ブログ

何が起こるかわからない学びの選択

2月というのは厳寒期で、人の動きも少ない時期と言われています。

しかし、旧暦的に見れば、年が新たに始まり、皆さんが1/1の年賀で目にする「新春」という雰囲気が、すでに出てきている時です。

むしろ新暦の一月、特に中盤から後半は、少し停滞しているようなところもあるかもしれません。それでも、その時期はその時期で、タロットでいえば、「吊るし」のようなもので、次の変化に向かって、準備している時なのかもしれません。

私が2月になって、思い出すのは、マルセイユタロットを初めて習ったのがこの時期だったということです。それも年や日にちまでばかりで、横に並べてみれば、、宇宙的な神秘の数(21+1)、タロットの大アルカナの数の「22」が見えてきて、それと関係しているのは、偶然なのか、はたまた必然なのか、面白い符合(笑)です。

何度かこのブログでも書いたことがありますが、生徒さんから、「どうしてタロットを習ったのですか?」とよく聞かれることがあります。

このどうして?には、「タロットを習ったのはなぜなのか?」という意味と、「どのような経緯で習うことになったのか?」という、いわばその時の状況を知りたいというふたつのニュアンスが込められているのを感じます。

そこには、教えている人のルーツが知りたいという好奇心とともに、実は、自分自身と重ね合わせているところもあるからではないかと想像しています。このタロットを学習してどうなるのか、自分の学びたいという気持ちを、他人と比較してみたいというのもあるでしょう。

ここで、私の「タロット事初め」を語ることはしませんが(探してもらえば、過去記事のどこかにあるでしょう(笑))、タロットを習うということに限らず、もっと一般化しまして、人が何かを学びたい、習いたいという時に起こることを、(タロット学習の契機を事例にして)少し書いてみたいと思います。

今は、学びや学習の機会は至るところに転がっていると言えます。リアルで人から学ぶ場合もあれば、昔は、本で、今はネットで勉強するという人も多いでしょう。

そして、セミナー・講座と称するものは、本当に山のようにたくさんあります。それこそ、心理や内面のこともあれば、成功やお金の投資術など物質的なことを教えるセミナー、昔からある、趣味やカルチャー的なものの講座まで、その種類も数も、今はものすごいことになっていると思います。

ネットのおかげで、わざわざ出かけなくても、自宅で指導を受けながら、手軽に学べるのも普通になってきました。

それほど、たくさんの学び事の種類がある中で、あなたはどうして、ある学びに興味を持ったのでしょうか?

これには、明確な理由がある人ももちろんいます。

会社からこの資格を取るように言われたとか、仕事で必要性があるからとか、人づきあいで、どうしても必要だったとか、もともと趣味で好きだったから・・・など、はっきりした目的と意志があるような場合です。

しかし、反対に、だだなんとなくとか、ネットを検索していたら偶然にとか、人に勧められて・・・とか、最初からそれに特に強い関心を抱いていたわけではないのに、学ぶことになったというケースがあります。

また、最初は「これ」を学びたいと決めていたのに、いろいろと調べているうちに、別のものに興味が出てしまい、それを学ぶことになったということもあるかもしれません。

例えば、タロットで言いますと、最初は皆がよく使っているウェイト版(ライダー版)のタロットを習おうと思っていたのに、いつのまにかマルセイユタロットに興味が出てきて、結局、マルセイユ版を学習することになったというような場合です。

また、タロットの種類をもともと知らずに、偶然、選択した講座で扱っていたのが、今自分が使うようになったタロットだったということもあります。

何が言いたいのかと言いますと、人の学びには、目的意識がきちんとあって学ぶ種類のものと、偶然のような導き、縁によって学ぶようなものがあるということです。しかも、前者でありながら、途中で、後者のように縁を感じて、別のものに切り替わることさえあります。

ということは、学びも、人や場の縁と同じように、自分の意志だけではなく、何らかの別次元の働きかけによって学ぶ場合もあると考えられるわけです。

自分の意志以外のものとなりますと、それは自分の無意識かもしれませんし、他人の影響や、悪く言えば洗脳かもしれず、さらに現実を超越したネットワークや高次存在からのサポート、介入ということも考えられます。

こういうことがあるため、結構、学びの選択に迷うようなことも出てきます。

それは、合理的な思考や論理だけで、学びを選べないこともあるからです。

先述したように、何か偶然で必然のようなこと(縁)、ほかから学べと言われているような気がするというような、シンクロ性とか直感性とか、心の声とか、そういうものが何となく感じられる場合もあるのです。

マンガ・アニメの「攻殻機動隊」ではありませんが、「私のゴーストがささやくのよ」みたいなものです。(笑)

こうした直感や心の声、自分のある気持ちに従って、結果的に学んでよかったという場合もあれば、失敗だったということも、当然あるでしょう。(よき直観性、本当の心の声をとらえたものは、たいていは、あとでも良かったと思えるはずです)

