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現実での移動、ふたつの地点

マルセイユタロットの「節制」のふたつの壺と水にも言えるかもしれませんが、「ふたつの世界」の混交・交流というのが確かにあると感じます。

この「ふたつの世界」というのは、スピリチュアル・心理的には、意識と無意識の世界、見える世界と見えない世界、物理的な(ことが中心の)世界(観)と精神・霊的な(ものが主体となる)世界(観)というのが、このブログを読んでいるような人には想像されると思います。

しかし、現実的な意味での、ここの地点とあそこの地点(こちらとあちら)、A地点とB地点というような言い方も、もちろんできます。

私も含めてですが、この現実的なふたつの世界(地点)についての視点のことが、意外に欠落している(ほとんど意識されない)のに気づきます。

私たちは、日常的に、無意識と言いますか、それほど自覚なく、流れ作業のように、今いる地点と、これから向かう先の地点(移動先)を動き続けています。

毎日の出勤もそうですし、もっとミクロで言えば、家の中とか、職場の中においても、細かく言えばきりがないほど移動しています。

さらにもっとミクロに見ると、腕や指、足も動かしているわけですから、つまりはじっとしていることなどありえないということです。たとえ寝たきりでいようが、肉体の何かがわずかでも動いていることは確かでしょう。

タロットでは、「吊るし」という停止を象徴するカードもありますが、このカードも宙づりの状態にあり、もしかすると、微妙に風にゆらめいて動いているのかもしれません。

そこから考えると、私たちは完全停止ということはありえないのではないかと思います。移動というテーマで言えば、いつも移動していて、同じところ(同じ形)が永続していることはないわけです。

マクロで考えてみても、私たちは地球の上にいるのであり、地球が自転し、太陽の周りを公転しているとなれば、じっとしているように見えても、これまた実は常に移動していることになります。最近、よく言われるように、太陽自体も何かの周囲を回っているともし考えるのなら、地球も(太陽系自体)、前と同じ場所にはいないことになります。

こうして見ると、私たちは、まるでタロットの「愚者」のように動き続ける(移動し続ける)存在であることがわかります。

しかし、そんな動く私たちでも、常識的な感覚で言えば、どこかには必ず(一瞬でも)落ち着いている場所や時間というものがあります。それは移動する前の地点です。

細かく言えば常に動き続けている私たちでも、感覚としては、「ここ」から「あちら」というように方向性があり、移る前には、停止している場所、留まっていると感じるポイントがあるのです。

そこが、「現在」「今」と感じる場所であるのもわかると思います。

ところが、その場所も、実はマクロな意味、あるいはミクロな意味で動いていることがわかりました。すると、私たちの「今」というのは、どこにあるのでしょうか?

結局、文字通り、今いる場所、今自分が止まっていると思える場所こそが今という感覚になりますよね。

スピリチュアルな世界では、時間は「今」しかないとか、今この瞬間が大事だとか、今にすべての創造があるとか言われます。

では移動している時というのはどんな時間・状態なのでしょうか?

場所が動いていますから、「今」とは言えない気がします。

それでも、例えば電車に乗って移動していれば、自分が止まっているように思う場所、つまり電車の中にいる自分の場所が今であり、時間(と場所)は移動しているものの、今・この瞬間は電車の中にあるという不思議なことになります。

もしスピリチュアル的な人が言うように、時間が今しかなく、今にすべてが創造されているのなら、電車の中の例でいうと、電車の移動も、周囲の風景も疑似的なものであり、自分のいる場所の瞬間瞬間こそが実在みたいになってきます。

別の面白い言い方をすれば、電車が移動するごとに、景色がその都度創造されているようなものです。それもあなたの意識が外に向けられた瞬間のみですが。(笑)

よーく考えていくと、本当は移動もないのかもしれません。

電車の例えが出たので、また電車のことで示しますが、乗っている電車と同じ速度の電車が外に平行して走っているのが見えれば、あちらの電車に乗っている人と自分が、まるで動いていない、止まっているように感じますよね。

でも実際は、どちらの電車もかなりのスピードで動いているわけです。

これと少し似たような話で、もしも自分が動いているのではなく、景色のほうが動いているとすればどうでしょうか?

