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小アルカナのアイテム

タロットには小アルカナというパートがあります。

そもそもタロットは「アルカナ」と呼ばれる秘密のカードで構成されているカード群ということになりますが、そのアルカナに、大と小の区分、パートがあるわけです。

枚数的には小のほうが多く、特にマルセイユタロットの場合は、小アルカナの中でも数カードの絵柄が独特(記号的)で、そのため、小アルカナのパートはがまだまたあると言ってもよいかもしれません。

とは言え、小アルカナは4つの組に分かれているところは、マルセイユタロットとほかのカードにおいても、たいてい共通していますから、この4組を理解することが、小アルカナ解読の鍵にもなると考えられます。

さて、その4組にもいろいろな解釈ができるので面白いのですが、今日は、ゲームアイテムのごとく、この4つを見てみようかと思います。

ところで、私たちは、言わば「人生」という大変困難で、しかしなかなか面白いゲーム(苦笑)に参入していますが、ここで私たちは数々のアイテムを入手しながら、ゲームを進めています。(私たちは人生ゲームのプレイヤーと言えます)

このゲームは、何か敵を倒すとか、宝物を手に入れるとか、何かを育成するとか、プレイヤー全員に共通するようなテーマはなく、そういう性質のゲームでもないようですよね。

もちろん、個々のプレイヤーにおいては、今述べたような目的をもってやっている(人生を過ごしている)人もいますが、「人生ゲーム」そのものを見た時、「このゲームの真の目的はこれです」ということを、なかなか言い当てることができないのではないでしょうか。

それがわかれば、悟ったも同然かもしれません。

ただ、逆に、いろいろな目的や遊びが可能なゲームだと見れば、目的自体がそれであることも言えるかもしれません。言ってみれば、なんでもできる(わけではないかもしれませんが、かなりのことはできますよね)体験型ゲームというわけです。

しかし、ゲームにはルールがあり、フィールドも限定されています。そうした中で、この世界の中で、私たちは精神的なことや物質的なことを、様々な体験や方法で手に入れて行きます。

もし、それらを象徴的に「アイテム」種として分類すれば、意外に、小アルカナの4組になるのではないかと思うのです。(やっと小アルカナの話に戻ってきました)

タロットの4組は、マルセイユタロットののもので日本語訳的に言えば、「剣」「杯」「杖」「玉」となります。英語的には、ソード・カップ・ワンド・コインです。

そのままモノとしての道具であれば、切るためのもの、ためる(あるいは流す)ためのもの、補助・前進させるもの、使われ、交換させるためのもの(それぞれ、ほかの言い方もできますが)と言えるかもしれません。

面白いことに、剣と杖は、縦長の道具で、攻撃と防御、運動などに使用でき、動的な感じがします。一方、杯と玉は、器や固まりで、玉、つまりお金も鋳造されるものとすると、それを生み出すものからして、入れ物的で静的な印象が強くなります。また地に置くものとして、縦より横幅が重要かもしれません。

これらはわざと対比的な関係にある(されている)と思えます。

もう一度、純粋に、4組をモノとして見て、人生における必要道具だと思ってみましょう。

そすると、あなたには今、が必要でしょうか? それとも? (棒)? (コイン、古い時代なら石のような交換道具)? どれですか?

さきほども言ったように、道具の使用目的から考えると、切るもの、受け入れるもの、支えるもの、交換・購入するものというような感じでしょうか。

道具そのものとしてみれば、そんな機能が浮かびますが、タロットは象徴ですから、ここから、さらに比喩的に拡大変換させていくことも必要です。

その簡単な方法は、道具・機能を、精神的なものや人間的なものとして表現することです。

例えば、剣は切るものでしたら、人間関係を切るとか、モノや人を処分する、断つ、戦うとかになるかもしれません。杯ならば、受け入れたり、ためたり、注いだりですから、感情の潤いとか受容とか、喜び、満足感など精神的なことを中心に出てくるかもしれません。

