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新春プレゼント企画 無料タロット講座

皆様、明けましておめでとうございます。

今年もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。

ここ数年の恒例となっておりますが、クリスマスか年明けに、当ブログではプレゼント企画をご用意しております。

さて本年の企画は..

昨年も好評だった「無料マルセイユタロット講座」です。

これは、とにかくマルセイユタロットを知ってもらいたいという思いで、去年から始めた企画です。

昨年は神奈川県の方が当選されて、実際に講義を受けていただき、好評でした。

本格的な講座というわけにはいきませんが、マルセイユタロットとは何か、その活用法、シンプルなリーディングの方法などについて、4時間ほど無料で講義させていただきます。(講師の交通費はご負担をお願いいたします)

その講義時間中に、デモンストレーションとして、私が無料リーディングもいたします(リーディング通常料金7000円)。いわば講義とリーディングつきの、実質3万円ほどのものを無料で行うという大判振る舞いの企画です。(笑)

応募ご希望の方は下記をご覧のうえ、お申込みください。

◆マルセイユタロット無料講座◆

●対象

マルセイユタロットを初めて学習される人

多少、ふれたことのある人でもOKです。

恐れ入りますが、当方の講座(カルチャーセンター含む)を受講中、もしくは修了された方はご遠慮ください。

●内容・時間

マルセイユタロットの概要説明、タロットの構成、象徴の意味、シンプルなリーディング技術など

入門的な内容となります。受講者のためにタロットリーディングも併せて行います。時間は4時間を想定しています。

●募集人数

1名、もしくはグループ(3名までのグループ)ひと組。グループの時はリーディングは講義説明形式(グループ内での公開的な形式)のものとなり、代表お一人のご質問が対象となります。

お申込多数の場合、タロットによる抽選を行います。

●実施時期

当方とお申込者(当選者)との調整によります。かなり先になる場合もあることを、あらかじめご了解ください。

●その他条件等

講座料金自体は無料ですが、往復の当方の交通費と、日帰り困難な場合は、宿泊費(ビジネスホテルレベルでOK)もご負担願います。

あと、会議室やルームなど、講義できる場所(喫茶店などオープンな場所は不可、ご自身・ご家族がOKならば、ご自宅でも構いません)もご用意ください。

●お申込み・締め切り

1/6(月)まで。こちら(「講座講座受講のお申込みはこちら」の項目)より
、メールでお申込をお願いいたします。携帯アドレスの場合、返信が届かない場合もありますので、PCメールからのほうが確実です。

お申込み多数の場合は抽選をして決定いたしますが、はずれた方にもご連絡いたします。

それでは、全国からのご応募(^^)、お待ちしております。


絶対と絶対。ふたつの「絶対」

年末と言うことで、変則的になりますが、今年最後のブログとなります。今年も拙ブログをお読みいただきありがとうございました。

メルマガ(講座受講・修了者限定)登録者の方には、31日にメルマガを配信いたしますので、そちらもご覧ください。

来年は元旦に、恒例のプレゼント企画など交えまして、ブログを書かせていただきたいと思っております。

では記事に移ります。

タロットは占いという認識が一般的に高いですので、どちらか言えば、タロットは未来(の選択)がどうなるのかという点に使うと思われがちです。

しかし、ここでもずっと述べていますように、タロットはそういったアテモノのツールではありません。だからこそ、過去を観察することにも使えるのです。

過去の事柄をタロットが示していると見て、自分を整理したり、認識を新たにしたりするための道具として使うわけです。

このようなことを行っていると、結局、周りや人ではなく、自分視点が大切だと気がついてきます。

それを一言で言うのならば、「絶対視点」と表現してもいいでしょう。すなわち他人や周囲などと比較せず、あくまで自分がどうなのか、自分がどう成長したのかという観点で物事を見るということです。

私たちの不幸は、実はほかと比較することで始まっていると言われます。ほかの人より不足している、劣っている、損をしている、ほかの状況より深刻である、間違っている、バランスがおかしい・・・という具合です。

ここで言う「ほか」や「ほかの人」とはいったい何を・誰を指しているのでしょうか? 意外に漠然とした抽象的な「ほか」というイメージ的な総体によるのではないでしょうか?

