ブログ
動きたくない、変化したくないと思う時に。
今は世の中の変化も激しく、自分も変わらなければ…と思う人も少なくないでしょう。
また、とにかく行動することがよく言われ、何もしない、できない自分を責めている人もいるかもしれません。
しかし、マルセイユタロットで考えると、動きたくない時、変化できない時は、それはそれで意味があると言えます。
ただ、その意味合いも、よい意味と悪い意味の両方はありますが。
マルセイユタロットで動きのないカードと言えば、大アルカナナンバー12の「吊るし」が代表的でしょう。
このカードは、逆さに吊られている(吊らされている)と見る向きもありますが、マルセイユタロット的には、吊らされているのではなく、むしろ能動的に(カードの人物は)自らこの姿勢を取っている、つまりは逆さになって吊っていると解釈します。(諸説あります)
動きがないので一見消極的に見えますが、自分からこのスタイルを取っているとなると、あえてこういう状態をよしと見ているわけで、見方を変えると(動かないことを)積極的に選択をしていると言えます。
またこのことは、私たちに、動かないことの重要性を語っているとも思えます。
先ほど、動きたくない時、変化できない時は(よい意味と悪い意味の)理由があると言いました。
それはまさに、何もしたくないわけで、動くことに問題があるから、そうさせられていると見ることもできます。
例えば、心理的・体力的にエネルギーも不足し、活動する力が失われている時、当然ながら回復のために休む必要があります。
精神や体のほうがもう動けないと言っているのに、自分の意識だけが無理から動こうとしているわけです。
立ち止まってステイしなければならないから、動きたくないと感じさせられていることもあるのです。
ところが、自分でも自らの状態に気づけず、がむしゃらに動くことをしてしまっているケースもあります。
これはそうしない(何かしていない)と自分が認められないとか、悪くなると思い込んでいる場合が多いです。何もしない自分、何も残していない自分は人から評価されないと信じているわけですね。止まったら死ぬ(と思いこんでいる)サメのような状態です。
さらには、静かに自分と向き合うと怖くなるから、あえて忙しくしている、無意識に動き回るように自分を仕向けていることもあります。
ほかに、怠けていては怒られるとか、働かざる者は食うべからずとか、いつの間にか自分の信念や信条(心情にもなる)として持ってしまっているケースもあると言えます。
こうなってしまう大きな理由のひとつには、自分に欠乏感が大きくあることがあげられます。
これに関連することが多いですが、自分の成果が出ないのは行動しないからと信じ込まされている場合もあります。
もちろん、それはある意味事実のところもあるのですが、問題は行動する動機なのです。
不安や恐怖、あるいは義務から行動することをしている場合、結局、たとえ成果が出たとしても、またぞろ不安が出てきて、そこからさらに行動に駆られるという、まるでラットレースのような悪循環に陥ってしまいます。
常に自分は新しくあらねばならないというのも、つまりは、新しくないと自分はダメだという固定観念があり、そのためずっと緊張し続けることになり、やがて新しくしていないと自分は置いて行かれる、失敗し続ける、評価されない、最終的にはみじめに孤独になって死ぬ…みたいな錯覚の連想が働いて、ずつと恐怖に追い立てられることになります。
心配しなくても、宇宙や全体は変化するのが常ですから、変わらなければならない時は、それに自然と導かれるようになります。
むしろ、無理な固定と変化(自然に反する利己的なもの)は、自然のルールからはずれますので、問題が生じるのが必然と言えましょう。
ということで考えますと、あなたが動きたくない、変化したくないというのには、きちんと理由があり、それは自然なことなのです。
しかし、それが自然のルールに反したこだわりによるものだとすると、いずれ強制的に動かされ、変化させられるのです。
そうではない、本当に必要となる停止(動きたくない・変化したくない)は自然なものなので、それでいいということです。
あと、動きたくない、変化したくない理由には、そうしたほうが今の自分にはメリットがあるからというのがあります。
