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自己評価が低い人、生きる価値を見出したい人

自分の中に高次な存在がいるとか、内なる神性が宿るという話は、精神世界、スピリチュアルに関心のある人には、半ば常識的なものです。

私の使うマルセイユタロットも、そうした思想のもとに作成されていると考えられます。

しかし、同時に私たちは普通の人間として、肉体的・精神(心理)的に悩み、迷い、苦しみ、また苦痛から逃れ、快楽や安楽などの利己的な欲求をかなえようとする存在でもあります。

いわば低次と高次、その中間の状態などが混在し、それらの葛藤の中に実際の「生」や「現実」があると言えます。

難しいことを考えれば高次の状態に至るわけでもありませんし、かと言って、単純に、自分の気持ちのままに生きるということも、どこまでが通常の状態の欲求から来ているのか、高いレベルの成長につながる求めになっているのか、わからないところもあります。

ですから、あまり低次・高次などの区別をつけ過ぎず、様々な自分がいることを認め、前のブログでも書いたように、それぞれの状況によって、各種モードの自分でもって対応していくというのが、現実的・臨機応変的生き方になると思います。

とは言え、この時代、いくらたくさんのコーチとかセラピストとか、カウンセラーとか、セミナー講師とかの方々が、自己評価を上げること、セルフイメージを高めることの重要さ、その方法を述べているにも関わらず、なかなか自己の価値を十分に認めることのできる人は少ないのではないでしょうか。

悪い言い方をすれば、自己評価が低い人は自己評価の高い人に、ビジネス的に搾取されるところもあるような気がします。

さらに社会全体や世界レベルで考えると、なかなか普通の人が、自分が(特別に)貢献しているなどとは思えにくく、むしろ、生きていることすら価値がない、無駄かもしれないと落ち込むような状況・人間は、結構多いのではないかとも想像します。

一言て言いますと、現実は、自己評価を高められるほどやさしい社会(世界)ではないということです。

もちろん情報や方法次第で、生き方も楽になったり、成功したり、それに伴って自己評価をグンと上げることのできる人もいるでしょう。

よく、社会や人のせいにするな、すべては自分の問題だと言われますが、ある面ではその通りではあるものの、物事は一面たけでは推し量れず(ひとつだけの原因や要因とは言えず)、環境や仕組みのほうが、自分に問題を引き起こさせていると取ることも可能だと思います。

学力やスポーツ、そして経済など、すべてにおいて激しい競争や他者との比較評価に成り立つこの世界では、自己評価を高めたり、自分が役に立っていることを真に感じることなど、至難の業ではないかと思うほどです。

と言っても、現実は現実、社会は社会です。こういう世界であっても、生きていくことを、私たちはおそらく選択して誕生しています。

ということで、たとえ自己評価が低く、生きる価値があるのだろうか?とか、自分が何か役に立っているのだろか?と思っている人がいても、ある考え方をすることで、何とか生きていけるかもしれない方法を、私なりに、簡単に伝えたいと思います。これは、何よりも、自分に言い聞かせているものでもあるのです。

それは自分自身に意味や価値を見出そうとしたり、発見したりしようとせず、生きるプロセスをただ続けるということです。

それでは空しいばかりと思うでしょう。

ここで言う「ただ生きる」というのは、何もしないのではなく、ある目的を持って生きるということです。

それは「真理を追究する」という目的です。ただ、真理と言っても、たぶん、真理などというものは見つからないかもしれませんし、ないのかもしれません。

それでも、違う言い方をすれば、「どうしてこのような世界・システムになっているのか」「なぜ生きる(生きているのか、生きなければならないのか)」ということを、「生」の状態をつつけながら追求していく態度のことを述べています。

必ず答えを出さなくてはならないというものでもありません。たぶん一生かかっても、明確な答えは出ないでしょう。また、よく一般的に言わるような「自分の生きる意味(価値)を考える」というものとも、少しニュアンスか違います。

自分(だけ)の生きる意味を考えるのではなく、社会・世界全体としての生きるシステムについて、どういうことだろうかと思考してみるということです。哲学的と言えば哲学的かもしれません。

そうすると、安易に死ぬわけにもいきませんし、漫然と受動的に生きるのも問題となります。

平たく言えば、自分に深く追求するテーマを持って生きるということで、日々がそのテーマを深め、構築してくプロセスとしての道になるということなのです。それでテーマとして、「自分の生」を考察モデルとし、「人生」と「宇宙システム」みたいなものを設定して考察してみましょうというわけです。

