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問題の認識、その発信と解決

人にとって、何も問題のない状態というのは、なかなかないのではないかと思います。

結局、問題というのは、本人が問題であると感じたり、思ったりしない限りは問題ではないのですから、結局のところは、感情や気持ち、あるいは思考や判断が、問題を決定している、生み出していると言ってよいかもしれません。

ということは、いかに問題と感じないか、思わないでいられるかということが、楽に生きるコツとなると考えられます。

ここで注意したいのは、起こっている自体そのものは、ただそういう事実というだけであり、それがいいことか悪いことか、はたまた問題であるか否かとは別である、ということです。

例えば、何か病気になった、仕事をなくした、恋人にふられたなどということは、いかにも問題と思えますが、それは先述したように、そういう事象が起こっただけで、問題であるかは、あくまで本人がそう思っているかどうかによります。

さらにいえば、起こっていることで、痛い、苦しいということを感じていても、だからといって、それが問題や悩みと本人が思っているかは別で、たいていは痛みや苦しみがあれば、「問題である」と思う人がほとんであっても、そうではないと(思う)人もいるということです。

思いや判断が問題を決めている(問題として確定させている)とは、そういうことです。

だから、自らの感情や思考のパターンを知ったり、学びをして、変えていったりすることは大切になるのです。

しかしながら、よほどの悟った人くらいでなければ、実際、心や体の痛み、苦しみ、不快さ、現実で起こる不幸のような事態は、普通は問題・悩みとなってしまうのが、これまた人間であるところの特徴とも言えましょう。

その問題や悩みを解決していくこと、軽減していくことを求めるのも、人として当たり前の気持ち、行為と言えます。時には依存になってしまったり、弱気になったりすることも、その本人の苦しみの次第では、仕方ない面もあります。

ここで、全体と個(個人・個性)という、マルセイユタロットでもお馴染みの観点で見れば、ひとりひとりの問題は、困っていることとして感じる「問題」としては同じであっても、内容や程度などはまったく異なるものと言えます。

タロットでの相談においても、大まかに分けると、実は小アルカナに関係する4つの組の問題、さらに言えば、ふたつの問題で大分類できるのですが、こういう共通した「全体的」特質とともに、やはり個人別としての問題の個性も出てきます。

ですから、これは非常に重要なことだと私は思っていますが、問題や悩みに対する、ある種の共通パータンの対応・解決策があると同時に、それが全員にそのままきれいに当てはまるわけではなく、ひとりひとり、個別での対応・治療・解決の状況も存在するということです。

誰かがあれでよくなった、解決したといっても、その方法や内容、日数などは、人によって違うわけですし、自分には効果がないこともありえます。

従って、まさに自分の問題は自分なりのペースや、解決のやり方があり、いわば、問題にも個性があれば、解決にも、個人的(個別)処方箋があるのだと考えれば、何かひとつを信奉しすぎたり、誰かの洗脳にあったりすることは少なくなるのではないかと思います。

また自分に合わないものがあるのも当然で、それで自分がおかしいと思うのではなく、ただ単に、人はこの世界では個性的存在であることが証明されているだけのことです。

かといって、自己流がすべてよいとうわけではなく、人としての共通点があることも先述した通りです。

言い方を換えれば、誰かの問題・悩みは、確かにその人の個別的なものですが、それは私たち全員にとって無関係ではなく、何らかの必要性があって発生しているとも言えるのです。

よって、私はこうも思うのです。

今の情報化社会、いろいろな人が自分で世界に向けて発信てきるようになりました。その情報はまさに千差万別、いいも悪いも、本当も嘘も、まさに玉石混交、様々に存在していることでしょう。

その中で、自己の問題や悩みと、その解決・軽減に取り組んだ過程、結果を(本当のこととして)披露している情報があれば、きっと、誰か、問題を抱えている人に役立つことになるのではないかということです。

さきほど、問題は個別なものであり、解決もその人のオリジナル性があると言ったことと、矛盾しているように感じるかもしれません。

しかし、「問題」は、人として共通の部分もあり、発信した人と見た人の状態が、まったく同じではないのは当然ながらも、そこにやはり軽減・解決・気づきとしての何がしかのヒントも共通としてあると思われるのです。

どんな人でも、人や薬、技術からの援助があったとしても、問題を解決する(あるいは問題認識を消失させる)のは、自分自身の思いや力です。

悩み、苦しんでいる人が、その解決を求め、ネットでの関連する情報を探して、たまたま行き着いたものが、誰かの発信した自分の問題とその対応の話で、それによって、(見ている、読んでいる側の)自分自身の何かの気づきや解決のきっかけ、安寧を得るヒントになることも、今の時代、十分に考えられます。