少しでも変化しないほうに、自分のメリットがデメリットよりも上回っていたら、変化しないほうを選択するのは当然となります。
人によってこのメリットは様々ですから、自分自身で考えてみるとよいでしょう。
単に動かない、変化しないほうが楽だからというだけではないのです。
例えば、もし変わる選択をして、たとえそれがいわゆる成功や願望が叶った状態にあったとしても、その成功によって反対に抱えるデメリットを今のあなたは潜在的には想像していて、そのほうが強いからというのがあります。
ところで、マルセイユタロットの「吊るし」は「世界」のカードと実はよく似ています。数の上でも、12と21で、アラビア数字的には入れ替えにもなっています。
もちろん違いもあるのですが、この似た構造は、言ってみれば「吊るし」と「世界」が呼応する関係であることを示しています。
端的に言えば、「吊るし」の内的世界が、外側の外的世界を創っている(自分を取り囲ませている)という構造になります。
まさに、外の世界が中のものを映している状態とも言えますし、宇宙全体が個人の中の世界とリンクし、個人も全体・自然の流れに即するようになっているものと見られます。
「吊るし」が逆さであるのも、本質を理解するには、反転した見方も必要であることが示唆されていると考えられます。
「吊るし」と「世界」の関係を見れば、自分自身の変化・行動についても、勝手に個人一人一人で生じているわけではなく、全体と関係・連動して在り、それぞれのタイミングや理由も、偶然とかたまたまではなく、きちんとした法則のもとに思わされていることがわかるのです。
タロットの当たる・当たらないのこと
タロットは当たると言われることがあります。
時には当たり過ぎて怖いと思われ、敬遠されることもあるくらいです。
タロットがなぜ当たるのかということについては、論理的にはなかなか説明ができません。
しかし、タロットをやっている私が言うのも何ですが、結構、人の思い込みによるところが大なのではないかと思います。
タロットが当たることについて、大まかに分けると、一応ふたつの見方があると思います。
ひとつは内側からによるもの、そしてもうひとつは外側からによるものです。
内側からというのは、クライアント(タロットへの質問者)やタロットリーダー(タロットを解読するもの)自身の心理的・内的な理由によるもの、外側からというのは、タロットの精霊とか、目に見えない領域の何かしらのものが当てさせているというような考えのものです。
まあ、外側のもの(存在)も内にある自分の中のひとつとして見れば、結局はすべて自分が起こしている、当てさせているという見方もできなくはありません。
ただ、西洋魔法やタロットの古くからの世界観の中では、タロットの精霊の存在とか、タロットの世界という、一種の異空間・異次元的なものが実在するという考え、あるいは、その世界とコンタクトする方法もあるため、一概にすべて自分・人間がタロットの事象を引き起こしているとは言えないところもあります。
けれども、この異次元的なタロットの世界も、個人の中にあるビジョン、もしくは伝統的に守られてきたビジョンが創造(想像)され、ある種のイメージ世界として固定されていると見ることもできますので、本当にタロットの世界やタロットの精霊が人間(世界)とは別種存在しているのかと言えば、それもまた考え方によると思います。
仮に人間のビジョンが創った世界だとしても、人間には別世界を創造する力があるとも言えますので、マルセイユタロットに「力」という名前のカードがあるように、人の力は、通常の私たちの想像を超えるものがあるのだと考えられます。
最初に、「人の思い込みによって、タロットが当たるように思ってしまうのかもしれない」と言いましたが、その思い込みの力が、まさに人の想像と創造の力にもつながっているわけで、単なる絵のカードが、物事について当たるような世界を、人間が生み出していると言えなくもないのです。
従って、その思い込みを操作することによって、タロットの(当たる)精度は上がるようにも見せかけられますし、もっと進めば、当たる当たらないというよりも、当たる世界に自らがシフトする、移行するというような現象にもなっていきます。
思い込みを操作するのは、自分自身でも無意識にもできますし、また、多くはタロットリーダー・タロット占い師(タロットリーダー自身も無意識のことがあります)によって操作させられているところがあります。
