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大アルカナの数と絵の象徴性

すでに多くの人に知れ渡っていることですが、タロットの大アルカナナンバー自体、(あらゆる)成長や発展の象徴になっています。

簡単に言えば、大アルカナの数順が、そののま成長のプロセスだということです。

ただ、例えば、ウェイト版とマルセイユ版では、大アルカナの数が違います。具体的には、「正義」と「力」の数です。

ですから、すべてのタロットカードが、数順の通り進むのが成長や発展を示しているのではないとも考えられます。

しかしながら、ことマルセイユタロットにおいては、明らかに、大アルカナにおいて、数の進化がすなわち個人や全体の進化とリンクしているというのは言えることだ思います。

ここで、私は個人と全体と言いましたが、この点も重要なところです。

個人と全体は基本的にリンクすると言いますか、根本的には同じシステムや構造で進化していくと考えられるのですが、現実問題として、このブログで何度も述べているように、実際には皆、個人差、一人一人違う個性を持っています。

ですから、全体としては言えることでも、個人によって違って来るようなところがあり、それがまた個人表現が許されているこの世界の仕組みの面白さ(または苦しみ)であると言えます。

言わば、万人に共通の大まかな地図を与えられながらも、個人個人では、通り道とかやり方の異なる地図もあるよという感じです。

言い換えれば、個人の地図は自分で調べ、書き込み、創り上げていくものでもあり、創作可能な、まさにオリジナルマップと言えましょう。

しかし、やはり大目的は忘れないように、抽象的ながらも、目指すべき方向性は全体として共通しているというのが、タロットの大アルカナの絵図に示されているようにも思います。

ということで、個人的に見た場合は、きれいに数順に進むことが必ずしもよいわけではなく、行きつ戻りつ、時にジャンプしたり、抜けたりすることもあり得ると思え、自分がどの位置にいるのかは、人それぞれだと言えます。

また、誰かにとっての「世界」の象徴は、誰かにとっての「力」レベルということもあるかもしれず、単純に数が上のカードが優れているという考えは禁物です。

しかし、数の順に注目してみると、私たちの視点は、ふたつの方向性で見ることが可能になってきます。

ひとつは、普通に、数が増加していく方向性、「手品師」から「世界」への視点です。

数で言えば、1から21へという、ある意味、正道・王道な見方です。

そして、もうひとつはこの逆で、「世界」から「手品師」に向けての視点です。

数にすると、21から1に減少していく方向性になります。

前者(1から21の方向性)は説明しなくてもわかると思いますが、普通に、加増していくような視点・考えになります。

経験や体験、あるいは知識などを、どんどん蓄積していく流れであり、まさに学び・進展という感じがしますね。これが、普通に皆さんが思っている成長性でしょうし、自分が当事者の主観的な人生の進みと言え、年齢的には若さをイメージさせます。

一方、後者(21から1)は、むしろゴールから出発点を見つめるような視点であり、振り返るような印象が強いです。年齢的に言えば、人生の終盤で、老境におり、自分の人生を回顧しているような感じですよね。

すると、それは確かに自分の人生への視点なのですが、何か他人の人生を見ているような、客観的視点にもなっていると思います。

そして、ここが、マルセイユタロットに込められた思想の見方とも関係するのですが、何かを蓄積して成長するというのではなく、すでに自分はすべてを知っていて、それを思い出すための人生(成長)であったと、この逆方向の視点だと気づいてくるのです。

そうすると、壮大な映画と言いますか、ひとつりエンターティメント、ゲームのような感じに人生というもののビジョンが変わってきます。

人生で楽しいこと、苦しいこと、様々に私たちは体験しますし、自分を成長させようと努力したり、とにかく生きるのに必死だったり、時には怠惰に無意味に過ごしたりします。

「世界」から「手品師」に見る視点だと、人生の体験のどれにも、いいも悪いもなく、ただそのような経験があった、してきたということになりますし、実は成長も発展も後退も減少もしていなくて、ずっと完全なる自分が見守っていたということになり、何らかの形で、完全性は忘却する世の中に来ていたものの、振り返ってみれば、その忘却を少しずつ思い出す(取り返す)ためのゲームにチャレンジしていたかもしれないと思えるようになります。

なかなか、老年にならないと獲得できない視点かもしれませんが、マルセイユタロットを並べて、「世界」から逆の順序で、大アルカナを見つめてみると、このような視点も年齢にかかわらず、起こって来るかもしれません。

それからのこの視点(「世界」から見る視点)に近いものになりますが、自分が「愚者」になって、大アルカナ全体を投影図のように見つめると、自分は何になってもよいのだと気づきます。

これは、多くの自己実現を唱える方の話とは真逆なものかもしれませんが、自分に肯定とか否定とかの考えをしなくても、本当は、自分は大アルカナでいうところの「愚者」なのだと知ると、実は何者でもなかったのだいうことになってきます。