実のところ、問題は、その人自身のみで抱え込むことによって、大きな困難性として認識され(悪い意味での問題の成長)、余計、石のように固まってしまうおそれもあると考えています。

問題を誰かに話し、シェアし、皆でなくしていくような共通な思いというか、つながりができれば、かなりの問題は早く解決し、個性的な対応策が多く登場したり、問題そのものが社会から消失していったりすることも加速するのではないかと想像しています。

ということで、少なくとも、自分の以前の問題が解決したとか、軽くなったとして、問題を過去的なものとして扱える人は、自らその経験を発信していただければよいのではないかと思います。

役に立たないようでいて、きっと誰か、いや、大げさに言えば、人類全体とつながって、見えない形でも役に立つのではないかと思えるからです。

あなたの問題は、あなた個人としては確かに大変だと思いますが、皆の役にも立っているのです。もちろん、あなた個人としての問題がなくなり、楽になることが先決ですが。

皆で楽にしあう」というイメージが、見えないネットワークを稼働させ、個が全体の力になっていくシステムも、実はあるのではないかと思えるわけです。

ということは、逆に、ネガティブなものも、多くの人が思えば、個が全体として増幅されたものなりますので、なるべくなら、そうした思いは出さないほうがよいことになります。

でも、発生する感情そのものはコントロールできませんので(そのあとのコントロールは可能としても)、ネガティブに思うなというのも無理なことです。

ですから、意識的に祈りとか感謝とか赦しとか、そういう感情を、皆のつながりとして思うということをし、個別でもやっていくとよいのではないかと思います。

個でありながら、全体を意識すること(よい意味で)、は、今の時代、特に必要なことではないかと考えています。


小アルカナの剣(マルセイユタロット)

タロットの小アルカナというパートは、4つの組に分かれています。

タロットの種類によって、4組の絵柄は異なっている場合もありますが、だいたいは、英語でいうと、ソード・カップ・ワンド・コイン、私たちは日本語で、剣・杯・杖・玉と呼称するもので成り立っています。

これは、いわゆるトランプの4組と同じで、トランプの一般的な組(スート)の表現として、それぞれスペード、ハート、クラブ、ダイヤとなっているわけです。

ちなみにトランプにおける絵札も、タロットでいえば、宮廷カード(コートカート)と大アルカナの「愚者」と関係し、組の数の1(エース)も絵札なので、ゲームとしては得点力が高く、重要なカードであることがわかります。

ということで、タロットを知れば、枚数の違いがあるとはいえ、構造的にはトランプと同じなので、トランプ占い、トランプリーディングも可能になります。(時々、私も講義の余興としてやることもあります(笑))

と言いつつ、今日の話題はトランプではなく、小アルカナ、中でも、剣の組のことです。

さきほど、タロットの種類によって、4組の絵柄が違うこともあると述べたように、同じ剣(ソード)の組であっても、その剣の絵がカードの種類によって異なるがために、絵柄の印象による読み方の違いも当然出てきます。(これは大アルカナも、小アルカナの剣以外の組もそうですが)

私はマルセイユタロットを使いますので、マルセイユタロットの剣の絵柄で、この組を解釈します。

ただ、日本で、メジャーに使われているタロットといえば、ウェイト版(ライダー版)になりますので、多くのタロットリーダーや占い師たちが、その絵から意味を見出すことになっているのも当然となっています。

ウェイト版の剣の組を見ますと、武器のソードとしての色合いが濃く、中には凶器に見える表現もあります。

私自身はウェイト版の絵柄がとても苦手なので、実はさわることもできないくらいなのですが(^^;)、それほど、マルセイユ版とは違うところがあります。

というより、マルセイユ版の小アルカナ、数の組のカードは、絵というより記号的なものになっており、とてもシンプルです。

ここから絵柄としての意味を読み取ろうとすることはむしろ困難で、従って数の象徴的な意味を理解しないと、なかなかマルセイユ版の数カードは読みにくいことになります。(数だけではない読み方も、当然あります、数も重要ですが、四大元素の象徴を理解することも鍵です)

そして、マルセイユ版の剣の組に着目しますと、なるほど、最初の「1」のカードや、奇数の数のカードには、まっすぐなソード状の、いかにも「剣」というものが上に向けて伸びていますが、偶数のカード、湾曲した半円模様の剣とも何ともつかぬ模様になっており、現代人の私たちが見たら、配線コードのように見えるかもしれません。

なぜ剣が湾曲したものになっているのかについては、諸説ありますが、ここでは、そういった曲がった剣を使う文化と関係していると言っておきましょう。(ほかの理由も考えられます)