それならば、その、言わば実体なき集合体のようなイメージは、自分自身の幻想や思い込みではないかと疑うこともできます。

逆に、「○○さんと比べて・・」というような、非常に限定された「ほかの人」という場合もあるかもしれません。

これにしても、特定の人やモノと限定されているわけですから、考えてみれば、その人を比較対象として見ることから脱却して客観的になれば、案外あなたの不幸(な気持ち)はすぐに消失する可能性もあるのです。限定的なので、取り組みも具体的にできます。

またこのケースでは、その人以外の、もっと別の大きな対象として相対的比較対象を広げると、問題に思わなくなることがあります。

いずれにしても、あまり他人やほかのものと比べると、自分の気持ち・精神状態が落ち着かなくなるのは確かです。さらに他人との比較が煽られると、消費や思想の植えつけに利用されやすくもなります。

ですから、人は人、自分は自分という「自分に対してフォーカスする」ことを常に心がけると、気持ちは楽になりやすいのです。この点では、よい意味での「わがまま状態」を作る、自分を通すと言い換えてもよいでしょう。

結局、相対比較ではなく、自分との比較をすればよいということになります。人や周囲がどうのというより、「自分が成長したかどうか」「自分はどうしたいのか」 この点で見ていくだけでも、ずいぶんと世界は変わります。すなわち、自分という絶対評価の視点です。

ここで「絶対」という言葉が出たので、ついでにお話しておきますと、心や行動では、反対にこの「絶対」という思いはなるべく抱かない方が生き方としては楽になります。

「絶対にこうしなければならない」「絶対にこの人しかいない」「絶対にダメ」とか、絶対という言葉をつけてしまうと、自分を縛ることになるわけです。

縛られると、当たり前ですが、思考と行動が限定されます。またそこに縛りという規則も生まれていますので、その規則に反する人や事柄は「許せない」「相容れない」「排除すべし」ということになりがちです。

もちろんよいこともあります。

それは「縛り」の良い面を見ればいいのです。縛ることで制約が生まれ、自分を鍛えることができますし、制限された環境で、逆に創造性がより発揮されることになる場合もあります。あと、ルールに従うだけの判断ですから、思考自体は単純で選択は楽になります。

ただ、やはり、総体的には自分を押し込め、つらくなる生き方になってしまうことが多いように思います。

ということで、思い方や行動では、「絶対」はなるべくなくしたほうがよいでしょう。

まとめますと、比較の際は「自分」という絶対で見て、思考や行動では「絶対」を止め、広く相対的にいろいろなことを見たり、認めたりしていく方向が望ましいということです。

ふたつの「絶対」 覚えておいて損はないでしょう。


宝くじについて。

年末に人々の関心を引くもののひとつに、「宝くじ」や「抽選くじ」といったものがあります。

恒例のジャンボ宝くじもあれば、商店街・デパートなどでのくじ引きもあるでしょう。

ということで、特にこの「宝くじ」について思うところを書きたいと思います。

「宝くじ」はギャンブルかと言われると難しいところで、普通にたくさんの人が買いますし、それにのめり込んで財産を失い、人生を破綻させたという人はあまり聞きませんから、宝くじはギャンブルとは言えないかもしれません。

しかし何か普通ではないお金の稼ぎ方・失い方に入りますし、というものが大きく作用するという意味では、やはりギャンブルと言える部分もあるでしょう。

いずれにしても、何事もプラス・マイナス面があるものです。

今日は普通とは違った観点で、その「宝くじ」のマイナス面とプラス面を見ていきます。

まずプラス面ですが、当たり前のことのように思いますが、実は心理的高揚効果が高いという点です。

宝くじを買う人は、もちろん当たってほしいという思いでいるのでしょうが、結構多くの人が、「当たる」ということより、「買うこと自体」を楽しんでいるように見えます。

いわゆる「夢を買う」というヤツですが、これは言い換えれば、「夢という商品を買ってお金を消費している」ということにもなります。

つまり、人は品物を買って満足するように、「宝くじ」という夢商品を買って自分を満足させているということです。

当たれば消費額はリターンされたり、それこそ今年の流行言葉で言えば「倍返し」(笑)以上で返ってきたりするでしょうが、普通は当たらず、元金分は戻りません。

要するに、「宝くじ商品を買う」という消費行為をしたに過ぎないのですが、それでも「宝くじ」という商品価値に、その支払ったお金分はあると思って割り切ることができるから、たくさんの人は毎年買っているわけですね。