自分自身はただその場で足踏みしているだけで、周囲の景色が映像のように動いていく感じを想像してみてください。

すると、おそらく、ものすごいリアルな景色(映像だけではなく、音とか雰囲気とか、匂いとかもリアルなもの)の場合、自分が本当に移動しているような錯覚を起こすのではないかと思います。

最近のバーチャルリアリティの世界はかなり発達してきていますので、自分はただ装置をつけたり、そういう仕掛けの中にいるだけなのに、世界を旅行したり、とんでもない経験をしていたりするような感覚になります。

話を戻しますが、結局のところ、自分の肉体の場所というより、自分が思う意識のうえでの「ここ」というポイント・地点が重要なのではないかと思います。

今・ここが大事だと言われるのも、意識がここを決めるからで、「ここ」がまさに自分の世界の中心になっており、「ここ」は動いておらず、周囲のほうが創造的に移動している(ように見える)からだと感じます。

唯心論の立場からすれば、心が世界を創っていることにもなり、そこまで言わなくても、自分の今・ここという感覚が周囲に関係すると言えそうで、その意味では、やはり自己が自己たる感覚、土台、確立、確信が重要となり、思いが世界を変えるにも、しっかりとした自分中心感覚が必要であることがわかります。

言い換えれば、逆に、移動する感覚に振り回されないこと、どこにいても「ここ」であり、世界は自分の中にあるという感覚に近いものでもあるでしょう。

例えとしては変ですが、巨大な自分と、小さな自分が常に回転しながら同調しつつ、巨大な自分が小さな人形のような地図上の小さな自分を動かしているような感じです。

ですから、物質と霊というふたつの世界の見方の前に、現実の中にも、ふたつの世界がすでにあり、私たちはその間を行き来しているようで、実はしていなく(笑)、「節制」の壺の水のように、交差している真ん中の地点にリアリティを感じているという話です。

結局、現実のふたつの世界(ふたりの自分とも言えます)も、「霊と物質」のようなふたつのことと同じなのだと思います。

今回の話は、私自身も気づき始めたばかりのことで、まだ完全にうまく説明することはできませんが、本当はシンプルな話で、今いる「あなたのそこ」「私のここ」がすべてを回しているような話なのです。これは「運命の輪」や「世界」のカードとも関係してくるように思います。

皆さんも、時々、立ち止まっている時、動いていない時の自分と、移動している時の自分、目的地に到着した時の自分などに、意識をそれぞれ向けて見てください。

動いているのは物理的には自分ではありますが、本当にそうなのか、移動しているものは肉体と言えるのか、特に移動している時の「今」「ここ」「私自身」はどこにいるのか、考えてみるとよいでしょう。

こうなると、マルセイユタロットで言われる「愚者」と、そのほかの21枚の大アルカナとの関係性も、また、とても興味深いものとなります。


タロットを活かす、過去と未来の方向性

タロットに興味を持つ方で、タロットと自分に対するスタンスといいますか、関係性においては、人それぞれと言えます。

大きく分けて、その関心の中心として

●占い

●魔術(魔法関係)

●心理

●自己啓発

●スピリチュアル

●歴史

●遊戯ゲーム・カード

などがあると思います。

一般的に多くは占いのツールとして扱うというもの、最近ではライトなスピリチュアル的関心からのもの、自己探求・心理関係的な象徴道具としての扱いが増えて来たように思います。

占いにタロットが使われるようになったのは、古いようで、実は新しいという説がありますが、これも諸説あります。

そして、意外に(一般的に)知られていないのは、魔術(開発)道具としてのタロットで、今、世間で多く普及している通称ライダー版、ウェイト版のタロットなどは、実はこれの代表みたいなものです。

ですから、どうしても、タロットというものを見ていくと、西洋魔法との関連は避けて通れないところがあります。(「魔法」というと奇妙奇天烈、不可思議なイメージがありますが、「近代魔術」で調べていただくと、一般に想像する、おとぎ話とかに出てくるようなものではないことがわかるでしょう)

しかし、これは私見ですが、西洋魔法とタロットとの関係は、西洋魔法においてタロットは、あくまで魔法のためのいちツールであり、タロットが魔法に必ず必要かと言われるとそうではないと思います。

個人的には、魔術的(系)タロットとは別物として、タロットを扱っています。

といっても、タロットの精霊とのコンタクトとか、タロット瞑想の技術などは、ほとんどが西洋魔法のものがベースになっていると言え、見えない世界とタロットということを結び付けていくと、西洋魔法的な技術を知らず知らず使っていることもあるのだと思います。

タロットを魔法的な感覚(その世界観と技術)で使うとなると、本当は魔法団体に入り、師匠や兄(姉)弟子のもとで修業していく必要はあるでしょう。占い師の中でも、あるいは、そのクライアントやタロットを習いたいと思っている人にも、タロット扱いの理想として、この魔法的なタロットの力を想像している人が少なくないと思います。

ただ、それは先述したように、きちんと(団体や師匠のもとで)習得していく魔法技術の段階があり、素人的な見様見真似では、危険なところもあり、やはりいい加減にはできない、特別な世界と言えます。

自分の目指すタロットの道が、どんなものなのかは、最初はわからないにしても、少しずつ理解し、ライトに楽しむか、覚悟を決めて取り組むのかのところは、やがて直面する時が来ると思います。

一方で、アカデミズムと言いますか、見えない世界ではなく、見える世界でのタロットへの関心が強い人もいます。先に挙げた、カードの歴史とか、カードの芸術性などに興味のある人たちです。