そして、意外にも、合理的・論理的に考え(選択し)ても、その学びの良し悪しは、終わってみないとわからないところもあります。自分の計算の予想外ということも実際にはあるからです。

それから、他人からの学び・学習の選択時に、よく問題となるのは、タイミング(時間)とお金です。

今を逃すともう学べないからと、お金に余裕はないけれども、セミナーや講座に申し込むというパターン、受講するチャンスはまた来るとはわかっていても、今とにかく学びたいから、お金やタイミングうんぬんを超えて申し込むというパターン、単純にお金がないので申し込めないというパターン、お金はあっても開講時期や日程が合わず、見送るパータンなど、いろいろ時間とお金に関係しての話はあります。

どれが自分にとっていいのか悪いのか、受講を決断したり、見送ったりするのはどちらがよい選択なのか、悩ましいところです。

はっきり言えば、これに正解はないと思います。まさにケースバイケース(個人で異なる)と言えましょう。

論理的な一般論としてのものは確かにあるかもしれませんが(費用対効果など)、やってみないと、何が自分に起きるかわからないこともあります。

私の場合でも、タロットを学ぶつもりは、当時全然はありませんでした。何か占い技術は学びたいとは思っていましたが、東洋系の占術のほうにひかれており、タロットはまったく選択肢にはありませんでした。

このようなことですから、私のタロット学習の契機は、計画的でもなければ、合理的でもなく、ただ何か占い関係の技術を身に着けたいと思っていたところと、当時の状況と悩みがあったので、むしろ、頭でじっくり考えている余裕はく、感覚的に選んだといえば聞こえはいいですが、わけわからず、問い合わせに出ていただきました、先生のススメに導かれるまま、あせって申し込んだところもありました。(笑)

とても冷静な判断だったとは言えないわけです。

しかし、面白いもので、こうして、私は今、タロットリーダーやタロット講師をメインにして生活しております。

ただふりかえって、自分のケースで見てみれば、またクライアントや生徒さんのことも見てきて思うのは、いわゆる「流れ」のようなもの、偶然のように見えて必然のようなものが、客観的に感じられることがあるということです。

これは「運命」というのとはちょっと違うのですが、どこかそれにも似ていて、自分の中のある部分が、縁ある選択を拾い上げる、くみ取る、流れに向かわせているという感覚が、客観的(あと)になればわかるところがあるのです。

またそれこそ、現実を超えたとろこからの介入が、自分の自意識の中ではわからない範囲で来ていたということもあるかもしれません。まさに、マルセイユタロットの「恋人」カードに描かれているようなことです。

あと、どんな学びを選択したとしても、それはやはり自分が決めたことなので、結果がどうあれ、自分の責任(自分を責めるという意味ではなく)として、きちんと受け取ることだと思います。

費用と効果・得た知識の乖離とか、教えの内容の問題とか、最初思っていたこととは違うものもあるかもしれませんが、どんな学びにしろ、まったく学びにならないものはないと言えます。

たとえ損しかならなかったと思ったとしても、その苦い経験は学びでもあります。(まあ、なるべくなら、そんな学びはしたくないというのが人情ですが)

それと、もし学びの選択でアドバイスがあるとすれば、今まで頭ガチガチで計算ずくで学びを選んできた人は、たまには非合理、直感で選択してもいいと思います。

反対に、直感や(ライトな)スピリチュアル(それは好き嫌いで選んでいるのが実態のことがあります)感覚で選ぶのが常になっていて、しかも問題が解決していなかったり(セミナー巡回になって、堂々巡りの状態の人とか)、成長した実感(精神や実際に自分の現実が変化した実感)がなかったりするような人は、もっと論理的(現実的)に、お金と時間を有効に使う選択をしたほうがよいかもしれません。

それでも、どんなことが自分にとって変わるきっかけや、一生のよい学び(ライフワーク)、仲間を得るきっかけとなるかわかりませんので、無理し過ぎない程度に、気になるもの、興味のあるものの学習は、どんどんやってみてもいいと思います。

せっかくの人生、いろいろと学び、それを活かして楽しんでみましょう。


精神、霊的な登山

スピリチュアルや精神世界を探求したり、追求したりしていくと、行き着くところは同じような考えになるのではないかと思います。

私も、自分のタロット講座でよく例えとして出しますが、皆さん、同じ山の頂上を目指しているとしても、山の裾野、つまりは登り口・登山道入り口付近では、いろいろな登山ルートがあるわけです。

ある人はルートの王道とも言える道から、またある人は、少し厳しめの道から、ほかの別の人は、時間はかかるけれども、とても緩やかな道から、そして時には、いきなりヘリコプターなどの、歩きではない、反則的(笑)方法で上がってしまう人もいます。