とにかく、四つのアイテムがそろうことで、あなたの人生は充実したり、うまく事が運べたり、ゲームそのものが楽しくなるよう、設定されているのだと思うとよいです。

そして、それは道具としてのアイテムの意味もあるのですが、まさにゲームアイテムと同じように、魔法的とも言える効果を出す(魔法道具にする)ことができるのです。

魔法的効果というのは大げさな表現かもしれませんが、タロット的に言えば、象徴として扱えば、それは単なる道具的機能にとどまらず、この世界のあらゆるシーンと場所で、四つのアイテムによって、ほかのものを、同じ四つのアイテムのどれかに変化させることができるという話なのです。

これが魔法のからくりです。

ですから、ただアイテムを道具として手に入れるだけでは魔法は発動しないのです。

アイテムをアイテムたらしめている原理を理解することです。

そうすれば、この世界はアイテムに満ちていることに気づいてきますし、それをうまく使って、自分なりの目的を作り、それを達成したり、プロセスを楽しんだりする、この不思議な人生というゲームを味わうことが、よりできてくるでしょう。

実は私たちは、もともと生まれた時からと言いますか、自分自身が四つの性質からできているのです。

つまりは、すでにアイテムはゲットしていることになります。ただ、それを知らず、また魔法の発動法もわからない(隠されている)と言ったところでしょう。

タロットをやっていると、そのありかや秘密にたどり着くことができそうです。少なくとも、四つのアイテムやその世界を知るには、タロットは手っ取り早いです。

四つはエレメントとしての、風・水・火・地と言ってしまえばそれまですが、それでは抽象化し過ぎていて、アイテムとして実態感覚が出ません。

だからこそ、タロットの4組なのであり、それは道具・モノの形をしているのです。

あなたには四つの聖なる道具があり、さらには四つの領域の天使や使い魔がいるようなものです。

ゲームアイテムとの相性のように、人それぞれ、得意分野やアイテムの使いやすさ、使いにくさが個人差としてはあるでしょう。それを知るのもまた人生ゲームのだいご味のひとつです。

そしてゲームでパーティーを組めば効果的なように、それぞれの個性が補い合い、ある目的を早く効率的に達成することも可能となるでしょう。しかし、パーティーによっては、非効率になったり、ライフポイントが減ったりして、大変な目に遭うこともあるかもしれません。

あなたも、タロットを手にして、今いるゲームの世界を、もっと視覚化してみませんか?

もしかすると、行き詰まった問題に打開策が出るかもしれませんし、ゲームイベントのクリアーに寄与することもあるかもしれませんよ。


制限ある自由 自由のための制限

コロナ禍で、今年はいろいろと我慢を強いられている人が多いと思います。

一方で、人間、そうそう我慢が続けられるものでもなく、自由でありたい、束縛されたくないという思いも強いものがあるでしょう。

人とはおかしなもので、おそらく本質的には自由でありたいと願いつつも、どこかで制限してもらいたい、囲われたいという願望もあるような気がします。

後半の部分(制限願望)は、誰かに守られたい、安心安全に暮らしたいという保守的な思いによって生じているとは思いますが、もしかすると、人の成長欲求と言いますか、人間にはもともと変化・成長していくことの使命のような特質があり、それが自由というものに抵抗する力になっているのかもしれません。

一般的に、神は自由であり、悪魔は制限をかけるものと解釈されがちですが、見方を変えれば、むしろ、悪魔が自由、神が制限を加えるものという印象もあります。

それは特に宗教においての神と悪魔の概念で顕著な気がします。

宗教におけるは、たいてい試練を与えるものであり、戒律などで、その神を信じる人々に制限を与えます(神が与えなくても、神の意思に沿うために人がそれをする)。

一方、悪魔は、そういう神の守護範囲とも言える制限から、甘言や教唆をもって誘惑し、人々に神の戒律からはずれるように仕向けます。

これは宗教の神からすれば、とんだ悪ですが、もしその神が自分に権威をつけ、人々から敬われるようにわざと制限をかけていたとすれば、悪魔のほうこそ束縛からの解放による「自由」を主張していることになります。