こういう人は、カードそのものが好きということで、タロット占いやタロットリーディング、タロットを通した精神的霊的世界に参入するというようなことにはあまり関心がなく、カードの成り立ち、変遷、絵柄、種類、図像の解明などに楽しみを覚えます。これはこれで、タロットとの関わり方のひとつで、面白いものだと思います。

タロットとの関わり、興味は人によってそれぞれであり、このようにたくさんあるのですが、逆に言えば、タロットというものが、それだけ多様に扱える普遍的な象徴性・ツール性を持つ存在と言えます。なかなか、これだけいろいろな意味で関心を持たせるものもないでしょう。

さて、タロットを、特に、精神的・霊的な探求、向上の意味で、自他ともに使っていくものとするのなら、見える世界と見えない世界の統合も意味していくことになり、だからこそ、ふたつの方向を常に診ていくことが求められるように思います。

実は、この「ふたつ」というのには、様々な意味があります。見える世界と見えない世界のことだけでもないのです。

タロットを使うということは、タロットをよく知らねばならず、そのための「ふたつの方向」で言えば、タロットの成り立ちや込められた思想の背景、象徴の意味など、いわば学術的、歴史的内容含めた蓄積された内容を学ぶ必要があります。

ただ、この場合は、カードコレクターとか、カードそのものの歴史を解明していくような興味の人とは違うので、詳しすぎる必要はないと思います。あくまで思想や哲学、背景の流れというもの、重要なものを押さえるということです。

西洋で作られた(完成された)タロットであるのなら、やはり中心は西洋の歴史、思想背景(秘められたもの、あまり知られていないものの、タロットと関係していると考えられる事柄が特に重要)となります。

しかし、結局、それを辿っていくと、西洋だけに収まらず、図像にある象徴の源流ともいえる古代エジプト・メソポタミア、今でいう中東古代のインド、中国などの思想・宗教・世界を、ある程度知っておくこと、さらに深いものとなってきます。

いわば、これらは過去方向の知識とか蓄積を知るということです。これを知っているのと、知らないのとでは、カードの力の発露に違いが出ます。

例えば、人間でも、いろいろと苦労したり、経験を積み重ねて来た人には深さや味わいがあり、問題を解決したり、癒したりする力も強くなります。逆にペラペラな薄い人では、それこそチャラい感じで、相談に乗ってほしくはないですよね。(笑)

タロットも、何も知らない段階では、ただの紙切れであり、カードに罪はないにしても、その段階では薄ペラなものでしかないのです。これにさきほど述べた象徴や背景などの深い知識が加わってくると、カードに封じ込められていた数千年(マルセイユタロットの場合)の象徴・歴史の流れにあったものにスイッチが入り、カードはがぜん厚みを持ちます。

タロットを勉強しなくてはならない理由のひとつは、ここにあるのです。

そして、もうひとつの方向性は創造していく未来方向です。

タロットの過去方向での歴史、蓄積、思想背景、象徴性の意味などを知ることも重要ですが、今度は、それを現代(今)と未来に向けて、どう活かすのか、未来をどう創造していくのかを、タロットを通して考え、実践していくことも大事です。

でないと、昔はすごかった・・・だけの過去礼賛に終始し、過去と今をループするだけの、歴史探訪、ただの知的好奇心を満たすだけのものになりがちです。

今は、ある意味、ツールとしては何でもそろっていて、もはやAIでさえ機能しようというこの時代に、なぜタロットを使うのかという意味を見出せないと、視線は過去方向だけにとどまってしまいます。

温故知新という言葉があるように、失われた何か重要なものが、タロットには描かれていると見て、それをもとに、忘却されたものを再発見し、それを今や未来に向けて、わかりやすくふさわしい形で再構成(再生、リニューアル)することが求められているように思います。

まさに、カードで言えば「審判」です。

キーワード的に言えば、その重要なものとは、「霊性」ということになるのですが、その霊性の復活がなぜ必要で、そのつながりをタロットでどう蘇らせるのかということでもあります。

例えば、マルセイユタロットは、「グノーシス」と呼ばれる古代思想と密接に関係すると考えられますが、そのグノーシスにしても、昔のものをそのまま現代に説いても、あまり意味は持ちません。(ただ、先述したように、過去方向の蓄積として知る必要はあります)

しかし、象徴的な意味では、昔も今も変わっていないところがあり、古い時代のグノーシス思想を知ったうえで、そこから抽出される、ある種のイデアとか型が、現代に活かせるものになる、そのヒントになるのだと考えるようなことです。

従って、あまり具体的過ぎても本質を見失うので(時代ごとに形、やり方は違うので、それに囚われていると本質が見えなくなるという意味)、象徴としての抽象的表現でもって、核のようなものを見ていく必要があります。ここにタロットが活かせる理由が見つかるのです。

