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人間の悩みは四組の玉ベース

現状、「生きる」ということに喜びや楽しみを見出していると人は、当然幸せである(いつもではなくても)と思います。

しかし、「生きる」ことは簡単なようで難しく、ほとんどの人には、必ずと言っていいほど何らかの悩みや心配事があり、時に生きる意味を考えたり、もっとひどい場合は、生きることそのものが地獄に感じる人もいらっしゃるでしょう。

仏教的には、生老病死、その他の四つも含めて、四苦八苦と言われる、(思い通りにならない)悩みが人間にはあるとされています。

マルセイユタロット的に見ますと、大アルカナの悩み(問題)と小アルカナの悩みがあり、どちらも人間の問題性を象徴しますが、わかりやすいのは、意外と小アルカナのほうです。

マルセイユタロットの小アルカナは、四つの組に分けられ、それがすなわち、人の悩み、問題を表していると考えられます。

四組とは、剣・杯・杖・玉の組のことで、英語ではソード・カップ・ワンド・コインです。

私はその中でも、玉(コイン)の組の悩みが、実は人間の中で大きな特徴を占めているのではないかと思っています。

玉の悩みとは、端的に言えばお金となりますが、もう少し抽象性(範疇)を高めますと、肉体とか物質(モノ)の世界ということになり、すなわち、私たちは肉体やモノから生ずる悩みに、大きく支配されているとみなされるわけです。

モノから来るものと言えば、物欲などがもとになり、お金とモノ(動産・不動産、環境的に消費して獲得したいもの)が、自分の思い通りの状態ならない悩みと言えます。

肉体的なことというのは、たいていは体の調子や状況のことで、言ってみれば病気とか怪我などがあって、それに悩んでいる状態です。

そして意外かもしれませんが、精神的な悩みも、肉体(個人という意識を持つ肉体)あってのことなので、ほかの四組の要素(剣・杯・杖)と関係するとはいえ、基本は個人(の体)を通して「感じる」心の悩みと換言できます。

人間関係や恋愛などが、特に当てはまるでしょう。

ですから、玉の悩みとは、究極的には、肉体と三次元世界の認識によるものと言ってもよいのです。

これが人のお悩みの大きな割合を占めていると考えると、逆に言えば、玉中心の世界からの脱却が、悩みを減少させることになります。

グノーシス神話では、デミウルゴスという偽の創造神、実は「悪魔」とも言える存在が、私たちを牢獄の世界の中に閉じ込めていると語ります。

その牢獄の世界こそ、肉体と三次元認識(モノ中心で構築されている意識の世界)で考えてしまう、今の私たちの現実意識による世界観によるものと言ってよいかもしれません。

しかしながら、私たちは肉体を捨て、生きることをやめることはできません。

これでは最近言われている「反出生主義」(生まれる事こそ問題と考える思想)みたいな極端な考えになるか、厭世的、虚無的な状態になり、自殺さえ推奨されかねません。

実際、数千年にわたるグノーシス主義の思想の中では、反出生主義みたいな一派もあり、現実世界を極度に忌避していた人たちもいたと言われます。

ただ、グノーシス主義を探求していくと、それ(反出生主義的な考え)さえも物質的境地・観点に毒されているからではないかと思うことがあります。

グノーシス主義のことにつきましては、少し難しくなりますし、誤解も生じやすいので、ここではこれくらいにしておきます。(ちなみにグノーシス探究は、私のタロット講座受講者で、それに興味のある人たちのグループでやっております)

今日言いたいは、マルセイユタロットの四組「玉」の悩みをどうするかについてです。

玉の悩みは、つまるところ、肉体がベースだと言いました。

でも、肉体をすぐに捨てる(死ぬ)わけにもいかないのも当然です。ということは、残るは三次元認識をどうするか、になります。

おそらく、宗教や古代から解脱的な修行は、この三次元認識をいかに超えるか、変容させるかという技術とか知識であったと推測されます。

とは言え、私たち一般人で、なかなか修行ベースの生活を送ることは困難です。

ここで、タロット的には四組を再登場させ、玉の世界だけに偏りがちな意識を、ほかの剣、杯、杖に振り替えて行くということが考えられます。

これは玉、すなわち、肉体と三次元の世界をもとに思考や感情が出ていることに気づくのがまず大事で、そのあと、剣、杯、杖のほう(のどれか)に意識を強制的にでも移していくという作業になってきます。