マルセイユタロットに流れる思想のひとつと考えられる「グノーシス」では、神が悪魔である(一般の神は偽物という)反転構造を示唆し、私たちが一般的に信じていることに疑いを持つよう諭します。

しかしながら、マルセイユタロットでも、「悪魔」のカードには、ひもでつながれた二人の人物が描かれ、やはり悪魔は何らかの制限を(見えない形も含めて)かけていることがわかります。

一方、「神」の名前を持つカードでは、「悪魔」の次の大アカナナンバーである「神の家」があり、このカードでは、雷の衝撃で、はじかれたようになった人がおり、強制的な解放も意味されているようにも見えます。

とにかく、ここで言いたいのは、自由の名のもとに、裏では束縛や制限が潜行している場合があり、逆に、制限・束縛が、人を自由に導く、成長の糧として機能していることもある点です。

今、コロナ禍で不安になっている人々の前に、SNSなどを含め、様々な情報が提示されてきますが、よくよく吟味しないと、表向きとはまったく反対の意図によって、それこそ本当に「悪魔」につながれてしまうおそれもあるので、気をつけたほうがいいでしょう。

そして、このご時世、制限だらけで、息苦しい世の中にはなってはいますが、その中でも、私たちは成長や進化を遂げていくこともできるはずだと考えます。

マルセイユタロットには「吊るし」というカードがあります。二本の木の間で逆さまに人がつながれ、まるで吊るされていように見える図です。

しかし、何度もこのブログでも書いたように、マルセイユタロットの「吊るし」の場合は、拷問のように吊らされているのではなく、この人物、自らが好んでこのスタイルを取っているかのように、苦しさを感じさせないものです。

いわば、制限にある中でも、この環境、この人物なりに自由を楽しんでいるとも言えます。

そう、制限の中に自由があることを、「吊るし」のカードは、ひとつには語っているように思います。

最初にも述べたように、私たちの本質は「自由」であり、自由である自分、その故郷ともいえる場所(心境)に戻りたいと思ってはいるものの、現実社会の中では、様々な制限や束縛によって、自由を奪われているように感じています。

そもそも魂と肉体という対比で言いますと、肉体によって魂の自由性が制限されていると言えます。

しかしながら、同時に、私たちは制限を求めるところがあり、それは成長の枷のようなものとして、必要とされるかもしれないものです。

肉体があるからこそ、肉体的(物質的)経験ができ、それによって魂は実感を伴って成長することができます。

もし、まったくのフリー・自由であるならば、何も苦労もなく、願ったものはすべてかなうことになります。いや、そもそも「願う」というそのことさえ生じないでしょう。言ってみれば完全ではあるものの、「無」でもある状態です。

これでは成長を図る(計るでもあります)こともできません。

計測すること自体、制限があるからできることですから、もし、私たちの本質が完全であるならば、成長するという概念そのものもないことになります。

ですから、成長のためというより、制限から実感するゲームを楽しむためなのかもしれませんが、それは「有」、つまり肉体や障害物のある次元、現実界においてでないと、なかなか味わえないことなのでしょう。

制限があれば解放もあるという二元世界が、色濃く出てくるのがこの現実の世界です。

ということは、解放、自由の喜びも、制限があるほど生まれることになります。この両方の振り子が動くことで、ある種のエネルギーが生まれ、私たちの何かの宇宙を動かし、拡大させているのかもしれません。

とにかく、束縛や制限は、悪いことではなく、それがあるからこそ、自由への目覚め、自由に向けた新たな方法・アイデアも生まれると考えられます。

それは、先述したように、この現実の世界でないと、なかなかできないことなのだ思います。

ですから、今年から始まった、とても制限のある世界の中でも、一人一人の工夫と、全体の知恵が集まって、おそらく、今まで考えもしなかったものが誕生し、自由の新たな形を手にすることができるでしょうし、自由の大切さも、もっと考えられることになるでしょう。