一人ひとりの具体的、個人的願望や幸せは、タロット占いなどでサポートは可能かもしれませんが、そのレベルとは別のもので、特に未来に向かっては考えていく必要があり、言わば、私たちの霊性を回復していくうえで、個別でいながら、全体的な視点が必要となります。

こういうところに、タロット(マルセイユタロット)が使えるのだと思います。

タロットは古い道具で、紙に印刷されたカード(昔は型紙で刷っていた)というアナログ的な、もはや時代遅れの代物のように見えますが、実のところ、描かれているものは、未来的でもあると私は考えています。


友だちはいなくてもいいけれど。

マルセイユタロットの大アルカナでは、数の順に成長していくという考えがあります。(小アルカナ数カードでも、ある視点からは言えることですが)

その観点でカードを観察すると、いろいろなことに気づくと思います。

そのひとつに、タロットの絵柄に出てくる人や動物の数の違いがあります。

全体の傾向として、数の小さいカードよりも、大きいカードのほうかそれらの数は多くなるように見えます。もちろん、数の小さいカードたちにも、人が多いもの(例えば「恋人」カード)もあります。

実は、そうした例外にも意味はありますが、今回は、この人や動物のようなものの数が増えていくことをヒントに、私たちの生き方について、考えてみましょう。

私たち人間は、ややこしい生き物と言いますか、たいてい、二律背反のような、別の心とか考えを併せて持ち、それらが葛藤することもあれば、どちらかのひとつを場面やシーンで選択して生きていることが多いものです。

そして、このこと(ふたつの相反する状態)は、一人のほうがいいと思うか、誰かと一緒にいたいと思うかという、誰しもよくある気持ちでも表されます。

性格や好みの差も当然あります。孤独を好む人、一人でいたほうが落ち着く人もいれば、常に誰かといなければ安心できないという人、大勢でにぎやかに過ごすのが楽しいと感じる人など、様々です。

しかし、たいていの人は、一人になりたい時もあれば、誰かと一緒にいたいと思う時もあるというのが普通でしょう。

これを、どらちかにしなければならないと思い過ぎると苦しくなります。

コミュニケーションの上手下手や、人間の価値を計る意味から、孤独、いわゆるボッチ(笑)を忌避したり、逆に、群れ・グループに入ることで、自分の存在を確認したりするようないびつな考えでは、自分が人とどう距離を保てばいいのかわからなくなって、不安になることでしょう。

タモリ氏も、「友だちなんかいらない」と述べたように、誰かといなくてはならないとか、友だちがいなければ人からなんと思われるだろうかとか、友だちから悪く思われないよう異常に気遣ったりするとかで、自分を見失い、自分が楽しく、あるいは穏やかに生きられないようでは、自分の人生なのに(他人のために生きるみたいで)本末転倒になってくるわけです。

その意味では、孤独、一人でもよしと割り切ったほうが楽かもしれません。

また、西尾維新氏のライトノベルで、アニメ化もされて人気になっている「化物語(ばけものがたり)」の主人公、阿良々木暦(あららぎこよみ)君も、最初は、「友だち作ると人間強度が下がる」という理由で、孤独を選んでいました。

これは、孤独の選択による精神性を中心とした強さが養われるという考えによるものと思われ、友だちを作ると、なるほど、友だちとの楽しい時間はあるかもしれませんが、反面いろいろと人間関係でわずらわしいところが出たり、気遣いするところがあったりで、自分というものが弱くなる(自分中心で決めらず、自分でいられなくなる)ということでしょう。

昨今の承認欲求オンパレードの付き合い方をしている人の多さを見ると、阿良々木君の主張も当を得ているかもしれません。

しかし、タロットの話に戻りますが、マルセイユタロットでは、先述したように、次第に人(や動物)は多くなっていきます

それでも中には、明らかに孤独が強調されているカードもあります。例えば「斎王」とか「隠者」などです、「隠者」に至っては、9の数なので、大アルカナでも半分くらいのそこそこの位置ながら、孤独性が謳われています。

昔から、精神的・霊的な成長のためには、俗世や一般の人から離れ、孤独な時間と空間に身を置かねばならないとされ、修行者に実践されてきました。その意味については、あえて今回は書きませんが、マルセイユタロットが霊的な成長プロセスを描いていると仮定するのなら、孤独の絵柄もあってしかるべきです。

一般生活においても、やたらと人と群れるのは、すでに言ってきたように、自分を見失うだけで、一人の時間は、いろいろな意味で必要でしょう。一言で言えば、人に依存しないように、一人になる、一人で生きるというシーンも大事だということです。

ただ、やはり、この世は自分一人だけの存在で成り立っていないのは明らかです。

たとえスピリチュアル的な意味で、「この世界は自分の創造にあり、究極的には自分しかいない」という考えであっても、自らを中心に、多様なものが放射されるがごとく、いろいろな階層・レベル、表現でもって、存在性は分化し、多様に「いのち」として表現されています。