もっと具体的に言えば、例えば、「杖」は情熱や生きがいを象徴しますが、肉体をはずした生きがい、肉体を通さない(使わない)喜び、目的を思う、創り出すということで、そうすると、意識は三次元価値観にどっぷりと浸かっていたところから、少し浮上するでしょう。

また「杯」は感情を象徴しますが、これも、肉体的欲求から出ているかどうかをチェックしていくことで、例えば、何かを買う時や、恋愛においても、肉体意識から離れて、もっと別のつながりとか目的を持ちたい自分に気づくこともあるかもしれません。

また、三次元認識を超えるということは、すなわち四次元以上の認識に自分を上げることなので、そうしたテクニック・知識が論理的にできるものを学ぶのもよいかと思います。

特に、今は、半田広宣氏が提唱されている「ヌーソロジー」が、個人的にはマルセイユタロットの幾何学にも通じていて、とてもお勧めです。少々難しくはありますが、普遍的な意味で、三次元認識を超えて行く(少なくとも、今の現実意識を変える)きっかけになると思います。

それからスピリチュアル的なことになりますが、やはり、霊性という部分を、仮定でもいいので自分の中に創り(本当はすでにあるものですが)、常に自分の行動や感覚、あるいは悩みの時に、その部分・存在を意識することで、玉・肉体の囚われを和らげるように思います。

実はマルセイユロタロットの大アルカナでも、肉体と三次元意識からの脱却による現世での悩み軽減(究極的には解脱のようなもの)は、描かれています。というより、それこそが大アルカナの目的と言ってもよいかもしれません。

マルセイユタロットの、大アルカナ「数をを持たない愚者」には、旅人とともにが描かれており、その犬とともに旅をしているか、犬に駆り立てられているかのように見えます。このこそ、霊性と関係すると見てよいのです。

ですから、言ってみれば、霊性をいかに育てるか(回復するか)であり、そして復活していく霊性(霊性の意識の顕在化)の程度により、囚われの現実世界(肉体と三次元認識中心の世界)からの脱却が進むと見られます。

多くの人が、肉体と三次元中心の世界観の意識から変われば、逆に世界のほうが変容し、現実と呼ばれるものが、新しい、今、普通の人が想像したこともない(しかし本当は故郷・本質として覚えている)現実に移行するのだと考えられます。

肉体を通した悩みに私たちがある時、それはある意味、大きなチャンスだとも言えます。

肉体があるうちに、変容(マルセイユタロットの名前のない「13」で象徴)過程をたくさんの人が通過することで、いわゆる輪廻転生的な、ある意味、面倒な成長(変容)手続き(システム)が、人類からなくなっていくものとも想像されます。

まあ、とはいえ、私もまだまだ囚われていて、言わば「実験体」みたいに、肉体ベースの悩みが起きてくることを強烈に経験中です。従って、皆さんの助けにはならないかもですが(苦笑)、それでも、考えていること少しずつ、これからもお話したいと思います。


シンボル・象徴の学習と効果

マルセイユタロットには、様々なシンボル・象徴があります。

それらは、論理的にも感覚的にも汲み取ることができ、ある意味、感性と思考を調整したり、統合したりできる機能があります。

おそらく女性性優位の方は、シンボル(象徴図像)を見て直感的に何かに気づく、あるいは意味を悟ることがあるでしょうし、男性性優位な方は、出ているシンボルを構造的に分析することで、意味を見出したり、確信を得たりすることが可能でしょう。