言い換えますと、一度でもタロットによって当たると思ってしまうと、すでに何らかの操作が自分に働くということです。これが二度・三度続くと、次第に確信へと変わって行くのです。
いやでも、実際に、操作うんぬん関わらず、これ以外ないと思えるような質問とか状況にぴったりのカードが出るというケースは、タロットをやっていると何度も遭遇するので、やはりタロットは思い込みでなく、カード自体が当たるものだと思っている人も少なくないでしょう。
しかし、ここで言っているのは、思い込みや洗脳とかのそれとは違う次元の話なのです。
言ってみれば、最初から、すでに私たちはタロットを含めた予定調和の世界にいるということです。
あなたがタロットをしたいと思って、自分にしろ、タロットリーダーの元でにしろ、タロットを選択する意思が出た時点で、もうタロットはあなたに何らかの示唆が与えられるような仕組みに入っているということです。
表現を変えれば、タロットというツールがあなたを取り巻く世界の中で実態化、利用されるものとして存在化したというわけなのです。
実際にやってみて、当たるように感じたとか、はずれたように思ったとか、それは人それぞれで違うかもしれませんが、タロットに関心を持って、タロットリーディング、タロット占いを試みるような人は、当たるほうに関心と結果を望む心理が働きますので、そういう結果になるよう、自分を取り巻く世界全体が動くと表現してもいいでしょう。
要するに、タロットを通して、何らかの刺激、インパクト、変化(あるいは変化しなくてもよいことの望み)を自分自身が求めていて、それを世界(タロットを含む世界)が、あなたの希望を実現しようと働いたというわけです。
例えば、自分の本当の気持ちを確かめたい気持ちが奥底に強くあって、その思いを実現するために、タロットというツールが選ばれ、当たる(すなわち自分の認めたくない、あるいは本当は認めたい気持ちなどが表された)ように感じる結果を生み出したという仕組みです。
その意味で言うのなら、別にタロットでなくてもよく、どんなカードでも、あるいはカードでなくても、その時のあなたに必要な出来事として選ばれるものがあることになります。
ですが、タロット、中でもマルセイユタロットは、非常に象徴ツール・絵図として整理され、精緻化されたものであるので、世界全体とシンクロしやすいカードになっています。
一言で言えば、わからないもの、目に見えないものを見える化しやすいのです。
内なることは視覚化しにくく、自分に何が起こっているのか、起こってきたのか、どんな思い込み、信念があるのかなど、自分自身ではわからないことが多いです。
それをマルセイユタロットによって、外の見える情報として出してくれる面があります。もちろん、象徴ですので、ズバリというわけではなく、解釈にもテクニックと知識はいりますが。
世界とシンクロにしくい構造のカードだと、まさにデタラメで出てしまい、それはそれで自分とつながる意味(取り巻く世界が出してくれている意味)は確かにあるのですが、カード全体と一枚一枚の構造に最初からまとまりがないため、(外の世界とタロットがシンクロする、言い換えればタロットが小宇宙として働くようになる)システムとしては働きにくく(乱雑になる)のです。
従って、ここにマルセイユタロットを使う意味があるというわけです。
あと、これは別の話題・記事にしたほうがよいかもしれませんが、カード解釈に吉兆、いい・悪いの世界観を入れすぎると、自分が世界に向かって逆に悪い意味で働きかけることになり、つまりは自分を取り巻く世界のほうが、カードの解釈の世界観の通りになって、よい・悪いの二元的なものに染まって行くことになります。
本当の世界はいいも悪いもない、一元的なものなので(ただし、現実として認識できるのは二元的表現)、世界が示そうとしてくれている真のバランスがわからず、言わば曲がった視点・解釈で世界を見ようとしてしまいます。
こうなると、あなたを修正・改善しようとして出してくれている世界からのお知らせ(出るタロット)を、あなたが曲解することで、その善意が無駄になることもあるわけです。
