ブログ

ボランティアタロットリーディング

タロットを習う人の目的のひとつに、人に対してタロットリーディングやタロット占いをして、役に立ちたいというものがあります。

たいていは、自分がリーディングを受けて、その体験がすばらしかったからとか、すごく救われたとか、自分が変わったり、癒されたりした経験があって、自分もやってみたい、できるようになりたいと思われることが多いです。

そして、人に提供するタロットリーディング・占いは、それをビジネスや営業として有料で行うのか、無料やそれに準ずるボランティア的な形式で行うのかという分け方ができます。

好きなことを仕事にしたいという人は、タロット(リーディング)が好きであれば、当然前者の、有料でビジネスとして行うという選択になってくるでしょう。

ただ、現実的なことを言えば、令和になったこの時代でも、いまだ競争による経済社会であり、有料で営業していくとなると、それなりの努力や覚悟、さらには自分のサービスを買ってもらうオリジナリティと工夫など、タロットのスキルだけでは不十分なこともあります。

そういう意味では、タロット一本で稼ぎ、経済的基盤を持つ仕事にできている人は、正直、かなり少数だと言えるでしょう。

従って、安全策と言いますか、補助的なやり方として、経済的には別の仕事を確保し、タロットはその仕事の休日や余暇を利用して、サブで行うという方法があります。

しかし、このやり方で、いつかタロットメインに移行させようとするにしても、よほど計画的にやっていかないと、つい通常の(経済確保の)仕事に追われ、心身疲れて、余暇は普通にリフレッシュしたり、遊んだり、休養したりする時間になり、結局タロット活動ができなくなるというループにはまることがあります。

タロットをすることが、その人にエネルギーを与え、休養にもリフレッシュにも真になっているのなら、やがてタロットメインに移行させていくことも可能かもしれませんが。

あるいは最初から掛け持ちでやる、ふたつの仕事という生活サイクル、ライフスタイル自体を目的とすることも考えられます。

ということで、タロットリーディングを有料でメインの仕事にしていくというのは、そのような目的を最初から持って、いろいろと考え、実行していくことが必要かと思います。

まあ、運と実力を頼りに、がむしゃらにやっていっても、やれる人はやれることもありますが・・・そんな人もやはり少数でしょう。

これとは違い、そもそも有料での営業、ビジネス、仕事にタロットはしないと決めて、ボランティアや生き甲斐、趣味の延長としてやっていくという方法ももちろんあります。

むしろそのほうが気分的にかなり楽で、自分の学びになることもあります。

前にも書きましたが、自己研鑽、自己洞察、自分の成長にタロットを使う目的の人であっても、できれば、他人に対してタロットリーディングをしてほしいと私は思っています。

というのは、自分だけでタロットを見ていても、なかなかよい発想が出たり、刺激を受けたりすることが少ないからです。まさに独りよがりの思考に陥ることがあるからです。

それに、この世界の仕組みにおいて、自分の見ている世界と、他人から見られている世界というふたつがまずあり、その統合的な行先に、私たちが(霊的に)認識しなくてはならない境地の入り口があると推測されるからです。

ということは、他人からの視点も意識したり、経験したり、想像したりする体験が求められるのです。つまりは、それが他人リーディングで養われるというわけです。

そのほか、他人のことをリーディングするというのは、少なくともコミュニケーションがタロットと自分だけではなく、自分とクライアントという人と人の世界にまで広がりますから、引きこもりのような状態にはならず、現実・社会との接点もできます。

タロットなどをする人は、人に敏感な人や、現代社会の人付き合いに疲れ気味の人もいます。疲れたら、籠って休む、自然の中で過ごすということはよいことで、これはタロットの「吊るし」などにも象徴されていることです。

しかし、ずっとそのままでは、逃避になってしまい、ますます人や社会とつきあうのが怖くなり、自分に強固な卵の殻を作ってしまうことになります。

タロットや錬金術の象徴にも、ある卵の世界から孵化しなくてはならないことが語られます。自由に空(宇宙)を飛べる鳥になる必要があるのです。

他人をリーディングすることは、他人の卵の殻を破ってあげる力になることでもあり、逆に、自分自身の卵の殻も、人につついてもらい、破ってもらえることになるのです。

他人の悩み・問題は、タロットリーダーとしての自分の経験とは違うのが当たり前です。それは、この世界が誰一人として、まったく同じ人がいない個性の世界だからです。

従って、人の話を聴くことは、自分の世界を広げることにもなります。

と同時に、タロットを通して見た場合、象徴として、別の体験でも同じ本質が共有できてきます。

人に起こっているそれ自体は、人それぞれですが、悲しみ、苦しみなど、人として、皆、同じ感情や思考の本質を味わっているのです。それがタロットを使った相談の場合、自分にわかるのが大きいです。