さて、そのようなマルセイユタロットのシンボルですが、一枚一枚の図像の中にたくさんの種類が描かれています。

マルセイユタロットの学習過程において、そのシンボル・象徴を発見し(伝授してもらい)、理解することが重要になります。

世間では、短期的なタロット学習の場合、それぞれのタロット一枚ずつの意味を、ただ「言葉・単語」として覚えるという方法が見受けられます。

しかし、それでは、一枚の中に描かれている様々なシンボルにふれることもないですし、そうしたものを活用するという発想すら出てきません。

これは非常にもったいないことです。特にマルセイユタロットの場合は、シンボル・象徴図が精緻に描かれ、全体から見ても整合性(論理性)をもって配置されています。

その仕組み・構造・意味を理解せずして、マルセイユタロットの活用はあり得ないと言ってもよいくらいです。

シンボル・象徴というものは、図で表されることが多く、だからこそ、民族や国、言語を超え、さらには時代も、個人による違いも超越して、いわば普遍的とも言える共通な型、本質を示唆します。

マルセイユタロットが多く製造された時代と地域は、18世紀のフランスですが、現代の日本人が使っても機能するのは、そうし理由があるからです。

ましてや、マルセイユタロットに描かれているシンボル・図像は、タロットが広く流布した時代よりも、もっと何世紀もさかのぼることができます。なぜなら、マルセイユタロットの中のシンボルが、実際に古い時代に見受けられるからです。

シンボル・象徴で何ができ、何が起きるのかということは、ほかならぬ、マルセイユタロットにいくつか描かれている「十字」シンボルで示すことができます。

十字、「+」のシンボル・図像は、デザイン的にも相当古いものだと推測されますし、まさに「シンボル」として、現代の我々にもなじみのあるものです。

実際にアクセサリーに使っている人もいるでしょう。

十字と言えば、キリスト教の十字架が思い起こされますが、マルセイユタロットのそれ(描かれている十字)は、「正十字」と呼ばれる上下左右の長さが均等なものがほとんどです。

これ(正十字が使われていること)には、歴史的・宗教的な理由など、隠された話も含めて、かなり深く長い話をしなければならないのですが、それらは講義で説明しているところです。

今、言いたいのは、この正十字のシンボルが、まさに、先述したように「シンボルそのもの」の機能を物語っているということです。

正十字の構造・デザインは、縦と横の同じ長さの線分が交差しているものです。ですから、構造的には、縦と横の線の領域があるわけです。

私たちが、グラフを使用する時も、横と縦の線を引くことをよくします。これは横のふたつの要素、← → と、縦のふたつの要素↓↑が合体したものですよね。

ということは、都合、左右・上下で、四つの区分け、性質があることがわかります。しかし、縦と横で違うように、縦線の二つと、横線の二つの性質は方向性が異なります。

しかしながら、正十字は縦と横という、方向は違っても、線の長さは同じです。

ここから考えられるのは、左右と上下、それぞれふたつの性質が対立していると同時に、それぞれが統合もしているということです。

さらに言えば、すべての線分が同じ長さ(クロスして分かれたように見える4つの線分でさえ同じ長さ)であるので、4つ(の要素・性質)全体を統合していると見ることも可能です。

言い換えれば、書かれてはいない正十字の領域を囲む円のようなものがあると想定してもよいのです。ケルト十字のような図ですね。

左右と上下は、方向が異なるので、何かしらの種類の違いはあるとはいえ、どちらにしても、ふたつのものが行き交い、交流し、両方(両端)をつなげています。(統合)

仮に、左右の両端を女性・男性とか、大人と子供とか、国とか文化の異なりとか、人間の世界による違いによる対立だとします。

ただ、今述べたように、対立ではあるけれど、両端は線としてつながっているわけで、言わば、交流による理解とか創造も生まれると見立てられます。それは「線そのもの」として見れば、ある種の統合と言ってもよいです。