というようなわけで、タロットの当たる・当たらないにあまり過度に注目せず、結局は、あなたがタロットを使うことはあなた自身と世界が仕組んでいることなので、その理由を自分の中で気づかせるようにすることのほうが大事だということが言いたかったわけです。
そのうえで、タロットを使い続けるもよし、一回だけでもよし、それはあなたの自由と言えます。
総合的に、それらのこと(タロットとどう関わるか、タロットをどう扱うか)も、自身の潜在的な計画のうちにあると言えましょう。
悪い意味とされているカードたち
伝統的な流れを汲むタロットには、「悪魔」というカードがたいていあります。
そしてマルセイユタロットは、もっとも伝統的なタロットのひとつと考えられますので、当然、そのカードはあります。
というより、もしかすると、今の多くのタロットの源流でもあるかもしれませんので、このマルセイユタロットの「悪魔」から、色々なタロットの悪魔的なカードが描かれるようになったと言えるかもしれません。
もちろん、マルセイユタロット以前のタロットにも悪魔的なカードは存在しますので、「悪魔」カードの起源自体は相当古いと考えられます。
タロットはヨーロッパで作られたと思われますので(諸説ありますが)、キリスト教圏の思想や観念が反映していることは想定できます。
ということは、神と悪魔の対立、善悪の対比として、いわゆる世の中の悪いもの(コト)は悪魔のせいにするというのは一般的でもあったでしょうから、やはり「悪魔」のカードは、そういった諸悪を象徴するもので、カードとしては存在しなくてはならないもの(神や善があるのなら反対の概念も必要)であったと思えます。
このことからも、「悪魔」のカードの解釈が、悪いこと、悪いもの、悪い人、私たちを誘惑する悪い存在(コト)とされてしまうのも、仕方のないことかもしれません。
しかし、私たちが考えるマルセイユタロットの解釈では、カードにはよいも悪いもなく、中立として見ますので、「悪魔」のカードも決して悪いものばかりとは言えません。
ただ、普通に悪魔という言葉自体がもうネガティブな存在・意味として人類に染み付いているので、なかなかよい意味でとらえることは最初は難しいかもしれません。
ほかにも、他のタロットでは「死神」などと呼ばれる、マルセイユタロット大アルカナの「13」(名前のない「13番」)、さらには一般的には「塔」と呼ばれる、マルセイユタロット大アルカナ16番「神の家」も、悪い意味、凶的なカードにされているところがあります。
実はこれは、とても示唆的でもあると言えます。
私たちが普通(一般的)に「悪い」「凶」だと思っているカードたちが、もしそろい踏みとか複数の形で出たとしたのなら、そのこと自体が強調されている(ネガティブに注目されていること)とみなすことができます。
単純なタロット占いだと、これから悪いことが起きるとか、今何か不吉なことが起こっているみたいな解釈をするかもしれませんが、そのようなタロットの使い方をここで述べているわけではありません。
さきほど、示唆と述べたように、これらのカードで出ているからには、その意味をよく考えることが必要だと言っています。
さきほど、マルセイユタロットは、基本、中立解釈であると言いました。
となれば、これらのカードが出たということは、悪いことが起こるとするのではなく、これらのカードを通して、悪いと思うそのもの、言ってみれば悪いとか怖いとか不安とかに思う、自分自身を見直す(向き合う)ことがあると考えられるのです。
例えば、自分の中に行き過ぎた罪悪感や自虐感がないだろうかとか、自立から逃げ、何かに依存して生きる逃避的な態度を取り続けていないだろうかとか、何か世の中や環境、他人のせいにして、自分自身と向き合うことを避けていないだろうかとか、逃走ならぬ闘争をし続け、疲弊していないだろうかとか…様々な自分の中にあるネガティブを起こさせてしまう観念、ルール、縛りのようなものに気づいてもらうために、ネガティブと見えるカードが登場したのだと見てみるとよいかもしれません。
別に悪感情、悪い観念、ネガティブな思いを持つことがいけないと言っているのではありません。
それどころか、むしろ、よいこと、明るいこと、ポジティブばかりを思うのも不自然と言えます。(ポジティブシンキングのみは、やがて破綻を来します)
ただ、過剰に悪いほうに傾いてしまうのはなぜなのかと、一度立ち止まる必要はあるだろうということです。