ですから、他は自分でもあり、自らを救うということは他人も救うことになり、その逆もまた真なりで、他者を救うことは自己を救うことにもなると考えられます。

「化物語」の阿良々木君は、当初は人間強度が下がるからと、友だちを作りませんでしたが、本気で思っていたわけではなく、言ってみれば、友だちができない変わり者的な自分をすねていたのであり、孤独である自分を正当化して、かっこいい理屈をつけていたに過ぎません。それは強度どころか、自分の弱さでもあったのです。

結局、阿良々木君は、怪異と関係する者たちとの壮絶な体験を重ねることによって、友だちとも仲間とも恋人ともいえるような存在が増えました。その結果、むしろ彼の人間強度や魅力度は上がったように見えます。

これは、自分の弱さや限界を認め、受け入れることでもありました。

「化物語」はしょせん創作の話で、しかも怪異が出るようなファンタジーで、現実の私たちとは関係ない話と思うかもしれません。

ただ、タロットでも人の数が増えていたように、私たちは、一人よりも、全体(多勢)として見た時、その強さは最強になります。それは、さきほども述べたように、現実世界では、一人ひとりでは限界があり、できないことも多いからです。

霊的覚醒レベルになると、その一人の限界も超えていくようなことになるのでしょうが、現実的な意味においては、私たちが世界(全体)の力を知ることが、タロットからも示唆されているように思います。まさに「世界」と「力」のカードの関係のようでもあります。

私たちが、自分の個性を探求し、それを理解しつつも、同時に限界や苦手なところも知って、その面は、他人が担ってくれることを、「世界」というカードの視点を持つと気づいてきます。

よく言われるように、一人では無力だが、集まると大きな力になり、とてつもないことを成すことができるのです。

「化物語」の阿良々木君の言う、“人間強度”は、他人への依存(または逃避的な孤独)だと確かに下がることになりますが、自分の弱さも強さも個性も認めたうえで、他者を尊重すると、それは他者(が与える力)=自分(を救う力)にもなってきて、カードで言うと、「節制」の協同的力(それは救済力でもあります)が発現されてくるようになります。そうなると、逆に、人間強度は増すのです。

シンプルに言えば、私たち自身が世界であることを知る、世界と人々を好意的に見る(ただし、何でも甘んじて受け入れて支配されること、平均的思考で皆まったく同じになること、無抵抗になることとは別です)という感じでしょうか。

マルセイユタロットの「世界」の真ん中の人物が、周囲の四つの生き物とリースに囲まれて、踊っているように見えるのも、霊的には自分が宇宙になっていることでもあると考えられますが、現実的な話では、やはり、自他の協同、理解、助け合い、学び合い、能力・考えの提供、交換などの、それぞれの個性を活かし、調和する社会(世界)を示しているように思います。それが一人ひとりの強さと自信にもつながってくるのです。

全体で支え合えれば、一人ひとりの安心感も増し、自分自身の人生を豊かに、創造的にしていく機運もますます上がり、さらにはそれが全体の向上へと還元されてくるでしょう。

孤独で生きるのもよいですが、全体へ世界へと意識を向けていくことも、結局、自分のためにとってもよいことになるので、「自分のできる世界への開き方」を考えてみましょう。


タロットへの質問 いろいろな考え方

タロットへの質問(クライアント、自分がタロットに聞きたいと思っている問い)について、これまでも何度かこのブログで書いてきました。

私の考え方としては、一見、矛盾するようですが、タロットへの質問は、あまり意味を持たない(いらないわけではありません)という立場と、質問の工夫によって、タロットをうまく活かすことができるという立場との両方が混在しています。

アメブロで、1年前に書いた記事が自分のページに提示してくれる機能があり、偶然かシンクロか、ちょうどその1年前に書いたものとしてあがってきた記事が、後者(質問の工夫によってタロットリーディングも変化し、機能すること)について、わかりやすいと思いますので、それを再アップしておきます。

この過去記事では、まず、占い的な「なになにはどうなりますか?」のような受動的な問いより、「なになにする(なになにを実現する)にはどうすればよいか?」という能動的な質問にすることで、創造的な視点に変換できることを述べています。

当然、タロットからの指針も、「運命的にこうなる」というのではなく、自分が思い、行動するためのメッセージ、情報として扱うことができ、主体は自分自身であると自覚することができます。(タロット占いへの依存や、変に神秘性にあこがれるような事態になりにくい)

また、この記事には書いていませんが、質問そのものを絞ったり、具体的にしたりすることで、本来抽象的ともいえるタロットの絵柄とその意味を、現実的なもの、判断のしやすいものに落とし込むことができます。(しかし、これには問題もあり、そのことは後半の記事に関係してきます)