そして、上下の両端についても、仮に、一人の人間の表と裏、顕在意識と潜在意識、さらには神性と人間性、天使性と悪魔性のようなものとします。

するとこれも、両端では対立していますが、ひとつの線だと見れば、ここにも交流が起き、統合されたものとしてとらえることができます。

これら、横と縦が交差(クロス)して、「自分」「自己」というものが形成されていると見るとどうでしょうか。

要するに、シンボル・象徴とは、私たちの内と外、個人と全体において、成長・統合させるために、形や直観的意味として見させてくれるものなのです。

私たちがシンボルを見る時、シンボル自体が私たちにもなり、そのシンボルが表す(シンボルが創造され、蓄積されてきた)世界に連れて行ってくれます。

そういう意味では、シンボルは一種の乗り物とも言えましょう。

ただ、それを活用するには、やはり直感だけでは不足で、きちんとシンボルの意味合いや背景など、様々な知識も必要とされます。

それは丸暗記のような学習とは異なりますので、学生時代、勉強がつまらないと思っていた人でも、面白く学べるところはあるでしょう。(何事も楽には行きませんが)

私自身もそうでしたが、本当にマルセイユタロットのシンボル・象徴図像を学ぶことはとても楽しいものです。知らないことも多かったですし、興味深い、新たな知識が学べるのはうれしいことです。

同時に、シンボルにふれてきますと、十字で説明したような、「交流」が起きてきますから(たいていは自分の中との交流)、自己に対する認識の変化、変容も起き、それに連れて現実も変わって来ることも生じます。

1枚ずつの意味だけ覚えて、すぐ占い師になる、みたいなことを望まれる方は、マルセイユタロットの学習には不向きです。

一方、じっくりシンボル・象徴の意味を学び、それらを活用してあらゆることを探求していきたいという方には、大いに勧められるのがマルセイユタロット(の学習)です。


順序を踏むこと、王道を進むこと。

すでによく知られていることですが、マルセイユタロットの大アルカナの数の順番は、ある種の成長や発展を表現しています。

単純に言って、数が上がるほどに向上するという考え、捉え方です。

しかし、単純にはそういうことであっても、本当はもっと複雑であり、逆方向の数が下がる道も、衰えるとか、悪いという意味ではありません。

そこには私たちが陥りがちな、直線思考の問題があり、数直線上にゼロ地点を中心にして、左右にプラス・マイナスを見て、その違いは単に、(数の)量だけにあるとする(現代的な数の)見方になると、タロットの数の進行の本質がわからなくなります。

やはり、直線ではなく、循環とか型の繰り返し、凝縮というものを見ないとならず、要するに、図形的には円とか球、螺旋などを想定して数の進行を捉えるということになります。

そのような見方は古代(秘儀的)では普通のことであり、数の進行(巡りと表現してもよい)の見方そのもので、世界(宇宙)観も変わってくるわけです。

さしずめ、は、先述したように、数直線的な動き方(捉え方)がメインで、だからこそ、過去・現在・未来の一方向的な時間の流れを常識として、ある地点からある地点までは、量としての距離を見るだけになって、質より量、または画一性を重視することになっていると考えられます。

さて、それでも、一応、マルセイユタロットの大アルカナの数の進行順が成長を示すという前提をもとにすると、様々なことがわかってきます。

まず、当たり前の話ですが、成長に一足飛びや近道はないということです。

前の数のタロットで示される課題・問いをマスターしないと、次(の数のタロット)には移れないわけです。これを二つ飛ばしとか、三つ飛ばしとかのジャンプをすると、それは中抜きとなって、すごろくではありませんが、必ず、元に戻されることになります。

でも、人は近道や、楽をしたい生き物です。(笑)

できれば、一気に行ける道、飛ばして行ける裏ルートがあるなら、そちらを選びたいものです。

しかし、タロットで見る限り、21枚の数の段階があり、ひとつひとつこなして行かねば、最後までたどり着けない仕組みになっています。(ちなみに数のない「愚者」は、この成長の旅をする当事者であり、私たち自身とも言えます)

ただし、何事も、抜け道とか、特別な道がまったくないというわけではありません。たいてい、何かあるものです。(苦笑)

個人的には、その特別な道は、タロットにおいてもあると見ていますが、これまたよくある話(お約束)で、そういた特殊な道というのは、それなりに危険や障壁があり、安全ではないからこそ、特別なルートになっていると推測されます。

