結果主義と過程重視について
人は思うに、「効率主義」と「非効率でもよいとする」大きなふたつの考えで生きているような気がします。
それは結果に重きを置くか、過程に重きを置くかの違いと言い換えてもよいかもしれません。
スポーツやビジネスの世界ではほとんど前者に価値が置かれます。
たとえば今のサッカーW杯で、予選を順調に勝ち抜いてきた優勝候補の国でも、負けてしまえば本国のサポーターから叩かれたりしますし、まったく売れない営業マンが、営業セールス術を話しても誰も耳を傾けはしないでしょう。
また誇張した話にはなりますが、「たとえ悪いことをしても見つからなければOK」だと思っている人、「人をだましてでもお金が儲かればいいんだ」という結果がすべてという人もいるでしょう。
これらのことを聞くと、皆さんはすぐに悪い部分を指摘することはできると思います。そう、あまりにも極端だから間違っているのだと。
ところが、これくらい極端であればすぐ理解できるのですが、普通はそうそう激しいコントラストがある場合は少なく、私たちの多くは結果主義と過程重視の微妙なその間で生きているといえます。
ですから、「今の自分はどちらの方向が正しいのか」と悩むことも生じるのです。
結局このことは、「自分にとって正しいものはひとつでしかない」という思いこみによる悩みだと考えられます。
「今の自分には結果を出すことが正しい」と思う心と、「いや、努力している過程も大切で結果はあとからついてくる」という心とで葛藤が起きており、その決着が現時点ではつかないので迷うことにもなっているのですね。
ですから「正しい」と思うのではなく、どちらも成長の要素では大切なものがあるし、両方を複合した考えを自分に認めていくことだと感じます。
以前にも書きましたが、 すべてのものはバランスが極端にどちかに傾き過ぎれば、自然に元に戻ろうとする力が働きます。振り子のようなものです。
従ってひとつのことに思い詰めると、反対側のことを求める心、その考えと正反対のものが出てくるのも自然の流れだといえます。
「正しいものにこだわらない」ことを先述しましたが、別に正しいと思って進んでも構いません。その時はそれなりの確信のような気持ちがあるからです。この「確信」的な強い気持ちが生じないうちは、迷いのままの行動となって、結果は難しいものになってくるでしょう。
けれども、その時は過程を重視すればよいのです。迷いながらでもひとつひとつこなしている自分、あるいは迷っているそのものの自分を見つめることに焦点を当てるのです。この時は結果にはこだわらないほうがよいでしょう。
皆さんにイメージしてほしいのは、らせんの動きです。
結果や過程という両極端の狭間で、右や左に行き戻りつしながら、結局同じような道を進みながらも、気がつけば以前より少し上の視点(あるいは下の実際的視点)に行き着いているのです。
立体的にらせん運動を想像してみれば、自分が以前とは異なる地点にいることが確認できるでしょう。
つまりはらせん運動によって、輪が何重にも広がっていき、人間としての幅が増えるということです。それこそが自己成長だともいえるのかもしれません。
ただ、悩み迷って何もしないまま、あるいは何も意識せずにただ流されるだけの生き方をしていると、自分自身をある心の地点に縛り付けていることと同じになります。それではらせんの動きにはなりません。
自然の反動が起こるとはいえ、それではただの左右運動に終始するおそれがあります。
悩むことには価値があります。しかしだからといってある考えに固執したり、反対に思考や知性、自己省察などを無視して、ただ感情の心地よさのみに生きることは、とても怖いことだと私は思います。
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