あと、記事では、タロットに質問をするのではなく、タロットの象徴性が自らに問いかけているという「リヴィジョン的な見方」のことも取り上げています。

たとえ、タロットへの質問があったとしても、タロットの意味に質問をあてはめるのではなく、質問そのものをタロットの象徴でもう一度見直す(ゆえにリヴィジョンと言われる)方法です。

これ(リヴィジョン)は、質問を工夫することの一種でもありますが、最初に述べた「タロットへの質問は、あまり意味を持たない」という立場にも近い技法と言えます。

では、その、「タロットへの質問は、あまり意味を持たない」という考えについて、一部になりますが、お話します。

とりあえずは、よく混乱するケースで、見てみましょう。それは言葉の問題が原因のものです。

例えば、「この講座を受けることはよいですか?」というタロットへの質問を行うとします。

そして、出たタロットによい・悪いという意味があったとします。すると、明確に、よい意味のカードが出れば、講座は受けたほうがよいという判断ができますし、その逆に、悪いカードが出れば、講座は受けないほうがいいとなります。

ところが、同じような質問ですが、ちょっと違う言葉(文章)になった以下の場合はどうでしょうか?

この講座を受けるのはよくないですか?(講座を受けるのは、自分にはあまり価値がないことですか?)

これに対し、よい、イエスと思われるタロットが出れば、講座を受けることがよいのか、あるいは、「受けることがよくないのでは?」という質問なので、質問自体に「イエス」と答えているとみて、つまりは、「受けることはよくないですか?」「はい、よくないです」という読み方をしてしまうことも考えられます。

また、カードの正逆と、吉凶的な意味のよい・悪いを入れた見方をする方法を取るならば、ますますこの混乱が顕著になります。というのは、正逆で意味がまったく反対になると見るものがあり、それだと、悪い意味のカードの逆向きはよいことになり、言葉だけで見ていると、質問に対しての答えがわかりづらくなります。

この問題の解決は簡単なことです。第一には、カードを吉凶、よい・悪いで決めつけた見方を採用しないことです。

もうひとつは、要は、否定の問い方をしなければよいということです。「なになにするのは悪いこと(よくないこと)なのか?」「なになにするのはダメなのか?」みたいな否定の問いかけをすると、カードが否定の肯定をしているのか、否定の否定をしているのか、それとも質問内容そのものの肯定なのか否定なのか、わからなくなってしまうわげす。

まるで、バカボンパパの「賛成の反対、反対の賛成なのだ(賛成の反対に賛成する、結局反対のこと)」みたいな感じです(笑)。(ちなみにバカボンパパのこの言葉は違う解釈もあって、意外に含蓄があり、なかなか哲学的・スピリチュアル的には面白いです)

次に、たいていの具体的な質問は、二元的な判断によるものがどうしても多くなります。それは、人間の現実生活が分離(どちらかの)判断基準を強いられる世界が常だからです。

ですから、生身の質問、現実(生活)の悩みから出る質問ほど、どちらがいいかとか、どうすれば(一般的・現世的な意味で)幸福になれるか(つまり、幸か不幸の)二元的選択の問いになります。また具体的でもあるということです。

ところが、言葉としての問いは確かにそうではあるものの、自分、あるいはクライアントが本当に求めている質問や、知りたいこと、気づきたい内容は別にあることが多いのです。

もう少し違う言い方をすれば、二元的な判断を求める自分も存在しますが、ほかの質問と答えを欲する自分、さらには、答えはもともと知っていて、質問と答えをまるで自問自答、自作自演のようにして楽しんでいる自分などがいるのです。

いわば、複数の自分が内に存在し、それぞれ、求める質問と回答が異なるのです。

そのため、一般的な、よく占いであるような現実的・二元的質問と答えは、確かに、ある自分を満足させはしますが、一方で、ほかの自分は不満であったり、もっと別の回答を求めていたりするので、そうした(別の)存在が自分の中に重要となってきた人には、もはや、通常の質問と答えのレベルでは、違和感を覚えたり、どこか納得しないところを感じたりするのです。

あるいは、別の自分の存在がまだそれほどではないにしても、一般的な質問と答えの繰り返しでは、同じ次元をループするだけのことになり、特に、精神的・霊的成長が望みにくくなります。

言い換えれば、その場限り、一代限りの自分が物質的に満足すればOKみたいなことです。(それが悪いわけではないですが、全体的、中・長期的に見れば問題であり、実は大きく現実的問題にも関係して来るのですが、そのことはいずれ別の記事で述べるとします)

ちょっとわかりにくくなりましたので、カウンセリング的なケースで簡単に説明しますと、例えば、恋愛の質問で「彼ができますか?」という人がて、それに対し、「いついつの恋愛運はよいですから、可能性があります。場所はこういうところで、相手はこのような人です」と占ってもらうことはあるでしょう。

