カードからの気づき
独立、自立、依存、調和した関係性
世間では、一般的に自立することが求められます。
自立や独立を象徴するようなカードは、マルセイユタロットにおいてもあります。
特に、「皇帝」とか「戦車」などのカードは特徴的かもしれませんし、名前から誤解されがちですが、「悪魔」も一種の強烈な独立性・自立性を表している言えましょう。また、高度で霊的な自立の意味では、「神の家」もあげられます。
ただ一方でカードは、複数以上の人物や動物たちが描かれていたり、単独の人物でも、絵の内容をよく見ると、持ち物など、ふたつのもの、三つのもの、四つのものが描写されたりしているように、図像の中に複合性が見られます。
ところで人は、厳密な意味で誰も一人だけでは生きていけず、この現実世界では、何億もの人で構成され、それぞれが個性を持ち、役割をもっていると考えられます。
マルセイユタロットにおいても、その最終到達地(人間の総合的完成境地、すなわち宇宙とも表現できます)と言える「世界」のカードでさえも、四つの生き物に囲まれ、真ん中の人物も、何か手に持っているのです。
これは結局、人間が現実レベルにおいても、霊的レベルのような高次の状態へシフトしていったとしても、多くの何かに支えられ、また自らが支え、すべては関係や協同性において構成されているのではないかという暗示のようにも思えてきます。
私たちが肉体をもって現実世界で生きているとしても、真の意味で単独の独立・自立はあり得ず、自分は一人で生きていると思っていても、ほかの人間、生き物、モノなどと必ず関係していて、“独立風”の様相を見せている(思い込んでいる)だけに過ぎないと言えます。
では自立・独立は幻想なのか、必要ないのかと言えば、そうでもないのがこの現実次元の話です。
いつまでも親や人に頼って生きていれば、皆が幼児になって、社会が成り立ちません。そうならないよう、人はやはり、ある程度の独立・自立を果たすようプログラムされているとも考えられます。
それは別の言葉で言えば「成長」で、経験・知識の習得と拡大とも言えます。
ですが、先程言ったように、本当は関係性(支え・支えられ)によって、自立や独立が生まれているので、それは意識する必要もあるでしょう。
そうしないと、傲慢・尊大(万能主義)になったり、反対に依存の激しい人物となってしまったりするからです。
自分は自分として自我をきちんと確立させながら、できることとできないことは分別し、自他の役割を応分に、適切に遂行して行けるのが理想でしょう。
人によっては、他人を頼ったり、信用したりすることをしなくなり、信じられるのは自分自身のみとなって、何でも一人でやろうとしてしまう方がいます。
これは適切な関係性が周囲とできていないからで、究極的には自分自身との関係に問題があり、自分を信頼しているようでしていない、自らへの欠乏感・不信感から出ているとも言えますが、とにかく、よい意味での依存ができないのがこういうタイプの人となります。
この場合、自分が今自分として存在しているのは、あらゆる関係性によって形成れさている(成り立っている)ということが無視されています。
仏教的には、存在は縁起(縁によって起きているもの)に表される(結ばれる関係性によって、その場の「ある」存在・役割として確定する)というのと似ています。
自分しか信用していないと、いつも万能でなければならないと必死で生きることになり、人に弱さ見せられなくなります。
ですが、ずっと緊張して無理をしていますので、どこかで限界が生じて、人にさらしたくない姿を見せるようなことにもなります。
あるいは、人に裏切られたり、横領されたり、仕事のできない人が周りにいたりで、それは自分の信じていること(人は信用できない、自分しか頼れない)が外に表現されているわけで、言わば、自分で起こしているようなものなのです。
一方、共依存的に、特別な人とか何か(宗教組織、特別なモノなど)に互いに依存し合っていると、この関係性のみ強固になり過ぎ、ほかの関係性が希薄になったり、依存している関係を邪魔すると誤解して、他の関係を攻撃、切ろうとしたりします。
これはかなりいびつなことであり、強い依存なので麻薬のようなもので、これがないと生きていけなくなってしまいます。
マルセイユタロットの「節制」は、救済を表すカードで、天使姿の人物が描かれていますが、その手にはふたつの壺があります。
このカードは、マルセイユタロットのシステムの中では、バランスを示す「正義」のカードと関連性があり、両方から考えますと、まさに救済には関係性のバランスが重要であることが示唆されています。
先述したように、私たちは、誰も単独で自立や独立ができなく、実は多くの関係性のもとで立つことができているわけです。
