カードからの気づき

裁くのは誰か。

タロットカードに「正義」という名前のカードがあります。


「正義」の絵柄の人物はまるで裁判官のようであり、西洋のカードなのに、東洋的な「閻魔大王」を思わせる姿をしています。


幸い、まだ閻魔大王より心持ち穏やかで(笑)、女性だという違いがあります。


地獄の裁判官として君臨する閻魔大王は、私たちの生前の罪を裁くといわれていますが、このタロットカードの「正義」も、カモワン流の解釈では、ある霊的な世界への参入に際して裁きを下すとされています。


死後か、あるいは生きながらか、そのどちらにしても、ある霊的な特殊な世界へ入るためには、どうやら何らかの裁きを受けないといけないようです。


しかし、その裁判をする者は、本当に閻魔大王のような別存在なのでしょうか。


確かに客観的という点では、自分以外のものが判定に関わるほうが公正でしょう。けれどもこう考えてみても面白いものです。


それは結局、自分自身が裁くのではないかということです。


カモワン版マルセイユタロットには、「人間には神性が内在している」というグノーシスの考えが根底にあります。


つまりは人は本来、神と同等だということです。


ということは、人には完全なる要素があり、そこから判定や裁定も下すことが可能だと推測されるのです。裁くのは人の神性かもしれません。


ただ、普通は神性が全開にはなっていないので、「完全」からはズレた状態になっていると思われます。そのズレ具合が尺度として計られ、それに応じた影響を自らに与えるようになっているのでしょう。これがいわゆるカルマでしょうか。


ならば、いずれ自分で裁くことが予定されているのなら、今この時から罪悪感をというものを少なくしていくとよいかもしれません。


罪悪感だけが判定の要素にはなり得ないことはわかりますが、自分の中で悪いと感じる事柄をあえて行うのは、まさに自らのえんま帳にマイナスの記載事項を増やすようなものでしょう。


何が正しいことなのかは本当は難しいところです。ですが、正邪の基準そのものよりも自分がいかに罪悪感を持っているかどうかが問題だと思います。


その解消のためには、今現在生きながらでも、善行や正直さの回復と実行、わだかまりの解消と実践などでできる部分はあると考えられます。


いわばこれはタロットでいう「正義」の段階の前倒しみたいなものだといえましょう。


集中する前に。

物事に集中したいのに集中できない時、それはそのまま「集中できないことがある」ということの証明にほかなりません。


つまり、集中したい事柄とは別のことも気になっているということであり、平たく言えば気が散っているということです。


気が散っているから集中できないのか、集中できないから気が散るのか、実はどちらでも同じことだと考えられます。


ではどうすればよいのか。


このブログでも再三登場しているカモワン版マルセイユタロットの絵図「タロットマンダラ」は、このことに示唆を与えてくれます。


カモワンタロットで「集中」を意味させるカードは、「節制」が一番よく当てはまります。


タロットマンダラ上でこの「節制」と向き合っているのは「13」のカードです。「13」は大きな鎌をもった人物が描かれているカードで、その鎌によって無駄なものを削り取っているように見えます。


ということは、この二枚によって「集中するためには無駄なものを排除する」ということが読み取れます。


集中できないのは、整理をしないまま、混沌とした中で物事を始めてしまうからです。


部屋が散らかっていたり、意味のないテレビや音楽を流していたりと物理的・環境的に乱れていては集中は難しいでしょう。


また心理的にも、誰か気になっている人や気がかりなことが心にあると、作業に手がつれられにくいものです。


結局のところ、集中するためには物心両面での整理が必要であり、さらに述べるとするならば、終わらせていないものがないかを確認することも重要だということです。心理的に終わっていない、完了していないものは常に心のどこかで気になってしまうからです。


「13」のカードは「終わり」も意味しますので、カードから見てもこれはいえることです。


ただ、気になることがあっても、また環境的に混乱状態にあっても、人間、集中できる時はできるものです。


この場合は、タロットマンダラで「節制」よりさらに先に進んだ「悪魔」も関係してきます。


すなわち「悪魔」の意味する報酬や恩恵、満足感のような、自分にとっての利益が与えられることがわかっている場合に、あるいは逆に「それをしないと恐ろしいことになる」という恐怖感(カードの「13」も意味します)から、せっぱ詰まった有無を言わさない集中力がもたらされるわけです。


けれどもこのような形での集中力は、まるで馬を走らせるムチやニンジンみたいなもので動物的だともいえるでしょう。(支配する側はよく使う手ですが)


やはり人としては、きちんと整理を行った上で、集中できる環境づくりを行い、物事に向かいたいものです。


「世界」は知ることにある。

子供の頃を思い出してみましょう。


あなたの知っている「世界」はどこまでの範囲でしたか?