ですから、人に役立つとか、自分に価値があるかないかとなどとは無関係になります。

けれども、ずっと(寿命まで)生きなくては。ある程度の答えを得たり、テーマを深めたりすることができないものです。年齢や経験を重ねることで、こういった考察はさらに進んでいくものでもあります。

ところで、この世界を例えばゲームのような仮想世界だとすれば、ゲームの設定を最大限に活かして自分が楽しむというケースと、もし他者と協力してゲームを楽しむことが目的であれば、そうした同作業によって、ゲーム設定内の目標を達成していくというやり方もあるでしょう。

一方で、否応なくゲーム参加してしまったとか、ゲームそのものを楽しむ目的ではなく、ゲームの状態はどうかとか、ゲームの出来具合をチェックする側として参加した場合もあるかもしれません。

さらに言えば、非常に高度なゲームとして、自分自身がゲームプレイヤーであることと、ゲームの世界にいること自体を忘却するようなシステムのゲームに自分を入れて、どうやってゲームであることを自覚するか、ゲーム世界から脱出するかを課している、ちょっとアブナイ(笑)ケースで参加していることも、突飛ではありますが考えられます。

上記の場合、もしかして、何かの罰や刑として、そうしたゲームということを忘却させられる世界に放り込まれていることも考えられます。

どうしても、何をやっても、自分に価値が認められないという人は、案外、この最後の方に述べた、忘却ゲームに危険を呈して参加した人か、刑罰的意味や、試験のように送り込まれた人なのかもしれません。

それは自分に価値がないのではなく、このゲーム世界においてのキャラクターになっていることが認められない、あるいは、何か問題がある(という設定となる)ということです。この違いは大きいです。自分は本来価値があるのに、ないと思えるところに来てしまっているわけですから。(苦笑)

それでも、ゲームの外の本来の自分からの声や通信が届くことがあるような気がします。本来の自分もまた何かのことで眠らせされているのかもしれませんが・・・とにかく、ゲームの内と外で響き合う、何かの手段があるように思われるのです。

それが高次の声とか、内的なメッセージとか、神性の力という表現で見られるものではないでしょうか。

ここで、(生きづらく思っている)皆さんに、提案があります。

ブログでも何でもいいので、自分に対して何かメッセージを書いてみてください。

毎日でもいいですし、数日おきとか一週間に一回でもいいです。メッセージは励ましとか、他人に向けた自分の気づきのようなことが望ましいかもしれません。

ネガティブなものとか、愚痴ような人間的なつぶやきというより、自分向けではあっても、誰か近しい人とか、親しい人、そんな人がいないとしても、過去の困っている自分に向けたものの感じで意識して書くとよいです。

そうしておいて、かなり間を空けて、過去書いた自分のメッセージを何気なく読んでみてください。タイトルをつけておくと、タイトルに引き寄せられて、自分の書いたものを過去ログから読むことができやすくなるでしょう。

少なくとも、半年とか一年はやってみて、それくらいのスパンを空けて、過去のメッセージを改めて自分で読んでみます。

すると、たいていは書いた内容は忘れているものの、そのせいもあるのか、不思議と自分の書いたものとは思えない感覚で、まさに自分に向けたメッセージとして深く入ってきます。

これは、未来へ向けた自分へのメッセージとも言えますし、その逆とも言えます。

例えば、今自分が過去の(苦しい時代の)自分をイメージして書いていたとしても、そのメッセージを読んで役立つのが、意外にも未来の自分の場合もあるのです。

ということは、すべてはつながっているのです。つなげているのは、内なる高次の自分と言えます。

このようなことでも、生き続ける可能性を感じさせます。

誰にも神性があります。だからこそ、それが発露する可能性はあるのです。自分が自分を導いたり、教えたり、サポートしたりすることは、マルセイユタロットの「太陽」の絵柄のごとく、ありうる話だと思います。

真理を追究するという話をしましたが、これは言い換えれば、高次の自分と低次の自分との共同作業や接触を、生きながらに増やしていく感じに似ています。

高次の自分に励まされながら、価値が低いと思っている(低次の)自分が、何とか酷なマラソン(笑)を続けていくようなものです。

マラソンは時に大変で、そして、なんでこんなことしているのたろうと思うかもしれませんが、応援してくれている者が、何よりも自分自身なので、続けて行かざるを得ないのです。

ゴールした時、そのもう一人の自分は、とてもねぎらってくれるでしょうし、今回のマラソンレースの本当の意味を教えてくれるかもしれません。

でも、走行中でも、少しずつ走っている自分が、このレースの謎解きをやりながら続けていくと、もう一人の自分もヒントを与えてくれるかもしれません。そして、コース自体が当初の予定から変わって、特別なルートに導かれることも考えられます。