「愚者」は数を持ちません。ということは、どんな数のカードでもなく、また逆に、どんな数のカードにもなることができます。

数の順番通りに成長していく、蓄積して大きくなっていくこともできますし、どれか、なりたいカードの象徴性に、自分を置くこともできます。また先述したように、「世界」から見直す視点のように、完全なる自分に、あえてハンディを持つように、忘却の旅をしていると見ることもできるわけです。

ということは、一言で言えば、自由なのです。

ここに自己の肯定や否定という「二元」を考えれば考えるほど、「愚者」ではなくなってきて、この大アルカナの中で、自分が決めた「よい・悪い」という基準でカードを見て、その世界観に振り回されていること(自分)に気づくかもしれません。

幸不幸も、一般的な概念があることは認めても、やはり、人それぞれであり、自分が「愚者」であるのなら、その幸せ感もまた自由なのです。

幸せを、数順をたどるように追い求めてもよいでしょうし、逆に、待っていたり、振り返ったりしていると、実は幸せだったと感じるようなものもあるでしょうし、本当に何でもいいと思います。

私自身、「何者でもない感覚」に悩まされてきました。どこにも居場所がないとか、何か楽しんていても、どこか空虚な感じが常にある感覚とか、何か浮いた感じというものがありました。

しかし、改めて、マルセイユタロットを見て、自分は「愚者」なのだということを知ると、それはむしろ当然なのかとさえ、最近は思ってきています。ここでまた、「それでいい」とか、「いやいや、それは悪い状態」とか考えると、また余計に悩むことになるでしょう。

ありのままとか、そのままの自分でよかったんだ・・・という言い方は、自己への心理的な肯定感としてよく例えに出されますが、もちろん、それはとても大事な考えではあるものの、「そういう感覚に、必ずならねば幸せになれない」とか、「自己肯定こそが幸せの近道」と絶対的に思う必要もないと感じます。

タロット的には、「愚者」であること、ただそれだけを思い、振り返る視点もよし、順を追って成長していく視点もよしだとすると、ずいぶん楽になるのではないでしょうか。

ただ、「愚者」には犬のような存在も描かれています。この犬の解釈はいろいろとできますが、とにかく言えることは、「愚者」は一人ではないということです。

ですから、あなたが「愚者」である限り、孤独ではありません。

もし孤独を感じているのであれば、この「愚者」の犬の存在を感じてみるとよく、それは実際の人物である場合もあれば、あなたを支える教えとか思想のこともあったり、目標的な世界とか人物を含んでいる存在のこともあったりするでしょう。(マルセイユタロットの場合は、この犬の色が重要なこともあります)

そしてこの犬の中身は、入れ替わることもあります。(例えば、あなたを支える人物とかパートナーが変わるとか)

結局のところ、「愚者」としての自分が、まるで一種のゲームを楽しむかのように、(錬金術の文言にもありますが)自分をあえて分けて、また再構成する(ひとつに戻す、統合する)、そういう旅(遊び)が、大アルカナの象徴なのかもしれません。


タロットによる願望実現法のタイプ

人には欲求や願望というものがありますので、それをかなえたいと思うのまた人情でしょう。

マルセイユタロットにおいても、考え方(解釈の違い)にはよりますが、欲求がパワーとなることが描かれています。例えば、「悪魔」のカードなどは典型的で、また意外に思うかもしれませんが、「運命の輪」なども関係します。(あくまで私の考えになりますが)

心理的によく言われるように、欲求や願望をひどく抑圧していると、いずれ何らかの形で問題となって現れる場合があります。身体症状とか人間関係での問題行動とか、情緒不安定とか出るわけですね。

人により、自分の内に向かうか、対人関係とか行動とかの外に出るかの違いはありますが。

ですから、欲求も出していったり、かなえていったりすることは、心身調整のうえでも悪くはないことだと言えます。

問題は、爆発的に一気にやってしまうなどの程度の問題と、まったく周囲の迷惑、あるいは自分のバランスを考えずに、かなえようとしてしまうことにあると言えます。

つまりは大きな影響がないように、小出しにとか、段階的にかなえて(出して)行けばいいわけです。

さて、今日言いたいことは、実はほかにあります。

欲求ということを述べてきましたが、今日は似たようなことで、テーマとしてはタロットによる願望実現ということになります。

以前も何度か取り扱っているテーマです。

タロットによる願望実現は可能か?ということは、タロットに関心のある人にとっては、比較的興味が高いものかもしれません。

個人的には、結論として言えば、それは可能であり、また必ずしもそうとは言えないというような、逃げみたいな回答(笑)にしておきます。

本日は、可能か不可能かについてを審議するのではなく、タロットによる願望実現のやり方がテーマです。

ところで、世の中には、様々な願望実現法が語られています。

私も以前、願望実現に関心があった時があり(今は、ある理由により、ほとんどないです(苦笑))、いろいろと調べたり、実践したりしていました。

そして、どうやら大きく分けて、ふたつの願望実現法のタイプがあることに気づきました。(タイプ分けには、そもそもの型としての要素・考え方がたくさんあるのて、必ずしもふたつに分けられるわけではありませんが)