このヘリで頂上に行く人は、非常に特別な人か、普通の人でありながら、一瞬でも頂上の気分を味わいたい(味わう)人です。

前者の特別な人というのは、前世があるかどうか別として、何らかのそのような「現世の自分」だけではない経験や能力も継承していて、ほかの言い方をすれば、パラレルワードの自分になることができたり、その経験をこちらの今の世界に持ち込める人であったり、宇宙人(笑)みたいな人、またはそのような違う特殊の存在からサポートを受けたりしている人であったり・・・と、まあ、そのような特別な方々と言えます。

後者の、普通の人ながら特別経験を一瞬するというのは、例えばドラッグを使って、変性意識になって頂上を見るとか(ドラッグと言っても現代人工薬物的なものだけではなく、自然由来のものを安全に使用する方法も、かつてはありました)、お金と時間があるので、特別な装置とか能力をもった人に頂上世界を見せてもらうとか、特殊な聖域など、意識を変えやすい場所に、実際の行動として何度も自由に訪れることができる人とか、瞑想などによって、偶然、至福体験、一瞥体験を一時的にできた人とか、まあ、そのような感じのタイプです。

しかし、通常は王道を行くか、コツコツとした道を辿って頂上を目指します。(修行者はあえて厳しい道で、最短ルートを目指すこともあります)

山登りには、ガイドがいれば安全なように、やはり、このような道にもガイドは必要かもしれません。

しかし、考えてみてください。

本当の現実の山ならば、そのガイドは、頂上に何度も登っており、山を知り尽くした人になるのが普通です。

ところが、精神や霊的な山登り、ルートにおいては、頂上に行けたというのは、いわゆる完全に悟った人というようなことになるでしょうから、いわば、ブッダやキリストのような人が、ガイドにならなくてはなりません。

今現実にいる人で、さもガイド然としてふるまっている人は、本当に頂上に行ったことがあるのでしょうか?

さきほど述べたように、その感覚は一瞬とか短時間は持続したことがあるかもしれませんが、今の現実の人で、頂上に住みながら、衆生の救済のために、あえて下界に降りてきたという感じの人はいないようにも思います。

頂上への教えをしている人も、もしかすると、五合目とか七合目とかは、経験した人なのかもしれませんが、完全なる頂上世界となると、話は別でしょう。

それでは、誰も現実の人では、ガイドになることができないのかと言えば、そうでもあると言えますし、そうでもないとも言えます。

マルセイユタロットの(絵図の)教えでは、ある程度の山登りが進むと、そこからは、目に見えない現実世界の人とは異なるガイドに引き継がれると語られています。

途中までは、いわゆる先達と呼ばれる先生や師匠が、現実の人で確かに存在し、導いてくれるでしょう。自分の選択した登山口(それが技術や方法、思想などになります)の先輩、現実の指導者はいるわけです。

まあ、先輩にもいろいろあって、途中で脱落、下山した人もいるでしょうし、遭難したままの人、違う道のほうがよかったと途中で気づいて、やり直している人、いつのまにか違うルートに入っていても、結局は登っていることになっている人など、様々です。

中には、道半ばで、今生の命もつき、それまでのことを記録としてまとめて、後から来た人に託したり、秘密の場所に置いたりしている先輩もいるかもしれません。

昔はルートごとに厳密に分かれていて、そこの登山方法やコツ、注意書きなども、厳重にそのルートを登ると決めた人にしか明かせなかったのですが(登山の入り口のチェックも厳しいものでした)、現在は、ルートの統合と言いますか、地図の編纂も進み、ネットで公開されているような感じで、結構、入り口や途中までは自由度が増した気がしますし、ルートが異なっていても、登山の方法・情報そのものは、共有されてきたところもあるように思います。

これは、宇宙の進化の意志とも言えますし、私たち全体の意識の変化ということもあるでしょう。

ガイドの話に戻りますが、このようにして見ると、霊的な道のガイドは、途中までは人間であってもよいように思いますし、そこから上の、未知なるところは、おそらく昔も今も、自分専用に近い霊的なガイドが現れ、導いてくれることになるのでしょう。

霊的なガイドですから、人の姿をしているとは限りません、古代の象徴ではむしろ動物型が多く、マルセイユタロットでは「」として表現されています。(人や天使姿の場合も、タロットには描かれています)

しかし、結局、よく言われているのは、霊的ガイドも、自分の高次の姿、存在だということです。

頂上に近づけば近づくほど、具体性や個別性が薄くなり、自他の区別とか、いろいろなものがあいまいになってくると想像されます。ゆえに、霊的ガイドも、別存在のようでいて、(レベルの違う)自分でもあるというような状態が普通になるのだと考えられます。多層の共有とでも言いましょうか。

