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「感謝」「幸せ」の気持ちを育てる。
「感謝」や人の幸せを願う「ありがとう」の気持ちを抱くことはよいとよく言われます。
その理由は様々なところで、またいろいろな方が理由を書いていらっしゃるので、改めて私が述べることもないでしょう。
ただ簡単にいえば、それを思うことが多くなればなるほど、自分にも同じ状況(幸せ)が鏡のように起こるのだと考えればよいです。
それで、今回は、感謝や人の幸せを願う気持ちを生じさせるひとつの方法をご紹介したいと思います。
私もそうですが、普通、「感謝する」と言われてもいつもいつもそのような気持ちにはなれません。
だいたい自分がピンチに陥ったり、苦しい状態であったりする時に救われるようなことがあれば、自然に「感謝」の心は起こります。
文字通りの意味で、「有り難い」(有ることが難しい=価値有ること)という言葉が出るでしょうね。
まあ、でも普段は当たり前のことが当たり前すぎて、不足が元に戻るか、今以上に充足するかのようなことにならないと感謝できないのが人間の常です。
では日常的にもう少し感謝の気持ちを持つにはどうすればよいのでしょうか。
これが意外に単純なことですが、「感謝ごころ」を訓練によって養うことが効果的なのですね。
言ってみれば感謝の強制想起です。(笑)
そんなの感謝じゃない!とお怒りの方もいらっしゃるかもれません。
まあ、でも何はともあれやってみてください。
方法はこんな形です。
出勤途中の乗り物の中でも、何かの待ち時間でも、家にいる時でも、とにかくちょっとした余分の時間、合間の時間を利用します。
そして、たとえば電車の中だとたまたま一緒に乗り合わせた、その車両にいる人々のことを思い、自分も含めてその人たちの幸せを願います。
また会社ではそのフロアーにいる人たちのことの幸せと無事を祈ります。
その上で「私が今いるのも、この人たちのおかげ」だと思ってもいいでしょう。(全部思えなくても、勤務先などでは少なくとも自分が恩恵を受けていることはあるはずです)
家では家族のことを思うのがやりやすいでしょう。
最初はとにかく、自分が実感できる狭い範囲がいいです。そして目をつぶることです。
というのは、目を開けていると、実際の目の前の光景が入ってきて、幸せを願っているのに、不快な人や状況が目について、気持ちがそがれることもあるからです。音も気になる人は耳栓をしてもいいかもしれません。
という感じで、ひとつの車両(範囲)が終われば次の車両へ広げて、時間が許す限り、幸せと感謝の心を広げていきます。勤務地なら最終的にはビル全体、会社全体を思えればしめたものです。
途中、個別の人の、そのまたその人の家族、親、親戚というふうに細分化して思いをしていってもOKです。実際は知らない人でも単に想像するだけでよいのです。
私は以前にこれを意識的に訓練していました。すると不思議なことに、ある日心が以前より広くなっているのに気がついたのです。
そして自分があるのは、多くの人のいるおかげだという気持ちも前より起こるようになりました。
そう、訓練によって感謝の気持ちが出てくるのです。
これで思ったのは、カモワン版マルセイユタロットで教えられている「人には神性が宿る」ということでした。
人には神なる心、仏ごころのようなものが必ず存在しているのですが、何らかのことで眠らされていると考えられます。(状況に応じて出たり、閉じたりすることもあります)
自分にはそれ(神・仏のこころ)があるのだと思い、意識して訓練していくと、次第に発現する(外に表れて来る)ようになるのです。
逆に言えば、何もしないと、そのままの、いわば「凡人コーティングされた人間」として生きてしまうおそれもあるということです。
この「凡人コーティング」はおそるべき厚塗りであり、時に増殖したり、穴があいてもすぐふさごうとしてきます。
しかしコーティングを丹念に取り除いていく努力をしていくと、その中から本当の自分、光り輝く神性なる自分が現れてきます。
実は私は、この感謝行みたいなことを途中でやめてしまったので(苦笑)、それからは心もあまり広がっていない気がします。
またしつこいコーティングが復活してきているかのように感じる時もあります。油断すると、元に戻ってしまうこともあるのですね。