よって、タロット的に安全でノーマルな成長の道を進みたいということであれば、やはり、数の順通りに進む(課題をこなしていく)のが望ましいと思います。

こうした王道(マルセイユタロットには、まさに「王の道」という象徴性が隠されています)は、心理系やスピリチュアル系の世界にもあてはまることだと言えます。

特に“ライトスピリチュアル”世界においては、お手軽にいいことをゲットしたい、楽に成長したいみたいに思う人が少なくありません。

それは、先述したように、人は近道や楽を求める性質があるからで、「ライト」となれば、ますますそういう風になるのも、いた仕方ないと言えます。

ですが、たぶんすでに経験している方も少なくないと思いますが、いろいろと運のよくなることとか、願いを引き寄せる方法とか、楽になる技術を学んだり、実践したりしても、なかなかよくならないというケースがあります。

そのひとつの原因は、一足飛びに効果を求めすぎている、言い換えれば、順番を無視したり、順序を逆にしたりして取り組んでいるという点があります。

先ほど述べたように、タロットの成長順の通り、ひとつひとつこなして初めて、次の段階に行けるようなものなのです。

例えば、心の中に、自分を不幸にしたり、不運にしたりするある種の考えとかデータが、自分では気づかず入っているとします。

それを消したり、変えたりしなければ、自分の中ではオートマチックにルールや行動規範として、実際に働き続けるおそれがあります。

大元や本質を無視して、小手先の技術、表面的なお手軽な方法ばかりを試していても、よくはならないのは当たり前です。

病気治療で言えば、対処療法ばかりしているようなものです。やるべき順を無視して、効果・結果だけ得ようとしても、本当にはよくなりません。(なっても一時的なもの)

「いや、でも、簡単によくなった人もいるよ」「急速に効果が出たことはあるよ」と思うこともあるかもしれませんが、この世界は個別の世界(個人それぞれで違いがある世界)なので、もちろん、そういう人もいるでしょう。

ですが、おそらくそういう人でも、実際は何らかのきちんとした手順を踏んできているのだと思います。(スピリチュアル的には、現世とか、自覚している意識・記憶だけではないところも含む)

宇宙的には、すべてルールがあり、それは次元やレベルによって異なるところがあるとは言え、どの世界においても、ルールを無視してのまったくのファンタジックな魔法はないと考えます。(魔法の世界であっても、魔法の発現と行使するルールが決まっており、その法則からはずれたものは、その世界の魔法として発動しないということ)

一気にできたと思う人も、それはそれで、検証すれば、この世界のルールからは逸脱していないはずです。(この世界のルールをたとえ超えたとしても、超えるための手順をきちんと踏んでいるということ)

まれに、偶然、あるいは突然、効果が発動したということもあり得ますが、それは手順を踏んでいたという本人の自覚がなかっただけに過ぎません。(だから、こういう偶然できてしまったことは、コントロールができないので危険でもあります)

ということで、なかなか思うように行かない人は、改善の順序に則っているか、手順をきちんと踏んでいるか、いきなりの理想を追い求めすぎて、急な効果を期待していないかなど見直すとよいでしょう。

マルセイユタロットを持っている人は、今一度、数の順に即して、自分のやっていること、目標達成等について、考えるとよいです。


「特別さ」が与えるもの

一年周期として見ると、やはり、春分・秋分・夏至・冬至は、特別なポイントであると考えられます。

今もって、その四つの時期について、風習的にも、宗教的にも、何らかの行事が行われているのを見ても明らかです。

そして、今月、六月夏至を迎えますので、月単位で観ますと、特別な月であると言えます。

ですから、色々な方が、今月に何かを行うことや、心を決めることについて言及していると思います。

ただ、昨今は動画やSNSを中心に、自己アピール合戦みたいな様相を呈していて、毎月、いや毎日のように、「今(今日、今月)がチャンス」とか、「この時期は特別」「変わりたいなら、今月中になになにをすること」など、言われています。

これでは、チャンスや特別な時期は、設定次第でいつでもなるのだといわんばかりです。(笑)

マルセイユタロットで言えば、毎日、「運命の輪」の特別な回転があるようようなものです。しかしながら、この「設定次第で、いつでも特別日(時期)にできる」というのは、ある意味、真実かもしれません。

