嫌な人間や状況に出会って考えてみること。
職場でもプライベートでも、おそらくほとんどの人は「ちょっとむかつく」という人(あるいは出来事)に出会った経験があるでしょう。
「ちょっとどころか、いつもその人に悩まされていますよ!」という声も聞こえてきそうですが・・・
それでそのいらだちから意識の転換を図るために、よくこういうことも聞かされたと思います。
いわく「嫌だと思う人は、実はあなたにとって成長の糧となる人」だと。
ですから、今更そのことを私がお話しても、「またかよ」と感じてしまうかもしれませんね。
けれども、私は全員が全員、出会った人で嫌だと感じる人間は、自分のためになる人(自分が原因であること)だとは考えていません。
明らかに自分には非はなく、相手に問題があることもあると思います。これを前世からの因縁などと言って、深く考えていたらキリがありませんし、場合によっては自分を責めることばかりにもなりかねないからです。
けれども、例えばヒューレン博士式の「ホ・オポノポノ」では、嫌だと感じたり、見たりする原因は自分の中の記憶(先祖から続く記憶も含めての膨大なもの)にあるので、その記憶を消去すればよいという考え方もあります。
それを適用すると、目の前の嫌な出来事も自分個人の人格的な責任ではなく、自分の中に関係する「記憶」に要因があるのだということで、その再生と消去に別の意味での自己責任があるということになりますから、自分自身を責めることにはつながらなくなります。
またカルマや縁起的(縁によって発生)な考え方においても、その嫌なことというのは、たとえ過去の自分に原因があったとしても、ほかの多くの人や出来事(過去も含む)との関連によって、まるで絡まった糸のように起こってきたことなので、原因をすべて自分に帰すことはやり過ぎの面もあるのではないかと推測できます。
さて、それはそれとしまして、いろいろと考え方はあるものの、やはり自分にとって嫌な人間というのは刺激になっていることは確かです。
この刺激が悪い意味での刺激である(と、とらえてしまう)から嫌なのであって、よい刺激のこともあるのだと思えば、幾分思い(心)の負担は軽くなります。
ところでタロットカードには「太陽」というカードがあります。このカードには仲の良さそうな二人の人物が太陽の下で、手を取り合って喜んでいる姿が描かれています。(カモワン版マルセイユタロットの場合)
バランスがとれている時は二人の関係も励まし合って、お互いを高め合うよい状態だといえますが、仲が良すぎてしまうとこれまた問題になります。
いわゆる内輪的発想、かばい合い、マンネリのような事態を生み出すのです。
人には常に居心地のよい状態を保とうとする働きがあります。
従って人間関係でも、「もうわかりあった」という仲の良い、馬の合う仲間達の間で固まろうとしがちなのです。
それはそれで楽しい時間が過ごせていいのですが、行きすぎると先述したような内輪ボケみたいなことになってしまい、考え方も固定したもので止まることが多くなります。
そのためかどうか、神様は本当によくしたもので、嫌な人間や状況をあなたに出会わそうとするのですね。
異質なものは確実に刺激になります。それは異質すぎて受け入れられず、不快な気分をあなたにもたらせます。
しかし、そのことが受容できた時、あなたはの旧来の枠は壊れ、新たな価値観の世界に参入します。
今までの自分を壊すには、異質な存在によって無理矢理にでも意識せざるを得ない状況が最大に効果的なのでしょう。
嫌な人間や出来事を無視したり、避けたりするのも自由です。全部受け入れる必要性もないのは、先述した通りです(現時点の私の考えですが)。
けれども、自分を拡大し、成長するための神の恩寵ととらえれば、また違った観点からそれらを見ることもできます。
タロットカードの「太陽」、そして「太陽」と象徴的に関連のある「神の家」はこういうことも示していると私は感じています。
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