誤解されがちなのが、自分勝手にわがままに振る舞うことが自由ではないことです。

自由のためには、安全にルールが守られた、他人と一緒に住む世界においては、いわば社会性も必要となってきます。

「もう我慢ならない」と、自分勝手に動くのは、結局、ほかの人や自分自身を制限させてしまう方向になっていきます。

例えば、釣りをする人が、どこでも釣りをしてゴミをそこに置いて帰るようなことになってきますと、その場所は汚れ、近隣住民にも迷惑がかかります。

やがて、それがひどくなると、釣り場への立ち入り禁止などの措置が取られるでしょう。そうなると、その釣り人、地元の人も釣る場所を失いますし、禁止を破って侵入する釣り人もいるかもしれませんので、その見回りや対策などで、いろいろと地域の人も苦労することになります。

つまりは、それまでの自由を失うわけです。

理不尽で妄信・迷信、権力のようなもので意図的に制限をかけられるものには、時には自分勝手に見えるくらいに、自らの自由を求めて動くことは大事でしょう。

制限や束縛は、基本的にはよくないもので、人の本質からは、はずれます。

ですが、社会と人の安心安全、個人的にも制限の中から成長を生み出すためにも、「吊るし」のようなものは必要なことがあります。

また「吊るし」のカードは、細かくは言えませんが、「創造」に関する細かな図像の象徴が施されています。

「吊るし」は束縛・停滞のように見えて、創造のカードでもあるのです。

このご時世だからこそ、あなた自身が、日本が、世界が、新たに創造できるよいものがあるはずです。

我慢を強いられているようでも、見方を変えれば、自分の中の自由を見出すチャンスでもあります。

あなたが求めていた自由の形は、まさに「形」にこだわっていれば、失ったと思うかもしれませんが、「」としてみれば、別のところに存在していたり、自分から表現できたりすることはあるものです。

たとえ自分ができなくても、ほかの人がやってくれるかもしれません。すでに、意外な自由の表現が、他人がモデルとして見せ始めているかもしれません。(「悪魔」のカードにも関係します)

今後に希望をもって、自らは「吊るし」になっているのも、今はよいかと思います。


数の情報で得るタロットの関係性

マルセイユタロットでは、数も無視できない情報です。

というより、かなり数はタロットに深く関わっているものと言えます。

ですが、ここでも何度か書いたことがありますが、タロットはあくまで図像がメインのものですから、数秘術的なものを中心にタロットを見てしまうと、それこそ、数秘術の補助の位置にタロットがなってしまいます。

もっとも、数秘術を中心としてリーディングや鑑定を行っている人の場合はそれでいいわけです。

しかし「自分はタロットが中心」「タロットリーダーである」と考えている人は、数はタロットを構成するひとつの要素であると見て、タロットの図像をメインとした情報・解読の取り扱いをしたほうがいいかと、個人的には思います。

さて、そうは言っても、最初に書いたように、数とタロットとの関係はなかなか強いものがあります。

数の観点から、タロットの、特に出た展開のカードのつながりを発見することは楽しいものですし、意外な情報や示唆を与えてくれるものです。時にはリーディングの重要な手がかり、理由の根拠になることもあります。

今日は、そんな数のつながりで見るタロットの話です。

マルセイユタロットの大アルカナは22枚ありますが、これを、「ある数によって分けるやり方」がいろいろとあります。

マルセイユタロットを研究するカルト映画監督の巨匠、アレハンドロ・ホドロフスキー氏は、その著書でも、大アルカナを「10」をベースにした数で分ける(分けつつも統合した見方の)方法を語っています。

それによりますと、アルカナナンバー「1」のカードから「10」のカード(「手品師」から「運命の輪」)と、「11」から「20」のカード(「力」から「審判」)のグループに分け、それらがコンセプトには同じながらも、レベルや階層の違いをもって二段組で構成されるとする見方が提示されています。