現代人が品物を買うのは、生存の理由ではほとんどありませんので、結局は心理的満足に基づくものと言えます。簡単にいえば、「宝くじ」を買うのは気分がよい、欲求を満たしているということです。

当たるかもしれない・・当たらなくてもワクワクできる・・ということで、買うこと自体に楽しみがあり、気持ちもよくなって、その瞬間、スピリチュアル的に言えば、周波数や波動が本人としては上昇するわけです。

恒例行事のように毎年宝くじを買うような人は、ある意味、気分のリセットをしていると言えます。宝くじを買うという行為が、実は自分の運気を戻したり、上げたりしていることもあるわけです。

ただ、「当たらなかった・・」と結果を悔やみ、あまりにも当選こだわる場合は、気分の上昇や運気アップどころか、逆効果になるので、気軽に楽しむということで買うのが一番いいと言えるかもしれません。

次にマイナス面について述べます。これもまた、あまり語られていない側面で言います。

それは、自力でお金を稼ぐという関心が希薄になるという点です。

宝くじを買うということは、お金がほしい、お金を手に入れたいということですが、それは自力ではなく完全な他力で、まさに運任せです。

そういう気持ちでいる限り、自分が大金を稼ぐことのできる存在であるという意識には行きません。

「私はしがないサラリーマンやOL、派遣社員ですので・・」「私は年も取っていますから・・」というように、お金を稼ぐ手段はほかにはないと思っているかもしれませんが、果たして本当にそうなのかはわからないものです。

自己の能力・可能性を限定し、自分は宝くじでしかお金をほかに手に入れる術を持たないと思い込ませているのであり、もっと言えば、自分で自分を救うことはできない(宝くじというものが救ってくれる)と思っているということになります。

自分は「外から救われるべきもの」となって、基本、依存的精神となります。

さらには、運のよいことも悪いことも、文字通り「運」によるもので、運というコントロール不能な外側の何かによって、自分は支配されているという潜在意識ともなるのです。

まだ「支配されている」と表せる時はよいのですが、これがやがてオートマチックになると、「支配されるべき」となって、「されたほうがよい」「されることが心地よい」と変化して行きます。これはマルセイユタロットで言う「悪魔」の支配状態です。

宝くじに頼るということは、マルセイユタロットの教義で言えば、グノーシスの覚醒から遠ざかることになります。

さらに、スピリチュアル傾向の人で、宝くじに強く期待する人に、次のようなことも考えてみることをおすすめします。

スピリチュアルなことに関心がある人は、たいてい、統合社会を目指し、葛藤や競争、戦いの激しい社会から脱却したいと願っているはずです。

競争が起こるというのは比較があるからで、宝くじのシステムというのは、その最たるものです。

一等とか、二等とか、たとえ五等とかでも、一握りの当たる人と、その他大勢の非当選者で成り立つものです。これは現代社会の搾取構造とよく似ています。

宝くじを買って当選を期待するということは、あなたは知らず知らずのうちに競争システムに荷担しているのであり、それを自分自身が強化していることに気がつかなくてなりません。

とはいえ、くじで集められたお金が、福祉やその他社会貢献で役立てられている(かどうかは実はわからないのですが・・)こともありますので、一概にはシステムが悪いとは言えません。

まあ、つまり、「宝くじ」がある社会はというのは、そのシステムが必要な社会だと言えるでしょうし、そのレベルにある惑星だとも述べることもできます。

それから時々タロットを習う人で、「タロットで宝くじを当てられますか?」という質問をされる方がいらっしゃまいすが、ネタで言うのは面白くて、その観点でやってみるのは楽しい部分もありますが、真面目にそう質問される方は、少なくとも私の伝えるマルセイユタロットとは質が合わないとお答えするしかありません。

誤解しないでいただきたいのは、宝くじが悪だと言ったり、絶対にしてはいけないと言っているのではなく、その本質を知った上で、自分が楽しむひとつの方法だと割り切ってやれば、別に問題はないのです。タロットと宝くじに関しても同じです。

