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変人化のススメ

人間は強い人ばかりではありませんし、いつもいつもクリエイティブで前向きというわけではないでしょう。

他人と自分を比べてしまうと、つい人のよいところばかり目につき、自分はダメだ、何をやっているんだろう・・・と悩んでしまうことがあります。

そのため、メンタル系の話では、人と比べないこと、自分基準でできることを推奨しています。

さらにスピリチュアル系にでもなりますと、すでに自分自身は完全であるので、何も不足も傾きもなく、そのままの自分でよいことを知るべしと言われます。

それは心理であり真理なのかもしれませんが、現実的には、いろいろな違う人たちと暮らす世の中です。

人と比べるなと言っても、比べないようにするほうが難しいです。むしろ、人生は比較の時空と例えてもいいかもしれません。

現実・実際においては、すべては違いというもので表されます。「同じ」という概念・考え方でさえも、違いがあるからこそわかるのです。

時間や距離も長さなどで違いが出ますし、自然や天気も毎日変わります。人の見かけや内面さえも違うことが普通です。厳密に言えば、まったく同じモノなど存在しないでしょう。

ところが、原子や素粒子レベルまでミクロ化すれば、同じ構造を見ることができ、ある意味、すべて同じであると言えます。逆のマクロ方向にしても、超巨大なものは「ひとつ」ということになって、同じに行きつきます。

つまりは、私たちの思う「違うという現実世界」でさえも、ある種のレベルや次元、範囲でしかないということになります。

とは言っても、通常認識において、違いの世界がノーマルなところに、何の因果か(苦笑)、放り込まれているわけです。

スピリチュアルでは、違いよりも同じを見る世界と言えますが、何度も言うように、現実世界では違いのある世界です。

よって、現実世界をうまく泳いでいく(渡り歩く)には、違いを意識することが、逆に現実と調和する(なじむ、過ごしやすくなる)ことになるのではないかと考えられます。

例えば、ビジネスや商売の世界では、ほかとは違うウリとかアピールするものがあればよいと言われます。どこでも手に入る、特に目立たないものを売っていても、そこから買う必要性が少なくなるからです。

そして、今から述べることは、あまり聞かない話だと思いますが、マルセイユタロットで言えば「愚者」と「吊るし」に象徴されるものです。

この二枚は、いわば変わり者を表しています。

「愚者」は定住して(定職を持って)、きちんと暮らしている人たちとは違い、ずっと旅をし、その土地や人に縛られることから逃れています。しかしながら、一般人から見れば不安定で異質な人間で、実際、絵柄的にも、ズボンが破れていたり、奇抜なスタイルであったりと、一般の人とは違うニュアンスを醸し出しています。

また、「吊るし」の人物も、逆さで、二本の木の間でぶらさがっており、これまた不思議で変わった雰囲気があります。

言ってみれば二人とも変人なわけです。(笑)

しかし、この二枚に見る変人スタイルが、現実世界での生活に変化をもたらせ、生きにくい、暮らしにくいと思っていた自分を、現実に調整し直させることになります。アジャスト・再適応・再調整と言ってもいいです。

変人というのは、普通とは違うから変人なのです。しかし、普通人である「あなた」が、もし現実が生きにくい、暮らしにくいと感じているのなら、それは普通人であるから、あるいは、普通人(常識人)であろうとするから、ということも言えるのです。

よく、世界を変えたいのなら自分を変えろと言われますが(外の世界を変えることはなかなか大変なので)、それと似たようなことで、普通人であるあなたが、今の世界に適合していないのなら、変人になると、逆に適合しやすくなるかもしれないということなのです。

それは、先述したように、現実世界が違いの世界であるからで、違いを生み出すと、この世界はあなたを認めるという妙な構造というか、システムになっているからなのです。

統合しての「同じ」を極めていくと、それはそれで生きやすくなる(神の次元に近づくため)のですが、浮世離れした感覚が必要となります。

それとは反対に、自分のエッジを立てることで、世界に自分を認めさせるという方法で、生きやすくする方法もあるのです。

こういうと、自分の個性とかブランディングを進めていくみたいな、ビジネス的な話のように思いますが、今回言っているのは、「愚者」とか「吊るし」のように、変わった方法、イレギュラーで、一見ネガティブのようなやり方でもOKという話なのです。

