タロットの「当たる」、「当たらない」

タロットをしておりますと、必ず「当たるのですか?」と聞かれます。この場合、なんとお答えしてよいのか、いつも悩みます。というのも、


タロットは「当たる」と言えば、ほぼ間違いなく「当たる」のですが、「当たらない」といえば、「当たらないもの」だからです。何を言っているのだ? と思われるのでしょうが、本当のことです。
まず、タロット(あくまで私の扱うタロットにおいて、です。)における「当たる」とは、こういうことではないかと私は考えています。タロットの特に大アルカナと呼ばれる22枚のカートには、様々な象徴がちりばめられている同時に、心の類型や元型と呼ぶべきある普遍的な「型」が内包されています。それは実は誰でも自分の内に持つものです。例えば「手品師」というカードには、新しいことや若々しさ、活発さ、器用さ・・・というような動的なイメージが出てきますが、そういう面は人間ならどこかに持っていることでしょう。それがどの場面や状態に発揮されるのかは、状況や人によって異なってくるだけです。相談される人の質問によってカードが展開され、そのカードに表されているものをリーダーが述べる時、その相談者の心にある「型」と、出たカードが持つ「型」とが一致する瞬間があります。その時、言われた人は、「当たった」「当たっている」と表現します。ですから、あえて否定的に見る場合、極論すればどんなカードが出ようが、カードに人間の普遍的な心の型というものが描かれているのなら、それを言えば、その人の心のどこかの部分に必ず合致するはずであり、そう考えるとタロットの展開に意味はなく、言われた本人がこじつけているだけであると思うこともできます。これはある面、見方によっては真実のことだと私も感じます。タロティストがタロット否定していいの? というような流れになってますが、まあ、少しお待ちください。否定しているわけではありませんので。
では、一方、「当たらない」とはどういうことでしょうか。タロットが心の元型を描いているのなら、当たらないはずがない、ということになるのですが、残念ながら、これは読み手、リーダーの問題となります。相談者にもたしかに普遍的な心の類型はあり、カードにもそれがあるのですが、一人の人間が意識してわかる「類型的なもの」は、実はとても少ないものです。意識が多くの層に分れていると仮定するのなら、非常に底のほうに眠っている意識層の類型には本人は気づいていないでしょう。ただ表面的な部分でしか、浮かんでは来ていないのです。そこでカードが示す類型を、リーダーが指摘したところで、それが相談者の意識の上に明瞭に出てきている類型ならば、「ああ、それです、当たっています」となるでしょうが、意識されていない深い部分での類型であった場合、リーダーの言うことはピントはずれのように聞こえ、「当たっていないなあ、違うなあ・・・」ということにもなるのではないかと考えられます。この何層にも分かれている人間の心理のうち、出たカードに照らし合わせて、相談者のどの部分とシンクロしているのかをつきとめないと、まるで「ピンボケで写真を写すようなリーディング」になってしまい、相談者からは、「当たらない」うえに「何を言っているのかわからない」とさえ、非難されることにもなります。ですから、相当な技量がタロティストには要求されるわけです。
結論からいえば、出たカードはすべて「当たっている」といえますし、「当たらない」のは、読み手と相談者の、本来一致させなければならない部分がずれてしまっている現象だと言えます。大きくは読み手であるリーダーの責任ですが、両者の関係作りも重要な要因であり、問題解決に向けて協力しあう雰囲気が形成されているかにも関わってきます。もちろん、それを導くのはリーダー側になりますが、最初から後ろ向きで、批判的な姿勢を続けていく相談者がいたとすれば、それも問題とはなります。また、リーダー側が「これを言えば、この相談者の核心部分にふれるだろう」と予想できても、それを受け入れる素地が相談者にできていない場合は、あえて言わないこともあります。
これまで述べてきたのは、タロットに描かれている類型や元型の話でしたが、それだけではない部分もタロットにはたくさんありますから、ここで書いている「当たる」「当たらない」理論は、ただ一面から照射しただけのものに過ぎないことに留意していただきたいと思います。また、いわゆる霊感的なものでの「当たる」「当たらない」の話もありますし、それはまた別問題で検討するべきこととなります。
さて、先述した「タロットの展開に意味はない」ということですが、これは決してそうではありません。なぜなら、実際にタロットを相談者の問題に応じて展開してみると、どう考えても偶然とは思えないその相談者の状況にピタリと符合するカードが出ることが多いからです。「いや、それはやっぱり偶然であって、統計をとり続けていくと、最終的には確率論の範囲に収束されていくだろう」という論理的な意見もあるとは思いますが、実際の感覚では、それを超越した神秘性を現に味わいます。なんだ、結局、「感覚」「感じ」かよ!。。。ということにはなりますが、この「感じ」というのは、タロットのような象徴言語を扱う際には、とても大切なものなので、どうしても言葉では説明しにくいものとなるのです。
でも、そういうことを一切無視したとしても、タロットには面白い効果があります。こじつけとして割り切って見た時、そこに展開されたカードを、一種の自分の「状況図」「再現画」としてとらえてみるのです。自分で絵を描いてもいいのですが、それは面倒でしょう。こうしてタロットカードを使って、自分の置かれた様子を、カードが再現していると見れば(「再現しているわけがない、偶然だ」と指摘される人でも結構ですよ)、少しは落ち着くことができるのではないでしょうか。その絵が必ずしもあなた自身を映していると信じられなくても、無理矢理でも当てはめていく作業をリーダーの人と共同で続けていくことで、心の整理がついてくることもあると思えるからです。人はあるきっかけがないと、なかなか自分を客観視することなど、しないものです。タロットは、一般の「占い」というイメージや、「当たる」「当たらない」だけのものではないということを少し、ご理解いただけたらと願うものです。