ひとつは、願望を目標として設定し、そのための方法やプロセスを具体的・細分化してかなえていくというもの。

そしてもうひとつは、願望を目標として設定することは同じでも、あとは自然に任す感じで放置しておくタイプのものです。

あえてこのふたつをスピリチュアル的な言い方で分けるとすると、前者が現実的・地上的・人間的方法で、後者が理想的・天上的・複合的方法と例えられるでしょうか。

前者はよく言えば、人間の力が中心で、人間の行動性・実行性を力とし、現実的に外に向かって働きかけるという感じです。何よりも自分自身の力による改革、変化が基本となります。目標に向かっての強烈な意思とか、成功(達成)イメージも必要となる場合があります。

後者は、人間の力ももちろん当然として思いながらも、無理矢理・強引にかなえていくのではなく、むしろ、人間の意思の弱さや限界も認めたうえで、他者(人間以外も含む)や別の要因にも応援してもらいながらかなえていくとタイプになるでしょう。

まず、前者のやり方や特徴について説明します。

そもそも人間・現実の世界は、分離、つまり別々のモノや個別の世界とも言えますので、要素別に細分化したほうが、具体的で何をすればよいのか、逆に何をしなくてよいのかがわかりやすくなります。

何か夢や目標(願望)があっても、ただ漠然と「こうなればいいなあ」と思っていたところで、現実はほとんど変わりません。願望だけあっても、そのままでは、何をどうしていいのかわからず、取っ掛かりとしての行動もできません。

そこで、実現のための具体性・細分化を要素別にしていくわけです。

すると、願望実現に向けてやるべきことが明確になり、行動も起こしやすくなって、実現に近づくことになります。コーチングなどではこういった手法はよく取られます。

人間、怠惰なもので(笑)、夢を見たり、考えたりすることはよくしても、それを実際に行動に向けていく人は少ないものです。

それには、本気でかなえようという気がないこともありますが、やるべきことがわからない、だから面倒であるということが多く、逆に言えば、具体的でやるべきことがはっきりしていて、それが無理のないステップを踏み、しかも実現に向かって確実に進んでいることがわかれば、人は行動を継続していくことができます。

そのためには目標を立てるだけではなく、目標を現実(地上)に下ろすためのマップピングルートのようなものが必要なのです。

スピリチュアル的に言うと、次元降下させる道を明確に意識する(意識だけではなく実際に書いたり、作業したりする)ということです。

これは、マルセイユタロットで言いますと、大アルカナから小アルカナに次元をシフトさせることであるので、詳しくは言いませんが、大アルカナと小アルカナを併用していくことで可能になります。また、絵柄自体に具体性を持つ大アルカナだけでもできない技ではありません。

次に、もうひとつ(後者)の方法です。

こちらは、むしろ具体化の逆で、目標をロックオンしたら、あとは自動操縦に任せるみたいな方法となります。

やるべきことは、目標のロックオンくらいで、その後は、むしろ意識から願望や目標をはずすくらいにし、何となく、心のうちに目標はあっても、日々、意のままに(求める心のままに)目の前のことに集中して過ごして行く感じです。

あとは天に任すという表現が近いかもしれません。

そして、たとえ実現しなくても、それは自分にとって必要な実現であった(言い方は妙ですが)、つまりは不必要なものであったと取ります。また、想像していたものと違う形のもので実現したとか、そういう場合も、この方法では起こり得ます。

この方法で大事なのは、最初の目標設定にあると言えます。その願望や目標が、本当に自分にとってほしいものか、必要であるものか、また、たとえかなったとして、それ(達成したことによる状況)が逆に自分を束縛したり、維持するために今より自由を奪ったりすることにならないかということを考える必要があります。

どこか違和感やその願望を達成することに抵抗感があり、素直に目標としてロックオンできない場合は、いわば潜在意識のようなところに入り込まず(拒否され)、目標が設定されていないので、当然かなうことも難しいわけです。

強い願望である必要はないのですが、素直に心からそれがかなうと喜べる、祝福できるというものでないと厳しいかもしれません。

まあ、自己の内なる意識も本当に望んているもの、言い方は変ですが、望みが穏やかなものであるのなら、普段忘れていても、いつも心の奥底にはある願望みたいなものになりますから、自然に任せていても、なにがしかのことで、それに近いこと(望みに向かうこと)を自らの内、あるいはあなたをサポートする様々な存在たちが整えてくれるというわけです。