すると、自分のガイドは、時空も超えて、同時にある(別の)人のガイドでもあり、過去や未来、別宇宙の自分存在の可能性もあることも考えられるわけです。

山登りで例えれば、頂上近くになると、登って来た人を、一斉に面倒見てくれるガイドさん、お世話役がいるようなものです。

なぜなら、頂上に近ければ近いほど、もはやルートは関係なくなるからです。

実際の世界の登山を想像してみてください。頂上がもうすぐそこという段階では、見渡せば、別ルートから登ってきた人も見えているはずで、そうなると、世界はひとつに近く(全員が見渡せる範囲)、これまでは(ルートも)違っていたとしても、あとは皆、同じルートで登るようなこともあるでしょう。

つまりは、上に行けば行くほど、世界観は共通したものなり、皆同じ、ひとつという概念が自然になってくるわけです。同時に、個性や、やり方は、違いが薄くなり、個々のこだわりの世界ではなくなるのです。

ということは、逆を言えば、個々のこだわりが強いと、そういう世界(頂上世界)には相容いれないことになります。

古来からの教え、マルセイユタロットの示唆からも、本当は、この現実世界(下界)にいても、どの人も頂上にすでにいるのですが、それが幻想のようにごまかされていて(意識が気づていない状態)、私たちは、ゲームのような下界・現実世界で、いろいろな体験をしているように思い込んでいると言われます。

ですから、頂上にいるという意識が回復できれば(これは分離していない、ゼロポイント、大元の状態ともいえます)、本来の自分になるのですが、その時点で、個という観念が消えるであろうと想像できるため、現実を普通に現実と認識する段階では、またすぐ、人としての意識に戻るのだとも考えられます。

このあたりは、統合や霊的成長、悟りを目指すことでは矛盾の話であり、難しいところではあります。

しかし、現実感覚を持ちながら、頂上意識そのものではなくとも、頂上の完全性と、かなりの程度シンクロ(同調)させることで、心身や肉体の調整と、意識の大きな調和的変換が可能になるものとも想像できます。

現実認識を保ったまま、「ありのままと言われる状態」のものは、頂上とのつながり(交信・アクセス)が常に途切れず、山を登るというより、登山・下山、トレッキング、その他もろもろの、いろいろな方法で下界と山の両方楽しめることができる状態とも考えられます。

そうすると、これも矛盾的な話になるのですが、現実(下界)を安寧にするためには、頂上に意識は向いていたほうがよいということになります。(頂上を意識し過ぎると、現実からの逃避的願望になって、問題となりそうなのが矛盾的なところです。変な言い方ですが、現実に集中せず、しかし現実をリアルに楽しむという感じでしょうか)

矛盾することが統合できるのが、禅的にいえば、「悟」や「解」ということになるでしょうから、矛盾や葛藤をどうとらえるか、それは苦しみよりも、楽しみとして与えられた質問だと、あせらず解いていくとよいと思います。

それが、すなわち、登山していることになるのだとも言えるからです。


タロット学習におけるメモやノート

タロットを学習するとした場合、皆さん、ノートやメモを取りますか?

自分のこととして振り返った時、私はたくさんノートを取っていたと思います。

まあ、字が汚いので、あとで読むと自分でも何を書いているのかわからず、困る事がよくありますが。。。(^^;)

それから、これは、フランスで受けたカモワン・タロットの講義の時のことです。その時受講生用に用意されていたボールペンでノートに書いていたのですが、それがどうもインク性能が悪かったのか、あとでノートを見ると、文字が薄く消えかかっていたものがあり、これはちょっとショックでした。(苦笑)

タロットは、絵の象徴の学習であるので、あまり文字を書くこと、ノートを取ることに集中し過ぎても、かえって絵柄から関心をはずしてしまい、よくない場合があります。

日本人の、中年以降の人の学習・勉強方法のスタイルは、学校教育の時に身に着けたものがほとんどで、そのため、先生が板書して、それをノートに書いて、あとでテストの前に暗記する・・・などの形式に慣れてしまっている(固まってしまっている)ところがあります。

ですから、どの勉強でも、そのスタイルが出てきて、結局、ノートに取る事が勉強の中心になるケースが多いのです。

これの欠点は、ノートに書くことによって、いかにも勉強した気分になっしまうという点です。

書いた内容をまだ覚えてもないのに、ペンを動かし、筆記したことで、何か作業した気持ちになり、また講義を聞いているのも事実ですから、自分としては学んだ気分になっているのです。

けれども、その時点では書いた内容を覚えているわけでもありませんし、先述したように、書くことに意識が取られ過ぎていて、肝心の話や、絵・ビジョン・視覚、その他、書く以外で入る情報を見逃してしまうおそれがあります。

従って、タロットに限らず、学習の際に、先生や学校によっては、ノートに取ることを禁止している場合もあります。(その場合は、資料があとで配られることがあり、文字情報は補填されることがありますね)

講義によっては録音が認められることもありますので、書くことにとらわれ過ぎず、講師の話している内容や示される図などに、集中するほうが、受ける講義としては充実していることになるかもしれません。