もっと具体的に言えば、「愚者」は普通や常識から逃げることであり、「吊るし」は常識を拒否して籠ることだったり、逆張りをするようなことだったりします。

まさに逃げやブロックという、世間ではネガティブなことと言われている方法を取ることで、自分を変人化し、それでもって、自分の身を守ると同時に、変わり者として認知されることで、逆に生活の自由度を上げていこうというものです。

私など、典型的と言えます。その昔は公務員をやっており、世間一般的には安定したよい仕事、常識人、普通人と見られていましたし、自分もそれでいい思っていたところがありました。

しかし、うつ病などをきっかけに、公務員の仕事も難しくなり、結局、タロットの世界(仕事)で生きていくように変えました。

まあ、今も、普通人的に見れば、まともに生活しているとは言い難いですが、気持ち的にはずいぶん楽になってますし、公務員人間、まじめ人間だったらできなかったこともできるようになったと思っています。つまり、自分の自由度が上がったわけですね。

現実世界は(時間の流れこそあれ)、何も変わっていなくても、私自身が変人を選択したことで(笑)、かえって世界に適合しやすくなった(生きやすくなった)というわけです。

ですから、いいことをしようとか、まともでいようとか思わなくても、変人化するだけで、意外に現実はあなたにやさしくなることがあるのです。

変人化でも、すでに述べたように、自分の特技をウリにするとか、個性的なビジネスするとか、そういうものがいいとは限りません。

この世界はネガティブにしろ(犯罪とか反社会的なものはダメですが)、ポジティブにしろ、違いや個性が出てくれば、世界があなたを活かし(生かし)やすくする仕組みがあるようなのです。(ただし、霊的には一時しのぎみたいな効果ですが)

ということで、皆と同じ、普通、まじめでは苦しかった人、生きにくかった人は、「愚者」や「吊るし」を見習い、変人(笑)になってみましょう。


大・小アルカナの関係と使い方

タロットには大アルカナと小アルカナというパート、カード構成があります。

このふたつの違いは、大と小と名前があるように、簡単に言えば、大きな見方と小さな見方が適用されるものと言ってもいいかもしれません。

ただし、ここでいう、大と小は、良い悪い、優劣の意味で高い低いというわけではありません。

要するに、適用される分野や次元が異なるということです。

マルセイユタロットの場合、大アルカナと小アルカナ、特に数カード(数札)の絵柄とはかなり違っていますので、明らかにこのふたつが別であることが示されています。

しかしながら、タロット全体としては必要なセットとして組み込まれているわけで、タロットシステムからすれば、そこにはきちんとした理由があると考えたほうがよいです。

ということは、タロット全体からすれば、大も小も必要で等しく、しかし、絵柄の違いからして、別物と見ることも自然になるわけです。

全体としては同じ、しかし個別としては異なる・・・これは何かと似ていませんか?

そう、まるで宇宙全体(完全性)と私たち一人一人(の世界、個別性)の関係を見ているかのようです。

タロットが宇宙や私たちの象徴・モデルであるということは、このように、タロットの構成を検証するだけでもわかってくるものなのです。

こういう見地からすれば、自ずと、大アルカナと小アルカナの使い方、適用する分野というものも理解できてきます。

講義ではこのことはしっかりとお伝えし、具体的にタロットの使い方・読み方を、大アルカナと小アルカナで説明しておりますが、ここで簡単に大と小の関係性と使い分けをご紹介しておきます。