むしろがんじがらめに考えたり、行動を規制し過ぎたりするほうが、実はもっと自分にとって悪質です。

スピリチュアル的には、すべてのものは、神または自分が、自分の経験や選択のために用意した乗り物や道具だと言えるのです。


目的と手段を整理するための道具

私はタロットの講師なので、受講生さんの前などで話をします。

まあ、言ってみればそれが仕事でもあるわけですが、決して私は人前で話をすることが得意なタイプではありません。

今でもたぶんわかる人にはわかると思いますが、結構人見知りするタイプですので(^^;)、初めて会う皆さんの前ではとても緊張しますし、慣れた方でも最初の導入部は、いまだにテレがあることが多いものです。(苦笑)

そんな私でもタロットの講師をしていられるのは、ひとえにタロットの話をすることが好きだからであり、また講義を実践することで経験が積まれ、訓練と慣れもあって、次第に前よりもスムースになってきているということです。

ということで、まずはその話すテーマや扱っていることが好きなのか、愛しているのか、情熱を持っているのかということが、しゃべりがうまいとか、話好きだとかいう前に大きな要素があると私は思っています。

たとえ木訥な語りであったり、とちったりしながら話しても、やはりその語っていることに真剣さを感じられる場合は、人は聞いてくれるものだからです。思いは伝わるということですね。

ただ思いだけでは、やがて限界が来たり、時にはうまく伝わらなかったりすることがあります。

そのために「話す」「伝える」ということの技術を磨くことも求められるわけです。

ここでよくありがちなのは、目的と手段を取り違えることです。

話す技術を高めようとする余り、いつのまにか技術に走ったり、テクニックに溺れたりして、話をする自分に酔うようなことにもなりかねません。

本当の目的は、相手に自分の伝えたいことが伝わるということです。すなわち目的の達成度や質を高めるために、技術や方法があり、それを磨いているわけです。

いくら話がうまくなったからと言っても、聴く相手に何も残らないようでは本末転倒です。

そんな間違いはしないと思うかもしれませんが、話す技術が上がると、話をすることそのものが楽しくなり、方向性が変わってくることがあるのです。

別に話をすることが楽しくなるのはいいことですが、やはり楽しいので「話をすることそのものを目的」としてしまい、もともとの伝えたい内容と本質からずれてしまって、あれもこれもとコロコロとやっていることが変わり、ただお金儲けや自分が楽しみたいだけに終始してしまうような人も見受けられます。

今、講師の話で例えていますが、この目的と手段の取り違えは、ほかの仕事や要素でもよく起こりうることなのです。

まあしかし、それは悪いことばかりではなく、自分が目的だと思っていたことが、手段を講じているうちに、手段のほうに本質の種が隠されていることを発見し、目的が変化して、自分が達成したい本当の目的に行き着くというケースもあります。

例えば、先ほどの講師の場合でも、話をすることそのものの楽しさに目覚めたのなら、実は自分はコミュニケーションの方法や上達を、それがうまく行かない人たちに伝え、教える使命があったのだと気がつくような場合です。

ともかく目的を決めることはよいのですが、その目的というものは、人生の中で変更は可能なものであり、どのレベルのものを目的と据えるかによって、その変更具合も変わってきます。

崇高で抽象的な目的を自分の中に抱く場合、細かな手段や方法というものはとても些細なことになり、いわば手段においては、正しいとか正しくないとかでは判断できないものとなります。言い換えれば大目的の前では、細かいことなどはどうてもいいようなものです。

ですから迷った時などは、高い目的性に一度自分を置いてみて、その目線から選択を見つめると、結構あっさり決まることがあります。(どちらでもよいというような考え方になる) これはマルセイユタロットで言うと、「」の象徴でもあります。

この逆に、目的を具体的で細かなものに設定すると、手段はそれに適うか適わないかにおいては、はっきりと○×が出ますが、しばしば低い目的性によって、「これでよいのか?」と悩むことも生じます。