いわば、他人の体験を通して、自他の世界をシェアリングしているのです。それはお互いの成長や癒しにもなりますし、救済にもなります。(互いの智慧や経験を出し合い、相互に救いあう、カードの「節制」の象徴)

不思議なことに、他人リーディングは、自分の今の問題と関係する人がやってきます。要は質的に同じ悩みや問題を抱えた人が、あなたの分身として現れるようなものです。

たとえリーテイングがうまく行かなかったとしても、カードを展開する時、お互いに何らかの示唆はある(与え合うの)です。言い方を換えれば、そこには、なにがしかの縁が働いており、出会う理由があるのです。

ボランティアリーディングは、経済的なことをあまり考えずに行えますので、競争的なものに自分が巻き込まれずに済みます。

だから、純粋に人に対してタロットリーディングを提供することができます。また、稼がなくては・・・という思いがないですので、自分の心にも余裕ができます。

ということで、ボランティア的な他人へのタロットリーディングを活用することで、タロットを自分の成長に役立てることができるわけです。

これはすでに述べたように、仕事にする目的とは、また別の他人リーディングです。

タロットを習って、自分に活かしたいという人、有料や仕事ではないボランティアリーディングをやってみることをお勧めします。

一方、仕事にしたいという方は、タロットスキルを磨くのは当然で、それがスタートラインだと思ってください。

他人からお金をいただくわけですから、お金を支払ってもいいと思えるレベルのリーディングができるのが当然です。そして、それはプロとしてやる方の当たり前のもの(レベル)です。

タロットを仕事として成立させるには、そこからプラスαが必要です。

それはタロット(のスキル)というより、自分としてのウリとか個性とか、提供方法のやり方などに関わってくるでしょう。別スキルと言ってもいいかもしれません。

タロットを仕事にするために、そのような、タロットとは別のことでも楽しく、あるいは苦労もいとわず頑張っていこうとやれるかどうかです。

面倒だなとか、好きなタロットなのにいろいろと営業宣伝したり、集客の工夫をしたりしていくのはやりたくないなあ・・・みたいに思っていては、普通に雇用される仕事をするほうが経済的には安定しますし、よいかもしれません。

好きだからこそ、それで稼ぐこと、仕事にしていくためのことは苦にならない、楽しい、やってみる価値はあると思える人は、仕事としてやっていける可能性があると思います。

また特別な人の場合、人助けの仕事として、何らかの使命が与えられ、自分の思いより、環境が無理矢理にでも、その方向性(人助けの仕事に向かうよう)に仕向けられることがあります。霊的な存在を感じる人とか、サイキックな能力や血筋の人には結構あります。

自分の強固な意志と実行で仕事にする人と、自分の思いとは別の強い何かのもの(存在や意思)の働きで、タロットを仕事にする人があるわけです。

いずれにせよ、自分の人生は自分のものです。どのようにしようと自分次第です。

タロットを仕事にするのか、ボランティア的にやっていくのか、自分のライフスタイルや目的に応じて、臨機応変に考えてみましょう。


自由・不自由 個人と全体の幸せ

心理・スピリチュアル系でも、自由を説く人は多いですね。

もっと自由になっていいんだ、自分のルールや心を解放しようという主張がよくあります。

それはもっともなことだと思います。

一方で、社会的には法律やルール、規則があり、これは順守しないといけないところがあります。

そうしないと、自分も皆も生活に困るからです。

自由の意味は様々に定義できますが、たいていのもの(言葉・状態)には反対の意味があるからそれが出るように、自由に対して不自由(束縛)があるからこそ、自由がわかるという仕組みがあります。

ということはまったくの自由というものは、もしかすると存在しないというか、私たちは捉えることができない(自由という意味さえわからなくなる)のかもしれません。

逆説的ですが、自由を知るには不自由を経験しないといけないわけです。

自由の主張で、「自分(一人)は自由に、好きなままに行動(生活)することができているので、自由は大切とか、自由になることは誰でもできる」と言う人がいますが、それは多くの不自由にいる人、不自由とは感じなくても、ルールや規則を守っている人がいるからこそ、それが可能になっている(全員が勝手気ままにすると成立しない世界)という、当たり前の社会構造が意識のうえで欠落している場合があり、それは子どもならまだしも、大人としては未熟なことだと言えます。

あと、この上記のような自由を叫ぶ人の論理では、わがまま、嫌なことから逃げることが自由と誤解していることも結構あります。

自らは既成の制度やルールを破壊することで悦に入るような、昔の中学生の不良のような幼い自我の人もいます。

ルールや規則を破つたり、変えたりしたいのなら、その代案や、皆がそれで暮らしやすい社会のプランを作ることが求められます。

俺流、ワタクシ流で「こんなやり方でも生活できる、自由に生きている、だから君もできる」という論理(理屈)は、先にも言ったように、まじめにルールを守っている人がいるからこそ成りたつもので、多くの普通の人の恩恵のうえでの自由と例外であり、都合のよいわがままに過ぎないことがあります。