まず、大アルカナは一種の元型・アーキタイプのようなものと設定します。

そして、小アルカナは大アルカナひとつひとつに対して、4つの分野に細分し、表現されたものと考えます。

この4つとは、四大元素(風・水・火・地)思想をベースとした四組のことです。すなわち、剣・杯・杖・玉(一般的にはソード・カップ・ワンド・コイン)となります。

四組のとらえ方、表現分野には諸説ありますが、一般的・簡略的に述べるとすると、思考・感情・行動・物質(環境・結果など形)と表現できます。

このうち、内的なものとしては思考と感情があり、外的なものとしては行動と物質的環境があります。(杖は火の象徴なので、内的な情熱やモチベーションを表すこともありますが、今は便宜上、あえて簡単に種類分けしています)

元型的な大アルカナ一枚一枚に対して、この四組の表現方法や働きかけがあると見るわけです。

構造的には1対4(大アルカナ1と小アルカナ四組)の関係性です。

これは、大アルカナ自体にも、「手品師」や「世界」のカードに図像として表現されています。特に「世界」がわかりやすいでしょう。「世界」のカードには、真ん中の人物と、周囲には四つの生き物が配置されている絵になっています。

では事例として、「節制」のカードで説明しましょう。

「節制」という元型に対して、四つの表現方法があり、どの分野を自分が選択するかという向き不向き・適合不適合も考えられますが、同時に、「節制」を完全に理解、自分のものとする(現実化する)には、四つの分野それぞれが必要であるという考えにもなります。

「節制」は救済や治療を表すとすれば、そのために必要なものは四つのうちどれか、あるいは、四つのバランスで歪になったり、ないがしろにしていたりする部分はどれかというような見方ができます。

どこか調子が悪いのなら、まず内(思考・感情)か外(行動・環境)か、というものを見て、さらに内・外のそれぞれの因子を調整したり、取り入れたり、過剰さを排除したりすることで、元型としての(この場合は「節制」)本質が現れてくるというイメージです。

ほかにも、「節制」を別の意味にして、例えば経済的節制、つまりお金を節約する課題として考え、小アルカナ的に四つの分野からアプローチする、手段とすると見ることができます。

今は単純な例でやりましたが、実は四組構造はもっと複雑化したり、逆に単純化することもでき、かなり具体的・個別的に絞っていくこともできれば、元型次元にまで抽象化して、ほとんど元型と変わらない意識までもっていくことも可能なのです。

こうしてみると、特にマルセイユタロットの大と小のアルカナ構造は、本当によくできていると実感させられますし、マルセイユタロットを使う多くの人が、小アルカナをあまり活用されていないのではないかと残念に思うところもあります。

そもそも日本においては、ホドロフスキー氏の著作以外、本格的に、あまりマルセイユタロットとしての小アルカナの解説や使い方が教授されていないので、仕方ないのかもしれません。

私自身も、もとはカモワン流から入りましたので、当時のカモワン流ではほとんど小アルカナを使わない技法ということもあり、自力で小アルカナと大アルカナの両面の活用について探求・実践してきたところがあります。

その過程で、やはり小アルカナはタロットシステムにおいて必要不可欠なものだということがわかりましたし、一般的に言われている小アルカナの考え方・使い方とは、また別の方法もあるということも気が付いてきました。それでも、大アルカナとはセットで考えたほうがよいのです。

何事もそうですが、使わないものは衰えたり、疎遠になったりします。

タロットもしかりで、大アルカナばかり使っていては、小アルカナを理解することから遠ざかりますし、小アルカナとあなたの関係はよそよそしいままです。

実は、小アルカナは現実と強く結びつく性質があり、大アルカナばかり使っていると、現実逃避や地に足のつかない状態になってしまうこともあります。(しかし、リーディングしたり、占ったりする内容が現実性を持てば、大アルカナもその次元にシフトしていくことができるので、必ずしもそうとは言いませんが)

ということで、せっかく小アルカナのパートがタロットではあるのですから、使ってあげるとよいです。魔法的には四大の精霊と仲良くなる感覚でもあるでしょう。

面白いことに、ゲーム世界では四大の精霊はよく表現されていて、子供たちは名前も知っているはず(笑)です。

ゲーム世界では、四大はアイテムや能力においても不可欠な要素で、ロールプレイングゲームでは、その四大要素の特質を持つ人物も現れ、パーティーを組みます。それがアンバランスだと、パーティーも、最悪、全滅します。