特に注意したいのは、過剰なる罪悪感です。(自虐でもあります)
これは「悪魔」とか「13」で象徴されることとして、よく出て来ます。
本当に罪を犯したわけでもないのに、自分自身をまるで罪人のように扱い、だから「こんな私は幸せになってはいけない」「一生懸命働いてこそ報われる」「人のために役に立たないとけない」「甘えたり、休んだりすることは許されない」と自分を駆り立て、他人の評価や許しを与えてもらう人生を追い求めることになります。
これは自分自身を何か欠けているもの、生きていてはいけない存在、そのままで生きる価値のない人間と、欠乏感・不完全性の烙印を自分に押したことから始まると考えられます。
その原因は、親とか兄弟姉妹とか家族的なこともあれば、学校生活や仕事などの中で、そう思わせられたことがあったからかもしれません。
またそういうことがあったとしても、自分の表面的な意識では忘れてしまっている可能性もあり、つまりは無意識の自動装置みたいになっていることがあります。
怖いのは、このような意識が自分の奥底で固まり、観念として定着してしまうと、受け取ることさえ満足にできなくなることです。
「私のような人間が、そんなもの、受け取れません」となって、お金や人間関係はもとより、健康になることさえ受け取らなくなってしまうのです。
受け取る時でも、「自分にご褒美」とか「せっかくだから」と、何か言い訳や免罪符を作っておかないと、受け取れないのです。
しかもそれで実態として欠乏感がさらに増すので、それを補おうとして、外の何かに依存したり、過剰に評価や承認を求めて無理をしたり、仕事や対人関係で問題が起きたり、うつとか病気になって、自分に注目してくれる状態(しかしエネルギー自体は消耗しているので動けないことも確かです)を作ろうとしたりします。
このような罪悪感、罪人意識のようなものと構造は、私自身の中にも結構あるので、痛いほどわかるところがあります。しかし、なかなか自分自身では気づけないところもあるのです。
ということで、マルセイユタロットという象徴の力を借りてみることも一助です。
悪いカードにされているものでも、結局は、人間の観念が作り出したものですから、それが自分の中にあって、自分自身を苦しめていると考えると、言わばすべての問題は自作自演の構造の中にあり、それを中立化したタロットの象徴によって、解除させることに役立てる可能性もあると思われるのです。
選択で使わないタロット
タロットで何かを決めたいと思う人は、タロットを使う人では多いと思います。
というより、そのような、何かの選択に迷った時にタロットは使うものだと考えている人が普通かもしれません。
いや、別にそれでいいでしょうし、私自身は、タロットの活用に正解とか間違いもないと思っていますので、まさにタロットを使う人の自由だと言えます。
ただ、〇か×か、やるのがよいのか・やらないほうがよいのか、つき合えるのか・つき合えないのか、得か損か、成功か失敗か、正しいか・間違いか…などなど、ふたつの見方で悩み、選択していくことをタロットに求める場合、その時その時の答え(示し)はタロットが表してくれるでしょうが、そもそも論として、この方法を取り続ける限り、本質的な問題は見えてこないままです。
この場合の「そもそも論」とは、「なぜ自分はこのようなことで迷うのか?」という根本を指し、さらに言えば、選択する自分の価値観、規準、心の中の傾向と法則、もっと深く言えば、天命やカルマなどのようなものの影響の分野から見ることを言います。
メガネで例えると、かけているのが色メガネであればその色で見えますし、曇っているメガネならば、視界は悪いままです。
もし、度数が合わないメガネだったり、レンズに歪みがあったりすれば、その見える世界はおかしなものになるのは道理です。
これと同様、もともとにあるあなたの根本に問題があれば、いくらよい選択をしたと思っていても、その「よい」自体の規準がおかしかったり、曲がっていたりするので、結局、短期的にはよいように見えて、本質的には、ある意味、間違った状態の世界でループするようなことになります。
マルセイユタロットには、グノーシス的な思想が流れていると伝えられますが、そのグノーシス的な観点を具体的・個人的次元にまで落として考えてみれば、つまるところ、個人の誤謬のようなもので、その人自身によって外の世界や見方がつくられていると言ってもよいでしょう。