しかし、実際にそのようなタイミングで、希望する人に出会え、恋仲になったとしても、すぐ別れてしまい、また、占い師のもとに、「次の出会い、彼はいつ現れますか?」と聞いて、同じように教えてもらったとしても、再び別れてしまったのなら、このクライアントの問題は、出会いとは別のところにあるのかもしれないことが予想できます。

このクライアント、彼女の質問は、現実的なものであり、彼との出会いについての質問ですが、それにそのまま答えることは、当人はおそらく満足し、実際に出会いがあれば、歓喜するかもしれません。

しかし、先述したように、これまでも、そして今後出会いがあったとしても、恋愛やあつきあいがいつもうまくいかないとすれば、本人の内面や、何か本人も気づていない問題データが残っているからとも考えられます。

このクライアントの質問自体は出会いへの方法やタイミングではあっても、本当の問題解決には、その質問を超えたレベルのものが求められることになります。

これは極端な例ではありますが、このように、当人の質問の言葉(当人が発する今の望みや疑問)をそのままをトレースして回答することは、一時的な満足や対処療法的なことになる場合があるわけです。

従って、「タロットへの質問は、あまり意味をなさないことがある」のも、これでわかると思います。

タロットへの質問はあくまで導入であり、そこから本人の気づいていないところまでアプローチし、最初の言葉とは別のレベルの回答を(本人がタロットリーダーととに)導き出すことも可能なのです。そのほうが、本質的に、タロットリーディングというものに近いと言えましょう。

ただし、必ずしもそれがよいと言っているわけではなく、ケースバイケースであり、現実的・二元的な質問に答える技術、タロット占い、タロットリーディングもありますし、それがクライアントの満足と救いのプロセスに乗せるきっかけになることもあります。

そして、最初に述べたように、質問に意味があるという立場を取ることもでき、それは質問、問い方によって、タロットをより活かすこともできるためで、ひいては、問い方そのものが、自分の人生を決めて行くことすらあると言え、その意味では、質問は非常に重要なものとなります。


現代の自分探し

自分を知りたい、自分らしくありたい、こういう望みを持つ人は増えたのではないかと思います。

昔から、いわゆる「自分探し」という名前で、自分が何者なのか、自分は何のために、どんな目的で生きているのか(生きて行けばよいのか)と、世界を旅する人がいました。

そして、精神・心理の世界で、自己表現の大切さが謳われようになり、また別の形で、それを求める人が増えたように感じます。

しかしながら、かつての「自分探し」の旅で、よくある結論・結末としてあったのは、結局、自分はここにいた、というもので、世界など旅する必要はなかったのだという「幸せの青い鳥」のような話でした。

まあそれでも、考えようによっては、世界を旅したからこそ、身近なこと、本当に大切なものがわかったということもあるので、探求したり、放浪したりすることは無駄ではないと思います。

そして、現在は、自己表現ということで、自分の個性、自分らしさというものに注目する人が多くなったのは、先述したとおりです。

これは裏を返せば、自分を押し殺し、無意識的に人の言いなりになって、何か社会や組織、大きな存在や常識と言われるものに自分をあてはめて生きようとし過ぎ、自分が本当にどうしたいのか、どう生きたいのかを見失っていた人がたくさんいたからだと考えられます。

ところが、ネット社会になり、SNSや動画などで、簡単に自分を発信・表現できる時代になり、自分自身を見る者、自己表現の方法と世界は増えたものの、他人から認められたいという欲求が増加したり、自分のことがますますわからなくなった、個性がみんなのようにうまく出せない(埋没した自分を感じる)という人も少なからずいるのではないかと思います。

コミョ障を自覚する人も増えたのは、こうあるべきとか、人はどんな場合でもうまく円滑にコミュニケーションすべきという観念のようなものがある中で、そうなれない自分が余計気になるようになったからではないかと思います。

言い換えれば、情報が多く、一般化(情報が伝わりやすく、形だけは共有)するシステムが作られているため)しやすくなったことで、自分がそのイメージとはそぐわないことが際立つ(実際の自分と、理想で語られるイメージとの乖離が強くなる)ようになったということです。

情報が一般化されてくると、このように、昔は考えもしなかった(情報として入らないか、少ない例しか見ないので、気にする範囲が狭かった)ことが、いろいろと嫌でも目に付いてきて、気になるのです。

もちろん、かつてあった地域の年齢階梯的な集団制度も崩れ、少子化で部屋にこもりがちな人が増えたり、あまり他人とコミュニケーションせずとも、お一人様でも生きていける環境が整ってきたりしたことことの弊害もあるでしょう。

要するに、今の社会、昔の自分探しとはまた違った意味で、自分を探さなければならない状況に追い込まれている人がたくさんいるのです。

そして、皮肉なことに、その探している自分は、情報化社会にある無機質とも言える集合概念のような“他人”に対して受けのいい自分、かっこいい自分、何か注目を浴びる自分という、本当の自分かどうかは疑わしい存在なのです。