それはこの世界(ゲーム)の出口(ログアウトポイント)なのかもしれないのです。

没頭するゲームプレイヤーではなく、観察者である自分ならば、ゲーム内での自分に価値があるかないかよりも、観察することそのものに意義があることになり、究極的には自分の存在の価値よりも、世界のあり方のほうが重要だということになってきます。

そして、おそらく、世界や宇宙のあり方の探求は、回りまわって、自分の価値の評価につながってくることになるでしょう。

そう、あなたがまだ自分に価値がないと思っているのは、(世界や宇宙に対しての)勉強不足のなせるわざなのです。たぶんね。(笑)


タロット、ビブリオマンシー

皆さんは、ビブリオマンシーというものを知っていますか?

ビブリオは書物、マンシーは占いのことで、つまりは、本を使った占いです。

簡単なやり方としては、本を無作為に開いて、出たページに書いてあることが、質問の答えやメッセージだと見ます。

この時大切なのは、ビブリオマンシーに使う本の選別です。

どんな本でもできないことはないのですが、やはり、使う本自体に信頼を置いていることが重要で、占いとは関係ない本だとしても、自分がその本と内容に信頼や愛着がありよい言葉とか文章が書かれているものを選ぶことがポイントです。

いわば、本を神託の出所とするわけですから、それだけ本への神聖さというか、大切だと思えるものが望ましいわけです。

純粋な占いの意味でやってもいいのですが、私はシンクロにニシティ(偶然の一致、偶然性にある必然性)を見るために、たまにやることがあります。

まあゲーム的なことで、行うこともありますが。

私の場合、マルセイユタロットの本も利用します。

タロットの本には、最低でも、大アルカナの一枚一枚の説明ページがあることがほとんどです。

そのため、偶然開いたところが、どれかの大アルカナのページであることもよくあるわけです。これは、言ってみれば、タロットの一枚引きをしているのと同じになります。

そして一冊の本だけではなく、三冊くらいの本を使います。すると、大アルカナとか小アルカナとか、都合三枚くらい現れることになります。

同じカードで、重なることもあると思われるでしょうが、それはそれでシンクロ的な意味が強まりますから、よいと思います。

私の場合は、カードが重なることはあまりありません。だから、三枚引きしているような形になります。

ただ、面白いことに、似たような意味やニュアンスのカードがそれぞれに出ることが多く、本質的には同じことを言っているのだろうと推測することができます。

ここで、気づいた人もいるでしょうが、それならば、何も本を開かずとも、タロットを引けはよいのではないかと。

その通りです。(笑)

私が言いたかったのは、タロット占いは、見方によっては、実はビブリオマンシーの一形態と言えることもできるということなのです。

タロットは一種の書物なので、製本されて本の形になっていないだけで、1ページ1ページが本から離れて、自由に選んだり出したりすることのできるのがタロットと言えましょう。

ということは、78枚のページがあることになり、それをすべて読まないと、タロットという本を読了したことにはならないわけで、タロットを本という目で見ると、全体的・組織的・マクロ的な視点でもって扱うようになるのです。

同時に、タロットは本とは違い、ページそのものを本から独立させることもできます。

本のページは切り離されてしまえば、意味をなさないことがほとんどですが、タロットは、独立でも意味をきちんと持って、活用できるところが違います。

小さな者たちの集合体でありつつ、一人ひとり一騎当千の実力を持って独立した動きもできるという、恐ろしい軍隊です。(苦笑) あなたは軍師として、この軍を動かすことができます。

本といえば、マルセイユタロットで関係の深いカードに、「斎王」(一般名では女教皇と呼ばれるカード)があります。彼女は、その手に本を持っています。

このカード自身が「タロットという書物」の一部(一枚のカードと象徴)を示しながら、同時に、タロットの全体、一冊の書物としての重要さも表しているという二重構造になっています。

タロットは「宇宙の書」と言われています。精巧なタイプのマルセイユタロットの場合、この宇宙との関連を強調するため、「斎王」の持つ本の行数に、ある数を示して、宇宙との関係の意味を持たせています。

この行数は案外重要で、「斎王」を(主人公として)使った特殊なリーディング技法では、この数に応じたシャッフルや段階を経て、本の左右に置いて、自分の読むべき(入れる)知識と直感性(ふたつで二元性)を示唆させることがあります。