私は長年タロットをやってきまして、いわゆる「特別さ」を経験する(あるいは演出する)には、天・地・人の三つが主要素としてあると考えるようになっています。

」というのは、天体とか惑星による条件(つまり時間とも関係します)で、「」というのは地球上の環境、地の利みたいなもの、「」というのは人間が行うことによって生ずる効果などを意味します。

このほかにも、むしろ場合によってはメインになるかもしれない「霊的(高次存在・神的存在)なもの」や「サイキック的な要素」もありますが、それは地や人(人が行う儀式によって、影響させることができる場合があるので)の範疇として、何とか入れることができるかもしれません。

「魔術」とか「呪術」のようなものでは、このサイキック的とも言えるものの条件と影響で、特別感(非日常)を出すことはあると思います。

それでも、たいていは、天・地・人を考慮し、その配置・調整・儀式的行為・象徴性の力の発露などによって、「特別さ」を、どの分野であっても、出していると思われます。

この「特別さ」といのうは、宗教的にはいわゆる「奇蹟」にもなり、宗教からはずれれば「奇跡」として、とらえられる場合もあるでしょう。要するに、普段より特別になることで、非日常的なことか起こる、あるいは起こすことができるわけです。

普段より特別になるというのは、並行世界とか多次元宇宙論の話で言えば、まさに違う世界や宇宙に入る(移行する、あるいはそのフィールドを出現させる)ということであり、だからこそ、日常の時空常識(ルール)とは異なることが可能になると考えられるわけです。

あえて心理的に言えば、実は身もふたもない話かもしれませんが(笑)、自分で自分を洗脳させるみたいなことで、強烈な信念とリアリティある演出があって、自己洗脳、トランス状態になり、あたかも、特別なことが起きる、特別なことを起こす力があると錯覚してしまうということです。

しかしながら、人間、トランス状態や変性意識状態になれば、マルセイユタロットの「力」のカードで象徴される「フォース」の解放が叶い、それこそ超越的な能力を一時的に出すことも可能になることがあります。神がかりの原理です。

また、自分への洗脳が強力であれば、おかしな話(スピリチュアル的な話)ですが、自分が中心軸となって、例えるなら、自分自身が宇宙(の創造の中心)となって、周囲が生成されてくるようになり、つまりは、まさに自分が中心となって地球(世界)が回るというようなことが生じます。(自分に向かって、周囲が引き寄せられてくるようなもの)

マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の上にいる「スフィンクス」、さらに力が強まれば「悪魔」(「悪魔」のカードに象徴される存在)になってくるわけです。

こうなると、強い魅力と支配力を持つことになりますので、ビジネスの成功とか、注目を浴びて人気者になるとか、カリスマ的指導者、先生、講師、経営者、政治家、タレントなどとして目立つことも可能になるでしょう。

悪い言い方をすれば、自分に従う奴隷がたくさんできることになりますし、よい言い方をすれば、自分のファンやサポーター、共感者(厳密には洗脳者ですが)が増えます。

その恩恵(エネルギー変換)として、自由主義経済のもとでは、お金としての糧も得られ、それにより、自由な時間と選択も持てて、ますます魅力的に他人の目からは映り、いわゆる現世利益的にも多大に恵まれることにもなると想像できます。

話を戻しますが、「特別さ」を獲得する秘儀を得れば、いろいろな恵みを受けることもできるので、古来より、特別さを出す、特別さ(非日常の世界)に自分を移行させる技術は追及(研究)され、隠されてきたこともあったと考えられます。

また、その力(得られる力)が強大であればあるほど、コントロールするのも難しいでしょうから、「特別さ」の経験は、ある種の危険が伴うと見てもよいはずです。

だからこそ、その技術と知識は、隠されてきたところもあるでしょう。

たとえそれが神とは無関係であった(神のような存在がいるのかどうかは別)としても、「神なるもの」を想定し、その介在あって特別さが出現する、あるいは、その力が付与されるとしてきた昔からの宗教的行為には、安全性を担保とした儀式を行う人間への保護の意味があったとも考えられます。