つまりは生きる力と関係しているのです。これはゲームを私たちの現実世界(これ自体もゲームだと考えることができます)の例えだとすると、よくわかると思います。

タロットの活用は、78枚あってこそなのです。


「皇帝」となるチャンスを活かす

今日はマルセイユタロットの「皇帝」のカードについて書きたいと思います。

その前に、知っておいてほしいのは、このブログでは、カードの基礎的な内容については、ほとんど言わないようにしているということです。

ここでいう基礎的なこととは、例えば、カードの意味などノーマルな事柄についてで、いわば教科書的な内容ということです。それは世に出ている本とか、マルセイユタロットでなくても、ほかのタロット種などでも、同じカードであれば共通していることも多いですので、それらを参照していただけれはわかることだからです。

今回の「皇帝」のことで言っても、「皇帝」には、現実性とか経済性とか、指導・統治、父性みたいな意味が出てきますが、それら(がなぜ意味として出るのか)をいちいち解説しても、たぶんこのブログを読んでいる皆さんにはつまらない(知ってる人も多い)から、あえて説明しないみたいな理由です。

また、それらを教えている先生とか学校に対しての営業妨害(笑)にもなりかねないので(苦笑)、基本事項の解説を体系的には書かないようにしています。ということで、このブログで、タロットの基本を学ぼうとしてもダメですよ。(笑)

まさに私が好き勝手書いている雑文タロットブログなんです。もしかしたら、ちょっとタロット、特にマルセイユタロットをかじっている人には有益かもしれませんが。

さて、話を「皇帝」に戻します。

「皇帝」はその名の通り、国を治めるトップです。(厳密な意味で「皇帝」となれば、単なる国王を超えた存在ですが、そのことも実は大事なことです)

もっと拡大解釈していくと、いわゆる組織や集団のトップの象徴と言ってよいかもしれません。

今の世界的危機のご時世、国のトップはもとより、組織のトップの手腕が真剣に問われています。

ある意味、平和で穏やかな世の中よりも、ピンチで危機な時ほど、皇帝(という役割)が際立つと言ってよいでしょう。一般的には現実性の意味が強い「皇帝」なのですが、意外にも、非日常の状況こそが、「皇帝」の強さが現れるわけです。

でもそれは非現実ということではなく、より現実に向き合わされるから、非日常時、つま非常時にその仕事が重要になってくるというものです。やはり、彼と現実は深く結びついていると言っていいでしょう。

マルセイユタロットの教えでは、実は現実から離れていくというものがあるのですが、それは夢や幻の世界に逃げ込む意味ではなく、現実の世界に生きながら、(通常認識している)常識を超えていくことにある、現実と非現実の統合を果たしていくというような意味であり、現実逃避ではないのです。

よって、「皇帝」を自分のものにしないと、真の意味で進化していくことができないわけです。

「皇帝」が治め、コントロールすべきは、自分の現実にあるのですが、それは一見、外にあるようでいて、内の現実性も象徴するのです。

結局、自分という国を支配すること、それが「皇帝」の役割であるのかもしれません。

「皇帝」の基本的な意味のひとつに、父性や男性性、まさ父親そのものを象徴することがあります。

自分というものは、最初は母性的なもの、母親に守られる存在ではあっても、やがて父的な者がライバルとなって、その父的なものを乗り越えて自立する過程を経ると言われます。(特に男性の場合はですが、女性にも関係します)

マルセイユタロットでは、特に男性的カード、自立・自活・独立をテーマとすると言ってもよいのですが、「皇帝」はその典型でもあるでしょう。

自立は、つまるところ、自分という国を治めることと象徴的にも言えます。

しかし、さきほど述べたように、自立する前には父親、あるいは自分を強く支配する存在(思いや感情、思想、論理、正義などということもあります)から独立していく必要があるのです。

それまでは、自分が「皇帝」ではなく、誰かや何かが「皇帝」となっています。あなたという国を仮に支配している者、代わりにやってくれている者と言っていいかもしれません。