まあしかし、長年の学校教育の癖はなかなか変えることが難しいので、無理やり、ノートを取らずに話から覚えるという方法をやり過ぎても、かえって、その人にとっては効率が悪いこともあります。

人間、慣れた方法を採るのが楽で、効果的という場合もあるのです。

それでも、タロットを学習する場合は、ノートに書くことだけではなく、やはり、先生の話とともに、タロットそのもの図柄・絵をよく見ていただきたいと思います。

その時、講義の話題やテーマになってるカードを、自分のタロットできちんと手に取り、確認し、見ることです。

時には、先生の説明している以上のものが浮かんてくることもありますし、これまで気が付かなかった絵の象徴、細かな部分などが発見できる可能性もあります。

その時の驚きやインパクトはなかなかのものがあり、そうしたことが印象として刻まれ、ただ単にノートを読み返すよりも、ライブ感覚の学習として効果があるわけです。

特にタロットは絵のカードですから、学習している時、講義を受けている際のシーンも、あとで同時に思い出すような形式にすると(つまり、イメージとして講義全体をとらえること)、さらにタロットの学びに、生き物的な感覚が出てきます。

講師側でも、あまりホワイトボートに書くことをし過ぎると、それを筆記しようと、もう自動的に生徒さん側で働くことがありますから、それを防ぐためにも、講師や先生のほうも、書くことに対しての配慮が必要かと思います。

しかし、逆を言えば、たまに書くこと、あるいは、強調して大きく書いたり、声や話とともに、「これはメモしておいてください」というようなものは、「書く必要が重要なことなんだ」「これは覚えておかねばならないことなのだ」と、聞いているほうも意識しますから、「書く」ことを、どう演出するのかも、大事なことではあるでしょう。

そして、講義を受ける側にとっても、書くことの工夫が求められると言えます。

漫然と、ただ板書されたものを筆記したり、話の内容をそのまま書いたりしていると、それこそ、書くことだけで時間が終わります。

重要なことだけを書くとか、その場合でも、あとでなぜ重要なのかがわかるような、何か意味や目印をつけておくと、なおいいでしょう。

もともと、書かないで学習するほうが好き、そのほうが学びのスタイルとして向いている(体験・実践型)というタイプの人もいらっしゃるので、人は人、自分は自分として割り切って、自らの効果的な学習スタイルを知り、構築し、実践することは大事です。

人が書くから自分も書くという態度ではなく、自分にはこれは書かなくていい、重要ではないと思えば、無視すればいいですし、人が書いていなくても、自分にとっては大切だと感じれば、自分流の形でメモすれば(頭や心にすることもあります)いいと思います。

私の場合は、自分が昔の学校教育に毒されたというか、染まり切ったタイプだということを自覚しているので(苦笑)、ノートを取ることもします。

ただ、やはり、講義やセミナーというものは、せっかく講師と対面してのよい機会ですので、もちろん「これは」という時には、手を止めて、話にも集中します。

また、タロットをするようになって、あまりノートとかメモを取ることは少なくなったのも事実です。それはタロットという象徴ツールを手に入れているので、いわば、タロット自体にメモしているようなもので、タロットを見れば思い出すようになってきているからです。

これ(講義内容を筆記するノート)とは別に、創造的ノートというものがあってもいいと思います。

それは講義が終わったあとで、自分が学習を見直し、自分の気づきや学んだ内容を、新たに書き起こしたようなノートのことです。

例えば、タロット学習の場合、タロットの象徴の意味など、講義で習ったこと、先生が話された内容はノートに書いている場合が多いでしょう。

しかし、自分であとで気づいたことや、自分にとってのカードの意味とか、体験から出てきた内容などは、講義の時ふっと出てきてはいても、なかなか同時に書き留められるものではないでしょう。

そこで、とにかく、講義後の別のノートを作り、自己学習としての創造的ノートを作っていくのです。

こうすると、ノートを取る意味もまた変わってきますし、ノートはただ話や板書されたものを記録していくものではなく、自分の思いや気づきを記録しつつ、そこからアイデアを出したり、自らの(実はもともと持っていた)深い認識を、思い出すため、取り出すための道具として使うことができるのです。

普段ノートを取らない人でも、書く作業によって、現実とのつながりを意識することができます。

いざ、書いてみると、話をするのと同様に、実は自分がわかっていると思っていることでも、あまりきちんと書けないことに気づきます。

抽象的に漠然としたことが、書くことで整理され、つまりは、あなたの想念・思念が降りてきて、現実の世界の枠組の中に入るということなのです。

書くだけで願望実現に近づけるという人がいますが、それはこの仕組みがあるからです。

タロット学習は人それぞれです。グループや集団で講義を受けている際は、先生からの講義は皆に向けて同じでも、受ける側は、自分に合うやり方で受容し、工夫して学んで行けばよいのです。