(もちろん、宗教そのものの存続とか、威厳を保つための理由もありますが)神聖さを演出しないと、力を得るものの心得次第では、他人や社会に迷惑がかかってしまいます(利己的な欲望が暴走し、その欲求達成に力が発現されるため)ので、神を信じ、神に帰依して謙虚になれる者が選ばれて、特別さを経験できたのだ推測されます。

実はタロットには特別さを出す力が備わっていると言われますし、そのために作られたという説もあるくらいです。

遊びや気軽な占い目的として、普通に使う分にはそれほど影響はないにしても、真剣にやれば、タロットでも、いにしえの特別さを出現させることができると考えられます。

しかし、先述したように、誰彼なくやっていいものでもなく、特別さの力に自分のほうが負けてしまう(魅了され、支配される)こともあり得ます。

知らず知らず、悪い意味での魔術的方向性(いわゆる黒魔術的目的)や、悪意あるサイキック世界の影響を受ける状態(悪い存在の憑依など)へと、足を踏み入れてしまう危険もあります。

すでに述べました、マルセイユタロットで例えられる「運命の輪」のスフィンクスと「悪魔」に自分がなってしまっている者もいると考えられます。当人たちは気づいていないでしょうが。

※(言っておきますが、マルセイユタロットで表現されている「スフィンクス」や「悪魔」自体は、悪い意味ではありません。すべての意味は中立です。ただし、特別な力をアンバランスに持ってしまった場合の「スフィンクス」と「悪魔」には、問題があるわけです)

しかしながら、自分がコントロールできる範囲での「特別さ」は、自己や他者変容には安全に使えるもので、常識や過去のしがらみなどに囚われ、縛られた自分を解放することにもなります。

そういう意味でなら、時間と場所と人、そして、人が使う道具(この場合はタロット)によっては、とても効果的な「特別さ」が体験できるのではないかと思います。


タロット占いの提供に関して

タロットは、いまだ占いの道具という認識が一般的です。

そうではない意義や活用について、私の場合は力を入れているわけですが、タロットに限らず、普通にネットとか雑誌とかでよく見るのは、毎日や今週、あるいはもっと長期的に、今月とか今年とかの運勢を占っているものがありますよね。

占いも役に立つますし、エンターテイメント的に見ましても、そういう類のものを読むのは面白いところはあります。

しかし、問題は、それに依存したり、運命だと信じ切ってしまったりする場合です。さらにやっかいなのは、他人にも押し付けるようになるケースですね。

日々掲載されているものに対して、本当に、自分が毎日それをチェックしないとおかしな気分になるというくらいになっている場合とか、それを見ている自分を、人からあまりいいように言われなくて、怒りや不安など感じてしまうような時も、すでに依存を疑ったほうがいいです。

毎日のもの(占い)は本当に危険性があることをちょっと指摘おきますと、毎日の場合は、習慣性が高まるので、その分、依存になる確率も高く、毎日継続されることで、無意識のうちに習慣化され、悪い意味で刷り込み、信念のようなものが自分の中に形成されてしまうことにあります。

言ってみれば、自分が占いを指針にするのではなく、占い内容自体が自分をコントロールしてしまうということで、まるで逆の話になるのです。

ひどくなれば、占いの通りになるよう、自らが無意識のうちに行動してしまうようなことも起こります。

何のことはない、当てているのは、自分自身だったという、自作自演みたいな話(苦笑)です。

これは先述したように、毎日見る(読む)ことによって、自分の中でルール化されるのが強固になっていき、ついには、実行ブログラムのように強制化されてしまうという仕組みです。

従って、毎日よりも、せめて毎週くらいにして(つまり占いにふれない時期がそれなりにあることが望ましい)、占いを信じたり、楽しんだりする自分と、あくまで占いだからと冷静に見て、どこか疑う部分を持つ自分との、二人の自分を持って対応するとよいということです。