その関係性を尊びつつ(自立を助けてもらっていることを意識しつつ)も、特定のいびつな関係性には注意し、自らの意思で、自然な形で、いろいろな人、モノとの関係性を結び、助け、助けられしながら自立・独立していくのが、本来の調和する道なのだと考えます。(調和と言えば、マルセイユタロット「星」のカードとも関係し、「星」は流す(与える)ことのできるカードです)
以前、「杖を持つこと」をタロットカードに杖が描かれている人物などからお話しましたが、杖を持って歩くこともまた、関係性を適切に扱うことと同意だと思います。
簡単に言えば、頼って、頼られてが、人として、この現実世界としての当たり前の生き方なのだということです。
ただ、その頼り方・頼られ方が不自然や不調和にならないよう注意しましょうというわけです。
不自然になってしまうのも、つまるところ、自分軸がしっかり確立されていないから、言い換えれば、自分自身との関係性が滞っているからと言えます。
無理矢理な自分、よく見せようとする自分、本当はできない・したくないのに不自然に続けている自分など、自分の正直な気持ちと向き合い、自らの内と相談しながら、少しずつ、自分がどうありたいかを取り戻し、素直なトータルな自分へと還元していくと、必死で得よう、保とう、失わせまいと、物事をコントロールする苦しい生き方から、必要な時に必要なものが現れる関係性の生き方へと、自分の人生が組み替えられていくことと思います。
マルセイユタロットの大アルカナを見ていると、その道が示されているように私は感じるのです。
あいまいになる境界 分離と統合
マルセイユタロットの大アルカナは、その数の進展によって、分離から統合、一元に進化(還帰)する道を示していると、一説では言われます。
ただ、きちんと一枚一枚のカードの象徴性の説明を受けないと、その深いところはわかりません。
事実、絵柄だけを単純に見ても、数の多いカードほど、人物とか動物が多くなるように見え、一元的な印象が逆に薄いように感じるかもしれません。
それにはからくりがありますし、ある部分、中世から近世にかけての西洋絵画のルールに基づいていることもあり、知識がないと本当の意味はわからないところが結構あります。
それはそれとして、マルセイユタロットは大アルカナの場合、シンプルに言えば、ひとつになること、ひとつに戻ることを示唆した道順であるならば、逆に今の(通常の)私たちの世界や次元は、あらゆるものが分かれているように見え、だからこそ、すべてのものは、(厳密に見て)違っており、一人一人の人間も、その性格から身体に至るまで異なっているように感じられます。
こういった差異・区別は、時として整理や物事の分析、把握に役立ち、それゆえ、物理的・科学的な客観性においての進化・発展もなされると考えられます。
反対に一元化、皆同じのような世界次元であると、いわば停止したようなものであり(しかしそこに、可能性も含めてのすべてはあり、完全性の象徴とも言えます)、違いがないので落差、反発、引力もなく、まるで運動や流れのようなものがないかのように想像できます。
だからこそ、スピリチュアル的な考えにはなりますが、まるで宇宙が呼吸しているように、全体性と個別性、言い換えれば、一元的な意識と分離した意識の世界が交互に繰り返され、大きな位置から見れば破壊と再生(創造)、停止と活動みたいな循環で、私たちが関わる宇宙も含めて、全体が拡大、あるいは深化しているのだと思われます。
また、このようなシステムや循環性は、入れ子構造のようにもなっていて、大きな範疇から一人一人の些細なことまで、同じ構造で貫かれ、そして違うもの同士は、互いにそれそれの要素が内包されているというエックス状の構造にもなっているのだと推測されます。
これが具体ではなく、象徴(本質的に同じもの)として解釈可能な根拠であり、タロットも象徴性の道具ですから、個別から全体までのつながり、仕組みをカードで検証できるわけです。
さて、今、世間では熊の出没と人的被害で話題になっています。そして、少し前からインバウンドで、外国の方が日本に多く来られ、いろいなトラブルも起こっています。
これらは一見すると、個別・具体的にはまるで関連がないように思えますが、先程述べた象徴的に考えますと、似たようなことが起きているとも言えます。
それは今まで自分たちの範疇だったところに、外側から異なるものが侵入し、被害を被っている(ように受ける側では感じる)という状態です。
ふたつとも、これまで(侵入される側が)想定していた境界線を突破され、その境界自体があいまいになってきたということでもあります。
こうなる以前は、まるで漫画・アニメの「進撃の巨人」ではないですが、塀に囲まれていた中(塀はありませんが)で、自分たちは安心して暮らしていたわけです。