ここでいう「世界」とは、自分が認識している世界といいますか、平たく言えば自分の活動範囲のようなものです。


おそらく「学校区」というものに、その世界の範囲がかぶっていることに気がつかれるのではないでしょうか。


たとえば私も小学生の頃は、自分の通う学校の校区(つまりはその学校に通う生徒の居住する範囲)までが日常世界で、たまにそこを越えるとまるで異世界へ突入するかのような感覚がありました。


これが中学校、高校へと進学していくに連れ、世界も広がっていきます。またそれだけではなく、自分が実際に足を運んだ地域なども自分の世界として取り入れられてくるのもわかります。


大人になった私たちでも、自分が認識している(平常に感じる)世界というものは意外に狭いものです。


とはいえ、やはり全国を股にかけて活動されている方などは、自宅と近くの仕事場を往復するばかりの人に比べて、その物理的な世界観の広がりはかなり違ったものになっているでしょう。


また実際に自分の足で地を踏んだ場所だけではなく、人間関係を通じて知る世界というものもあります。こちらは物理空間というより、精神空間とでもいったほうがよいものかもしれません。


いずれにしても、こう考えてきますと、世界というものはあなたが知ることによって得られる物理的精神的空間のことであり、それを拡大するには結局「知る」度合いによるのだということです。


面白いことに、タロットカードにも「世界」というカードがあります。


「世界」は、カモワン流でのある教義を伝えるタロット絵図の並び、通称「タロットマンダラ」の最後に位置するカードであり、いわばこのカードはすべての学びを終えた最終到達地点を示すものです。


ということは、すべてを知った、認識したということです。


またタロットマンダラでは「世界」のカードの隣には「審判」のカードがあります。「審判」は天使がラッパを吹いているかのような絵柄のカードで、ひとつには「情報」や「知らせ」を意味します。


つまり、情報を知ることでまた新しい世界になることが示されているのです。


タロットから話を戻します。


結局、自分の世界を広げるには「知る」ことにある、「経験・体験」することにあると考えられます。


だから今生きている人生で、あまり自分に制限をかけて知る機会を減らしてしまうのは、非常にもったいないことになるのです。


積極的にいろいろとチャレンジしてみて知見を広げ、自分の世界を拡大させましょう。


自分が変われば世界が変わる理由の一例

自分が変われば周囲も変わり、世界も変わるということは、精神世界では比較的よく話をされます。


これにはいろいろな理由があると考えられますが、タロットを見ていて気がついた一例を述べたいと思います。


それは「選択」ということをポイントに置くと、理解できるものです。


人は何らかの要因で自分の中が変化した時、言ってみればそれまでの価値観や概念が壊れ、新たなものに置き換わった状態であると想像できます。


それでもすべてを捨て去る(すべてが崩れ去る)ことは普通できません。


それは現実を生きていることの否定にもつながりますし、そもそも全部が無くなりますと、自分を存在させておくことができないからです。


従って自分が変わることにより古い価値観は消滅しても、それに替わる新しい価値観や考え方はまた構築されているのです。


さて、この現実の世界で何かの影響を及ぼそうと思えば、あることするための「選択」をしなくてはなりません。


する、しないの選択はもとより、すると決めた場合でも、何をするのか、どうするのか、いつするのかという山のような選択作業をこなして、人は日々生活をしているわけです。


結局、自分の現実というものは、自分の選択した結果であると言ってもよいでしょう。


ですが、その選択基準というのは、その時身につけているあなたの価値観や考え方によります。


これが正しいと思って選択してることもあれば、もはや誰もが普通に行っていることなので、オートマチックに習慣として選択していることもあるでしょう。


いずれにしても、外からの影響はあるにせよ、すべてはあなた自身の判断によって選択されています。


ところが自分が変わり、新しいものの見方を獲得すると、当然ながらそれまでとは異なる選択をするようになります。


選択の積み重ねの結果=今の現実であるならば、新しい価値基準による選択を行っていけば、それだけ今までとは違った現実が生み出されるという図式になります。


ということは、大きな意味ではあなたの「世界」が変わるわけです。


これが「自分が変われば世界も変わる」という理由のひとつだということです。(もちろん「選択」以外の着目によっても、自分の変化→現実の変化はたくさん説明することはできます)