しかしながら、やはり、従来の規則・ルール、仕組みを守るだけがよい生活を作るとは言えないところもあります。

私たちの生活はなるほど、確かにかなり便利にはなりましたし、日本は特に安全で清潔、サービスもすばらしいところがあります。

けれども、多くの人の労働や暮らしの実態は、非常に厳しいものがあり、日本は一般のサービス水準の要求が高いだけ、労働環境と条件もキツくなっているという、自己矛盾的なおかしな構造も抱えています。

昔はそれでも、そこそこそこの給料対価と、雇用の安定ということで、それらが我慢できる状況もあるにはありましたが、今はそれさえ崩壊していると言えます。

こんな中で、人間性や創造性が失われていくのも当然と言えます。世の中の人たちはますますギスギスし、イライラし、余裕というものが感じられなくなっています。

こうした中で、もっと自由に、楽に、生きたいように生きるという人たちが現れるのも、むしろ自然の流れかと思います。

ところで、「楽して儲けてはいけない」みたいな言い方もありますが、よく考えると、お金(キャッシュであれキャッシュレスであれ、お金としての価値のあるもの)さえに入ればいいという状況に、現代社会がなっていますから(つまり法律に違反しなければ、お金を稼いだり、手にしたりすることは、その過程が精神的に評価されることはあっても、物理的・数量的に多くしたものが実質的には価値がある・勝ちという実態なので)、賢い人は、労働で非効率に稼ぐより、お金を動かして楽に稼ぐという方法を選択するのも当然なわけです。

これは、モノと精神・霊が切り離されている今の時代だからこそ、そうなるのが当たり前なのかもしれません。

ですから、とても大きな視点で見れば、わがままだろうと、楽に走ろうとする人であろうと、なにがしかの現代社会へのアンチテーゼ、警鐘・警告の現れだと見ると、当人が自覚・無自覚かに関わらず、どの人も役割があるのだと見ることができます。

多くの不自由な人の中で、自由を選択していく人も、不自由な人に自由をもう一度考えさせ、社会変革の兆しとして、影響を与えていると考えることができます。

すべてはバランスではありますが、そのバランスのレベルを向上させていくことが今求められているように感じます。

どの時代も、どの状態においても、バランスは究極的には取れているのかもしれませんが、それぞれにおいて、レベルや次元が異なるのです。

例えば、今の時代のバランスが3段階目のバランスだとすれば、せめてあとふたつくらいあげて、5段階レベルバランスにしたいところです。

別の言い方をすると、自己犠牲を必死にして何とかバランスを取っている段階から、皆がもっと自然体に楽にしても社会全体と生活のバランスは取れているというレベルへの引き上げです。

そのためには、ただライトスピリチュアル的に精神論ばかり述べていてもだめでしょうし、特別な人だけが自由な生活というものを実践していても、それは先述したように、多くの不自由な暮らしを選択している人の犠牲で成りたつもの(結局勝ち組・負け組と同じような構造です)ですから、自由の象徴や刺激としての意味はあっても、皆のレベルを上げる具体論にはなりにくいです。

と言っても、政治家になって具体的な政策などを考えましょうと言っているのではありません。

まずは、今の社会や全体の暮らしにこれでいいのかという疑問を持つことが重要です。ただ従来の政治思想やカルト的なもの、果ては子どもじみた陰謀論からは距離をおいてです。

ちょっと前までは、個人の幸せや心の解放がよく言われていましたが、これからは、全体としての視点も持ち、皆のレベルが向上する暮らしや社会とは何かをイメージしていくことが大切だと思います。

そして、そのイメージの共有と実現性へのシフト(あきらめから可能性、実際性へと変化させていくこと)を目指すのです。

しかし、やはり個としての解放も同時進行で大事で、自分の心を縛り過ぎていては、全体としてのレベル向上のイメージを持つことが困難になります。(自己の解放より社会や全体の解放を先に志向し過ぎると、テロリストのような過激思想にとりつかれたり、すべては外の仕組みのせいだと人任せや、責任転嫁をしたり、虚無感にとらわれたりしがちになります)

また、心の解放の過程では、自分を鍛えるというのと、自分をいじめるというのでは別だという区別も大事です。そこに「自分を愛する」「自分を大切にする」という視点があるかどうかです。(ただ、楽にすることだけが解放ではありません)

精神とモノを切り離さず、モノの背景に心があること、心がモノを動かしていること、この意識も回復していくことも重要です。一言で言えば、失われたスピリチュアリティ(霊性)の回復です。