この塀こそが、自分たちの脳内に想定していた境界線であり、自分と他を区別するもの、もっと言えば分離させているものと言えましょう。
それが壊されているということは、この分離状態の見直しが、少なくとも日本全体で起こっていることでもあります。
厳格な境界が壊れることは、悪いように思いますが、見方を変えれば一元(ひとつ)になろうとする方向性でもあり、全体性で見ますと、やはり分離から統合・一元へと、地球全体が進んでいるように見えます。
ただ、だからと言って、個別の問題、熊被害や外国人来訪によるトラブルを見過ごせというわけではありません。
スピリチュアルに偏る人に時にありますが、統合やひとつの世界を一足飛びに、いきなり実現しようとしたり、「すでにひとつだから、それに気づくだけで問題はなくなる」とか言ったりする人がいます。
しかし、物事には順序や段階があります。
それぞれの違いを無視して、十把一絡げにまとめようとしても、そこに問題が噴出するばかりです。
これまでの境界があいまいになってきた、それは一元化の流れの中の出来事ではあっても、理想の前に、ひとつひとつクリアーして、段階的に統合に向かう必要があるということです。
だから、熊問題も、これまでの住み分けではない、新たな分け方(大きな統合の前には、何度も細かく再構築した分離段階があるのです)が必要となるでしょうし、外国人問題も法律やルールを変えないとならない場合もあるでしょう。
言えるのは、これまでと同じ認識や方法では、余計に分離(意識的にも)が進み、動物をただ殺せばいい、外国人は追い払えと、時代錯誤的な思考に固まってしまいます。
求められるのは、統合を踏まえた新たな分離段階です。
それには全体的な視点と視野がいるでしょう。宇宙・地球規模をも意識しつつ、日本全体の視野でもって、これらの問題の方策を練らないと本当の意味での解決や進展はしません。
事例として、熊と外国人問題について言及しましたが、これは、それだけにはとどまらないはずです。
私たちそれぞれの個別領域においても、おそらく内外の境界線が崩れていく問題は出て来るでしょう。
それらが、私たちの意識を変化(向上)させるために起きていることは明白です。
一部だけを見ていては、ただ排斥するか、逃げるか、見なかったことにするかでごまかし、自分にとって都合の悪いこととして嫌悪感しか出ないでしょう。
しかし全体的な見方では、悪いことだとは言い切れず、むしろ(自分にも他人にも)進化発展のために起きていることでもあると、認識できるようになります。(嫌なことは我慢しろと言っているのではないので注意です。レベルによっては、問題を具体的・現実的に解決していく次元と分野もあります)
そして、全体的な視野のためには、物事の本質、構造を見極める必要があり、それは象徴として表せることが多いので、マルセイユタロットが使えるというわけです。
杖を持って歩く
マルセイユタロットで大アルカナと呼ばれる22枚のカードのうち、手に何かを持っている人物が見られます。
その数は多いと言えるかもしれません。
つまりは、タロットの絵柄では、何らかの道具を持つことが結構示唆されているわけです。
その中でも、やはり棒のようなものがよく見受けられます。
これは、タロット的にはそのまま「棒」ということもありますが、メジャーな言葉では英語的に「ワンド」と呼称されることが多いです。
そう、結局、小アルカナのパートを入れて構成されるのが「タロット」なのですから、小アルカナ的要素、日本語では剣・杯・杖・玉と私たちマルセイユタロット界隈では訳し、一般的には英語としてソード・カップ・ワンド・コインとそのままで呼ぶ、いわゆる4組の組(スート)のひとつ、杖・ワンドと関係していると見ることができます。
ただし、厳密に言えば、英語においても、そして日本語訳においても、「杖」的なものの種類は異なります。
必ずしも「ワンド」が「杖」を指すのではないのです。
むしろ、「ワンド」というのは、魔法使いの魔法道具のようなもの、まさに魔法の杖であり、日常的にはほぼ見ない杖です。(「杖」にはステッキとかロッドとかメイスとかセプターとか、いろいろあります)
大アルカナと小アルカナの関係で言えば、先述したように、大アルカナで出てくる杖も「ワンド」と呼べるかもしれませんが、大アルカナの絵柄をよく見ると、「ワンド」だけではない杖の形も描かれています。
ここではあくまでマルセイユタロットの絵柄で言いますが、例えば、「愚者」「女帝」「皇帝」「法皇」「戦車」「隠者、」「13」「悪魔」と、多くのカードが、パッと見だけでも、魔法使いの杖「ワンド」ではないことがわかります。