そうすると、自分は息子や娘としてふるまっていればよく、甘えた子供でいたり、逆に反抗したり困らせたりしますが、ともに未熟なままの仮の「皇帝」への抵抗なようでいて、保護を求めていることにもなります。

本当にあなたが子供でいる場合はよいのですが、すでによい年をした大人であるのに、いまだ仮の父親、「皇帝」にあなたの国を任せていては、いつまで経っていも、自分の国の力(民であり資源であり国力そのもの)を思う存分、使うことはできません。

もしかすると、成長に応じて、一部の国を治めることが許されるようになったかもしれませんが、それは国王であって「皇帝」ではないのです。

「皇帝」の命令には背けず、ビクビクとしつつ、ほんの一部の国の力が出せるに過ぎない状態です。

この仮の「皇帝」が、虚勢の意味での権力やお金などと結びつくことも多く、(仮の)「皇帝」の命令・欲望によって、どんどん自分は働かせられることになり、仮の「皇帝」を満足させるため、あなたは従者となり、暴君皇帝の奴隷となっていくこともありえます。最終的にはその「皇帝」が「悪魔」のカードになっていくこともあり得ます。

ですから、あなた自身が「皇帝」の座につくよう、勇気を持ち、成長し、自立の精神を醸成していくことなのです。支えや助けはあってよいのですが、依存ではなく、あくまで自立するための手段として考えることです。

アドバイスはもらっても、自分で決める、自分で行動する、自分が行ったことはだれかや何かのせいにするのではなく、自分の責任と考えること、こういうことが重要になります。

マルセイユタロットのヒントで言えば、王冠を持つカードたちと関係し、「皇帝」も当然ながら王冠を持ち、その王冠のカードたちの象徴、示唆を自分のものにすることが求められるのです。

先述したように、「皇帝」は、日常よりも、非日常、危機の時に真価が問われます。

ですから、今のような時は、あなたが女性であれ、男性であれ、内なるリーダー性、男性性、言ってみれば、あなた自身の国の「皇帝」になることが促進される事態となり、立ち位置や自信がとても揺らぐようなことになるとは思いますが、それこそが「皇帝」になるチャンスでもあるのです。

今まで、自分では無理だと思っていたこと、人に任せて自分が保護されてきたこと、甘えてきたことの視点を変え、自分の今の時点でできること、独立的にやれること、どんな小さいことでも、あるいはささやかな瞬間・機会であっても、トップ(リーダー)になること、そういうものに目覚めてください。

あなたは無力ではないのです。そして女性性や、保護し、包み込む優しい母親的な性質だけでもないのです。(もちろん女性・男性の性別的な特質はありますが、人は性質としては象徴的に両性を持つと言えます)

これは「無理をしましょう」と言っているのではありません。

まずは自分を国王として見て、仮の「皇帝」から委託されている範囲の支配を現実的に把握し直し、少しずつ思い込みや依存から脱し、国の勢力を拡大し、やがて「皇帝」の座を回復しましょうと言っているのです。

「皇帝」は建築家のシンボルも有しています。

建設は一気にするのではなく、土台作りから、ひとつひとつ築き上げていくものです。その完成された建築物、家がどれになるのかは、マルセイユタロットではすでに示されているのが、たぶんわかるでしょう。そこにも王冠があります。

と言っても、一人の力だけではなかなかうまくいかないこともあります。

そんな時は、パートナーである「女帝」と歩むことです。「女帝」と「皇帝」は並べると向き合う形になります。この二枚に共通する鷲の盾のシンボルにも意味があります。

「女帝」は女性であることから女性性も示しますし、アイデアや計画性としての意味も出ます。「皇帝」の独立、国の治世には、女性・パートナーとしての「女帝」が必要でもあるわけです。この逆も言え、「女帝」には「皇帝」が必要です。

あなたが女性であれば、「女帝」側から「皇帝」を見てもいいですし、男性ならば、「皇帝」側から「女帝」を見てもよいのです。これらは、 実際の人物を表すこともありますが、あなた一人にいるふたりの人物・性質と言ってもよいのです。