グノーシス思想には、真(神性)の認識と、それを歪める悪魔的なものとの対比(対立)が神話的には語られますが、さきほど述べた個人レベルになってきますと、要するに、悪魔とは自分自身が生み出している、不正な個人ルール・価値観みたいなものと言えましょう。
やっかいなのは、その個人ルールが不正ではなく、正しいもの、よいものと自分は思っているところです。
それはある意味、仕方ないところもあります。なぜなら、個人ルールは自分を守るためにあるからです。
自分を守る意味では正解とも言える方法なので、表面意識はもとより、潜在意識的にも、自分の今採用している規準は正しいと疑わないのです。
というより、疑わさせない存在が自分の中にいると言い換えてもよいでしょう。それがマルセイユタロットのカードで表現されている「悪魔」とも言えます。
ということは、悪魔ではない存在も自分の中に存在し、それが西洋的には「神」とされているわけです。ちなみに、マルセイユタロットの「悪魔」の次のカードには、「神の家」という神の名前がついたカードがあります。
本来、西洋的に言えば、その神と同調した意識のもとでは、人間全体、そして個人も、自然な形で生きられ、その都度、問題は起きても、これまた自然に解消されていくことになると考えられます。真の意味での自然体です。
個人には「個性」があるので、生き方とか感じ方は一人一人違ってはくるのですが、例えば占星術で表されるような天命、今生の流れ(シナリオ)のようなものがあり、無理からに他人の表現をしなければ、自ずと自分自身の個性を発揮して、全体に貢献できる生き方になっていくものと想像されます。
しかし様々な形で、他人と比べていく中で、どうしても肉体・能力・社会的出来不出来(優劣)、モノやお金の所有量など、有る無しの観点が強く働き、自分が自身を認められないばかりか、自分を貶めたり、逆に他人にマウントを取って自分の欠乏感を補おうとしたり、あくまで外のものを規準として自分の存在を成立させているため、日々、緊張して苦しい生活となります。
自分を守るためには、何かしらの言い訳とか、自分があきらめたり、逆に、こんな自分でも(これをすることで)生きていて許されるよね、と思わせたりする見せかけの理由を作り、それをルール化するようになります。
そして、これ(自分が作ったルール・規準)をもとに、いい・悪いを判断し、選択する道になってきますので、一時的にはその選択がうまくいったよう見えても、実はどこまて行っても、偽の自分であり、本当の心は怯えながら生きていくことになるわけです。
従って、「どちらを選ぶのがいいか」という単純なタロットの使い方は、本質的には、何の解決にもなっていないことになるのです。
ではどうすればいいのかと言えば、タロットを使う場合、ふたつの間でどちらがいいとか悪いとかを見るやり方自体を変えることです。
それにはいくつか方法がありますが、簡単なのは、タロットの展開方法を変えるやり方です。あるいは、よい・悪いをタロットカードにあてはめないことです。(よいカード・悪いカードというような見方をやめる)
展開方法を変えるというのは、二元的な展開法・スプレッドはやめて、統合的(二元的な観点を超えたもの)に判断できるやり方を選ぶということになります。
例えば、正逆で、正立はよい、逆向きは悪いというのは典型的な二元的見方ですが、正立と逆向きをセットで出し、いい・悪いではない意味を見て行けば、二元的判断を超える見方が可能になってきます。
とは言え、二元的な展開法(または二元的に解釈する見方)は、ほとんどの有名なスプレッドはこれに当たるので、注意が必要です。
しかし、従来のスプレッドであっても、「なぜこの悩みが起きているのか?」という、その意味を見るような質問とか見方に変えることで、二元的なことから逃れられます。
そうしていくことで、自分自身を縛っていたものに気づき、そこから出ていた世界への(見方の)歪みが修正され、本来の自然な自分、西洋的に言えば神(スピリチュアル的にいえば宇宙とか大いなるもの)の意思と同調した自分に還って行き、この地上世界を不安や恐怖ではなく、体験そのものとして味わうことができるようになってくると考えられます。