ウェイト版は、小アルカナに絵をつけ、組ごとに、ひとつのスートリーが流れており、10で完成するようものとして構成されているようですが、マルセイユタロットも絵こそありませんが、実は1から10でもって、完結するということは同じだと考えられます。(マルセイユタロットのほうが時代が古いので、ウェイト版がモデルとした可能性もあります)

マルセイユ版の剣の組を数の通りにきれいに横に並べてみると、驚くべき模様というか、全体の絵柄が浮かび上がってきます。

それは半円系の剣を描ているからこそ、半円がふたつ合わさってできる「円」模様であり、さらに円と円とが重なってできる、通称ヴェスカ・パイシズ(ピスカ・ピッシーズ)と言われる魚の浮袋の形も見えてくるのです。

これは秘儀的に非常に重要な幾何学模様であり、剣の組には、この知性を磨くことが伝えられていると考えられます。一言でいえば、それは宇宙の智慧であり、グノーシスをタロットに見ているものは、それでもあると言えます。

マルセイユタロットの剣の組を見ていると、私たちの知性獲得の過程と言いますか、向上の順序が描かれているようにも感じます。

最初は、私たちは無知の状態であり、しかし、ひとつの偉大な神の剣、つまり神的知性は、内奥にはある状態で生まれますが、次第に人間としての生きる知恵、いわゆる普通の知識のほうを自分の中にたくさん入れていきます。(逆に神的知性は隠れてしまう)

現実を生きるうえでは、それは当然の成り行きで、自分を守るため、あるいは現実社会を渡っていくためには、仕方のないことでもあります。

最初「1」のカードに王冠とともに、偉大に華々しくあった大きな神性なる剣も、偶数カード(10は除いて)においては、直線的な剣そのものがなくなっており、奇数カードにあっても細くなり、次第に、湾曲した剣の数は増え、錯綜したものになってきます。

それに伴い、周囲の植物のようなものも、次第にシンプルになり、半ばくらいから色や方向性も含めて、違った雰囲気に変化します。

ここから、私たちは、途中までは、人との交流による知識の受け渡し、学び、実践を経験しつつも、やがては、本当の知性に目覚めることを目指すのだとわかります。

そのためには、「剣」の象徴として、無駄な知識はそぎ落とし、収れんし、本当の知性のための栄養としてささげなくてならないことが示されています。

これは、人間(生活)としての一般のこと、社会のこと、また身に着け、学習した様々な知識が無駄であると言っているのではありません。それが、神性的な知性、智慧を開くための肥しや重要な経験になるのだと言っているわけです。

最初から感性のみを重視する人もいますが、それはそれで個性としてはありだと言っても、マルセイユタロットの剣の組を見ていると、通常の思考や知識においても、やがてそれらがそぎ落とされ、凝縮され、高い波動に至る変容によって、高次の知性にたどりつく可能性も示唆していると言えましょう。

一度隠れた神性なる「1」の剣が、再び磨かれて現れる(10から別のステージの1に進化する)という印象です。

その前の、自分が取り組んでいたステージの完結を意味する10のカードでは、偶数でありながら直線的な剣が描写されており、しかも剣がふたつに分かれて交差している様で表されています。

いわば、現実を超えるための、自分の分身が生み出された瞬間かもしれません。

こういう剣の組の流れから、私たちは、迷いなからも、ひとつのシンプルな答えにだとりつこうとしているのがわかります。

これまで学んできた知識も成熟してくると、切り落とされ、収れんし、シンプルな直観になり、感覚的判断と似たようなものになっていく(しかし通常の感覚的なものとは次元の違うもの)ように予想されます。

しかし一方で、最終的にはひとつというより、もうひとつ(もう一人、もうひとつの世界)に気づくことが、知性の、ある種の到達点であることが剣の組から示されています。

剣の組は、まさに私たちが知性を鍛錬していく様を描写しつつも、孤独や孤高に達するようなイメージではなく、極めてシンプルな法則・リズムに基づきつつ、むしろ、この世界や宇宙が多様で豊か、かつ多次元で、あらゆるものが存在し、共存・関係・影響し合っていることを知るに至るのを語っているように思います。

こうして見ていくと、マルセイユタロットの剣の意味やイメージが、決して武器や凶器のようなものではないことがわかるでしょう。


学びの種類や性質について。

例えば、タロットを活用する前には、ほとんどの人は、タロットを“学び”ます。

勉強せず、いきなりリーディングや占いを自分の直感を頼りに始める方もいらっしゃいますが、それは少数派でしょう。

今日の本筋とは違う話で余談ですが、タロットをほとんど勉強せずとも、すぐに読める人、結構活用できる人もいます。

その場合は、もともとその人の直感性が鋭敏であったり、いわゆる皆さんがおっしゃるような霊感が働いていて、本人はカードがなくても、もともとわかる情報があり、それをカードに重ねて(直感をカードの表現に置き換えるようなツールとして)使っているというケースがあります。