特に、非日常や危機感にあふれる時は、アイデアや発想という「女帝」の性質も大事ですが、それを決断し、実行する「皇帝」の力が鍵となります。

まさに今、誰もが王となり、「皇帝」となっていく機会が、訪れていると見ていいのかもしれません。


2020年の数秘とタロット的象徴

タロットにはがあります。

構成的には、大アルカナが22枚、小アルカナが56枚あり、このうち、大アルカナ小アルカナの数カード(数札)には、ナンバーともいえるがあてがわれています。

これらの数にはもちろん意味があります。

ところで、数と言えば数秘術が思い浮かびますが、数秘術というのはその名の通り、数を基本概念といいますか、象徴の元としています。

数秘的には、いわば、数=神であり、数は神の現れ、表現であるとみなすことができるわけです。

ただ、タロットには数もありますが、基本は絵柄です。

数そのものを象徴とする数秘(術)と、数より絵柄が象徴の根源であるタロットとは、その数の扱い、解釈に違いがあるのも当然のところがあります。

タロットの場合、先述したように、数とは無関係ではありませんが、それはあくまで象徴としての絵柄・図柄とリンクさせたものであり、根本は似ているところはあっても、数の象徴の範囲や次元が異なっているのだと考えたほうがよいです。

けれども、矛盾するようですが、範囲や次元は異なっても、やはり、数としては共通のところがあるのも、数秘とタロットとの関係では言えると思います。

このあたりがわからないと、そのまま数秘で学習した意味をタロットにあてはめたり、逆に、タロットの絵柄の象徴性を、数にあてがったりして、混乱してしまうことになります。

何度もいいますが、数秘的解釈の数の意味と、タロットに使われている(配当させられている)数は違っていながら、奥底では共通しているということなのです。

さて、それを踏まえながらも、今日はあえてと言いますか、わざと単純に、数とタロットを見てみたいと思います。一種のお遊び、ゲームだとみなしていただければよいです。

今日、数的に見るのは、「年」です。

今年は西暦では2020年で、ここに「2020」という数が出ます。

まず、見た目で2と0が並ぶのがわかります。出ている一桁としての数は「2」で、二桁では「20」、3桁では「202」が見え、4桁ではそのまま「2020」ですね。

数秘術では単数化、数字根といって、二桁以上の数を一桁に戻す方法があり、これは数をばらして足すことによって、単数化するものです。

すると、「2020」では、2+0+2+0=4となり、「4」という数が出ます。

さきほど、見た目から抽出した二桁「20」、3桁「202」も、同様に単数化すると、それぞれ「2」、「4」となります。まあ、当たり前みたいなことですが、結局「4」という数が「2020」からは現れますし、その半分である「2」も基本の数としてあるのがわかります。

すると、今年は「2」であり、「4」の年だと、単数的、数の象徴的には言えるかもしれません。

さらに二桁という数で見ると「20」がふたつ並んでいるように見え、20×20の400とかも現れるかもしれませんが、タロット的に見ますと、大アルカナ「審判」の数が、ふたつ並ぶことになります。いわば、ダブル「審判」です。

さきほど、2と4も出たので、タロットの大アルカナに置き換えると、「斎王」(一般的には女教皇)と「皇帝」になります。

まあ、「0」という数もありますので、これをタロットであえて示せば、「愚者」となるかもしれません。ちなみに、「2020」の「0」をないものとすれば、二桁的に「22」という数も出て、これもタロットでは「愚者」を示す数といわれているものです。どの道、「愚者」は出るわけです。

ということで、「2020」をいろいろと数的に分解して、タロットの大アルカナにしてみると、「愚者」「斎王」「皇帝」「審判」ということになります。

ちなみに、日本の和暦的には、令和2年ですから、「斎王」となりますね。(ということは、数の「2」、タロットでの「斎王」が、洋と和の暦で共通していることになります)