スピリチュアル的には、「斎王」の本は、実際の書物というより、ある種のエネルギーや波動ということも考えられます。本の行が波打っているところが、それらしく感じさせます。「斎王」自身も、自分の手にしている本に目をやっていません。

読まなくても、その内容がすでにわかっているのか、はたまた自分の手に余る特殊な文字やエネルギーで刻印されているので、その解読できる人を待ち受けているのか、いろいろな解釈ができます。

ビブリオマンシーのことに戻りますと、ビブリオマンシーは一人でやってもいいのですが、仲間とともにやってみるのも楽しいです。

グループで、ビブリオマンシーに使う本を選択し(一冊か数冊)、質問者と本を開く人を決めて、全員でやってみるとよいでしょう。

カードが描かれている本でもよいのですが、普通に文章だけのものでも面白くなります。

質問とはまったく関係ない本やページのはずなのに、そのページを読むと、不思議と、占ってもらっている人は、自分に関係していることを言われているように聞こえてくるでしょう。

お勧めは、ページごとにポエムのようなものが書かれている本がよいかもしれません。

例えば、私は今、ちょっと本棚を見て目についた、カルロス・カスタネダの「時の輪」という本を手に取り、私と読者の皆さんに、任意でページを開いてみます。(ビブリオマンシーをするということです)

皆さんも、何か質問とか悩みを思い浮かべてみてください。

さて、無作為に開いたページに書かれている言葉を載せてみます。

「悲しみとあこがれのない完璧さなどありえない。なぜなら、それらがなければ、まじめさもないし、いたわりもないからだ。いたわりのない知恵も、まじめさのない知識も、使いものにはならない」 (カルロス・カスタネダ著「時の輪」北山耕平訳 p216 より抜粋引用)

全然ピンと来ない人もいるかもしれませんが、もしかすると、皆さんの中の誰かは、このビブリオマンシーの言葉が、自分の悩みとか問いの参考になったかもしれません。私自身はちょっとびっくりのシンクロでした。

ビブリオマンシーを楽しみつつ、その一種でもあると言えるタロットマンシーも味わってみてください。(笑)

こうしたことができると言いますか、信頼するかどうかも、自分の見ている・経験している世界すべてが、繋がっている、関係しているという前提あってのことです。

世界がバラバラで無関係であり、ただの物質と目に見えている世界だけということしか信じられない人は、そもそも、こういうことをしても意味はないでしょう。(バカバカしいと思うだけです)

さらに、ただの占いで楽しむだけではなく、自分のしている行為が、高次の視点、真理を追究する観点では、どういったことなのかということも、必要なものだと思います。


多様なるモードの自分

マルセイユタロットを心理的に見る場合、カード自体が私たちの心や姿を象徴していると読むことがあります。

カードに自己を投影すると言ってしまえば簡単ですが、ちょっとニュアンス的には投影とも違います。

まあ、しかし、そこは難しく考えず、あえてシンプルに、カードが自分の気持ちなどを表していると見ることもある、とします。

一般的には大アルカナ22枚が、マルセイユタロットの場合、絵もついていてわかりやすいので、大アルカナを心理的に見るほうがスムースですが、小アルカナも、宮廷カード(コートカード)が人物絵になっていますし、数カード(数札)は記号的ではあっても、特に数の意味を見ていくと、これも何らかの形で自分を表していると取ることができます。

マルセイユタロットは極めて優れた象徴システムを持ち、大アルカナは心を動かし、小アルカナは現実や具体に焦点を合わせ、つまりは現実を動かすことができるような設定になっています。ただし、両者を組み合わせることが重要です。

この意味(だけではありませんが)で、やはりタロットは78枚なくてはならないというのが私の持論です。

さて、そのような、いわば、「自分」を多面的に象徴する(ことのできる)「タロット」なわけですが、ここで一度タロットから離れて、「自分」というものを考えてみましょう。

では、これから、素朴な質問で、なおかつ、深淵ともいえる質問をいたします。

「自分」とは何ですか? あるいは、「自分」とは誰ですか? どの時・どの姿が「自分」なのですか?

自分って、「このわたし」でしょ? と言う人がいるかもしれませんが、では、その「このわたし」とは誰で、何なのでしょうか?