そうすると、物質だけ、精神だけに偏り過ぎず、統合のとれたバランス性を取り戻していくことができます。

一人ひとりにおいては、よいこだわりと悪いこだわりも分けていくとよいでしょう。

よいこだわりとは、好きなものとか、探求へのこだわりというもので、それをやっていて、周囲に迷惑はあまりかけずの、自分として幸せで楽しいものです。(周りの人も和やかになったり、勇気をもらえたり、知識や技術を与えてもらったりできるもの、または無害なもの)

悪いこだわりは、簡単に言えば、それによってますます自分が不幸になったり、視野が狭くなったり、周囲の人を悪くしていったりするものです。

簡単に言えば、選択の幅を増やすということが、解放につながってきます。

マルセイユタロットでも、現実の世界で霊的な意味を帯びてくるカードの象徴は「恋人」が顕著です。「恋人」の図像は、迷いのようにも見えるカードですが、迷いがあるということは、選択肢があるからこそとも言えます。

ですから、前向きに解釈すれば、選択が増えることが、現実(現状、今の状態・レベル)を超えるきっかけにもなると読めます。

迷いなく決定できることはすばらしいことですが、それは選ぶことがひとつしかないことでもあり、新しい変革はその場合、生まれにくいわけです。

ということで、迷いや悩みから、実はあなたや社会の変容か始まりつつあると見れば、問題もまた別の視点で見ることができますし、一人ひとりの問題・悩みを通して、選択の幅が増えることで、社会の選択肢も増加していくことになり、膠着した時代に変革がもたらされて、もしかすると、社会全体のレべルが上がるきっかけとなるかもしれないのです。

自分の幸せが全体の幸せとどうつながり、関係するのか、交互に思いながら、自己(それはイコール他人でもある)の本当の幸せを求めていく時代が来ているのだと思います。


マルセイユタロット、光の象徴。

アメブロの機能で、数年前に書いた同時期(月)の記事が自分のページにクローズアップされるものがあります。

それによると、私は以前、この時期に「隠者」のカードの光について書いたようです。

ようです・・・って、自分で書いた記事を覚えてないの?と思われるかもしれませんが、私自身は何を書いたのか、過去記事はほとんど覚えていないのです。(苦笑)

このブログは、タロットを見ていて降りてきた内容とか、近辺の日々で思っていたことなどを記事にしているので、自分でも、あまり書いたものは記憶していないのです。

さて、過去記事のタイトルを参考に、今日は「隠者」だけではない、マルセイユタロットにある光について、見ていきたいと思います。

ところで、「」というものを象徴的に解釈すると、統合や完成の状態であると言うこともできます。

ただ、二元論的な概念になりますと、光に対して闇という、対抗や相反するものが出てきます。

これは案外重要なところで、光の象徴を二元としての闇との対比で用いるのか、一元的なもの(状態・究極)の象徴として見るかは、区別しておく必要があります。

多くの人(特にスピリチュアルに関心のある人)は、このふたつを混同して見ている場合があるのです。

今回とりあげる光の象徴は、闇との比較のものではなく、主に統合や究極、完成の意味での光、もしくはそれに至るための叡智や導きのようなものとしてとらえていただきたいと思います。

では、具体的に、マルセイユタロットの大アルカナで「」が描かれているものを見て行きましょう。

数(カードの番号)の少ない順から行きますと、「恋人」における天使(クピド)背後の光、「隠者」のランプ(しかし光自体は隠れています)、「悪魔」の松明、「神の家」での降下する巨大な光、「」での星々の輝き、「」の月の裏に見える光、「太陽」の太陽そのものの光、「審判」の天使の背後の光、といったところでしょうか。

このほかにも、秘伝・暗号的には、実はたくさんの光の象徴性がその他のカードにもあるのですが、これは「秘密」としておきます。実は、いわば、すべてのカードに光の象徴はあると言えるのですが、この場合は、闇との対比の光も含まれることになります。

話を戻しますと、カードに直接描かれている光(見てわかる光)は、先述のカードたちにあるものですが、それをさらに細かく分けてみますと、何かの光芒としての光天体の輝きそれ以外と分類できるかもしれません。

ほかの分け方をすると、天使的なものに付随する光(「恋人」や「審判」の背後の光芒など)、ある人物や存在が手に持つ光(「隠者」のランプとか「悪魔」の松明)、そして天体的なもの自体の輝きの光という見方もできるでしょう。

この中で、異質なのは、光を手に持つ存在と、その光自体ですが、これは先に述べたように、「隠者」と「悪魔」に顕著です。しかし、厳密に言えば、「隠者」の光はカバーで覆われたランタンの中にあると“推測されるもの”で、見た目にはわかりません。