霊感というのは、サイキックな力ともいえますし、サイキック次元に存在する情報、またはある種の存在からの情報を得る力ともいえます。誰にでも少しはあるとはいえ、やはりその能力が高い人間は特別にいらっしゃいます。

タロットを本格的に学習する人であっても、そういう力を持つ人は、タロットの読み方も独特なものになることが多いようです。

では本題に戻ります。

実は今日のテーマは「学び」ということです。

タロットを学ぶという例ですと、その「学び」はどういったものになるでしょうか?

意味がわからないかもしれませんが、要するに、何を学ぶことになるのかという、学びの目的と性質、あるいは種類のことです。

最初は当然、タロットを理解したい、タロットリーディングなどができるようになって、タロットを活用したいという意味での「学び」が目的としてあるでしょう。

ところが、まさにタロットをそのような目的で学んでいく過程において、ほかの学びの性質も現れてきます。(人にもよりますが)

それは、人生そのものの学びであったり、人の心理や意識の学びであったり、自分自身の成長や、いろいろものの統合的視点の学びであったりするようなことです。

これはタロットを例にしていますが、私たちは、何かを学ぼうと目的をもって取り組む時、その過程と結果においては、違った学びを同時に得ることがあるということです。

結果は、当初の目的通りの学びの成果であっても、その途中や過程では、別のことを学んでいることが多々あるわけです。

よく昔の漫画や映画などに、何かの修行の免許皆伝では巻物が授けられることになっていて、そこに秘伝や奥義が隠されていると言われ、頑張って修行を完遂し、巻物を得たものの、いざ巻物を開けてみると、それは白紙であり、老師から、「そなたの今までの修行の過程で得たものすべてこそが、奥義である」みたいなパターンがあります。

現実的ともいえる結果は、もちろん大事ですが、何かを学んでいくというのは、ただ目指した状態に達成することや、現実的・実際的な効果を得ること、身につけることだけが「学び」ではないと言えます。

ですから、極端なことを言えば、当初の目的から挫折したり、うまく結果を残せなかったりしたとしても、やってきたことを振り返れば、学んだことは別にたくさんあり、それだけでも成長の糧ともいえ、あなた自身が得ること、学ぶことは、他人より秀でたり、目的を達成することそのものだったりではなく、ただその経験においての別の何かだったかもしれないのです。

こういうパターンは意外と多く、ただ本人が気づいていないだけだと思います。

そうなると、言ってしまえば、人生すべて学びと考えることも可能というわけです。

ただ、すべてが学びというのも、堅苦しい話や態度になってしまいますから、また観点を変えて、学びについて考えたいと思います。

学びといえば、よいことであり、知らなかったことを知るとか、新しい技術を身につけるとか、今より精神的にも物質的にも豊かになるような、ポジティブなイメージがあります。

しかし、学びそれ自体は確かによいことではあるものの、学びの種類、性質から見ていくと、必ずしも、学びの方法としては、すべてポジティブ、よいものとは限りません。

むしろ、学びは苦しいことや、大変なこと、時間がかかることなど、ネガティブな部分もあります。

タロットで見ますと、学びの種類にもたくさんあることがわかります。

マルセイユタロットの絵柄を知っている人は、大アルカナ22枚を見ていただければ、実は学びの種類も、その全部のカードごとにあるというのがわかります。

それでも、パッと見て、何か学びや学習をイメージするようなカードといえば、2の「斎王」とか、5の「法皇」、9の「隠者」などがあげられるかもしれません。

このように読むと決まっているわけではありませんが、例えば、「斎王」は本などを読んでの独学や自習、「法皇」は講義・セミナー・講演などを聞いて、人から教えてもらう学び、「隠者」は、秘伝や口伝、隠れた特別な知識や技術を極める学び(人からもあれば、自分自身でのものもあり、さらには人を超えた存在からの伝授とも言えます)と表現することができます。

また面白いものとしては、15「悪魔」があります。「悪魔」も、学びにおいて色々な読み方・見方はあるでしょうが、例えば反面教師とか、悪いことにはまったり、騙されたりして、学ぶということも考えられます。

それから1「手品師」、4「皇帝」、時には7「戦車」のように、実際や現場、行動して学ぶというパターンも考えられますし、13では、かなり厳しい試練による学び(自分が練磨され、大きく変わるような学び)もイメージされます。

