まじめタイプと自由タイプ。
長男(長女)・次男(次女)タイプといいますか、漫画やドラマなんかでも、誠実でまじめなAさんと、その友人でちょっと型破りで自由人というような図式はよくありますよね。まあ、秀才タイプと天才タイプみたいなパターンともいえます。
で、たいてい、まじめなタイプの人はいつも完璧だったのが、ここ一番で失敗をおかしたり、実は暗いネガティブな問題を抱えていたりしますし、一方の自由タイプの人は、普段はいい加減なのに、裏側では結構まじめで努力家という面をもっていたりしますよね。
もうひとつおまけに、この両者がともに同じ好きな異性がいて・・・で、最初はともかく、結局好き合うのは後者の自由人タイプの人という結末がお約束(笑)みたいになっています。
女性側のストーリーだと、何でもできる女性的で優秀な人より、欠点だらけでドジだけど明るくがんばる女の子がイケメン・ハンサムくんから愛されるというお決まりの王道でしょうか。(笑)
まあ、これらは何を示しているのかといいますと、人間、欠点を最初から見せていたほうが魅力的にみえる(ある意味、楽である)ということですね。
普段からまじめで完璧主義を押し通していますと、ほんのささいな間違いや失敗(と自分で思うもの)をやらかすだけで「えー、あの人が、信じられない!」とか、自分でも「こんなはずでは・・・!」と失敗の事実以上に悪い方に拡大解釈(印象の拡大化が)されてしまうのですね。
逆の場合は、「まあ、あいつのことだから・・・」と失敗しても笑ってすませてもらえますし、反対にちょっといいことをすれば普通以上に評価されることもあるわけです。
理不尽ですよねぇ。。。実は私もこういう物語を見ながら、自由タイプの主人公の活躍よりも、まじめタイプの悲哀をいつも感じていました。まあ、私がまじめタイプだからにほかなりませんが。(^_^;)
期待を背負って一生懸命がんばっているのに、天才タイプにはかなわないし、時には好きな人にふられたりもする悲しい役回りですよね。
そうかと思うと、やたら根性と努力(そして友情)で天才を超えていくというスポ根的な物語も日本には多くあります。
タロットでいえば「愚者」が自由人タイプで「正義」がまじめタイプ、そしてもともとの天才や、カリスマ的な存在は「悪魔」といえるでしょう。
日本で自由タイプとまじめタイプが比較されて、自由タイプが魅力的に主人公として描かれるのは、心の奥底で皆、自由タイプを欲しているからだと考えられます。つまり逆にいうと、まじめタイプで生きている人が多いということです。
また努力・根性もので成功していく物語も、これの裏返しといいますか、根は同じといえます。ようするにもともとの才能よりも、特段優れているわけでもない一般人でも、努力すればやれるのだということであり、まじめタイプを評価したいのです。
人は確かにある程度のタイプや個性は明確に出るものではありますが、もっとつきつめれぱ実は誰しも「自由タイプ」と「まじめタイプ」は一人の中にもっているものといえます。
環境や生育、生まれた時から持つ資質によって、自分の中の「ある特徴」が色濃くは出ますが、決して他のタイプがないというわけではありません。
それがタロットでいう大アルカナ22枚の元型です。
先の例でいえば、「愚者」も「正義」もあなたの中に存在しているわけです。
とかく「愚者」が人々のあこがれとして評価されがちですが、それは多くの人が正義的なことをよしとしている社会や生き方になじんでいるからです。そうでなければ混沌とした社会になってしまうこともあります。
どちらがよくてどちらが悪いというものでもないのです。
「正義」の人はそれが強すぎると、一時的には社会から評価を与えられますが、自分自身を生きるのにはいずれ苦しくなってきます。
反対に「愚者」が強い生き方をすれば、社会からは一般的に排除されがちですが、時としてものすごい評価を受けたり、革新者として悪魔のようなカリスマとしてもてはやされることもあります。
大切なのは自分の中の「正義」や「愚者」を見ていくことです。「正義」の人にも「愚者」います。それは社会と離れた関係の際に立ち現れてきます。
たとえば環境の変化、病、恋愛、留学、旅、自分一人になった時などの危機や変動、それまでの日常から離された時空に投げ込まれた時です。
こういう状況はチャンスです。「正義」のあなたにも「愚者」がいることを認められるからです。
ただあなたに長年貢献してきている「正義」のペルソナ(個性)も、それはそれでとてもよい「やつ」なのです。あなたと社会をつなぎ、他人からの評価を得るために、いわばあなたを守護してきたともいえます。
けれども、それが強すぎて、ほかのあなたの個性を正義の剣で殺してしまっていないか確認してみましょう。
そして誰かの評価を受けるための正義ではなく、自分のための正義として今度は転換していくことをお勧めします。
何も完全に「愚者」タイプになる必要もないですし、「正義」をやめることもないのです。すべては自分の中にあり、バランスよく、ほかの部分も認識して登場させながら、自分自身の統合を再度図っていくことに価値があるといえます。
そのためにタロットがあると言っても過言ではないでしょう。
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