そして、「悪魔」の松明も、マルセイユタロットにおいて、だいたいは赤く塗られており、光というより、火のように見えます。そもそも松明ですから、火と見たほうが自然かもしれません。

この「隠者」と「悪魔」の光の描かれ方からでも、その違いが見て取れますので、それぞれを比較することで、光の与え方、受け取り方の意味合いを、皆さんも汲み取ってほしいところです。

最初に、光は統合や完成、究極、(神性なものの)叡智の象徴だと言いました。それでも、闇と対比される光という二元もあることも指摘しました。

「悪魔」は一般的には、悪い存在として見られていますが、「隠者」よりも数においては上に位置し、マルセイユタロットでは、大アルカナの数の進行が、そのまま自己や全体の成長を示すという伝承があります。

ては「悪魔」の松明の光(火)は、「隠者」より優れたものなのでしょうか? もしかすると闇にも関係するのでしょうか?

そして、「隠者」はその名前の通り、なぜか光をあまり目立たせず、覆いのあるランタンによって、光があるかもしれないという示唆に、その表現を留めています。

目立つものと目立たないもの、自身の道を照らようでありながら、まるで誰かに光を託そうとするかの「隠者」、強烈な火の光によって、周囲を照らし、人々を引き寄せる「悪魔」、このような描写から、光と私たちの関係、そして光を扱うものについて、皆さんも考えてみてください。

それから天使に付随する光芒です。これらも色々と考えることができますが、天使は神ではありませんが、通常の人間より高次な存在と見てよいかと思います。

またその言葉通り、天(神)の使いとして考えれば、私たちに(神としての)光を伝えるもの、与えるもの、指し示すものという見方もできますし、天使側からすれば、天・神のサポートを受けている存在、そのエネルギーや意思を背負っている存在だということを想像することができます。

それらの象徴として、光芒があるものと思われます。

ただ、その光に(人間が)気がついているか、気がついていないか(感じられるか・感じられないか)の違いは、例えば、「恋人」と「審判」では違いがあると言えます。

しかし、天使は光をもたらし、また、光を受けながら活動していることがわかります。ということは、天使を自分の中に受け入れることで、光が入ってくることにもなるのです。

ここでいう「天使を受け入れる」とは、象徴的な言い方です。実際に天使を見たり、存在と会話したりしなければならないというわけではないですし、天使を信じなさいと言っているわけでもありません。

信じる信じないの問題ではないのです。そのような態度は物理的に物事を見る現実認識に囚われている世界のもので、光と天使を受け入れるには、現実的な発想そのものを変えないといけません。(ただし、信じてはいけないという意味でもなく、信じることで存在が生み出されることもあるので、信じていくという方法もあります)

最後に、数のうえでは、「神の家」から「審判」に至るまで、光や光芒が連続していることも指摘しておきます。先ほどの「悪魔」も入れると、まさに15番からずっと続くようなものです。

このうち、天体として星・月・太陽は、占星学的な意味合いも考えることができ、光だけではなく光を放つその天体・惑星の象徴性も加味することができます。

しかしながら、マルセイユタロットの秘伝では、そして占星学上においても、これらタロットに描かれる天体が、、今の天文学による物理的な星々ではないことは言っておきます。

そして、「神の家」です。

これこそが、マルセイユタロット的には、光の神髄と言ってもいいものかもしれません。

この光の描写が、単一の色ではないことも重要です。

ほかのタロットなど、一般的には、むしろ災厄のようにとらえられるこの光とカードですが、マルセイユタロット的には名前のごとく、神の光、天からの光が強烈に降ってくることで、むしろ輝かしい祝福になると見ます。

神の光に包まれることは、どれだけの恩寵であるか想像してみてください。

しかし、それはあまりにも強力であり、それが受けきれる状態でないと、危険でもあるのです。

実際的なリーディングにレベルを下げて、この「神の家」の光を解釈するにしても、個人にとっての強烈な一撃であることでしょう。(予想外のこととは限りません。予想されたものというか、自分があえて厳しくも真実の自分の道を意識的に選択する場合ということもあります)