コメント

  1. さち より:

    いつもMIYAOKAさんの表現力には驚かされます。
    私はいつも、『そうそう!』と納得するばかりです(笑)
    当たる、当たらないは別として、カモワンの絵柄はしっかりと心を捉えているんだなぁ、と感じる事が続きました。
    先日のクライアントさんは、解決カードの17の女神をなでなでして帰られましたし、偶然とは思えないカードの並びを、ご自分への勇気付けとして写メールに撮って、待ち受けでいつでも見られるようにされた方もいらっしゃいます。
    これも、視覚を通して潜在意識にメッセージと癒しを与えているから起こる行動なんでしょうね。
    クライアントさんが、これで幸せをゲットしてくれたらいいなぁ、と思っています。

  2. miyaoka より:

    さちさん、いつもコメントありがとうございます。
    >先日のクライアントさんは、解決カードの17の女神を
    >なでなでして帰られましたし、偶然とは思えないカードの
    >並びを、ご自分への勇気付けとして写メールに撮って、
    >待ち受けでいつでも見られるようにされた方もいらっしゃい
    >ます。これも、視覚を通して潜在意識にメッセージと癒しを
    >与えているから起こる行動なんでしょうね。
    >クライアントさんが、これで幸せをゲットしてくれたら
    >いいなぁ、と思っています。
    すばらしいお話と分析ですね。実は私の経験でも、「17」の星のカードは、特に女性のクライアントの場合、このカードの絵柄を見るだけで癒され、涙される方も少なからずいらっしゃいます。おそらく、一番癒し効果の高いカードの一枚ではないかと考えられます。しかも、それは単なる「癒し」というより、もっと高いレベルの、ある種の浄化を伴う穏やかさと豊かさのものであり、内側からわき起こってくるような、多大であふれるようなエネルギーのような気がいたします。私自身も、カードの絵に大変助けられているところがあり、このカードの持つ絵の力をもっと探求したいと思いますし、それは確実に皆さんの中で、役に立つものになるのではないかという考えが、今起きているところです。

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