厳密にワンドと呼べるのは、「手品師」と「世界」だけかもしれません。
当然ながら、この二枚がワンドになっている意味があるのですが、それはここでは言及しません。
今回言いたいのは、タロットの杖は、一般的には「ワンド」と呼ばれはしますが、実際にはカードごとに違いがあり、その形、その杖の意味での象徴性を理解しましょうということがひとつです。
そして、もうひとつは、ワンドというより、日本語的な「杖」という意味で見ていくと、タロットは私たちに、杖を持って進んで行くこと、その必要性が場合によってはあることを示しているのではないかということです。
マルセイユタロットの大アルカナは、全体をもって、言わば人間の完成を表すとされています。
とすれば、杖を持つことは、人として当然のこともあるわけで、その成長、完成のためには、杖の助けとか意味が強調され、必要とされることがあるのだと解釈できます。
それには、一枚一枚のそれぞの杖を持つカードの意味を理解することだと言えるのですが、非常にシンプルで、しかしあまり普段は意識しないことで言いますと、「歩く(進む)には、杖がいる」または「杖があっても(持っても)いい」ことを述べたいです。
杖は補助であり、助けであり、自分の力を分散したり、逆に集中させたりしてくれます。
これは道具でもありますが、象徴的に言えば「自分を助けてくれる人や事柄」も表すと言えます。
若い人でも、たとえば 登山などでは杖は必要ですし、年老いたのなら尚更、普段使いにも入用になります。
かっこ悪いからと言って用いないと、大変なことになる場合もありますし、逆に、やたらと杖を不必要なくらい持ち歩き、石橋を叩いて渡り過ぎるような、過度の心配、不安、依存も問題でしょう。いつまでも杖がないと歩けないようでは、独り立ちもできません。
ですから、タロットで、もし杖を持つカードがよく出ている時は、その象徴性に着目し、自分(あるいはクライアント)が、杖を必要としているのか、反対に杖に頼り過ぎていないか、その出方や位置によって判断することで、当人のあり方、これからの行動の仕方も見えてきます。
よくあるのは、真逆になっているケースです。
今は杖が必要なのに杖を捨ててしまっている人、杖はいらないと思い込み、すべて一人で背負い頑張り過ぎている人、逆に、もう杖はいらないのに、幻の杖を頑なに握りしめて離そうとしない人、いつかそれこそ魔法の杖を自分が手にして、成功や勝利を手にしたり、今の問題をあっという間に解決してくれたりすると思っている人です。
あなたは杖を堂々と持っていいという人もいますし、あなたの思うような杖はないですよ、杖がなくても、もう歩けるはずです、という人もいるのです。
とはいえ、新しい段階、未知なるところへ進む時は、杖は必要なことがあります。だからこそ、杖を持つカードは多いわけです。
杖を持つことは恥ではありません。それどころか、杖とともに歩くのが、タロットが示す王道と言えるのです。
反転する人生、心の解放
マルセイユタロットの表す道というのは、スピリチュアル的に言えば、宇宙や大自然へと戻る一元化の過程という感じでしょうか。
しかし、それではあまりに抽象的で、つかみどころのない話となります。
従って、もう少しレベルや次元を下げて、自分の心の中、内側の世界として、現実的には心理ベースで見ていくとわかりやすいかもしれません。
心理ベースであっても、内が外に反映している(言い換えれば、自分の心が外側の世界を創り出すかのような仕組みになっている)霊的なレベルにも気づくようになってきますので、結果的に行き着くところは同じと言えます。
いきなり霊とか魂、スピリチュアルという世界観に抵抗のある人は、まずは自分の心の探求(これは相対的には他人の心にもなります)において、(マルセイユ)タロットを扱っていくとよいと思います。
それで、たとえ心理的な観点からであっても、やはり、タロットの表す道というのは最初に述べたことと同じで、これを心理次元に下げて解釈すれば、すなわち自らの「心の解放」という表現になるでしょう。
それは、心も自然体に戻ることと同意儀です。
とはいえ、人間、大人になって行く過程で社会性を持つほど、自制していくようになります。それは当然のことで、ある意味、心の成長と言えます。
いつまでも子供の心のままでは社会に適応していくことはできず、人に迷惑をかけて、必要以上に誰かの世話になることになります。
ただ、自分を律するあまり、本当はしなくてもいいことまでやってしまい、自分を知らず知らず追い込んでいることが多いものです。
いつしか、心から楽しむこともできず、しかし刺激を求めて、あたかも成長しているかのような幻想に囚われて、資本主義経済の発達した今の世の中で、お金や地位、名誉を中心とした成功、または反対にそれらをあきらめて、身の丈人生みたいな惰性的な生き方をしてしまう人が増えます。