なお数を持たない「愚者」と、「21」という数はありますが、完成や完全性を意味する「世界」のカードは、ある意味、数を超越したものとみなし、このふたつのグループからは、はずれることになります。(はずれはしますが、全体像からは、重要な役割や意味を持つことになります)

そうすると、結局、「1」から「10」までの数をベースにした二組ができ、その同じ数を持つカード同士の関係性が強調されることになってきます。

つまり、1には11、2には12、3には13・・・という具合です。

数秘的にも一桁の数は重要で、すべての数の核となるものと言えますが、ここに二桁の数「10」を加えることで、一桁的には「10」も、いわば「1」(1+0=1)と言えますから、数的には、元型的な一桁の数に、レベルや表現の違う二種類の「1」を加えることで、理想や想念の世界とも言えるもの(言い換えればイデア)から、現実的・具合的な次元へとシフトさせる意味も包含させていると考えられます。

大アルカナ自体は、元型的世界を描くものと想定されますが、大アルカナを「10」の数世界で分類していくことにより、現実的な分野にまで範囲を下ろしていく見方もできるわけです。

普通は、小アルカナで現実次元を象徴させるものではありますが(それゆえに小アルカナ数カードは10枚ずつのグループになっています)、大アルカナはすべてを表現できるものでもありますので、こうした「10」でのくくり方は興味深いと言えます。

さて、ここで、「10」枚ずつのグルーピングをした大アルカナに対して、どちらのグループが理想・想念的か、逆に現実的・具体的であるかですが、「10」の数を採用していることから、どちらも現実性は含まれると見ていいかもしれません。

しかし強いていえば、やはり、数の多いほうのグループ、「11」から「20」の10まとまとりのほうが総じて解釈が難しく、イデアや想念、抽象的と言えるのではないでしょうか。

ですから、「11」から「20」のそれぞれが、同じ一桁の数を持つカードたちによって現実化されるという見方もできます。反対に、「1」から「10」のカードたちは、「11」から「20」のグループによって、秘密が開示され、解放されて、より高みや深みに導かれると考えることもできるでしょう。

ここに例として、「8」という数で見た場合の、10グループの二枚を見てみます。つまり、「正義」と「月」で、8と18の「8」つながりカード同士ということになります。

「正義」と「月」、見比べると、まるで違う(意味の)カードたちに思えます。数をベースにしないと、この二枚は無関係にさえ感じられます。

しかし、よく観察してみると、「正義」には天秤があり、「月」には二匹の犬のような動物がいて、吠えあってます。

ふたつのもののつり合い、関係性と見れば、天秤も犬も何やら似たような意味も見えてきそうです。と、同時に、「正義」には剣があり、「月」にはそのような鋭いものはほぼなく、曖昧模糊とした図像になっていて、両者には、かなり異質性が見えます。

ですが、「月」にはザリガニのようなものもいて、はさみを持っています。二枚はまったく違うようでいて、よく探せば、似た部分もあるのがわかります。

「正義」の天秤で見ると、何かを測り、つり合い・バランスを取ると思え、一方の月の犬たちは、つり合いというより、向き合い、吠えあって、何かを訴えているようにも見え、ただ、二匹は二匹で、片方だけではない、二匹なりのバランス関係にあるとも言えるかもしれません。

言ってみれは同じバランスを見ても、「正義」と「月」のそれでは性質が異なり、しかしながら、バランスという意味においては同じコンセプトもあるとわかるのです。

またカード的にも、「正義」できちっとしたものが、「月」ではぼやっとしたものに変わっていて、「正義」の囚われは「月」によって解放され、逆に、「月」の不確かさは、「正義」のルールによって明確化します。

