師であり、今はそう思えなくても、必ず、そうした瞬間がやってきます。もとはと言えば、神性(完全性)を有する私たちなのですから、弟子・師匠というのも、一種の舞台装置のようなものなのです。

その舞台には、また縁が働いており、あなたの劇場に登場する人物が究極のシナリオによって作られていて、それを楽しむ本質的な自分がいるものと思われます。

その意味でいえば、出会いはすべて師であり、弟子なのだということになるでしょう。


二元統合とは何か。

マルセイユタロットは、ある種のエネルギーや、この世界(宇宙の)法則のようなものを描いているとも言えます。

その点では、東洋での象徴体系も同じといえ、洋の東西で本質的なものを表す何らかの方法が伝えられてきたのだ考えられます。

そして、西洋も東洋も、大元から次の段階に進む(見方を変えれば下降する、次元を落とすという言い方にもなります)時、二元に分かれたかのような状態になっていくのだと想像できます。

それが、東洋的に言えば陰陽原理みたいなもので、そこからさらに陰陽が無数に枝分かれしていき、現実の色濃い世界が表現されているのだと見えます。(このあたりは、バーチャルリアリティーの世界を表現するのと同じと考えられます)

このことは、マルセイユタロットにも描かれていることであり、大アルカナの数でいえば、数が小さくなっていく方向性(分離や具体の方向性、つまり私たちの実感している現実の世界になっていく方向)と言えましょう。(ただし、小アルカナは逆方向)

逆に言えば、二元分離をどんどん統合していくように向かって行けば、自ずから大元、太極、一なる始源へと回帰していくことになります。

では、ふたつに分かれたものを「統合していく」というのは、実際にどういうことなのかという疑問が出てくるかしもれません。

この二元原理は、現実世界でも、様々な比喩や例えになっており、象徴として考えると、いくらでも二元原理の表現は見て取れると言ってもよいものです。

例えば、天体では太陽と月、性では男性と女性、行動性では、能動性と受容性、色では白と黒みたいな感じです。

この場合、統合とは、ふたつが一緒になったり、ひとまとめになった時に現れる状態ということができます。

太陽と月が一緒になる(見えている)ことは時々ありますが、そういう同時に出るというのではなく、太陽の時間と月の時間があると見て、結局、それは一日のことだとなります。(昼と夜とで一日という言い方もできます)

女性と男性が統合されれば、両性具有になりますが、心は別としても、現実の性機能では両性具有になることは不可能なことです。

しかし、結婚という形で共同で生活をし、セックスによって一時的な両性具有となり、子どもという新たな生命を生み出すことが可能になります。(皮肉なもので、セックスという言葉は分離を表しますが・・・)

能動と受容のような、運動性・行動性の場合、例えば、あなたが誰かと会話している時、あなたが話していて、相手が聴いている状態なら、あなたとその人はやはり二元(話し手・聞き手の能動・受容の二元)になっていると言え、この時には会話(コミュニケーション)が成立しているわけです。

それから、あなたがお茶を飲もうと、ポットから茶葉の入った急須にお湯を注ぎ、その急須からコップに向かってお茶をいれて口から飲む時、ポットのボタンを押す(それが反動で戻ること)こと、お湯やお茶が容器に入ること、それを飲むことなど、一連の動作に、すべて押し引き・出し入れがあり、そういうことも二元にになっているうえに、それが完結している(セットとしての繰り返しがあって完結する)と言えるのです。

つまり、二元が統合される時は、新たな何かが生み出されたり、ある行為が完結したりするのです。端的に言えば、創造する力です。

ということは、私たちは、すでに些細なことも含めて、この現実世界で無数の統合を果たしながら生きていることになります。

スピリチュアル的に言えば、二元の統合は、神になる、あるいは神そのものの行いだと言えます。神を完全や完結という言い方にしても同じでしょう。

今見てきたように、私たちは無意識に、生活の中で二元統合を果たし、あるものを生成(創造)しています。それなのに、神どころか、迷い、悩み、苦しむ状態が多いのも「現実」です。

これはどうしてなのでしょうか?