これらのカードを、マルセイユタロットで並べてみましょう。

大アルカナの数の順で並べると「愚者」「斎王」「皇帝」「審判」となります。(愚者は本当は数を持ちませんので、ほかの三枚のカードのどの間でも、さらには外にでも位置することができます)

さらに、この4枚をいろいろと並び替えすると、今年の意味が、もしかするとタロットで象徴されるかもしれません。

例えば・・・「審判」「愚者」「斎王」「皇帝」

こうすると、密集するところから逃れて、家に籠る状況の年のようにも見えてきます。「皇帝」が現実での対応や、政治のトップの人の号令みたいな意味にも見えてきますよね。

カードの正逆を取ると、より問題性も露わになり、さらに興味深いことになるかもしれません。

ちなみに・・・「今年のメッセージ」としてカード(正立のみで)を展開してみると、「皇帝」「愚者」「審判」「斎王」となりました。

奇しくも、西暦と和歴での共通する「2」の数を持つ「斎王」が最後に来る展開となり、「審判」が本来のタロット的な象徴の意味である「(真の)復活」「覚醒」的な感じに見えるようになっています。(それを受け入れる「斎王」という図)

皇帝」はおそらく、これまでの次元、システムの象徴なのでしょうね。

タロットは数だけではなく、絵柄があるのが大きな特徴であり、物語としても見やすく、個別のレベルから世界や宇宙的レベルまでを象徴することができますから、あなた個人の今年の意味を、この4枚のカードを並べて(シャッフルして引くのもよい)考察するのも面白いでしょう。

マルセイユタロットを持っている人はやってみてください。


タロット的に結婚について考える。

前回の記事では、危機にあると、人はつながりを求める傾向にあるという話をしました。

人とのつながりで濃密なものには、恋愛や結婚というものがあります。

恋愛と結婚ではまた違いますが、今日は主に「結婚」をテーマにしたいと思います。

もしかすると、このような社会状況にあっては、意外と結婚する人が多くなったり、つきあっている人たちが結婚に向けて加速させるかもしれませんね。

しかし、今は例のモノの影響で、人と会わない、会えないという状態がノーマルになっていますので、逆に、結婚を考えている人でも、先延ばししたり、再考したりする方もあるかもしれません。

今年結婚式を計画していた人も、取りやめや、落ち着くまで延期、または挙行しても披露宴などを行わない形式にすることもあると聞きます。

そうなると、結婚そのものを考え直すカップルもいるかもしれませんし、反対に、式や入籍を待つことにより、ともに支え合う信頼関係が増すこともあるかもしれません。

そういう意味では、今年、結婚を意識しているカップルは、シビアに(純粋に)ふたりの関係性が問われることになります。

本当によい絆、信頼関係があるカップルは深い愛で結ばれるでしょうし、条件や勢いだけで結びついているカップルは、自分の本当の気持ちに気づいて、別れるようなこともあり得そうです。

ただ、世の中は、社会の変化とともに、次第に人々の価値観も変わって行き、いわゆる結婚観とか結婚の形も、これまでにも変化が見られつつあったように思います。

今年のはインパクトによっては、結婚観はさらに大きく変わる可能性もあるでしょう。

ところで、タロットではカード種に関わらず、「結婚」を示唆するカードはたくさんあると思います。しかしそれはカードの読み方によって、いろいろと変わってくることもあります。

つまり、あなた(カードを扱う人やタロットに相談する人)の「結婚の見方・思い方」によって、結婚を表すタロットカードも変わるということです。

そうなりますと、例えば、マルセイユタロットの場合、22枚の大アルカナ全部でも「結婚」が表せることになります。

「世界」のカードのような結婚を望むのか、「法皇」のカードのような結婚をしたいのか、見る人次第です。

ということは、カードはあなたの結婚観を示すというこにもなりますし、それがわかれば、カードによってこだわっていたスタイルや思いから解放された新たな結婚観へと変貌を遂げることも可能になります。