自分の願望のカードが出ると思っている人に。

タロットリーディングやタロット占いを行う場合、相談者(クライアント)側がカードを選ぶにしろ、タロットリーダー側がタロットを引くにしろ、どちらにしても、タロットをシャッフルして(くって)、偶然にカードを出します。

それを相談者(クライアント)の問題や課題、話す内容に照らし合わせて、象徴的に解釈を行って、相談者に気づきを与えるのが「タロットリーディング」であり、よい未来や選択の判断、運勢や具体的なことを当てていく、見ていくのが「タロット占い」だと言えます。

この時、タロットリーダーではなく、クライアントがカードを引く場合、こういう疑問を投げかける方もいます。

引いたタロットカードは、クライアント(自分)の希望するカードが出ているのではないかと。

実際に、何人かの人は、自分の思うカードが出ることが結構あると聞くことがあります。これは裏を返せば、その人にとっては、自分の希望したカードが出るに等しい感覚になると言ってもいいでしょう。

では、希望するカードを出すという芸当は、もしかすると、訓練すればできるのではないかと考える人もいるかもしれません。

私は生徒さんの勉強会やイベントで、カード当てゲームをすることがあります。

この目的は、いつと違った感覚でカードと親しんでもらうことや、直感力をあげることなどがありますが、一回くらいのゲームでは、なかなか皆さん、どのカードが出るのかを当てるのは難しいのが実状です。

それでも、その日、直感がさえている人は、結構当てる人もいたり、ちょっとしたきっかけで、それまでまった当てられなかった人が、当てられるようになったりするケースもあります。

サイコロも、強く念じれば希望する目を平均値以上に出すことが可能と言われています。(まあ、結局、たくさんの回数ふっていくと、平均値に収まると言われますが)

「一念岩をも通す」ということわざがある通り、何らかの強い思念は、実態・現象に影響を及ぼすこともあるかもしれませんし、スピリチュアルな世界では、強いイメージや想念が現実を引き寄せるという考えもあります。

もし、全部ではなくても、ある程度、自分の希望するカードが思いだけで出せてしまうのであれば、偶然出たタロットカードをもとにするタロットリーディングや占いは、そもそも成立しないのではないかと考えられる部分もあります。

ここで、占いとリーディングの違いを、再度見ることにより、この問題は、「占い」では問題になるけれども、「リーディング」においては、必ずしも問題とはならないことを説明したいと思います。

最初のほうに、タロット占いとタロットリーディングの違いを述べました。それをもう一度、上の文章に戻って読み直してください。

「タロット占い」では、出たカードは、未来予測や選択、現状の良し悪しの判断の根拠になる重要なものになります。もしこれが、クライアントの強い念で、その人の希望するカードを出していたということになりますと、それは占い(占うため)のカードではなくて、その人の希望がただ出ただけに過ぎないものとなります。

占い師が「あなたの未来はこうなると、カードに出ています」と答えても、クライアントの願望を言ったのと、実体は変わらなくなります。

もし、クライアントが自分の希望するカードをイメージしていても、あくまで偶然出たのだという認識であれば、まだ「占い」としての余地はあるかもしれませんが、クライアント自身がすでに予見していたかのごとく、「ああ、やっぱり私の希望したカードが出た」ということであれば、これは、占いをしていると言えるかどうかは難しいと思います。

翻って、「タロットリーディング」の場合はどうでしょうか。

タロットリーディングも、やり方自体は、タロット占いとあまり変わりありませんし、偶然出たカードというものが根拠になるのも同じです。

しかし、カードに対する解釈や扱いが占いとは異なります。

出たカードはあくまで、クライアント当人にとっての「象徴」であり、極端なことを言えば、質問の具体性を超越し、クライアント自身の今の状態を全体(でありながら個別も)象徴していると考えます。

ですから、仮に、クライアントが強い念をもって、自分の希望するカードを出したとしても、その一連のことが、すでに象徴であり、すなわち、このクライアントにとって、その希望するカードそのものが、非常に重要な象徴的意味合い(具体性や現実で起こることを意味するようなものではないこと)をなしていると言えるのです。

要は、希望する・しないに関わらず、出したカードを象徴として検討することに意味があると見るのです。

自分(クライアント)が強く希望しているカードであり、それが当人も自覚しているのならば、そのカードはかえって、本人を見る(自分を見つめる)上で、強烈な意味を持つことになります。

言ってみれば、わざわざシャッフルしなくても、もともとそのカードを強く意識しているのなら、タロットリーディングの場合において、偶然出す必要もないくらいです。

例えば「戦車」を出したいと思っていて、それが出せるくらいの人ならば、もう最初から「戦車」を出しておいて、「戦車」というカードから、クライアント自身を見つめ直す、問い直すということをしてみればよいのです。

ですから、クライアントの希望するカードがたとえ出たとしても、リーディング(タロットを使った対人援助)という観点や方法では、必ず問題になるというわけではないのです。