このように、カードの表現による学び方、学習方法も見ることができるのです。

ちなみに小アルカナも、学びの性質や種類として振り分けることができ、小アルカナは4組にわかれているので、その四つの性質さえわかっていれば、数や人物の特徴と併せて考察すれば、かなり具体的なものまで、学びの中身を絞ることができます。

ここで言いたいのは、学びをテーマにしたカードの使い方、読み方ということもあるのですが、もうひとつ、人生において、学びの種類や性質、方法は本当に様々であり、しかも個人によって学び方も異なるということです。

間違いや失敗、痛い目をして学ぶということもあれば、そういう痛い目をしないために学ぶ(ことにより、気づきや成長、予防に役立てる)という方法もあるわけです。

誰か先生について学んでいたとしても、その先生も完璧な人ではないはずですから、その人から学ぶことの内容や種類もすべてよいものとは限らず、何か悪いものもあるかもしれません。しかし、悪いものも学びとして活かすことはできます。

ただ、それは学びの種類や方法・性質の違いであって、その人自身(人格など)の問題性を追求することとは、話はまた別です。先述したように、結局、学び方はいろいろあって、すべては「学び」になっている(「学び」と考える)のなら、それは「学び」なのです。

会社などでの社会でも同じことで、学びと思えば、すべては学びとなりますが、仮にその会社や、そこにいる上司・同僚、組織が腐敗していたり、いわゆるブラックな非道さ、残酷さがあるのなら、それは自分を鍛えてくれている(環境)だという「学び」として思うこともできる人もいれば、こんなところで働くことのまずさを学ばせてもらっていると取る「学び」もあるわけです。

世の中には耐える学びもありますが、逃げて学ぶ(カードでは「愚者」のようなもの)方法もあります。

あなたは、今やっている、あるいは自分が考えている学び(の方法や意味)を誤解していないか、改めて自分に問うてみてください。

もしかすると、別のことを知らせたり、教えてくれたりする学びなのかもしれないと、タロットの「吊るし」のように、逆の発想も思ってみることです。

あなたが「神の家」の試練だと思っているものが、「悪魔」による搾取や、自由を奪う誘惑と縛りによる拘束かもしれないのです。その逆もあるかもしれません。(愛による厳しさみたいなもの)

しかし、自分ではわからないことも結構あります。

そういう時のために、客観的視点で、苦しい時や学びの効果に疑問を持つ場合は、誰かに相談するのがよいかと思います。

なお、相談する時は、同じグループの学習や組織のメンバーではないほうが、より客観性が出るでしょう。


問題と恩恵は、世界観ごとに現れる

スピリチュアルや精神世界、あるいは少しアカデミズム的な心理学から離れたメンタルの世界に興味を持ち、いろいろと学んだり、実践したりしていくうちに、たいていの人は自身に変化や気づきを増していくと思います。

世間一般では、そういうようなことをしている人に、まだまだ冷たい視線や、現実離れしているおかしな人たちという思いで見たりするかもしれませんが、以前よりかは、だいぶん、穏やかに認められてきているところもあるように思います。

何事もバランスで、やり過ぎたり、傾倒し過ぎたりすると、問題となることはあります。現実逃避の手段として、そうしたものが使われる場合もあるでしょう。

しかし、マルセイユタロットの自己成長の絵柄と言われる図を見ていると、どんなに人にも、多かれ少なかれ、精神や心の次元、スピリチュアリティに関心を持つ機会は現れるのではないかと想像します。

もちろん、普通に生きるだけでも、多くの学びと経験、人生への気づきがもたらされますが、どうしても、現にあること、実際に存在していると思えるもの、生活にダイレクトに影響するもの以外には関心が行きにくい傾向にあります。

言ってみれば、普通の生活に埋没していると、地上生活(地上性)と物質性中心に意識にならざるを得ないということです。

しかし、それでも人は、何か人生でうまく行かないことが続いたり、精神的なことで悩んだり、肉体的にも病や年齢によって、うまく機能しなくなってきたりすると、別の観点での原因や対策を求めていくようになります。

こういう時に、新たな世界が開くチャンスでもあるのです。

でも、早いうちから(と言っても中年からくらいの人が本格的には多いでしょうが)、精神やスピリチュアリティの世界に関心を抱き、それなりに追及していくと、いわゆる現実や通常意識で見ていた世界とは違うものがあることがわかってきます。

言ってみれば、私たちは、複数の次元や世界で生きているようなもので、今まではたったひとつの現実・物質世界があるだけと思い込んでいたわけです。

さて、ここからが本題で結論みたいなものですが、そうすると、複数の世界と世界観が存在することになります。これはいいこと(面)もあるですが、悪いこと(面)もあります。両方を受け入れ、浄化・解決し、統合していくことで、私たちは本当の意味で成長がなされます。