しかし、光として受け取る場合は、真の成長や幸せに導く、あるいは囚われた思考・感情、状況を打ち砕く、神からのまさしく「栄光」なのです。

グノーシス神話では、私たち人間は、天上(神の)世界の光(神性)、その破片を受け継いでいると言われます。

マルセイユタロットをグノーシス的に見る場合は、自分の光の破片をもとに、世界中に散らばった光をもう一度集める作業を描いていると言えます。

それは、それぞれ(関わる人々や経験)が違う色と光を持ち、それらを交換し合うことで、次第に完成された光へと変容・統合していく過程でもあります。

闇と対比すれは、闇へのコンクエスト(征服)であり、光のクエスト(探求)です。

しかしこの闇は悪いものというより、光を光として認識するための光の別要素とも言え、私たちを純粋な光の世界に回帰させるための役割をもっているのです。

すでにあなたは光の子であり、それゆえに、闇と格闘しながらも光に気づき、引き寄せられ、光に満ちようと生きているのです。


令和スタートに向けて。人生について。

令和の時代になりました。

平成から令和の交替時は、メディアも人も、まるで年末年始、新年を迎えるかのような感じで、見ていてとても面白かったです。

私自身は、それほど意識はしていなかったのですが、それでも思うところはありました。

特に今後のことで、令和で自分の生きる時代が終わるのか、あるいは、次の元号を経験することもあるのかと、ふと考えたところがあります。まあ年齢的に見て、令和で終わりかと思いますが。(苦笑)

今現在は老け込む年でもありませんし、かといって若いという年齢でもありません。

別に長生きしたいわけではなく、むしろ、もともと地上や現実に生きるということに、かなり昔から違和感を覚えていたり、ここに居場所がない、本当の場所は別にあるなどという逃避的な思いを抱いてきたりしたので、人生や命を大切に思う人には申し訳ないのですが、早く去りたいという感覚もありました。

この思いは、スピリチュアルな学びをしていく中で、変化がありつつも、完全に消えたわけではありません。

しかしながら、こうしたタロットなどの学びや気づきによって、生きる意味も見出すことになり、そうすると、地上の経験というものが、逆にとても貴重なものに思えてくるようにもなりました。

魂は永遠とよく言われますが、確かに、大きな次元の観点から見れば、そして、形というモノに囚われなければ、私たちは皆、永遠なる存在なのでしょう。言い換えれば、固定的な形ではないエネルギー存在では永遠だということです。

たとえ「」になったとしても、おそらく“無という状態の存在”であるとも言え、無の中にはすべてがある「空」のような概念だと思うと、やはり私たちは消えることはないのだと考えることができます。

しかし、先ほど、形に囚われなければ・・・と述べたように、逆に言えば、ある一定の形というものでの存在にこだわれば、それは限りあるものになります。

具体的には、肉体と個(私)と言う意識と形を持って生きる現実のそれぞれの人生ということになります。

ということは、私たちは一面(現実意識)では有限であり、反対に魂や個を超えたもの(超越意識・神性意識)では無限の存在なのだということになります。

前にも書いたのですが、この有限と無限の意識の違いが時間感覚を変え(生み出し)ているとも考えられますので、いわば、ふたつの視点によって自分の人生というものを見ていくことができるのです。

それは、有限なる今の自分としての個の人生と、超長期的な永遠なる魂の人生というもの(視点)です。

どちらも大切なものだと思いますが、どうしても私たちは、前者の、個の人生、限定的な視点で見てしまいます。

それも当たり前で、超長期的な人生なんて、自分・個としてはほぼ関係ないと思えるものですし、そういうものは抽象的になりますので、具体的に自分(の有限の人生)に関係することを想定することができないからです。

ただ、こうした時代の切り替えの時には、たまには(超)長期的、個を超えた流れ、言ってみれば「宇宙」とか「全体」的視野で自分の個の人生も見ていくようなことがあってもいいものと考えます。

意外に思うかもしれませんが、個の悩みは、全体としてのレベルや、今述べた長期的視野から見れば、まさに取るに足らないものとなるので消失しやすいのです。

限定というものは、限定であるからこそ、一時的なものになります。こだわりを捨てれば、あるいはもっと大きく長い目で考えれば、今の自分の狭い視野から生まれた悩みなど、いつかは変化するものてあったり、雲散霧消したりするものと考えられます。

しかし、誰もが、「個」「わたくし」という自分を感じているのも事実(現実)です。

何かを残したい、“わたくし”として味わいたい、経験したい、蓄積したい、成長したいという、具体的な個の思い・欲求が誰にでもあります。

そして、それ(思いと実現、あるいは経験)があってこその個の人生と実感とも言えます。

個の人生は有限です。ですから、こちらの視点になれば、限りある時間となり、無駄なことやダラダラとした効率の悪いことを続けていったり、無為に過ごしたりするわけにはいかなくなります。

だから、何もやっていない、何も残していない、何も経験していないということは、個の人生では大変損失のように思えます。

ただし、ここが重要ですが、個の人生は有限で、だからこそ限りある中で個が充実する働きをする必要が、上に述べたようにあるわけなのですが、あくまで個(わたくし)の人生と感覚ですから、すべては自分次第なのです。

ところが、自分次第なのに、現実(地上世界)のおかしなからくりとして、個の世界はまさに個性の世界(一人ひとり違う世界)のため、人と比べる競争的意識が出てしまいます。