おそらく、行為が無意識的過ぎるのと、物質的な観点に縛られて、見えないものや心の領域、魂レベルでは統合が果たされていないからなのではないかと推測されます。

技の世界でも、心技体などと言われるように、単に技だけ向上させても、それは形だけのものに過ぎないというわけてす。

物質、心(精神)、魂(霊)、西洋的にいうのなら、マテリアル(ホディ)、メンタル(サイコ)、ソウル(スピリット)など、それぞれの次元・分野において、統合がなされていないと(霊・魂・ソウルとかのレベルでは、すでに統合は果たされているかもしれませんが)、真の意味では「統合」とは言えないのかもしれません。

男女統合において、セックスを例にしましたが、確かに形(行為)だけでも子どもはできるでしょう。しかしながら、心の合一が伴わないそれは、果たして本当のセックスといえるのかということです。そういう状況で生まれてくる子どもに注がれる愛情や環境も、バラバラな男女(親の)状態だったのなら、あまりよいものとならないおそれが高くなります。

このようなことからもわかるように、「(二元)統合」は、別の観点(表現)で言うならば、「愛」であり、数で言うと「ゼロ」(ゼロの概念を置かない場合は根源的な1)であり、従って、重さもゼロ、すなわち、それは物理的には「光」と言えるのではないかと考えられます。

愛と光がよく似たような言葉の意味として使われるのも、そういう理由からではないでしょうか。

統合は、対立するふたつのものを認識(区別)するところから始まります。ここが実は混乱のもとと言いますか、誤解されているところであり、統合とは、すべて一緒にするという意味とは以て非なるものであり、ふたつのものの明確な区別が最初は必要とされるのです。

両方か混在して混沌としたままでは、統合という発想が起きないのが普通です。

昼と夜で例えると、一日(24時間、地球のひとつの自転)として統合するためには、昼の時間と夜の時間の違いがはっりと分けて見ることができていないと無理です。昼が一日、夜が一日だと同じにしてしまうと、自転している地球への認識(それが、この場合の統合観点)は出ません。

一日としての二元分離が不明確であれば、いわば、夜明けと日没の不透明な状態が、ずっと続いているようなものです。

よって、統合は、まずは二つの対立に気づく、認識するところから始まり、その違いを踏まえたうえで、そのどちらもがどちらでもないという感覚になる視点を持つようになってはじめて、統合されたと言えるでしょう。

さきほどの一日の例でいえば、地球の自転という発想が現れることで、太陽の光が当たっているほうと、会っていない裏側という見方ができて、こうして、昼と夜は違うけれども、それは単なる見方の違いで、実は地球としての自転が生み出しているものなのだとなるわけです。(言い換えれば平面の地上ではなく、球としての地球そのものの認識が生まれるということ)

長々と書いてきましたが、何が言いたかったのかと申しますと、二元統合の本質と、二元統合は形だけのものや、一緒くたに混ぜてしまうこと、単純に合わせることを言うのではないことが、まずあります。

次に、統合の機会はどこ(どのレベル)にでもあり、それを意識的にする(意識化する)ことで、本当の統合経験が増し、自己の愛も拡大していく(統合と愛は等しいものであることは先述しました)ということになります。


学びの本の探し方

私の講座を受講された方には、以後も継続的な学びをしていただくために、様々なアフターフォローを提供しています。

その中のひとつに、受講者用メルマガというものがあります。

このメルマガは、まさにタロットを学習した者だからこそわかる内容のもので、特別な知識と気づき、学習方法などを記載しております。

そして、そのメルマガでは、時折、本や動画などをご紹介し、課題として取り上げ、皆さんなりに学んでいただく企画もしております。(一冊の本並みの解説書を、取り組んでいただいた方にはお送りしております)

こうした時にも思うのは、課題とする題材を選ぶ難しさです。

よく、タロットの学びに当たっても、生徒さんから、「読むといい本を紹介してください」と言われますが、これは、紹介するほうとしては、案外、難しいことなのです。

いや、世の中に、タロットの本はたくさんあり、選択には困らないと思われるかもしれません。

しかし、占いとしての本は確かに多く存在するのですが、私の伝えたいこと、学んでいただきたいことは、占いに使われる意味でのタロットではないのです。

占いではないタロットの本は、実は非常に少ないです。ですから、むしろ、タロットそのものの本よりも、スピリチュアルや自己啓発、心理関係の本などのほうが、当を得ていたり、学習として効果的な場合もあったりするのです。

時には、映画とかアニメネットで配信されているフリーの動画などのほうが、示唆に富むこともあります。

こうした学びのための題材選びは、あまりマニアック過ぎないことが大事で、それでいて、ライト(軽薄)ではないもの、つまりは新たな視点や知識として、学びとなるものが必要とされます。いわば、普遍的でいながら、それぞれ学習者個人個人に対応する気づきも与えられるようなものがいいのです。