さらに、それでも、タロット占いやタロットリーディングにおいての偶然性を出したい場合は、タロット占い師、タロットリーダー側が、なるべくフラットな気持ち・状態を保って、カードをくったり、シャッフルしたりしてカードを引くことで、相手の念が入らないカードを出すことが可能になります。

それでも、能力者ばりに(笑)、タロットリーダーがシャッフルしているカードを念操作して、タロットリーダーに自分の希望するカードを出させるほどの人は、もう占いやリーディングするより、自分で思い描くイメージ、想念でもって、願望実現したり、人生をいい方向にコントールしたりできるはずですから、それをトレーニングしたほうがいいでしょう。

それほどまでではないにしても、自分がタロットを引くと、いつも思っているカードが出てしまって、偶然性の中の必然性のシンクロニシティやインパクトが感じられないという人は、タロットをイメージやビジョンのトレーニングツールとして活用することをお勧めします。

自分が成し遂げたいことを、タロットに投影して、そのカードを出せる自分と、現実に成し遂げたいことが現実化できるという確信とを、リンクさせていくわけです。

カートをシャッフルして引くのではなく、最初から願望実現や目標のための、設定装置・イメージやビジョンの強化装置として使うという感じですね。

このようなタイプの人は、サイキックな力も強いので、いろいろとサイキック的な力の影響とコントロールも、人によっては難しいこともあるかもしれませんので、サイキックにおける師匠のような人を持つとよいかもしれません。

タロットにおいても、魔術(西洋魔法)的な分野が合っている可能性もあります。(しかし、よい指導者や組織と出会えるかはあなたの縁次第でしょうし、能力や力を欲しての、安易にサイキックや魔法の世界に入るのは危険です。またそういう目的では、学ぶことは認めてくれないでしょう。黒魔術の世界は別とししても)

ちょっと横道にそれましたが、自分の願望でタロットが出てしまうと思うような人は、まずはタロットリーダーや、占い師側にカードを引いてもらうことで、少しは和らぐ思いますので、そうしてみるとよいでしょう。

あとは、早く、占いレベルのタロット扱いを脱却することですね。


タロットの時系列リーディング 過去

タロットの展開法では、時系列、特に過去・現在・未来を、出すカードの位置で決めている場合がよくあります。

例えば、スリーカード、三枚引きの技法では、単純に見て、向かって左のカードが過去、真ん中が現在、右が未来を示す(象徴する)カードだという具合です。

この時系列の方向性も、なぜ左が過去で右が未来なのか、考えてみると面白いのですが、残念ながら、カード単体と全体も含めて、その方向性に統一性があるシステムを持つカードは少ないかなと思っています。

その点、マルセイユタロットは、左と右の方向性には時系列的な意味合いもあるので、展開法においても、左側から右側にかけて時系列が進むと考えるのも妥当になります。

さて、こうしたタロットの時系列展開で、よく質問があるのは、「過去のカードの意味は何か?」「そもそも過去のカードは引く必要がないのではないか?」というものです。

過去はもうすでに終わったことであり、今更、カードを引いて読んだところで、何の意味があるのかというニュアンスですね。

これは、いわゆる「タロット占い」の観点であれば、そうかもしれません。

占いの質問では、クライアントの焦点・関心は、現在のことから未来にかけてが大半だからです。

占いの場合、だいたいにおいて、今の問題や悩みごと、迷いがあり、それを未来にはよくしたい、自分の思い通りにしたい、よい運勢の方向・選択を(未来においてなるように)選びたいという気持ちで、タロット占いを求める・行うからです。そこに過去への関心はほぼありません。

もし占いで、過去のカードに意味をもたせるとするならば、今までの選択パターンを見たり、占い師がクライアントの過去を当てて、その占いに信頼や神秘性をクライアントに抱かせたりする効果があるというものでしょうか。

ですから、クライアントにとってというより、占いの場合、当たることで評価が意識されるものは、過去のカードの読みは、占い師にとって重要(自身の力量か試される試験紙のようなもの)と言えるかもしれません。

しかし、占いというより、心理的なリーディングということになってきますと、がぜん、過去のカードは重要な意味を持ってきます。

占いの場合でも、過去のカードに、クライアント(質問者)のパターンを読むことがあるとは言いました。

そのパターンが、意外にもクライアント本人には、気がついていないケースもあるのです。

いつも同じような恋愛をしている、似たような恋人を選んで別れているとか、困難や苦痛の場面に遭遇すると、同じ反応をしていた・・・など、自分では盲点になっていて、改めて指摘されると驚くことがあります。