一方、占い的なものを提供する側にも、工夫が必要な時代に入っていると考えます。

毎日、タロットを引いて、普通の占い的なことを書くというのは、当人の占い訓練にはいいでしょうが、いろいろな意味で、そのやり方も変えたほうがいいかもしれません。

例えば、すでにやっている人も多いと思いますが、テーマ別に占ってみるというように、ある程度具体性・現実性を伴って占いし、書くということがあげられます。

また、思いきって、特定の人(年齢・性別・仕事・性格・地域など結構絞って)に対して占うのも、逆に個人性が出て、面白いかもしれません。

タロットの場合、たった一枚でも、質問の仕方によっては、大きなレベル(宇宙・国家規模)から小さな個人レベルまで、占う(読む)ことができます。

その一枚でも、どこに目が行くかによっても、読み方、占い方を変えることができますので、メッセージとしても、絵柄のどこに注目したかによって書くのも、見る側としては、とても興味深いものになります。

そして見る側は、それぞれ個人ではあっても、全体的ともいえる大きな範疇とか流れの話にも、興味がある人がいるかもしれません。激動や危機的な時代ほど、そういう傾向は強まるでしょう。

だから、全体的なレベル(の占い内容)をあえて入れることで、むしろ、そちら(全体性)のほうに意識を上げて行く意図を持つ、言わば、占いを超えたものをやってみることを、タロットのメッセージを提供する側には、やってもらいたいと、私は思います。

つまりは、個人レベルと全体レべルを常にセットで書くという意識と実行性です。

これからは提供者のほうも、それなりに意図とか目的をきちんと持って、書くべきだと私は考えます。(すでにそういう意識でされている方も多いとは思いますが)

誰に、何のために、それを書いているのか、たとえタロット占いといえど、目的があるはずです。

もちろん、営業的にやっている人には、集客という目的が裏にはあるでしょうが、それは読む側もわかっていることでしょう。

それは承知のうえで、しかし、あなた(提供者)がやっていることは、単にタロットで稼ぎたいということではないはずです。

世の中のビジネスには、当然、ビジネスとして営利を出す目的はあるにしても、特にタロットの仕事をしている人は、経済的なことだけでそれをしているわけではないと思います。

ただ漫然と抽象的にタロット占いを毎日書き連ねても、あなたのしたいことが伝わりませんし、集客的にもおそらく疑問の出る方法でしょう。

本当に、誰に対して、タロットを使って何をやりたいのか、それが特に対外的にタロットを使う方には、必要なもの(意識)だと思います。

そうすると、結局、提供者のほうも、自分と向き合わねばならなくなってきます。

言い換えれば、自分というものを改めて知らねばならないということであり、また知ったとしても、常に変化も伴い、自分自身の改革も求められることになります。

自分について取り組むと、最初は、自分が本当は何がしたいのか、余計わからなくなってしまう時期があります。

またビジネスとしてやっている人には、経済的・物質的なものと、精神的・霊的なものとのバランスに苦慮してしまうこともあるでしょう。

自分に関して、単純な好き・嫌いですら、つかめてない人も結構います。まずは、そういうシンプルな分析から始めてみるのもよいでしょう。

タロットを仕事とするからには、当然仕事としての努力とか、苦しさもあるとは思いますが、何と言っても、自分が本当にしたいことの本質からずれてしまうのでは、結局、うまく行かなかったり、継続できなかったりしますので、本質と表現の違いを理解しつつも、本質を曲げてまでやることなのかを問うのは、とても重要だと考えます。

何事も、する側・される側というふたつの方向性があり、占いやリーディングをして、皆さんにその内容を提供する側と、それを読み、参考にしたり、楽しんだりする人たちの側とがあります。

される側だけではなく、する側の意識が変われば、される側(受け取る側)も変わるでしょう。

ビジネス的には消費者のニーズに合わせるということもあるでしょうが、タロットは消費されるだけものではありませんから、むしろ、する側のほうの意識を上げて、表現自体はたとえ、占い・物質レベルであっても、霊的・全体的な向上の目的を込めることは可能だと思います。

そういう人たちが多くなれば、受け取る側の意識も変わって来るでしょう。

基本的に、責任というものは双方にありますが、私たち側(タロットをする側、提供する側)にもあることを、もっと意識する必要があるかもしれません。


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