マルセイユタロットで、一般的には「結婚」より「恋愛」を表すと考えられる「恋人」カードにおいても、「結婚」を考察することは可能です。

ただ「恋人」カードから見る「結婚」というものは、恋愛にも通じる本質のようなものだと言えるでしょう。

それは結局、ある存在とのつながり、結合であり、反対に離別することへの恐れでもあり、それでいて離別と結合が同等であると意識てきる次元への回帰(想起)とも言えるのです。

妙な哲学的表現になってしまいましたが、今書いた「ある存在」とは、すでに予想がついている人もいらっしゃると思いますが、それは「自分」であり、自分の中に存在するものです。

しかし、現実次元においては、そのもう一人の自分というものがなかなかわからず、愛する人、恋人、パートナー、結婚相手として現れるように見えます。また、そういう相手側も、もう一人の欠けていると思われる(失っている)自分自身を見出そうとします。

それゆえに、恋人、パートナー、結婚相手は、同質に近いと思える人(似た者同士)か、逆に、かなり異質性を感じる相手となることが多いのです。

現実世界では個性(エゴ・自我・自分と他人の違いを自覚する自分)の世界ですから、常につながりの欠如、不足、どこか何か、誰かを失っている感覚がつきまといます。

これは実は、この世を生きる原動力(不足を補おうとする衝動)にもなって、カオスな世界をエネルギーと行動で満たそうとするわけですが、やはり空虚さは否めないところがあります。

そこで、補える片割れとして、友人やパートナー、形式的には結婚相手を求めることにもなってきます。

現実を超えた世界では、自分一人でも完全性、つまりは神的な存在と言っていいのですが、それであるために、不足感はないと言えましょう。

しかし現実世界では不足感があり、先述したように、そのために相手を求めます。

もし自分自身で完全であったということに気づけば、相手はいらなくなります。いや、相手は自分で、自分は相手でもあることになって、自他は結合すると言い換えたほうがいいかもしれません。

このようなことに思いが馳せれば、今の相手も過去の相手も、また片割れと出会っていないと孤独を感じている人でも、何かしらの示唆を得られると思います。

この考えに立てば、何も異性同士とか、ただ一人の相手とか、二人は恋愛状態でないといけないということはなく、あらゆる関係性に自分が忘れていたもう一人の自分を見ることができ、相手はいつも運命の人であり、魂の伴侶ということになります。

しかしながら、現実世界の中は個性の(濃淡のある)世界でもあるので、強くひかれあう者同士、逆に、つながりがあっても嫌ってしまうような人は、何かしらの濃い反映が隠されていると見てよいかもしれません。

今の現実世界では、結婚は法的な契約となっており、事実婚とか内縁の者でなければ、普通は籍を入れて一緒に暮らします。

ただ、次元やレベルに変化が現れれば、そうした法的な契約結婚の形式も変わってくることが考えられます。ですから、すでに形とか法律にこだわらない、実質的な結婚をしている方もたくさんおられると思います。

また結婚の関係性での意味も、深くは人それぞれだと言えますから多様性があり、子供をつくって家族生活を経験することが自分の課題とか完全性を補うことであればそうするでしょうし、夫婦二人だけの課題を持つ人もいれば、同居せず、別居に生活していく選択のカップルもあるでしょう。

それはカップルどちらにとっても、完全性への次元上昇のための選択と言えます。(「恋人」カード的な選択)

今後、もしかするとオンラインだけで話すだけのパートナーとか結婚相手というのも生まれるかもしれません。

結婚(の形)は時代や社会、人々の意識の反映であるとも言え、あなたがどういう結婚の形を望むのか(独身であっても、イメージとか意識の中では結婚の形を取っている人もいます)は、それは本当に意識のあり方次第と言ってよいでしょう。

あと、結婚には責任(結婚だけとは限りませんが)が伴いますので、それを果たさない場合は、結婚による成長や完全性回帰も難しくなります。

たとえパートナーを変えても、自分が責任を果たさない態度なら、相手も責任を果たさない人を引き寄せることになるでしょう。(この責任は厳しい意味だけではなく、愛を持つという柔らかな責任も意味します)

まさに相手は鏡でありがらも、異質性を持ち、それはすでに述べたように、お互いによって完全性を映し出しているのです。


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