ということは、自分の問題が、肉体や現実(通常意識)でわかる範囲だけに起因しているのではないということも、段々知ってくるようになるのです。

例えば、最初は物質だけの次元から、心理・メンタル次元の問題があることがわかってきます。

まあ、これは普通の意識においても、最近は心・メンタルの問題が大きく取り上げられるようになり、精神の安定が重視され、外向きではなく、内にある本当の気持ちの自分に注目するように言われるようにはなりましたので、日常的にも、このレベルと次元の扱い(つまり問題性も含めて)は認知されてきたとも言えます。

環境や外の現実の世界に問題があるというか、その影響だけで自分の問題や悩みがあるという認識から、自分の心のデータに問題や不具合があり、それか外とうまく調和していないから、問題として現れているということに意識がシフトしていくわけです。

一方で、占いや運命学のように、世界(宇宙)は、ある種の流れや法則、規則のようなものがあり、それが個人(宇宙の法則とリンクする、生まれもった性質、星や命があると考え)にも当然影響し、それを読み解き、うまく乗り切ることで、自分の人生を好転させて行ったり、望みを叶えたりしていく術に興味を持つ人も現れます。

ここの世界観を取り入れると、自分の運命や人の運命、目に見えない運気のような流れについて関心が向くことになります。

これも別の意味で、地上性、現実性を超越した話(世界)に向かうわけです。そして、当然、この世界での問題性(運の良し悪し、悪運や自分の質に合わないのことにならないようにする選択)ということもフォーカスされます。

さらには、メンタル次元・世界とリンクしつつも、詳細に見れば、またひとつの別の世界のような次元があるのにも気づいてくる人がいます。(最初からわかっている人もいます)

それはいわゆるサイキック・心霊的な次元・世界です。心のエネルギーが特殊に変化したものの世界と言ってもいいかもしれませんが、念という言葉があるように、(ではない存在も含む)の意識・感情・気持ちのエネルギーが、ある種の実効性を持ち、想念・思念体としての影響や、呪縛、霊障的な問題として現れることがある世界(観)です。

この世界の問題性は、時代や場所を超え、一代限りではないということも特徴があります。いわゆる過去世データ(輪廻転生説ではなくても、ずっと続いてきた先祖からの血縁的なもの、遺伝で受けがれるもの、意識や残存思念が少なくとも三世代前の家系の人から根差しているものなど考えられます)のようなものも入ってくるわけです。

ここまで来ると、もはや通常の意識では、わけがわからない世界になってくるかもしれませんが、こういう世界観が実際にあり、エネルギー的に、特にメンタルにも影響してくることは知られています。

さらには、個人だけではなく、人類の集合意識や、地球・惑星、星系規模の世界(観)、次元の問題も上(下ともいえます)には見えてくるような人もいるでしょう。

つまり、スピリチュアル的なことに足を踏み入れれば、科学的に事実かどうかは別として、意識的には、多数の世界やレベル、次元の認識に進み、同時に、それぞれの世界・レベルにおいての問題性も意識されるようになってくる、あるいは意識されなくても、洗い出されてくる仕組みがあるように感じます。

スピリチュアルなことや、精神世界に興味をもったがゆえに、逆に普通は起こらないことまで起きて、苦しむこともあるわけです。

しかし、これもまたマルセイユタロットの絵図から見て言えることですが、それらの苦しみや問題性は、いずれ、どこかで向き合わねばならないことが多いものだと考えられます。

遅いか早いかみたいな問題性です。この早晩については、、自分の人生一代の時間でのこととは限らず、過去から未来にわたって、もっと大きな時間、長期的視野に立ったものになります。

スピリチュアル的な適当な言葉で言うとすれば、カルマ的なものということになりますが、自分の今の人生においても、少なくとも、メンタル・心の次元・世界で物事を見ることは有用だと思います。

いかに普通の地上的意識では、気が付かないことが多いのか、自己探求やスピリチュアルな世界に関心を持たないと、なかなかわからないものと思います。

普通に生きていて、何も問題がないと思っていても、案外、強力なブロックを自分にかけているからということもありえます。

さらにナーバスな人は、普通の人とは違い、人や別の世界からの問題を自分の中に植え付けてしまうことがあります。サイキック的には憑依と言ってもいい現象です。

憑依と言っても幽霊がつくというのではなく(エネルギーとして見ればそういうこともあるかもですが)、残留する、悔いや呪いたいようなネガティブ思念、想念が(生きている人のが多いと言われます)、あるいは親や上司、自分がコントロールされている先生とかカリスマ人物からの思い(その人からというのもありますが、自分の思い込みによる自縛想念もあります)などが、一種のデータのように、自分本来の部分に上書きされていて、プログラム変換されているようなものと言えます。