そうした中で、それでも人間は欲求が出るものですから、自分の望み・欲求をかなえよう、また、不快にならないよう、過程と結果をコントロールしようとやっきになります。
意外にまじめな人や完璧主義である人ほど、物事を(自分の思い通りになるよう)コントロールしようとします。
それは結果によって自分の評価が決まると思っているところが大きいのと、人によっては敏感過ぎるがゆえに、傷つくことを恐れ、その(恐れた)結果にならないよう、必死で事態を最初からコントロールするわけです。
ですが、自然や宇宙は人にコントロールされるほど、軽い存在ではありません。むしろ逆で、人自体がそれらからコントロールされている(存在)と言ったほうが正しいかもしれません。
なのに、人は自分では制御不可能なものに向かって、愚かにも立ち向かっていこうとします。まさにドン・キホーテです。
これをしていると、莫大なエネルギーを無駄に注ぐことになり、疲れるのも当然で、しかもコントロールしようとした(よい結果になるよう頑張った)のに、結果は悪かったということもよくあるため、費やしたエネルギーの分、ショック度も大きいのです。
これが人生を不幸に思わせている要因のひとつでもあります。
マルセイユタロットに戻ると、特に大アルカナの絵柄は、ずっと二元の分離を統合・融合していく世界観を示しています。
よく見ると、絵柄のすべては、人物がコントロールしているようで、コントロールしていないことに気づくでしょう。
例えば正義とか節制、力、戦車、悪魔のようなカードがあり、それらは一見すると、何か人や動物、規則などをコントロールしているように見えるかもしれません。
しかし、カードの象徴的意味を理解していくと、決してそうではないことがわかってきます。もし束縛するようなことがあったとしても、それは解放のための仕掛けとしてとらえられるのです。
マルセイユタロットが表すのは、心理的には心の解放であり、サイキック的には自然サイクルとの調和への働き、霊的には宇宙や自然への大回帰と言えます。それらはすべて、分離から統合が鍵となります。
コントロールするということは、天地(神と人、宇宙と人間、天上と地上、男性性と女性性など)の分離が激しい状態を示します。
分かれているからコントロールしたくなるという、まるで禅問答のような話です。自分と一体だったら、コントロールも何もいらないわけですから。
しかしながら、人は逆のことを経験しないと、その反対のこともわかりませんから、束縛、分離を経験することも必要です。
むしろ若い頃は、そうした経験を味わう時期と言えるかもしれません。
そして、人生の頃合いで、反転転移し、それまで不自由だった人生から自由な人生へと変わって行くことになります。不自由を知ったからこそ、本当の自由の意味がわかるからです。
本当の愛を知りたいと思う人は、逆の愛のない世界、愛されない環境や裏切り、人間関係不全の場所などを経験するでしょう。
ところが、本来は反転して本当のことを味わっていく人生の時期を見失い、錯覚のまま、仮の牢獄経験が本当の世界だと思って、そのまま抵抗や戦い、失望のままで最期を迎えるのが普通になってきているのが現代人です。
苦しい、空しい、生きていて意味があるのか・・・など、究極的に思わされた時、それはあなたが(本当に味わいたかったことに生きる人生に)反転するチャンスに来ていると言えるのです。
マルセイユタロットはそのことも示すでしょう。
動きたくない、変化したくないと思う時に。
今は世の中の変化も激しく、自分も変わらなければ…と思う人も少なくないでしょう。
また、とにかく行動することがよく言われ、何もしない、できない自分を責めている人もいるかもしれません。
しかし、マルセイユタロットで考えると、動きたくない時、変化できない時は、それはそれで意味があると言えます。
ただ、その意味合いも、よい意味と悪い意味の両方はありますが。
マルセイユタロットで動きのないカードと言えば、大アルカナナンバー12の「吊るし」が代表的でしょう。
このカードは、逆さに吊られている(吊らされている)と見る向きもありますが、マルセイユタロット的には、吊らされているのではなく、むしろ能動的に(カードの人物は)自らこの姿勢を取っている、つまりは逆さになって吊っていると解釈します。(諸説あります)
動きがないので一見消極的に見えますが、自分からこのスタイルを取っているとなると、あえてこういう状態をよしと見ているわけで、見方を変えると(動かないことを)積極的に選択をしていると言えます。
またこのことは、私たちに、動かないことの重要性を語っているとも思えます。