こうして見ていくと、「正義」と「月」は、(ほかにも)何かしらの共通したものがあり、それはなかなか無造作に絵柄だけを見ていたり、意味だけを覚えていたりしていても気づくことは難しいものかもしれませんが、「8」という数において関係している二枚だと最初から見て行けば、その発見が早くなる可能性が高まります。

さらにその発見した共通点が、「8」の数秘的な意味と関連していることにも、気づくかもしれません。

そうやってタロット全体(一組)に思いを馳せれば、マルセイユタロットの精緻な構成、合理性、整合性の感応に至り、つまるところ、宇宙のモデルとしてタロットができていること、逆に言えば、宇宙はオーガナイズされた数的にも美しい世界であることがわかってくるように思います。

皆さんなりに、「10」をひとまとりにした分け方で、一度、大アルカナを考察してみることをお勧めします。


タロットと自分の情報

これはタロットの活用にも関係することですが、タロットの図柄を見て、どう思い、何を感じるかということは、タロットリーディングにおいても基本のように考えらています。

しかし、タロットカードを見た時の感じ方・思い方というのは、人によってまちまちでしょうし、どれをもって正しい情報と取るのか、または、たくさん浮かんできた中で、何を今は(リーディングの判断として)選択すべきかは、なかなかわかりづらいものです。

ここのところで、多くの人が迷い、時にはタロットを教える先生によっても、いろいろな意見が出てしまう部分なのです。

この点については、私の講座で整理して説明しており、その考え方は、おそらくどこにおいても言われていないもので、私オリジナルの方法とも言えます。

ここで詳しく書いてしまうと、せっかく講座を受けていただいてる方には不公平になるのと、一記事で説明するのは、とうていしきれないので、今回は別の観点から少し、タロットからの情報(の扱い)についてふれてみます。

そして、いきなり結論みたいになりますが、実は、タロットからの情報の迷いをすっきりさせるには、質問者側がタロットへの問いを絞ることで、かなり改善されるのです。

例えば、「太陽」というカード、一枚が出たとします。

質問が何もなければ、人によって、いろいろなことが思い浮かんでくるでしょう。あるいは、イメージから言語化することが、まだ苦手な人には(これは訓練すれば誰でもできるようになります)、言葉としては何も出ない場合もあるかもしれません。

けれども、ほんどんの人は何かしら感じるものはあるはずで、それを言葉にするかしないか(できるかできないか)の違いくらいで、イメージや感覚の言語化さえできれば、スムースに多くの言葉が出てくるはずです。

単に太陽を見て、温かい、熱いとかでもいいですし、ふたりの人物を見て、仲良しとか、友情とかそんなものからでもいいのです。

ところが、先述したように、たくさんの言葉とか意味が思い浮かんでも、その選択に迷うという段階が出てきます。

この「太陽」というカード一枚だけをとっても、カード上部の顔がついている太陽そのものからの情報と、下部の裸のふたりの人物の様子からの情報と、大きくわけて二つあり、それらは描かれているもの自体が違うわけですから、別々のものが言葉・情報として出てくるのは当然と言えます。

“太陽”のイメージから現れた情報なのか、“二人組”の絵柄から出てきた情報なのか、それだけでも情報の選択の幅というか、振り子はかなり揺れるかもしれません。

ですが、ここで質問側の情報を重ねて行けば、その選択も絞られてくるのです。振り子の幅が狭まると言ってもよいでしょう。

例えば、「旅行を計画したいが、誰と行けばよいか?」という質問の場合に、この「太陽」のカードを見ると、いかがでしょうか?