そういったものを、優しい人や、敏感な人、自分に自信がない人は、自分に受けやすくなっている場合もあるのですね。

自分の考えや行動がうまく表現・調和できず、自分が悪いからだ、意志が弱いからだとか、資源や環境のせいにしてしまって、人生を不運だ、不幸だと嘆いている人もいますが、必ずしも、自分だけのせいではないのです。

つまりは、今見てきたように、いろいろな世界が複合して自分の中にあり、そのそれぞれに問題性や解決性も内包されているわけで、それには、外の影響が自分に入っているという世界(観)・考えもあるのです。

もちろん、他人のせい、環境や現実といわれる世界のせいばかりにしている人、逆にスピリチュアルに変にかぶれ過ぎたせいで、やたらとメンタルやサイキックの問題のせい(いわば、そこさえ解決すればすべてうまく行くと思い込み、現実逃避する人)に過ぎている人も、これはこれで問題です。

精神世界や独特な心理の世界、スピリチュアリティの世界に関心を向け、さらに自己の向上や成長を願う時、今まで現実・地上だけの世界から、次第に複数の世界の扉が開かれて行きます。

その分、見えなかった、わからなかった問題に向き合ったり、出現したりすることにもなり、時には自分では対応ができず、それぞれの世界の専門家に援助を頼むこともあります。

いずれにしても、普通の意識ではとらえられなかった、あるいは出ることのなかった問題性が現れ(それは試練や苦しみの場合として感じられることもあります)、その処理や対応をしていくことで、自分自身が浄化され、本来の自分がますます出やすくなり、つまりは宇宙や大元の法則に通じて楽になり、現実的にも、霊的なにも拡大や成長が促進されるのだということです。

また、自分自身が学びや経験をして、少しずつ、援助側に変わっていくこともあります。これもまた、タロットの絵図で示されていることです。

今日ここで述べたことに関係の深いマルセイユタロットは、「恋人」と「神の家」の関係、そして「節制」へと変化するアプローチみたいなことです。

(スピリチュアルなことを)学んでいくうちに、いろいろな世界や次元があることを知り、混乱する人も少なくありませんが、さすがに古代からの体系図はよくできており、カバラーの生命の木、そしてマルセイユタロットの大アルカナの絵図は、個人的には、そういったことを整理・理解するのには最適なものかと考えます。


回り道の中の抜け道

記事タイトルから、「運命の輪」のカードを想像した人もいるかもしれません。

確かに、今回は「運命の輪」(マルセイユタロット)に関係する話ですが、おそらく普通に教えられるそのカードの話とは、また少し違ったものになると思います。

ところで、あなたは、悩んたり、迷ったりしている時、どんな状態になりますか?

言ってみれば、多くの人は、輪の中でグルグル回っているような感じになっているのではないでしょうか。

あれでもないこれでもないと選択肢の多くを想像したり、反対に、何をどうすればよいのかわからなくなったりして、右往左往してしまう・・・こんな状況です。

もちろん、考えているだけではなく、行動に移す人もいるでしょうが、それでも、あちらへ行ったり、こちらで聞いたりと、迷っている時は、文字通り「迷っている」のですから、なかなか答えや突破口、進むべき道が見えてこないものです。

その意味では、マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の中に閉じ込められているとも言えますし、「吊るし」のように、吊るされ(本来は自分から吊るすのですが、吊るされていると感じること自体が問題状態と言えます)ペンドしている状況とも取れます。

「運命の輪」で言えば、輪の中の動物、犬と猿と言われますが、その二匹が入れ替わって、輪の中で回りながらでもがいている様子でもあり、その入れ替わりは、要するに対立要素や別々の選択肢、性質、エネルギーなどを象徴しますが、結局、直線でいえば、左右どちらへ行っても逃れられない、堂々巡りの罠にはまっているようなものと言えます。

ここから脱出するには、輪の上にいる動物、スフィンクスとされますが、その動物になることが鍵だと、このカードでは伝えています。

このスフィンクスになる状態とはどういうことかについては、これも人によって解釈がまちまちなので、言い換えれば、それだけのたくさんの方法があるとも言えるわけです。

今回は、あまり(「運命の輪」の解釈としては)一般的ではないけれども、おそらく皆さんも経験があるようなことで指摘したいと思います。

何かに悩み、迷う時、私たちは先述したように、いろいろな考え(自分と他人の考え、情報など)を思い浮かべ、条件や、損得、感情の満足・不満足など、様々な要素を混合し、時には誰かに相談したり、アドバイスを受けたりして、自分でいいと思う選択肢を実行したりします。