悲しいことに、私たちは、人と比較される人生を歩まされ、それによって、人との差、モノや能力などのあるなしの差によって自分を評価してしまうことが起きます。

つまり、自分の個の人生の充実度が、他人との比較によって生み出されているという仕組み(実は幻想)があるのです。

でも、よく考えてみてください。

先ほど指摘したように、個の充実は、自分がどう思うかの世界でもあるので、繰り返しますが、自分次第なのです。

人との比較をするのではなく、自分が良かった、満足した、何か結果を残した、経験できた、味わった、楽しかったなどが感じられれば(決められれば)、個としてはOKなのです。

ですから、有限なる自分の人生をよくするのも悪くするのも、自分の思いだということです。

さらに、超長期的、魂的視点になれば、有限ではなく無限になりますから、有限(時間限定や個としての現実意識)においての悲喜こもごもなこと、特に有限時間内で見える形で得るものなどは、意味をなさないことになります。

もし意味をなすとすれば、形のないものが中心であり、それは精神や心ということもできますが、心は変わるものなので、もっといえば霊的な成長という意識と(見えないエネルギー的)蓄積と言えるでしょう。

皆さんの個としての有限人生は自分次第なのですから、やはり「よく生きた」と思えるものにして行きたいものです。また、時折、魂の永遠性の視点も思い出してみてください。

永遠性の視点は、個を超えていますので、全体として、生きとし生けるものすべてのものからの見方です。神(性)の愛の視点と言ってもよいでしょう。

そうすると、無限の愛が、有限の愛として流れ、結局、自分自身で愛し愛されの壮大な演出のもとで生きていることに気がついてきます。

令和の時代、有限の人生においては、他人と比べることでの自己評価も続いていくとは思いますが、それは魂的には演出のひとつであり、本当(最終的に)は、自分が自分の人生の価値を決めるのだと思って、柔らかく生きて行きましょう。

あなたがよいと思えば、あなたにとってよい人生であり、しかも、他の人からもよい人生となるのです。


平成とマルセイユタロット

今日で平成が終わります。

平成のブログとしては最後となることを思うと、感慨深いものがあります。

平成は30年間でしたが、短いようて長く、また長いようで短いとも言えます。今回は天皇崩御での改元ではないので、新しい年号も一か月前に発表されたことで、混乱よりも、前向きに明るく受け入れた方も多かったのではないかと思います。

と言っても、今日と明日というのは、西暦的には、4月から5月に変わる単なる月の切り替えであり、改元に伴う感覚は、日本人であるがための思いでしょう。

つまりは、ある世界観を共有している者たちの間で、同じ感覚を得ることができるというものなので、逆を言えば、世界観やルールが違えば、その人たちは影響を受けないことになります。

今でこそ、クリスマスとかハロウィンなど、西洋系の(厳密には、その起源や象徴性をたどると別のところだとも考えられますが)特別な祝祭日も、日本人にはなじみにはなりましたが、先ごろあったイースター(復活祭)については、キリスト教圏ではメジャーですが、まだ私たち日本人にはそれほど広まってはいないものです。

マルセイユタロットを見た場合、イースターに関連すると思われる象徴性や表現が見られます。

しかし、すでに述べたように、これが世界観として共有できないと、それに意味が出てこなくなります。

マルセイユタロットは、ヨーロッパのフランスを中心に、17から18世紀にかけて主に作られたカードたちの総称(同じコンセプトの絵柄によるもの)です。

従って、当然、絵柄は西洋・ヨーロッパの人物とか宗教とか風習になっています。

ところが、私たちは東洋の日本人なので、ばっと見だけでは、描かれているものの意味や内容を理解するこができません。時には、西洋の歴史とか常識を知らないで、日本人風に解釈してしまい、誤解することもあります。

ヨーロッパではキリスト教、特にカトリックが、宗教というより日常のルール、規範、行動を決めるバックグラウンド、精神的法典で、支柱のようなものにもなってきた歴史があります。

ヨーロッパで作成されたタロットが、キリスト教と無縁であるはずがないのです。

だからと言って、私たちの扱うマルセイユタロットは、キリスト教の教義を絵で示したものというわけではありません。

歴史的に見れば、昔は文字が読めない人も多かったので、よく宗教的な話などを、絵で表示していたことがあったと聞きます。紙芝居のようなものですね。

ここから考えると、タロットというものも、その絵は、ローマ法王のように見える絵とか、最後の審判をイメージさせるものなどありますから、キリスト教の教えを伝える役割があったのではないかと想像することもできます。

また宗教だけではなく、「女帝」とか「皇帝」の絵もあることから、権威や身分、社会の仕組み(平たく言えば誰がえらいのか、支配しているのか)を教育するためのものであったと考えられなくもないです。