また、精神・心理系の人が探す自分というのは、言葉では本当の自分、ありのままの自分というものですが、これも、抑圧している(されている)自分でない部分の自分ということで、本当の自分の一部でしかないのが実情でしょう。普段演じている自分も、大きな自分の中の一部であり、結局、どれもが自分なのです。

ですが、抑圧されている自分がそのままだと気持ち悪いですし、いつか暴発しかねませんので、その抑圧されているほうの自分を発見したり、コントロールしたり、浄化したりする必要はあると思います。

自我の二重構造と表現できるかもしれませんが、人に見せやすい自分と、見せにくい自分に対立・葛藤をさせてしまうと、エネルギー消費も無駄に巨大なものになり、歪みも起こしているので、心身に悪影響が出るのは必然でしょう。

よって、そのねじれや二重構造は解消するか、葛藤するふたつの自分を協議・調整させておくことは望ましいです。

とはいえ、あまり情報に踊らされて「自分を探す」ことは、やり過ぎないように注意したほうがよいです。

中には、それ(自分探しの手伝い、コーディネート)をわざと商売にしている人もいます。(そういう仕事があってもよいと思いますが、目的が別にある悪徳的なものも存在するからです)

さきほども言いましたように、自分が表現する(している)自分というのは、全部自分(トータルな自分の一部)ですから、あれが本当でこれは偽物と区別する必要もないでしょう。

マルセイユタロットで言えば、大アルカナ22枚に象徴される人格が自分の中にすべているみたいな話で、さらに小アルカナ的にいえば、それらが4つのシチュエーションや性質、10の段階などにも分かれるという感じです。これもすべて自分の中にあるものです。

タロットを知れば、少なくとも78枚(の象徴)の自分がいることがわかります。

ペルソナ、仮面というものがあり、ここからパーソナリティと言葉も出るように、私たちは全員、いつもペルソナでいるようなものです。本当の自分は仮面をはがした者ではなく、仮面全部を統合した者と言ったほうがいいかもしれません。

会社にいる自分、家庭にいる自分、友人といる自分、パートナーといる自分、趣味の時間にいる自分・・・たぶん、皆さん、それぞれの顔や態度は微妙に違うでしょう。解離性同一性障害(多重人格)ほどではないにしても、普通の人にも、いろいろな自分がいるのは確かなのです。

(演技や功利的な意味で)わざとやっている人もいるでしょうが、大半の人は自然に相手や状況に応じて、それにふさわしいと思う自分が出ています。

そもそも劇や映画などで演技が成り立つのも、演技者(人間)の中で、そういう人格を一時的にも形成できるからで、もちろんそれは演技者本人とは別人ですが、演じることができるのは、その性質を持つからと言えます。

だから、誰れしも、悪人にも善人にも、ヒーローにもヒロインにもなれる気質があるということです。

現実には、様々な条件やカルマ等もあり、すべての人格を思い通りに出せて、なれるわけでありませんが、人とはそういうもの(あらゆる人格の可能性を持つ者)だと思うと、自分探しというものが無意味であることがわかってくるでしょう。

あえて言うのならば、この(その)時代に生きることの意味や、生き甲斐を思える自分というものを作り上げることが「自分探し」と言えるかもしれません。

探すのではなく、作り上げるのですから、選択も創造も可能なのです。

性格や経験というベースがあるので、まったく新しい人物を創造することはなかなか難しいですが、結局、自分の生きる価値・生き甲斐ができれば、それは自分らしさとか、自分の個性とかになってきますので、自分探しは、自分なりの生き甲斐、この生(せい)のある人生に自分価値が持てるかにかかっているというわけです。

ですから、死ぬ前なら、いつでも間に合うわけで、この意味において、自分探しに遅いはないのです。

この人に出会えたことが良かったとか、この仕事ができて良かった、このチームに入れて良かった、この動物を飼って良かった、ここに来られて良かった・・・こういう瞬間や状況でも、自分の生き甲斐を感じることができれば、その時の自分は自分を探せていると言ってもよいです。

ということは、「自分探し」で見つけようとしている自分は、自分単独だけの存在(自分ひとりで見つけたり、見つかったりするもの)ではなく、相手や状況など、自分以外のものとの、相対的・関係的な形としての「自分」でもあるのです。

本当の自分とは、全体(世界)とのトータルな自分と、自分単独と思っている自分の両方の接点にあるものだと言っています。

自分らしさにこだわっても、それは本来の自分ではないのですから、あまり悩まなくてもよいです。

逆に、この現実世界では、自分らしさは、抑圧される自分が調整されている(規範性・社会性と、自我・エゴ性の自分がうまい具合に調和しているか、バランスが取れている)自分であり、他者との違いをペルソナ的に持ち、それが生き甲斐になっている自分なので、それはそれで、追求していく(その意味で自分探しをする)のは、現実を生きる意味ではよい(生きる意味を現実に見出す)ことだと思います。


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