この質問は、「誰と」にフォーカスしているものであり、それは人物であるので、当たり前のように、人物に関する情報を探そうとするでしょう。

すると、さきほど述べたように、「太陽」には、ふたりの人物が描かれている部分があります。

ということは、この部分に注目すればよく(自然にそうなると思いますが)、「太陽」のふたりの人物の様子から、二人で行っても楽しい人、意見や性格の合う人、仲の良い友人、手を指し伸ばせば(誘いをすれば)乗ってくれる人というような「人物」が浮かんで来るでしょう。

この場合、親と行くとか、一人旅というイメージ・情報は取りにくいと思います。(ただし、親でもまるで友人同士みたいな関係の人には、あてはまるかもしれませんが)

一方、同じ旅行の質問でも、「どんなところへ行けばよいのか?」というものならば、ふたりの人物から想像することもできるかもしれませんが(例えば、裸なので温泉とかビーチなどのリゾート地とか)、どちらかといえば二人組より太陽のほうに目が行き、太陽がさんさんと輝く場所、端的にそのまま太陽のような明るい場所、解放的なところ、元気がもらえるような場所というようなイメージが出てくると思います。

人によっては、輝く太陽からイメージされる場所は、具体的には異なるでしょうが、「月」からイメージされる場所とか、「隠者」からイメージされる場所とは明らかに違うはずで、選択にそんなに迷うことはないと思います。

このように、質問を絞ったり、具体的にしたりすることで、カードの図柄でも、注目すべき点が明確になり、回答も導きやすくなるのです。

逆にいうと、抽象的な質問では、たとえ一枚と言えども、たくさんのイメージ、情報がカードから浮かんできたものの、その選択に悩んでしまうことになります。(ただし、抽象的な質問をあえてする方法もあります)

また情報としても、直感性やインスピーション系のものと、思考・論理・知識系のものとがあり、前者は個人によっても差が大きく、後者はいわゆる知識として覚えた「カードの意味」が大半なので普遍的とも言えるのですが、その両者のギャップ・葛藤(どちらがこの場合正しいのかとか、どの情報を選択すべきかということ)にまた悩むようになります。

カードを勉強すればするほど解釈がわからなくなったり、リーディングに迷いが出たりするのも、こうした理由(知識が増えて取れる情報も多くなったものの、その判断と選択に逆に迷うようになる)によります。

かえって勉強していなかった頃のほうが、すんなり読めていたという人もいるくらいです。

ですが、学習前とか初期にすんなり読めていたとしても、それは実は幅の狭い、情報として選択肢自体が少なかったからで、井の中の蛙のような、小さな世界でカードを読んでいたにすぎない状態といえ、進歩は止まったままなのです。

タロットの情報の取り方には段階やレベルがあり、実は奥深いものです。それはカード・図柄からの情報を得ようとやっきになっていても膠着状態に陥りやすく、今回ご紹介したような質問者側の工夫もいるのです。

タロットの情報、その他の情報が交流し合い、情報はますます複雑化することもありますが、それを整理し、コントロールし、選択するのは、タロットに向き合っている「人」なのです。

それと、正しい答えを出そうとか、答えはひとつだとか思わないことです。

私が思うに、タロットとは、人を混乱に貶め、楽しむようなツールでもあると見ています。(笑)

別の言い方をすれば、自分の固定観念や思い込みの世界を一度破壊するかのように、タロットの世界の誘いを受け、その世界に浸ることにより、現実にいたあなたの(固定)観念も、いつのまにか変わってしまうようなものです。

言わば、タロットは混沌に遊ぶツールなのです。この点は、同じ「卜占」系と言われる「易」とはかなり違う気がします。

タロットは質問に対して、ちゃんと出るのですが、ちゃんと出ていないように感じるというおかしなところがあります。

それは結局、リーダーの感じ方であり、カードの示唆が認められないということがほとんどなのですね。だから、カードは、いつも質問に対しての情報は必ず出していると言えます。その扱いが重要なのです。

タロットをうまく読みたい、タロットからきちんとした答えを出したいと悩んでいる人でも、少し自分の考え方、見方、態度を変えるだけで、楽になったり、読めるようになったりするものなのです。