このように訓練することが大変だという場合、習慣になっていることで感謝の気持ちを入れるように意識するとよいと思います。
たとえば食事。「いただきます」と挨拶する時、作ってくれた家族、人、材料を育てた人、流通に携わった人などのことを一瞬でもいいので思い、感謝することにより、続ければ訓練と同じ効果が出ると思います。
何事も継続は力なりです。
何も「自分がえらくなる(立派になる)ためにやるのだ」という気持ちなど持つ必要はありません。
また感謝の気持ちが起こらない自分を責めることもいりません。
ただ「感謝」や「人の幸せを願う気持ち」という「型」が自分の心には存在しており、それを刺激する訓練をやっているのだと淡々と思えばいいのです。
せっかくいいものがあるのですから、宝の持ち腐れになるより、育てたほうがよいではありませんか。
それくらいの気軽な気持ちで取り組めばいいのだと思います。
iPhoneでマルセイユタロット
私も遅ればせながら、スマートフォン(機種はiPhone)を持ちました。
使い始めて、これはホントに便利だなあと実感しています。
最初は確かに今までの携帯とはいろいろな意味で違うので、操作方法にはとまどいますが、すぐ慣れますし、そうするとこれまでの携帯に戻ることはもうできなくなります。(笑)
世界の携帯がスマートフォンになっていくのもわかる気がします。
さて、これは私がiPhoneだから話せることなのですが、iPhoneのアプリ(アプリケーションソフト)の中には占いもたくさんあります。
そしてマルセイユタロットもあるのですね。
マルセイユタロットには「基本形」ともいうべきタロットの形・画像があり、細部には違いはあれど、どれもほぼ同じ形と絵をしているため、ひとつのマルセイユ系タロットを愛好していれば、種類が異なってもなじむことができます。
なじむだけではなく、リーディングや占いも当然可能です。
iPhoneのマルセイユタロットのアプリの中でも、「古代マルセイユ版タロット」と名前のついたアプリがお勧めです。(画像を見る限り、Jean Dodal いわゆるドダル版のタロットだと思われます)
これの無料版は、占いたいことを思い浮かべてiPhoneの画面にタップ(ふれる)と、一枚カードが出てくる(正逆あり)仕組みになっています。
この「一枚カードが出る」ということがよいのです。いわゆるタロットの「一枚引き」ができるからです。
もちろん占いソフトですからタロットを知らなくても占いはできるように解説が出るのですが、マルセイユタロットを習った人には、むしろそれを見ずに使うことをお勧めします。
もしマルセイユタロットを習われた方がこれを使う場合、画面の解説(カードの意味)は無視して、自分でリーディングする癖をつけてほしいと思います。
そうすると、いいタロットリーディングの練習になるのです。
これを使えばいちいちタロットを出す手間が省けますので、通勤途中やちょっとした待ち時間などにも、軽く指をふれるだけでカードと向き合うことができ、純粋に「自分とタロットとの時間」が増えます。
カードは正立の場合と逆向きで出る場合がありますが、この場合は吉凶的に「よい悪い」と判断するのではなく、正立では問題なし、逆向きでは問いに対して問題があるととらえてリーディングすれば、積極的にタロットを活用することができます。
このあたりの実際の読み方は、タロット講座に出ていただき、一枚引きの基本を理解してもらうとわかりやすいです。
裏技としてはこのアプリを使ってカモワン流にリーディングすることもできます。
タロットとなじむ方法や修練方法はいろいろとあるものです。
せっかく便利なこの時代、iPhoneアプリを活用してタロットリーディングの練習をするということにもチャレンジしてみてください。
ちなみにさすがデザインのアップルでしょうか、iPhoneはタロット(カモワン版マルセイユタロット)とほぼ同じ大きさと形をしております。これはわかる人には大変重要なことだと理解できますよね。
審判があなたの「試合」を左右する。
昨日のサッカーアジアカップ、日本対韓国の試合、まさに死闘でしたね。
当たり前ですが、どちらのチームも力を出し尽くし、最後まであきらめない姿勢が伝わってきて感動しました。