全員に共通するような学びがありつつ、個性(個人)的にも有用である、という一見矛盾した条件があるため、選別は難しいわけです。

さて、タロットに限らず、何かスピリチュアルなことに関心があり、そうしたもの(スピリチュアルや霊的な向上)について学びたい、あるいは何か自己啓発して自分を成長させていきたいと思っている人は、やはり人から学ぶか、そうした関係の書籍に当たって学習するでしょう。

まあ、最近は、ネット教材も無料で探せばいくらでもある時代ですから、ネットの文章や動画で学ぶという方法もあります。

とはいえ、まだまだ本・書籍の重要性は大きいかと思います。

いずれにしても問題は、本や動画など、自分の学びのための教材はどう探せばいいのかということです。

今は、気になる言葉や対象について検索すれば、関連本のタイトルや一部内容とか、紹介している人のブログとか、簡単に探せる時代ですので、当然、ネット検索を使うということはありです。

それに、自分が学ぶ分野の、先輩や先生が紹介してくれる本を読んてみるのも、王道といえば王道です。

現在は電子本が普及してきたとはいえ、まだ実際の本もたくさん出版されていますし、リアルの大きな書店に行けば、手に取って見ることもできます。

例えば、スピリチュアルなコーナーに行って、気になるタイトルがあれば、それをパラパラとめくってみると、自分の学びたい、知りたいことの一部が書いている本に出会うというようなことがあります。

これは、リアルな書店は、紙の本であるがゆえに、タイトルや本の雰囲気そのものが一望できることと、質感も伴っているので、ネットで検索して眺めるのとでは、また違う感覚があり、自分の心(顕在・潜在の意識)が引き寄せるかのような仕組みが、より働きやすいのだと想像できます。

ですから、実際に本屋に行くというのも、探求する本、自分に必要な本に出会うためには、よい行為だと考えられます。

あと、目的を変に絞り過ぎないということも、意外とポイントです。

また、ついでに・・・とか、気になってしまった・・・いう感覚も受け入れるとよいです。

例えば、ある(決めている)本を買いに行こうと足を運んでみると、そばにあった別の本が妙に気になり、手にして中を見ると、予想以上に面白そうだ・・・と思ったら、ちょっとお金はかかるかもしれませんが、思い切って最初に買いたいと思った本と一緒に購入してみることで、新たな知識を得たり、道が開かれたりすることもあります。

私自身の経験でも、こうした目的外の本のほうが、その後のために、案外、役に立ったということはよくあります。

いつもはこのコーナーに行くけれども、ちょっと隣や裏に回ってみようとか、そういうことからでも、新しい本と出会う可能性はあります。その時は買わなかったとしても、メモをしていて、あとで検索して調べて、よければネット購入するという方法もあります。

ほかに、仕事の出張や旅行の際に、訪れた地方や別の都市の本屋に立ち寄ってみるというのも、いい本と出会う可能性があります。

おそらく、いつもと、気持ち、土地の雰囲気も違うので、普段、気づかなかったり、無視していたりする本でも、別の地域の場合だと、意識が異なっているので、見つかりやすくなっている(心にひっかかりやすい状態になっている)のだと推測されます。

それから、学びのためには、乱読と集中というふたつのパターンが、その時々によって、効果的になります。

乱読は、ご存じのように、とにかくなんでも気になったものは片っ端から読んでみるというやり方です。

積読になっても構いません。とりあえずストックしておき、読めるものから読んでいきます。最近は場所を取らない電子本の購入、紙の本を電子化することもできますから、データにしてとりあえず置いておくというのもいいでしょう。

乱読は、とにかく広く浅く知識をつけたり、刺激をいろいろな方向から当てて、自分を磨く(学びをする)という効果があります。また、自分が何を欲しているのか、どうしたいのか、どういう方向に関心があるのかというのも、最初はわかっていないことが多いいので、乱読して、ぴったり、しっくりする分野を見つけるという目的もあります。

一方、集中法は、特定分野の本、同系統の本、あるいは同じ著者の本を集中して読んでいく方法です。

これは深く専門的に知識を得たい場合にはよく、好きな人の思想や考え方を、とことん学びたいという時にも向いています。一人を追いかけることで、その人になりきりつつ、また自分流の道を発見することもできます。

同じ分野でも、いろいろなアプローチ・見方があったり、多くの著者がいたりしますので、集中型といえど、乱読に近い形を取ることもあります。

それでも、一時、ある特定のものにどっぷり浸かってみるという経験も必要で、一通りのことが過ぎれば、自然に次の関心に向かうことができます。逆に言えば、人によっては、中途半端に済ませていると、なかなか先に進めない、足踏み状態が長く続いてしまうということがあります。