結局、これらの答えはなかなか出ないと思います。

よく本当の自分とか、ありのままの自分とか言いますが、それもたくさんの自分の姿や思いの中のひとつに過ぎないのかもしれません。

だいたいは、自分の気持ちに正直になっている自分とか、嘘をついていない自分、一番ストレスフリーのリラックスしている自分・・・というのが、ありのままとか、本当の自分とかでとらえられていることが多い気がします。

しかし、それもよく考えれば、「そういうモードの自分」と言えなくもありません。ということは、他のモードの自分は別人なのかということです。

確かに、何も気遣わない自分というモードは、外や他に向けて変形しなくてもいいので、それが本当の自分に近いのかもしれません。

ただ、突き詰めてしまえば、どの人も、外部的なものにまったく無関心で無頓着、反応しないようになっている(そうしていい)自分というものになれば、電源オフのロボットや機械のような代物になるのではないでしょうか。もっと言えば、判で押したような金太郎アメ人間ばかりになる気がします。

こうして見ると、おかしな話ですが、ありのまま自分の究極とは、無個性の人間で、皆同じ人になってしまうことも考えられるわけです。

逆に言えば、私たちは自分の様々なモードを持つことで、個性が保てている、多様性が存在しているとも言えます。

そして、ここが重要ですが、自分が多数の顔や姿、心を持つということは、他者との比較や外からの刺激があってこそのものです。

先にも言ったように、外に反応しない自分は、行き着くところまで行けば、スイッチオフの無個性な自分になるおそれがあります。

違う言い方をすれば、他人と比べることができないので、自分が区別できなくなるわけです。それは、つまり、自分(自我)が失われるという意味に等しいです。

よって、あまり、ありのままの自分を探そうとしたり、こだわったりしたりせず、リラックスモードとか、他人にあまり気遣わない意味の正直モードの自分というものが多くの自分の姿の中にいて、それが抑圧され過ぎていないか、そのモードになることを否定しようとしていないかを見るくらいの気持ちがいいのではないかと思います。

自分の生活環境が、リラックスモードの自分、心が軽いモードの自分をかなりに出しにくいことにしているのであれば、それは変えたほうがいいかもしれません。

また、環境の問題だけではなく、たくさんの自分の姿の中で、権力を握っているものや、多く出る時間を与えてしまっているモードの“自分”を、他のモードの自分たちと調整・修正していく必要があるとも言えます。

簡単に言えば、暴走している自分を、ほかのモードの自分によってコントロールしていくということです。

それには、多様性ある、多くのモードの自分を認めることが大事です。自己受容が、自己変革や自己の調和につながる意味も、ここにあるのです。

そして、もうひとつ大事なのは、先ほど述べたように、自分は他人との比較によって「自分(自我)」というものができあがっています。

ということは、他人との関係は、自分をいい意味でも、悪い意味でも、大きな影響を及ぼし、自分(自我・個性)を作り上げる要素となります。

個性は、パーソナリティといわれるように、ペルソナ、仮面という言葉から来ています。他人や環境によって、仮面を付け変えて(つまりはモードチェンジして)生きるているのが、普通の私たちです。これは機能に過ぎませんし、またこれがあるから生きられるようなものです。

ただ、この現実の仕組み中では、個性は機能たけではなく、自分の役割や使命のようなもの、生き甲斐、自分の存在価値にも関わってくることがあります。

個性・パーソナリティが、他人や周囲よって規定されてくることが多いのであれば、それに振り回されるだけでなく、意図的に自分の環境や人との交際を選択することによって、他者からの影響を変え、結局、自分のパーソナリティモードも増やしたり、変えて行ったりすることも可能になるわけです。

単純なことで言えば、落ち込んだり、自分の価値が低いとか、否定的なモード、ネガティブモードの自分になっている時は、他人から励まされたり、いいことを指摘してもらったり、勇気づけられたりすることで、自分のモードが肯定的なものに変わることは、誰しもが経験していると思います。

つまりは一人だけで悩み、落ち込んでいても、その悩みモードの自分の中だけで堂々巡りするだけで、なかなかモード変換、モード脱出ができないわけです。

自分の個性は自分だけではなく、他人や環境によって決まってくるのですから、一人で閉じこもることは、かえってそのモードの固定化を招きます。

※ただし、自分の中で次元(レベル)を変えた他者モードを登場させることができる場合は、むしろ一人になって、その状態を出すほうが問題解決になることもあります。いわば瞑想などによって、高次の自分・ハイヤーセルフと会話するようなものの場合です。

他者からよい影響を受ける場合でも、人のモードの共通的パターンを知っておくとよいことがあります。

自分自身の中で、暴走モードの自分、抑圧モードの自分を知ることもできますし、人を見て、自分にとってはあまり出ないモードの自分を見分け、その人からの刺激で発動させる(よい意味で)こともできます。