ただ、一気にジャンプするというより、コツコツとした姿勢と行動が必要だとも言えます。それだけ根深く、長く自分を守ってきた証でもあるからです。
繰り返しますが、別に二元的選択をタロットで見ることを否定しているのではありません。それもタロットのひとつの活用です。
しかしながら、自分自身が変わらないままタロットを使っていても、それはただのエンターテイメントであるとも言え、自分を元に戻すために、タロットは使っていくべきで、それはほとんどの人にとっては、今の自分を変えることになるので、むしろタロットは自分を変えるために使うほうが望ましいと考えられるわけです。
マルセイユタロットから恋愛について
今日は七夕ですね。
織姫と彦星、ベガとアルタイルの伝説のことから、本日はマルセイユタロットから、恋愛をテーマとした記事にします。
マルセイユタロットの、特に大アルカナのとらえ方として、三階層で見るものがあります。
もはやマルセイユタロット界隈では有名かもしれませんが、カモワンタロット系では「タロットマンダラ」と呼ばれる絵図も、それが基本となっています。
この三つは、言わば、地上(物質・肉体)的・精神的・天上(魂・霊)的見方です。
ですから、恋愛もその三の恋愛モードやタイプがあると、マルセイユタロット的には言えます。
それぞれの違いがどのようなものかと言いますと、地上的なものが肉体的・現実的・遺伝レベル的なものの要因からの恋愛なので、まあ一般的な恋愛は、この意識でのものが大半だと思います。
次の精神的なものは、内的なつながりを重視したものと言え、いわゆるプラトニックな関係が中心となるでしょうし、必ずしも異性間とは限らないですし、この次元からは人間同士でないものの恋愛もありと考えられます。
そして、最後は天上的・霊的なもので、ここまで来ると、肉体・現実・時空を超越したものとなりますから、普通の人では想像できないレベルのものであり、エネルギー的引き合いみたいな感じとも例えられ、また特定の人同士、一組のカップルではない、集団的でそれでいてひとつの組み合わせのような、個を超えたものと言えるでしょう。
そしてそれは、もはや恋ではなく広義の愛と表現したほうがいいかもしれません。
レベル別に見れば、上下や優劣があるかのように見えますが、実はそうではなく、三つとも、私たちの中にはあるものだと考えられます。
そういう中で、その人の意識レベルによって、どれがもっとも意識の中心に来るかによって恋愛モードが決まってくると思えます。
カップル・ペアの場合、結局、同じレベルの者同士の組み合わせとなりますから、自分の意識レベルが、つまりは相手のレベル(逆もまた真なり)ということにもなるでしょう。
私たちは、通常肉体をもって、時空限定の次元に存在していますから、普通は、地上的レベルでの恋愛モードを楽しむか苦しむか(苦笑)になります。
恋愛相手の選択も、自分からか相手からかという、目に見える範囲でのものであり、その行為も肉体的・物質的なものとして目に見えるものが中心です。
しかしながら、恋愛はまた心の思いであり、相手のことも、また自分の気持ちでさえ、実はわからないこともあるという、地上的には不思議モードにあります。
目に見える物質世界の出来事なのに、目に見えない世界がからむことで、悩みどころが多くなるのが(地上的)恋愛の特質と言えます。
これをマルセイユタロットで表しているのが、「恋人」のカードです。
「恋人」カードには、三人の男女恋愛模様と思える人間たちと、上空に天使のような存在がいて、この事象が、目に見える世界の上に、目に見えない世界が影響していることを示唆しています。
私たちは目に見える地上的世界観に支配されてはいますが、恋愛のような、気持ちや心が重視されるものの場合、目に見えない内的な世界へと思いが行きます。
恋愛は、両想いならば至福とも言える幸せ感に両者は満たされるかもしれませんが、一方、相手に思いが通じない、または、好ましくない相手から好かれるなど、結構、恋愛は片思い的な苦悩が少なからずあります。
たとえ両想いであったとしても、それがずつと続くとも限りません。
結局、恋愛は、不安定なもので、永続性は地上的には薄いと言えるかもしれません。
しかし、少なくとも、先述したように、目に見える物理的、物質的世界、つまり外側の世界ばかりに目を向けていた者が、恋愛を通して、内側へと強制的に意識が移行させられます。