このことは逆に考えれば、いかに普段私たちは無意識的に選択を行っているかということにもなります。


同じ選択の基準、方法を取っていては、いつまでも変化がないのは当たり前ということになるのです。


でも悲しいかな、「選択を変える」ということはなかなかできません。今まで通りにしているほうが楽で自動的であり、エネルギーがいらないからです。


だからこそ、どこかで自動装置を停止する機会を持ち、自己を見つめることが必要なのです。


それはいわば、いつも右ばかり選択する癖を自覚し、左に選択することもよいのだという価値基準を新たに作ることでもあります。


そして、タロットはその作業にとても有効なツールなのです。


タロットマンダラとお盆

カモワン版マルセイユタロットにはタロットマンダラと呼ばれる絵図があります。(上のメッセージボードの「フィリップ・カモワン氏のサイト」のリンクをクリックしていただければ、カモワン氏サイトにおけるその絵図を見ることができます)


この絵図の構造と意味については、アルカナ(秘伝)としてカモワンタロットの講座などで知らされてきたところです。


今回はその秘伝とは別に、お盆にからめたタロットマンダラの話をしたいと思います。


タロットマンダラは22枚のカードを番号順に並べたものなのですが、見ると並びの上にいくほど天体や裸の人物が描かれていることに気がつきます。


それがなぜなのかは秘密があるので、あえてここではふれませんが、少しだけお話しますと上に行くほど別世界であるということです。


私はタロットマンダラを見ていますと、下と上のカードの間に隔たりがあるのを感じるのですが、時にその垣根が薄くなるような気がすることもあります。


それはひとつにはリーディング時での必要性があってそうなると考えられます。


つまり、相手の問題をレベルや次元を超えて(垣根を越えて)考えなければならない時だということです。


もうひとつ、縦のつながりを意識しなければならない時です。(結局は同じことですが)


縦のつながりの意識とは何か。


それは目に見えない存在や祖先から連綿と続く血のつながりのようなものです。いわば霊的な存在と一般的にご先祖様というようなものでしょうか。


お盆はあの世とのゲートが開くといわれています。


タロットマンダラでいえば下から上、上から下へと縦ラインの動きが活発になるということです。


この時重要なのは、現実に今生きている私たちの次元と目に見えない世界の次元とでは、伝わり方や行動の影響が異なることです。


言い方を換えれば、私たちのする行為が目に見えない世界では違うものとなって伝わっていくということになります。


逆に、目に見えない世界からの働きかけは、私たちが普段理解している常識とは違う形で表されるということでもあります。


これは私たちの気持ちが別の世界には伝わらないということを言っているのではありません。


それは逆です。


私たちは通常、この現実世界では自分の思っていることが相手に必ず伝わるとは限りません。


顔で笑っていても心は泣いているかもしれませんし、見た目だけでは心の中はなかなかわからないものです。


またこの世ではいいことや悪いことを一人でしていても、誰も見ていなければ実際はわかりません。


しかし、別次元では私たちがこの世で思ったことは何らかの方法で伝わり、あるいは誰も見ていなくてもそれは見えているとも考えられます。


だからこそ、お盆などの時期は特に縦のつながりを意識して、素直な心でご先祖や目に見えない存在に感謝をする、慰めるということが大切だと思います。


そしてもうひとつ、私たちの次元では私たち特有の物質原理が働きます。それは実(み)のある行為が実(じつ)をもたらすということです。


ということは、モノや形を通した実際の行動が大きく影響すると考えられます。


結局のところ、縦と横がクロスしたところに自分が存在し、現実もあるといえます。


ならば、単に思うだけではなく、私たちの世界で実際にできる行動を伴うと、さらによいということがわかるでしょう。


お盆のお墓参り、集まり、食事、ふるまいなどはその両方(縦と横)をしていることであり、自己と陰陽世界との関係を強化するために、非常に大きな役割と意味があると考えられるのです。


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