知識というものは、入れることを目的としまってはダメです。それは単なるエゴの知識自慢に陥りますし、逆に自分を偏狭なる世界に閉じ込めます。

本を読むにしても、必ず一冊全部読まなくてはならないとか、頭に入れてしまわないといけないとか、縛りをかけなくてもよいでしょう。(あえてルールを決めることで、学びを進める方法もありますが)

さきほども言ったように、知識を入れることが目的ではなく、その知識を使って、さらなる気づきや覚醒、成長を促していくのが本当の目的です。

知識を使うことは、何も入れた知識を肯定的に扱うことだけではありません。むしろ、アンチテーゼや、反対側の意見を自分に出させることもあり得ます。そこで葛藤になるわけですが、その葛藤がまた、統合や自分の進化に寄与していくことになるのです。

思考や知識を嫌う人もいますが、ハートのセンサーを磨いたり、本当の自己の中にある叡智を覚醒させていったりするためには、まずは知識を土台(踏み台)にしていく方法もあるのです。入れた知識、学んだ知識を、最終的には捨てるようなことになっても、捨てるためにはまず拾って確かめておく必要があります。

最後に、本などの学びによる選択は、個人ペース、個人ベースであることを言っておきます。

それは、自分の本棚が、誰か他人とまったく同じ本で埋められている、置かれているというようなことはあり得ないということからもわかると思います。

人には、自分なりの価値観や学びの方法があるのです。

人から紹介されることや、ネットで評判だからというきっかけはあってもいいですし、それから始まることも多いですが、学びの内容、方法は、人と違って当たり前だと意識しておくと、回り道をしているような気分でいても、あせらず、すべては自分のよき成長のために起こっていること、選んでいることだと理解できるようになるでしょう。

そうして、まさに、その時の自分にふさわしい本や知識と出会うことになるのです。


初心と思い出話

人間、慣れてきたり、上の立場に立ったりすると、初心を忘れ、ちょっと独りよがりや、傲慢になることがあります。

特に先生と呼ばれるような状況になりますと、自分は謙虚にいようと思っていても、知らず知らず、上から目線になり、学びの気持ちが薄れていくこともあります。

私もタロットを教え、指導することをしていますが、そういうことにならないよう、自分が下になることを意識しています。

自分が下になるようなことと言えば、いろいろと方法はあると思いますが、やはり、自らが学ぶ立場になること、そういう機会を作ることです。

もちろん、何かの先生や指導者になっても、その専門分野においてさえ、まだまだ学びは続ていくものです。

これで完成と思った時点で、技も知識も成長を止めてしまうことにもなりかねません。(段階別に完成を意識することは悪いことではありませんが)

しかし、専門以外のことで、新たに学びの徒、生徒になることのほうが、初心の気持ちに戻る機会が実際にありますから、有意義でもあるでしょう。

ということで、趣味でも何でもいいので、新たに別分野の初心の生徒になってみるのが、下の立場の気持ちになるひとつの方法です。

また、たとえ専門のことであっても、今までとは別の、ほかのアプローチで技術なり知識なりが研鑽できないかと試行錯誤してみたり、専門分野において実践活動するものがあれば、それを実際にやっていったりすることを絶やさないことも重要かと思います。

例えば、タロットでいえば、タロットの指導者であっても、タロットリーディングを、先生的な立場で行うのではなく、一介の名もなきタロットリーダーであるかのようにして、タロットをほかの人に役立てるようなことをします。

また、セラピストやヒーラーなら、自分自身が、ほかの(友人とか知人ではない)人の施術を受けてみるというのもありでしょう。

たとえその結果(受けた内容)がよくなかったとしても、自分の気持ちを新たにするという意味では、得られるものは小さくはないはずです。

ほかに、初心を思い出すため、その時、活動や学びをしていた頃の場所やイベントなどに足を運んでみるというのもいいかもしれません。

私の場合、メールや出張にてのタロットリーディング、タロット占いが実践活動としての最初でしたが、たくさんの人を一気にリーディングしたという初めての経験では、イベントでのものがありました。

それは、今も各地のホールなどでよくやっています、スピリチュアル関係のイベント、マーケットみたいなものです。

申込者にテーブル仕様のブースが割り当てられ、たくさんの出店者たちの人とともに、お客様をお出迎えします。フリーマーケット会場をイメージしていただければ、雰囲気はつかめると思います。