マルセイユタロットでこれを行う場合は、大アルカナ中心の普通のリーディングを行いつつ、その鍵となるカードをシンボルとして、自分の心のうちに置いておく感じになるでしょう。

普通にリーディングするというのは、願望に対するブロックや抵抗などを調整し、スムースに願望を違和感なく思える(ロックオン設定できる)ようにするためです。

簡単に言えば、「そう思っていいんだ」とか「そうなっていいんだ」と自らに許可が出せるよう、タロットリーディングでサポートするということです。

どちらのタイプの方法がよいのかは、まさに自分の志向(嗜好でもあります)、好ましいほうの選択になります。また、目標が願望の種類によっても変わって来ることがあります。

それと、万人に確実で絶対の成功法則とか、具体的な願望実現法はないと思っておいたほうがよいです。

それはこの現実世界が、皆違う個性をもって生きている世界だからです。誰かがうまく行った方法が、必ずしもあなたによいわけでもはなく、その逆も当然あります。

ということで、自分でいろいろと試してみて、自分や状況に応じた方法を選択(あるいは複合したり、創造したり)することをお勧めします。


絶望にある希望、有望

どんな人にも悩みがあり、つらいことはあった(今後もある)と思います。

そしてこれもまた、多くの人が経験しているかと思うのですが、絶望という言葉で表現されるような、まさに望みが絶たれる感じの状況というものがあります。

ただ、中には、「私はそんな気持ちになったことないなあ・・・」という幸運と言いますか、メンタルの強い方もいらっしゃるでしょう。もしかすると、絶望なんていう状況は、そうそう現れるものでもないので、実際に絶望感を味わう人は、ごく限れた方なのかもしれません。

ここでまず考えたいのは、「絶望」と一口に言っても、客観的な絶望と、主観的な絶望があると言うことです。

まあ、言い方を変えれば、事実としての絶望と、思い込みの絶望とでも言いましょうか。

前者は、誰が見ても絶望にある状態で、考えたくもない悲惨な状況が浮かびますが、どうしたって誰が何をしたって、もうダメだという感じのものです。

そして、後者のほうは、個人それぞれの絶望感なので、他人からすれば、まだ何とかなるよ、と思える場合もあるわけです。

超楽観的な人とか、ものすごい能力とか才能、資源、アイデアなど持っていれば、普通は絶望するシーンでも、むしろ希望にあり、望みの確信に満ちて微笑んでいることすらあるかもしれません。

ですが反対に、ほとんどの人が、それはまあ大丈夫だよね、と思うことでも、ある人にとってはもうダメだ、絶望だあーと嘆いてしまうシーンもあり得ます。

ここで、本当の意味で客観的な絶望といいいますか、万人が望みを絶たれたと思う状況が、果たしてあるのかと考えますと、それは存在しないのかもしれないという思いにも至ります。

それは「万人」の定義によって変わって来ると言えるかもしれません。

今いる関係者全員とか、国民全員、地球の人全員とか、果ては宇宙にいる知的生命体から、神のような存在まで入れると、そのレベルでの可能・不可能のレベルが拡大されて行き、究極的に絶望などないとなってくるでしょう。

要するに、絶望も希望(有望)も、個人の思いと、関わる人(人だけでなく)の範囲によって変化するというわけです。

ここから、絶望を希望や有望に変えるヒントが見つかりそうです。

まず、ほとんどが主観的な絶望が多いと考えられますから(皆が共通して思う「絶望的状況」というのはそうそうないはずです)、個人の意識、思い、考え方、感じ方、アイデアを変える方法を身につければ、そんなには絶望状況は訪れないと言えます。

また、内面(思考・感情・意識等)だけではなく、知識や環境、物理的レベルのものでも拡大させておくことが絶望を遠ざけます。

つまりは、利用できるもの、救える方法、脱出できるもの、支援される方法や物事を準備し、「もしもの知識」として知っておくということです。

言い換えれば、情報不足により絶望と思わされることが結構あるので、助かる情報を色々な角度から入れておくと、有望や希望が出やすくなるわけです。

ただし、これは最近の状況に特に言えることですが、逆に、あまりに情報過多となって、余計な情報を入れることで、今度は内的に不安や葛藤、迷いが生じやすくなって、本来悩まなくてもいいことが増え、幻想に怯えるような感じで、しまいにはそれが絶望感を生み出すことにもなりかねず、注意が必要です。

他人と比較しなければならないこの現実の世の仕組みではありますが、近ごろはそれが簡単に(他人情報が)目に入ることにより、比較の度合いや回数も増えて、自分の無力さを必要以上に感じて落ち込み、絶望にかられる危険性もあります。