しかしそんな好ゲームではありましたが、ひとつだけ気がかりなことがありました。
それはレフェリー・審判の判定です。この試合に限ったことではありませんが、全体的にアジアの審判のレベルは見ていて低いと言わざるを得ません。正直、かなりひどいのではないかと感じます。
これは日本に有利不利とかの問題ではなく、審判そのもののクオリティが悪いために、どの国もその影響を被っていたように見えます。
というようなことを考えていますと、タロットをする者としては、このことでイメージされてくるカードが出てきます。
それは「正義」のカードです。「正義」はその名の通り、ある正義を表し、物事の基準を示して価値を計ります。画像的にもまるで裁判官のような人物が描かれているのが特徴です。
実は皆さんの中にも「正義」の審判(レフェリー)がいるのです。そして試合をいつも裁いています。
何の試合でしょうか? それは自分の人生そのもののことです。
人生はいわば、「試合」のようなものです。
自分が見たり聞いたり、経験したりすること、また自分の身に起こることなど、すべて私たちは自らの基準に従い、「裁いて」います。言い換えれば「判断している」ということです。
その裁きいかんによっては、あなたの試合、つまり人生もいかようにでも作られ「創られ」てしまうのです。
サッカーでも、「審判が試合を見事に演出した」とか、反対に「審判が試合を壊した」というように表現されることがあります。
それだけ審判は重要なのです。サッカーというスポーツのルールは全世界共通です。しかしながら、それを裁く審判によってサッカーの試合の質がまるで変わってしまうのです。
ということは自分の人生(試合)も自分の中の審判による裁きを変えることで、輝かしいものになることもありますし、ひどいと感じるようなものにもなる可能性があるということです。
実社会に生きている限り、「社会」という名のルールにおいては誰しも共通ですが、自分の審判、裁き具合はまさに自分次第だといえます。
同じルールがあったとしても、その解釈によって試合(人生)は変わるのです。
何でもかでも笛を吹いて反則を取る審判もいれば、ほとんど大目に見て流す審判もいます。どちらも行き過ぎると問題になり、試合も面白くなくなります。
でも一番選手も観客も見ていて困るのは、基準が一定しない審判でしょう。
あの時は笛を吹いたのに、同じような反則があった今回は笛を鳴らさない・・・ということがたびたび続くと周囲は不信感に包まれます。
言ってみれば、自分に厳しくし過ぎたり、甘くし過ぎたりすることも、またいつもぶれていて、心が定まらない状態であるのも、試合(人生)として美しくないといえるのかもしれません。
今自分の人生に何かアンバランスなことが起こっている人には、自分の中の審判を見つめ直しみるとよいでしょう。
無理に原因を追求しないタロットリーディング
タロットリーディングは無理矢理「何としても読み解いてやろう」と気負うと、逆に心が緊張してしまってうまく読めなくなることが多いものです。
これは初学者にありがち・・・と思われるかもしれませんが、案外、プロとしてやり始めた段階、あるいはある程度リーディングに自信がついてきた時でも結構起こりうることです。
なぜそうなってしまうのかと言えば、ほとんどは「原因を追求しようとし過ぎる」ことによるものだと考えられます。
特にカモワン流でも日本的なカモワン流の方法(フィリップ・カモワン氏から直伝ではない日本式のカモワン流)では、問題カードと解決カードの論理性にこだわりすぎるあまり、問題を引き起こした要因を分析してリーディングする傾向になる嫌いもあります。(ただし、その方が効果的でよいこともあります)
タロティスト(専門的なタロットリーダー)としては、やはりあくまでタロットからのメッセージをそのまま伝える姿勢が大切だと思います。
たとえば、「恋人」カードが解決カードで出ていれば、ついつい常識的に「コミュニケーションすべし」「相談をする」などの「社会的な」読みをするのですが、そのまま「恋愛をしよう」「恋があなたを癒し、解放する」と読めることもあります。
この例では、もし年齢が行っていて、結婚もしていて、さらには病気がちの身の上であるのに「恋をしよう」とは一体どういうことか? と悩むと思います。