私は地元の神戸のイベントで、同じタロットの学びをしていた友人と一緒にブースを借りて出ました。

友人は、頭を剃っていましたので(修行者ではなく、友人の単なるスタイルです)、あえて着物を着ることで、お坊さんやえらい東洋占術関係の人に見えました。(笑)

で、私のほうはと言えば、これまた、わざとスーツを着て、まるで銀行員のようなスタイル(笑)で出たわけです。

同じブースに一人は着物姿のお師匠さん・お坊さん風、もう一人はお堅い公務員か銀行員みたいな雰囲気で、なぜか二人とも、同じタロットをしているというおかしな組み合わせでした。(苦笑)

これが良かったのか、両方ともお客さんは結構来られました。

面白いことに、友人のほうには、男性客がほとんど、私のほうはほぼ女性客でした。こういうイベントは、女性がほとんどなので、むしろ数少ない男性を集める友人はさすがと言ったところです。やはり恰好が男性をひきつけたのでしょう。

余談として、この時、友人のほうに来られた男性のお客様の一人が、何度か個別にリーディングしてほしいと、友人に依頼があったとのことです。恰好だけではなく、中身と技術も信頼されたのだと思います。

私も占いの館に出た経験があるのでわかりますが、男性はあまり、占いとかスピリチュアル関係には関心がないことが多いですが、一度信用する人を見つけると、口コミはあまりしませんが、すごいリピーターになってくれることがあります。人によっては、中小企業の会社の社長さんなんかが、一年契約で見てくれ、と依頼することもあるほどです。

一方、女性は気軽に占いには来られますし、口コミも流していただけますが、意外とあっさりされているところもあるように思います。

それはさておき、こうして初イベントは、一応の成功を収め、それから何度かイベントには出ました。

リーディング内容はつたないものだったと思いますが、何よりも、たくさんの人の悩みや問題をリーディングし、喜ばれた経験インパクト大で、タロットを以後もやっていこうというモチベーションになったのは確かです。

タロットの生徒さんにも、学びは続けていても、他人へのリーディングは勇気がないとか、自信がないと言って、やりたい気持ちはあっても、長いこと躊躇される方がいます。

しかし、どこまで行っても完璧と言う感覚を得られることはありません。

というのは、理想は、その都度、自分のレベルに応じて変わっていくからです。つまり、技量が上がっても、また次の理想が出てきてしまうので、「これで完璧だ」という気持ちは現れにくいのです。

であるならば、基礎技術・知識が得られた時点で、実践をスタートしていくほうが、慣れにもなって、自信をつける意味でもよいわけです。

もちろん、うまく行かない時はあるでしょう。それでも、何事もやってみないと始まらないのです。

今日は初心をテーマにしていますが、逆に、初心を早く脱するためには、実践をする、自分から行動を起こす、勇気をもって飛び込んでみることも大切だということです。

わかったと思うことと、実際にやるということとは違います。この世の中は実の世界です。わざわざここに来ているのは、たとえ自分でなくても、何(何者)かが望んでいるからでしょう。

ということは、実の世界を経験することが、ひとつの重要課題なのだと推測できます。結果ではなく、ただ経験をしたがっている何かがあるのだと感じます。

それが、もしかすると、カルマの解消や霊的な自己成長につながっているかもしれないのです。


数の関連性で読むリーディング例

マルセイユタロットには、がふられているものがありますが、その数はローマ数字で表されています。

数字は、ただその数・ナンバーを示す記号的なものだけではなく、象徴としての意味も含まれるところが重要です。

数を象徴として見るというのは、簡単に言えば、例えば、私たちが“ラッキーセブン”と言って、「7」に特別な感じを持たせているのと似ています。

つまりは、番号とか数量のための意味だけではなく、何かしらのシンボルになっているということです。

ということは、マルセイユタロットのローマ数字は、「絵」として考えることもできるわけです。

そこで、絵として見た場合、同じ形のものを含む数は、共通のシンボルを含むという考え方ができます。

例を挙げれば、「5」という数は、ローマ数字では「V」になりますが、「15」においても、「V」が入っているため、「5」としての共通の意味合いが出るということになります。

もっとも、この場合は、算用数字の「5」という文字が「15」でも見えるので、ローマ数字でなくても同じことは言えます。

しかし、例えば「19」だとしても、ローマ数字では「V」が入ってきますので、一見、算用数字では関係なさそうな数同士でも、ローマ数字の文字を象徴として見ると、何か関連性があるものと、とらえることが可能になります。