従って、情報の適度な遮断自分の身を守る方法のひとつで、絶望に陥ることから救います。

内的には、ほかにも、絶望感に至りやすい自分にある心の傷、トラウマ、ネガティブ思考を稼働させてしまう心のプログラムのようなものと向き合い、浄化、調整、整理しておくと、有望性に意識が向きやすくなります。

人より絶望感がよく出る人は、何かそういう心の仕組みで回されている自分があり、それに気づいて、もっと有望感に至る普通の状態に再調整していくという意味です。これはカウンセラーとかセラピストなどの専門家の力を借りたほうがよいでしょう。

だいたい、主観性で絶望に至りやすい人は、逆の客観性の視点(他人の見方、データとかルールのような客観的事実を示すものなど)をカウンターにもってくるようにできれば、中和されて、何とか救われる場合があります。

それと、ここが実は書きたかったことのひとつなのですが、マルセイユタロット的には、変化・変容と統合というのが表現されています。絶望はずっと絶望ではなく、その逆もまたしかりで、ふたつはひとつの両面であり、さらに言えば、いろいろなレベルの絶望と有望があるのです。

例えば「運命の輪」一枚を見ても、輪の中にいる上向きの動物と、下向きの動物が描かれていますが、輪が回転すれば、それは反対になり、上が下、下が上へと変わります。

輪が文字通り、運命の回転であったとしても、状況は回転して変わり、ずっと運がよい、ずっと悪いが続くわけではなく、一番下の絶望の地点だと思っていても、輪ですから、回転し、いずれ反対になることもあれば、輪を上下逆さに見れば、それは上でも下でもないのです。(ちなみに、私たちの地球は丸いと言われていますが、北半球の人が安定していて、南半球の人は逆さまで落ちるわけではないですよね(笑))

このことから、絶望の中にも有望性はあり、有望の何には絶望もあるという循環性や、対立性・相補性が見えてきます。

確かに、客観的に近い絶望状況では、希望(まれなる望み)さえ持つことも難しいかもしれません。

ただ、絶望と有望をまったく同じレベルのふたつの対比で考えるのではなく、絶望状況にあっても必ず違うレベルの希望があり、しかしその希望はまさにわずかの望みとかで、一気にハッピーになれる望みではないものの、本当に絶望だと思っていたところに、一筋の光明を見つけることで、いわば、真っ黒だった世界に、少しだけ光が生じ、わずかと言えども、それがあるだけで、真っ黒の世界ではなくなっているわけですから、世界は変わった(変わりつつある、変わるエネルギー方向にある)のだと見ることができるのです。

ほかの例で言いますと、マルセイユタロットには「13」と「節制」が数順で並べると、その人物たちが向き合うようになっています。

前にも書いたことがありますが、私もうつ病と神経症で非常につらい時期があり、死を思うことが何度もありました。いわば「13」のような状態だった時、「節制」(救済・天使)のようなことに出会った記憶があるのです。

それはまた、救済者として誰か一人の偉大な存在が現れたとか、回復の治療法が突然見つかったいうわけではありません。

「節制」的な人物や事柄が、少しずつ、わずかずつでも、絶望にある時に存在した、現れたということなのです。(発見し、気づいたという意味でもあります)

苦しい時はそれがなかなかわからないかもしれません。でも、少しだけ視点をずらし、救いをあきらめず求めて行けば、そこに小さいながらも天使(その魂が宿っている現実の人物)がいたり、救いや新たな境地に導くきっかけを与えてくれるものが存在します。

それが絶望にある希望であり、有望です。

これは完全に元に戻るとか、すべての苦境がなくなるというような望みではないかもしれませんが、少なくとも、今の絶望感を変える何か新しい境地とか目標、アイデア、考え方、心境、ビジョンのようなものを、「望み」として天(自身の内と言ってもよいです)が与えてくれる可能性があるのです。

さて、客観的な絶望のほうに移ります。

これは範囲を拡大させることで、絶望から逃れられる可能性が、まず高まります。

家族だけとか、地域だけとかの範囲を超えて救済を見ると、ほかからの資源やアイデアを回せますので、絶望がブレークする可能性が増えるでしょう。

ですが、客観的事実に基づく絶望の場合、例えば不治の病とか、医学的に見た致命傷の怪我など、これは客観事実でもありますので、思い込みでは難しいですから、変えられない・救えない厳しい現実もあるにはあります

それでも、マルセイユタロットの「世界」の象徴のように、範囲を拡大した情報・資源からならば、普通の場合は、望みに変えられる可能性は高まります。

重要なのは、助け合うシステムと、その前に、そういう精神を全体として共有し、築いていくことだと思います。(気持ちだけではなく、実際において価値あるものとする)

個として切り離された社会の実態になってしまうと、先述したように、範囲が狭いと利用できるものも少なくなりますので、絶望感に陥りやすく、現実(客観的絶望)の意味でも、詰んでしまうことは増えます。