それではどちらの目的を持てばよいのかとなりますが、これはケースバイケースであり、目的というものを整理させるためには、やはり「象徴」ツールを持つことが得策です。

マルセイユタロットやカバラーの生命の木などの象徴ツールは、非常にこれらを効率よく整理してくれます。

そのためには、象徴ツールへの知識が必要となりますが、いったんそれを理解すると、混沌とした世の中と自分を、合理的に把握できるようになり、すべてのもののつながりも見えてきて、まさに自分の中に羅針盤や現実的・精神的地図を持ったような感覚となることができます。

私たちは本当の地図を持たないがために、いつも迷ったり、悩んだり、彷徨ったりして、自分の今の立ち位置や、そもそもの自分というものがわからくなっているのです。


あえて、幸せの「質」より「量」を見る

幸せの感じ方というものについて書いてみたいと思います。

「幸せ」という観念については、人それぞれであることは皆さんおわかりいただけるかと思います。

まさに人の思う数だけ「幸せ」の「感」と「観」があり、言わば価値観の相違によって千差万別に幸せという定義が出てくるわけです。

これ(価値観の異なりによる幸せの違い)については、よく語られているので今更指摘しません。

今回述べるのは幸せの「質」というより、「」からの観点です。

一番いい例が、お金の消費による幸せの感じ方でしょう。

例えば、海外旅行で何日間もリゾートに行って、幸せを感じる人がいたとします。

一方、国内の温泉旅行で幸せと思う人もいるでしょう。また、同じ旅行でも日帰りで十分幸せと考えている人もいれば、やはり宿泊してホテルや旅館などで、ゆったり過ごすほうが幸せだとイメージする人もいます。

ここで、ほとんどの人が日帰りで旅をするより、海外のような豪華リゾートで滞在するくらいのほうが、幸せと感じる量も多いのではないかと思うかもしれません。

ただそれは同じ自分とか、同じ人間で見た場合です。自分にとっては、定食屋より一流レストランの食事のほうが幸せと感じるというようなものです。

ここで例えを変えます。

もし大金持ちの人がいて、その人の普通の食事は、とても貧乏な人から見れば、非常に贅沢なものに見えるかもしれません。

同様に、いつもリゾートで過ごす人の幸せと感じる量は、一般の人が国内旅行に行くくらいの幸せ量かもしれないのです。

それがどうしたと言うの?と思われるでしょうが、実は非常に重要なことなのです。

人は、実際の活動や表現の違いはあれど、実はまったく同じ幸せの量を感じているのかもしれないということです。

Aさんの幸せと感じる量の表現は、Bさんとは現実的にはかけ離れた表現の違いがあるけれども、心の中の幸せと感じる量や振り幅をもし観察できるとすれば、AさんもBさんも同じのこともあるわけです。

特に幸せ感の麻痺ともなってきますと、いくらお金を使っても、麻痺していない人のわずかのお金の使い方による幸せ感にも適わないことすらあります。

だから「お金持ちは許せない」とか「贅沢しやがって」とか妬みを抱いても、自分を傷つけるだけで、意味はないのです。

お金持ちの方の贅沢というのに嫉妬していても、それはあなたの幸せ表現やお金の使い方(量)がお金持ちの人と違うだけで、あなたのコーヒー一杯が、お金持ちの方にはフルコースの料理の幸せ価値に当たるというようなものなのです。

別にお金の使い方だけではありません。

要は幸せの感じ方の問題ですから、独身の人でも十分日常に幸せと感じられる人もいれば、何人もの友人やパートナーに囲まれても(そもそも複数の時点でパートナーとは言い難いですが・・)幸せを感じられないという人もいます。

このように考えていくと、エネルギーと幸せのバランスが見えて来て、あなたの現時点での幸せ価値度がいかほどのものなのかというのもわかってきます。

私はここで、「だから小さな身近な幸せを感じることが大切」と言いたいわけではありません。それももちろん重要なのですが、そんなことは結構言い尽くされていることであり、当たり前のことだからです。

本質は別のところにあります。

皆さんも考えてみてください。いろいろとヒントはちりばめています。

あと、付け加えるとすれば、本当の公平さ、自由・平等・博愛とは何かというテーマにもなってくるでしょう。マルセイユタロットでは「正義」や「太陽」とも関係してきます。

もしかすると、私の考えていることとは違うこともお気づきになるかもしれませんね。このように、物事は多様と多層に見ることで、とても面白くなってくるのです。


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