先ほど、動きたくない時、変化できない時は(よい意味と悪い意味の)理由があると言いました。
それはまさに、何もしたくないわけで、動くことに問題があるから、そうさせられていると見ることもできます。
例えば、心理的・体力的にエネルギーも不足し、活動する力が失われている時、当然ながら回復のために休む必要があります。
精神や体のほうがもう動けないと言っているのに、自分の意識だけが無理から動こうとしているわけです。
立ち止まってステイしなければならないから、動きたくないと感じさせられていることもあるのです。
ところが、自分でも自らの状態に気づけず、がむしゃらに動くことをしてしまっているケースもあります。
これはそうしない(何かしていない)と自分が認められないとか、悪くなると思い込んでいる場合が多いです。何もしない自分、何も残していない自分は人から評価されないと信じているわけですね。止まったら死ぬ(と思いこんでいる)サメのような状態です。
さらには、静かに自分と向き合うと怖くなるから、あえて忙しくしている、無意識に動き回るように自分を仕向けていることもあります。
ほかに、怠けていては怒られるとか、働かざる者は食うべからずとか、いつの間にか自分の信念や信条(心情にもなる)として持ってしまっているケースもあると言えます。
こうなってしまう大きな理由のひとつには、自分に欠乏感が大きくあることがあげられます。
これに関連することが多いですが、自分の成果が出ないのは行動しないからと信じ込まされている場合もあります。
もちろん、それはある意味事実のところもあるのですが、問題は行動する動機なのです。
不安や恐怖、あるいは義務から行動することをしている場合、結局、たとえ成果が出たとしても、またぞろ不安が出てきて、そこからさらに行動に駆られるという、まるでラットレースのような悪循環に陥ってしまいます。
常に自分は新しくあらねばならないというのも、つまりは、新しくないと自分はダメだという固定観念があり、そのためずっと緊張し続けることになり、やがて新しくしていないと自分は置いて行かれる、失敗し続ける、評価されない、最終的にはみじめに孤独になって死ぬ…みたいな錯覚の連想が働いて、ずつと恐怖に追い立てられることになります。
心配しなくても、宇宙や全体は変化するのが常ですから、変わらなければならない時は、それに自然と導かれるようになります。
むしろ、無理な固定と変化(自然に反する利己的なもの)は、自然のルールからはずれますので、問題が生じるのが必然と言えましょう。
ということで考えますと、あなたが動きたくない、変化したくないというのには、きちんと理由があり、それは自然なことなのです。
しかし、それが自然のルールに反したこだわりによるものだとすると、いずれ強制的に動かされ、変化させられるのです。
そうではない、本当に必要となる停止(動きたくない・変化したくない)は自然なものなので、それでいいということです。
あと、動きたくない、変化したくない理由には、そうしたほうが今の自分にはメリットがあるからというのがあります。
少しでも変化しないほうに、自分のメリットがデメリットよりも上回っていたら、変化しないほうを選択するのは当然となります。
人によってこのメリットは様々ですから、自分自身で考えてみるとよいでしょう。
単に動かない、変化しないほうが楽だからというだけではないのです。
例えば、もし変わる選択をして、たとえそれがいわゆる成功や願望が叶った状態にあったとしても、その成功によって反対に抱えるデメリットを今のあなたは潜在的には想像していて、そのほうが強いからというのがあります。
ところで、マルセイユタロットの「吊るし」は「世界」のカードと実はよく似ています。数の上でも、12と21で、アラビア数字的には入れ替えにもなっています。
もちろん違いもあるのですが、この似た構造は、言ってみれば「吊るし」と「世界」が呼応する関係であることを示しています。
端的に言えば、「吊るし」の内的世界が、外側の外的世界を創っている(自分を取り囲ませている)という構造になります。
まさに、外の世界が中のものを映している状態とも言えますし、宇宙全体が個人の中の世界とリンクし、個人も全体・自然の流れに即するようになっているものと見られます。
「吊るし」が逆さであるのも、本質を理解するには、反転した見方も必要であることが示唆されていると考えられます。
「吊るし」と「世界」の関係を見れば、自分自身の変化・行動についても、勝手に個人一人一人で生じているわけではなく、全体と関係・連動して在り、それぞれのタイミングや理由も、偶然とかたまたまではなく、きちんとした法則のもとに思わされていることがわかるのです。