個人責任論が横行する昨今ですが、これほど無慈悲なことはありません。もちろん甘えや依存になっては問題ですが、この世界は、一人一人個性が違うからこそ、一人ではどうしてようもできないことも当然出てくるわけです。

ですから、協力して問題を少なくしたり、生きやすくしていったりする社会のシステムが整わないと、弱肉強食の世界、持てる者が勝ち、持たないものが負けという構造で回ってしまいます。

ひどい言い方をすれば、多くの絶望によって少数の望みが満たされる仕組みです。こういう構造から脱することです。

マルセイユタロットで言うと「節制」的意識に私たちは進む必要があり、「節制」の天使が壺の水を入れ替え、注いでいるように、与え・与えられる循環性と公平性(すべてまったく同じで等しくという意味ではなく、個性に応じた平等性)が進めば、絶望に至る人は減ると考えられます。

ということで、絶望から有望、希望に至るには、私たち一人一人個人の中でできることと、範囲を拡大して考え、全体やシステムとして見直し、改善していく方向とのふたつが重要だと考えます。

問題というのは、どんなにレベルが上がっても発生すると思いますが、こと絶望については、そう感じる人が激減し、絶望は言葉や物語でしか存在しないくらいの社会にしていきたいものです。


タロットカードの(示す)正しさ

タロットを扱う者や、タロットリーダーとしては、タロットが示すものの解釈の前に、その信頼性を自分にどう置くかということは重要だと考えます。

言ってみれば、タロットは正しいのか正しくないのかという問題にも関係してきます。

この問題を、さらに、「タロット自体が正しいのかどうか」というテーマと、もうひとつ、「タロットが示すことは正しいのかどうか」というものに分けて考えることもできると思います。

また、根本的なこと、そもそも論として、正しいというのはどういうことか?ということも無視できません。

実は、最初に考えなければならないのは、ここ(タロットの示す正しさというもの)ではないかとさえ思います。

しかしながら、タロットを使っている者でも、あまりこういうことは考えないのではと想像します。だからこそ、改めて「考えて」みるのです。

とりあえず、タロットが示すことは正しい、タロットは正しいのだという前提でないと、占いもリーディングもできません。

では、その正しさとはどういう意味で正しいのでしょうか?

実はこのような問いの時、反対の意味である「正しくないこと」「間違っていること」「悪いこと」というものを考えますと、その「正しさ」についてわかってくることがあります。

ですから、タロットリーダーの方、タロット占い師の方、今一度、自分は何をもって「正しい」としているのかを、逆の、正しくないこと、あるいは、よくないことも考えてみて、その線引きを想像するとよいです。

すると、多くの人は、常識的で一般的、いわば誰もが思う善悪とか、成功失敗とか、幸不幸の基準で見ていることに気が付くのではないかと思います。

とは言え、その一般的とか、多くの人が思う常識的なことというのは、集合的なものなので、どれかひとつとか、明確な基準・ルールがあるわけではありません。なんとなくのような漠然としたものです。

ということは、漠然とした基準でタロット(の示す)ものを判断しているということになります。

「いや、私は違います、ちゃんとした基準をもっています」という人もいるかもしれません。

例えば、みんなが思う一般的な幸せ・不幸というものではなく、その人個人(タロットを引く人)が思う幸せとか不幸を基準にしているというような方もあるでしょう。

いずれにしても、タロットが決めるのではなく、人(特にタロットを扱う者)が基準を決めていることには変わりありません。

タロットはただカードとしての図柄を示すのみです。その解釈は、結局、人(と状況)がしています。

もし「13」のようなカードが出て(本当はこういう解釈はやらないとしても)、死と関係すると見て、戦争中ならば、「どんどん相手兵士を殺せます、あなたが兵士であるなら出世します」と、幸運でよいことのように読める場合もあれば、平和な時には、「たくさんの人が伝染病で亡くなる危険があり、大変悪い事態を告げています」と、ネガティブで不幸な解釈をすることもあるかもしれません。

このように、価値観や幸不幸、善悪などの概念は、時代や人、状況によって変化しますので、確かに普遍的に近い良し悪しはあるかもしれませんが、やはり、正しさとか良さ(その反対悪いこと、間違い)の基準はあやふやなものと言わざるをえません。

こうなると、カードの示唆を読むというのは、あまり意味がないのではないか、ルールも何もあったものではないという感じになります。究極的には、人が決めているのなら、カードを引く必要もないとさえ思う人もいるかもしれません。

ここで逆転の発想をします。

カードの正しさとか、カードが示す基準を考えて行ってもキリがないと言いますか、かなり難題で、ひとつにはなかなか決められないものと考えられますから、そこは一度置いておきます。(そのことはあえて考えないようにする)

そのうえで、自分とカードを契約のような形で、両者の間にルールや基準を作ります。(契約を結ぶような感じ)