そういう意味で観察しますと、マルセイユタロットの「運命の輪」と「審判」は普通の(算用)数字で言いますと「10」つながりで、ローマ数字では「」の文字つながりと言えます。

通常、マルセイユタロットの審判の意味は、中央人物が箱(棺)のようなものから立ち上がっていて、大きな天使がラッパを鳴らしているその絵柄からして、復活とか再生、気づき、覚醒などが言われます。

天使のラッパによって目覚めたのか、覚醒したことにより、ファンファーレのように、新たな誕生の祝いを天使がラッパで鳴らしているのか、それは両方解釈できるかもしれません。

いずれにしろ、何らかの目覚めがあると見られます。

ここに、先ほどの数の関連で、「運命の輪」と照らし合わせてみます。

絵柄的には、ほとんど共通点は見られません。

ただ、注意深く見ると、マルセイユタロットの版にもよりますが、などにシンクロ性が見て取れることもありますし、「運命の輪」も、「審判」も、三匹の動物・三人の人物という似たところはあります。

ここは絵柄そのもののよりも、そこから見い出せる意味合いとしてのシンボルの共通性を見ていくほうが、数つながりではわかりやすいです。

運命の輪」は、詳しくは言いませんが、「時間やタイミング」の象徴性が強くあり、そこから見ていくと、「審判」にも「時間やタイミングに関わる何らかの象徴性があると考えられます。

逆に、「審判」の「覚醒」的な意味合いが、「運命の輪」においてもあるのではないかと推測することも可能です。

それが、先述したように、「10」という数のつながりがあるので、その数の意味も関連させて、両者を結び付けると、その違いと共通性が浮かび上がるわけです。

例えば、「10」には完結するという数の意味があります。何かの終わりと、また新たな始まりを示唆すると言ってもよいでしょう。

ということは、時間やタイミングにおいて、「運命の輪」も「審判」も、そうした終わりと始まりの象徴性があると読むこともできますし、同時に、そのニュアンス、レベルなどが、双方では異なるのではないかと想像することも可能です。

果たして、「運命の輪」のタイミング、「審判」のタイミングの違いは何なのか? そういうことを、「10」の完結性において考えるのです。

あるいは、覚醒における、「審判」と「運命の輪」の違い、そのタイミングの次元やニュアンスの違い・・・こうしたことも考察すると、数つながりによるカードの読み方にも幅が出ることでしょう。

すると、実践リーディングにおいて、「運命の輪」が出るのと、「審判」が出るのとでは、時間やタイミング、覚醒の意味合いにおいて、違いを考慮しながら、適切にリーディングできるのです。

それは具体的な例示になると、スピードや処理効率、情報を得るレベルの違いについて言及することができ、小アルカナも駆使して、お互いに(リーダーとクライアントが)話し合うことで、かなり密で、その人(クライアント)にとって実際的な意味が出てきます。

いわば、一枚のカード(の意味)は、ほかの関連あるカードによって、さらに個性的・目的化される(よりはっきり意味がわかる)わけです。

ですから、常に、カードは単体だけではなく、全体やユニットとしての構成を見て省察しておく必要があるのです。

マルセイユタロットは、このように絵柄だけではなく、数も含めて、膨大な知識と情報の関連性よって成り立っており、それを読み解くことで、私たちの問題の解決、浄化、覚醒に活かすことができます。

ただ、実践においては、あまり知識や細かいことにこだわり過ぎると、せっかくカードの象徴としての情報がありながら、まさに木を見て森を見ずのようになってしまい、出たカードによる、全体としての意味合いや本質が、なかなか把握できないジレンマに陥ってしまうこともあります。

こうしたことにならないように、カードを頑張って読もうとせず、カードからの声を聴くかのようにカードに自分を委ねてみる、または、自分の直感を大切にするということも、タロットリーディングには大切な姿勢になります。

そして直感や霊感みたいなものに頼り過ぎても、それはしょせん人間レベルのものですから、日時や場、体調によってブレがあります。言ってみれば、アンテナの受信状況に、混信が多い日と、クリアーな日とがあるようなものです。

その混乱をフォローしたり、判定基準が不安定にならないようにしたりするため、象徴の知識的なものを学び、その関連性を発見していく意味があるのです。

人には自分の得意な読み方(読みのタイプ)があるのが普通ですが、それに偏り過ぎず、バランスを図っていくことも、タロットを使う時には考慮しておくことと言えます。


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