また同じパターンに気がついていても、それに意味が特にあるとは思っていないとか、隠したい、人には言いたくない部分であるとかの場合もあります。

そうした、自分のある種の反応・行動パターンを、過去のカードが表していると読み、それに気づいてもらって、現在以降に活かしてもらうことができます。

ほかにも、過去のカードを出してリーディングすることにおいて、とてもたくさんの意味があります。それらは私の講義で説明しております。

しかしながら、展開法(スプレッド)によっては、過去のカードはあまり枚数を出さないことのほうが多い気がします。それはやはり、タロットとその展開法が、占いとして開発・発達してきたところが大きいからと考えられます。先述したように、占いだと、現在から未来にかけて焦点が向くからです。

たとえ過去を読むことに意味があると認識したところで、上記で述べたように、展開法自体が過去のカードの枚数が一枚とか、二枚とかの少ない状態では、あまり詳しく見ることができないのも事実です。

心理的なリーディングをするには、それでは少し物足りないと言えます。

ですから、オリジナルな展開法でもよいので、もし心理的な意味でタロットを使おうとするのなら、過去を象徴するカードを、ある程度枚数を出すようにしてみてもよいかもしれません。

そして、このことが、今日一番言いたいことであるのですが、過去をリーディングすることによって、クライアントの人生、エネルギーに変化が出ることがあるのです。

それは、クライアント自身が、過去を受け入れることの、サポートができるからです。

ただ、過去を受け入れると言っても、誰かを赦さなければならないとか、自分の過去を称賛したり、感謝したりしなければならないということではありません。(そうできても、よいですが)

ただありのままに、自分の過去の、特にその時の抱いた感情を受け入れるということです。怒りや憎しみ、つらさ、悲しさ、寂しさ、悔しさ、反対に、嬉しさ、喜び、期待感、ワクワク感など、思い出していただくわけです。

過去となってきますと、やはり、親・兄弟・姉妹・家族との記憶、問題がどうしても出ることが多くなりますし、これまでの仕事や恋愛、人間関係においてのインパクトのあるシーンなどが印象としても出て来るでしょう。

それらが、今に全く影響を及ぼしていない人はほとんどいないのではないでしょうか。

過去としての事象は終わったことであっても、心の中の時間では続いているわけです。それが自分ではわからない状態か、認められない状態、逆に気にし過ぎて、葛藤や心理的苦痛・トラウマなどになっている状態、これらが現在の生きづらさ・問題として現れていることが少なくないのです。

過去のカードによって、隠れていたもうひつの時間の流れ、いや停止している時間(そこに過去の感情が貼りつき、固定されている)といってもいいものに入り、その時間を今の時間と同調させるように動かします。これは「運命の輪」の象徴性にも関係します。

過去の誰かや、何かを赦すのはあとでもいいですし、できなくてもいいと思います。

それでも、こうして現在まで生きてきた自分自身を認め、潜在的に止まっていた時間の中で感情を抱え続けていた、もう一人の自分、過去世界の自分を受け入れる(特に評価とか判断とかはしなくてもよく、どちらかと言えば、感情にフォーカスするほうがよいでしょう)のです。

たとえ受け入れられなくても、そうした自分がいたことを、もう一度発見してもらうだけでも、かなり癒しや浄化の面においても、違うことになります。

カードは絵なので、過去の実物の記録フィルム・映像を見せられるわけではありません。そこにも生々しくない(古傷をえぐるような痛さがない)緩和装置が働きますし、マルセイユタロットの図像の力そのものもあり、特殊な効果も期待できる部分があります。

私たちは、完璧な人間など、いません。

悩み苦しみ、迷う人は、ある意味善人であり、完璧や理想を追い求めるのが強いがゆえに、そうなっているとも言えます。

みんな、過去においては、恥部もあれば、間違いをした、失敗したと思ったこともあるはずです。それをいまさら正すこともできませんし、もし自分が害を被った側だとすれば、その気持ちを、無理やり愛や赦しに換えるようなことも難しいでしょう。

ここで言いたいのは、死後に行わわれるというものと近いことです。過去をただ改めて見て、「大変な人生(過去)だったなあ」とか、「あれはひどかった、苦しかった」「あの時は良かった」とか、そういう振り返りを過去カードによって行うというものです。

不思議なことに、それだけで、変容が起きる場合があるのです。その理由は、ここで書いたような、ふたつの時間のシンクロと流れが始まることや、感情の浄化などのことがあるかもしれませんが、ほかの理由もあるでしょう。

過去のエネルギーが戻れば、私たちは心理的に、今と未来に向かって、もっと積極的に、前向きに生きていけるものに変わっていくのです。

占いで、「未来によいことがある」と言われれば嬉しいのはわかりますが、過去のことが置き去りにされたり、抑圧されたりしていると、そのよき未来さえも引き寄せることができない(自分で自分の運命のを変えてしまう、言い換えれば、たくさんの可能性の中から、過去の苦しいエネルギーに引き合うものを選択する)こともあるわけです。

ですから、過去のカードを出すこと、リーディングすることも、決して無駄ではなく、それどころか、人によっては大変重要な意味を持つのです。


Top