言ってみれば、善悪や幸不幸、何が正しくて何がよくないのか(問題なのか、問題でないのか)の基準を、カードリーダー、タロットを扱う者が決めるわけです。

その基準をもとに、カードを出してください(カード側からするとそのように出しますよ)という契約です。

ですから、タロットリーダー側の考えが重要になり、タロットリーダーの想定する良し悪し、問題か問題でないのかという基準がカードを動かすわけです。

ただ、この反対、逆方向みたいなこともあり、もともとカードに示されているある基準(それは教義や思想、目的と言っていいもの)を教えられる(学ぶ)ことで、自分の中にその基準を入れてルール化し、それを今度はタロットカード側に投影、あてはめて(引いたカードを)解釈するというパターンもあります。

しかし、これも「ある教義」のようなものをカードにあてはめ解釈したものなので、結局は、人の解釈ありきということにはなりますが。

私の場合は、マルセイユタロットに込められている(と言われる)ある思想、目的をもとにしたシステムを基準に、カードを解釈するようにしていますので、それが基準と言えば基準です。

その基準は、一般的な意味での善悪とか幸不幸、成功失敗概念とは異なるなところがあります。

ですから、今の時代の普遍的に言われている、あるいは伝統的に示されてきた、運不運、幸不幸、成功失敗の基準にした占い的解釈とは違う場合があるのです。

このこともあり、私は占い師ではないと申し上げています。

ともあれ、それでも、タロットを信頼しないことには、どの方法・考えを採り入れるにしろ、タロットリーディングや、タロットを使った技術は成立しません。

タロットをなぜ信頼するのか、信用できるのか?という問いまでつきつめられると、もはや信仰に近いものと言わざるを得なく(根拠がないわけではないですが、今の科学的なものとは言えませんので)なります。

ただし、タロットによって自他の人生を操られるのではなく(選択や決定を依存してしまうのではなく)、あくまでひとつの情報として扱ったり、様々な角度から物事を見たりするためのツールとして見るのがよいかと思います。

しかしながら、ツールという言い方にはとどまらない、深淵で神秘なところもあるのがタロットてす。

タロットは人が作ったものではあるものの、ことマルセイユタロットにおいては、特定の設計者の名に帰せられるわけではなく(版名はありますが、必ずしも、いち個人が大元のデザインを完成させたとは言えないところがあります)、ある叡智集団によるものと想定できます。

叡智と書いたように、その受けた啓示と製作過程においては、通常意識を超えたところにあったとも考えられます。

ですから、もしタロット自体に、何かの正しさや基準があるとするのなら、それは私たちの人間、常識レベルのものではない高次のルールや基準の可能性もあるかもしれません。

この記事では、自分(タロットリーダー)側が基準を決めると言いましたが、その基準が、いつしか向こう側(タロットが根本的に示す高いレベルの基準)に引っ張り上げられ、自分の中でのルールが変わることもあり得ます。

その時、今までやっていたカードの読み方、解釈に違和感を覚えたり、はっきりどう読めばよいのかわからなくなったりするでしょう。サクサク読めている時が、必ずしも、よいとはいい難い時もあるのです。

つまりそれは、自分の思っていた正しさなどへの、価値基準の揺らぎが起こっているとも言えるのです。

その経験を何度かしていくと、タロットカードは、私たちの中にある、忘れられていたり、普段、外から常識的に思いこまされていたりした基準やルールを、中立に戻し、回復させるためにあるのではないかと思えてきます。

これは言い換えれば、私たちは地上性のルールに基づく生き物、生き方をする傾向にありますが、一方で、天上性のルールによる生き方もあるのだということ、それが永遠や見えない部分とつながっていること、また自分一人の人生ではない分もあること(自分が存在する見えない部分とその理由)などに気づくプロセスにもなってくるのだと思います。

究極的には正しさなんてものはない(正しいのは、正しくないという概念が存在して初めて認識できるものですから)のですが、レベルの低い意味の「正しいこと・正しくないこと」に囚われているのもまずく、マルセイユタロットで言いますと、「正義」の象徴とは何かを考えることで、自分や世界を(高次の基準に)変えていくこともできるのだと思うところです。


生年月日を元にした数のタロット技法

タロットと数秘術を合わせたような技法で、パーソナルカードとかソウルカードというものがあります。

これも流派によっては少し計算方法が異なるのですが、基本的には生年月日をもとに行う方法という点では変わりないものと思います。

これは、生年月日から導き出された数を、タロットの大アルカナに付与されている数と関連させて、その数を持つカードと自分の特性を象徴させるというものになります。

パーソナルカードは、計算によって22の数のうちどれか(22の場合は「愚者」に当はめる)にするので、大アルカナの数と合うことになり(と言うより合わせているので)、違和感は少ないのですが、ソウルカードの場合は一桁の数のみ(1から9)で表されるため、大アルカナの数と合わなくなります。