そのようなパターン・モードの整理、モデルとして、マルセイユタロットが使えるということです。

世の中にはポジティブーモードの人もいますが、自分を否定したり、価値がないと言ったりして、ネガティブになりがちの人も少なくありません。

でも、それも一種のモードなのです。ただ、自分がなりがちなモードがそれだということです。

無理に「こうしなくてはならない」とすれはするほど、劇でいえば、ひとつのモードは(あなたの人生という)劇からの退場に抵抗します。(だって、誰でも主人公で長く出たいでしょ?(苦笑))

よく出るモードの自分が、俺が、私が主役だと言い張るわけです。

ですから、そういう自我モードの自分を認めることと、無理に退場を願わないということです。主役で楽しんでいるそのモードの自分の演技は、十分やれば自然に終わってきます。

あるいは、ほかのモードの自分を抑圧したり、役を与えないようにしたりせず、いつでも主役になれるよう、少なくとも、自分の中にいることを発見し、認めておくことです。

それには、他人からの指摘というか、評価も必要なことがあります。(あなたはこんないいところがあるんだよとか、あなたすごいですよとか、評価される自分の経験や、生きていることを受け入れてもらえる他人からの態度とか言葉)

そうして、自分の中にあるいろいろなモードの自分を、自分の劇場でまんべんなく演じさせていくと、いつしか、劇を超えたもの、モードを作り出している次元が見えてくるでしょう。そこにこそ、本当の意味での自分が存在するのです。

だから、あなたは現実では、どんなモードの自分にもなれますし、どのモードであってもいいのです。


吉野の蔵王権現とタロット

マルセイユタロットにはいろいろな使い方があります。

そのひとつに、たとえ信仰や宗教は違っても、マルセイユタロットの描かれている図像が、共通的に、ある種の神仏のエネルギー(本質と表現)とリンクし、カード自体をミニ像と見立てることができることです。

ところで、先日のGW中、最後の日でしたが、奈良の吉野に行ってきました。

吉野と言えば、が有名であり、吉野を訪れる観光客のほとんどが、桜の時期に占められるというほどです。

まあ、そんなわけで、桜のシーズンは吉野は激混みするわけですが、それでも上千本、奥千本と上に行けば行くほど、人も少なくなってきますので、場所を選べば、観桜期でも落ち着いて見られるところもあるかと思います。

と言っても、やはり桜目的でなければ、桜のシーズンは、はずしたほうがゆったり観光できます。今回の私の目的は、観桜期の四月とGWに特別に開帳される秘仏・金峰山寺の金剛蔵王権現拝観です。

当初は、ほかの神社・仏閣に参る予定でしたが、いろいろとあって、あるいは呼ばれたのか、ここになりました。五年前にも、観桜目的ではありましたが、吉野に来ていて、その時初めて拝観させてもらっていました。ただ、今回はこちらの参拝が主ということが違います。

というのも、この秘仏(写真撮影が禁止されていますので、HPをご覧ください)、巨大なうえに三体あり、しかも最大の特徴と言ってよいのが、ほぼ全身が「青色」に塗られているのです。その迫力は、実際に拝観すればわかりますが、すごいものがあります。

私が特に興味持ったのは、三体であることと、やはり青い色であるということでした。

青い色の神となれば、インドのヒンドゥー系の神によく見られ、シヴァ神や、クリシュナなどが有名かもしれません。

これらのヒンドゥー系の青い神は、実は本来は黒い色をしていると言われ、つまりは(をつかさどるもの)の象徴と考えられます。

また「3」ですが、インドで、神による3区分となると、そのシヴァ神を含んでのブラフマー、ヴィシュヌの創造・維持・破壊三神が浮かびます。このうち、シヴァ神は破壊(と再生)を担当すると言われます。

つまり、インドのヒンドゥー系を中心にして、青い神とは、宇宙の死と再生のシンボルでもあるわけです。

そして、マルセイユタロットにもこのような空色に近いブルーが使われており、私たちの間では、これが霊性を示す色だと伝えられています。

特に、大アルカナの中で、その空色(水色ぽいブルー)を見ていけば、私たちが、いかに霊性を取り戻していくかの過程がわかると言われます。

さきほど、インドの青い神は死と再生の神だと述べましたが、タロットがヨーロッパだけではなく、地中海湾岸、北アフリカ、中東、中央アジア、果ては中国などの思想や表現も入っていると考えると(その証拠はあります)、インドとの関連も十分に考えられます。

すると、私たちが霊性を獲得したり、その状態に回帰したりすることは、死が必要であることがわかります。ただ、その死は肉体の死の意味というより、象徴的な死、自我の死と言ってもいいかもしれません。