その理由を私たちが日常考えているような「論理的な」理屈でタロットからひねり出そうとしてみても、結局はわからないものなのです。
「理由はわからないけれども、あなたは恋をすることで救われるとタロットが告げている(ように感じる、読める)」のなら、そのまま伝えればいいということです。
もしかすると、この人の場合、人間ではなく、動物や趣味、自然や物に恋をするということなのかもしれません。
好きなものを見つけ、それを愛することで自分を愛することにもつながり、ありえないと思えるような奇跡や再生、人生の輝きが訪れるかもしれないのです。(でも、これもまたひとつの理屈的な解釈です)
カモワン版マルセイユタロットの教えでは、人間には神性(神である性質、完全性)が宿っており、それを認識し、発現していけば神に至れるということがタロットで示されていると考えられています。
とはいえ、それを思い出す、神なる部分を広げている最中なのが現実に生きている私たち自身です。
ですから、まだまだ道の途上にあるので、完全性は自分の中に可能性としてあるものの、いつも完全というわけではありません。
このため、今の自分にわからないこともあって当然です。
いわば完全ではある(要素は備わっている)が完璧ではないということでしょうか。完璧にこだわりすぎると、まさしく自分の中に「壁」を作ってしまいます。
「どうにかしてクライアント(あるいは自分)の問題の原因を突き止めないと解決に至らない」と思うより、「とにかくこうすればよくなっていくのだ」「このようなことをタロットは知らせてくれている」と感じることも、時には必要だということです。
これはわからないまま放置するということを意味しているのではありません。
その時にはわからないけれども、タロットのメッセージには高次の方策も伝えられており、現時点の自分には理解不能であっても、タロットの示唆を受けて入れてみると、後にその理由がわかって、自分自身のレベルや幅が広がるということでもあります。
それがすなわち、自己成長でもあるのです。
展開の過去パートをリーディングする意味
カモワン流の展開法では過去・現在・未来のパートにわたってカードが展開され、リーディングも行われるのですが、この時、「過去を読む必要があるのか」という質問がよく出たりします。
すでに終わったもことに対してリーディングしても意味がないと思われるのでしょう。
特に占いでは、人は「どうなっていくのか、どうなるのか」ということに関心があり、いわば「これから先」「未来」についての判断を求めるものですから、過去を見ても仕方ないと思うのも自然なことです。
しかし、カモワン流のよいところは、自己の心の変容を促し、それを行動に結びつけていく変換作用にあります。つまりは占いと言うより、自分を見つめるカウンセリング的な要素があるのです。
カウンセリングということであるならば、これまでの自分のことをふりかえる必要は十分にあります。
別に過去の自分の間違いを指摘するというものではありません。重要なのは、過去の認識を今一度やってみるということにあります。
過去に起こった出来事をどう自分が解釈し、理解(納得)「させよう」としていたか。出来事は同じでも物の見方によって、180度変化することはあります。
たとえば、厳しいと思っていた親に対しても、自分がいざ親になってみると、「なるほど、あの時は自分のためを思ってやっていてくれたのだな」と思い直すことができるようなものです。
「親が厳しく自分にしていた」という事実は変わらなくても、その認識は変わる可能性はあるのです。
たとえ過去の認識と今の認識が同じものであったとしても、タロットの展開から、今と未来が過去から続いていることがわかります。
そうすれば、「現在自分を悩ませているものは、過去で取ってきた自分の行動にある」と理解できたり、「過去」という終わった出来事であっても、それが画像として表れることに多少なりとも客観性が生じたりします。(自分の過去の物語が映画となって、それを自分が客席で見ていると想像してください)
そのことにより、気持ちの整理がついたり、再確認できたり、時には忘れていたことを思い出したりできます。それで勇気や自信を取り戻すこともあるかもしれません。
このほかにも過去をリーディングすることは、非常に重要な意味があるのですが、それについてはタロット講座で詳しくお伝えしています。