学びの地上的視点、天上的視点

二年前の同時期に書いたをものを参考にする記事です。

私はタロットの講師をしていますが、ほかの分野では当然素人であったり、知らないことばかりであったりするので、いろいろと学びは続けています。

そもそもタロット自体もまだまだ学びの最中です。

※(タロットの場合、おかしな話ですが、自身の別の部分とタロットの象徴が先生となり、自分の普通部分が生徒でいるという、究極の自習状態(笑)ですが・・・もちろん他のタロット関係者、著書等からも学びがありますし、学べることは私にもたくさんあります)

すると、やはり学び(特にタロット以外のこと)の過程においては、これでいいんだろうか、この選択でよかったのだうかと思い悩むことも出てくることがあります。

皆さんも学びでは、まず何を、どれを学べばいいかと迷い、分野を決めたら決めたで、どの講座・セミナーがいいのだろうとか、どの講師のもとで学ぼうかとか、悩みも生じるでしょう。さらにはせっかく決めた学びや講座においても、その途中で、いろいろと考えてしまうこともあるかもしれません。

だいたいそれは、この二年前の記事にもありますが、地上的観点によるものです。

地上的(現実的、限定的、数量的)目線であれば、確かに時期・お金・内容などが気になって仕方ないということもあるでしょう。特に費用対効果という視点では、お金をこれだけ払ったのに、こんな内容では、こんな効果では・・・と悔やむ人もあると思います。

しかし、天上的観点(長期的、質的、精神・霊的)からすると、意外に払った分の価値は実はあった(その内容だけではない、違和感、間違い感の気づきなども含めて、様々な学びになっていることがあります)という場合や、それ以上だったということは結構あるものです。

失ったものは、地上的に見れば大きく、取り返しがつかないように思えるかもしれませんが、天上的にはそれも宿命、または、大きな意味での幸福や成長につながることであると言えます。

マルセイユタロットには「正義」というカードがありますが、この「正義」には天秤があります。

天上的な天秤は、とてつもなく巨大な視野での「はかり」、つまりバランスだと言え、地上的なものは、近視眼的で、すごく狭い範囲での天秤・バランスなのです。いわば、天秤の大きさが違うわけです。天使(神)の天秤と、普通の人間の天秤の違いとも言えます。

大きな天秤であれば、少々のことでは傾かず、いつもほぼ均衡を保っているでしょう。しかし、私たちは地上に生き、地上的目線が普通なので、その小さな天秤で物事を測ってしまいます。

こうした(地上的)天秤が悪いわけではなく、期間や場所、数量が限定されている中では、効果・効率を見るために、必要な天秤と言えます。

ただ、この小さな天秤だけで測っているばかりだと、時に落ち込み、失敗感も大きくなり、つまるところ、それは自分の価値・尊厳・力を貶めることになります。自分に自信が持てるほどではないにしても、人は自分や世界に肯定感を持ったほうが、当然生きやすくなります。

その肯定感(を増やす)のためにも、時には天上的目線を持ち、大きな天秤で物事を測ってみると、失敗感も癒されたり、傾いていたバランスも均衡に戻せたりするかもしれません。

地上的に見て、いわゆる成功や成長についても、その多くは、行動力、実践力にかかっていると言えますが、学びをそのまま素直に、あるいは積極的に、行動にすぐ移すことのできる人は、そんなにたくさんにいるわけではないですし、私からすると、そういうのもひとつの能力(特質)だと感じます。

弱さを持つ人、自分に自信がない人、なかなか前向きに学んでも行動ができない人に対して、つべこべ言わずやれ、というのはわかりますが、人間、できない理由、抵抗していることにも意味があります。

まず大事なのは、少しでもいいので、学びをしているのなら、自分自身に肯定感を持てるようにすることだと思います。肯定感が持てるようになるための物事の見方への修正と、その積み重ねとでも言いましょうか。ただし、肯定感と言っても、無理矢理なものではなく、自分が納得ずくであるのが重要です。

失敗やうまく行かないことも含めて、悩み、学んでいる自分自身を肯定する視点と言えましょう。そがまた天上的観点でもあるのです。

 

二年前の記事

『その学びは、実際に効果があるのか?』

 


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