そういうこともあって(他の理由もありますが)、私個人としては、この見方はほとんどタロットの技術としては重視せず、あくまでタロットリーダー・タロットティストとして、絵柄をメインとした使い方を推奨しています。

しかし、数秘的に見るのが、結構好きな人もいますし、エンターテイメント的に面白いところもありますので、時と場合によっては、やってみてもよいかもしれません。

ただやはり、先述したようなタロットとの数の問題があり、違和感はぬぐえません。

そこで、私は生年月日から数を出してタロットと関連させる方法としては、別の方法をいくつか考えました。

そのひとつをご紹介したいと思います。

これは先日書いた、ある基本数で大アルカナを分けることに由来するものです。

今回は、その分ける基本数を「10」として援用します。

しかし、「10」で大アルカナを分けると、2枚余ってしまいます。ですが、その二枚を「愚者」と「世界」にすると、うまく分けることができます。

というのは、「愚者」は数を持ちませんし、「世界」は21という数はありますが、「世界」のカードの象徴は最高度の状態を示し、「すべてある、完成された世界」と考えると、ある意味、どの数にもなってどれでもないという「愚者」に近い概念になり、ほかの20枚の枠からはずすことが可能になります。

こうした「10」のまとまりで、二つのグループに大アルカナを分けておきます。

具体的に言いますと、1から10(「手品師」から「運命の輪」)のグループと、11から20(「力」から「審判」)のグループとなります。

次に、この二つのグループの大アルカナにおいて、下一桁の同じ数を見て、二枚セットにして10組に分類して行きます。

これも具体的に示しますと、「1と11」「2と12」「3と13」「4と14」「5と15」「6と16」「7と17」「8と18」「9と19」「10と20」という具合です。(もちろんその数を持つ大アルカナ同士ということです)

そして、自分や見たい人の生年月日の数をばらして、全部足しこみます。例えば、1985年9月25日生まれの人の場合、1+9+8+5+9+2+5=39となります。

ここで「10」の数を基本としてタロットを分けていますので、「10」の数と比べることをします。 合計数が10より大きい場合、合計数をさらにばらして足しこみます。それでもまだ10より大きい場合は、さらにばらして足しこみます。つまり、1から10のどれかの数になるまで、ばらして足しこむという作業になります。

例の人の場合だと、合計数が39ですから、これは10より数が多いですので、3+9=12とし、これでもまだ10より大きいですから、さらに1+2=3と計算します。ここでようやく10以下となりましたから、この人は「3」の数を持つとみなします。

そうしたうえで、さきほど、二枚セットで10組分けた大アルカナのうち、このケースの人の場合、「3」の組に相当すると考えます。具体的には「女帝」と名前のない「13」です。

生年月日を数秘とタロットの数(大アルカナ)から見て、この例の人の場合、「女帝」と「13」のカードとの関係があるとみなし、その性格や特質、個性の傾向がこの二枚に関係すると考えます。

どちらかと言えば、1から10のシリーズ表向きや、自分としてもわかりやすい傾向で、11から20のシリーズのほうがであったり、ここぞという時に出るもの、自分にもわかりにくい傾向と見ることができるかもしれません。

また、1-10シリーズが地上的・実際的(現実世界での表現)、11から20天上的・精神的(内なるものや大いなる観点からの表現)と分析できる場合もあります。

例の人の場合、「女帝」と「13」ですから、創造的・クリエィティブなことが好きで、実際的にもそのような傾向で選択したり、人生を生きたいと思ったりすることが多くなると思いますが、裏では「13」の象徴のような思い切った変革性や合理性にあふれ、時には苛烈にふるまうこともあるということです。まあ簡単に言えば「創造」と「破壊」の性格を併せ持つみたいな感じでしょうか。

この技法なら、10進法的に符合させやすいので、数秘的にも使い勝手がよく、大アルカナにおいても、「愚者」と「世界」は例外的になりますが、「10」という意味のある数のひとまとまり、一サイクルといってもいいシリーズで大アルカナと関連させることができますので、タロット(の数)的にもそれほど違和感はないと思います。

とは言え、これも数秘術を基本としたタロット技法なので、絵柄を主とするタロットにおいては、邪道と言いますか、イレギュラーな見方ですから、遊びや簡単な占い、個人の傾向を数秘的なものからうかがう補助技法くらいに思って扱うのが適切かと思います。

まあ、ソウルカードよりかは、タロットの数的には親和性は高いと思いますので、こちらも利用してみてください。

結局、数秘的な技術も、タロットとの親縁性を深めたり、高めたりする技術の一つと言えます。

つまりは、リーディングする相手とのコミュニーションと、タロットとのコミュニケーションという、二重の意味でのコミュニケーション技術と考えるとよいのです。


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