片思いを多くの人が経験するのも、裏側にふたつのものが融合する意識を覚えているからとも言えます。つまりは、異性とか相手を通して、分離感を再認識しているのです。
もとは融合としていたもの、分離していなかったものが、分かれてしまった、それゆえに、もう一度融合を果たそうという衝動が誰しも起きるわけです。
それは自分自身の分離であり、また自分自身との再統合への願いです。この統合の境地は、マルセイユタロットの「太陽」のカードでも象徴されます。
しかし、誰もが地上的には性別に分かれるので(肉体と意識は別の性であっても、どちらかには分かれています)、皆、片思いで片割れ状態なのです。
異性とか想い人としてあなたが意識する相手は、自分の片割れ、分身でもあり、ただ、まったくの半分というわけではなく、その時その時に、あなたが求めている自分の一部であり、認識してほしいと潜在的に願っている(言い換えれば、今の意識的自分が嫌っていたり、逆にあこがれていたりする)部分なのです。
ですから、天上的次元から見れば、想い人と結ばれようが結ばれなかろうが、どちらでもよいのです。地上的には結ばれたいとは思いますが。
そして精神的レベルで見るのなら、想い人とは何らかの形で、あなたが意識した時点でつながっています。
従って、あまり意識を向け過ぎると、サイキックレベルでは、いいにつけ、悪いにつけ、相手か自分自身に影響が出ることもあります。恨みや呪いの世界にも、場合によっては入ってくるわけです。この点は注意が必要です。
精神世界の次元は、もはや形がなくなってきますので、どう思っているかが大事になってきます。ですから感情レベルの話が、結構重要なのです。
結局、このレベルにおいても、恋愛は自分とのつながりを目的として起きていると考えられます。
ここの次元では、出会いも別離も実は同じことであり、別れても昇華すれば、そのつながりはあなた自身との融合への進歩となって、次第に大きな愛へと変容する力になります。
しかし、未練や執着として残ると、それは恨み、つらみ、被害者、加害者意識になって、自分自身を牢獄へと捉え続けることになります。
これらは、マルセイユタロットでは「13」のポジティブ・ネガティブ両面で象徴されるでしょう。
とは言え、地上的恋愛モードが通常ですから、実際の恋愛状態では、自分や相手を俯瞰することがなかなか難しいのも、現実ならではの世界と言えます。
その場合は、どうにもならないこと自体が、自身の経験として必要なのかもしれません。コントロールできないものを真に理解する経験とも言えましょう。
先にも述べたように、恋愛は、マルセイユタロット的に見れば、自分自身の分離から融合に向けた衝動と出来事であり、外的なことから内的なことへ意識を転じる、大きな変容プロセスでもあります。
地上的には結ばれないとしても、相手は何らかの意味で、あなたに必要な人・対象であり、あなたの分身、一部としての役割を演じています。
ところで、今の若い人たちは、そもそも恋愛を面倒なものとして、あまりそういったモードにもなりにくいと聞きますが、これには、時代性もあると思います。
すでに地上的恋愛は必要としない時代に移行しつつあるのかもしれず、性別も、その境目とか役割が、以前よりはあやふや、中性的になってきたところも感じます。すでに精神次元での恋愛へ変化しつつあるのかもしれません。
ですから、必ずしも、恋愛を経験する必要もないでしょうし、それが必要な人には、まさに必要な範囲で、その事象を経験することになるでしょう。
前世縁とか、ソウルメイトとかというようなロマンチックな出会いを思うのもよいですが、これを言ってしまえば身もふたもない話となりますが、すべては自分自身が起こしていると見て、望ましくない相手や、最初はいい人のように思えて、つき合ってみたら、いろいろと不満が出てきたというような場合でも、その相手との関係性には、自らの中に理由があると言えます。
また恋愛にも、ここで書いたように、少なくとも三つのモードや見方があり、そうした階層別のとらえ方を知っていると、恋愛の最中は無理でも、あとで自分の恋愛の意味を、別意識で知ることができるでしょう。
それは意識次元の上昇につながり、マルセイユタロット的には、「審判」の象徴性と関係します。