それでも、悩みの解決にならず、その巡りを、内面(思考と感情、つまり心の内)と、外面(相談したり、考えを実行したりする外部への働きかけ)にわたって繰り返すことになります。

ということは、「運命の輪」で言えば、この輪の中を、何回も何回も回り続けることをしているようなものと言えます。

何度も犬になり猿になり、回転を続けていくわけです。

すると、デジャヴのような、また同じことをしているなあとか、以前も似たようなことをやったなとか、私、いったい、何をしてるのだろうとか、ふと、不思議な感覚にとらわれる瞬間がやってきます。

犬でもなく猿でもなく、まさに我(自分自身)に返る瞬間とでもいいましょうか。

その時、ゆっくりと周囲を見渡すと、今まで見ていた景色が変わっているのに気づくことがあります。

もっと言うと、今まであせったり、悩みに集中し過ぎたりしていて、何も見ていなかったことに気づくわけです。言い方を換えれば、悩みや迷いという、ある種の想像空間に自分が閉じ込められていた、いや、自分を閉じ込めていたことに気がつく時がやってくるのです。

それは、例えば、「あれ、こんなところにこんな花が咲いていたんだ」とか、「ここにこんな店ができていたんだ」とか、鏡に映した自分の顔が「こんなだったんだ」と驚くこととか、ちょっとした気づきとか驚きの瞬間です。

輪を回り続け、いろいろなことを考え、試しているうちに、ついにはどれでもない、何もわからないという混乱のピークに来て、足を止める時がやってきます。

そして、回転していたのは周囲ではなく、自分であったことに気づきます。あるいは逆も言え、自分は何も動いていないというか、同じ場所にいるのに、周囲が回っているように思えていたから、混乱していたのだとわかる場合もあります。(これは相対的なもので、どちらも究極的には一緒のことです)

逆説的でわかりづらいかもしれませんが、つまり、回転し続けたことによって、自分の中心が、それこそ輪の軸の中心に集約してくるかのように定まってきたとも考えられるのです。

回転するものの中心はであり、中心点です。ここはいわゆるゼロポイントとなり、周囲の回転とは別の無の状態(中立の状態)にあります。言わば、台風の目のようなものです。

だからこそ、今まで回り続けていた輪の中とは違う感覚が現れ、出口のようなものに出会えるのです。

それが、今述べた「我に返る」ような現象であり、動くものが静止する瞬間(今まで見えていなかった景色に気づく時)です。

同じところを何度もループして通っているのは、怖いことでもあり、不安も増します。

それでも、もがき苦しみながらも、いろいろなことを考え、試し、万策尽きたかのように見えた時でも、そのあなたの努力、彷徨いは無駄ではなく、このように、輪の中心軸に導かれることがあり、その瞬間、ループからの出口が開きます。

まるで、回り道を何度も通ったからこそ出会える出口、正解の扉のようなものです。

ダイレクトに無駄なく、回答や正解を求めたい、落ち着きたい、解決したいという気持ちはわかります。また、そういうストレートに答えの出る方法や、効率のよい生き方もあるでしょうし、そのほうが時間的にも無駄がないかもしれません。

それでも、人は迷い、悩み、わざわざ遠回りのような形で、ある輪の中をループするかのごとく、回転し続けます。

しかし、それは永遠にループし続けることではないのです。回転しながら、自分を軸のほうに寄せていてくプロセスを自然にやっているとも言えるのです。

また回ってきたルート中に経験したことも、自分の糧や学びになっているものもあるでしょう。

そうやって考えてみると、迷っているようで、導きやナビゲートは(その時は自覚はないものの)実はあり、それはあらかじめ私たちに用意されているのだと思えます。

マルセイユタロットの大アルカナの数で見れば、「運命の輪」の前には「隠者」がいて、二枚を並べると、彼(「隠者」)がちゃんと指導しながら(見守りながら)、輪の中に招き入れているかのようにも見えます。

漫画やアニメ風に言うならば、とぼけた師匠によって、弟子を修行で鍛えさせるために、わざとループの輪の中に放り込むみたいな感じです。(笑)

今、輪の中でグルグルしている人も、必ず、出口はありますので、ピークまでやってみるか、ちょっと足を止めて、周囲を見渡してみるとよいでしょう。

混乱の中にある人でも、マルセイユタロットでいえば、「節制」の天使が、この階層(「運命の輪」を含む)には入り込めますので、救いの道も示されることでしょう。

ストーリーとしてそう信じることが、意外に大切でもあるのです。


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