※一応、タロット史としては、タロットはゲームのための道具であったとする見解がノーマルです。

ともあれ、ヨーロッパの人がマルセイユタロットを見れば、キリスト教を中心に、その絵は、自分たちの日常的なものとして(作成され、一般的に流布していた)当時は見られたのは当然だということです。そして解釈も、その当時の常識や風習、宗教の掟などに基づくようになっていたことでしょう。

ここで最初の話に戻ってきますが、まず、マルセイユタロット(などのタロットは)、キリスト教中心の当時のヨーロッパの風俗・習慣的な要素という、共通する世界観でカードをとらえていたということになります。端的に言えば、キリスト教カードみたいなものです。

ところが、私たちに伝えられているものは、別の側面のことでした。

それは、むしろ反キリスト教、異端キリスト教ともいえる、古代からの秘密の教えでした。これも、「ある世界観」だと言ってしまえばそれまでです。ただ、こちら(秘密)側の世界観になるには、同じカードであっても、別体系の意味を知らなくてはならないことになります。

それが秘伝であり、暗号にもなっていたということなのです。

このように、タロットカードは、マルセイユタロットを例にしますと、一般的に共通する世界観での意味と、隠された特別なグループに口伝的なもので伝えられてきた意味によって見えてくる世界観とを、ともに内包しているのです。

加えて、もし日本人の私たちが、日本(人)的な解釈も加算していくとなると、カードは、また別の世界観を持つことになります。

ほかにも、カバラー的(古代ユダヤの)世界観、占星術的世界観、ピタゴラス的数秘術世界観など入れていきますと、それぞれがまた別ものとして浮かび上がってきます。

これができるのは、マルセイユタロットならではの、根源的な型をそのシステムに有しているからだと言えます。別の言い方をすれば、どの体系や世界観にもなじむように、うまく作られているということです。

さて、平成という時代の終わりでマルセイユタロットを振り返ると、昭和の時代、世界的にメジャーであったグリモー版を中心に、本当にマイナーな感じで日本では使われていたように想像します。

しかしやがて、日本で言うところのカモワンタロット(ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット)が、ある機関(旧タロット大学)によって日本に流入しました。西暦では、ほぼ2000年前後(カモワンタロットができたのは1998)のことで、平成にすると10年からの数年になります。

ここから約10年にわたって、カモワンタロットが日本でのマルセイユタロットとして普及してきた経緯があります。もちろん、グリモー版など、ほかのマルセイユタロットを教える人もいらっしゃいましたから、カモワンタロットオンリーではありません。

それでも、カモワンタロットの威力は大きく、ウェイト版(ライダー版)に比べると、まだまだ微々たるものではありましたが、以前より、日本でのマルセイユタロットを使う人、知る人の比率がかなり上がったと思われます。

こうやってみると、平成の時代は、タロット界でも、カモワンタロットを中心に、マルセイユタロットが大きく進展、一般化した時代だとも言えます。

その後、カモワンタロットを普及・教育していた機関が分裂したため、今は混沌とした状態になっていますが、下地として、日本でマルセイユタロットが多く知られるようになったという功績は、大きかったのではないでしょうか。

このことを、視点を変えて考えてみますと、日本の平成の時代に、この西洋のカード、マルセイユタロットが広まる理由・目的・使命があったのではないと推測することもできます。

広めたという見方だけではなく、広まることを求める層や人々が、この日本に多く存在した(無意識的にも)ということです。なぜ日本なのかということも、不思議と言えば不思議です。

物質を拡大し、多く持てばよいという昭和から、平成は物質的には縮小を余儀なくされた時代でもありましたが、逆に言えば、精神性の熟成が、昭和よりも進んだように思います。

まだまだ物質的観点や競争意識が強くはありますが、昭和の高度経済成長のような時代から思うと、平成はインターネットも出てきたことで、情報の共有も飛躍的になり、物質だけではない精神や心、個性の観点も増幅したように見えます。

平らかに成ると書く平成は、まさに文字通り、平たくつながるネットワーク的な情報交換と、その中継点・発信点である個も際立つ結果となりました。

少しずつ、ただの塊、モノ、物質、それが多い少ないという評価から、質や中身、精神、心、あり方というものに価値が移行してきたのが平成だとも言えます。そういう時代に、マルセイユタロットが広まってきたというのも、何か大きな流れや意図のようなものを感じます。

そして、次は、「令和」の時代です。

もしかすると、タロット的には、あるタロットが消えるようなこともあるのかもしれませんし、今のような占いの道具とする使い方は、変わっていくのではないかという気もします。

タロットというモノがなくなっても、タロットが示唆していた「ある世界観」を、私たちは受け取り、いや思い出し、より霊的な覚醒、進化へと歩みを進めるのではという思いがあります。

果たして、令和の時代に、マルセイユタロットはどうなるのでしょうか。興味深いところです。


Top