そして、死だけではなく、再生という意味も併せてあるように、私たちは不死鳥のように死んでも蘇る必要があるのです。

おそらく、黒は完全なる死を象徴するでしょうが、空色的なブルーで表現されるということは、そこに光や白が入っているから、その色になるのであり、それは象徴的にはあ叡智や再生の光ということになるでしょう。

空色(青い色)の仏像は、私たちの中にある死や恐怖、ネガティブなもの、自我の深い欲求なども表すと同時に、そこに取り込まれず、むしろ逆に力と変え、美なるもの、真なるもの、智慧なるものとして輝き、再生(本当の霊的な自分に生まれ変わること、悟れること)の可能性が自らに眠っていることを告げていると考えられます。

マルセイユタロットでは、「審判」に描かれている真ん中の人物、天使からラッパを鳴らされて目覚めたとも、覚醒したことで天使が祝福のファンファーレを鳴らしたとも取れるその人物が「空色」なのです。これぞ、本当の意味で蘇ったことを表し、仏教的には仏になった姿と言えるかもしれません。

ちなみに三つというのは、時間とも関係し、過去・現在・未来を意味します。

私たの世界は、時空認識をもとに、現実を主体としたところにいます。言い換えれば時間がある、時間が進んでいるという意識の世界です。

時間を認識するためには、今述べた三つ捉え方(過去・現在・未来)がないとできません。しかし本質的には時間はないと言われており、時空認識が超越したところに神や仏の世界があります。

ということは、三体の仏像は、現世とあの世(此岸と彼岸)、現実の苦しみや楽しみが時間によって生み出される世界(つまり現実)と、そこから超越している永遠の世界を、暗に示しているとも言えます。

こうした見方で、改めて吉野の秘仏を拝観しますと、両端の仏像が真ん中に統合されるようにも見えますし、左右の性質を分離させることで、身近に私たちの権現としての仏・神を感じることができるような仕組みになっているのに気づきます。

つまりは、私たちは実はひとつで、自分の中にある神や仏を、目の前の三つの仏像に分離されたものとして見ることで、現実の自分(自我)としての親和性が生み出され、三つのうちのどれかに親しみや会話をしたくなる傾向が出るのです。

それは時間として、過去の自分、今の自分、未来の自分とも言えます。あるいは両端のふたつとしては、女性性・男性性とか、能動・受容、ペルソナと本質などの二元性の自分も見ることがあるでしょう。

そして最終的には、どれか(特に真ん中)の存在によって、一度、象徴的な死を与えられ、最終的には三つが統合されて、(内なる)仏や神と邂逅することになるのです。

それは「宇宙」と言ってよく、だからこそ、東大寺の大仏(廬舎那仏)のように巨大でもあると言えるのです。

こうした仕組みは、光がろうそくのみで照らされる夜間拝観の時のほうが、よく感じられるかもしれません。

あと、個人的に思うのは、この吉野の蔵王権現、死と再生の色であることから、真剣に参ると、カルマの浮上と浄化、まさに自分の中での何かの破壊と再生が起きる気がします。くすぶっていたものがついに開かれ、強引にでも浄化や再生の道に進まざるを得なくなる感じと言えましょうか。そういう意味では不動明王的でもあります。

マルセイユタロットを通した、神仏像の考察の記事でした。


カウンセリングか、タロットリーディングか。

私の扱うマルセイユタロット(の活用)は、ずばりと、当たりはずれや吉凶を占うようなものではなく、どちらかといえば、カウンセリング的によく話を聴き、相談に乗りながら、タロットからの示唆を伝えるようなものになります。

黙って座ればピタリと当たるというものではないのです。従って、相手方の情報も必要ですし、ただカードを読むだけとは違う、コミュニケーションとしてのやり取りが重要な要素を占めることがあります。

まあ、タロットの市場として「占い」があるのも確かですし、占い現場というものが、現実的にはいまだタロット(リーディング)を活かす場所になっているのも事実ですから、占いの現場では、当てなくてはならないことや、まさに占い的な質問や方法を実践していかないと、仕事にならない部分もあるでしょう。

私も、かつて、占いの館的なところに出ていた時は、お客様が何も情報を言わずに、「何が質問したいかを当てるのも占い師でしょ?」と言われたこともあります。(笑)

占いの現場は、本当にいろいろな人が来ますし、同業者同士の醜い争いも場所によってはありますので、“人間”というものを知るにはよい場所ではありますが、中には耐えられない人もいるかもしれません。それでも市井の人々の悩みに向き合い、答えようとするまじめな占い師の方々はすばらしいと思います。

さて、話を戻しますが、私たちは、先述したように、タロットを用いた相談ということでは、カウンセリング的な手法を用いることがあります。むしろ、そういうのを使うのは、当然のことと言ったほうがいいかもしれません。

ただ、だからこそ、少し区別も必要だと思うのです。

これは私の生徒さんにも考えてもらっているところてすが、自分はタロットリーダーとしてカウンセリング的な技術を取り入れるのか、逆に、カウンセラーがメインで、カウンセリングテクニック・道具の一環として、タロットを使用するのかという区分け(をすること)です。

私自身は前者(タロットリーダーが主で、カウンセリングテクニックは、タロットリーディングをスムースに進めるための一技法としている)という位置づけをしています。

しかし、中には、もともとカウンセラーをしていて、そこにタロットなどを取り入れるという人もいるでしょう。

あるいは、カウンセラーという名称や中身ではなくても、たくさんの技術を用いて、人の問題や悩みの相談に当たるという人ならば、タロットというものは、その補助道具のひとつということになります。

タロットリーダーがメインであるならば、あくまでタロットカードの象徴性や示唆が中心となり、クライアントの話を受け入れ、心情に配慮するということはあっても、タロットから伝えられることを言うのが目的となりますので、時には厳しいこと、クライアントが聞きたくないようなことも述べることがあります。

けれども、カウンセラーという立場が中心であると、カードは一部の参考に留め、あくまでクライアントの心の負担の軽減、治療に重きを置き、その過程では、タロットに出ていることをそのまま伝えるということはしない(段階を踏んだり、趣向を変えたりする)場合もあるでしょう。

このあたりは、自分がタロットリーダーなのか、カウンセラーなのかで、似ているようで違うところがあります。

それでも、人は論理だけでは生きていませんので、人の相談を行う以上、心や感情に配慮していくのは当然となり、その結果、タロットリーダーがメインと言えど、カウンセリングやコミュニケーション技術を使うことがあるわけです。

ところで、「公認心理師」という心理職の公的資格の試験が、去年から実施されています。

これまでも、民間の臨床心理士の資格などありましたが、いよいよ、公的な資格として心理部門に出てきたということです。

すると、カウンセリングという定義や名称も、このような公的な心理関係の資格をもった人が使うことに限られることになるかもしれません。

安易にタロットを使ってカウンセリングをしています、などと言えない(今の使い方も注意する必要があると思いますが)時代は来るでしょう。

人の心を扱うのは、何の勉強も実践もしていない素人では危険を及ぼすこともあります。

しかし、その反面、私自身も神経症やうつ病など、心の病で経験しましたが、理論を学んだ専門職の人であっても、例えば大学院を出て社会経験がほとんどない頭でっかちの人のカウンセラーでは、問題が軽減したり、癒されたりするどころか、かえってその時間は苦痛だったこともあります。

案外、アカデミックな心理関係の人より、民間の自称資格のカウンセラー、占い師さんに癒され、快方に向かうこともあります。

それに、民間の治療的カウンセリングは、一般的になかなか高額で、回数がいるのが普通です。

カウンセリング効果が不確かであるように思えることも少なくなく、一般の人がそう簡単に受けられない現状もあります。

とはいえ、これからはもっと心理職の人の制度や資格の整理も行われ、タロットをしている自分がいうのもなんですが、「タロットで(心理)カウンセリング」など簡単に言えないようになるほうがよいと思います。つまりはきちんとした住み分けが重要だと言っているのです。

そして、多くの人の心がもっと楽に、解放に向かうように、まともな心理の相談が受けられやすくなり、同時に、いろいろなレベルの相談フィールドもあっていいと思います。

これから、他人に向けてタロットリーディングを行おうとする人、タロットを使って相談をして行こうとする人も、自分が何を行っているのか、何をしたいのか、自分の立ち位置を探り、人を惑わしたり、怪しいものと思われたりしないように、活動していくことが求められるでしょう。

「占い」というものも、身近な相談場所として、残っていくとは思いますが、経済原理にさらされているからとはいえ、アテモノ的なもの、ただ吉凶的なものを占うだけのものから、もっと高いレベルへと、目的意識を変えたものへとシフトしていく時代になってくるように思います。

結局、最後には、タロットも他人に使うというより、自分に活用するようなことに変化していくのかもしれません。

私自身は、すでに何年の前から、そうした(自己や社会、霊的な成長としての)もの(目的)を中心にして、タロットの活用を考えています。


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